作家でごはん!鍛練場

『森人は樹の下で笑う』

眉著

深いファンタジーを書きたいと思い書きました。読者が考えるようなそんなファンタジーです。執筆上の挑戦としては、自分の文がどのように捉えられるのか、どんな書き方がいいのかを知りたくて投稿しました。
厳しいご意見を貰いたくてここに来ました。お目汚しになるかもしれませんがよろしくお願い致します。

暗き深緑の森の中。その暗闇は一度入れば戻れない。そう思わせる。森のさざめきが静かな暗闇に木霊する。

暗闇を照らすのは、変わらず光り続ける月と星星。そして鋭く光る動物の瞳。その瞳は歩く何者かに向けられている。

一人の迷い人が草木茂る、獣道を掻き分けながら進む。

その人は年端のいかぬ少女であった。ボロボロの白いワンピースを身に着けている。そのワンピースは土で汚れ、驚くほど白い肌からは鮮血が滴る。

少女は宛もなく、暗闇が支配する森を歩く。何処に辿り着くか分からない、そんな森を独り、何かから逃げる様に彷徨い続ける。

どれ程の時が経ったのか、少女は元々白かった肌を更に不健康そうな色に変え、今にも倒れそうな足どりで、何とか木にもたれ掛かりながら歩いていた。

少女の息遣いが次第に荒く、か細くなってゆく。そんな折、少女は死の淵を彷徨う亡者の様に一つの名を呟く。

「母様…母様」

ふと、変わった匂いが少女の鼻孔をくすぐる。それはどこか懐かしい香り。生き急ぐように、その匂いの発生源に向かう。

ーーーー灯りが見えた。それは自然が生み出した灯りではなく、人が作り出した灯り。そこに人の営みがあることが容易に予想できた。

そこには家があった。煉瓦造りのレトロな家。きれいに手入れをされている庭。そこから灯りが漏れている。温もりが溢れている。

「母様…母様」

来る事を予知していたかの様に、扉が開いた。その光景は、封じられた記憶を呼び覚ますようで……。グラッと体が傾いた。

(えっ?)

地面と激突した。まるで金縛りにあったように、体が動かない。指一つ動かすのも、瞬きすらろくにできない。自分の体じゃなくなったような感覚に襲われ、それが恐ろしくなる。

人の足音が近くで聞こえた。きっと扉の向こう側に居た人だろう。そう考えると、先程までの微動しなかった瞼が動き、少女は眠りについた。




懐かしい香りと肌に伝わる温もりは、酷く心地よかった。寝起きは、ここ数年で一番良かった。体を包む、柔らかく温かい感触。鼻孔をくすぐるいい匂い。それらは、微睡みから解放されるには充分な要素だった。

(……ここは?)

見慣れた掃き溜めのような部屋ではなく、家具も調度品も全て新品同様の光沢を放つ部屋。埃一つ落ちていない。まるで夢のような光景だった。

少女は上半身を起こそうとした。

「…ッ!」

突如、激痛が体を襲った。堪らずベッドに倒れた。まだ微かに痛みは残るが、さっきよりはかなり楽だ。 

「ああ、もう起きたのか」

どこからともなく声が聞こえた。もう?その言葉選びに疑問を持った。

「まだ寝ていなさい」

角ばった手で目を隠された。すると直ぐに眠気が襲ってきた。



不思議な夢を見た。崩れ行く世界を眺める…そんな夢。


寝起きはあの時と違い、痛みは引いていた。どれ程寝たのか、それが気になった。その部屋に時計はなく正確な時間がわからない。

「あぁ起きてたのか」

ドアが開く音と同時に、声が聞こえた。男性の声だ。そっと身構えた。

「そんなに強張らなくてもいいよ。取って食べたりなんかしないから」

優しくそう言った男性は寝具へ近づいてくる。程なくして足音が窓際で止まった。

「おはよう。体の調子はどう?」

そう優しく問いかけられた。

「たぶん大丈夫だと思います」
「そうか、それなら良かったよ」

カーテンが開かれた。まばゆい陽光に目が眩む。
寝具が軋む音がした。いつの間にか男性がすぐ側まで近づいていた。

「じゃあ、とりあえず風呂に入ろうか」

にこやかにそう言いながら、私を担ぎ上げた。



「湯加減はどう?」

浴場の外からそう問いかける。気持ちいい。そう返事をしようとするが、今は誰とも話したくない。
お湯に入ること自体が久しぶり過ぎて、感動で胸が高鳴っている。

あぁ、幸せ。悔いはない。もう死んでも構わない。死ぬ訳ではないが。

こんな幸せな時間が永遠に続いてほしい。そう思った。





「今ちょっと物騒だからあんまり敷地から出ないでね」

そう言って、レンオアムは頭に麦わら帽子を被せてくる。何だなんだと見上げても、麦わら帽子のつばしか見えない。

「うん、いい感じ」

満足そうに頷き、部屋に戻っていった。相変わらず変な人だ。その言葉を声に出すギリギリのところで呑み込んだ。

さて、そろそろ行こう。ドアノブに手をかけた。金属のひんやりと硬い質感が手に伝わる。

「いってきます」
「いってらっしゃい」

キッチンからひょっこりと顔を出し、返事をしたエルミィに軽く会釈してから外に出た。

木々が揺れた。草花が気持ち良さそうにたなびく。小鳥が囀った。心地よい風が肌をなでた。生命の源である太陽が煌々と煌く。

暑い。そう思った。まだ立春。冬とそう変わらない、まだ冬と言ってもいいぐらいの季節。そのはずなのに春の終わりのような夏の始まりのような陽気。

通気性の良い、白のワンピースを着ていても、日向にいれば額に汗がにじむ。

日陰に逃げよう。そう考え、そそくさと木の下に潜り込んだ。微かな木漏れ日がロアを照らす。

木の影を渡りながら、石畳の舗装された道を歩く。蕾のなる木や、花壇に植えられた花の蕾がまだ春はじめと実感させる。まだ寂しい、しかし確かな生気を感じられる庭を抜けると大きな樹木が目視できた。

