作家でごはん!鍛練場

『君が描いた星空へ』

深淵ノ鯱著

前向きな気持ちがあれば、その願いが潰されることはない、意外と何とかなるものなんだ、という実体験を踏まえて感じたことを伝えたいという思いで執筆しました。
第24回電撃小説大賞に応募しましたが、1次落選でした。
一度、一冊の本として出版できるような量をきちんと書き切りたいという願望がありましたので、半年いう時間はかかりましたが完結させることができました。

 プロローグ
 
 わたしが初めてこの神話を目にした時、一つの感想を抱いた。「悲しい」とか「面白い」とか、そんなありきたりなものではない。わたしは感動を越えた気持ちを覚えていた。小説を読むとき、登場人物に自分をあてはめながら読むとついつい泣いてしまうように。だが、今回は感情移入をしたわけではない。そんなことをするまでもなく、自分自身のような気がしたのだ。いや、「ような」ではない。これは「わたし自身」を描いた話だ。そう、感じた。
 自分のせいで大切な人を傷つけてしまうという悲しみを、わたしは知っている。だからこそ、この神話からは他の話とは異なる雰囲気を感じ取ったのだろう。つっと流れ落ちそうになっていた水の玉を、手の甲で強く拭う。
 窓からは、微かに光る星たちが見えていた。どれが何という星か、どれとどれを結べば、動物や神様が浮かび上がってくるのか、わたしには全くわからない。水をたっぷり染み込ませた文字のように輪郭を持たない情景が浮かび上がる。あの時も、わたしたちの頭上には星たちが瞬いていた。しかし、その淡い光は、心の奥底に沈めた後悔の念を湧き上がらせてくるようで、わたしはそっと目を逸らした。


『夏の星座の神話』
 夏の夜空に浮かぶ星座のひとつに、「いて座」があります。上半身が人間、下半身が馬という姿をしたケンタウロス族のケイローンが弓を引いている様子が、ルクバト、アルカブなどの星々によって描かれています。
 ケンタウロス族は、野蛮な種族でした。しかし、ケイローンは音楽の神アポロンと月の神アルテミスから様々なことを学び、ギリシャの若者たちを教育するようになります。その中の一人が、ヘーラクレースでした。
 ある日、酒の席でケンタウロス族とヘーラクレースがいざこざを起こします。ケンタウロス族はヘーラクレースに追いかけられ、ケイローンの元へ逃げ込みます。ヘーラクレースは、ケンタウロス族の者を捕えることしか頭になく、恩師であるケイローンがその場にいることに気づきませんでした。ヒドラの毒が塗られた矢は、運悪く、ケイローンの胸に刺さってしまいます。普通の人に刺さったのならすぐに死んでしまうのですが、ケイローンは神の子であり、不死身でした。ケイローンは死ぬことができず、ヒドラの毒は永遠に彼を苦しめ続けるのです。
 ヘーラクレースは、苦悶の表情を浮かべるケイローンを前に何もすることができず、大神ゼウスに、彼を安楽死させるよう懇願しました。その願いを聞き入れたゼウスは、ケイローンに安らかな死を与え、彼は星座となったのです。


  1

 今日の空も青い。ここ数日、晴れの日が続いている。綿あめのように柔らかそうな雲がのんびりと漂い、その後ろから、爽やかな青が鮮やかにその白を彩っている。そんな澄んだ景色を眺めていると、ふと、ある日の事を思い出した。俺に不思議な能力が宿ったのも、こんな清々しい青空の日だった。
 高校一年生の六月の話だ。その頃の俺は、クラスの中で一人、浮いていた。進学校というわけでもないところに通っていて、同級生の中には、いわゆる不良や、派手に着飾るギャルのような生徒も数多くいた。そんな中に、根暗で、共に休み時間を過ごすような親しい友人もおらず、読書ばかりしているような俺がうまく馴染めるはずがない。放課後には、クラスメイトが笑顔で友人を誘い合ってゲームセンターやファーストフード店に繰り出す中で、俺は一人、閑静な下校道を歩く。初めの内はそのうち何とかなるだろうと楽観的に考えていたが、三か月余りが経過しても変わらないとなると、さすがに焦りを覚えずにはいられない。夜中まで騒いでいるような連中の仲間にはなりたくないが、それなりに笑いあえる友人がいて、時々馬鹿なことで叱られる、そんな普通の青春に、いつの日か憧れを持つようになっていた。
 そしてその日も、教室の喧騒の中で昼食を摂るのが嫌で、俺は日差しが照りつける学校の中庭で弁当を広げていた。ここは孤独な俺の、小さな癒しのスポット。樹の幹を縦に真っ二つにしたようなベンチと、青々と映える芝生。相反する雰囲気を携えているこの場所が、俺は好きだった。そよそよと吹く風に前髪を揺らされ、草葉の香りをかぐ。それだけで、いまの自分が生きている世界から脱したような気分になる。
 だが、時折聞こえる現実の叫び声に呼び戻され、そのたびに覚える空しさは拭い去れない。目の前の校舎からは耳をつんざくような、女子たちの喚き声が聞こえる。ジュースでもぶちまけたのだろうか。俺はため息を吐いて、目の前の弁当に視線を戻す。
「……ん?」
 視界の隅に何かが映り、俺がそちらに視線を向けると、数人の教師が軍手をはめて何かを運んでいるところだった。全体が緑で覆われ、細い枝と葉がぶら下がっている。あぁ、もうその時期だもんな、と納得する。世間は七月七日、すなわち七夕に向けての準備を本格化させている。うちの学校でも、その日が近くなると竹を用意し、短冊に願いを書いて結ぶのだ。なんだかんだ言いながらも、毎年、笹は多くの願い事で覆われる。ほぼ全てが面白がって書かれたものだろうが。
「おぉ黒瀬、丁度良かった。手伝ってくれ」
 竹の運搬をしていた教師の一人が、俺の名を呼ぶ。こっちはまだ弁当食ってんだ、と言い返したい気持ちが湧きあがるが、中には弱みを握られたら面倒な教師もいたので、舌打ちを中庭に残し、手伝いに入った。
 軍手を借りてゆっくりと運びながら、俺は目の前の薄緑を見つめる。こんなただの竹が、願いを叶えてくれたらどれだけ嬉しいか。きっと、今のつまらない日常から抜け出せるはずだ。
――今年は、騙されたつもりで書いてみようか。
 もし書くなら、『もっと楽しい人生が送れますように』になるだろうか。さやさやと風に揺れる笹を前に、心の中で祈るように反芻する。
――もっと楽しい人生が送れますように。
 思えば、これがいまの俺を創り出したのかもしれない。


 それから程なくして、俺は、自身に宿った異変に気が付いた。何かが欲しいと思えばそれがいとも簡単に手に入り、何かをしたくないと思えば、とても自然な形でそれが叶うのだ。初めの内は単なる偶然だと思ったが、時を経るにつれて、その考えが間違っているという考えの方が大きくなっていった。一体自分の身に何が起こったのだろうか。自分の思い通りに事が進むのは非常に嬉しいのだが、その気持ちと同じぐらいに、恐怖心が俺の中には存在していた。自分の体の事もそうだが、願いを叶えようとするたびに、背中をくすぐるような視線を感じるのだ。慌てて周囲を見回してみても、こちらに視線を向ける人間はおろか、興味を持つ者すらいない。不思議に思いつつも、俺はそのことについて極力考えないようにした。非現実的なことをしているという背徳感が、もしかしたら肉体に軽い影響を与えているのかもしれない。そう結論付けることで、その視線の事をすっぱり忘れようとした。
 そして、それからというもの、俺の学校生活は一変した。何せ、一緒に過ごせる友人を持ちたいと思えば相手から歩み寄ってきてくれ、遊ぶお金が欲しいと思えば、同じマンションに住む人からお小遣いをもらえたりした。そうして、俺は高校一年生の一年間を、順風満帆に過ごしたのだった。
 高校二年生になっても、それは変わらない。力を得た直後ほど能力に頼ることはなくなったが、どうしてもという時には使用していた。
 しかしこの時、一年生の時から感じて、気にしまいとしていた視線を再び感じるようになっていた。一年経って成長したのだろうか、以前は背中がむず痒くなる程度のものだったが、今は刺さるようなものに変わっている。気にするなと自分に言い聞かせても、その考え自体を刺し殺すように、俺を射抜いてくる。それが、ほぼ常になりつつあった。
「どうしたんだ、魁人。きょろきょろしたりして」
 隣を歩くクラスメイトから、そんな言葉をかけられたのも一度や二度ではない。近くに人がいるときには意識しないように心掛けているのだが、それすらも打ち壊すほどに、俺の精神を揺さぶる。
 そして今日、視線に耐えきれなくなった俺は、その主との接触を試みることにしたのだ。


 方法は決して難しいものではない。人が疎らになった放課後、誰もいないところに誘い出すだけだ。簡単に引っかかるかどうかはわからないが、視線を感じる時間は日に日に長くなっている。案外すぐに姿を現すかもしれない。
 授業が終わってから一時間ほど時間を潰し、ゆっくりと校内を歩き出す。オレンジの光が一日の終わりを示すかのように、校舎の中を、グラウンドで汗を流す運動部員の姿を、照らしだす。一か月前まで新入生を迎える桃色の花弁を舞い踊らせていた校門の桜の樹は、その存在感をあたり一面に誇示し、長い影を伸ばしていた。
「……」
 今もまだ、視線を感じている。教室の中にいた時は感じなかったのに、外に出た途端に背中へと突き刺さってくる。俺はそれに気づかぬふりをして、この時間には誰も近づかないであろう、ごみ捨て場の近くへとやってきた。傍にそびえる体育館では、バスケットボール部の掛け声が高々と響いている。
 うず高く積まれた段ボールや新聞紙を前に、俺は息を殺し、意識を集中する。相手はどんな奴かわからないが、その存在を近くに感じ取ったら、すぐにでも追いかけ、捕まえるつもりだった。
 五分ほどが経過する。相変わらず、その気配は消えない。幽霊のように俺にまとわりついているのがわかる。しかし、近づいてくる気配はない。あくまでも、遠くから見つめているだけのようだ。だったら……。
「おい、誰かいるのか? もしいるんだったら出てきてくれ!」
 虚空に向かって俺は叫ぶ。傍から見れば、ひとりで喚いている変人に映ることだろう。足元に生えているタンポポが、緩やかに吹く風に揺れていた。
 一分、二分と経つが、俺の近くを過ぎるのは、ランニングをしている部活中の生徒のみ。やはり、そう簡単に姿を現すつもりはないのだろうか。あと一分待っても来なかったら今日は諦めようか、と考えていた時だった。
 体育館の影からなびく一つの影があるのに気が付いた。
「……」
 俺は、その姿に息を呑む。
 現れたのは、俺よりも十センチほど伸長の低い少女だった。背中を伝ってまっすぐに伸びた黒髪が、一歩踏み出すたびに左右に揺れる。大人びて見える顔面に存在する長い睫毛の下の大きな瞳が、おぼろげに俺を映し出していた。指と指とを腹の前で絡ませ、一歩、また一歩と俺に近づく。一瞬は同じ高校の生徒かと思ったが、着ているのは制服ではない。美しさと隣り合わせの不思議さがあるが、果たしてこの少女が、俺をずっと監視するように見ていた子なのだろうか。
「君が……俺を見ていた人?」
 俺の顔を見つめたまま動かないその少女に向かって、恐る恐る声をかける。
「……はい」
 少女は整った顔を一切崩すことなく、口だけを動かせて答えた。小さな声だったが、透き通った、落ち着きのある声だった。そして、彼女は再び黙ってしまう。
「そう……なんだ」
 降り立った沈黙に耐えきれずに、そんな不甲斐ない返事だけを漏らす。しかし、俺は彼女に対して得体の知れぬ安心感を覚えていた。醜い男でなく、可憐な少女であった。それも多少はあるかもしれない。だが、俺の心の中にいま渦巻いているのは、過ぎた日々を慈しむような、懐古の念だった。姿は初めて見たはずなのに、声も初めて聴いたはずなのに、名前すらも知らないのに、俺には懐かしく思える。小学校の時の友人に似ているのだろうか。中学校は……わからない。
「それで、君はどうして俺を付け回していたの? あ、それよりも、名前は何ていうの?」
 俺が質問すると、少女はずっと向けていた顔を初めて逸らした。風に乗って流水のように揺れる黒髪から、ほんのりと漂う甘い香りが俺の元まで届く。
「いっぺんに質問しないでください」
 目を合わせぬまま、少し怒ったような口調で、そう答えた。俺はごめんと謝り、彼女の返答を待つ。
 やがて、一つ息を吐き、少女は澄んだ声を続かせた。
「わたしは天月遥と言います。名字でも名前でも、どちらで呼んでいただいても構いません。ですが、恐らく名前の方が呼びやすいでしょうから、宜しければ名前で呼んでください。黒瀬魁人、君」
「……」
 穏やかな口調で自らを名乗る少女――遥。しかし、彼女に対して、俺は一つの違和感を覚えた。理由は簡単だ。俺はまだ自己紹介をしていない。なのに、遥は俺の名前をさらっと口にした。
「その……俺の名前、何で知ってるんだ?」
 俺が尋ねると、遥はくすっと笑って、しかし少し哀しそうな表情で答えた。
「……ずっとあなたを見続けていたんです。名前ぐらい、知ってて当然ですよ」
 確かにそうだ。目についた女子高生を追い回すストーカーじゃあるまいし、もし目的があるのなら、逆に名前すら知らない方が不自然だ。そう得心して、俺も改めて自己紹介する。
「俺は黒瀬魁人。なんていうか……普通の男子高校生だ。高二だが、遥は何年なんだ?」
 少し嘘をつかせてもらった。まだ遥が何者かは全くわからないし、何を目論んでいるかもわからない。そんな相手に、不可思議な能力のことを話すのは躊躇われた。
「はい。わたしも高二です。よろしくお願いしますね」
 はらりと目の前に落ちた前髪を右手でどかせつつ、遥は軽く頭を下げた。
「あぁ、こちらこそ。ところで、同い年なら敬語じゃなくてもいいんじゃないか? 俺としては砕けた話し方の方が楽なんだけど……」
「気にしないでください。初めの内はそうもいかないかもしれませんが、そのうち慣れると思いますよ」
 確信があるような口調で答える。きっと彼女の癖みたいななのだろう。同級生に対して敬語で話すクラスメイトは俺の周りにはいないので、違和感しかない。しかし、不快感を覚えるわけでもないので、ここは遥の言葉に頷くことにする。
「それで……ずっと俺を見ていた理由は何なんだ? 教えてくれると嬉しい」
 俺が問うと、遥は少しだけ表情を固くさせた。深い瞳の中の光がゆらゆらと揺れている。
「もし、答えを知っているのなら、教えてください」
 そして、遥は逆に俺に問うてきた。
「『願いの叶え方』って……知っていますか?」

  2

「黒瀬魁人君。あなたは中学生の時の記憶があやふやなんですよね?」
 固まっている俺に、さらに遥の声がかけられる。
 ずっと仕事で家にいない両親にもすら伝えていない俺の秘密を、彼女は知っていた。
 俺の中学生時代の時の記憶は、断片的にしか残っていない。中学校に入学し、文化祭や体育祭は適度に楽しみ、修学旅行にも行き、そして卒業したことは覚えている。だが、自分は誰と仲が良かったのか、誰と毎日を笑いあったのか、はたまた、誰を恋したのか。そう言った、思い出の中心として心の中に残るはずの物事が、まったく思い出せないのだ。
「どうして……そのことを?」
 驚きを隠せぬまま問う。少し声が震えてしまっていた。
「知りたいですか?」
 俺を試すような口調と表情で、遥は尋ねてくる。俺としては非常に知りたい。だが、突然のことに驚愕する気持ちや小さな恐怖が心の中で絡み合い、素直に頷くことができない。
「仮にあなたがここで頷いたとしても……」
 しかし、そんな俺を無視して遥は続ける。斜めから差していた光は、だんだんとその存在感を失わせつつあった。
「わたしは今、あなたにその理由を教えることはできません。申し訳ありませんがね」
 そう言って苦笑した。
 俺は彼女から目を離すことができない。硬直している俺を見て、少女は不思議そうに小首を傾げていた。その表情に冗談やからかいの色はなく、俺だけが時の流れに取り残されたような、そんな恐ろしく寂しげな孤独を感じさせられた。
 ただ、彼女が問うてきた内容などを考えると、俺の不思議な能力について少なからず何かを知っているのではないか、という考えも浮かんできた。だが、そう仮定すると、いよいよ遥が何者なのか分からなくなってくる。揺るがない、静かな瞳を携えて俺を見つめているこの小さな女の子に、果たして何ができるのだろうか。
「それよりも、です。さっきの質問に答えていただけますか?」
 俺の下から、顔をまっすぐ見上げる形で再び遥は問う。
 俺の答えは決まっている。世界の摂理を無視する形でも構わないのならば、俺は「考えるだけ」と即答するだろう。それが俺にとっての事実なのだから。そうするだけで、大半の事は解決できるのだ。しかし、今は馬鹿正直に告白する場面ではないように感じられた。遥の存在に興味はあるし、自分の能力について知りたいのもまた事実だが、正体がはっきりとわかっていないこの状況で明かすのは少し怖かった。何かに利用されるかもしれない。どこかに連れて行かれるかもしれない。そんな妄想に近い想像が、俺の脳裏をよぎる。だから、俺は一瞬考えるそぶりを見せ、遥に向き直る。
「……さぁな。俺にはそんなスケールの大きいことはわかんないよ。七夕になったら短冊に願いを書いて、笹にぶら下げるぐらいじゃないか?」
 俺の返答を聞いて、遥は意外だとでも言いたげに目を丸くする。彼女の片足が、僅かに後ろに引かれる。だが、すぐにそれらは消され、ふっとピンク色の頬を緩ませた。
「そうですか」
 左手をゆっくりと胸の前に置き、どこか嬉しそうな表情で頷いた。


 *

 それは唐突だった。
『……ぇ、…………は?』
 俺は飛び起き、慌てて周囲を確認する。ここは俺の住居。両親が近くにいないため、俺一人で生活しているアパートの一室だ。ところどころ燻ったような色をしている壁に見降ろされながらうとうとしていると、小さな声が聞こえてきたのだ。周りの住人の声かと思ったが、声が聞こえてくるような範囲には女の子などいなかったはずだ。その声は、俺よりも遥かに年下の女の子のものに聞こえた。
 一度深呼吸して、再びその声が聞こえないか、耳を澄ます。しかし聞こえてくるのは、建物の前の小さな道路を走る乗用車の音と、どこかの部屋から漏れ聞こえるバラエティー番組の笑い声だけだった。それに、先ほど聞いた声は蚊の泣くような声だった。注意したからといって、再び聞くことができるかどうかは分かったものではない。
「何なんだ、一体……」
 今日は、天月遥とかいう変な子に出会ったりして、いつもとは違う一日を送った。その疲れで幻聴を聞いてしまったのかもしれない。俺はそう結論づけるが、奇妙なことが起こったという形のない恐怖が、背中をゆっくりと這っているような感覚に襲われる。俺は一つ身震いをして、強引にでも眠ろうと目を固く閉じた。頭上で眩しく光る電球のせいで変色して映る闇の中で、俺はいつの間にか浅い眠りに就いていた。

 3

「この度、親の仕事の都合でここに来たため転入することになりました、天月遥です。よろしくお願いします」
 数日後、なぜか遥は、俺の通う学校に転入することになった。俺のこの能力のことに関与しているのではないかと勝手に思い、正直なところ、彼女に対しての小さな興味は今も薄れていない。だが、突然のかわいい女子の転入に色めき立つ男連中の中には混じらず、俺は自席で身じろぎひとつせずにいた。今日は私服ではなく、学校指定の制服を着用しているために以前とは異なる印象を受けるが、紛うこと無きあの天月遥だった。壇上に立つ彼女は初めて会った日と変わらず、淡々と自己紹介をやってのけた。先生に指定された席へ向かう途中、一瞬だけ目が合ったような気がしたが、遥は俺の存在に気づいていないのか特に何も反応することなく、ゆっくりと歩いて通り過ぎていった。
「あの子、かわいいなっ。後で話しかけてみようぜ、魁人。……魁人?」
 隣に座る男が小声で誘ってくる。しかし、俺の様子が変なのに気付いたのか、すぐに心配そうな表情に変わる。
「あ、あぁ、そうだな」
 焦るような気持ちで満ちている心を悟られぬよう、必死に平静を繕って返答する。ちらりと遥の席に視線を向けると、早速、周りの席の女子たちから挨拶されている最中だった。だが、当の本人はというと、それに答えるわけではなく、対応に困ったように苦笑を浮かべているだけだった。きっと、放課後カラオケに行こ、とか半ば強引に誘われているに違いない。雰囲気から考えるに、遥は、みんなと騒いだりするのはあまり得意ではないような気がした。全く、これだからうちの女どもは……と、囲まれている遥を憐れに思って嘆息する。
 チャイムが鳴ってもしばらく、喧騒は治まらなかった。一時間目の授業の担任教師が怒鳴るまで、それは続いた。


 昼休みまでは、遥はクラスの面々に囲まれていた。俺も、その渦中に入らないか、と数人から誘いを受けたが、全て断っていた。しかし、熱しやすく冷めやすい奴らは、すぐに遥に対する興味を失った。遥が素っ気ない女であるが故に自分たちの要望に応えてくれないことに対して、不満を覚えたのだろう。五時間目が終わるころには、遥は席で静かに読書をするだけの、一人ぼっちな少女になっていた。俺を最初に誘ってきた隣の席の男も話しかけに行ったみたいだが、直後の授業中に、「あの女、つまんねぇわ」と囁いてきていた。
 授業中も、遥はずっと静かに授業を聞いていた。生徒の笑い声と教師の怒鳴り声が混じり合う頭の痛くなる授業でも、自分だけはそこから切り離された場所にいるかのように、澄ました表情を浮かべていた。
 そうしていろいろなことが起こった時間は流れ、放課後を迎えた。みんながそれぞれの時間を過ごす中で、遥は、ブックカバーをかけた文庫本の字をずっと追っていた。十五分も経つと、教室内には俺と遥以外、誰もいなくなる。それでも彼女は、本の中の自分の世界に入り浸っているようだった。
「なぁ遥」
 静かな教室で、ページを捲る音と俺の声が重なる。俺は、この時をずっと待っていた。みんながいる中で奇妙な会話をするのは、少々気がひける。一度、二人でゆっくり話し合いたかったのだ。
 遥も、俺の声が届くなり栞を取り出して挟んだ。静かに本を閉じ、俺の方を向く。
「なんでしょうか」
 無表情な瞳に見つめられる。そこに僅かな躊躇いを覚えつつも、問いかける。
「今更ではあると思うが、お前は俺のことをずっと付け回していた、あの天月遥なんだよな? 間違ってないよな?」
「当たり前じゃないですか。それがどうしたんですか、黒瀬魁人君」
 この歳で、一たす一が二であることを確認した後のような視線を向けられる。
「いや、それにしては俺を見た時の反応が素っ気ないものだったからな。ずっと追いかけていた奴が同じクラスにいるのに全く驚かないもんだから、もしかしたら同姓同名で、容姿も似た人なのかなーって考えてたんだ」
 俺がそう告白すると、遥はようやく、微かではあるが可笑(おか)しそうに口元を綻ばせて笑った。
「何ですか、それは。『天月』って珍しい名字ですし、髪型とか全く変えてませんよ。考え過ぎです」
 きっと日本中を探しても数えるほどしかいません、と遥は一呼吸吐いてから言う。
改めて俺は彼女を見る。教室内に降り注いでいる陽光に、煌めく長髪が揺れている。
「黒瀬君、話しかけてくれたついでに頼みたいことがあるのですが」
 そこで遥は少しだけ声のトーンを落とした。何だろう、と俺も気を引き締める。
「この学校の案内をしてくれませんか?」


 俺は帰る準備だけ整えて、遥を待つ。設備の案内を受けていないのか、と俺が尋ねると「あの時はペースが速すぎてゆっくり見られなかった」との旨を伝えてきた。俺も、学内で教師が生徒を案内するような姿など全く確認していなかったので、きっと適当に終わらせたのだろう。急な転入生に、教師が多くの時間をさくとは思えない。
「お待たせしました。じゃあ、行きましょうか」
 学校指定の鞄を持ち、遥は俺の横に並んで歩く。一部の教室には、わざわざ残ってお喋りに興じている女子や、逆に、真面目な顔つきでノートを開いている生徒もいた。それらから、なんとなくこの学校の雰囲気を感じ取ってもらいたいと思い、ゆっくりと廊下を歩く。俺に添うかたちで歩いている遥の足も、自然と遅くなる。
「遥は、ここがどんな学校か、って言うのは大体わかってるのか?」
 遥は学校の敷地には侵入しているが、校舎の中までは入っていないはずだ。確認のために訊いたのだが、遥はすぐに首を縦に振った。
「はい。ですが、本当に何となく、です。別段、優秀な進学実績を誇っているわけでもなければ、就職実績があるわけでもない。一部の部活がちょっと良い結果を残しているくらいで、怠惰に高校三年間を過ごそうとするような人たちが来るところですよね?」
 後半は小声だった。さすがに不躾だと思ったのだろう。
「……ま、そんなところだよ」
自分の通っている学校を貶されると、いくら愛着が無くても多少は怒りの気持ちが込み上げてくるものだが、事実なので何も言い返さない。ちょうど今も、ファンデーションを派手に塗りたくったような頬をした女子生徒たちが、甲高い声をあげながら過ぎていった。この学校では、遥のような、清楚で化粧っ気のない生徒の方が少ない。その中には、なぜここに来たのだろうと疑問に思うような秀才もおり、そんな人物からはとても地味な印象を受けるのだが、遥からは全く感じ取れなかった。磨かなければ光らないようなものではなく、磨かずとも美しい。それが天月遥という少女だ、と思った。
「でも、校舎の中に入ったことはなかったんです。昨日、先生方から校内の簡単な案内を受けた時が初めてでした。外から見ていた時は、結構汚れてるのかな、とか考えていたんですが、案外そうじゃなかったですね。想像以上に綺麗です」
 教室の中に並ぶ机や、手を伸ばせば簡単に手がつくであろう壁を見つめながら、優しげな声と共に歩く。俺から言わせれば、決して綺麗とは思えないのだが、遥にはそう映るのだろうか。
 俺たちの教室がある、本館と呼ばれる校舎は三階建てで、そこは只々、無感動な教室が並んでいるだけだ。俺たち二年生は二階を、一年生は一階、そして三年生は三階、というシンプルな配置になっている。ちなみに、家庭科室や音楽室といった特別教室は、特別棟と呼ばれる別の校舎にある。今頃、吹奏楽部が奏でる重い音を吐き出していることだろう。
「……とまぁ、俺たちの教室の周りの案内はこれぐらいだ。ほかのところにも行ってみるか?」
 俺が訊くと、はい、と彼女の声が返ってくる。
 特別棟へと向かうべく中庭を歩いていると、以前のあの言葉について尋ねなければならなかったんだな、とふと思いだす。今なら周りに人もいない。
「なぁ、遥――」
 はい? と遥は俺に顔を向ける。しかし、それを見て、不覚にも俺は次の言葉を呑みこんでしまった。遥は、純粋に、心から今の状況を楽しんでいるような笑みを浮かべていた。本人は決して表に出しているつもりはないのだろう、それは若干控えめなように映るが、少なくともクラスでは一度も見せていなかった表情だった。学校をまわることがそんなに楽しいのだろうか、それともほかに理由があるのだろうか。ただ、場違いな質問で彼女の笑顔を崩すほどの勇気を、俺は持ち合わせていなかった。
「黒瀬君? どうしたんですか?」
 笑みの傍らに不思議に思う表情をのぞかせ、俺を見る。
「いや……何でもない」
 遥の視線から逃げるように顔を逸らす。腑に落ちないと言いたげに首を傾げている遥に見つからないように、そっと諦めのため息を吐く。前方を見やると、俺を置いて先に進み始めた遥の背中が目に入った。その後ろ姿からは、入学式を終えた後の小学生のようなあどけない雰囲気が感じ取れた。俺はもう一度息を吐き、駆け足で、ほんのりオレンジ色に染まった彼女の小さな背中を追いかけた。


 特別棟からは、今日も運動部とは違う元気良さで活動する文化系クラブの声が聞こえてくる。吹奏楽部の楽器の音がその代表になるのだが、ほかにも美術部や家庭科部、理科部などが活動をしているはずだ。
 特別棟は本館に比べると、二階建てで決して大きくはない。精々、その半分といったところだろうか。除け者にされたかのように、数多の部活が狭い空間を取り合っているのだ。
「そういえば、遥は何か部活に入る予定はあるのか? 吹奏楽とか、テニスとか」
 言いながら、まっすぐに背筋を伸ばしてトランペットを吹く遥の姿や、テニスウェアを纏って空を舞う姿を想像する。それらはすぐに像を為し、非常に美しく浮かび上がった。
 遥は少し思案するそぶりを見せたが、すぐに顔を上げて「いえ、その予定はないですね」と否定した。
「触ったことのある楽器はリコーダーとトライアングルぐらいですし、運動は嫌いじゃありませんが、部活に入ってまでやりたいとは思わないんですよ、わたし」
 そっか、と簡単に返す。
「今はいろんな部活が活動してると思うが……。一応見ていくか? 興味がないならもう帰ろうかなと思うんだけど」
「……折角ですし、教室だけは見ておきたいです」
 俺は頷き、校舎の中に入る。
 本館と変わらぬ、クリーム色が黒ずんだ色をしている壁を両手に進む。美術室、理科室、技術室が一階、家庭科室や音楽室、パソコンルームが二階に位置している。
 狭い校舎内に高く響く合奏の音。理科部の謎めいた実験結果のレポート。家庭科部の女子たちの黄色い声。それらを一身に受け、俺たちは歩く。
「ここの吹奏楽部は賞とか貰ったこと、あるんですか?」
 少し声を張って遥は尋ねる。
「いや、特にそんなことは聞かないな。文化祭とか定期演奏会では合奏してるけど、コンクールではあんまり勝ち進んではいないようだ」
 微かな記憶をたどりつつ、俺は簡単に説明する。俺には吹奏楽の知識はないので専門的なことはわからないが、幼いころから吹奏楽を嗜んできたというある部員の話によると、部内の人間関係があまりよろしくないらしく、それが成長しない原因だとのことだった。吹奏楽は技術だけじゃ駄目だ、やはり団結力がないと上手な演奏はできない。その女子は、そう熱く語っていた。
「なるほど……。わたしにはそうは聴こえませんけどね」
 遥も俺と同様らしく、流れてくる旋律に身を委ねるように耳を傾けていた。小難しいことは考えずに、音を楽しめるというのは非常に気分のいいものだ。音にもさまざまな音があるが、聴いていて心が安らぐ音というのは、ごまんとある。気づいていないだけで、身近にも掛け替えのない存在になるものがきっとあるはずだ。
「じゃ、次行きましょうか、黒瀬く――」
「あれっ? 先輩、こんなところでどうしたんですか?」
 続きを促す遥の声を遮って、聞き覚えのある明るい声が響く。その方を振り返ると、両手にスーパーの袋を持った小柄な女の子が立っていた。肩が隠れるくらいの位置でカットされた淡く茶色がかった髪が、彼女が静止したときの反動で揺れ、大きな栗色の瞳が俺を映している。袋の中にはニンジンや玉ねぎ、ジャガイモなどの食材がごろごろと入っており、もう片方の袋には、なぜかクッキーの材料や型抜きが入っていた。
「先輩? おーい、せんぱーい! 聞こえてますかー? もしもーし!」
 遥よりもさらに五センチほど小さい身長を目いっぱい伸ばし、少女は俺に呼びかけてくる。大きな声で休む間もなく叫んでくるので耳が痛い。もはや体験し慣れたシチュエーションであるため、俺はやれやれといった表情でその声を制した。
「わかってるわかってる、聞こえてるから。そんなに呼びかけてくるな、璃子」
 なんだ、聞こえてるじゃないですか、と背伸びしていた少女――宮下璃子――は重そうな袋を揺らし、ぱたんと音を立てて浮かせていた踵を床に戻した。
 璃子は、俺の一つ下の後輩だ。両手に持っている袋の中身からも想像がつく通り、料理が得意ということで、家庭科部に所属している。入学してからまだ二か月も経っていない彼女は、先輩である俺に臆することなく、なぜか執拗に関わろうとしてくる。能力のせいかと初めは思ったが、ほかの後輩たちは俺に興味など全く示さない。璃子が同級生に俺の話をしているのを偶然見かけたことがあるのだが、相手の子は「誰それ?」と言いたげな視線を彼女に向けていた。つまり、俺にとって璃子は、「謎の後輩」という存在なのだ。
「それで? 先輩はどうしてこんなところに来てるんです? ……まさか、家庭科部に入部ですか!? 先輩なら大歓迎ですよっ!」
 棟内に響き渡る全ての音声を凝縮させたような大声で話しながら、璃子は目を輝かせる。こいつはいつも元気だなー、と半ば呆れながら、やんわりとした対応で落ち着かせる。
「いや、そんなんじゃないから。俺が料理とかできると思うか? 仮にできてたとしたら、もっと早くに入ってるよ」
 俺が答えると、璃子は「やっぱり」と苦笑して、やや声のボリュームを落として問う。
「でも、だったら本当にどうして? あと、そっちの女性は? 初めて見る方だと思うんですけど……」
 突然の来訪者に困惑している様子の遥に視線を向けて、璃子は尋ねる。折角なので、こいつに紹介しておくのも良いかもしれない。遥としても、後輩ができるのは悪いことではないはずだし、男の俺にはできないことも多くある。その時に璃子は、大きな力になってくれるだろう。
「彼女は天月遥。今日転入してきて、俺がいま学校の案内をしてるんだよ。その過程で、この校舎に来たってわけ。あ、言っとくけど、彼女とかじゃ――」
「え、もしかして、彼女さんですか!?」
 言おうとした矢先に、璃子の高い声が邪魔をする。
「……お前は人の話を最後まで聞くことを学ぼうな」
 ため息を吐きながら、頭を軽く叩く。あたっ、とオーバーリアクションを示した璃子はいたずらっぽく笑みを浮かべて俺を見上げてきた。
「わたしたちはそんな関係じゃないですよ。改めまして、天月遥といいます。よろしくお願いしますね、えっと……宮下さん」
 一歩前に出て遥は手を差し出す。璃子は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにそれを崩し、その手を握った。
「天月…………天月遥先輩ですね。宮下璃子です。よろしくお願いします」
 二人の間には、普通の先輩と後輩が放つ空気が流れているように感じた。これから過ごす数年という時間を共に過ごす誓いの印として、二人は手を握り合っている。しかし、後になって考えれば、この時、璃子は既に気づいていたのかもしれない。遥の名を呼ぶときに一瞬詰まったのが、その証拠と言えるだろう。


「おっ……これ、結構重いな。こんなのをずっと持ってきたのか?」
「ふふっ、こう見えても私、体力はありますからね。これぐらい持たされるのは日常茶飯事ですし。手伝ってくれてありがとうございますね、先輩方」
 その後、僅かな距離ではあるが、璃子の荷物運びを二人で手伝うことになった。華奢な体で荷物を運ぶ彼女を置き去りにするのは少し憚られた。それに、いくら生意気な後輩だとしても、年下の女の子であるということに変わりはない。先輩風を吹かしたいと思った俺の我儘も、そこには含まれている。
 しかし、その袋は俺の腕を縛り付けるような重さで、しばらくはまともに歩くこともできなかった。果たして、あの小さな体のどこに、これを数十分持って歩くだけの力が宿っているというのか。俺が疑問に思っている最中、璃子は俺を見て小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
 先頭を比較的軽い方の袋を持った遥、俺を挟んで、しんがりは璃子という並びで特別棟を進む。遥は両手でビニール袋を持ってはいるが、その足取りは軽く、俺を置いてどんどん先へ行ってしまう。やがて階段へと彼女の姿は消え、橙色の霞んだ光だけがその場所から漏れた。
「ホラ先輩、急いで!」
 後ろから急かされ、急ぎ足で階段へと向かい、その勢いのまま数段昇る。
「……うわっ!」
 踊り場の上に備え付けられている窓から、鋭い光が容赦なく差し込んでいた。それを真正面から受けてしまい、思わず目を背後に向ける。その時に、後ろの璃子の姿が目に入ってしまった。
「……え?」
 俺が上げた声は、部活動の音によって消されるほどに小さく、また呆けたようなものだった。
 璃子が、俺を貫くような眼差しで睨んでいた。しかし、その標的は俺ではない。璃子の瞳には、俺など映っていない。まさに、文字の如く俺を射抜いて、その先を――俺と同じく眩しさのために目のあたりを片方の手で覆っている遥の姿を――捉えていた。
 遥がそのことに気づいている様子はない。日光から逃れようと足早に通りすぎたので、すぐに俺の視界からも消えた。璃子はそれでも、その険しい表情を崩そうとはしなかった。間もなく太陽が雲に隠れ、明るさは失われてゆく。橙に染められていた世界は眩い色彩を失うが、その代わりの明りが戻ってくる。ようやく俺の視線を感じ取った璃子は慌てながら破顔し、いつもの天真爛漫な笑顔へと変化させた。その後は二度としていつもと異なる表情を見せることはなく、俺が知る璃子と何ら変わらなかった。だが、俺の記憶を荒らすかのように彼女は蝕みを続ける。笑顔を浮かべていても、幻がそれを塗り替えているように、俺には感じられた。


 璃子を家庭科室まで送った後、俺たちは既に人の影がまばらになった校内を、何をするでもなく歩いていた。本館まで戻ってくると、先ほどまで話に花を咲かせていた女子たちも姿を消しており、誰かが閉め忘れた窓から入り込んでいる風が、色の抜けたカーテンをふんわりと揺らしていた。
「あの子……宮下さんって、元気で面白そうな子ですね」
 彼女の明るい笑顔を思い浮かべているのか、遥は温和な表情を浮かべてそう口にする。
「あ、あぁ……。そうだな」
 しかし、先ほどの表情を見てしまった俺としては、複雑な気持ちだった。あのような璃子の表情は始めて見た。常に笑顔を振りまいているような奴なので、きっとクラスでも部活でも、周りを和ませる存在であるのだろう。だから、璃子の怖い顔など想像したこともなかった。
「元気なのは良いことなんだけどな。いっつもあの調子だから、ずっと話していると疲れてくるんだよ。なんていうか……どれだけ遊んでも吠えるのを止めない子犬みたいでな」
「……子犬、ですか」
 俺は、彼女とは目を合わせずにそう続ける。それに同意するように、遥はクスリと笑った。
「わたしは……人と接するのがあまり得意ではないのですが、なぜかあの子となら、少しは仲良くなれそうな気がします。黒瀬君の言うとおり、子犬みたいですね。つい頭を撫でてしまいたくなるような」
 遥の、心の底から璃子との出会いを喜んでいる姿を見ると、それに水は差せなかった。俺が何も答えずに黙っていると、遥は少し歩く速度を遅めた。窓から下を覗けば、黒みがかった中庭が見える。風が吹くと水が流れるように形を変える芝生を眺めながら、遥はまさにその小さな風のごとく囁いた。
「あの子とは仲良くなれそうな……そんな気がするんですよ」
 繰り返しつぶやかれた「仲良くなれそう」。遥にとって璃子はどのような存在になったのだろうか。出会ってからまだ数日しか経っていないこの少女は、すでに俺の知らない世界へと誘われているような気がしてならなかった。


「今日はありがとうございました」
 二人で並んで校門まで歩いていくと、遥はそう丁寧にお辞儀をした。
「いや、いいって。気にすんな。遥は電車通学か?」
「いえ、わたしは歩きです。大体三十分ぐらいかかりますね。黒瀬君は?」
「俺も歩きだ、……っていうか、知ってるんだろ? ずっとストーキングしてたんだから」
「……まぁ、そうですね。それよりもストーキングって何ですか、わたしはそんなことした記憶はありませんよ」
「間違ってはないと思うんだがな」
 遥は苦笑を浮かべている。試しに、と俺は冗談を言ってみたのだが、案外遥は快く対応してくれた。遥の事だから、冷たい表情で「はい? 何言ってるんですか。馬鹿ですか?」とか言われたらどうしよう、と内心では少しおびえていた分、安心した。
「そんなことよりも、黒瀬君。ついでなので、途中までで良いですから、町の案内もしてくれませんか?」
「まぁいいけど。お前の家ってどっちの方向なんだ?」
 遥が指さす方は、俺の家の方角とほぼ同じった。恐らく、途中まで一緒に帰ることになるだろう。
「わかった。じゃあ途中まで案内するよ。まぁ、大した物はないけどな」
 遥と並んで歩く。俺には、過去に彼女がいたことはない。そのため、小説などで得た、女性への気遣いなどを思い出しながら、ゆっくり歩く。ふと思ったのだが、遥に彼氏がいたことはあったのだろうか。風貌は、そこいらの女子高生とは比べ物にならない程に美しいが、性格や他人との接し方に難がある。一目ぼれをすることはあっても、内面を知って、すぐに冷めてしまうのではないだろうか。
「なぁ遥。お前って、彼氏とかいたことあんのか?」
 遥の眉がぴくりと小さく動く。そして、少しだけ顔の角度を下げた。
何気なく尋ねたことだったが、遥は俺の想像以上に表情を曇らせた。
「あ、いや……訊いちゃいけないことだったか。スマン……」
 俺が慌てて謝ると、遥は瞳をわずかに持ち上げた。そこには優しさが、けれどもそれ以上の寂しさが浮かんでいた。
「いえ、別に訊いちゃいけない、ってことは……ないんですが。その……ちょっと説明が面倒でして」
表情は相変わらず冴えないが、それは「聞いてほしい」と言っているように俺には思えた。勘違いでないことを祈りつつ、俺は話を続ける。
「それでもいいから。ゆっくりでいいし、話せる範囲で教えてほしい」
 そうですか、と安心したように顔を綻ばせる。
「結論を初めに言ってしまいますと、わたしに彼氏がいたことはあります」
 ほぉ、と俺は少し驚き混じりの相槌を返す。しかし、口は挟まずに、続きを促す。
「その彼とは、中学二年生の時に恋仲になったんです。わたしは、その時も今と変わらず、良く言えば穏やか、悪く言えば周囲に無関心な友達甲斐の無い女子で、周りから浮いていました。いじめられている、とかはなかったんですが、校外学習の時のバスで隣の席の人がなかなか決まらなかったり、席替えで同じ班になると嫌な顔をされたり、と傍から見れば、決して充実しているとは言えない学校生活だったんです。でも、わたし自身はそれを苦には思いませんでした。わたしの唯一の趣味が読書でして、本を読んでいれば現実からも逃避できて、その世界の主人公になりきることができました。わたしにとっては、小説の中がわたしの本当の世界でした」
 俺も読書は好きだ。理由は遥とそう変わらない。一時的とはいえ、現実のことを忘れることができる。自分が主人公になれるのは、俺にとっても小説の世界だけだった。
「恋愛小説も多く読みましたよ。特にわたしは嫌いなジャンルはないので。イケメンな主人公のセリフにわたしがときめくことも……多くはなかったですけど、ありました。けれど、現実の恋には特に興味が持てなかったんです。小説で、二人が順調に恋を育んでいくのは、それが設定だから。設定が無い、ゼロから始める現実の恋には、少し怖く思う気持ちがあったんです。クラスでもカップルが成立したことは何度もありましたが、できては別れを何組もが繰り返していました」
 中学生の恋は、なかなかうまくいかないものなのだろう。経済的な問題や、進路の問題など、若い恋人を悩ますには十分すぎる要素がある。
「けれど、そんなわたしに話しかけてきた男子がいたんです。予想できると思いますが、それまで、わたしは男子とはもちろん、クラスメイトの誰ともろくな会話をしたことがありませんでした。その子も読書が好きで、わたしがどんな本を読んでいるのか知りたい、と。……確か、初めて話しかけられたとき、そんなことを言われたと思います」
「その時は、どうしたんだ?」
「その男子に対して、特別な感情を抱いていたわけでもないので、いつも通り、普通に接しました。ほかの人と接するときと同じように。まぁ、かなり冷たかったと思いますよ。この子も、きっと出来心でわたしに話しかけてきたのだろう、だから、すぐにわたしに対する関心など消えるに決まってる……。そう思い込んでいました」
 当時を思い出すように、薄暗い空を見上げながら話す。後ろから来ては追い越していく車のヘッドライトが、彼女の頬を白く照らす。
「でも、その子は何度も何度もわたしに話しかけてきたんです。話題は些細なことがほとんどでした。わたしと話すためだけに見つけ出してきたような、無理やりな話題を振ってきたこともありました。そのうちに……何といいますか……。わたしの中の彼に対する認識が変わり始めたんですね。少しずつ、彼と話すのが楽しみになってきてしまったんです」
 人というのは単純なものです、と遥は少し悔しそうに笑う。
「それから間もなく、彼がわたしに告白してきました。わたしは少し迷いましたが、結果的にオッケーし、お付き合いをすることになりました。それは一年ほど続いたのですが……。中三の夏に、ある事件が起きたんです」
「……事件?」
 ふと聞こえてきた不穏な単語に、思わず俺は聞き返す。遥はやや苦しそうにしながらも、言葉を選ぶように、もしくは自らの傷を抉(えぐ)らないようにか、ゆっくりと話し出した。
「夏の日に、お祭りに行ったんです。七夕が近くなったら行われる、『七夕祭』」
 七夕祭とは、この町で毎年行われる夏祭りだ。花火の打ち上げはもちろん、屋台も結構な数が軒を連ねる。
「……ん? でもお前、親の用事で引っ越してきたって……」
「あれは嘘です。詳しくはお話しできませんが、適当に述べた理由にすぎません」
まぁ、言われてみれば納得だ。ずっと視線を受けていたのだから、急にこの町に来たというわけではないはずだ。
「そのことはまたいずれ……。今はその話ではなくてですね」
「……あぁ、話の腰を折ってすまなかった。続けてくれ」
 こくん、と遥は頷き、再び小さく口を動かす。
「じゃあ、続けますね。……もちろん、七夕祭には彼と一緒に行きました。過去に読んだ小説にも、恋人同士がお祭りに行って屋台を楽しんだり、花火を眺めながら静かに過ごしたり……そんなシーンがあったので、わたしは密かに期待していたんです。結果的に、彼は期待にきちんと応えてくれました。そしてその後、高台に上ってみよう、という話になったのですが……」
 祭り会場から少し歩くと、見晴らしの良い高台がある。そこは、天気の良い日に行くと満天の星空が見える、恰好のデートスポットとなっていた。
「その途中の坂道でですね――」
 最後の部分が聞き取れなかった。他校の男子生徒たちが、遥のか細い声を掻き消すほど大きな笑い声を立てながら横を過ぎていったからだ。夜の静寂が再び訪れた時には、遥は既にその口を閉ざしてしまっていた。きつく真一文字に結ばれたその唇は、これ以上は話さない、という意思表示のように見えた。
「……ほんと……後悔してもしきれない――けほっ」
 悲しそうな顔を虚空に向けた時、遥は突如苦しそうに体をくの字に折った。それから、何度も咳き込む。
「お、おい、大丈夫か」
 軽く背中をさすってやる。しばらくして咳は止まったが、遥は苦しそうに荒い呼吸を繰り返しながら、俺を見上げてきた。
「……は、はい。ちょっと古傷が痛みまして……。こんなこと、誰かに話すことなんてずっとありませんでしたから……」
 俺の顔を前にして、一層辛そうな色を濃くさせて答える。
「とりあえず、何か飲み物でも飲むか?」
「……よろしくお願いします」
 遥が取り出した百円玉を受け取り、俺は近くの自動販売機へと走った。


 児童公園のベンチに二人で座る。俺が購入してきたスポーツ飲料を受け取ると、少し落ち着きたいから、と遥の方から誘ってきたのだ。
 闇とも言えぬ、奇妙な薄暗さを保った黒が、子どもたちのいなくなった公園を包み込んでいる。明るい時間帯なら、小学校から解放されたちびっ子たちの秘密基地のような場所になっていることだろう。しかし、その賑やかさを失った公園は、不気味なほどに孤独を感じる場所だった。
「……静か、ですね」
 車も多くは通らない道に面している公園だ。灯りも、今にも切れそうな電灯が二つあるのみで、それが一層寂しさと虚無さを際立たせている。俺たちが呼吸をする音と、時々遥が口にする缶ジュースの音がするだけだ。みんなが普段生活している場から隔離された世界のようで、俺たち二人しか存在していない気さえする。
「あぁ、そうだな」
 夜空を見上げながら頷く。今日の空には、少しではあるが、星が確認できた。遥がその時見たという星空は、果たしてどのようなものだったのだろうか。彼氏と見ているのだから、きっと天も味方してくれていたことだろう。
「逆にお聞きしますが、黒瀬君に彼女がいたことはありますか?」
「ないよ。何でそんなこと訊くんだ?」
「単なる興味です。それに、わたしは彼についていろいろ話したんです。黒瀬君もお話しするのがマナーかなと思いまして」
「期待に応えられなくて悪いな」
 いえ、と遥は首を振る。
「では、彼女が欲しいと思ったことはありますか?」
 ない、と言えば嘘になる。しかし、能力を手に入れるまでは、俺は完全に孤独な人間だった。そんな俺と恋仲になってくれるような人はおろか、友人と呼べるような異性もいなかった。だから、諦めていた、というのが正直なところだろう。
「ちょっと積極的になってみたり、学校以外での出会いを求めてバイトとかも始めてみたりしたけど、どれも空回り。正直、学内に興味を持てるような女子もいないしさ、今は考えないようにしてるよ」
「そうですか」
 遥が頷き、沈黙が再び落ちる。仄かな光が俺たちを包み込んで照らしている。月光ほどに自然な灯りではなかったが、どこか安心できる光だった。
「では……もし理想的な女の子に出会ったら、告白とか、したりしますか?」
 暫し思案する。まず、そんな子が俺の前に現れるだろうか。心許ない光が、生きるように彼女の瞳の中で揺れ動いていた。
「わかんないな。でも……するかもしれない」
 俺がそう答えると、遥はベンチから立ち上がった。公園のごみ箱に空き缶を捨て、俺を横目でちらっと見てから言う。
「心配しなくても、黒瀬君は良い人です。たくさん話せて、わたしは楽しかったです。今はあなたの近くにいなくても、あなたにとって特別な人は、この世界のどこかにいます。頑張って、その人と巡りあってください」
 そう微笑を携えて告げ、「今日はありがとうございました」と一人で歩きだす。俺はその背中を追うべきだったのかもしれないが、華奢な背中は俺から逃れるように歩みを速め、間もなくそれは駆け足に変わった。残された俺は、先ほどの遥の言葉を反芻しながら、寂寥感が漂う公園の中にただ一人、立ち尽くすことしかできなかった。


   4

 遥が転入してきて数日が経過した。クラスの雰囲気に、彼女がやってくる前との差は殆どなく、日常を保っていた。クラスの大半の奴らが、休み時間と授業時間の境目が無いように騒ぎ、放課後を部活動や、ゲーセンで過ごすために費やす。そんな何一つ変わらない毎日が過ぎていた。
 そして遥は、いよいよ孤独の色を深めつつあった。転入初日に、クラスメイトから距離を取る態度をみせてはいたが、しばらくの間は、躊躇いがちにも遊びに誘う女子の姿が確認できた。しかし、やはりと言うべきか、遥はそれらの誘いを一蹴するがごとく全て断り、誰とも深くかかわろうとすることはなかった。過去に想い人がいたとは思えないほどに、人を拒む姿勢を見せていた。いや、大切な人と離れてしまったからこそ、かもしれない。
 毎日、茶色のシンプルなブックカバーをかけた文庫本を自席で読み続け、周囲の喧騒に一瞥(いちべつ)もくれることなく、自分の世界を保っていた。俺とは時々会話はするが、公園で語った日のように、何かについてずっと話すということは無くなっていた。俺の周りでも変わらぬ『いつも』が流れていく中で、彼女もまた、彼女にとっての『いつも』を取り戻しつつあった。
「ホラ魁人。移動教室、遅れるぜ」
 次の時間は特別棟の教室での授業だった。クラスメイトに急かされ、教科書を片手に急いで教室を出る。待っていてくれた彼に軽く謝罪して、歩き出す。遥は、そんな俺の数メートル後ろを歩いていた。まるで、入学当初の俺を見ているようだ。当時の俺は、移動教室が好きではなかった。みんながゆっくりと目的の教室へ向かっている中、その間を縫うようにすり抜けていくのは辛く、寂しかったが、同時に悔しくもあった。俺にも、一緒に並んで校内を歩ける友人がいたらいいのに、と幾度となく思った。遥は決して急いで行くようなことはしないが、独りであることに変わりはなかった。恐らく文庫本が入っているのであろう、上着のポケットだけが彼女の孤独を癒している。少し視線をずらせば、その姿は嫌でも視界に入る。遥は昔の俺ではないのに、異様なまでに既視感を覚えさせる姿をそこに広げていた。
 俺たちが歩く速度をほぼ同じ速度で遥もついてくる。無邪気に話題を振る友人の声が聞こえる。それは、遥の存在を意識しないことを当然と思っているように感じられ、俺は並ならぬ苦しさを覚えずにはいられなかった。


「……何読んでるんだ?」
 翌日の休み時間、相変わらず石像のように固まって読書をしている遥に、俺は思い切って声をかけてみた。遥は文字に注ぎ込んでいた視線を僅かばかり俺の方に向けるが、すぐにそれは元に戻った。その表情にはやや不機嫌そうな色が見て取れる。
「何読んでるんだ?」
 無視されてもくじけず、同じ質問をもう一度繰り返す。それを何度か繰り返した。
「……鬱陶しいです」
 ようやく口を開いた遥が呟いたのは、低く唸るように発せられた言葉だった。数分前と比べ、不愉快に感じる気持ちが明らかに濃くなっている。
「うん、知ってる」
「じゃあ何でそんなにしつこく聞くんですか」
「……何でだろうな?」
 文章を目で追いながら尋ねる遥に、俺はからかいを含んだ笑みを浮かべて答える。それにいよいよ怒りが頂点に達したのか、顔をやや赤らめて文庫本を閉じた。
「……ったく、あなたという人は……っ!」
 椅子から腰を少し浮かせ、解放された右手が固く閉じられる。しかし、その拳は握られたのみであり、わなわなと震えるものの、発せられることはなかった。呆れたようにため息を吐きながら、再び椅子に腰かけた。
「そんなにわたしが読んでいる本のことが知りたいんですか?」
「まぁ、一応な。俺も読書は好きだから、ちょっとは語り合えるかもしれないし」
「……こんなのですよ」
 お馴染みのブックカバーを少しだけ外し、表紙をみせてくれる。読んだことはないが、タイトルは聞いたことがあるようなライトノベルだった。
「ちょっとホラー要素の混じったお話ですよ。変な生き物に襲われて動けなくなったヒロインを男の子が助け出す、っていう。こういったファンタジーっぽい内容も交じった小説は、わたし結構好きです。現実では起こり得るはずのないことが起こるんですから」
 優しい眼差しで表紙を撫でる。だいぶ読まれているのか、所々しわになったり、端っこが少し丸まってしまったりしている。しかし、慈しむように儚げなその手つきに、彼女の想いを感じた。
「ちょっと意外だわ。遥ってラノベとかも読むんだな」
「たくさんは読みませんけどね。前にも言いましたよね、わたしは特に嫌いなジャンルはないと」
「あぁ、覚えてるよ。恋愛小説が好きなのも覚えてる」
 俺の答えに少し照れくさそうに遥は笑む。先ほどの怒りは既に霧散したようだった。こういった乙女っぽいところもあるのにな、と俺は心の中で思う。もう少し自分を出せば、きっとクラスにも馴染めるはずなのに。だが、本人が望まない以上、部外者の俺が口出しをするのも良くない気がする。
「……面白いと思いませんか? この小説のヒロイン、実は一度死んでしまうんですよ。色々あって生き返るんですけどね。そしてハッピーエンドを迎えるんですが」
 ブックカバーをかけ直しながら、遥は言葉の続きを紡ぐ。
「…………現実はそう、うまくいかないものです」
「え、何か言ったか?」
 遥自身が声のトーンを落としたのと、休み時間故の騒々しさのせいで全く聞き取れなかった。前にも同じようなことがあった気がする。
「ほら、もうすぐ授業が始まりますよ。席に戻って」
 遥が促すと同時に、先生が教室に入ってくる。もはや見慣れてしまった哀しそうな表情を浮かべている遥を背に、俺は慌てて席に戻った。


 最後の授業が終わり、ホームルームも終えた俺は、すぐに教室から抜け、下駄箱へ向かう。校内は、ようやく一週間の終わりを迎え、弛緩した空気が至る所に漂っていた。その空気から逃れるべく、俺は波のごとく押し寄せる人たちをかき分け、外へ出る。
 俺がいつも食事をしていたベンチが目に入る。いつも細やかな癒しにしていた緑に映える芝生は、無残にも踏み荒らされている。細長い木のベンチは数人が綱渡りでもするかのようにその上に乗っかり、何やら雑談に興じている。
 あのベンチがいまの俺を引き寄せたのか、俺が引き寄せられたのか。一年以上経っても答えは定かではない。ただ、俺のために用意されていたような気がする。それはあくまで俺の自己中心的な考えにすぎないのだが、あの日、あのベンチに座っていなければ、何かを願うようなこともなかったと思う。非科学的なことをあまり信じない俺が、一本の竹を前に祈ったことが、僅かだが俺の人生に色を塗った。
 だが、何かが足りない気がする。それはいわば、色が塗られただけの絵である。そこには陰影もリアリティもない。作者の想いも全く籠っていない。白と黒、申し訳程度の色彩が施されただけの面で、誰かを感動させることなどできるはずがない。煌びやかに輝いている周りの世界から切り離された俺の無機質な世界を見ていると、言い知れぬ不安に苛まれる。身体じゅうを虫が這いまわっているような不快な感覚だった。
「……黒瀬君、どうしたんですか?」
 そんな俺にかけられた澄んだ声。意識が浮上していくのを感じ、遥の姿を視界内に収める。
「顔色が悪いですが……保健室、行きます?」
「……いや、いいよ。大丈夫」
 小さな手が、遠慮がちに背中を擦ってくれる。
「本当ですか? 別に無理しなくてもいいんですよ。何なら、保健室まで付き合います」
 心配してくれてるんだなぁ、とつくづく感じる。俺の周りには、普段から雑談に付き合ってくれるような人はいても、俺の細かいところにまで配慮が行き届くような奴はいない。現に、このやりとりをしている間にもクラスメイトが何人か脇を通り過ぎて行ったが、俺の調子を気にかけてくれるような人はいなかった。やはり無理やり作ったような友人はこの程度のものなのだろう。
「ありがとう、遥。でも本当に大丈夫だから。ほら」
 俺は勢いよく背筋を伸ばし、元気であることをアピールする。実際、時間が経つにつれて体調は元に戻りつつあった。
 遥は訝しむ目を向けてきたが、すぐに安心したような、でもどこか呆れるような顔つきになり、
「じゃ、帰りましょうか」
 とだけ言ってきた。