あの樹は家の窓から何度か見た。しかしながら、ガラス1枚隔てるのと実物は全く違った。その圧倒的な存在感に慄きそうになる。

その樹は、家の裏の小高い丘にある。葉は青々としており、何の花を咲かすかわからないが蕾もチラチラ見える。

近づくにつれ、それはどんどんと巨大なものに変化する。付近にまで行くと、その大きさを再確認する。

「ふぅ」

小高い丘にあるせいか歩くことになってしまった。短い間だったのに汗をかいてしまった。ロアは丁度日陰になる、大樹の幹に腰を下ろし涼んだ。

心地よい風が吹いた。暑くも冷たくもない、中間のちょうどいい温度。

その心地よさに顔を弛緩させる。あぁ、気持ちいい。そんな意味もなく、まったりとした時間を過ごす。

もう何年、外の陽気に触れてこなかったのだろうか。ロアはそんなことを自分に問いかけながら大樹に背を預けた。

そしてゆっくりと瞳を閉じてゆく。どこか懐かしい感覚包まれながら、深い闇にのまれてゆく。





「んぅ…」

眩い光を受け、目を覚ました。私は寝ていたのか。そう思いながら目を開く。

そこに広がっていたのは、人っ気のない小高い丘。その丘の頂上には名前の分からないピンクの花が舞い散る木が自生している。

あまりの驚きに言葉を発しようとした時、そこは暗がりに変貌した。そこだけが暗がりになった。太陽は出ているはず…。ロアは天を見上げた。

そこには白銀の鱗の巨大な竜がいた。

バサッバサッ。その大きな翼をはためかせ、飛翔し小高い丘に降り立った。着地と同時に草木は揺らいだ。そしてその地も揺れた。

竜。それは伝説上の生き物。太古のある出来事を境に姿を忽然と消したと言われている。その竜が目の前にいる。本の中だけしか見た事のなかった竜が今そこに。

もっと近くで見たい。そんな欲望がロアを動かした。

(あ、あれ?う、動かない)

足を動かしたつもりなのに一歩も進んでいない。逆に遠退いているようにも感じる。まるでズルズルと引きずられるように。

竜は啼く。耳を劈く轟音が大地を揺らす。どれだけ遠退いてもその迫力は衰えることを知らない。

竜は啼くのをやめた。

そして何もない空へ、竜は羽ばたいた。


空が朱色に色づきはじめた頃、不思議な感覚に囚われ、目が覚めた。

「おはようロア」

瞳を開けばすぐ目の前にレンオアムの顔がいた。顔がいたというのは語弊か。レンオアムがすくそばにいる。

「なぜここに?」

目をぱちくりしながら問いかけた。

「夕方になっても帰ってこないからね。様子を見に行ったら幸せそうに寝てたから起こすのはちょっと気が引けるなって思って運んでるんだ。まぁすぐに起きたけどね」

彼は申し訳なさそうに話した。ふむふむ、状況は把握した。つまり、寝ていた私はレンオアムに何らかの方法で運ばれている…。だから謎の浮遊感があったのか。納得した。

「あ、もう大丈夫です。一人でも歩けます」

頷き地面に下ろしてくれる。二人は並びながら歩く。夕焼けが二人を照らす。二つ並んだ影は混ざり合うように動く。

「あの樹はどうだった?」

突然レンオアムが問いかけた。ロアは首を傾け見上げる。なぜ私がそこに行くとわかったのだろうか。そんな小さな疑問を抱えながら言葉を紡ぐ。

「不思議な樹でした。どうしてか懐かしい感じがしました」

全く不思議なことだ。今日初めて見て、初めて触れたあの樹。懐かしいと思う要素など何もないのにそう感じた。

「貴方ならわかります…なんで笑っているんですか」

なぜかレンオアムが声を殺しながら笑っていた。ロアはそれを見て不服そうに頬を膨らませる。

「いや、ごめん。つい…」

レンオアムの笑いはまだ止まらない。彼は誤魔化すように歩を速めた。結局、笑いが収まるのは家に着く頃になってしまった。

「どうして笑ってたんですか?」

家のドアノブに手をかけたレンオアムに、不思議そうに問いかけた。すると、レンオアムはドアノブから手を離し、ロアの頭に手を置いた。

「君に似ている人を思い出してね。つい」
「はぁ…?」

似ている人?それは一体どんな人なんだろう。レンオアムを見ていると懐かしんでいるようにも見えた。それは古くの友人ということなのか。

そういえば、彼のことを私は全く知らない。彼だけが一方的に私のことを知っている。言ってもない癖や好きな物、苦手なものを全て当ててくる。不気味だ。ある種の恐怖を覚えそうになる。

「なんでそんなに難しい顔をしているんだい?」

声をかけられてハッと我に返る。気がつけばレンオアムの顔が目の前にあった。目と鼻の先の距離。夕焼けが照らす二人の距離は、傍から見れば接吻を交わすようにも見える。
緊張と恥ずかしさに顔が朱に染まる。

「そんなに顔を赤くしてどうかした?」
「ゆ、夕日のせいだと思います。顔が赤いのは」

それ以上は追求してこなかった。もしかしたら何を考えたか気がついたかもしれない。あんな恋愛小説のテンプレートな返し、気づかないはずないか。

「そう?それならそれで安心だけど…汗もかいたって言ってたから体が冷えて風邪ひいたかもしれないから早く入ろうか」

ロアはレンオアムに手を引かれ、家の中に消えていった。



大樹の花の蕾が一つ開いた。夕焼けを浴びてその花は活力を増してゆく。満開までにはまだ時間がかかりそうだ。

空は少しずつ色づき始める。暗い暗い夜の世界から明るい世界に変わる。
夜を支配した月は消え去り、一定の周期でやってくる太陽が大地を照らす。

カーテンが開かれた窓から暖かい日差しが入り込む。あぁ朝か。寝ぼけた眼をこすりながら身を起こした。あまり眠れなかったせいか顔がひどいことになっているはずだ。

ベッドが軋む音を聞きながら、地面に足をつけた。ひんやりとしたフローリングの床が気持ちいい。若干覚束ない足取りで扉に向かう。

洗面所に行こう。部屋を後にすべく、扉を開いた。



「おはようございます」
「あぁ、おはよう」

顔を洗い、少しはシャッキリしただろうか。椅子に座りながら本を読むレンオアムとキッチンで朝ご飯を作るエルミィに挨拶した。こんな当たり前のような光景が日常になっていることに、一昔前の自分では想像できないだろう。

「ワンっ!」

犬の鳴き声が聞こえた。音源を辿れば、赤レンガの今は使われていない暖炉に、青い煙を纏った一匹の子犬が突然現れた様だ。頭にはその犬の為に作られたのか、ピッタリなサイズの制帽と首から黄色いポーチを下げている。

「あぁ来たか」

レンオアムは驚いた様子はなく、それがまるで日常かのように犬に近寄り、ポーチから手紙を受け取る。白い封筒に赤い封がつけられている。

「いつもありがとうね」

そう言って、犬を撫でる。犬は気持ち良さそうに鳴く。すると、朝食を作り終えたのか、エルミィが犬に近づく。レンオアムは素早く立ち上がりエルミィと入れ替わるように、また同じ椅子に座りまた本を読む。