「前とは逆のシチュエーションになっちゃったな」
「前……というと、わたしの昔の話をしたときですね。確かに、そうですね」
 苦笑いを浮かべた遥が、俺との開いた距離を埋めるべく小走りになる。
「遥は、週末は何してるんだっけ?」
「わたしは……特にこれといってはしてませんね。読書以外に趣味があるわけでもありませんし……。本読むか、テレビ見るか、適当にネットを彷徨ってるかのどれかですね」
 遥が転入してきてから二回目の休日を迎えることになる。明日の到来が近いことを告げる午後五時の音楽が市内に響き渡る。
「遊びに行くとかはしないのか?」
「残酷なことを訊きますね、黒瀬君は」
 自嘲の混じったため息を吐き、重々しく口を開く。
「友達とか、全くいないんですから、行くも何もないです」
 やけくそに聞こえた。ただ、その苦しさは俺にも判る。結構つらいんですから言わせないで下さいよ、と拗ねたような声で遥は言う。
「いや、悪い。でも、今日ちょっと思ってな」
 何をですか? と小首を傾げて遥は問う。
「余計なお世話かもしれんが、お前はもっとオープンになれば友人とかすぐにできるんじゃないか、ってな。確かに趣味は読書だけかもしれんけど、うちのクラスにだって本が好きなやつはいるし、ほかのクラス、学年まで視野を広げたら、ごまんといる。もっと雰囲気を柔らかくすれば、それこそ休日に一緒に遊びに行ける友達ができると思うぞ」
 それに美人だし、と心の中で付け加えておく。セクハラ扱いされたら辛いし、何より恥ずかしい。口には出さずにとどめておいた。
 遥は何やら考えるように俯いている。顎に軽く指を当て、無言で地面を睨んでいる。
「それにさ、休み時間に俺が話しかけた時、お前は怒っただろ? あれに関して、わざとやったのは認めるし、すまなかったと思っている。同じことされたら、俺だって多分怒るしな。でも、あの時のお前は、いつも周りに流されずに黙っているお前じゃなかった。何というか、こんな言い方は失礼極まりないけど、人間の女の子っぽかったよ。これまでのお前はなんとなく感情を隠して生きている、って感じだった。我慢してるような気がしてた。だから、そういうところも含めて、もっと遥らしさを出していけば、幾らかは今の生活を楽しめるようになるんじゃないかな」
 途中で何度か、遥が口を挟みたそうに顔を上げたが、俺は止めることなく言い続けた。流水のようにどんどん言葉があふれ出てきた。一度止めてしまうと、きっと遥に栓をされる。それは小さな恐怖心だったかもしれない。
「……そうですか……」
 唸るように呟く。公園の前に差し掛かった。
「折角言ってくれた黒瀬君には申し訳ないですが、確かに余計なお世話ですね。わたしは遊びに行く相手はいないと言いましたが、遊びに行く相手が欲しいとは言っていません。わたしは今の人生に満足は……正直言ってしていませんが、それなりの人生を送れていると自分で思っています。何個かの心残りはありますが、今を生きれています。それに、女の子っぽく生きようとも、天月遥らしく生きようとも考えていません。特に後者に関しては、わたしらしさって何だろうな、って常々疑問に思っているぐらいです。ですから……」
 ずっと俯いていた顔を上げ、俺と目を合わせる。
「ですから、わたしのことはあまり気にせず、黒瀬君は黒瀬君の生き方を貫いてください。前にも言いましたよね、あなたの、特別な人を見つけてください」
 黒髪を揺らし、笑顔を浮かべる。公園のベンチは、薄暗く照らされた世界の中に呑みこまれるように消えていた。
「特別な人って――」
「それは教えられませんよ」
 いたずらっぽく言う。
「わたしにとって黒瀬君は特別です。友達のいないわたしに唯一話しかけてくれる、特別な人です。黒瀬君のことは、友人だと思っていますよ」
 屈託のない笑顔でそう言われる。少し背中がかゆくなる思いがしたが、必死に耐え、ありがと、と返す。
 それから俺と遥が別れる場所まで、特に何かを話すことなく歩いた。日は徐々に長くなっているが、世界が暗くなるのを早く感じるのに変わりはない。
 いっそのこと、俺の願いを叶える力で遥に友人を持たせてやろうか、とも考えた。だが、それはただの自己満足に過ぎない。遥は友達なんていらない、みたいなことを口走っていたが、その前につらい、と零してしまっている。心の中では、少しぐらいは話せる、友人と呼べるものが欲しいと思っているのかもしれない。
 少し考えたかった。もしかしたら最終的に能力に頼ることになるかもしれないが、それは最終手段と言うよりは、禁じ手だ。彼女自身の力で楽しい日々を送ってもらう方法を考えたい。俺の人生のような、味気ない日々を送ってほしくないから。


 風呂から上がり、濡れた髪を適当にタオルで擦りながら、冷蔵庫の扉を開ける。食材は、米と僅かばかりの野菜、安売りで買った肉が入っているだけだ。風呂に入る前に冷やしておいた麦茶を一気に呷り、火った体を冷やす。澄んだ感覚が体中に沁み渡っていくのを感じながら、俺は乱雑に放り出された座布団を手繰り寄せ、テレビの電源を点ける。
 今日も代わり映えのしないバラエティー番組一覧を眺めながら、何して暇をつぶそう、と考えていた時だった。
『――――』
 不意に何かが聞こえたような気がした。それは良く言えば小鳥がさえずるような小さな声、悪く言えば、気味の悪い囁き声だった。そして、少女の声だった。
『……れ…………も、ょ……くね。……れ、……げる』
 言葉は途切れ途切れでうまく聞き取ることはできないが、とても弾んでいた。周囲のノイズらしき音が邪魔をしてはっきりとは分からないが、笑い声も聞こえるような気がする。
「……何だ、これ……」
 以前にも同じような現象が起こった。あれは遥と初めて会った日。その時とほぼ同じ声だ。いや、今はもう聞こえなくなったが、改めて考え直すと、全く同じである気もする。
 もう一度お茶を飲み、一息吐く。前回は疲れのせいだとして片づけたが、二度も同じような出来事があると、不思議に思わずにはいられない。もしかすると、能力の代償のようなものなのだろうか。だが、仮にそうだとしても、俺にできることは何もない。周りにこの秘密を明かしている人はいない。明かす予定もない。
「……」
 いや、遥はどうだろう。遥は俺のことについて、何かしら知っていそうだ。いつか、話せるときが来たら、打ち明けてみてもいいかもしれない。遥は、俺の事を友達だと言ってくれた。まだ出会って僅かな時間しか経っていないが、俺のことを本当の意味で受け入れてくれた。そこに俺は、言いようのない安堵感を覚えている。
 コンビニで買ってきた惣菜パンの封を開け、大きくかぶりつく。食べ慣れた安い味も、今日だけはやけに美味く感じた。
 だが、食べ終わった後に気づいた。
 静かに拍動を続けていた俺の心臓が、熱く熱く、燃え上がるようにその勢いを増していた。


  5

 カーテンは完全に閉めたはずなのに、眩しい朝の日光が差し込んでいる。顔面に容赦なく降り注いでいる光を遮るべく手で影を作りながら体を起こす。
 体は落ち着き、熱さも感じなかった。まだ異常があればしかるべき措置を取ろうと思っていたが、この分なら問題なさそうだ。時計を見ると、朝の十時前。今日は何の予定もないのでもう少し寝ていよう、と再びベッドに身を投げ出す。
 瞼が落ち、意識が深淵に吸い込まれていくのを感じながら、その流れに身を委ねる。しかし、そんな勢いを止めるがごとく、インターフォンが鳴り響いた。ネットで何か購入した覚えはないし、誰かと遊ぶ約束もしていない。そもそも、俺の家など、誰にも教えていない。だとすれば、客は大体予想がつく。
「……鬱陶しい」
 何度も何度も鳴るベルの音に辟易し、無駄だとわかりつつそんなことを呟く。しかし、無視していると、このまま何時間も鳴らし続けそうなので、仕方なく重い体を上げる。
 鍵を外し、陽の光をまともに受ける。
「おっはよー……ってまだ寝間着姿なのか、魁人」
 ドアの先には予想通りの人物がいた。無駄に伸びた不精髭に、比較的大きな目。小太りで、遊び人のような口調で朝の挨拶を投げかけてくる男が、薄ら笑いを浮かべて立っていた。
「……やっぱりな。何の用だ?」
 俺の明らかに突き放す口調に思わず詰まる男。それでも、すぐに表情を取り戻して絡んできた。
「そんな怖い顔しなくてもいいじゃんよー。とりあえず、上がらせてもらうぜ」
「お、おい……」
 俺の静止も聞かず、遠慮なく部屋に上がり込む男――眞下諒也――は、台所に置いてあったコップを手に取り、水を一杯呷る。俺は諦めの息を吐き、重い扉を閉める。
 諒也は俺と同じアパートの住人で、部屋は一つ挟んだ隣だ。俺よりも年上で、大学生なのだが、通っている姿を見たことがない。アルバイトもしていないらしく、生活は両親から送られてくる分で賄っている、と前に聞いた。部屋が近いということで前々から時々会話を交わすことがあり、それが延長して、今では諒也が暇な時に俺の部屋にやってきて無為に過ごすことが、半ば習慣化している。なお、歳は少し離れてはいるが、俺は遠慮することなくタメ口で話している。
「で? 今日も暇潰しか?」
 ぼさぼさになっているであろう髪の毛を掻きむしりながら、我が家のようにテレビをつけた諒也に問う。
「ん? まー、そんなところよ。今日はとってる講義もないし、暇なもんでね」
 たまたま流れていたニュース番組をぼけっと見始める。それから、ふと思いだしたように尋ねてきた。
「お前こそ、今日は暇なのか? それと、朝飯は食わなくても大丈夫なのか?」
「……母さんかよ」
 ぼそっとツッコむ。俺の反応が愉快だったのか、諒也は近隣住人の迷惑になるのではないかと思うほどの大声で笑った。数秒だけそうしたあと、目尻を擦って座りなおる。
「いやー、そういうわけじゃなくてな。もし暇なら、一緒にラーメンでも食いに行こうと思って」
「へぇー。お前が誘ってくれるなんて珍しい」
「言っとくけど、奢らないからな」
 笑顔で付け加える諒也。俺はわざとらしく舌打ちをする。まぁ、そんなところだろうと思ったが。
「で? お前にとっちゃブランチになるけど、行くか? 行かないか?」
 見ていたニュースがつまらなかったのか、テレビを消して、瞳を輝かせながら俺を見る。断ったらしばらく恨まれそうなほどに楽しそうだった。
「……わかったよ。付き合うから、ちょっと待っててくれ。今着替えるから」
 俺がそう答えると、諒也は過剰だと思えるほどに喜んだ。
店が開く時間までは余裕があるので、それから小一時間ほど適当に時間を潰してから出発することになった。諒也が散らかしていったグラスなどを簡単に片づけながら、点けっぱなしにしておいたテレビへと視線を向ける。この町にもある、有名チェーン店の喫茶店の広告が流れていた。
「……ケーキ食べ放題……?」
 最近甘いもの、食べてないなぁ、とふと思う。俺はスイーツが嫌いなわけではないが、たくさん食べられるほどではない。コーヒーと一緒に流し込んだとしても、二、三個が精いっぱいだろう。だが、久々に食べてみてもいいかな、という考えが頭をよぎった。それと同時に、甘いものや話題性に目がないクラスの女子たちが、血相を変えて店に飛び込む姿は容易に想像できた。
 しばらくテレビを見て過ごしているうちに、約束の時間になった。変わらぬ調子で俺の部屋を訪ねてきた諒也と共に、俺たちは近所のラーメン屋へと向かった。


「ラーメン屋さんのラーメンとか、食うの久しぶりだわー」
 休日のお昼時ということで、休日出勤のサラリーマンや家族連れで賑わう店内で、俺は漂ってくるスープの匂いを嗅いでいると、そんな言葉が口をついた。一人暮らしの俺にとって、ラーメンと言えばカップラーメンだ。お店に行って食べるものなど、値段が高くてこういった特別な時にしか食べられない。必然と、その回数は減ってくる。
「まぁ、オレもそう来ないけどな。今日は何か気分がいいから、特別だぜ!」
 諒也の大声に、周囲の客がちらちらと視線を向けてくる。テンションが上昇中の彼を何とかして諌めて、ようやく落ち着く。注文を済ませ、カウンター席から、多くの店員さんがめまぐるしく働いている姿をぼーっと眺める。
「諒也、お前は最近、大学の方はどうなんだ? 彼女とか、できてないのか?」
 少しからかう意味も込めて、嫌味らしく問う。はははっ、と諒也は快活に笑った後、やや表情を曇らせる。
「はぁ……全く以てさっぱりだよ。ちょっと気になる娘(こ)はいて、時々声もかけてみるんだけど、全員が鬱陶しそうな顔してさ……。すぐに関係が終わってしまう」
 自虐めいた乾いた笑みを浮かべ、訥々と話す。一応大学には行っているんだなぁ、という驚きと、何となく想像できた彼のキャンパスライフに同情する念が沸き起こる。
「お前ももし大学行くんなら、覚えとけよ。高校生が想像するほど、あそこは華々しいところじゃねーぞ」
 輝けるのは、どうせイケメンだけなんだよ、と心の底から憎々しく思っているような口調で吐き捨てる。
「まぁ、オレの辛気臭い話はここまでにして……。魁人、お前の方はどうなんよ? もう長らくお前の学校での話とか聞いてねーけど。お前こそ、彼女できた?」
「残念ながらいねーよ。大体、あの学校に俺と釣り合いがとれるような奴、そうそういねーことぐらい知ってるだろ」
 はは、と苦笑いして、諒也は答える。
「そうだな。お前はあそこの女子高生どもとは、うまくやれなさそうだ。なんつっても、地味だからな」
 俺の顔から体までじっと見つめて、大きく笑う。否定できないのが少し悔しい。
「てことは、お前はまだ童貞か」
「……お前だってそうだろ。……え、違うのか?」
 俺の驚きをよそに、諒也は白い歯を見せてニヤニヤと笑っている。
「…………マジで?」
 恐る恐る訊ねる。すると、俺の本気で戸惑う表情に、逆に諒也が驚いたのか、笑顔が徐々に崩れていく。
「……嘘だよ。そんなマジな顔すんな」
 俺の緊張の糸がずん、と弛緩していくのが感じられた。こんなことで緊張しているようじゃ、本当に彼女ができた暁にはどうなるのだろうか。今の俺には想像することすらできない。
「彼女はいないにしてもよー、魁人。仲の良い女子もいないのか? いくら派手な奴が多い学校とはいえ、中には大人しい奴もいるだろ。想像だけどさ」
「……まぁ、大人しい奴はいるけどな」
 俺にとって、その代表が遥になる。ほかにも大人しい子は確かにいるが、対象である誰とも特に親しい関係を築いていない。
「じゃあ、その子たちとは仲は良いのか?」
 訊かれて改めて考えるが、やはり遥以外に親しくしている大人しいタイプの女子はいない。力なく首を振って、正直に答える。
「残念ながら。一人しかいないな」
「……一人はいるんだな」
 諒也がまたニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて俺の顔を覗き込む。しまった、と思わず自分の失態に気づくが、時すでに遅く、大きな顔が眼前にまで迫ってきていた。こいつは、自分の事は多く話さないのに、他人のことになると人が変わったように質問攻めしてくる。特に友人の女友達の話ともなると、その勢いは普段以上に燃え上がる。
「え、その子どんな子? どんな子なの? 女優で例えると誰?」
 想像通り、遠慮のない問いが連なる。俺は自分の注意力の無さを呪いながら、油で光る床に向かってため息を吐く。こうなると、諒也はきっと諦めることなく、数週間ほど問い続けてくることだろう。それは殺意が湧いてくるほどに鬱陶しい。
「わかった。わかったから……。もうすぐラーメンも来るだろうから、それ食べ終わったらな。少しだけ話すよ」
 俺の諦念の籠った声に、子どものように諒也は喜ぶ。ただ、彼はこのような性格をしているが、もし悩みがあると告白すれば、最後まで相談に乗ってくれる奴でもある。回数は少ないが、人間関係の事で相談に乗ってもらったこともあった。
「……まぁ、丁度いいか」
 遥の発言などについて、少し他人の意見ももらった方がいいかもしれない。一人で考えていても、遥の言う「特別な人」はきっと見つからない。加えて、昨日に感じた胸の痛みもある。悩みを上げていけば、きりがない。
 俺は、その後すぐに運ばれてきたラーメンをすすりながら、何気なく考えていた。俺がいま抱えていることは、誰かに相談することで解決するのだろうか。解決しなくても、突破口が見つかればいいのだが。時折跳ねるスープの熱さに耐えながら、辛みを帯びた味と共に漠然とした不安を感じていた。


「じゃ、話してみろよ」
 五分ほどでスープまで啜り終わった諒也が、口元を服の袖で拭いながら、話すよう促してくる。対して俺はまだ丼の三分の一ほど残っている。
「いつになくはえーなー……」
「ほらほら、早く食っちまえよー」
 諒也とは過去にも今日のようにラーメンを食べに来たことはあるのだが、ここまで素早く食い終わったことはない。いかに俺の話に興味を持っているのかが窺える。
 執拗に煽ってくる諒也の言葉を躱しながら、ラーメンを貪った。そして数分後、俺もまた、最高記録を更新できるタイムで食べ終わった。正直、味など覚えていない。しつこく口内に残るにんにくの臭いを、大量の水で消し去らせる。
「ようやく食い終わったか」
 暇潰しなのか、水をたらふく飲んでいた諒也が、膨らんだ腹を苦しそうにさすりながら俺を見る。店内はピークの時間を過ぎたのか、だいぶ席に余裕ができており、待合室で待っている人もいなかった。
「じゃあ、お前のお悩み相談、行きますか」
「……別に悩んじゃいねーよ」
「細かいことはいいからいいから」
 片手を振り、俺の反駁を諒也は軽くいなす。
「お前が親しい、って言う唯一の女の子、どんな子なんだ? お前から見て」
 幾分か表情を切り替え、少し真面目な声音で問われる。俺もわずかに佇まいを直し、彼女の事を考えた。周囲のノイズを交えながら、思考を巡らす。
「そうだな……。一言で言うなら不思議な奴だよ。ちなみに容姿は、周りの女子なんかとは比べ物にならない程に綺麗だ。何ていうのかね、撫子? みたいな子だ」
 俺の言葉を聞いた諒也は、小さな笑みを浮かべて頷いている。やがて感嘆したような声を上げた。
「へぇ、お前がそこまで言うんなら、その子はめっちゃ良い子なんだろうなー。お前は基本的に人を褒めるっつうことをしないからな。珍しいこともあるもんよ」
「うるせぇ」
 諒也の失礼な言葉に、形ばかりの反駁をする。彼の言うことは間違っていないので、強く否定はできないのだ。
「まぁ、こんなところだ。何か訊きたいことはあるか? ないなら帰るぞ」
 言いながら腰を上げ始めた俺を、諒也が慌てて止める。俺たちが入店したときからいる客はわずかとなり、新規の客が席のほとんどを占めていた。パート従業員と思しき人物からの「早く帰れ」と言いたげな視線が非常に痛い。
「一つだけ訊かせてくれ。さっき『不思議な奴』って言っていたが、具体的にはどんな感じなんだ?」
「どんな、って言われてもなぁ……。まず、俺なんかと親しくする時点で不思議だと思うんだが」
 俺の返事に「正論だ」と大声で笑う。
「確かにそりゃ不思議だが……。でも、それだけじゃないんだろ?」
「……まぁ、そうだけど」
 諒也の視線から逃げるように、自分の視界をずらす。少しずつ諒也の顔が落ち着いてくるにつれて、俺の方が気まずい気持ちにさせられる。ふざけた格好の割に肝心なところで真面目なのだから、扱いづらいのだ。
 俺は自分の能力のことは話さずに、彼女の事を伝えた。遥が、ほかのクラスメイトとは全く関係を持とうとはしないくせに、俺とだけは良い関係を築こうとしているように思えること。俺の見間違いかもしれないが、ある後輩から妙な目で睨まれていたこと。俺にとっての「特別な人」を見つけろ、と言ってくること。全て聞き終わった諒也は水を一口飲んだ後、俺の方に向き直った。
「……なるほど。ちなみに、お前はその子のことは好きなのか? 友達として」
 暫し考えるが、結果的に首肯する。
「じゃあ次の質問だ。お前はその子が好きか? 『恋愛対象』すなわち『女の子』として」
「――」
 続いて流れ出た質問には、考え込むことすらできなかった。一瞬、すべての思考が止まったように感じられた。早まる動悸を抑え込み、一つ息を吐く。目の前の丼にわずかに残っているスープに浮かんで漂っている油の模様が、異様に光って見えた。それは違和感を通り越し、不快感を与えてくるようだった。
「い、いや……そんなんじゃないな。あいつは友達だ」
 店内の熱気のせいかよくわからない汗を拭いながら答える。
 遥の事は、確かに魅力的な女の子だと思う。だが、それ以上の特別な感情を俺が持ち合わせているとは思えない。抜け落ちている中学時代のころは定かではないが、これまでに恋をしたことも無ければ、ろくに人を好いたこともない。だから、今俺が感じている気持ちのほとんどはとても新鮮に感じる。水槽の中で波打つ水のように、震える気持ちがこみ上げてくる。少し、心地よく感じた。
「そうか。じゃあ、質問を変えよう。誰かに好かれる、ってのはどんな気分だ? お前がこれまでにオレに相談してきた内容の中に確かあったよな、『友達をつくりたい』って」
 俺は静かにうなずく。
「さっきオレが訊いたこととちょっと繋がるな。自分が誰かの友達になるってことは、自分がその誰かに好かれる、ってことだ。嫌いな奴を友達として見るなんて、辛いだけだもんな。……お前はその子のことを好きだと言った。そして話を聞く限り、その子もお前を好いているようだ。そのことについて、お前はどう思う? 嫌な気持ちになるか?」
「……いや、そんな気はしないな」
 顔が熱くなるのを感じる。それを隠すように、俺も何杯めかわからない水を呷る。
「じゃあ、何も悩むことはないんじゃないか? お互いに悪いことは何もない。途中にあった後輩の話はさすがにわからんが……。少なくとも、お前とその子の間のことに、悩むことはないと思うぜ。友人として、残り半分の高校生活を共に楽しめばいいんじゃないか」
 言い終わり、ポケットから財布を取り出す。ごそごそと中身を確認したのち、
「よし、今日はオレがおごってやるよ」
 と、機嫌良く伝えてきた。
「……いいのか?」
「長話させてしまったからな。それに、オレもお前の話が聞けてよかった。あと、何かカッコいいことも言えたし」
 嬉々としてレジへと向かう。正直、俺の方が感謝しているのだが、苦しい生活の中での諒也の提案は非常に魅力的だ。ここはありがたく払ってもらうことにする。
「あ、そうだ。最後に言っておいてやるよ」
 代金を払い終え、帰路をたどっている最中に再び諒也が口を開く。ミラーに映った俺たちの姿が、迷うようにその中を彷徨っている。
「その子は、もちろんお前と仲良くしたいんだと俺は思うがな。無意味にお前に近づいているわけではないような気がする。内容とか、事の大きさは判らないが、きっと魁人にしか為せない何かがあるからこそ、お前には『不思議な子』に感じるんだと、オレは思うよ」
 何かが、その子の中で空回りしている。実現させたい何かがある。オレの妄想だと思って笑い流してくれてもいい。そんなことを諒也は言った。
「まぁ、もしお前がオレの言うことを信じるのならな」
 影の部分を探して諒也は歩く。振り向いたその顔は、蝕まれたように不明瞭だった。
「お前もその子の事を探ってやれ。そして踏み込んでやれ。何か興味深いものが出てくるかもよ」
 そして今から遊びにでも行くかのように、諒也は軽い足取りでアパートへと帰っていった。だが、俺はその場からすぐには動かず、影に侵食されていく自分の身体を茫然と見下ろしていた。横を通り過ぎて行ったトラックが、俺を抉るように揺らす。幾つもの騒音の中で最後に浮かんだのは、ある歪んだ景色だった。それが果たして『誰のもの』なのか、俺には分からない。


  6

 朝の教室は相変わらず騒がしいものだ。学校の外にいても、校舎の壁では防ぎきれなかった声が漏れ聞こえてくる。
 数人から挨拶され、適当に返しながら自分の席へと向かう。鞄を机の横にかけると、机の中に入れておいた文庫本や教科書がぐらりと揺れるのが感じられた。そういえば最近、読書してないな、と一人の少女を視界の片隅に入れ、ふと思う。始業まであまり時間はないが、いま読んでいる小説を少しでも進めておくことにした。
「…………」
 走り回っていた誰かの腰が机にぶつかる。誰かが投げた紙のボールがコントロールを失って俺に直撃する。とてもではないが、目の前の活字に集中できる状態ではなかった。だが、彼女だけは変わらない。読書を諦め、再び机の中に戻した俺を無言で嘲笑うように、遥は本に目を落としたままだった。周囲の女子が馬鹿にするような視線で見ているが、気にしている様子はない。自分に当たる前に吸収しているような感じだった。
 本当に『不思議な子』である。きっと俺とは違う心の持ち主なのだろう。どうしてこの状況で読書ができるのだろうか。俺は何となく気になって、彼女に近づいてみた。すると、遥を妙な視線で見ていた女子の一人から声をかけられた。鬱陶しく思う気持ちを隠して振り向くと、女はぐっと顔を近づけて小声で問いかけてきた。
「ねぇねぇ、アイツの事、どう思う?」
「アイツって……遥のことか?」
「そう、あの天月遥って奴。アンタ、結構仲いいんでしょ。どう思ってんの?」
 狐のように視線を鋭くさせて俺を見る。好意を持っている、みたいなことを答えた暁には、俺だけでなく遥も間違いなく貶されることだろう。俺がどう返すか迷っていると、目の前の女は一つ鼻で笑った後、勝手に話をつなぎ始めた。
「アイツね、まだ門が開いてないような時間から学校に来て読書してるんだって。意識高すぎない? マジ笑えるわー。ちょっとかわいい顔してるからって、きっと調子乗ってんのよ。そんな朝早くから学校来て何が楽しいんだか。アタシらーには理解できねーわ、マジで」
 そう言って、一緒にいた女たちと再び大声で笑う。話しかけてきた女も、俺に完全に背を向け、女だけのお喋りに興じはじめた。知らぬ間に俺は蚊帳の外に立たされていたが、最初から彼女たちの話になど興味はない。すぐにその場から離れた。
 俺は遥の席に近づくが、彼女が反応する気配はない。先ほど、自分の悪口が言われていたことにも気づいていないようだった。声をかけようかと考えたが、先日の遥の怒った姿を思い出す。頻繁に邪魔するのは気分の良いものではない。仕方なくこの場は諦めて撤退することにした。
 間もなく担任教師もやってきて、ホームルームが始まった。その間、先ほど聞いた遥の事を何気なく考えていた。
——読書のために朝早く学校って……。俺にも真似はできねーな。
 少しでも朝は眠っておきたい。常にそんなことを考えているから、登校時間は必然と遅くなる。ただ、朝は静かだろうから、読書にはうってつけだろうとは思う。
 しかし、遥の孤立は変わらない。最近はそのことに対して悲しみや悔しみ、苛立ちまで覚えるようになっていた。諒也の言葉にもあった。踏み込め。疎ましがられたり嫌われたりするのは嫌だが、俺は何か行動を起こさなければならないように感じていた。これ以上、彼女に一人でいてほしくない。数分前の笑い声が俺の中の彼女を掻き消していった。


 放課後、俺は静かに読書に興じる。授業が終わって三十分もすれば、大半の生徒は学校を後にする。校内に残るのは部活動に精を出す生徒がほとんどだ。環境としては、遥が朝にしているという読書とそう大差はない。
 閉められていた窓を開放し、オレンジ色に光る空から吹き込む風を循環させる。時折吹く強めの風に、黒板の粉受けに溜まった白い粒が舞い上がる。それは霧のように薄く広がり、やがて消えていった。何度か深呼吸を繰り返し、自席で文庫本を開く。
 ぺらり、ぺらりと数十秒ごとに繰り返されるページを捲る音。何個かの活字が集まり、一つの意味を為す。それがまた連なることによって場面は進んでいく。俺がいま読んでいる本に挿絵は一切ない。つまり文字だけで話が展開されている。読む人によって、世界や登場人物の姿が変わる。まさに十人十色の情景が広がる小説の世界というものが、俺はたまらなく好きだ。その感覚に身を委ね、俺は文字から感じ取れる、俺だけの世界を形成させていく。
 中庭から璃子のものと思しき声が聞こえる。きっとまた買い出しにでも行っていたのだろう。先輩、只今帰りましたー、と元気な声が届く。少し微笑ましくなって、字を読み進めながら心の中で笑った。間もなくその声も足音も遠く去っていき、また風が流れる。太陽は既に姿を雲の中に消しており、あと数十分もすれば夜の闇が訪れることになる。もう少し読んでから帰ろう、と周囲の教室の薄暗さに孤独を感じながら思う。
 俺たちの教室がある階から、人の気配は完全に消えた。俺はいっそう文字の世界に集中していく。物語は中盤を過ぎたあたり。前半にあった伏線が徐々に回収され始め、緊迫のラストに向けて一気に読み進めていきたい場面だ。時々目を擦りながら、読むペースを速めていく。
「…………」
 沈黙の時間が流れていく。風は止むことなく吹き続け、一秒ごとに新たな息吹を巡らせる。
しかし、ぱらぱらぱら……と風に乗ってページが一気に捲れ、俺は軽く舌打ちする。そろそろ良い時間かな、と一度栞を挟んで俺は顔を上げた。
「……あ、ようやく気付きましたか」
 不意に静かな教室内に、文字の如く声が響いた。その方を振り向くと、ゆったりとした動作で文庫本を鞄に仕舞い込む、遥の姿があった。
「お前、……いつからそこに?」
 遥は少し唸るように声を出してから、
「……十分ほど前からでしょうか」
「声かけてくれりゃよかったのに」
 俺も本を仕舞いながらそう言うと、遥は不満そうな表情で俺を見た。
「何度か声はかけましたよ。でも全然反応してくれないから……。わたしも静かにしていたんですよ。むしろ、黒瀬君が言ってたんじゃないですか、邪魔されたら怒る、って」
 怒られるのは嫌ですから、と遥は澄ました顔で言う。
「確かにな、悪かった」
 俺が鞄を持って立ち上がると、遥は何も言わずに俺に続く。教室の電気を消すと、一瞬のうちにねっとりとした闇が辺りを支配し、棟内を歩く恐怖心は嫌でも増す。心なしか、隣の遥との距離がいつもよりも近い気がした。
「……暗いですね」
「……暗いな」
 意味もない、そんな会話を続けながら俺たちは階段を下る。途中にある非常口を示す緑の光が、冥界への入り口かのように、鈍く、そして気味悪く俺たちを照らしていた。
 いつもと変わらない、灯りの少ない学校近くの道を歩く。遥の表情は暗がりで見えない。俺はもう一度、あの提案をしてみることにした。
「なぁ遥」
 呼びかけ、彼女の方は見ずに話を始める。
「何ですか?」
「遥……やっぱり、お前は友達を作る気にはならないか?」
 小さくため息を吐く声が聞こえた。俺にはばれないようにしたつもりかもしれないが、閑静な道路にそれは意外にも大きく響くのだ。
「……そう、ですね。……」
 答えた後、なぜか遥は一瞬、明後日の方向を向いた。しかし、これは想定内の答えだ。だから俺は、自身の気持ちを吐露する。……つもりだった。
「俺はやっぱりお前に友人を作ってほしい。前にも言ったが――」
「待ってください」
 遥は、唐突に俺の言葉を遮った。揺れる前髪を自身の瞳を隠すように垂らし、立ち止まった。先の大通りを行く車の光が、物寂しく薄暗いこの道路を横切る。一瞬が連なり、一つの大きな光となって彼女を仄かに照らした。
「その後も……前に聞いたのと同じ言葉が続くだけですよね?」
 口調は尋ねているが、言葉の雰囲気にその気配は全くない。俺が黙っていると、幾分か語調を強くして遥は続けた。
「何度も何度も同じことを聞かされるのは、わたしは嫌いです。黒瀬君は時々しつこいです。わたしは黒瀬君のそういうところは、正直、嫌いなんです」
 遥はそう、吐き捨てた。怒りという感情だけに身を任せ、遥は叫んだ。
「……黒瀬君の気持ちはありがたく感じます。ですが、わたしに友達はいらないんです。作るだけ無駄、と言いますか……。いつかは失うんです。気が付いたら、もう隣にはいないんです。そんなの、苦しすぎるんですよ」
 俺は何も言えずにいた。遥は俺に背を向けて、虚空を睨んでいる。空に星は出ておらず、闇の中に穴をあけるように雲が流れていた。
「だから、これ以上わたしにその話題を持ってこないでください。……今日はお先に失礼します。では」
 俺の方は一切見ずに、遥は咽(むせ)ぶようにその言葉を言い残し、立ち去ろうとする。思わず追いかけそうになったが、いま彼女に何かを言ったところで効果はないだろう。俺は出そうになっていた足を引き、最後にその背中に呼びかける。
「なぁ、遥」
 ピクリと肩が上がり、遥は動きを止める。
「俺が初めてこの話をしたとき、お前は『つらい』と零した。あれは本音じゃなかったのか?」
 一台の自動車が、俺たちの横を通り過ぎて行った。朱く光るテールランプは、彼女の横顔に血を塗りたくったように染めた。苦々しい表情を隠すことなく、遥は
「あれは、違います。……違うんですよ」
 と、答えた。そしてすぐに歩き出す。
 俺はしばらくその後姿を見届けたのち、自らの家路についた。俺には、きっと明日にはいつも通りの遥に戻っているだろう、という憶測があった。照らされた彼女の頬に流れていた一筋の光を思い出しながら、俺は暗い小道を独り、歩いた。


  *

 一つ息を吐く。煌々と輝く数多のネオンが、目を焦がすようにわたしを襲う。わたしの中のわだかまりが重みを持って出されたような溜め息は、いつまでもわたしに纏わりついて、離れないように感じられた。
春も終わりが近くなり、少し前までとは異なる温かさが街を包み込んでいる。だが、わたしはブレザーのポケットに両手を突っ込んで、真冬の外にいるかのように縮こまって家路をたどっていた。
「今日は、……やけに賑やかですね」
 辺りを見回しながら、ぽつりと呟く。横断歩道を渡る時、青になったら流れる軽快なリズム。わたしを猛スピードで追い抜く自転車のベルの音。少し離れたところを走るローカル線の列車が線路から奏でる音。普段は聴くこともない音までが、鮮明に聴き取れた。
 確かに今日は、わたしに賑やかさを提供してくれる存在が、隣にいない。だが、彼と出会ってからも、一人で帰ることはあった。その時に、周囲の音など気にしたことがあっただろうか。
——否……。
 声には出さず、口だけを動かして答えを出す。声に出してしまったら、わたしの信念が崩れてしまうような気がした。
 家が近づくにつれて、市街地のような眩さは無くなり、十数メートルおきに立てられている、今にも消えそうに点滅する街灯だけになる。女子高生が独りで歩くには、少々不安に思われるような場所だ。だが、それはあくまで世間からであり、家族からではない。家に辿り着いても、わたしの帰りを待っている者はいない。浴槽やベッド、机やお皿たちがいるだけである。
 両親は、わたしが小学生だった時に死んでしまった。交通事故によって、若くして命を絶たれた。わたしを引き取った親戚の人たちは良くしてくれたが、高校生になると同時に一人暮らしを勧めてきた。きっとわたしとの生活の疲れがピークに達したのだろう。それを恨んだりはしていない。寧ろ、孤独なわたしを高校生になるまで育ててくれたことに、並ならぬ感謝を覚えている。生活費などは毎月振り込まれるが、それ以上の関係は今や持っていない。
 暗がりにそびえるマンションの一室へと入る。明かりをつけた後、鞄とネクタイを放り出してソファーに倒れ込む。十分に閉められていなかったのか、台所の蛇口から落ちる滴がシンクを叩く音が、静寂の中に木霊する。
「……孤独、か……」
 今頃彼は一人で夜道を歩いているのだろうか。その彼の姿を想像した時、わたしは初めて自分の孤独を自覚した。先ほど感じていた普段とは違う光景が、それからきたものであると理解した。
 わたしの中にあったのは、驚きから来た一つの恐怖だった。黒瀬君に二回目の提案をされた時、わたしは一瞬悩んだ。それは演技などではなく、本能的にしたことだった。自分の行動に驚きを隠せず、焦ったわたしは彼に強く当たった。自分の奥底に眠っている痛みを隠すための、一種の自己防衛であった。
「明日、謝らなくちゃ……」
 ソファーの傍らに置いてある人形に顔を埋め、目を瞑る。先ほどの、彼の気まずそうな、苦しそうな顔が、僅かな黒みを帯びて脳裏に浮かんだ。きっとわたしも似たような表情をしていたことだろう。
 壁に掛かっている時計が、午後八時を告げる。夕食は、途中にあるコンビニで適当に購入してきた。もう、今日は何もする気にはなれない。買ってきたものを食べて、必要最低限の事だけして、早く寝てしまおう。そう決めたわたしは、いそいそと小さなナイロン袋に手を伸ばすのだった。


 流れる風が心地よい。
 お風呂からあがったわたしは、ベランダに出て何をするでもなく景色を見る。今日も変わりばえの無い風景だ。あと数時間で日が変わるという時間になっても、少し離れたところでは忙しなく自動車が走り続け、店は懐中電灯のように一部だけを眩しく照らしている。こうして、何も考えずに火照った体を冷ますのは、とても気持ちいいと思った。普段しないことをたまにやってみると、淀んだ気持ちが洗われていくのを感じられる。
 あたり終わったらそのまま寝るつもりで、部屋の電気は全て消した状態でベランダに出ていた。暖かさを孕んだ風が、今日も吹いている。孤独を誘(いざな)う風が、それに混じって吹く。隣の部屋から、天気予報の音声が漏れ聞こえてきた。どうやら、これから雨が降るらしい。
 室内に戻り、窓の鍵を閉める。カーテンも勢いよく閉め、外からの光は微弱なものになる。
「…………おやすみ」
 果たしてこれは誰に言っているのだろう。天国にいるはずの両親だろうか。わたしにとっての特別な人だろうか。
――違うな。
 もちろん、彼らに言いたい気持ちもある。だが、それ以上に募るのは、『彼女』への気持ちだった。毎日言っているわけではない。今日は、黒瀬君のせいもあり、思いだした。だから、久しぶりに言ってみたのだ。電球が、天井に浮雲のようにぽっかりと穴を空けている。その儚さと脆さに胸が潰される思いを感じながら、わたしは暗い部屋の中で独り、眠りについた。


 翌朝、わたしはいつものように電子音に起こされる。外をわずかに透かすカーテンの先には、灰色の空が広がっている。近寄ってよく見てみると、少しではあるが雨が降っていた。小さくため息を吐き、わたしは再びカーテンを閉める。隣の部屋からは、相変わらずニュースの音声が流れてくる。あまり会話をしたことはないが、確か中学生の男の子がいたはずだ。母親と思しき女性の、息子を起こす声がひっきりなしに聞こえる。
「少し……楽にはなった、かな」
 昨日のことを思い出しながら、自分の気分を確認する。あまりよく眠れた気はしないが、体調が悪かったりすることはない。今日は大事な日だ。体調を崩して学校を休むわけにはいかない。
 あくびを噛み殺しながらやかんに水を汲み、紅茶のティーバッグを用意する。
 隣の部屋では、ようやく息子が起きてきたのか、今度は母親が朝の準備をせかす声が聞こえる。それに反発する男の子の声も聞こえた。
 広い部屋を見渡す。不意にわたしは思った。わたしを支えてくれるものは何なのだろう、と。この部屋に何があるのだろうか。わたしがいまから向かう場所に、果たして何があるのだろうか。昨日、わたしは『孤独』を感じた。だが、いま、わたしが感じている『孤独』とは、昨日のそれとは全く異なるものだった。大切な存在が欠けているから感じる孤独ではない。誰の想いも、心も存在しない『無』の空間に置いてけぼりにされている自分に対して、巨大な孤独を感じた。
 カタカタ、とやかんの蓋が震える音が、静かな部屋に大きく響く。今、この部屋の中でわたしの孤独を癒してくれるのは、このやかんだけだ。小刻みに揺れる音だけが、わたしがここに存在しているのだということを証明してくれる。吹き上げる湯気も、乾いた空間へと、砂漠に落ちた滴ほどの潤いを与えてくれた。
 あぁ、だめだなぁ……。天井を見上げて、わたしは息を吐く。周りと関係を持たずに接してきたこの数年間で積み重ねたものが、瞬間的に崩れた。その反動か、腹の底から込み上げてくるものを感じた。これが自分のせいだということは分かっている。言わば、わたしへの罰だ。こみあげてきた涙を無理やりせき止め、急いで朝食を摂る。そのまま朝の準備を終え、戸締りをして家を出た。
「おはようございます」
 微笑を浮かべて、通りすがりの女性に挨拶をする。傍らには小学校中学年ぐらいの女の子が、女性の服の裾に縋りつくようにして立っていた。その子にも控えめに挨拶をし、その場を離れる。
 ちょうど、あの女の子ぐらいの年齢だったと思う。その当時の記憶は、断片的に頭の中に残っている程度であるが、存在だけは覚えている。『彼女』を失ったのも、わたしたちが小学校中学年のころの話だ。

  7

 *

「黒瀬君、昨日はすみませんでした」
 朝、教室に入ってきた俺を待ち受けていたのは、申し訳なさそうに頭を下げる遥の姿だった。俺は一瞬驚いたものの、慌てることはなかった。大丈夫だ、と声をかけると、遥は感謝も交じったような控えめな笑顔を浮かべた。
「それで黒瀬君、少し頼みがあるんですが」
 昨日怒ってしまった理由を聞き、お互い謝りあって和解したあと、遥は真面目な表情を浮かべた。それは、彼女と出会ってこれまで見た表情の中で、最も険しかったように思えた。
「え、なに?」
 俺はその雰囲気に少々気圧されながらも、彼女の言葉に耳を傾ける。
「先ほどわたしが言ったように、これまでに友人と呼べたような友人は、一人ぐらいしかいません。ここ数年間、周りとの関係も必要最低限……いや、それすらも持っていなかったですね。ですから、人と仲良くする方法が思いだせないんです。それで……」
 時々逡巡するように視線を逸らしながらも、遥は止まることなく話し続ける。一筋の汗が、桃色の頬を伝っていくのが見えた。
「黒瀬君は、友人は多いですよね? よくみんなと話している姿を見ますし」
「え? あ、いや、俺は……友達と呼んでいいのか……。確かにお前より話してはいるが……」
 俺の回答を聞いた遥がぐいっと体を前に傾ける。その整った顔が、俺の目と鼻の先まで迫る。
「わたしに、友達の作り方を教えてもらえませんか? そして、可能ならお手本を見せてほしいのです」
 有無を言わせぬ鋭い眼光で射抜かれる。俺が持つ友人と言えば、遥と璃子を除けば、ほぼ全員が能力で手に入れた存在である。そんな俺の真実を知らないからこそ、彼女は俺に頼んだのだろうが、友人の作り方ならむしろ俺が教えてほしい。大きな苦労もせずに今の場所で過ごしている俺の意見など、役立つはずがない。だから、俺は断りたかったのだが。
「オッケーですか、黒瀬君?」
 彼女は、表情こそ笑っていたものの、目は笑っておらず、自身の本気の想いを宿らせていた。そんな顔をみせられてしまっては、断ることなどできるはずがない。圧力のある笑顔に押され、結局、遥の友人作りに協力することになった。
——でも、……まぁいいか。
 何があったか、俺には定かではない。だが、前向きに進んでくれたことを嬉しく思うべきだ。俺に唐突に突き付けられた課題は異様に重いが、それすらも打ち消せるほどに、俺は満足を覚えていた。
「もちろんわたしも努力はしますが、黒瀬君も、何か考えてくださると嬉しいです。では」
 そう言って自席へと戻る。その後姿に、俺は自然と出てきたため息を吐く。遥の頼みを面倒だとは思っても、嫌だと思うことはなかった。


 気分転換に、中庭に出る。授業の合間の休み時間や、授業中の退屈な時など、彼女の依頼に対する答えを、ずっと考えていた。だが、簡単に、友人を作る方法など思いつくはずもなく、悶々としたまま午前中を過ごしてしまった。「遥に友人ができますように」と願えば、きっとすぐに叶えられるだろうが、その場合は、遥への説明が面倒になる。加えて、遥も疑問に思うかもしれない。一晩経って学校に来たら、急にみんなが自分に親しく接してくれる……そんな状況になれば、誰しも気味悪く思うだろう。
「それじゃ意味がないんだよな……」
 友人とは、一緒にいて楽しいと感じられる相手でないとならない。そうでなければ、彼女の希望を満たすことはできないだろう。上辺だけの関係では、充実した生活が送られないことは、俺自身がよく理解している。
 一時間ほど前に雨は上がったが、まだ空は灰色の雲に覆われている。踏み出すたびに踵のあたりから水滴が跳ね、ズボンの裾から肌にかかる。一瞬だけ、針で刺すような痛みに襲われ、俺は歩みを止める。近くにあったベンチは濡れていたが、躊躇うことなく座った。
 今日の中庭は静かなものだ。いつもは、賑やかな一年生の歓談や、エネルギーを持て余している男子生徒の鬼ごっこの場になっているが、地面がぬかるんでいるためか、それらの姿はない。頭上から漏れ聞こえる喧騒が、いつものこの場所の景色を再現しているようだった。
 時折吹く強い風に髪の毛をさらわれながら、俺は頬杖をついて呆けたように適当に視線を送る。見知った姿が歩いているのに気が付いた。
「璃子ー」
 俺は暫し考えた後、彼女を呼ぶ。璃子は驚いたように背筋を伸ばしたが、俺が軽く手を振っているのを見つけると、すぐに破顔して俺の元へと駆け寄ってきた。
「先輩、こんにちはです。今日はどうしたんですか? 一人でこんなところでぼーっとして」
 璃子は、その小さな手にすっぽりと収まるほどの小銭入れを持っていた。きっとジュースでも買いに行くところだったのだろう。周りに友人がいる気配もなかった。
「璃子、今ちょっと時間、いいか?」
 璃子は小首を傾げて不思議そうな顔をしていたが、やがて頷いた。
「サンキュ、じゃあ早速だが――」
「あ、ちょっと待ってください! ここで話すんですか? 先輩の言い方から察するに、ちょっと長くなりそうですよね? 流石にここだと……」
 璃子の視線をたどると、湿って変色しているベンチがあった。男で、しかも汚れなどに関して無頓着な俺は全く気にしなかったが、璃子は女子で、しかもスカートだ。何かと勝手が違うのだろう。
「それに私、結構喉が渇いていて……。ジュースを買うついでに、うちの部室とかどうですか?」
「部室って言うと……家庭科室か。わかった、じゃあ行かせてもらうよ」
 昼休みが終わるまで、まだ二十分ほどある。今の時間帯なら、特別棟には殆どひとけはないだろう。俺は小さな背中に牽引されて、家庭科室へと向かった。


 施錠されていない扉を開けて、璃子は室内に入る。誰もいない特別棟では、俺たちが歩く音はもちろん、お互いの息遣いまでもが聞き取れた。大きめの机の上に置かれている椅子を、俺は下ろして座る。璃子も同様にして、俺たちは机を挟んで向かい合う状態になった。
「それで先輩、話って何ですか?」
 璃子の右手には、自動販売機で買ったペットボトルの炭酸飲料が握られている。俺に気を遣ってか、まだ開けられていない容器の中で、数多の泡が舞い踊っていた。控えめな光に透かされた液体から伸びる薄黒い影は、俺の手に被さる直前で途切れ、寂しそうに揺らめく。
「なぁ璃子、お前、遥って覚えているか? 天月遥」
「天月……って言うと、先輩が前に学校を案内してあげてたあの人ですか? 髪が長くて美人な……」
 大きな瞳を天井に向けながら、璃子はあの日の風景を思い出している。翳っていた部分が光に照らされ、ほの白く浮かびだされる。
「そう、そいつだ。実はな……」
 俺が簡単な説明を終えると、璃子はようやく持っていたジュースの蓋をあけ、一口だけ含んだ。腕組みをして数秒ほど机上を睨んでいたが、やがて顔を上げる。
「答える前に、一つだけお訊きしたいのですが……。先輩はどうしてそのことを私に?」
「理由は何個かあるが……。一つは、俺が頼れる奴と言えば、お前ぐらいだから。一つは、璃子が友人づくりに慣れていそうだから。こんなところだ」
「……なるほど。先輩から見れば、私はそんな風に映っているんですね」
 璃子は苦笑いを浮かべて、再びジュースを飲む。炭酸が抜けてきたのか、容器の中の泡の量は、どんどん減っていく。
「正直に言わせてもらいますと、私は友達を作ることに関して、これといった努力や行動を起こしたことはないんです。こんなことを言ってしまっては折角頼ってくれた先輩に対して申し訳ないんですけど、私は、昔からのこの性格で友人を作ってきました。……天月先輩の性格を変えるわけにはいきませんので、私からは言えることは何もないんです。すみません」
 膝の上に固く握った拳を置き、元々小さな体をさらに縮めて、璃子は俯く。しかし、五秒もしないうちに再び顔をあげ、俺を見た。透き通った黒い瞳には、俺の顔が鮮明に映り込んでいた。
「でも、アドバイス……みたいなことならできると思います。それだけでもいいですか?」
 もちろん、と俺はうなずく。璃子は俺と、俺の後ろの壁を交互に見るようにしてから、話し出した。
「友人作り、と一言に言っても、やっぱりそれぞれに適した方法があると思うんです。私みたいに、性格や外見によって友人を作ったりとか、趣味の合う者同士で仲良くなったりとか。ですから、誰かの経験を聞いて、それをそのまま当てはめるのはダメですよ。まずは、自分が周りの人とどういった関係を築きたいか、っていうのを考えるのが大事だと思います。つまり、先輩の取った行動はあまりよくなかった、ってことですね」
 璃子は、俺を挑発するようなニヤニヤした笑みを浮かべて言い切る。だが、自分の行動が全否定されることは当然のような気がした。今の俺は、導き方も知らぬままに難問の答えを出そうとしている弱者だ。正さなければならないところで正さなければ、間違った道を進むだけである。
「それが決まったら、あとは己に従え! ですっ! 気持ちが前向きなら、案外何とかなるものなんですよ」
 ペットボトルの中の残りのジュースを璃子は一気に飲み干し、教室の隅にあったごみ箱に投げ捨てた。箱の中で缶とぶつかり合って、甲高い音が空気を劈(つんざ)く。
「それだけ……か?」
「いえ……まだ覚えておいてもらいたいことがあります」
 高い音の間をすり抜けるように、璃子の声が落とされる。璃子は俺から視線を外し、俯いた。彼女の姿は暗い影に覆われて黒くなる。机と同化するほどに小さくなった彼女は、声だけを残すように言う。
「下手に……自分勝手な感情で、他人のことを願わないでください。悪しきことはもちろん、良かれと思っていることも、です。いいですか?」
「……どういうことだ」
「どう、って……そのままの意味です。強すぎる願いは、時に人を苦しめます。友人というのは、自分にとって、そしてその相手にとっても、とても大切な存在です。卒業して別れたとしても、会いたいって思えて……そしてまた会う存在です。大事に思うのなら、余計なことは願わない方がいいですよ」
 俺にとって「願うこと」とは、その願いが叶うことを意味する。ただ、璃子や遥などの普通の人間にとっては、「願うこと」とはまさに字の通りの意味であり、それ自体に効果はない。誰にも聞こえぬ想いを、胸の中で反芻することにすぎない行為のはずなのだ。
 だが、璃子の物言いを聞いていると、彼女の言う「願う」とは、俺の考えるそれと近いように感じた。様々な感情が入り混じった笑顔を浮かべ、璃子は腰を浮かせる。
「天月先輩には、そんな感じのことを伝えておいてください。私の考えでは、天月先輩はそんなに多くの友人を必要としないタイプのかただと思います。誰か一人か二人、大事な存在が近くにいれば、無問題だと思いますよ」
 家庭科室を去る璃子を、後から追う。特別棟を出ると同時に、予鈴が鳴った。俺たちは特に急ぐこともなく、自分たちの教室へと向かう。その間、璃子は何も発することはなく、足元を見つめ、ぬかるんだ地面に浮かぶ誰かの上履きの跡を追っていた。校舎の屋根から落ちてきた数滴の滴が、俺たちに当たる。そのうちの一滴が、偶然にも璃子の頬を伝っていくのが見えた。