エルミィは犬の前でしゃがんだ。

「ポチさん。あの人に引き籠るんだったら事後連絡じゃなくて事前に連絡ぐらいしておいて下さい、と言っておいてもらえますか?」
「ワンっ!」

ポチは勢い良く返事をする。エルミィは破顔しながら制帽を持ち上げ頭を撫でる。そしてまた制帽のせた。
満足そうにワンっと鳴くと、また青い煙を纏い消えていく。

「レンオアム様、手紙には何て書いていますか?」

ベリっと小気味よい音を立て、赤い封を切り手紙を取り出す。開いた手紙を覗き込むと大きな文字で一行、簡潔な文が書かれていた。

「明日そっちに行くからお迎えよろしく☆だってさ」
「あの人は…はぁ」

心底呆れているようで、頭に手を当てている。若干不機嫌そうにも見える。その光景を見るレンオアムは苦笑いを浮かべている。

「誰からの手紙なんですか?」
「前までこの家にいた友人からだね。普段は音信不通だけど不定期で手紙が来るんだ」

チラッとエルミィの方に視線を向ける。いつも通り見えなくもないが、よく目を凝らして見れば動作がいつもより荒々しい。友人というだけでこんなにもなるものなのか。不思議に思った。

「面白いでしょ」

ニヤニヤ笑っているレンオアムに問いかけられる。面白いというか普段と違う一面を見て驚いているというか。よくわからない。だが…

「新鮮ですね」
「そうでしょそうでしょ」

彼は笑いながらそう言った。あそこまでエルミィを不機嫌にさせる友人が気になった。私は気になっていたことを彼に聞いてみることにした。

「ところでどんな人なんですか?そのご友人は」
「昔ここに住んでいて、今は研究者紛いのことをしているね。で、エルミィと結構仲が良かったよ」

何か視線を感じる。そう感じたのか、話し終わったレンオアムは、視線の発生源を横目に見ながら苦笑した。話を聞かれていたのか。それともただ単に聞こえていたのかは分からないが、エルミィがジト目でこちらを睨んでいる。

やれやれといった表情を浮かべながら、エルミィに見えぬよう口の前でバッテンマークを作る。もうやめよう。そういう意味なのだろうか。ロアはそれに頷く他なかった。

食卓に温かい朝食が並べられる。どれも凝っていて美味しそうだ。

「朝ご飯にしましょう」

エルミィがそう呼びかける。各々それに反応し、席につく。

そんな当たり前のような、光景、時から一日が始まる。



この家にはアトリエがある。庭を抜け、舗装された道を歩くとそれに辿り着く。そのアトリエは敷地の一番端は森に一番近い場所に位置している。

アトリエは家と同じ煉瓦造りで、一際目立つ古ぼけた石の扉。いくつか窓があり、太陽の光を取り込んでいるが外から中の様子をうかがうことはできない。外にはガーデニング用の椅子と机や苔の生えた井戸があるのみである。


アトリエへ向かう道道、自然とできた木々のアーチを歩きながら、木漏れ日に照らされる。

「アトリエで何をするんですか?」

朝食が終わった直後、いきなり「アトリエに行こう」と言うものだから、まだ概要を一切聞いていない。

「魔導師になるためのお勉強かな。勉強は嫌い?」

レンオアムの問いかけに、首を横に振る。

「どちらかといえば好きな方です」
「なら良かった。今の子は勉強が嫌いって人伝いに聞いたものだから安心したよ」
「その情報源、ひどく偏っているように見えますが…」
「そうなのかな?」
「そうです」

そんな世間話をしていると、いつの間にかアトリエに着いていた。

二人は古ぼけた石の扉の前に立つ。その石の扉はいかにも重そうで、人二人でどうやって開けるのか検討もつかない。ドアノブもなく、何かを閉じ込めているようにも見えた。

「どうやって開けるんですか?」
「ん、ちょっと待ってね。確かここに…え~と」

彼は突然石の扉を弄り始める。隅々まで弄り、ある場所で手が止まる。突然止まった手を注視していると、その手が石の扉にめり込む。

その直後、けたたましい音を立て、扉は地中に消えてゆく。どのような技術か全く検討もつかないが、ただただ驚くばかりだ。
扉のあった場所で、レンオアムがこっちこっちと手招きをする。ロアはそれに誘われる。

アトリエに足を踏み入れた。すると胸一杯に古本の香りが広がる。窓からの光で部屋の全貌を見渡せた。そこには天井までのびる、全て隙間なく本が詰まった本棚ばかりが壁に沿って置かれている。

パチッとスイッチ音がした後、天井からぶら下がるランプの灯りがついた。

「まぁ適当に座ってて。奥の方を掃除してくるから」

そう言って彼は奥の方へ消えてゆく。呆然と立ち尽くすのもつかれるので座れる場所を探す。

何度も見渡しても視界を埋めるのは本ばかり。中央に陣取る大きなテーブルと、その一方にぽつんとある椅子にも見慣れた先客が陣取っている。果たしてここはアトリエなのだろうか。蔵書室で良いのではないかと考えそうになる。

ひとまず失礼ながら先客を退かすことにした。流石に地面に置くのは気が引けるので、テーブルの上のまだ本が積まれていない場所を見つけ、積んでいく。

一つ一つがかなりの分厚さで、一般的な少女の力しかないロアは一冊ずつ運ぶしか術はなかった。

運ぶ本のジャンルは多種多様で、薬草関係の書物やこの世界の歴史に関する書物、魔法に関する書物等が読み尽くすのも一苦労なほど量があった。

いやはや、一体何年かかるのか。そう思いながら、椅子に座っていた最後の先客を手に取ると、思わず凝視してしまう。

「これは?」

その書物は今まで運んできた書物と比べれば幾分も薄い。表紙には何も書いておらず、試しに裏表紙を見ても何も書いていない。

ロアは興味をかられ、開いた。

目の前に広がるのは、硬派な文でもなく、独特な著者の癖のある文でもなく、説明文でもなく、見開きいっぱいに絵が描かれているだけである。

そう。これは絵本だ。その絵本は少量の文字もなく、作者名も明記されていない。しかも、どのページをめくっても全く話が続いているようには見えない。全く関連のない絵を一枚一枚貼り付けている絵本。捉えようによっては画集ともいえる。

その中の絵は、ある時は空で少女と舞い、ある時は樹の下で竜が啼(な)き、ある時は血塗れの竜が描かれている。

なぜだろう。無意識に、生き急ぐようにページをめくる。ストーリーも意味も何もわからないのに、なぜか絵から目を離すことができない。

そして、一つの風景画のページを捲ったとき、まるで金縛りにあったかのように視線が動かなくなった。

太陽に照らされる麦畑の横に、ぽつんと建てられた小さな家。丘の上には大きな風車が回っている。丘の向こう側には森があり、鳥が飛んでいる。

見たこともない光景。だがしかし見覚えがある。頭の中で矛盾した両者で、より複雑に思考を掻き乱してくる。このまま考え続ければ、それは底なし沼に浸かり続けるというもの。そんな底なし沼から上がることにした。

本を閉じて、ふと天井を見上げる。天井からぶら下がるランプを意味もなく見続ける。

「片付け終わったからこっち来て」

考え耽るのを中断したと同時に、奥からレンオアムの呼び掛けが耳に入る。

「は、はい!」

慌てて立ち上がった。手に持っている絵本を、先程まで座っていた椅子に置き、ドタバタと忙しなく、奥の方へ姿を消す。

本は独りでに動く訳もなく、静かに主人を待つ。




薄暗い廊下を小走りで進む。両端には棚に入り切らなかったのか本が積み上げられている。それだけを見てもこの家の主の収集癖が手に取るようにわかる。

薄暗い廊下を抜けると、あまりの明るさの違いに目が眩む。少しすると目が慣れた。その目で中を見渡した。

ゆったりと広い部屋の中。作業机や大窯、釜戸やフラスコに壁に打ち付けられた棚の上に植物が入れられている瓶の数々。

先程の書庫の様な部屋ではない。ある程度は想像できるが、何かを制作するための部屋と感じた。少し雑多としているが前の部屋と比べれば幾分かマシである。

ふと目についたものがある。灯りの光を受け、キラリと眩く光っているもの。思わずそれに近づき、魅入ってしまう。

(どうしてペンダントがここに?)

硝子張りの戸の向こうに、淡い紅色の石のペンダントが置かれている。鍵を何重にもかけ保存されている。当然戸が割れないように何らかの細工は施してあるのだろう。それらを踏まえて厳重な保管体制だ。

「どうかした?」

後ろからレンオアムの声がした。それに振り返る。流し目に何か持っているのがわかった。洋服だろうか?しかも女性物の。スカートが見えたので確信に至る。

それは何?と目が訴えていたのだろうか。レンオアムは答えるように、広げて見せる。

白いシャツにそれを覆い隠すかのような、濃いグリーンの裾が白いローブ。レモンイエローの三角頭巾と赤いスカート。これに紅いペンダントを合わせれば更に映えると感じた。

「アトリエ…まぁ魔道士の正装と思ってくれたらいいよ。ここでは危険なものを扱うことが多いからこれに着替えてね」

と言われ、一式まるまるを手渡される。手に持ってみてわかった。かなりの重量だ。それは主に上に羽織るローブの重量。あまり長く持っていると疲れる重さである。

「今着てる服をかけるところもあるから」
「わかりました」

それに頷き、大人しく言われたとおり別室に入る。別室はかなり片付いている。いや、物が少ないからそう見えるだけかと自己完結する。だが本当に物が少ない。今、目に見える範囲であるものといえば、立て鏡と椅子とタンスのみ。他に何もあるように見えないし、思えない。

椅子に手に持つ一式をシワができないように置く。
そそくさと一張羅の白いワンピースを脱ぎ、タンスに入っていたハンガーにかける。

下着だけを身に着けた、艷やかで純白の裸体を晒す。それは著名な作家によって描かれた、絵画の中に住まう女神のように美しい。

(本当にこれを着てもいいのでしょうか)

思わず尻込みしてしまう。いつも思うが、あの人が用意する服は全て普通の服とは違う。なんと言えばいいのか。質感?肌触り?着心地?が普通の服と並外れて良い。かけているワンピースも現在進行形で手に持つこの服も、恐ろしい額の、それも庶民が見れば頭を抱える値段の代物のはずだ。

だが、この姿。裸で外に出る訳にはいかないし、あの言い方ではワンピースでは勉強をさせてくれないと言っているようなものだ。背に腹は変えられない。

渋々と着替えを始める。袖を通すとわかるその質感、肌触りに思わず頬を緩めてしまう。なんともだらしない表情を浮かべながら、着替えが終了した。

くるりと鏡の前で回ってみせる。スカートは扇情的に翻り、後ろで束ねた、長く艷やかな髪が宙を揺蕩う。
あれほど着るのに尻込みしていたというのに、いざ着てみればもう体の一部のように馴染む。

だけど…

その言葉を続けようとしたとき、ノック音が聞こえた。次いで声が聞こえる。

「入ってもいい?」
「どうぞ」

扉がこれといって早くはないが、いつもより早く開いたように見えた。

「似合ってるね」

彼はそう言って微笑む。それだけ。もっとこう、可愛いとか美しいとか、そんな聞くだけでわかるような褒め言葉を期待していなかったといえばそれは嘘になる。

蓋を開けてみれば素っ気ない簡潔な一言だけで、自分は本当に褒められたのか錯覚してしまう。何とも言えない表情でレンオアムの様子を伺っていると、何か思い出したように口を開く。

「サイズは多分大丈夫だとは思うけど…どう?」

その言葉で何か弾かれたようにロアの顔が真っ赤に染まる。恥ずかしそうに口をつぐむ彼女は、目を合わせまいと俯いてしまう。その仕草はさながら恥じらう乙女そのもので可愛らしい。