「なるほど……。確かにわたしは宮下さんの言うとおり、多くの友人が欲しいというわけではありませんね」
 次の休み時間、早速、璃子に聞いたことを簡単にまとめて遥に伝えると、彼女はすぐに璃子の言を認めた。
「わたしは誰かと毎日のように騒ぎたいから、とかそういう理由で友人が欲しいわけではなく、いざという時に頼れる存在が欲しいだけですから。ちなみに、黒瀬君はその存在に一応当て嵌まってはいますけど、異性ですからね。色々と融通が利かないこともあるんですよ」
 申し訳なさそうに苦笑して、俺にその顔を向ける。
「あぁ、それぐらいわかってるよ。いくら頼られているからといって、男の俺にできないことまで押し付けられちゃ、かなわんからな」
 いつか遥が口にした、「特別な存在」という言葉を忘れていたわけではない。俺はまだ、その存在の枠の中にいるのだなぁ、と他人事のように思った。
「ちなみに今、仲良くしたい、とか仲良くできそう、とかそんな気がする女子はいるのか? このクラスに限らず、学年全体で――」
「いませんね」
「……即答だな」
 思わず苦笑が漏れた。
 だが、それも仕方ないと思えた。遥は、このクラスの一部の女子からは疎ましい存在であると認識されてしまっている。仮にこのクラスの中の誰かと信頼関係を築くことができたとしても、邪魔されたり、相手の子に迷惑をかけたりすることになるかもしれない……とまでは考えていなくても、近いことを考えている可能性はある。その上で「いない」と答えているのであれば、遥の度胸は大したものだと思った。
「いえ、すみません。学年全体ではまだわかりません。お互いに顔を認識できるほど、接触したことがありませんから」
 眉を寄せ、少し機嫌が悪そうな表情で遥は鞄の中から文庫本を取り出す。これ以上は今は話さない、という意思表示だろう。無言で頷き、俺も自席へと戻る。
 次の授業の準備をするわけでもなく、頬杖をついて、消されていない黒板を睨む。数人の男子生徒が、チョークで描かれた、頭が異様に大きい未確認生物のような気味の悪い絵を前に大声で笑っている。その数メートル横では、遥の陰口を言っていた女子グループが、さっきの授業の先生の笑い方は相変わらずキモいだとか、次の授業の先生はハゲているから見たくない、とか言って盛り上がっていた。
「……下衆が」
 無意味な絵で笑いあえる男子が、とても幸福に思えた。遥には、あの女子たちの仲間には絶対になってほしくない。彼女らは、他人を貶すことに生きがいを見出しているような人間だ。きっと彼女らに見えているのは、自らが悪だと気付かずに、一緒に貶しあう仲間以外の正義を塗りつぶすことによって創られる、偽りの景色だ。それは俺たちにとっては偽りだろうが、彼女らにとっては本物だ。その薄汚れた景色の中で生きる術といえば、それは誰かを自分より下に突き落とすことのみだ。それこそ、まさに無意味だ。
 けたたましい笑い声が、今は、男子のいた場所から聞こえる。女子グループは先ほど男子が描いていた絵の場所に移動し、「何コレー!」「キモーい!」などと口々に言い合っている。いつの間にか男子たちは姿を消しており、黒板の前は女子たちが、たむろする場と化していた。しばらくその光景を眺めていると、「ねー、アタシ達も何か描こうよー!」という一人の提案を皮切りに、女子たちは男子の絵に被せるように描きはじめた。三十秒もすると、男子が描いた絵の上には、男女の名前が並んだ相合傘や、「○○死ね!」といった文字が並んでいた。その中には、同じクラスの女子の名前も複数あった。そして、「天月」という文字も。
「あ……お前ら何書いてんだよ!」
 トイレにでも行っていたのだろうか、廊下から姿を現した男子の一人が、笑いながら女子に言う。クラスメイトやほかの同級生が貶され、辱(はずかし)めの対象になっていることなど気にすることもなく、あくまでおふざけの雰囲気を纏って女子に迫る。途端に悲鳴とも笑い声ともつかぬ女子の声が耳を劈(つんざ)いて俺たちに届く。その声を聞いて、机の上に突っ伏した影があった。
「また……まただよ……」
 そんな小さな、か細い声が、俺の後ろの席から聞こえる。姿を確認しなくてもわかる。黒板に名前を書かれた女子の一人だ。これまでに何度も書かれている。ただ、誰も助けようとはしない。精々、慰めの言葉を掛けるのみだ。「大丈夫?」「気にしない方がいいよ」と。友人たちも本当は助けたいのだろうが、彼女らはこのクラスの中では男子以上に権力を持っているメンバーだ。歯向かえば、今度は自分が話の肴にされ、精神的、時には肉体的に追い込まれることは想像に易い。肩を震わせる女子の肩に手を置いて、ぽんぽんと叩いて慰めていた。少しだけ頬を赤くした女子が、苦しそうな笑顔を向けている。俺の知る範囲では、彼女は、騒いでいる女子たちに何かをしたわけではない。気づけば、彼女らの餌になっていた。
 彼らは、今も狭い教室の中で奇声を発しながら鬼ごっこを続けている。俺たちの横も、風を残して通過していく。後ろの女子の机に何度も膝がぶつかるが、誰も謝らず、止めもしない。そしてまた、ここではない場所で机に何かがぶつかる音がした。
「…………」
 その方向を見ると、遥が静かに腰を上げているところだった。あくまでゆったりとした動作で立ち上がると、長い髪を揺らして、遂に男子たちに捕まってしまった女子の元へと向かった。
「何」
 男子と戯れていた女子の一人が遥を睨む。地面に放置された犬の糞を見るような目つきだった。近くにいた彼女の仲間も、それに似た視線を送る。
 少しだけ、室内は静まった。もっとやれ。やめてくれ。数多の感情が含まれた視線が飛び交う。混ざり合い、蕩け合ったそれは、俺たちが持つ不快感を代弁していた。
 誰かの目を裏切り、誰かの目を受け入れて、遥は言った。
「うるさい。邪魔。どっか行って」
 それだけ残し、遥は何事もなかったように髪をなびかせて、くるりと反転する。華奢な背中を、茫然としている女たちに見せつけ、ゆっくりと自席に戻る。
 だが、女が静かにしていたのも数秒の間だけだった。何を言われたのか、ようやく把握した女は野獣のごとき俊敏さで遥に襲い掛かった。遥が手に持っていた文庫本が宙を舞い、くしゃりと音を立てて床に落ちる。椅子が蹴飛ばされ、机が投げられ、女は罵声を上げる。それはもはや、言葉として聞き取れるものではなかった。女と同じグループのメンバーの一人の女子が、飛ばされた文庫本を容赦なく踏みつける。遥に襲い掛かった女は、同じ国に住む人間とは思えぬ単語を発し、怒りのせいでぐしゃぐしゃになった顔を無理やり誇らしそうに見せて、馬乗りになっている。煽るように声をかけるクラスメイトが二人を囲み、そこは小さなコロッセオのようになっていた。
「ちょっと……ど、どきなさいよ……!」
 遥が額に脂汗を浮かべ、無理して開けた片目で女を睨みながら苦しそうに言う。当然、そんな生易しい言葉で動く奴ではない。目を一層大きく見開き、唾を飛ばし、後頭部を殴る。数発殴ると飽きたのか、今度は髪の毛を鷲掴みにし、女は強引に遥の顔を自分に向かせた。口の端からは、血が一筋流れている。
「無様だなぁ、おい。綺麗な顔が台無しだ」
 前髪には埃がついているし、頬には消しカスなどの細かなごみも付着している。至るところが黒ずんでいた。
 女はそんな遥の顔を見て優越感を得たのか、鼻で笑ったあと、腕を強く揺すった。呻き声が途切れ途切れに届く。
「お前はいつもいつもいい子ちゃんぶって本なんか読みやがってよ! むかつくんだよ!! 大人しいキャラ作って男子の気ぃ引こうとか思ってんのか!? 何か言えよ、おい!!」
 決して抵抗はせず、遥は痛みに耐えている。俺は、動こうとしても動けない。先ほど、他人の本音がどうとか考えていたが、それは自分も変わらない。思っているだけで、行動に移せる勇気など、俺もまた持ち合わせていない。ただ、それを情けなく思ったことはなかった。
「けどなぁ、お前を好きになってくれるような奴とかいねぇんだよ!! 無愛想で、陰気くさいお前の事なんか、誰も気に留めない。お前は所詮、このクラスの掃き溜めなんだよ! わかったか!!」
 女が言葉を発すごとに、そして遥が苦悶の表情を濃くしていくたびに、コロッセオを形成している男女の熱は温度を増してゆく。
 喧騒を聞きつけたほかのクラスの奴らが、廊下から眺めている。たまたま近くにいたのであろう老教師は、為す術なしと言いたげに呆けた表情をして、女が叫び、遥が苦しむ様子を見て立ち尽くしていた。
「孤りで……っ! 苦しいかっ! 辛いかっ! 言えっ!!」
 一言口にするたびに、何かしらの暴力を振るう。わずかに見えた遥の肩は、遠目にも分かるほどに震えていた。それに気づいた女が、腕の動きを止める。
俺は輪には近づかず、傍観者を決め込んでいた。だが、時折見えるいまの遥の姿にふと蘇るものがあった。口論をした日、遥が去り際に見せた姿に似ていた。友人が必要か否かについて話したあの日、遥は泣いていた。それが、繰り返されていた。
「……は」
「あん?」
 遥がようやく何かを発した。瞳は汚れた前髪で隠され、口元だけが見える。唇を舐め、不敵な笑みを浮かべながら、地面に向かって話し出す。
「わたしなんかよりも……」
 ぽつり、ぽつりと言葉が漏れる。
「迷惑に思っている周りの事、何も考えずに……」
 遥が俺の席……というよりも、俺の後ろの席へと一瞬だけ視線を向ける。
「ただ欲望だけに従って行動してる……」
 それは徐々に熱くなり、段階的に声量を増していく。視線を女へ、そして自分を囲んでいるクラスメイトに向けた。
「クズみたいな、アナタたちを見ている方が、よっぽど……苦しいですよっ!」
 はぁ、はぁ、と肩で息をする音が、誰かが歯軋りする音が、誰かが立ち上がった音が、また怒りをあらわにする女の声が、同時に轟いた。ようやく硬直が解けたのか、教師が慌てふためいた様子で教室内に入ってくる。
「ま、待って……」
 しかし、先生の前に立ちはだかる姿があった。馬乗りになっている女を含め、誰もが、その意外さに声を発せずにいた。
「もう……やめて……」
 その子は、先ほどまで女らの笑い者にされ、苦しさに涙を浮かべていた、俺の後ろの席の少女だった。まだ頬の赤みは消えておらず、今にも泣きだしそうな弱気な表情を浮かべているが、震える足を、肩を抑えつけ、女の前に立っていた。握りしめた拳に、彼女の感情――憎しみや恨み――が凝縮されていた。
「それ以上は、もう……見てられないよ。やめないのなら、な……殴るよ……?」
 本人にとっては脅しているつもりなのだろうが、高圧的な視線を送り続けている女と目をあわせられておらず、声も震えてしまっている状態では、却って女が調子に乗るだけだ。きっと少女もそれは分かっているだろうが、勇気を振り絞って女の前に立ち、遥を助けようとしている。
「……殴れよ、ほら。殴れるもんなら殴ってみろよ!! お前にそんな度胸があんのか!?」
 遥に対して叫んだ時と変わらない声量と迫力で、少女を委縮させる。言いながら、女は遥の首元に手を置き、少しではあるが力を込めている。ひっ、と少女は小声で叫び、後ずさった。それでも、決して背中を向けることはなく、立ち向かう姿勢は変わっていない。遥は、そんな少女の姿を視界にとらえ、苦しさの中に、驚きの表情を浮かべていた。
「な……殴らないで……」
 俺も教師も、また固まってしまう。遥のものとは思えぬ低い声が、絞めつけられている喉から漏れる。
「わたしの、ためにっ……そんな、こと……」
 少女の目が見開かれる。一秒だけ「なぜ?」と言いたげにしていたが、それは徐々に崩れ、目は鋭く、歯と歯の隙間から漏れる息は、荒いものに変わっていった。
「…………っ!」
 一つ短く息を吐き、少女が駆ける。数十センチ離れていた距離を、恐怖と惨めさで埋め尽くされていた自身の心がもたらす勢いと、そして怒りで埋める。完全に油断していた女は、彼女の拳を受け止めることはできなかった。
 教室内に乾いた音が響く。女は目を閉じていたが、拳は女に当たることはなく、その一寸先で止まっていた。正確には、「止められて」いた。
「えっ? ちょっと……」
 彼女の拳を止めていたのは、先ほど慰めていた彼女の友人だった。手のひらで、勢いづいていた拳を受け止め、ぷるぷると震わせながらも、殴らせることはしなかった。
「ごめん。でも、この状況でお前にこいつを殴らせるのは、良くないと思ったんだ」
 肩にかかる寸前で切られた髪を揺らし、ボーイッシュな口調で、友人は少女の手を握ったまま自身の手を下ろし、少し視線を落として言った。
「……ありがと、天月。そしてごめん」
 その直後、教師や、止めようとしていた奴らが女を取り押さえ、遥を引っ張り出した。女はしばらくの間、教師の腕の中で足掻いていたが、チャイムが鳴るころには疲れたのか、ぐったりとした状態でうつむいていた。二人はその後どこかに連れて行かれ、授業が終わるまで戻ってくることはなかった。


「天月さん、さっきは、その……ありがとう」
 ひと騒ぎあった後の休み時間……すなわち放課後、遥の席の周りには、女を殴ろうとした女子をはじめ数人の女子が集まり、口々にお礼を言っていた。遥はどうすればよいのかわからないのか、困惑した表情を浮かべていた。絆創膏などは貼られておらず、何事もなかったような見た目だ。
 一人の女子が言う。
「アタシら、ずっとあいつらの笑い話のネタにされてて……。嫌だったけど、あいつらに歯向かうと……ほら、さ。何となくどうなるかは予想がつくでしょ? だから面と向かって言い出せなくて……。今日、天月さんが言ってくれてちょっとスッとした。だから、ありがとう!」
 満面の笑みで遥はお礼を言われ、頬を赤らめている。
「あ……いえ、わたしはただ、読書の邪魔をされるのが嫌いなので……。ついカッとなっちゃいまして」
 しどろもどろになりながらも、遥は答える。
「あ、あと……助けられなくてごめん。天月さんがあんなになるまでほったらかしてしまったこと……。後悔してる」
 一人が謝ると、みんながそれに倣ったように謝りだす。やはり遥は困惑し、あわあわと両手を振り続けていた。
「い、いえ、そんな……。結果的にわたしはこうして教室に戻ってこられたわけですから、大丈夫ですよ。それに、さっきも言った通り、わたしは自分のためにやったことですから。皆さんが謝る必要なんて……」
 遥の言葉に、女子の顔が幾分か和む。薄らと涙を浮かべている子もいた。
「ありがとう、本当にありがとう!! 天月さんっていつも一人で読書してるし、その……アタシら同性から見ても綺麗だから、ちょっと接しづらかったんだよね。でも、今日からはそんなこと考えない! だから……」
 ずっと話していた女子が、少し言いづらそうに視線を外す。遥は不思議そうに思っているような表情を浮かべていた。俺には、彼女らが何を言いたいのかおおよその予想はついているのだが、きっと遥は気づいていない。だが……。
「今日、今からヒマ? もし予定無いんだったら、遊びに行かない?」
 隣にいた女子が彼女の後を継ぎ、笑顔で言う。同時に手も突き出していた。「もうー、アタシが言おうとしたのにー」、「いいじゃんいいじゃん!」などと、平和な口調と言葉が聞こえてくる。
 俺だけではない……同性の友人と交流していく中で、女子独特の雰囲気や、遊びというものを学んでいけばいい、と俺は思う。そうすれば、きっと遥は浮いた存在ではなくなり、このクラスに馴染んでゆくだろう。俺のように、一般ではありえない方法を使って居場所を作るよりも、自然な流れでそれを作った方が、心の底から楽しめるはずだ。
 俺は今、途方の無い寂寥感を覚えている。彼女らが「楽しい」と思ってあげている笑い声が、果てしなく遠いものに感じられる。教室内に残っている男子は俺を含めて二人だけで、残りの一人も、俺には全く興味を示すことはなく、教科書を片手にノートに何やら書き込んでいる。
 俺も、他人のことは言えない立場なんだな……。そう、しみじみと感じた。
 この教室内に自分の居場所はなかった。女子たちが発する空気に呑みこまれそうになる。俺は鞄を持ち、教室を出た。廊下に立ち、ドアを閉める瞬間に、差し出された手を握り、ぎこちなく笑んでいる遥の姿が見えた。


  8

 遥は孤独ではなくなった。休み時間に何気なく遥の席を視界に入れると、誰かしら女子の姿が確認できるようになった。ただし、遥が読書をしているときに近づく者はほとんどいない。あるとすれば、事務的なことを伝えるときぐらいなもので、周囲も彼女のことを理解し始めたのか、遥の好きなこと、嫌いなことを把握したうえでの行動をとるようになっていた。このクラス内には仲良くできそうな人はいない、と断言していたのに、それは案外簡単に崩れた。きっと遥は、これまで周囲に無関心すぎたのだ。無知すぎた。いつも本の中の世界に没頭している彼女に、現実の世界は見えていなかったのかもしれない。それが覆ったいま、彼女は少しずつではあるが、俺の前で見せていたような笑みをクラスメイトに向け始めている。女子は「実は接しやすい子なんだ」と、男子は「美人だからもっとお近づきになりたい」と、クラスの多くの人間が、天月遥という人間に興味を持ち始めていた。
 そしてそれとは対照的に、俺の周りはいっそう寂しくなり、遥の孤独を俺が背負ったような形になった。もともと、友人の多くは能力で作ったものだ。一緒にいて「楽しい」と思えるような奴など、数えるほどしかいない。最終的に自力で友人を作った遥と俺の間には、とてつもなく大きな隔たりが存在した。俺の周りに集うのは、あちらから好意で話しかけてきてくれた奴のみだった。ただ、これは自業自得だと思う。こちらから仲良くする気が大してなかったのに、相手が仲良くしてくれるはずがない。遥が幸せになり、俺が孤独になるのは当然と言えた。
「天月さーん! 一緒に帰ろー」
 今日も遥は、俺の後ろの席の女子と、その友人の子と一緒に帰る。とはいっても、遥は歩き、彼女らは電車通学なので、駅で別れることになる。それまでの僅かな時間だが、遥たちはその時間を楽しみながら帰っているようだった。
「お疲れ、黒瀬」
 教室を出る俺に声をかけてくれたのは、数少ない、俺が能力で作ったわけではない友人だ。いや、友人ではない。ただの知り合いと言った方が、適切かもしれなかった。下駄箱に向かう途中で何人かとすれ違う。俺の「数少ない友人枠」を越えた数だった。その全員に一応、「お疲れ」と声はかけておいた。全員が生返事で同じ言葉を繰り返す。
 薄暗い下校道を一人で歩く。校舎から遠くなるにつれ、喧騒が別世界に呑みこまれたように聞こえなくなる。やがて俺の耳に聞こえてくるのは、風に揺れる木々が奏でる葉擦れの音のみになる。いつか遥と話した児童公園を過ぎ、町で生きるそれぞれの人が織り成す音のパレードが俺を待ち受ける。みんなめまぐるしく、今日を、明日を生きるために動いている。なのに、俺は何もしていない。数か月前までの俺なら、偽りの友人を相手に繕った笑顔を浮かべ、流されるがままに彼らが赴く場所へと向かっていた。それは楽しくはあったのだが、心の底から楽しんでいたか、と問われると、すぐにはうなずけない。今思うと、あれは本当に楽しかったのだろうか、と悩んでしまう。
 道中にあるコンビニに寄る。何か食べ物を買って家で食おうと思い、店内を物色していると、見知った姿があった。
「あ、黒瀬君」
 黒髪を抑えつけ、お菓子の袋を睨んでいた姿は、
「遥……」
 少し辛そうに笑んでいた。


 俺たちは缶ドリンクを一本ずつ買い、コンビニから出る。駐車場の端に座り、それを口にしながら流れる光の筋を目で追う。
 夜風は少しずつ熱気を孕んできていた。六月に入ってから気温は上昇傾向にあり、上着を着ていると暑く感じる。それでも、夜はまだ過ごしやすかった。
「最近、どうだ? 放課後はみんなと一緒に帰ってるみたいだが」
 遥の方には視線を寄越さずに、正面を見た状態で問う。コンビニの自動ドアが開き、電子音が鳴る。去りゆく誰かの背中へと、その音は虚ろに語りかけていた。
「わたし、少し後悔しているんです」
 アイスコーヒーを口にして、遥はため息を吐く。
「確かにわたしは、最近クラスの中で話せるような人ができたし、黒瀬君じゃない誰かと一緒に帰る機会も増えました。以前まではあのクラスの人とは付き合えないだろう、と決め込んでいたんですが、そんなことはなかったです。わたしの勝手な妄想でした。……それはよかったんですが……」
 言いにくそうに遥はどもる。俺は、早くも飲みきってしまったジュースの缶を地面に置く。
「わたしが誰かと仲良くすればするほど、黒瀬君が孤立しているように見えるんです。それに気づいたのは本当に最近なんですが……。もしかしたら、自分が黒瀬君を苦しめているのではないかと……。自分がみんなと会話するようになったから、黒瀬君に誰も話しかけようとしなくなったんじゃないか、って思うと、今のわたしの立場がすごく申し訳なく感じられてしまって……」
 俺の横に置いていた缶が風で倒れた。傾斜に従って俺から離れ、寂しげな音を立てて転がっていくそれをぎゅっと掴む。
「以前にも言った通り、黒瀬君はわたしの友人です。でも、今の状態で、わたしたちは友人と言えるんでしょうか? 片方だけが楽しい思いをして、もう片方は苦しんでいる。お互いに幸せじゃないと友人とは言えないような気がするんです。今回の件で、わたしがあなたから友人を奪ったと思われているんじゃないか、とか考えていると無性に怖くなりまして……。気分転換にここに寄ったら、偶然にも鉢合わせてしまったんです」
 なるほど、先ほど彼女が見せたあの辛そうな表情の理由はそれだったのか。俺はそこについては納得したが、ほかの点には納得できない。一口飲んだだけの缶を、憂いを帯びた瞳で捉えている遥に、俺はできる限り、優しく聞こえるように配慮して伝える。
「別に俺は苦しくなんてない。今の形が、本来のお互いの姿なんじゃないかな、って思ってる。それに、俺は友人をとられたなんて考えてもなかったし、仮にそう思ったとしても、遥を恨むなんてことはしない。友人ならそれが普通じゃないか」
 友人、という言葉に、遥がぴくりと反応し、俺の方を見る。照明が反射する鏡のような瞳は、俺を的確に映していた。
「宮下、って覚えてるよな? 前に特別棟を案内したときに現れた小柄な子。あいつが言ってたんだ。『友人っていうのは、別れてからも会いたいと思えて、そして会う存在なんだ』とかな。今のお前が俺に対してそんな気持ちを持ってくれているのなら、それでいいんじゃないのか」
 遥は黙っている。硬直して、俺を見つめている。
「それに、両方とも幸せじゃなきゃ友人とは言えない、なんて俺は思わない。俺は別に苦しくなんてないから、お前のその考えは成立しないけどな……。自分が相手といて楽しいと思えて、相手は自分といて楽しいと思ってくれるのなら、それが友人っていう関係なんじゃないのか? 二人の間の友人事情に他人は関係ないよ」
 遥は俯いて小刻みに震えていた。俺は構わず、最後に一言だけ付け加える。
「友人なら、こんな風に『友人とは何だ』みたいなこと、殆ど話さないよ」
 俺が言い終わると、遥は顔を上げた。目尻に涙が浮かんでいた。だが、満面の笑顔だった。いや、優しい笑顔ではなかった。声を押し殺して笑っていたようだ。過呼吸に陥ったような音を上げている。
「……俺が真面目に話しているときに失礼な。しかも自分から振ったくせに」
 だが、俺も苦笑せずにはいられなかった。すみません、とやはり変な音をさせながら謝る遥に、軽くチョップを入れる。
「いや、本当にすみません。宮下さんの話が出てきて、それについて語っているあたりから無性に笑えてきまして……。ふふっ、それにしても、黒瀬君はそんな風に考えているんですね。友人という存在について」
「ん、まぁ、な。でも、お前から見えている友人、なんて存在ができたのは、本当に最近のことなんだ。多分一年も経ってない。しかも、それも何というか……偽りの存在みたいなもんだよ。詳しくは話せないけど、俺の周りにいたのは友人なんて呼べる大層なもんじゃない。ただの……知人だよ」
「そう……なんですか」
 遥はそれ以上、何も言ってこなかった。もしかしたら意外に思ったかもしれない。個人的な興味もあったかもしれない。けれども、黙って残りのコーヒーを飲みながら俺の横に座っていてくれた。三十分ほどそうしていただろうか。遥は唐突に立ち上がり、飲み終わった缶をごみ箱に向かって投げた。吸い込まれるように入った缶は、良い音を立てる。
「ほら、黒瀬君も」
 遥が手を差し出すので、自分が飲んだ缶も遥に手渡す。それも綺麗に入れてみせた。
「じゃ、わたしは帰ります。黒瀬君も、遅くならないうちに帰って下さい。今日は引きとめたりしてすみませんでした」
 遥は軽く会釈してその場を後にする。
「……やっぱり、黒瀬君は黒瀬君です」
 俺に背を向ける瞬間に遥が口にした言葉は、再び鳴ったコンビニの機械音と重なったが、はっきりと聞こえた。そして二度と振り返ることなく、薄闇の中に姿を消した。


  *

 黒瀬君と別れたコンビニから自宅マンションまでは、徒歩で十五分もかからない。わたしは幾らか気楽な心持ちでその道のりを歩いていた。暗い歩道を、たくさんの車が白く、赤く、黄色く照らしている。わたしはそんな光の道を、ゆったりとしたペースで歩く。
 彼は本当に変わらない。わたしと同じで時々無愛想なところも、時々優しく接してくれるところも。現在の彼とは、出会ってまだ僅かな時間しか経っていないが、消えてしまった時間が再び戻ってきているかのように、濃厚な時間を過ごせている気がする。
 でも、彼はわたしに嘘を吐いた。頑張ってそれを見破られないように取り繕っていたと思うが、わたしにとって、彼の嘘を見破ることはとても安易だ。口ではあんな風に言っていたが、少しは大切に思っていたはずだ。彼もわたしと同じ。わたしが知っている苦しみを、彼も知っている。ただ、覚えていないだけだ。
 今日は六月七日。一か月後はちょうど七夕だ。空を見上げれば、所々に小さな光の点が確認できる。七夕の日には、夏の夜空へと変貌を遂げていることだろう。
「もう、そんな時期なんですね……」
 時が流れるのは、時に早く、時に遅く感じられる。意識しないように過ごしていれば、それは早く、意識していれば遅く感じられるものだ。わたしはずっと意識していたはずなのに、今に至るまでを、長いと感じはしなかった。なぜだろう。昔は一秒一秒がとても遅く感じられたのに……。
 突然背後から鳴ったクラクションに、わたしは現実の世界へ呼び戻される。マンションへと続く、歩道のない道を歩いていたわたしの真横を、一台の乗用車が通り過ぎていった。はぁ、とわたしは息を吐き、羽虫が群がっている蛍光灯の下をくぐって、自室へと向かう。
 部屋の窓から見える道路では、何やら黒い影がうごめいている。変な人たちが集まりでもしているのだろうか。わたしは無視してカーテンを閉め、寝るまでの時間を過ごし始める。
「ふぅ……」
 素早くシャワーを浴び、簡単なものを胃袋に入れて、わたしはソファーに身を埋める。
 あの日の彼の言葉を、心の中に蘇らせる。苦しみと、悲しみを帯びた彼の声。わたしは何もできずに、目の前の光景に怯え、立ち竦んでいただけだった。あの日をなかったことにするために、わたしはいま、この世界で生きている。


  *

 数日が経過したが、俺の周りに変化はなく、平穏な日常が送られていた。クラスメイトを辱めた挙句、遥を殴り続けた女は謹慎処分を受けたため、学校には来ていない。おそらくあと数日は来られないだろう。
 しかし、今日の遥は少し雰囲気が重かった。事件後の遥は、大抵は誰かと一緒に登校していたのに、今朝は一人だった。俯き加減で入室した遥は、少し疲れた顔でクラスメイトに挨拶を返していた。五分ほどしてから登校した、助けられた女子たちも遥と目を合わそうとせず、偶然合ってしまった場合は、ついっ、と瞬時に目をそらしていた。
(あぁ、なるほど……)
 そんな彼女らの様子を見ていれば、いやでもその理由に気が付く。まして、遥が関わっているのだ。少し前まで人と付き合うことをしてこなかった遥なのだから、きっと付き合い方を間違えて、少し厄介ごとになってしまっているのだろう。
「黒瀬君……今日、よかったら一緒に帰ってくれませんか?」
 俺の席までやってきた遥が、懇願するような静かな口調で頭を下げる。
「あぁ、了解」
 俺の返答にわずかに笑みを浮かべて、自席に戻る。長い髪に隠れた背中からは、彼女の感情を読み取ることはできなかった。しかし、俺は彼女に対して同情などの感情を抱くことはなかった。ただ、羨ましく感じた。青春らしいことを悩める人生はさぞかし幸せなことだろう。


 放課後、俺は教室で遥を待っていた。俺に帰途の同伴を依頼した当の本人は、何やら用事があるとかで、放課後になると同時に教室を去った。だから、俺はスマホをいじったり、読書をしたりして暇をつぶしていた。
 遥が教室に戻ってくるころには、夕焼けが完全に消え去り、照明の光の欠片が目立ちだしていた。
「すみません、遅くなりました……」
 筆箱と数枚のプリントを抱えた遥は、疲れ切った顔でそれらを鞄に入れている。
「もしかして、補習だったのか?」
「え、えぇ。まぁ……」
 恥ずかしそうに笑いながら、俺の横に立ち、歩き出す。
「……なんか、ここ数日よくないことばっかり起きている気がします。本当に……」
 今日返ってきた数学の小テストで教師の決めた点数に達していなければ、補習を受けなければならなかったのだ。遥の成績は良い。少なくとも、俺よりは数段上なはずだ。
「珍しいな。俺すらも赤点は免れたっていうのに。凡ミスでもしてしまったのか?」
「……はい。公式を完全に忘れてしまいまして……」
 などと、他愛もない話を二人で続けながら、共通の下校道を歩く。もしかしたら、それは遥にとって、悩みを相談しづらい環境でしかなかったかもしれない。しかし、俺のその悩みは杞憂だと言わんばかりの自然な笑顔を、遥は向けてくれた。俺たちの横を行く光がなくても、十分に眩しいと思えた。
 道路の先に分岐が見えてくる。俺の家へ向かう道と、遥の家へと向かう道だ。十五分もかからぬうちに、そこへとたどり着くことだろう。
「黒瀬君、一つ、相談事があるのですが……」
 少しだけ歩く速度を遅めて遥は話し出す。
「何だ?」
 予想はついているが、敢えてわかっていない振りをして彼女に顔を向ける。そうして、遥が重く閉ざしていた口を開くのを待った。
「その……わたし、昨日、一緒に帰っていた子と喧嘩してしまいまして……」
 ぽつりぽつりと、俯いたまま話し出す。
 俺の想像した通り、些細な意見の食い違いから、遥たちは仲違いしてしまったようだ。原因は遥なので、相手の女子は話しかけてきてくれず、こちらから歩み寄っても無視されてしまうようだ。
「可能ならば、折角できた友人なので、早いうちに仲直りしてしまいたいんです。あまり時間を置きすぎちゃうと、余計に溝が深まってしまうと思うので」
「それは事実だな。仲直りするなら、さっさとしてしまうべきだ。それは正しいんだけど……無視されてしまうんだよな」
 はい、と遥は悲しそうにつぶやく。小学生の頃は、所詮、形があるのかわからない自尊心と、「相手に先に謝ったら笑われる」とかいう妄想による意地の張り合いだったので、気が付けば自然と収束していたり、先生に言われてお互いに謝ったりすれば解決していた。
「遥……お前はこれまで喧嘩とかしたことあんのか?」
 空を見上げて問う。遥も俺につられるように、上空を見上げた。赤い光を灯らせて、一機の航空機が横切って行った。
 高校生にもなり、お互いのことを「好き」とか「嫌い」とかいった感情ではっきりと分けられるようになると、簡単に仲直りもできなくなる。輪郭がはっきりとしていなかった自尊心は明確なものへと姿を変え、それを傷つけられまいと相手に対して対抗的になる。特に信頼関係が浅いと、こういったことは起こりやすいように思える。早くも視界から消えた航空機の光のように、一度機会を逃してしまうと、再び掴むチャンスが到来するまで待つしかなくなる。
「そう、ですね……。他人と関わってこなかったせいで、そういった経験はゼロに等しいです。誰かと仲良くならなければ、ぶつかることもありませんし……」
 だよな、と俺は予想通りの答えに少し安心する。
「とりあえず、強引にでも謝ってしまえよ。相手が無視するんなら、無視させたまま言っちまえよ。俺はあいつらと深く関わったことはないが、多分悪い奴らじゃない。今の無視だって、きっと一時の心の迷いだ。あいつらも、お前に合わせる顔がなくて無視してるだけだと思うぜ」
「……そうなんでしょうか」
 だから俺は、若干無謀な提案をした。機会を作られないのなら、自ら作るべきだ。そう考えたが故の言葉だった。
 遥はしばらく不安そうな顔をしていたが、やがて俺の言葉を受け入れたのか、それとも当たって砕けようと思ったのか定かではないが、少しだけ笑みを浮かべてくれた。
「あ、そうそう。あと一つ、聞いてもらいたいことがあるんですが」
「何だ? まだ人間関係で悩んでるのか?」
 俺が訊くと、遥は首を横に振って、声のトーンを落とした。
「いえ、そうじゃなくて……。最近、誰かに見られているような気がするんです。みんなと一緒に帰っている時も、ちょっと気配を感じたりして。それに、わたしの家……マンションなんですけど、わたしが部屋に入って下を見ると、大抵数人組の人がいるんです。初めは気のせいだとか、偶然だとかと思い込んでいたんですが……。もう結構な日数続いているんで、不安になって……」
「不審者か? ストーカーとか?」
 と訊いて、俺は背後を振り返る。暗がりではっきりとは見えないが、少なくとも、俺にそんな気配は感じられない。
「ちなみに、今もいたりするのか? その不審者」
 遥は少しの間黙って歩く。十秒ほどそうしたのち、ゆっくりと首を横に振った。
「そうか……」
 そう答えて、俺は黙る。遥は、種類の違う不安と恐怖を顔に浮かべ、沈黙している。分かれ道まで残り十メートルという場所で、遥はゆっくりと俯いていた顔を上げた。
「その……黒瀬君、提案……というかお願いがあるんですが」
 横を通り抜ける車が起こす風で、遥の髪が左右に靡く。暗闇の中でもその漆黒は目立ち、妖艶(ようえん)に映えていた。
「もしお時間に余裕があるのならば……家までついてきてもらえませんか?」
 少しだけ躊躇が混じっていた。けれども、それはすぐに強い決意によって掻き消されたように思えた。