百面相のように変わる表情に驚きを隠せないといった表情で彼女を見つめる。

「……ね…」

搾りかすのような微かな声。聞き取ることは容易ではなく、短い言葉の末尾だけを辛うじて聴音確認できた。

「え?」

聞き返すと彼女はガバッと顔を勢い良く上げ、早口に言葉を発する。

「胸がきついです!」

それを聞いて、レンオアムは豆鉄砲を喰らった鳩のような表情で硬直する。
時間が経つにつれ表情が弛緩していき、最終的には。

「ハハハハハハハハ」

お腹を抱えながら大声で笑い始めた。目尻には微かに涙が浮かんでいる。

「胸って胸って…ハハハ。そうだな。あいつは断崖絶壁だったなッ!」

そんな昼下がり。笑い声が木霊する部屋の中。いつもは見れない一面を見たような気がした。




「あぁ胸囲がキツいんだったね」

ロアの前でしゃがむ。胸元に手をかざし口ずさむ。念ずるように瞑った目には、一体何が見えているのだろうか。

「まぁこんな感じかな?」

そう言って彼は立ち上がる。「どう?」と短い問いかけの意味が最初はわからなかったが理解した。
気がつけば、幾分か窮屈さはなくなっていた。

「何をしたんですか?」
「魔法」

そう、あっけらかんと、さも同然のように答えた。だが、ロアには大きな疑問が残る。

それなら…

ロアは周囲を忙しなく見回す。あぁやっぱりだ。あり得ない。彼は嘘をついている。そう確信した。

「嘘です」
「何?」

そんなポツリと呟いた言葉をレンオアムは機敏に察知する。驚いているのだろうか。表情が変わらないからわからない。

ロアはレンオアムの目を見つめた。微動すらしない彼に向かって口を開いた。

「緑色でモワ〜ってしたものが視えませんでした。それに続くようなものも何一つ…。だから魔法を使ったなんてあり得ない。絶対に。少なくとも使えば私が気づきます」

彼女らしからぬ断言。それを聞いたレンオアムは不気味に声を出して笑う。世紀末の悪役に似合いそうな笑い声が部屋の中に響き渡る。

「君は本当に瞳(・)がいい」

その言葉で、ゾッと背中に悪寒が走った。もしかしなくても彼は瞳のことを知っている。それもかなり深く。

今まで数回を除き、瞳と断定されたことはなかった。

急に体が震え始めた。恐怖で足がすくむ。段々と、違うはずなのに彼の顔が忌々しいある者の顔に変化する。錯覚。そうわかっていても条件反射で、脳内に深くインプットされたトラウマが蘇ってくる。

「まぁ君の言うことは概ね当たってる」

懐に忍ばせていた懐中時計をチラリと見た。時計の針は十五時丁度を指していた。

「あとはお茶を飲みながら話そうか」

ゆっくりと近づき、怯えるロアに優しく微笑みかける。そして手を差し伸べる。

「安心して、私は君の味方だ。だから恐がらなくても大丈夫」

ロアはぎこちない動きで、差し出された手をとる。

本当は敵で、巧みに騙されているかもしれない。だが、そんな気はしなかった。





ティーカップの小さな湖。透き通る茶色い水面に写るロアの顔はひどく怯えていた。
恐る恐るティーカップを口元に近づけ、液体を口に含む。瞬間、上品で芳醇な香りが、口の中いっぱいに広がる。

「美味しい」

ポツリと言葉がこぼれた。

「そう、それはよかった」

レンオアムは嬉しそうに微笑んだ。その眩しい顔を直視できなくて、目線を水面に落とす。その顔が写り込んだ水面には、怯えた顔はなかった。

「紅茶にはリラックス効果があると言われているけど…どう?落ち着いた?」
「はい。ご迷惑をおかけしました」

紅茶のお陰か、先程までの会話が鮮明に思い出された。あの時の私の頭の中は、相当混乱していた。トラウマに憑かれ、塞ぎ込みかけていた私を彼は救ってくれた。彼には多大な迷惑をかけた。

「迷惑だなんて思ってないよ」

だが、彼は何ともないように答える。

彼は一体何者なのか。常々思う。瞳のことも私の教えていない情報も何もかも。もしかしたら彼には筒抜けなのだろうか。私の置かれていた環境も全て。

カチャリとティーカップが甲高い音を立てた。自然とそこに視線が集中する。

「そういえば魔法について話す予定だったね」

苦笑しながら言葉を発した。どうする?と問いかけに、お願いしますと肯定の意を示す。
彼は頷き言葉を発した。

「私はさっき言ったようにごくごく一般的な魔法を使った」

ぼっと手に炎を宿す。それも当然のように瞳では見ることはできなかった。

「魔法には発射前の予備動作と発射後の残渣がどうしても存在する。それは高名な大魔導師でも覆すことのできないものだ。だから魔導師はそれを最小限に抑える事でその絶対の隙を悟られないようにしてきた」
「つまりあなたのそれは、それを極めた末の賜物ということですか?」

唐突に口を挟む彼女の質問は的確に的を射ていた。

「そんな感じだね。まぁ私の場合はそれに一工夫手を加えているんだけどね」

そう言って、彼は手に宿していた炎を消した。その一工夫がとても気になった。それはもう、聖夜に心を踊らせる子供のような瞳をしている。

「そんな瞳で見つめなくとも教えるから大丈夫だよ」

彼は苦笑しながらそう言った。その言葉にハッと我に返る。続けてくださいと、恥ずかしそうに小声で言うと彼は話を再開させる。

「魔力は万物全てに存在している。石から人から何から何まで存在している。それは全て大地の奥底に眠る地脈から染み出した魔力が大地の上を生きる我々に分け与えられている」

彼は呆れたような顔をして言葉を繋ぐ。

「よく言うでしょ?人は皆平等って。あれあながち間違えじゃないんだよね。分け与えられる魔力はみんな平等だし、違いは魔力を入れる器の大きさだけ何だよね」
「それが魔法とどんな関係が?」
「本来魔法は体内の区分けした魔力を使わないと行使できない。そのせいで体内と外の魔力が別のものなって、さっき言った二つが目立つようになる。だから私は魔力の器を壊して外の魔力と中の魔力を同じにした。それが君が見る事ができない手品の種だよ」

器を壊す。彼はあっさり言うがそれはそんな簡単なことではない。一歩間違えれば死ぬ可能性の高い、危険な綱渡りなのだから。

ロアは身震いをする。これは真似することができないようだ。自分は莫迦ではない。そんな失敗する確率の高い選択をするわけがない。
そう自分の中で折り合いをつける。同時に、瞳のことについてしれただけでも収穫と自分を慰めた。

不意に懐中時計が開く音が聞こえた。それは聞き間違えではなかったようで、レンオアムは今尚動き続ける針に視線を固定している。

「六時近くか…かなり話し込んだね」

知らぬ間にそんなにも時間が経っていたようだ。彼は空になったティーセットをトレイに乗せ、部屋の奥へ消えていった。
数分後に戻ってくると、窓から覗く空は、それはもう鮮やかな茜色に染まっていた。

「帰ろうか」

彼はそう言った。

「はい」

と私は返す。

アトリエから出ると季節を感じさせる暖かい風が肌を撫でる。天を仰げば、茜色に染まった空に、薄っすらと月が見え隠れしている。

二人は並んで昼に通った、自然のアーチができる石畳の道を引き返す。

鳥たちの鳴く声を聞きながら、ロアは瞳について考える。

彼の言ってたとおりこれが才能ならば、私の瞳(これ)は誰が望んで渡したのか。
少なくとも、私はこれがあって良い事が何もなかった。悪い事しか、自らを害する事しかなかった。それは今も、これからもずっと変わらないだろう。