 ストーカーに付け回されているかもしれないという女子を放っておくこともできず、俺は分かれ道で自分の家がある方向に向かわず、遥の住むマンションへと向かっていた。
「というか、よくよく考えれば遥自身がストーカーだったんじゃなかったっけ? 俺の」
「それはー……あ、わたしの家、こっちです」
 喧騒が絶えない通りから一転、人気(ひとけ)のない道へと遥は入る。
「もう五分もかからないですよ。折角来てもらったので、お茶でも飲んでいきます? わざわざ付き合ってもらったわけですし、お礼も兼ねて」
 道の先には確かにマンションがある。どこにでもありそうな五階建てのマンションだ。
「いや、いいよ。あんまり遅くなるのも悪いし――」
 そう言って、俺は来た道を変える予定だった。だが、それは叶わない。俺たちが歩いてきた方向は、数体の黒い影によって塞がれていた。
「え……なに……!?」
 背後から遥が驚きの混じった声を上げる。先頭に一人の女子、その後ろには屈強な、いかにも悪さをしていそうな男たちが、いつでも襲い掛かれると言わんばかりに好戦的な雰囲気を醸し出している。
 そしてその女子には見覚えがあった。まだ自宅謹慎処分中の、クラスメイトの女だった。
「……何の用だ」
 体を硬直させている遥を庇いつつ、俺が口火を切る。女は鼻で笑って一歩前に出た。
「何、って……。あたしがその女の前に来てる時点で大体予想つかねぇか? しかもこんな逆ハーレム状態でよ。もし天然で訊いてるんだとしたら、あんた馬鹿すぎるよ」
「……復讐……ですか」
 背後から少しおびえたような小さな声が飛ぶ。俺は正面の女を凝視しているので、その姿までは確認できない。女はそんな遥の態度に、またもや優越感を覚えたようだった。見下した目で俺たちを見た。
「お前のせいで学校から処分食らっちまってからよ、ちょっとイラつくことが増えたんだわ。仲間とは満足につるめなくなるし、親も顔合わせる度に小言を言ってきやがるし。それで、ちょっと昔の彼氏に相談したんよ。そいつは今この場にはいねーんだがな。良い案を教えてくれた。あたしらは、それをやりに、ここに来た」
 古い電球は点滅を繰り返し、月光は雲に閉ざされる。全ての状況が女に味方しているように、俺には感じられた。
「……まったく、ここまで来んのに苦労したんだぜ? 家を突き止めるために、弱い女どもと仲睦まじく帰るお前を尾行したり、協力してくれそうな男を探したりしたよ。お前にあたしの怖さを覚えさせて、二度と逆らわないように調教するために、作戦も練った。効率的に相手を壊す方法を探してな。楽しかったよ、その間は。憎たらしいあいつを消せると思ったら、異様に興奮しちまった。そして今日、やっとお前を襲おうと決めて来てみれば……何だ? 男と一緒かぁ? 彼氏か? そりゃそんなに可愛けりゃ、男の一人や二人、簡単だよな!」
 どうやら、遥を付け回していたのはこの女だったらしい。マンションの下で集まっていた、というのも、女と仲間の男のことだろう。だが、今そんなことはどうでもいい。女の言葉に、俺の中で何かが切れる。決壊したそれは、体の中を這いずりまわり、頭を目指して一気に駆け上がる。
 そんなにも遥が憎いか? そもそも遥がお前に強い口調で言ったのはお前らがうるさくしたからだろう? 遥は間違ったことをしていない。遥は男で遊ぶような軽い人間ではないし、そして遥と一緒に帰っている女子も弱くなんてない。本当に弱いのならば、あの場面でお前に対抗できるはずないじゃないか。俺のように、固まっているだけになるはずだ。
 先ほど女が発したすべての言葉を打ち消す。この女は、何一つとして正しいことを言っていない。全て腐った脳が見せている妄想だ。その被害に遭っている遥が、そして女子たちはさぞかし迷惑なことだろう。直接的な被害を認識していない俺が思っても配慮に欠けるだろうが、今の俺の心の中は、目の前の女を潰したい。ただそれだけだった。
 理不尽な憎しみに対する俺の正当な怒りは、俺の中で膨れあがっている。
 女は俺を見て少し目の形を変えた。
「お前は……黒瀬か。気づかんかった。あいつと一緒に帰ってたのってお前だったのか。……そこをどきな。あんたのことは好きではないが、恨みはない。こいつらに殴られたくなければ――」
「どくか」
 男たちを親指で指しながら言う女に、俺は言い放つ。それから、遥には近づかせまいと主張するように女の前に立ちはだかった。
「俺はあんたが嫌いだ。恨まれていないのは普通なら光栄と思うんだがな。でも、弱い奴や無抵抗な奴に、自分の力を誇示して辱めを与えているような奴になぞ、嫌われようが憎まれようが気にしない。むしろ、嫌われたいよ。そんな奴に好かれたくない。だから、あんたを潰す。二度と力を示せないようにしてやるよ」
 俺の言葉に女の眉が震えている。頭に血が上っているのがはっきりとわかる。きっとすぐにでも殴りかかってくるだろう。俺はいつでも応戦できるよう、軽く構える。
「……さっきからお前はあたしのこと、あんたあんた言ってるけど、ちゃんと名前があるんだよ。それを――」
「覚えてない」
 きっとそれは、女が用意していた最後の言葉だったのだろう。俺の返答によって怒りのボルテージが最高潮に達したのか、いよいよ女は殴りかかってきた。それを確認して、後ろの男どもも戦いに加わった。
 あの時と同様、女は馬乗りになろうとするが、俺がそれを許さない。喧嘩慣れはしていないが、そもそも男と女だ。体格や体力に差はある。だから、少しぐらいなら持ちこたえられるはずだ。その間に、誰かが気づいてくれれば……。
だが、すぐに女はしびれを切らし、遥を拘束しようとしていた男たち全員に、俺の動きを止めるよう命じた。男たちはすぐにやってきた。男の拘束から逃れた遥は、逃げることもせずに、その場で放心している。整っていたはずの髪は乱れ、制服にも至る所に皺が寄り、汚れがついている。生気が宿っていない瞳で、俺が殴られそうになっている様を見ている。
「逃げ――!」
 そんな遥に俺の叫びは届かない。遥に気を奪われた一瞬の隙に付け入られ、俺は拘束される。一発腹を殴られ、体が折れた直後、両腕を締められた。胃液が込み上げ、酸味が口の中に広がる。
「……手こずらせやがって」
 女がぽつりと呟き、俺を殴る。何度も何度も殴られる。酸味と共に鉄の味が口内に広がり、言いようのない不快感に襲われる。顔が腫れあがり、きっと醜い様になっているんだろうなぁ……と、他人事のような気持ちが不意に湧き上がってきた。そんな顔を見たら、遥は何と思うのだろうか。キモいと思われるだろうか。いや、遥のことだ。もし心のどこかではそう思う気持ちがあったとしても、打ち消してくれる気がする。高望みかもしれないが、その後に軽く治療してくれれば、俺としては勇んだ甲斐があるというものだ。
 もはや、顔に痛みは感じなかった。感覚が麻痺してきたのだろうか。女は、一段と強い拳を俺に食らわせ、今度は遥の番だと言わんばかりに、みじろぎ一つしない彼女の元へ歩み寄った。
「…………………」
 もう一度逃げろと叫びたい。けれども、俺の口は言うことを聞かない。叫ぶ気力すら残っていないようだった。
――だったら、願えばどうだ?
 動かなくなった俺の体に、一つの考えが沁み渡る。開くのさえ困難な目で、一歩ずつ遥に近づいている女を見る。それは、俺の能力が初めて他人のために使われた瞬間かもしれなかった。『大切な人を守りたい』という、多くの人間が持つであろう願望を、俺はずっと忘れていた。周りとうまく接せられないが故に、自分にとって得だと思うことだけを願ってきた。だから、こうして誰かを助けるために願うことは、とても清々しい気分だった。
 その後のことはよく覚えていない。誰かが「逃げろ!」と言っていた気もするし、優しげな声を聞いたような気もする。
 俺が目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上だった。室内は薄暗く、仄かな月光が、カーテンの影を床に映していた。ベッドの脇には、静かな寝息をたてて眠る一人の少女の姿がある。
「いてっ……」
 体を動かすと、痺れるような痛みが走る。顔には厚いガーゼが当てられており、鈍痛が絶えない。手首を回したり、足を軽く動かしたりしてみるが、大きな怪我はないようだった。まずはそのことに安堵する。
 遥は自分の腕を枕にして、俺が眠っていたベッドに臥すようにして寝息を立てていた。安らかに眠る彼女に、目立った外傷は見られなかった。掛布団に少しだけかかっていた彼女の繊細な髪の毛が、はらっと垂れる。
「んっ……。んん…………」
 何か気配を感じたのか、遥が小さな声を漏らす。けれども起きることはなく、再び穏やかな寝息が聞こえ始めた。
「……また、出会って……」
 寝言だろうか。囁くような声であるが、静かなこの部屋の中では、はっきりと聞き取れた。
「もう、いちど…………」
 それ以上、遥が寝言を漏らすことはなかった。俺は彼女が目覚めるまでずっと、その穏やかで、悲しそうな寝顔を眺めていた。


「すみませんでした、黒瀬君。わたしのせいで……」
 遥はその後、三十分と経たぬうちに目を覚ました。起きた直後の遥は、俺が起き上がっていることに驚いていたようだったが、やがて落ち着き、いつもの彼女に戻った。コーヒーでも飲みますか? という遥の言葉に甘え、今は湯気の立つ一杯のコーヒーを前にして、沈黙の空間に二人で佇んでいたところだった。
「……急にどうしたんだ?」
「わたしが一緒に帰ってくれ、なんて言ったから、黒瀬君まで巻き込まれることに……。本当に申し訳ありません」
 手にしている、自分の分のコーヒーに前髪が浸かりそうになるぐらいに、遥は頭を下げる。ほんのりと昇る一筋の湯気が、彼女の睫毛を蒸らしてゆく。
「いや、謝らなくてもいいよ。全部あいつらが悪いんだし、俺が怪我したのも自分が悪いんだから」
 コーヒーを一口すする。砂糖もミルクも入っていないらしく、とても苦かった。あと、傷に染みて痛かった。
「そ、それでも……。わたしがやっぱり全ての元凶ですし……。何かお詫びを――」
「それよりも遥。俺が気絶した後、どうなったんだ? 俺たちが今、こうして話せている、ってことは、一応落ち着きはしたんだろ?」
 俺は遥の言を遮って訊ねる。何か言いたそうに遥は口をもごもごさせていたが、やがて張っていた肩の力を抜き、コーヒーを一口飲んでから話してくれた。
 俺が倒れた後、女らは遥を襲おうとした。だが、住民の男性が騒動に気づいて飛び出してきたため、女らは遥を傷つけることなく、去っていった。その後、男性は未だ放心状態だった遥と傷だらけの俺を、遥の部屋に運び込んでくれた。男性が呼びかけると、遥は間もなく正気を取り戻し、俺の介抱をしてくれた。そして今に至るそうだ。
「……」
 とても自然な流れだと思った。俺が、『遥が助かりますように』と願わなかったとしても、同じ結末を迎えていそうに思えた。
「……といっても、ほとんど男性から聞いたものですよ。よく覚えていないのですが、きっとわたしも気絶に近い状態に陥っていました。ですから、黒瀬君が戦っている時のことも記憶にないんです。すみません」
「それこそ謝らなくていいことだが……。俺の『逃げろ』って声、聞こえてたか?」
 俺の問いに目を瞬かせる。だが、やはり彼女の記憶の中に、そんなシーンは無いようだった。
「……大丈夫なのか? 身体もそうだが、精神的にも」
「今の黒瀬君に心配されるほど、わたしも脆弱じゃありませんよ。黒瀬君はわたしのことよりも、自分の体を元通りにさせることを優先してください」
 遥は早口で言い切り、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。少し咳き込みながらも全て流し込み、傍らの小さなテーブルに空になったカップを勢いよく置いた。そこには一冊の文庫本が置いてあった。
「その本は?」
 俺の視線を辿って、遥もそちらを見る。
「あぁ、黒瀬君が目を覚ますまで読んでいようと思いまして。読んでいる途中でわたしも眠っちゃったみたいですけどね」
 苦笑しながら遥は人差し指でその表紙に触れる。長く白い指が、悲しみを癒させるように滑っていった。
 それにはブックカバーが掛けられていなかった。表紙には「☆」の形が無数に描かれている。黄色に塗りつぶされたそれらが、紙の上で大きな存在感を放っていた。
「どんな本なんだ?」
 俺が尋ねると、遥はわずかに目の色を曇らせる。しかし、すぐに優しげな瞳に変わった。そして、静かな声音で話し出した。
「……色々な星座の神話を題材にした、短編集です。かに座とか、さそり座とか、しし座とか。話の後には、その神話の内容の説明がされていて、きっと読みやすいと思いますよ。ですが……」
 その本を手繰り寄せ、胸元で抱える。俯き、少し震える唇で言葉を続けた。
「わたしは……この本は、あまり好きではないんです。神話はもちろん、それを使って作られたお話も素晴らしいです。でも、悲しい話が多いんです。誰かを殺したり、逆に誰かが殺されたり、避けられぬ過酷な運命があったり……。普段読んでいる小説にも、当然そのようなシーンは数多くありますが、それとは違うんです。まるで自分の身に起きているように、とても辛く、寂しい気分になってくるんです。大切な人がいても、その人と別れざるを得なくなったり、自分が別れる原因を作ってしまったり……。ハッピーエンドを迎えても、救われた気分になれないんですよ。絶対に、何かぽっかり抜けてしまったような虚無感に苛まれるんです」
 抱えた本には、少しばかり爪が立てられていた。
 俺には、そうか、と呟くことしかできなかった。途中から、遥は目尻に涙を溜めながら話をしていた。声もくぐもったものに変わり、体の震えは大きくなっていた。
「……そんな中に、わたしの心に残っている神話が一つあるんです。聞いてくれますか?」
 俺は無言で頷いた。苦みが増したように感じられるコーヒーを飲み干し、遥の話に耳を傾ける。
「これも、悲しい話です」
 所々、彼女の言葉は途切れ、声は枯れていった。それでも遥は話を止めることはなく、俺に語り続けてくれた。
 俺では、彼女の心の内を察すことしかできない。彼女に共感することはできても、想いを共有することはできるはずがない。そう考えていた。
 だが、話を聞いている間に、俺はその不可能なことを可能にしたいという想いが込み上げてくるのを感じた。
 話の悲しさの中に、一つの懐かしさが垣間見えたことが最も大きな原因だろう。訥々と話す彼女の言葉一つ一つに、数多の想いが籠っているように感じられた。
 話は十五分ほどで終わった。そして、彼女はぽつりと呟いた。
「この神話の主人公は……わたしに似ています」
「……それって、どういう――」
 俺の問いに彼女は答えなかった。静謐な瞳を携え、美しい黒髪を揺らし、遥はそっと、俺の頬に触れた。
 黙ったまま、彼女は微笑む。それは柔らかな拒絶のように感じられた。
「……もうちょっと、待ってて下さいね」
 しなやかな指が頬を伝う。少しくすぐったかった。
 けれどもそれは、言葉では言い表せない程に心地良いものだった。


  9

 一日学校を休んでから登校した俺を見た周囲の反応は、正直言って薄かった。みんな、何があったんだ? と興味と好奇心を孕んだ視線で俺を見るが、誰もそれについて問いかけてくることはなかった。もしかしたら、何か事情があるのだろう、と把握してくれた上で、気を遣って話しかけないようにしているのではないか、と思ったが、その考えは数人のクラスメイトからの「キモっ」という言葉で消え去った。ガーゼはもうつけていないが、殴られた跡は紫色になって残っている。何も知らぬ者が見れば、確かに気味悪く映ることだろう。寧ろ、俺よりも遥の方が心配されていた。特に、一緒に帰っている女子たちからの心配は大きかった。遥が学校を休んだのは、自分たちと喧嘩して落ち込んでしまったからなのではないか、と勘違いしたらしく、遥が教室に入るなり、彼女の元へと駆けて行って、ずっと頭を下げていた。遥が軽く説明して誤解が解けると、喧嘩前の状態に戻ったらしく、湿った表情は消え、再び笑顔を見せるようになっていた。
「黒瀬ー」
 クラスメイトの男子に呼ばれ、そちらに向かう。その男子生徒の傍らには、高く積まれたノートの束があった。
「悪ぃけど、これ、持ってってくれないか? ちょっと野暮用があってよー。ほら、いいだろ?」
 右手でノートを叩き、左手で俺の肩を抱く。笑顔を見せてはいるが、友好的な笑みではない。軽く蔑まれているような顔だった。
「……何で俺が」
「だって、お前まだノート出してねーじゃん。自分の分も出して、とっとと持ってけよ」
 ため息を吐いて男を睨む。相手も睨み返してきた。俺は隠すこともせず舌打ちして、ノートを抱える。ありがとよ、と感謝の籠っていない言葉を掛けられる。
「あっ、黒瀬君。ちょっと待ってください」
 廊下に出ると、背後から声をかけられる。ゆっくりと振り向くと、遥がノートを手に向かってきていた。
「……手伝いましょうか?」
「いや、いい。それよりも、俺の鞄に入ってるノートを取ってきてくれないか? 遥のやつと同じ色をしたノートが入ってるはずだから」
 はい、と答えて駆け足で遥は教室内に戻る。すぐに戻ってきてくれた。
「どうぞ。……本当に大丈夫ですか? 無理しちゃダメなんですよ?」
まったく、怪我している人に持たせるなんて……と遥は我がことのように怒っている。それは素直に嬉しかったが、女子に重いものを持たせるのは男としていけないことだと思う。気持ちだけもらって、俺は職員室へと向かった。
 コーヒーの匂いが充満している室内へと足を踏み入れる。目的の人物はすぐに見つかった。
「あぁ、ありがとうな。黒瀬」
 先生にノートの束を渡し、さっさと戻ろう踵を返すと、先生がそうだ、と俺を呼び止めた。
「一昨日、学校に連絡があったんだけどな。お前、クラスの女子と揉めたみたいじゃないか。怪我は大丈夫か? 昨日は休んでたから心配していたんだが……。あと、天月もな」
 この先生は俺たちの担任なので、クラス内でのことはすぐに伝わるのだろう。一応心配しているようだが、僅かな好奇心も見て取れた。俺は大丈夫です、とすげなく告げ、今度こそ背中を向けた。
「……クラスには伝えたが、お前らを襲った奴は停学処分になった。天月にも伝えといてくれ」
 はい、と俺は少しだけ先生の方を向いて答え、職員室を出る。
「あっ、先輩! お久しぶりです……って、どうしたんですか、その顔!?」
 廊下の向こうから、璃子が驚愕の顔つきをしてこちらへ走ってくる。
「あぁ、ちょっとトラブルがあってな。でもすぐに治るから。気にしないでくれ」
「……もしかして、殴り合いの喧嘩に巻き込まれた、っていうのは先輩のことだったんですか? 昨日のホームルームで先生から聞いたんだけど……」
 多分そうだ、と頷く。璃子は心配そうに顔の傷跡を見つめ、
「あの……もし私にできることがあったら、言ってくださいね! 可能な限り、先輩の力になりたいし!」
 と言ってくれた。
「あ、璃子―」
「何してんのー?」
 並んで歩く俺たちの背後から女子の声が届く。璃子もまた二人の名前を呼んでいたので、きっと友達なのだろう。璃子は去り際に視線を一度だけこちらに向け、俺が軽く頷くと笑顔で去っていった。週末のアレなんだけどさー、と明るく話す彼女らを見ていると、何とも璃子の友人らしいな、と思った。やはり璃子は、自身のその性質を生かした友人作りをしているのだろう。
 教室に戻ると、すぐに担任教師がやってきてホームルームが始まった。俺と遥が復帰したこともあってか、恐らく二度目であろう、厄介事は起こすなという注意があった以外はいつも通りだった。先生が出ていくと、一時間目の授業まで教室は一時の喧騒に包まれる。
 その賑やかさに紛れるように静かに、遥が俺の席までやってきた。
「その……黒瀬君。一つお願い……というか、頼みごとがあるんですが」
 周りには聞かれたくない話なのか、教室は賑やかなのに遥の声は小さい。俺に耳打ちするように自身の口元を隠して言った。
「黒瀬君、わたしにお礼をさせてくれませんか?」
「……お礼?」
「はい、お礼です。先日、あの集団からわたしを守ってくれたお礼」
「いいって、そんなの。お礼のためにあんなことしたわけじゃないし……」
「――そういうわけにはいかないんです!」
俺の言葉を、遥は決意の籠った声で掻き消す。
「わたしのせいで痛い思いをさせてしまったんです。償いの一つや二つはしないと、わたしの気が済みません。もし黒瀬君が、優しさでわたしの頼みを断っているのだとしたら、こう思ってください。黒瀬君は、わたしの心の平穏を保つためにお礼をする、と」
 俺はそんな美しい気持ちで遥のお礼を拒んでいるわけではないのだが、前かがみになって、俺に迫るようにして言う遥を見ていると、それもいいかな、という考えが沸き起こってきた。必死になって説得しようとする遥が少し微笑ましくて、笑いをかみ殺しながら俺は答える。
「……お礼とかされるのに慣れてないから断ってただけなんだけどな……。わかった。何を頼むかはわからないけど、決まり次第、言わせてもらうよ。もちろん、無理のない範囲でのお礼にするが」
 俺の返事を聞くと、遥は心底嬉しそうに笑んだ。俺の言葉が彼女の心を少し軽くしたのだろうか。遥にとって良い方向に転がったのなら、それは嬉しいことだった。
「では、何にするか決めたら、また教えてください」
 遥が自席へと戻るその後姿を眺めながら考える。クラスメイトの騒ぎ声が、少し遠くなったように感じられた。
「……まぁ、急ぐことはないか」
 思考から意識を離し、鞄の中を漁る。すぐに教師が入室し、一時間目の授業が始まった。


「どうでしょう、黒瀬君? 何かありましたか?」
 昼休みになると、再び遥が俺の席までやってきた。俺は午前の授業の暇な時などに考えていたところ、一つだけ思い浮かぶことがあった。俺としても少し関心があることだったし、きっと遥も好きだと思う。
「ケーキ……」
 けーき? と遥が反芻する。俺は小さく頷いて続けた。
「……ケーキバイキングに付き合ってくれないか?」
 以前、諒也とラーメンを食べに行く前に見ていたコマーシャルを思い出したのだ。結構安かったので、今月の生活に大きな支障はきたさないだろう。先ほどスマホで調べたところ、まだ時間に余裕はあった。遥の予定さえ合えば、彼女も了承してくれるはずだ。
 俺の答えに、遥は呆けた表情を浮かべて突っ立っている。
「……そんなので、いいんですか?」
「そんなのでいいんだよ。遥は甘いものは嫌いか?」
 いえ……と遥は首を横に振る。彼女の表情から、戸惑いの色は消えない。
「……黒瀬君は、甘いものが好きなんですか?」
「そんなに好き、ってわけではない。でも、最近甘いものを食べてないな、って前に思ったことがあってさ。今回は丁度いい機会だから、遥と一緒に行こうかな、と。あんな場所は、男一人で行くのは寂しすぎるからな。予定は大丈夫か?」
「大丈夫、ですが……」
「じゃ、決まりだ。詳しい日程はまた後で話そう。それでいいか?」
 やや強引に話を終わらせた俺にかける言葉も見つからず、遥は弱く頷く。けれども、そこに拒絶の態度は見えない。遥は了解しました、と小さく呟いた後、柔らかな笑みを浮かべた。小刻みに揺れる優しさに満ちた瞳の中に、俺は映っているようだった。


 俺たちが住む町は、数日前に梅雨入りが発表された。これからは雨が降り、じめじめと過ごしづらい日々が続くかもしれない。現に今日も、外にいると、ぬるい水粒に体中を締め付けられているような不快感に襲われる日だった。
 待ち合わせは駅ということになっている。駅から目的の店までは、徒歩で十五分とかからない。俺が遅れてはいけない、と集合時間よりも少し早く到着したところ、遥はまだ到着していなかった。
 休日の駅前は、色々な人でごった返している。どこかへ向かう家族連れや、男女のカップル。部活へ向かう、うちの学校の生徒も見られた。それぞれの生活を営む彼らの喧騒の中に俺が混じり込んでいるように感じられ、ここに立ち尽くしている自分に違和感を覚えた。
 楽しそうに笑いながら駅構内へと歩いていくカップルを視界の隅に入れる。女は、不快指数が高いこんな日に相応しいと言える涼しげな服装を、男の方は少し力を入れたのか、暑そうだがやや派手な格好をしている。改めて俺は自分の恰好を見る。いつもと変わらない地味なグレーのシャツと、快適さを重視したラフなパンツ。周囲から見て、俺はどのように見えているのだろうか。少なくとも、これから女子と出かける男とは思われていないだろう。目の前を歩く女連れの男全員が、俺を見て蔑むような目を向けている。鬱陶しく思いながら、遥に対する申し訳ないという気持ちが湧き上がってきていた。
「……あっ、黒瀬君」
 暑さで流れてくる汗を拭い拭い待っていると、間もなく、名前を呼ばれる声が聞こえた。遥が小さく手を振りつつ、こちらへ向かっているところだった。
「すみません、待ちましたか? ちょっと服選びに時間がかかっちゃいまして」
 言いながら、自身が着ている純白のワンピースの裾をそっと摘む。派手なわけではないのだが、清楚な彼女を柔らかく包み込み、その美しさを際立たせている。兼ねて、先ほどのカップルの女のように、清涼感をも与えてくれる。頬を伝う一筋の汗も、それをハンカチで拭きながら歩く姿も、嫋(たお)やかに映る。
「私服姿を見るのは初めてだけど……。似合ってるんじゃないか。……落ち着いた雰囲気が感じられるよ」
「……ありがとうございます……」
 俺が恥ずかしがって、まともに遥を見られずにそんな感想を述べると、その感情が伝播したのか、彼女もわずかに頬を上気させて俯きながらも、か細い声で礼を言った。
「……今日は髪、結んでるんだな。いつも下ろしてるから、ちょっと違って見える」
 長い髪は、今日は薄茶色のシュシュによってまとめられている。ポニーテールにされた黒髪は、いつもとは違う軌道で左右に揺れていた。
「はい、食べ物を扱っている場所に行くわけですからね……。それに、今日は少し気合を入れたんです」
 遥はシュシュを指さす。俺の視線もそこに向けられる。
「このシュシュ、普段は付けたりしないんですが……。今日はちょっと特別な日ですから、久しぶりに付けてみたんです。大切な物、でして。おかしなところはないですか?」
 あぁ、と俺は強く頷く。
 遥はしばらくそのシュシュを触っていたが、やがて微笑みを浮かべ、「行きましょうか」と言った。背後から見る遥の姿には、花が咲いているように思えた。時折吹く生暖かい風に、その花は揺れている。今日だけで見せてくれた、色々な表情を思い返しながら、俺は彼女を追った。