もし瞳(これ)を神が望んで渡したのなら、私は神を恨む。憎む。背信者などと罵られても構わない。地獄に墜ちろと蔑まれても構わない。

もう既に、私は地獄に落ちているのだから。神に背いているのだから。

「…ア。…ロア」

その聞き慣れた声で、思考の渦から引きずり出される。彼は幾分か前にいた。突然立ち止まった私を不思議に思い声をかけたのだろうか。

「どうかしたのかい?怖い顔してるけど…」

その言葉に息を呑む。神への嫌悪、憎悪で顔がひどく歪んでいたようだ。咄嗟に笑顔を繕う。仮初の、ハリボテの笑顔を浮かべる。

彼に駆け寄る。すると彼は無言で頭を撫でてくる。何も言わず、ただ無言で。
どうやら彼は私の抱く感情に気づいているようだった。だが、何も聞く事はしなかった。

私が救いようのない莫迦だからなのか。それともそれに同情しているのか。それを聞こうにも、二人の口は固く閉ざされている。
終始無言のまま、帰路についた。

仄かに香る夏の匂いが、どこか寂しいものに思えた。



チクタクと一定の速度で時を刻む。静かな暗い部屋の中で唯一それは音を発する。その時計は弾かれるように轟音を発し、振動する。

けたたましいベルの音で、無理矢理に微睡みから引きずり出される。

まだはっきりとしない、虚ろな思考の状態で、その音源があったであろう場所に手を伸ばす。

どうやら場所が的中したようで、カチッという音とともに耳を劈く音が消える。

部屋は水を打ったような静寂に包まれる。静かになったことだ。二度寝と洒落込もう。そう考え、乱れた掛け布団をもう一度頭までかぶり直す。

まったく睡眠の邪魔をしないでほしいものだ。珍しく数十年ぶりの睡眠なのだ。もっとその快楽を味わいたい。それに近々外出の予定もある。それまで少し眠らせてくれ。

不機嫌になりながら思考を落とそうとする。

……。何か頭の隅に引っ掛かる。

バッと勢い良く起き上がる。慌てて音源を確認する。針は動いていなかった。先程のけたたましい音が彼の最期だったのか。そっと心の中で手を合わせる。針は九時を指していた。

多少気怠いが起きることにした。移動するために床に足をつけた。真っ先に伝わる感触は冷たく硬い、フローリングの床ではなく、足の踏み場が見当たらない程に散らかっている紙の数々。

どれも世間に出回れば、億はくだらない値段で売買される。ただの紙切れがそれほどの値段を有するのは、彼の圧倒的なまでの才能の賜物であろう。

そんなことも露知らず。徐に床を埋める紙を持ち上げると、くしゃりと丸めゴミ箱に投げ入れる。研究者たちがそれを見たら最後、百二十パーセントの確率で卒倒するであろう。

一頻り片付けをすると、丁度よく腹がなった。確か、向こうの部屋に栄養バーがあったよな。いそいそと、今尚紙が床を埋める部屋を後にした。

扉を開けると煌々と照りつける陽光が出迎える。間違っても石化してしまいそうなほど照りつけられる。引き篭もりに日光はタブーだ。吸血鬼に日光を浴びせると同等の意味を持つ。

閉めよう。そう心の中で強く念じた彼は、小走りで窓際に向かい、カーテンを勢い良く閉める。

驚くほど暗くなった部屋を歩き、台所にたどり着く。木目がくっきりと見える棚の前に立ち、探る。

ガサゴソと弄るとお目当てのものが手に当たる。棚から、そのスティック状の物体を取り出すと、そそくさと袋を開けて齧り付く。

(迎えが来るまで適当に時間を潰しとくか)

そう思案し、今はもう空になった袋を、何も入っていないゴミ箱に捨てた。



土の匂いがする。それは当然といえば当然で、庭園の一角。敷地の入口から左側を占める菜園にいる。

舗装された石畳の道が亀の甲羅のように分岐し、その空いたスペースに煉瓦の花壇が設置されている。

その花壇に植えられているのは、四季折々の野菜と果実。

魔法具の効果で、各区分の温度がその季節に合わせられる。それぞれの作物にあった温度で育てられていると説明を受けた。

活力漲る、新鮮な野菜、果実をその白い手でもぐ。それをバケットよりは小さくないが、それを少しだけ大きくした籠に作物がいたまないように丁寧に入れる。

籠が程よい重さで一杯になった。それを同じ菜園にいるエルミィに報告をする。

「一杯になりましたか…もうこの位でいいですかね」

と、彼女は自分の籠に視線を向ける。そこには、ロアの籠の倍ほどに大きい籠が、ありとあらゆる作物で埋め尽くされていた。

「さ、流石に取り過ぎなんじゃ…」
「あの人はこれくらいないと多分足りないってうるさいので。それに一々取りに来るのも何ですし一回で済ませようと思いまして」 

山盛りに積まれた作物を見て、疑問に思って口にしたが、彼女はその尖った耳をヒコヒコと動かせながらそう答えた。 

彼女は中腰から立ち上がると、籠を手も何も使わず宙へ浮かばせる。ロアの籠も同様に宙に浮かぶ。

ほんの微かに緑の靄を視認できた。魔法を使ったのだろう。そう確定した。

彼女は高名な魔導師なのだろう。中身が詰まった籠を二つも浮かしているのに、全く疲れた様子がない。しかも詠唱もなしにそれを行使する。

レンオアムと比べると見劣りしてしまうが、それは比べる対象が悪いだけで彼女の技量は卓越している。

これが種族の違いなのだろうか。ロアは尖った耳を見つめた。
その視線に気づいたのか、彼女は不思議そうな顔でロアを見る。

「どうかしましたか?」
「いえ、何もないです」

なるべく無表情を取り繕い、何とか話を逸らす。怪訝そうにこちらを見つめてきたが、それはスルーする。

「そうですか。では戻りましょうか」

その行為に飽きたのか、している自身に呆れたのか、そう言って、彼女は先に進む。ロアは彼女の背中を眺める。その後ろを、少し遅れて歩き始める。

彼女の足取りは軽やかで、気を抜くととてつもなく離されそうになる。

空は煌々と照りつける。雲一つない晴天の下、まるで神に監視されているようで気味が悪い。

ロアは足早にエルミィに駆け寄った。



「例えそれが真実であろうと、それをあの娘に話すのはやめてくれ」
「だ、だけど!」
「君はそれで赦された気になるだろうがあの娘は違う」

その言葉が胸の奥底に眠る、心臓に突き刺さる。そのとおりだ。自分がそれを言うことによって、自分がその苦悩から開放されても、向こうはそうとは限らない。

自己満足ではないのか。エゴを押し付けているだけではないのか。冷静に考えると、自分の主張はひどく自己中心的なものだった。

「そ、それは…」

それを理解してか、後に続く言葉は何もなかった。ただ一時でも、それを考えた自分の愚かさに恥ずかしくなった。

目の前に立つ彼からは、焦りと苛立ちが見て取れた。いつもの冷静沈着を体現する姿とは、似ても似つかない。彼は深く呼吸を整えると、こっちを真剣な眼差しで見つめる。自然とこちらの身も強張る。

「君が真実を告げるのは君の勝手だ。だがそれを告げるなら私は容赦はしない。もう一度言う。話すのはやめてくれ」

彼の、いつにもまして威圧的な声が鼓膜を刺激する。聞く人によって恐怖で怯えさせるその声音は、聞く者を静かに頷かせる。彼はそう言い終えると、頷いたのを確認する。

「俺のこと恨まないのか?」

そう問うと、彼はなぜ?といったような表情で、こちらを見つめ返す。それを見ていると、次第に自分が莫迦らしくなってくる。

「なぜ私が君を恨むことがある。好意で作ってくれたものだろう?世に流そうと言ったのも、薦めたのも私だ。つまり私に恨む筋合いはない。だから気にすることはない」
「でもっ!俺が作ったもので傷つけた!それは変わらない!」

声を荒げて訴える。それを認めてくれれば、責め立ててくれた方が気が楽になるというのに、彼は頑なに悪くないと言う。

そんな自分を見て、呆れたのか、それとも考える時間を与えるためなのか、彼は静かに部屋を後にする。その大きな背中は扉の向こうへ、影のように消えた。

頭を冷やそうと、近くにあった椅子に腰を下ろす。すると、とある物が視界に入る。

それは机の上に置かれている一枚の紙。設計図である。それを見つけるやいなや、その設計図を手に取る。そして設計図をビリビリに、解読不能にするがごとく破り去る。

あの頃は、これがあんな使われ方をするとは思いもしなかった。手に少し残った、設計図だった紙は、今はもう跡形をなくした、ただの紙屑に変貌を遂げる。静かにそれを見つめる。紙屑を見ていると、また自責の念が込み上げてくる。

今、ここに、この世に神がいるなら、今までの行いを亡きものにしてほしい。それが例え、この世の理に触れようともその願いは絶対不変である。

暗い部屋の天井を仰いだ。手をとてつもない力で握り締める。爪が肉にめり込み血が滴る。痛みはある。だが傷みはない。

いくら自傷しようとも、この憎たらしい肉体はそれを瞬時に修復する。
強く握っていた手を開いても、傷一つない血に塗れた手があるのみ。



家に入るとひんやりと涼しい風が、白い柔肌を包み込む。玄関先に置かれた、アンティーク調の家具が少し汗ばんだ二人を出迎える。

チクタクチクタクと、古ぼけた古時計の規則的な針音が、静かでひんやりとしたその家の一室に反響する。

「何か手伝えることはありますか?」

家の中では籠を浮かすのは広さ的に無理があったのか、一つずつ自らの手で運んでいるエルミィに問いかけた。彼女の足は止まり、こちらを振り向く。

「なら扉を開けてくれませんか。一々置いて開けるの面倒くさいので」

と、苦笑いを浮かべながら、申し訳なさそうにそう言った。それを聞いたロアは、足早にリビング、キッチンへ続く扉に向かい、開ける。

「ありがとうございます。今日はお疲れでしょうから夕飯までの時間、ゆっくりと自室で過ごしていたください。私は仕込みがありますので」

と言って、彼女は一つ目、二つ目の籠をキッチンに運び入れた。まだ手伝いをしたいのだが、料理となると何も手伝えはしないだろう。むしろ、いらぬ手間をかけさすことになるのは容易に想像ができた。

仕方がない。部屋で少し休もう。そう思った矢先、キッチンから可愛らしい悲鳴が聞こえた。

電光石火の速さでキッチンまで向かうと、床にエルミィと野菜が転がっていた。繊細で脆い野菜は中身が弾け、床に寝転んでいる。慌てて転けている彼女を助け起こす。

「だ、大丈夫ですか?」
「は、はい。すみません、躓いてしまいまして」

焦点の定まらない、硬い瞳と目があった。数回ほど瞬きを繰り返すと、焦点が定まった。そして、彼女は初めて目を見られていることに気づいた。

「…ッ!?」

腕の中から、逃げるように飛び起きた。彼女からはなぜか怯えと焦りが感じられた。

「あの…」
「助けてくれてありがとうございます。片付け等は私がやっておきますので、先程言ったとおり部屋で過ごしててください」

ロアの言葉を遮るように、早口で言葉が発せられる。否とは言わせぬ雰囲気で、ロアは渋々部屋に戻った。



一人になったのを確認すると、深いため息を吐く。

「やっぱり50年は長過ぎましたか」

瞑った瞳のまぶたをそっと触る。寂寂の感情が噴き出す。

蝕むように暗闇が増えるその視界。もう少しすれば、光が入り込むことのない深淵に変わる。

徐に、床に散乱している弾けた野菜を一つ手に取った。彼女は願うような仕草で魔力を込める。すると、弾けた野菜が生っていた時と同じ、もしくはそれ以上の状態で再生する。

「これが私自身に使えれば尚の事いいのですがね」

自嘲するような薄笑いを浮かべた。

自然と頭に浮かんだ。初めてあった時の事。その時から、私の世界は彩りをもった。

静かに片付けを進める。いつもは使わないものを使い、何とか作業を進めた。





ベッドに腰を下ろすと、長く艷やかな銀の髪を束ねている紐を解く。そして大の字で寝そべる。柔らかな感触が体を包み込む。
ふと、意味もなく額に右手の甲を当てる。天井から部屋全体を照らす灯が、手で遮られる。