 店には程なくして到着した。自動ドアをくぐり中に入ると、当然のことながら、甘い香りが鼻孔をくすぐってくる。
「……すごい匂いだな……」
 だが、遥は俺の感想に聞く耳を持たずに店内を見回して、ケーキの姿を確認しては、感嘆のような吐息を漏らしている。俺の少し辟易した声も、届いていないようだった。
「お客様、すみません。只今大変混雑しておりまして、少々お時間いただくことになりますが……」
 そう言う店員の指示りに動き、しばらく備え付けのソファーに座って待つ。俺たちのほかにも数人、名前が呼ばれるのを待っている客がいた。
「……ちょっと時間、かかりそうですかね?」
 遥が小声で耳打ちしてくる。俺は「かもしれんな」という意味を込めて無言で頷く。
「……楽しみですね、ケーキ」
 早くも甘い空気を吸うのが苦しくなってきた俺に反して、遥は幼い子どものような無邪気な瞳を携え、店内に掲げてあるメニューの札を見ている。
「黒瀬君は、好きなケーキとか、ありますか?」
「……いや、これといっては。強いて言うなら、普通のショートケーキ。チョコとかチーズケーキも良いけど、やっぱシンプルなのが一番好きだな」
「……何か、黒瀬君らしいです」
 俺の答えに、ぷぷっと遥は笑う。
「どういう意味だ?」
「どうもこうもありませんよ。……ふふっ、本当に。他意はないです」
「絶対あるだろ……」
 ないですよ、と遥は釘を刺すように言い、また笑う。そんな遥の幸せそうな笑顔を見ていると、俺までも頬が緩み、自然と笑みがこぼれてしまう。まだ目的は果していないのに、大きな充足感を既に得てしまったように思った。
 そんな俺たちの前を、十人ぐらいの女子高生が燥ぎながら出ていく。恐らく、彼女らが多くの席を占めていたのだろう。間もなく、待っていた客の全員が呼ばれ、俺たちも席に着くことができた。
「じゃ、早速行きましょうか。それぞれ取ったら、戻ってきましょう」
 ケーキをのせるお皿を掴み、遥は立ち上がる。財布などが入っているのであろうバッグを手に、颯爽と人ごみの中に消えていった。
「……俺も行くか」
 席で一人待っていても仕方がないので、俺も甘い匂いの中へと入っていった。


 五分ほどで三つのケーキと一杯のコーヒーを取り、席へと帰る。遥はまだ戻ってきておらず、周りの喧騒から置いてけぼりにされている空間が、そこにぽつんと存在していた。さすがに先に食べるのは空気を読んでいないと思われかねないし、何より寂しい。遥が戻ってくるのを、何をするでもなく待つことにした。
「あっ、黒瀬君。すみません、待たせてしまいましたか?」
 それからさらに五分ほどで遥も戻ってきた。五つほどのケーキが所狭しと詰められ、すれ違う人々とぶつからないように、細心の注意を払って歩いていた。
「いや、そんなには。お気に入りのやつはあったか?」
 机の上に皿とコップを置き、ふぅー、と安堵の息を吐く。ショートケーキやロールケーキといった、ポピュラーなものはもちろん、ザッハトルテやティラミスなどの、なかなか食べることのできない、少し高価なものも交じっている。
「えぇ、まぁ。出来る限り載せたかったんですが、皿が小さすぎますね、これ。とりあえず五つだけ取ってきました」
 遥は少し不満そうに呟く。まだまだお代わりに行くつもりのようだ。
「そういう黒瀬君は三つだけですか。それもベタなものばかり……。いいんですか? 元(もと)取れませんよ?」
「……余計なお世話だ。まぁ、一度食べてみて、おいしかったらまた行くよ。とりあえず一皿目、食べてしまおうぜ」
 そうですね、と遥はうなずき、席に着く。いただきます、と手を合わせてから、早速俺たちは一口目を頬張る。
「あ、とてもおいしいです、これ」
 ショートケーキから食べ始めた遥は、そう言って破顔する。
「スポンジがふわふわで、クリームも甘すぎることなく、見事にマッチしてます。イチゴも……うん、強めの酸味が甘味と混じってとてもおいしいです」
 レポートでもしているかのように感想を漏らしながら、遥は早くもショートケーキを食べ終える。
「黒瀬君のチーズケーキはどうですか?」
「そうだな……。そんなに濃くなくて食べやすい……かな。俺は胃もたれするほど食べたいわけじゃないから、これぐらいが丁度いいよ。でも、一個と言わず、何個か食べられそうだ」
「へぇー……。一口、もらっていいですか?」
 言いながら、遥は手を伸ばす。白いクリームがちょこんと付いたフォークが、こちらに向けられる。
「やだよ。自分で取ってこい」
 俺は皿を持ち上げ、遥の手の届かない場所へと移動させる。遥はしばらく粘っていたが、やがて唇を尖らせて俺を睨んだ。
「……そもそも俺の食べかけのケーキが欲しいか? 花も恥じらう乙女だろう?」
 俺が懐疑的な目を向けると、遥は何を言っているかわからない、と言いたげなきょとんとした表情を浮かべた後、少し笑って答えた。
「別に黒瀬君の食べかけだから欲しい、ってわけじゃないですよ。よく言うじゃないですか、隣の薔薇は赤い、って。だから、お皿に乗っているチーズケーキに興味が湧いただけですよ。わたしだって異性の食べかけを食べたいと思うほど、変態じゃありません」
 遥は言い終わってもなお、くすくすと笑っている。俺は少し恥ずかしくなり、さらに残っていたチーズケーキを一口で飲みこもうとする。
「一気に食べるとむせますよ……。それより黒瀬君、さっきはちょっと期待してたんですか? わたしと間接キス……とか」
 喉を通っていたケーキが戻ってくるような感覚に襲われる。げほげほと咳き込む俺に飲み物を差し出しながらも、遥は俺の反応を見て、楽しそうに微笑んでいる。
「……急にそんなこと言うな。こっちが驚くだろ……。つか、お前もそう思うように仕向けた部分はあるだろ」
「ん、まぁ、否定はしませんがね。でも、もし黒瀬君が食べることを許可してくれてたら、ちゃんとフォークが刺さっていない場所を取るつもりでしたよ? いくら間接とはいえ、黒瀬君が舐めたフォークが刺さった場所から取って食べるのは、ちょっと気恥ずかしいですからね」
 遥はオレンジジュースを啜りながら、頬をぽりぽりと掻いている。最後まで飲み終えると、「じゃ、お代わり取ってきます」と言い残し、立ち去っていった。
 元気だなぁ、と思いながら、俺は残っていたケーキをもそもそと平らげ、一つげっぷを吐き出す。出会った頃の彼女の冷たい雰囲気は、今でも鮮明に思いだせる。今、俺とケーキを食べている彼女は、偽物なのではないだろうか。仮面の下には、あの時の表情が今も残っているのだろうか。そんなことを、彼女の笑顔を思い出しながら考えていた。
「『願いの叶え方』、ねぇ……」
 家族連れや友人同士のやりとりが交わされる喧騒の中、俺は自身に投げかけられた問題を改めて思い返す。自分が世界から隔離されたように、周りの音が一瞬だけ聞こえなくなった。
「考え事ですか、黒瀬君?」
 お代わりのジュースとケーキを抱えた遥が、席に座って微笑む。「悩みなら聞きますよ?」とこちらが和むような柔らかな表情を浮かべている。
「いや、大丈夫。悩み事とかじゃないから」
 俺がそう答えると、遥もそれ以上入り込んでくることはなく、皿に盛られたケーキにフォークを伸ばし始めた。
「黒瀬君はもういいんですか? 荷物なら、わたしが見てますよ?」
「……じゃ、ちょっと行ってくるわ」
 行ってらっしゃい、という遥の声に送られ、俺は人ごみの中へと入ってゆく。とは言っても、もう甘いものは十分に食べたので、少ししょっぱいものも見てみようと思い、パスタなどが並んでいる場所へと俺は向かった。
「…………ん?」
 その道中、見知った姿が視界に入ったような気がした。パスタエリアに向かう、少し人が疎らになっているエリアを、小柄な影が横切っていった。人違いかもしれないが、あの姿は……。
「璃子か?」
 改めてその方向を確認してみるが、すぐに人で埋められた場所には、少女の姿はなかった。
「……ま、俺には関係ないか」
 璃子だって女子高生だ。友人とこういう所にも来るだろう。無関係な俺が、いちいち介入する義理もない。
 考えを頭の外に追いやった俺は、ナポリタンとピザを皿に取り、遥の元へと戻った。


  *

「あれ……さっきの……」
 既視感のようなものを覚えて、私は前を向きかけていた視線を再び元に戻す。そこに黒瀬先輩を見たような気がしたからだ。
「気のせいかな?」
 周りにたくさんのお客はおらず、その姿はよく見えた。やや長めに伸びた髪、どことなく気だるそうな猫背、平均よりは高い身長など、情報を包括すると、私の知っている黒瀬先輩と完全に合致するように思えた。
「でも、何でいるんだろう……?」
 少なくとも、先輩に彼女がいるという話は聞いたことがない。以前一緒にいた女性とは、そのような関係ではなさそうだった。とすると、一体誰と来ているんだろう? という疑問が思い浮かぶ。手元のケーキと、壁の向こうの席で待っているであろう友人とを見比べる。
「……ちょっと行ってみよっ」
 私は好奇心に抗うことができず、先輩と思しき人物が向かった方向へと歩を進めた。


「……やっぱり黒瀬先輩だ」
 すぐに追いついた背中を気づかれないように追いかけながら、私は自分の予想が的中していたことを確信する。近づいてみると、彼が纏っている雰囲気は、私が過去に感じたものと一緒だったことが分かった。パスタなどが盛られた皿を持ち、ゆっくりと自分のペースで歩いている。
「――――」
 黒瀬先輩が辿り着いた席には、一人の女性がいた。先輩はその人に向かって、少しだけ笑みを浮かべて何やら話しかけている。女性も笑顔で応じていた。彼らが話している内容は、周りの喧騒のせいで聞き取ることはできない。けれども、かなり親密な仲なんだろう、ということは、二人の態度を見ていれば一目瞭然であった。
「……でも、あの人、誰だろう?」
 私が知っている人ではないような気がした。同級生や先輩に、あのような女性がいたような記憶はない。もともと人数は多くない学院だ。全員とは言わずとも、ある程度、顔は覚えている。とすると、先輩の中学時代の友人だろうか。ならば、変なことは何もないのだが……。
 どうも違和感が拭えない。そんな私の目が、女性のある一点に吸い寄せられた。
「……あのシュシュ……」
 茶色のシュシュが、女性が頭を動かすと共に、小さく揺れる。それを確認した私は、すぐにその場を離れた。振り返ることなく、まっすぐに友人たちの待つ席へと帰る。途中、何度かケーキを落としそうになり、周りの人の鬱陶しげに見る視線を多く受けたが、それを気にする余裕すらも私には無かった。
 席へと辿り着いた私は、荒い息を漏らしながら皿を置く。置いてあったフォークに皿の端がぶつかり、耳障りな音がみんなの顔を歪ませる。
「どうしたの、璃子? そんなに慌てて……」
「部長にでも出会ったのー? あの人に会うと何言われるかわかんないしねー」
 心配したりはやし立てたりと、反応は三者三様だが、そのいずれも私の耳には届かない。どんどん早まっていく動悸の音に、私は耐えることしかできない。
 この世界が、私のために造られた理想の世界のように感じられた。そうでなければ、私にとって彼女の存在は、到底信じられるものではないだろう。小さな嬉しさと、巨大な恐怖によって蝕まれ始めた胸を、ぐっと服の上から握りしめる。鈍い痛みが、私の愚かさを改めて教えてくれるようだった。


 *

 自動ドアをくぐって外に出る。じめじめとした空気は相変わらず気分の良いものではないが、俺は甘い匂いが漂う空間から脱せられた喜びに身を任せ、大きく息を吸い込んだ。
「……たくさん食べちゃいましたね。黒瀬君も、満足してくれましたか?」
「あぁ、おかげさまでな。遥は見かけによらず、たくさん入るんだな」
 華奢な体躯のどこにあれだけのケーキを入れるスペースがあるのだろう。俺の想像以上に、遥は食べていた。
「甘いものは別腹、ってやつですよ。でも、黒瀬君の言うとおりですね……。体重とか不安です……」
 遥が苦笑混じりに言う。流れる一筋の汗が、彼女の鎖骨に沿って溶けるように消えていった。
「もし時間あるなら、ちょっと遠回りして帰るか? 腹ごなしにもなるぞ」
 ここから遥の家までは、歩くとニ十分ほどだろう。一時間ほど歩いてみよう、と提案すると、遥はすぐに了承してくれた。俺たちは車が絶え間なく走る市街地から少し逸れた、閑静な場所へと向かった。
 そこは、毎年七月七日に行われる『七夕祭』の会場となる広場の近くにある道だった。途中には立ち入り禁止となっている軽い傾斜の山道があり、それを辿れば、開けた場所へと到達するらしい。そんな話をしながら、俺たちは舗装された道を歩いた。空は相変わらず灰色で、少し前まで眩しく映えていた緑葉も、心なしか暗く見える。ざわざわと木々を揺らす風は、柔らかな彼女の髪と服を、さらうように跳ねあがらせていた。
「改めて、今日はありがとうございました。わたしは今、とても幸せな気分です」
 何も喋ることなく歩いていた俺の耳に、遥の声が届く。そのお礼の言葉には、俺が初めて受ける想いが込められているように感じられた。
「どうしたんだよ、急に……」
 俺の言葉に、遥は無言で首を横に振る。吹き続けている風に、小さな白い花が揺れていた。
「…………黒瀬君は、将来の夢、みたいなものってありますか?」
 風の声と共に、遥の質問が投げられる。揺れる瞳には、滲んだ俺が映っていた。
「……正直なところ、わかんないな。そろそろ決めなくちゃならない、と思ってはいるんだが、自分に何ができるのか、今一つはっきりしなくて……。もしかしたら、しがない公務員になるかもしれないし、救いようのないニートになるかもしれない」
 遥は俺の答えを聞いても、大きな反応は示さなかった。俺を見つめていた瞳を落とし、前へ、前へと静かに歩くだけだった。
 前方から、ランニングをする男性が向かってきている。この地域で、毎年秋に行われるマラソンで配られる帽子を被っていた。すれ違い際には、男性の安定した呼吸音が聞こえ、涼やかな風が無言の俺たちに纏わりついた。男性の姿はすぐに世界の端に消え去り、再び生暖かい空気が流れだす。
「遥は、どうなんだ?」
 ただ単に興味があったのか、それともこの沈黙に耐えきれなくなっただけなのか、俺すらもはっきりとはわかっていない状態で問う。遥は待っていたと言わんばかりに目を大きく開けたが、それも一瞬のことで、すぐに表情を硬くした。そして、小さな声で語りだす。
「わたしには……一つだけ、夢があります」
 ただ一つ……。強調して言う。
「わたしの夢は一つだけなんです。それ以外には興味なんてないし、極端な話ですが、それが叶えば、わたしはこの身が消えてしまっても、きっと悔いることはないです。それぐらいに、大切で大きな夢なんです」
 俺は黙って聞いていた。それは果して叶うのか、とは訊けなかった。叶う、叶わないといった次元の話ではないような気がした。それはきっと、果てしなく大きな夢なのだろうと、遥の言(げん)から感じとれた。
「以前、わたしには彼氏がいた、とお話ししたことがありましたよね。その時に、どうしてわたしが彼と別れる羽目になったのかもお話ししましたが……。覚えてますか?」
「いや……申し訳ない」
 確かあの時は、他校の生徒の邪魔が入った。再び訊くこともできず、結局その話のことは、俺には伝わっていなかった。遥は仕方がない、と言いたげに嘆息し、手短に話した。
「とある事件で彼は死んでしまったんです。わたしはその難を逃れることができたんですが……。やはり、彼がいないと寂しいんです。本当のわたしを理解してくれている、『本当の彼』ともう一度人生をやり直したい……。それがわたしの、唯一の夢です」
 一瞬ではあるが、涼しい風が通り抜けた。流れ続けていた不快な風を追い払うように、それは俺たちの横を過ぎ、ひゅぉぉ、と音を立てて去っていった。木々が揺れ、葉がざわめき、一つの唸り声をあげる。低く、遠吠えするように空に放たれる音に、俺たちの心音が共鳴する。彼女の音は、一層大きく響くことだろう。遥は下を向き、込み上げる何かに堪えるようにして、一歩ずつ踏み出していた。
「黒瀬君……わたしのこの夢……叶えてくれませんか?」
 遥は悲しそうな笑みを浮かべて、そんなことを言う。きっと、彼女なりの冗談なのだろう。夢であることは事実だが、他人の力だけで叶えられた夢に意味はない。たとえそれが、自身の手には及ばない、途方に暮れるようなものであったとしても、心の底から喜べる結果にはならない。俺は、遥の友人作りの際に感じたことと、全く同じことを思い出していた。
「……誰か、叶えてくれる人はいませんかね……? そんな人がいるなら、わたし、きっと何でもしちゃいます」
 潤んだ瞳は、じっとこちらを見据えていた。
 彼女の大きな夢を叶えてあげたい、と願う気持ちは、秒刻みで大きくなっているように感じられる。きっとその彼は、俺なんかよりも崇高な存在に違いない。俺と過ごす時間があるのであれば、大切なひとと、もっと貴重な時間を過ごしてもらいたい。そんな想いが込み上げる。
「なぁ、遥……」
 拮抗する想いを無理やり抑え込み、俺は言葉を絞り出す。呻くような声に、遥は少し俺と距離を取ろうとするが、俺は寄ることなく、自分の眼先に見えている道だけを歩き続ける。遥と出会って、今まで多くの時間を共有できたと、俺は感じている。その時間を瞬時に思い返すと、回数は多くはないが、願えばいいと思ったこと、実際に願ったことはあった。もし、この世界に俺と似たような力を持つ人がいたら……その人も、俺と同じような悩みを抱えたかもしれない。自分の行動によって、誰かが不幸になるかもしれないという可能性に悩みながら、誰かを幸せにするという行為について。
「遥。お前、初めて俺と話した時、『願いの叶え方』っていう話をしたよな。さすがに、覚えてるよな?」
 遥はこくん、と頷く。その時と同じ嘘を、俺は吐く。
「良い方向に考えるなら、だけどな……そんなものがあるのなら、世界中のみんなは幸せになれるはずだ。戦争や問題事は解決して跡形もなく消え去るだろうし、身近な話で言えば、俺のように周囲に馴染めない人間もいなくなる。それはとても過ごしやすい世界だろうが、残念ながら、今の世の中はそんな甘くない」
 俺が言わんとしていることは、きっと伝わっている。遥は、俺の方を一切見ずに、前方にだけ視線を向けていた。残酷だとわかってはいるが、最後に一言だけ発する。
「『願いの叶え方』……そんなものは存在しないんだよ」
 伸ばしていた足をひっこめ、遥はその場で静止する。俺が振り返ると、遥は俯き、静かな風に惑わされるか細い枯れ木の如く揺れていた。
「……………………………………………嘘」
「……え?」
 長い沈黙の後の一言は、俺を表すのに最適な単語だった。誰もいない道で、俺たちは静かに向かい合う。遥は両の拳を強く握りしめ、負の感情に体を震わせていた。
「そんなの…………嘘ですっ! わたしは信じません! だってっ……だってっ!」
 咽びつつも、遥は感情に身を任せて叫ぶ。飛んだ涙と唾が、灰色の地面を黒く染めてゆく。湿った風は彼女の涙を癒すことなくただ増進させ、彼女を透過し、無慈悲に消え去る。何度も何度も、それが繰り返されている。俺は黙って目を閉じる。悲しみに震える遥の姿など、見たくなかった。彼女をそうさせた原因が俺だと気付くと、すぐにでも謝りたい気分になった。
「……なぜ」
 俺の声は、彼女の叫びによって敢え無く上書きされる。
「だって……! だって…………だってぇ……」
 薄く目を開ける。
 弱まりゆく声と共に、遥は徐々に崩れゆく。その場で蹲ってしまった彼女に歩み寄り、手を差しのばすが、当然、それは払われる。一分ほど身動(みじろ)ぎせずに涙を垂らした後、遥はゆっくりと起き上がった。
「……落ち着いたか?」
 遥は俺の真横を通り、前に出る。身体は前を向いたまま、目だけをこちらに向け、忠告するように言った。
「……あなたは、過去の一部の記憶を持っていませんよね。その理由や内容を知りたいと思う気持ちはあるでしょう。ですが、まだあなたにその資格はありません。あなたは『現実』をまだ知らない。この世界における、本当の『現実』というものを目にしていないんです。それを知ることができたら、自ずと分かるでしょう。わたしがあなたに問いかけたことの意味と……」
 一度、唇をきゅっと締めた。何かをかみ砕き、遥は囁く。
「……わたしが、あなたと共にいる意味が」
 そう言い残し、遥は去っていった。小さな背中はどんどん小さくなる。完全に見えなくなった後も、俺はその場から動かなかった。俺の頭を冷やしてくれるかのように、大粒の雨が降り出す。
 俺は無言で歩く。帰ったらシャワーを浴びて着替えればいい。濡れることなど、厭わなかった。髪の先から滴る水滴を見ながら、それをまるで涙のようだと思い、放置しておいた。
 大通りまで出ると、急な雨に急いで帰る人たちが走っていた。車も水を弾きとばし、忙しなくワイパーを動かしている。
 なぜだろうか。俺は一切急ごうとしなかった。そんな気力など、生まれない。彼女の言葉がずっと、俺の中で眠る『何か』に訴えかけているようだった。


 次の日、学校に遥の姿はなかった。その翌日も、翌々日も姿を見せなかった。
 彼女は、俺の前から姿を消した。


 10

 担任教師から、遥は家庭の事情でしばらく登校できない、という話を聞いた。クラスの連中の反応は様々だったが、少なくともクラスの女子生徒の半分ほどは、その事実を悲しんでいるようだった。「早く学校来られるようになったらいいのにねー」と、口々に話している女子の集団を見かけることもしばしばあった。
 そして、俺の孤独も、その度合いを増していきつつあった。入学したての頃に戻ったかのように、クラスメイトの俺への関心は、日に日に薄くなっていった。ノートを俺に持っていかせた男のように、雑用を押し付けられるのは日常茶飯事と化し、雑談目的で話しかける生徒はほぼいなくなり、こちらから話しかけても生返事をされるだけ、という無意味な時間が流れていた。
 俺はそのことに対して違和感を覚えつつも、悲しいと思うことはなかった。昔の俺は、寂寥感に抗うために仲間と群れたいと日々願っていたが、やはり、仲間と共に過ごすような自分は偽りの存在でしかないのだと気付いた。変な力で偽りの友人を作った、自分への報いだろう。過去の自分こそが、本来の自分なのだ。俺はそのことを、完全に受け入れ、孤独な学園生活を送った。
 一週間が経過しても遥が登校する気配はなく、騒いでいた女子たちも、既に諦めの心が勝りつつあるのか、彼女のことを話題に上げなくなった。たまに視界に入る彼女の席だけ、時間が止まっているように感じられた。教科書は毎日きちんと持ち返っていたため、机の中には何も入っていない。古傷ばかりが目立つ木の板が彼女の性格を物語っているだけで、そこから生活の跡は消えつつあった。人のぬくもりを忘れたような椅子と机は、ぼんやりと教師の話を前から後ろへ滑らせていた。
 毎日、曇天が続き、雨が降る。晴れることがあっても、不快指数は高い値を占め、俺たちが過ごしやすいと思える日はわずかになっている。
 今日で六月が終わる、という曇りの日。今日も一人で下校しようと学校の敷地内を歩いていると、トイレから出てきた璃子と目が合った。既に今の周囲の空気に慣れていた俺は、彼女からすぐに目を離し、早足で校門へと向かう。けれども、そんな俺は「先輩」という言葉で立ち止まる。少し不安になりながら後ろを見ると、璃子が緊張を孕んだ控えめな笑みを浮かべて俺を見ていた。「ちょっと付き合ってくれませんか?」との彼女の頼みに俺は断りきれず、薄暗い校舎を、俺たちは二人で歩いた。
 璃子が辿り着いた先は、いつか俺の相談にのってもらった時にも使用した家庭科室だった。今日は部活が無いらしく、誰も使用することはないと言う。璃子は電気を点けることはせず、閉じられていたカーテンを勢いよく開ける。舞っている埃が、天使の羽のように光る。その様を、俺はじっと見ていた。
「先輩、呼び止めてごめんなさい」
 俺が座る目の前に腰を下ろした璃子は、開口一番に謝った。無言で首を振ると、ありがとうございます、と小声で礼を言われる。いつもよりも元気がないように見えた。
「……それで、何の用なんだ? わざわざ呼び止めた、ってことは、よほど重要なことがあるんだろう?」
 璃子は暫し逡巡するように視線を彷徨わせた後、はい、と弱々しく頷いた。俺は無言で話をするよう促す。
「……先輩。まず先に確認させてください。先輩は、普通の人なら持ち得るはずのないものを持っている。このことに、間違いはないですか?」
 璃子の問いに、背筋が僅かに伸びる。それは明らかに、『願いを叶える能力』のことだった。窓の外で再び振り出した雨のように鋭い視線が、俺を貫いている。
「なぜ、そのことを――」
「いいから、答えてください! いいですか、絶対に嘘は吐かないで。ここで聞いたことは誰にも話しません。こんなことを尋ねる理由も後でお話ししますから、今は正直に答えてください。先輩の為なんです!」
 璃子は両の拳で机を子どものように叩き、喚く。いつも程よく赤みが差し、健康的な色をしている彼女の顔は、その赤を濃くさせつつある。暗がりではあるが、それがはっきりと確認できる。
「……これには、私の好奇心や冗談といった私情は一切関係していません。必要なことだから、訊いているんです。ですから、先輩――」
 隠すことはできそうになかった。諦めた俺は、肩を竦めた後に、璃子の言葉を遮って口を開く。
「あぁ、間違ってない。ついでに言うと、それは『自分の願ったことが現実になる』能力だ」
「……そうですか。ありがとうございます。やはり、そうだったんですね」
 璃子の少し悲しそうな、それでいてほっとしたような声音が、静かな家庭科室では大きく聞こえる。
「先輩。これから私が話すことは、全て本当の事です。にわかには信じきれない部分も多くあると思います。すぐに受け入れろとは言いません。ですが、ここはそんなことが起こり得る場所なんだ、ということだけは分かってもらいたいんです」
 そう前置きして、璃子は話しだした。いつまでも低く、冷たく、悲しみに呑みこまれた声だった。