恐ろしく退屈だ。何もする事がない。品がない、淑女らしくない等、小言を言われそうであるが、兎に角退屈なのだ。

この部屋には娯楽も何もない。本もあるわけもなく、あるのはタンスや机、ベッド等の生活に必要で最低限の物だけ。実際、それで苦労も苦痛もなかった。

現にそれで過ごしてきている。が、やはりこういう場合になると話は違ってくる。

アトリエに行こうとも考えたが、一度足を踏み入れると恐らく日を跨ぐまで帰ってこないはずだ。自分で認めるのは癪だが、その自信しかない。

かと言って、何もせずつれづれな時を過ごすのもどうかと思う。
ボーッと天井を眺めていると、ふと、彼の言葉が頭を過る。

「味方かぁ…」

自然とポツリ、言葉が零れ落ちた。未だに、この言葉を発した彼の事を完全に把握しきれていない。

額から手の甲を離し、その手を開いたり閉じたりする。いくら考えても答えに辿り着きそうもない。まるで茨の迷路に迷い込んだが如く、その真意や正体はわからない。

その迷路を進めば進むほど、茨の棘で自分が傷つけられる。

あぁ、まただ。また行き止まりだ。目の前に広がる大迷宮。到底彼女一人では脱出する事はできない。

彼女は思考の渦、迷宮に呑み込まれ、取り込まれる。





久方ぶりに来る家は昔とちっとも変わらない。家具の配置も、食器の位置も、匂いも、雰囲気も全部、まるで時が止まったかのようにそっくりそのままの状態だった。

車では乗り気ではなかったのに、いざ来てみると懐かしさと嬉しさで胸が一杯になる。まだ興奮も冷め切らない様子で、きっとそこにいるであろう人に声をかけた。

「やぁ、エル。元気だったか?」

二人が着いた事に気づいた彼女は、覚束ない足取りでそこへ向かう。

「元気かって聞かれるほど私は老いていません。たいして時は経っていませんし、身体は健康そのものですが…」

彼女と眼があった。その眼の光は鈍く、陰っていた。それを目にして、完全に理解した。

「どの位進んでる?」
「今はもうほとんど見えない状態ですね。虫食いの跡の様に、所々光は差し込みますがそれも微々たるもので…」

彼女の表情が昔のそれになる。彼女自身は知らないだろうが、自分はその顔が大っきらいだ。全て諦めたような、暗い影のような表情。そんな表情を見ていると胸がチクリと痛む。

「直すから部屋に行こうか」
「は、はい」

彼女は頷く。静かに部屋の隅で立つ、レンオアムに目配せする。彼は魔法で扉を開けた。

エルミィの手を取る。女性らしい吸い付くような柔肌の感触が伝わる。

彼女の部屋は一階にある。本来なら二階なのだが、彼女の境遇を考えるなら当然のことである。
リビングから直ぐの部屋の扉を開ける。ここもまた何も変わっていなかった。

彼女をベッドに横たわらせる。自分は服を脱ぐ。ベッドの側にあるランプに灯りを灯すそして横たわる彼女に覆いかぶさる。彼女の華奢な身体は、男が覆いかぶされば見えなくなってしまう。

決して、そういう行為をしようとしているわけではなく、服を脱ぐのも覆いかぶさるのも必要な事だからしているだけである。

「始めるよ」

彼女の衣服に手をかけ、はだけさせる。若干上ずった声が薄暗い部屋の中に響いた。

露わになる、白磁のような肌。情欲を掻き立てる様なその光景。思わず見惚れてしまう。

「チカゲ?」

彼女の呼び掛けで我に返る。涙ぐむ、熱のこもった目で見つめられる。胸がドクンと大きく跳ねた。

なるべく平静を装い、チカゲは彼女の左胸、ちょうど心臓の、真上ぐらいのところに手を当てた。

目を瞑る。手に魔力を込めた。その魔力を彼女の身体に無理矢理入れようとする。

突然侵入してきた異物への抵抗なのか、押し返すような感覚もあったが無理矢理ねじ込んだ。彼女の甘い、熱のこもった声が鼓膜を刺激する。

彼女の体内に入った魔力は、血管を通り問題の場所へ向かう。チカゲの額には玉の汗が滲む。

魔力を操作するには、相応の技術、集中力が必要とされる。何かを介入させればされるほど、それは倍必要になる。

今している行為は、ミリ単位の血管に、魔力を糸のように細くし、操作する。目を瞑って針の穴に糸を通す、それと同意義、またはそれ以上の難易度。兎に角、それは常人には真似する事のできない至難の業であることは間違いない。

魔力の糸がある部分と接触した。硬く冷たいその物は、外側からは見えない内側が損傷していた。目視確認できたら、後は直ぐだった。

「はぁ~疲れた」

重く、気怠い身体をベッドに埋める。すると、疲労からか、すぐに眠気が襲ってくる。欠伸をする余力も残されていない身体は、素直に睡魔に屈した。

はだけていた服を整えたエルミィは、ベッドから静かに立ち上がった。チラリとチカゲを見た。あどけない顔で眠っている。それを見ていると微笑ましくなる。

(…寝てるよね?)

ベッドが軋んだ。刹那、エルミィは顔を熟れた林檎の様に、顔を真っ赤に染めてそこから飛び退いた。そして、そこから逃げる様に部屋を後にする。

「…」

寝ているはずの彼の顔が紅く染まる。羞恥と歓喜からくる感情に、思わず叫びたくなった。

彼女の行為に謎を浮かべながら、熱の冷めない彼は、誤魔化すように、淡い灯りを灯すランプを消灯させた。

森人は樹の下で笑う ©眉

執筆の狙い

深いファンタジーを書きたいと思い書きました。読者が考えるようなそんなファンタジーです。執筆上の挑戦としては、自分の文がどのように捉えられるのか、どんな書き方がいいのかを知りたくて投稿しました。
厳しいご意見を貰いたくてここに来ました。お目汚しになるかもしれませんがよろしくお願い致します。

126.159.226.200

感想と意見

岩作栄輔

暗き、暗闇、と何度も暗いが連呼されています。
同じ言葉を多用すると、ヘタな文章に見られ易いと思います。
意識して重ならない別の言い方に変えたほうがいいのではないかと思いました。

常に行間が開くのはあまり読みやすいとはいえないのではないでしょうか。
それは場面展開、転換の際にだけ使うようにした方がいいと思いました。

冒頭の少女の描写で、
 どれ程の時が経ったのか、少女は元々白かった肌を更に不健康そうな色に変え、今にも倒れそうな足どりで、何とか木にもたれ掛かりながら歩いていた。
とありますが、そこまでの流れがムタに長くなっている印象を受けました。
・・・更に不健康そうな色に変え、というところで緊迫感はなくなったと思いました。

2017-08-07 00:41

118.241.242.109

感想ありがとうございます。行間は見やすくと思ってしましたが、それが逆に見にくくなっていたとは…。ご意見を念頭に置いて行間のさじ加減を考えさせてもらいます。
やはり同じ単語ばかりなのが駄目でしたか。色々な表現を勉強します。
更にが安っぽくしてしまったのでしょうか。その部分は表現を変える、そこを抜くなどの工夫させてもらいます。

ご意見をありがとうございました。とても勉強になりました。

2017-08-07 01:21

126.159.226.200

加茂ミイル

雰囲気がよく出ていて、何だかぞくぞくしました。

2017-08-07 02:30

60.34.121.181

加茂さんへ

感想ありがとうございます。
雰囲気ですか…。自分はわかりませんが楽しんでもらえてなりよりです。
感想ありがとうございました。日々精進していくのでよろしくお願いします。

2017-08-07 12:30

126.159.226.200

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