「人は誰しも、『願い』というものを持って生きています。お金持ちになりたい、好きなあの人と結ばれたい、あの人はどこかへ行ってほしい……方向は違えど、人の数だけ『願い』は必ず存在します。そのほとんどは、すぐにでも忘れてしまうような、もしくは、ほかの何かで上書きされてしまうような些細なものなんです。先輩も体験したこと、ありませんか? 一時期は寝ても覚めてもそのことを考えていたのに、気づけばそんなことは眼中になく、ほかのことに夢中になっていた……みたいなこと。それと同じようなものです」
 俺は黙って話を聞く。相槌を打ったり、たまの質問に首を振ったりはするが、基本的には、彼女の小さな姿をじっと視界の中心に捉え、この世の鼓動を耳にしていた。
「ですが、稀にその枠に当て嵌まらないような願いが生まれることがあります。それは体内に置いたままにしておいては、その人の精神、肉体に影響を及ぼす可能性があるようなものなんです。それがかなり危険なものだ、ということは分かりますか?」
 こくんと俺はうなずく。願いがストレスと化し、暴力的な行動を起こしてしまいかねないということだろう。程度は違えど、俺にもそんな経験はあった。
「人類は自らの身を守るため、ある能力を持ちました。それが、『願いを叶える』能力です。ある一定の度合いを越えた、強い『願い』の持ち主に、能力は強制的に宿ります。そして様々な形で『願い』は実現化し、その人は元の……いえ、以前よりも遥かに過ごしやすい人生を送ることができるようになります。願いが叶ってしまえば、役目を果たしたその力は消えてしまうのですが、少しの間だけなら体内に残るとも言われています」
「……璃子、ちょっといいか? いくつか質問したいことがあるんだが……」
 璃子は少し考えた後、「どうぞ」と表情を変えずに言った。
「一つ目。俺も願いは持っているし、それを叶えたいとも思ってきた。だけど、あくまで『思っている』だけで、力を宿せるほどに強いものじゃないと思う。なぜ俺には『願いを叶える』力があるんだ?」
 鋭く璃子を見据える。目の前に座る彼女は、もはや俺の後輩ではない。俺が理解しきれる範疇を越えた場所に漂う、霞のような存在だった。
「先輩がこれまで特別な能力だと思い込んでいたそれは、先輩の望みによって備わったものではありません。つまり、誰かの手によって『備えさせられた』ものなんです。その人がなぜ、何のために先輩にそんなことをしたのか、私には…………わかりませんが、『誰かの願いによって、願いを叶える能力を手に入れた』ことは間違いないです。確信を持って言えます」
 肩が僅かに揺れる。その上に乗る髪も、つられて波打っている。璃子は大きな動きで椅子に座り直し、再び訪れた静寂の空間で俺たちは対峙する。
「理由は?」
「私が先輩と同じような場所に立つ人間だから……っていうのではだめですかね?」
 璃子の顔に苦笑が浮かぶ。その笑みは既視感を覚えるものであり、あの時と同じく、柔らかな拒絶であった。この状況で出来る彼女の精一杯の意思表示だった。
「……いずれは教えてくれるのか?」
「はい。もちろん。結構すぐにその機会は訪れると思いますよ」
 俺の問いには間髪入れず答えた。彼女の言葉を今は信じ、俺は話を続ける。
「今の答えを聞いて質問が増えた。俺にそんな能力を宿らせたのは誰なんだ? まさか見ず知らずの他人だ、なんて言わないよな?」
「えぇ、それはあり得ません。何の関係も持たない人を想えるほど、人間とは美しい存在ではありません。仮にあり得たとしても、その美しさは偽りのものでしょうね。人は自分と大した関係も持たない人を嫌い、誹り、蔑むことを安易にします。その中に迷い込んだように存在する微塵の美しさなど、すぐに侵され、反転します。所詮、その程度のものなんですよ。私が言いたいこと、わかってくれますか?」
「……あぁ。何となくではあるがな」
 曖昧な返答を聞いた璃子は、僅かに視線を窓の外に向ける。灰の空に暗みがかかり、今日も暗い夜が訪れようとしている。気の早い街灯が、ぽつぽつとつき始める。管理が行き届いていないのか、どれも薄暗く、悍(おぞ)ましげであった。
「先輩の質問に対して答えられることは、これ以上ありません。具体的な人名は出せないです。次の質問に行きましょう」
 なぜ……と俺が口を挟む間もなく、璃子は強引に話を進めようとする。彼女を止めようとして所在無げに彷徨っている腕を見て、一つため息を吐き、璃子は言った。
「……その人は、あなたが自らの考えによる行動で見つけ出してくれることを切に願っています。私がばらしてしまえば、きっと悲しまれます」
 どこかの蛇口から漏れた滴がシンクを叩く。高い音を残して、瞬時に消えた。
「…………わかった。それじゃあ、最後の質問だ。なぜ璃子は『願いの能力』のことについて、そんな詳しく知ってるんだ? 一般人が知れるものじゃないだろう? 少なくとも、俺はここに来るまでそんな能力とは出会ったことがなかった。もし有名なものならば、ネット上でたっぷり騒がれるはずだ。そうなってない、ってことは、極々一部の人間しか知らない、秘密裏にやりとりされる情報なんだよな?」
 孤立していた時には、ネットゲームやSNSに安息を求めることが多かった。だから、現実離れした噂があれば、間違いなく気づく。
「もちろんです。まず、願いは自然な形で叶うことが多いので、能力が宿っていたとしても、滅多なことがない限り気づくことはありません。先輩の場合は特殊ですがね。だからSNSに投稿されたとしても、ちょっと運の強い人の戯言、程度にしか思われないでしょう」
 こほん、と咳払いをし、喉を鳴らす。俺が封を開けていないペットボトルの水を差しだすと、すぐに飲み始めた。
「……ありがとうございます、先輩。これまでのことはですね、教えてもらったんです。ある人に」
「……その人って……」
 はい、と璃子はうなずく。
「先輩に能力を宿らせた方、ですよ」


  *

 半信半疑な気持ちで、私は道を歩いていた。曇天の中に溶け込みそうになっているマンションが視界に入る。当然、私は彼女の自宅の場所を知らない。これまで尋ねることもなかったし、あちらから教えてくることもなかった。だが、私はほぼ迷いなく歩くことができる。私と『同じ気配』を感じるのだ。その気配の源は、間違いなくあのマンションの中にあった。
「ここが……あの子の……」
 私には砦のようにも見える。ゲームの世界で、ボスキャラが待っている場所だ。私はいわば、彼女への挑戦者。友人という名の関係は、とうの昔に消え去ってしまった。もう一度仲良くなれるか、それとも拒絶されるか。その結果を知るために一人で挑む、雑魚キャラなのだ。
 途中ですれ違った住人に確認を取り、彼女の部屋を教えてもらう。その扉の前に立ち、一つ、二つと深呼吸をする。これまでと同じでいようとは思わないし、いられるとも思えない。だから、私はあの時のままの宮下璃子で彼女に接すると決めた。
 叩く扉は冷たい。冷気が手の甲を伝って体中を巡る。扉の向こうから反応はなかった。
「……入りますよ」
 私は小さく扉に向かって呟き、ノブを捻る。施錠されておらず、力を込めた右腕は安易に裏切られた。カーテンは閉め切られており、灯りもついていない。部屋の隅で衣擦れのような、何かがうごめく音がする。
「全く……不用心ですね」
 その影に向かって私は話しかける。それは何も語らず、私だけを見つめているようだった。ただ、そこに歓迎や感謝の気持ちはなく、明らかに怯臆し、警戒していた。
「……誰?」
「私です。璃子ですよ。宮下璃子」
 か細く弱い声に、私はいつぞやの自分を思い返して答える。相手も聞いたことのある名前で、少し落ち着いたようだった。
「どうして……来たんですか?」
 だいぶ目が慣れてきて、ぼんやりと室内が見えてくる。彼女は壁際に配置されているベッドの上で半身を起き上がらせていた。淡い色のパジャマが、おとぎ話の幽霊のように浮かんでいる。
「どうして、って……心配だからに決まってるじゃないですか。学校で話したことは多くはないですけど、私にとって大事な方なんですから。カーテン、開けさせてもらいますね」
 言いながら窓際へ向かう。彼女は何も言わず、無音の呼吸だけをしていたが、拒むことはなかった。ゆっくりとカーテンを開けると、日の出のように薄闇の空間に新たな光が差し込み始め、部屋の中で止まっていた時間は動き出す。彼女は眩しそうに手を目にかざしていたが、一分ほどでその手を戻し、気だるげな瞳で私を見た。
「……お久しぶりです。天月先輩」
 私は笑顔を浮かべて言う。今日の先輩はシュシュを付けていなかった。長い髪はまっすぐにベッドへと垂れている。あの時の先輩を思い出すと、言葉にできぬ情動が込み上げてくる。私は意を決し、彼女の名前を囁く。
 それは彼女に届いたのだろうか。心の中には、聞こえていてほしいと思いながらも、そうあらないでほしい、という矛盾した想いが混在している。彼女は不意を突かれたと言うように、ぽかんと口を開けていた。一分ほど沈黙が続き、先にそれを破ったのは、我に返った先輩だった。
「宮下、さん……? 急にどうして……?」
 何もわかっていない、と言いたげな純粋な瞳。それが今は罪のように思えた。何もかも自分が悪いというのに、他人に私は罪をなすりつけようとしている。免罪を乞うつもりは無く、只々、『私が私である』とわかってほしかった。なのに、彼女は何も覚えていない。記憶の奥底を掘ればきっと容易にそれは復活するだろう。だが、流れた時間は彼女の記憶を沈め、別の記憶で塗り替えさせた。そして、忘れても良いと思える、価値の無い記憶へと変貌させたのだ。だから、彼女が私のことを忘れるのは致し方ないことだった。
 私が気づいてあげられなかったことが、最たる罪だった。
 ベッドに歩み寄り、彼女に寄り添う。抵抗はせず、かといって受け入れもしない彼女は、今の状況に戸惑っている。私は囁きかける。もう一度、その名を。
「遥……覚えてない? あの日のこと……」
 小さなころの記憶。誰でも経験するようなありふれた出来事。それが私たちにとって、悲しみの一ページとなったのは、ある年の七夕の日だった。その日は、晴れていた。だけど、少し蒸し暑かった。


  **

 遅くならないうちに帰ってくることを条件に、私と遥は、二人で七夕祭りを楽しむことを許可された。当時はまだ幼く、親の縛りなしに行動することは、一種の探検のように思えた。脇を彩る露店の光は、洞窟を照らす篝火のようだったし、行きかう多くの人々は、私たちを応援してくれる街の人のようだった。テンションが上がり、早く早く、と急かす私に対して、遥はいつものように落ち着いていた。柔らかな笑顔と喧騒に掻き消されるような澄んだ声で私を宥め、人の少ないところまで誘導し、何をするか話し合おう、と人差し指を立てて言った。「うん!」と当時の私は無邪気にうなずいたことを、今も鮮明に覚えている。
 その後の時の流れは一瞬だったように思える。気づけば、時計の針はもう帰らなければならない時間を示していた。
「じゃあ璃子ちゃん、もう帰ろっか」
 遥は私の手をやんわりと握り、無機質な街灯に照らされた薄暗闇を指さす。まだまだ遊び足りない私は、涙を浮かべながら駄々をこねた。
「……でも、もう帰らないと、ね? お母さんたちと約束したでしょ?」
 そう言われると反論はできなかった。私と彼女では、歳は一つしか違わないのに、私はひどく子どもだったように思う。私にとって遥は、両親以上に頼りになるお姉さんだった。だからこそ、もっと我儘を言えば折れてくれるんじゃないか、もう少しなら遊ぶことを許してくれるんじゃないか、という浅はかな考えが浮かんでしまったのかもしれない。
「そうだけど……。でもっ、もっと遊びたい!! まだ帰りたくないよ!!」
 大きな声を上げる私に、周囲の人が何事かと視線を向ける。中には「迷子?」と優しく声をかけてくれるおばさんもいた。その人たちは、遥の丁寧な説明を聞くと、すぐに笑みを浮かべながら去っていった。
「気持ちは分かるけど、お母さんたちが待ってるよ。ほら、だから、ね」
 引っ張る遥に負けじと、私もその力に抵抗する。私は「ヤダヤダ!」を繰り返し、遥は「帰るよ」を繰り返した。そんなせめぎ合いの時間は何分ほどだっただろうか。そう長くはなかった。私が渾身の力を込めた瞬間に遥はぱっと手を放し、私は勢いよく地面に尻餅をついた。見下ろす形になった遥の瞳は、まるで下賤(げせん)の者を見るかのような、薄汚れたものへと変化していた。
「……そんなに璃子ちゃんが帰りたがらないのなら、わたし一人で帰る。璃子ちゃんは好きなだけ遊んでおきなよ」
 そう言って、遥は倒れた私に手を伸ばすこともなく、歩き出す。慌てた私は、遥の腰にしがみつく。
「ま、待って――」
 しかし私が何かを口にする前に、彼女は腰を大きくひねり、手で私の腕を強引に剥がす。私は、謝らなければ、という気持ちの元、諦めずに彼女へと近づくが、遥の歩みが止まることはない。私が近づく分だけ、彼女は遠ざかる。一切振り向くことなく、泣き叫ぶ私を置き去りにし、遥は黒で彩られた場所へと姿を消した。
 きっとあちらに多くの人はいない。間違いなくこちらの方が、人は多い。けれども、私のいる場所に色はなかった。華やかに塗りたくられているはずなのに、闇の方が美しいと感じられた。孤独を感じる冷たさだけが存在し、家族や友人という温かさは生ぬるい風と化し、遥か彼方へと消えていった。
「……何で、私が……」
 地べたにうずくまり、涙をこぼす。無力な私には、泣くことしかできなかった。流れ、零れ落ちる涙と共に、彼女へ向けられる心もどんどん消え去っていくのを感じていた。どうして私を置いてけぼりにしたの? 私の事、嫌いになったの? 私は邪魔者なの? じゃあ、私は消えればいいの? 
 いくつもの疑問が頭に浮かび、そのすべてに私は明確な答えを見つけ出す。だが、それは私にとっての正答ではなかった。それでは私が傷つくだけだ。自虐的な思考はいつの間にか、彼女への恨みに変わっていた。私だけが辛い思いをするのは理不尽だ。だから……。
「……あんな子、いなくなっちゃえばいい……!」
 この世に生まれ、十年も生きていない私は、この時、心からそれを願ってしまった。その後、おまわりさんに保護され、私が帰宅した時の、当時は元気だった遥の両親が見せた驚きの表情は今も忘れられない。親に訊かれた私は、祭り会場ではぐれてしまったと説明した。すぐに捜索の要請を出したが、その日はもちろん、数日が経っても、彼女が見つかることはなかった。
 幼い心なりに不安を覚え始めたのは、「少女失踪」というタイトルで大々的に報道が行われたころだった。どれだけ経っても姿を見せぬ彼女に対し、私はしばらくの間は悦な気分に浸っていることができた。だが、いても立ってもいられなくなった遥の両親が警察に捜索届を出し、彼女の家の周りはもちろん、会場付近の林を大人数が徘徊する光景を毎日のように見ているうちに、事の重大さを私は理解した。人が一人いなくなるだけで、こんなにも誰かを不安にさせ、迷惑をかけてしまうのだという事実を、流れ出しそうになる涙を止める勢いと共に呑みこんだ。その日の夜、私は思い切って、あの日起こったことを包み隠さず説明した。
当然のことながら、両親は信じてくれなかった。「あなたは心配することないのよ」と母親は頭を撫で、「パパ達大人がちゃんと遥ちゃんを見つけるから。また遊べるよ」と父親は笑顔を浮かべた。幼い子どもの妄言としか彼らは思っていなかった。本当だよ、信じて、と母親に抱きつき、泣きながら叫んでも、「寂しさに負けそうになっている弱い子ども」としか私を捉えなかった。気づけば私はベッドの中で目を開けており、眩しい陽の光が部屋の中に差し込んでいた。今日もまた無意味な一日が始まる。いつも一緒に登校していた友人はおらず、時間の無駄である捜索は続く。遥の居場所は、原因である私すらも知らない。彼女と共に過ごすことで価値を見出していた私の時間は、足元に転がる埃のように消え去った。教室内で燥ぐクラスメイトの男子の腰が、空白となっている彼女の席に当たる度に彼女が傷つけられているように感じられ、私は理不尽な怒りを覚えた。
 家族の疲弊は日を重ねるごとに増していた。当然ながら遥の家はそれが顕著で、誰の励ましも通じていないようだった。唯一の解決策は、私がもう一度願い、遥を連れ戻すことだった。それを思いついたのは、遥が姿を消してから、一週間以上経った日のことだった。その原因は後で知ることになるのだが、願いが叶えられることはなかった。待てど暮らせど、彼女の、あの穏やかで控えめな、だけどもそれが一番楽しんでいる証である笑顔を見ることはなかった。
 そのまま時は流れ、そのまま私は成長した。進級する度に人との接し方を覚え、私は明るさを取り戻していったが、私の思考の中心には、必ず遥がいた。今の私を遥は好いてくれるだろうか、このアイデアに遥はどんな反応を示すだろうか……。時々奇怪に思われることもあったが、彼女が感じたはずの苦しみと比べれば、微小なものだった。
 そんな小さな痛みと共に、私は中学校を卒業し、高校へと進学した。これまでずっと信じ続けていた奇跡も、もはや潰えたと思っていた。だが、黒瀬先輩と出会い、特別棟で『彼女』と鉢合わせしたところから、この物語はようやく始まりを告げたのだ。


  **

「……私たちは仲の良い幼馴染だった……。本当に覚えてない?」
 私はベッドの上で呆けたように正面を見つめている遥の太ももに縋りつき、弱気な声を漏らす。過去のことを話しても、遥が大きな反応を見せることはなかった。ここで再び出会い、短い時間ではあるが共に時間を過ごしてきた中で見た彼女は、殆ど変わっていなかった。身体が成長しただけで、中身は何も変わっていない。遥の中に存在する記憶以外は、私の知る彼女と同じだった。
「休日は一緒に遊んだ。学校には毎日二人で並んで行った」
小学校に入学したてのころの話だ。これから始まる学校生活に緊張と期待を感じていた日々。
「遥が風邪を引いて学校を休めば、私が配られたプリントとクラスメイトのみんなからの励ましの言葉を渡しに行った。しんどそうに咳き込みながらも、笑顔で私に『ありがとう』って言ってくれたよね」
 小さな学校だったので、一クラスの人数も少なかった。誰かが休めば、みんなで寄せ書きのようなものを製作し、誰かがその人の元へと届けるのだ。
「もちろん、たまには喧嘩もした。いつも感情的になる私を、頭の良い遥は理屈で封じ込めた。正直、悔しかったよ。一生勝てないって思った」
 思い出し笑いが漏れた。少し自嘲的であったが、愉快に感じた。
「そんな遥は嫌いだった。怖かったんだよ。でも、不思議だったな……。喧嘩した翌日にまた会うと、いつもの遥なんだよね、私が好きな。だーい好きな。腹が立っていても、すぐに収まっちゃう。遥の笑顔には、そんな不思議な力があった」
 彼女の太ももをぎゅっと強く握る。彼女は痛がらない。見えていないが、それは分かった。
「もう一度、見たい。遥の笑顔が見たい。学校じゃ全然見られなかった。だから……」
 がっ、と私の背中が不意に重くなる。振り返ると、霞んで映る遥の肩が目の前にあった。どうやら背中に顔を埋められているようで、彼女の呼吸によるぬくもりを直に感じた。
「え……遥、どうしたの?」
 私は狼狽を隠せないまま、遥に問う。遥は私の頭をきゅっとやや強引に抑え、私の視界を封じた。
「見ないで」
「……えっ?」
「いいから。こっちを見ないで」
 彼女の言葉に従い、抵抗することなくそのままの姿勢を保つ。どこからか聞こえる時計の秒針を刻む音が重なり合う鼓動と同化し、まるで、消え去った過去に潤いをもたらしているようだった。
 ぽんぽん、と頭を叩かれる。そして遥は一言だけ発した。
「…………ごめんなさい」
「どうして、謝るの?」
 うん、と遥は私の背中の上で頷く。
「璃子ちゃんの服……汚しちゃいそうだから」
 また今度、洗濯して返すね、と彼女はくぐもった声で告げた。私は何も発せず、震える我が背中から現実を感じ取っていた。
「やっと思考が追い付きました……。わたしと璃子ちゃんはお友達、だったんですね……。それは、本当ですか?」
 私は間髪入れず頷く。彼女の息遣いで微笑んだのがわかった。
「……正直に言いますと、わたしはその時のことを完全に思い出せたわけではないんです。でも、何て言うか……璃子ちゃんに言われると、そうだったかな、って気がしてくるんです。だから、ほら……わたし、今『璃子ちゃん』って呼んでしまってますし、それに…………」
 彼女がようやく頭を上げ、私の背中には、不思議な冷気が当たる。
「それに……なに?」
「…………内緒」
 彼女は笑顔を浮かべる。鼻水を啜る音の後に見えたそれは、どこの誰よりも美しいと思った。
「でも……」
 数分程の沈黙を経た後に、遥が唐突に口を開く。
「わたしにも、昔、仲の良い幼馴染がいたんです。わたしは、その子と過ごす時間がとても楽しかった。どんな子だったかは思い出せないんですが……とても楽しいと感じた、それだけは確信を持って言えます」
「…………その子は、今は?」
「……わかりません」
 遥は、笑みだけは崩さなかった。認めたくないことを口にする時すらも、今日の彼女は微笑んでいた。
「気づけば、わたしは独りでした。その子もいない、友達もいない、頼れる人もいなかった。まだまだ小さかったわたしは、『孤独』という言葉を知らなかった。だから、これがどういう状態なのか、自分の中で答えを見つけ出すのにとても苦労したんです。日が過ぎるにつれて、どうして自分はこうなってしまったのか、そんな、理由の本質に関わることすらも記憶の中から消えていきました。何日も何日も経った挙句、ようやくわたしが辿り着いた答えは、『これが当たり前』というものでした。孤独という言葉を知ってからも、わたしは『当たり前』の自分で居続けようとしたんです。みんな孤独が当たり前。誰かと仲良くしてるけど、どれだけ仲の良い人がたくさん集まっても、人ひとりひとりは孤独なんだ――。どうせ孤独なら、自分はそれを貫き通そうと決めました。大切な人がいたから、その人がいなくなった時、苦しく寂しい孤独を感じるんだ――今もこの考えは揺るいでいません」
「…………ごめん、遥……」
 やはり罪は私にある。彼女がこれまで苦しみ、涙を流したことの原因の多くは私が関係している。消え入りそうに小さな声だったが、私が発した気持ちを表す言葉の中では、最も大きなものだったと思う。
「璃子ちゃん……謝ってもらうことなんてないですよ。わたしが勝手に決めた、わたしの些細な我儘なんですから」
 首を強く振り、否定する。私のその反応に、遥はしばらく思案するようにしばらく視線を天井へ這わせていた。
「これじゃ堂々巡りですね……。では、こうしましょう」
「……どう、するの?」
「わたしの頼みを一つ聞いてください。璃子ちゃんには苦しんでほしくありません。ひとまず、これでこの話は一旦終わりにしませんか?」
 私はその条件を受け入れ、「黒瀬君にわたしのことを説明してほしい」と頼まれた。ただし、名前は伏せた状態で。わたしが黒瀬君にとっての何なのかを突き止め、わたしの苦しみを理解してほしいから、と言われた。
「でも……もし気づかれなかった場合は、どうするんですか?」
 その時は……と彼女は一瞬詰まったが、すぐに答えを出したようだ。
――今度の七月七日、その日に教えることにしましょう。
 そして私は真実を知った。それはとても意外なもので、到底信じられることではなかった。
 話を聞き終わった後、遥は私を玄関まで見送ってくれた。外に出て、ドアを閉める刹那、彼女はぽつりと呟く。
「またね……」
 重いドアは、すぐに閉まった。もう、開けられない。彼女の想いを忘れぬように、私は家へと駆けた。


 孤独なわたしは、もう存在しない。誰かさんのせいで、孤独の苦しみも忘れてしまった。また失った時、同じ痛みを味わうことになるだろう。大切な人を作ってしまった自分が悪いのだ。
「早く、思いだしてくれるといいですね……」
 過去の自分に感謝すると同時に、一発だけ殴りたい衝動に駆られる。だが、結局は自分なのだ。わたしは手で思いっきり自分の両頬を叩き、傷みでその場に頽れる。
「はは……赤くなっちゃいそう」
 乾いた笑みが漏れたが、笑っていられるだけの余裕が今のわたしにはあるんだと思い、そのことに一人、驚いた。
 窓を開ける。蒸し暑い風が室内を駆け巡る。カーテンは靡き、無機質な音を立てた。
 これこそがきっと、孤独なのだと思った。だから最近と、数分前のわたしと、これからのわたしは孤独ではないのだ。


 *

「何か、思いだすことはありませんか、先輩」
「…………悪い、何も」
 自らの過去の話を述べた後、璃子は尋ねかけた。だが、俺が力なく首を振ると同時に、璃子の諦めのような息が漏れるのが聞こえた。
「七夕まであと一週間か……。なぁ璃子、その人は七日になれば全部教える、って言ったんだよな?」
 はい、と璃子が頷く。
「もしかしたらその人、俺に気づいてもらいたい、って思いながらも、その日に自分で教えたい、っていう思いもあるんじゃないのかな?」
 もちろん、俺の想像でしかない。だが、璃子の苦笑いによって、少しその考えに自信が芽生える。
「ちょっと……それもあるかもですね」
 ふふっ、と璃子は笑った。
「やっぱり、よくわかってるじゃないですか」
 何をだ、と聞く前に、璃子は立ち上がった。夕方と呼ばれるような時間はとうに過ぎ、夜の帳(とばり)がこの街を包み込んでいた。
「今日は付き合ってくれて、ありがとうございました、先輩。じゃ、また!」
 そう言うと、璃子は颯爽と教室を去り、後には俺だけが残される。一人だけの教室で、俺は先ほどの璃子の話を反芻する。
「……やっぱり、信じられんな……」
 俺は電気を消し、戸締りをして教室を後にする。真っ暗な廊下では、不気味に俺の奏でる足音が反響する。もう、校内に生徒は誰もいなかった。
 その日の夜、璃子からメールが届いた。七月七日の七夕祭、一緒に行きませんか、という内容だった。どんな返信をしたかは、きっと言わずともわかるはずだ。


  11

 七夕祭の日の夜は、見事な快晴だった。空を見上げれば、美しい闇を隠す灰の雲は全く存在せず、たくさんの小さな星たちが確認できた。だが風はやはり生暖かく、俺はラフな格好で彼女たちとの集合場所へと向かった。
「あっ、せんぱーい! 遅いですよー」
 待ち合わせの十五分前に到着すると、璃子が手を振りながら走ってくるのが見えた。今日の彼女はピンク色の浴衣に身を包んでいる。大きな花柄の模様が描かれており、少しあどけなく感じたが、実に璃子らしいと思った。
「悪い……っていうか、そもそも予定の時間まではまだあるぞ? 遥も来てないし」
 璃子の周囲に見知った顔はなかった。
「は――天月先輩は、少し遅れるらしいですよ。何でも、準備に時間がかかってしまっているらしく」
手をつないだカップルが、笑顔で俺たちの後ろを通り過ぎていく。俺はそうかー、と適当に相槌を打ちながら、その二人を無意識のうちに眺めていた。
「……先輩。もしかして、羨ましいなー、とか思っちゃったりしてます?」
 口元に手を当て、にやにやといやらしい笑みを浮かべながら訊ねてくる。明るい街灯に照らされた彼女の表情は、浴衣を纏った雰囲気を掻き消すように妖艶だった。髪を数回掻いたのち、俺は少々躊躇いながらも答える。
「んー……ちょっと思ってしまったかもな」
「……へぇー」
 俺の正直な答えに、璃子の笑顔は行き場を失ったように唐突に消え、驚きのような表情に変わる。目を丸くしていた彼女は、やがて嘆息し、また微笑みを浮かべた。
「先輩、正直になりましたね。昔の先輩なら興味なさそうに生返事をするか、事実であっても恥ずかしがって嘘を吐いていたでしょうに」
「……以前の俺を忘れてしまうぐらい、色々なことがありすぎたんだよ。この数か月の間に」
 結構早かったように思う。出会ったばかりの遥は無表情なことが多くて、寡黙で、扱いが難しい変な奴だと、俺は否定的にばかり捉えていたような気がする。
 人の心は知らぬ間に他人によって変えられる。誰かのことを煙たがっていた自分は、今の時代には存在しない。そんな感情は、空に浮かぶ星々のように散り散りになってしまったのだろう。だから今は、恋人という存在が少し羨ましく思える。
「先輩。誰か、好きな人がいるんですか?」
「……どうして、そんなことを?」
「そりゃー、恋人になりたい、って言うぐらいなら想い人の一人や二人、いるのかなーと思いまして。別に誰にも言いませんよ、恋バナとはそういうものですから」
 はは……と苦笑が漏れる。
「それで? どうなんですか、先輩?」
 後輩からの期待や羨望が混じった純粋な瞳が向けられる。あぁ、やっぱりこいつは俺の後輩いなんだな、と思った。暗い面持ちで、淡々と物事を話す彼女は、きっと別次元の存在だったのだ。璃子は、無邪気かつ生意気に俺たち先輩に接し、下らない話でも声を上げて笑ってくれる、優しい女の子だ。あの時の彼女は、俺が見た妄想のように脆い存在に感じられた。
「……内緒だ。さすがに恥ずかしいからな」
 風が、再度吹き抜ける。璃子の柔らかい髪を優しく揺らし、甘い香りを漂わせる。それが向かう先、一つの影があった。淡い水色の浴衣に身を包み、ゆっくりと一歩一歩を踏みしめてこちらに歩み寄る少女の姿が、光に映し出されては薄闇に消える。それを繰り返し、彼女は穏やかな所作で俺たちの前に立った。
「……遅れてすみません、二人とも。浴衣を着るのが難しくて、気づけば結構な時間が経っちゃってまして」
「うわぁ……先輩! すごいキレイ!」
 申し訳なさそうに謝る遥の浴衣姿に、璃子が息を呑む。そのままぎゅっと遥に抱きついていた。
「えっ……ちょ、璃子ちゃん、っとと……」
 危うくバランスを崩しかけるが、何とか踏みとどまる。璃子はそんな遥の浴衣に、猫のように頬ずりしていた。
「ほら二人とも。そろそろ行かないと、花火に間に合わなくなるぞ」
「えー、もうそんな時間ですかー? ……じゃ、行きますか」
 スマホで時間を確認し、璃子はようやく遥から離れる。璃子はそのまま遥の横に並び、俺は二人から二メートルほど距離を取って歩きはじめる。
「黒瀬君は、こっちに来ないんですか?」
「あぁ、俺はいいよ。道幅もあんまり無いし、三人も並ぶと迷惑だろうしな」
 そうですか、と遥は微笑み、再び璃子の話に耳を傾けだす。
 今日の遥も、ケーキバイキングの時と同じシュシュで髪をくくっていた。姿を消す前の遥と、現在の姿に大きな変化は無いように見える。落ち着いた所作で、誰とも敬語で話し、控えめな笑顔を浮かべる彼女の姿は、きっと変わっていない。俺の記憶の中に居続ける、天月遥の姿だ。


  *

 璃子から話を聞いた次の日に、遥は学校に復帰した。クラスメイトの驚きと喜びに満ちた歓声は、今も耳に残っている。「家の用事は落ち着いたの?」「休んでた間のノート、後でコピーするね!」という女子たちの言葉に、遥は一人ずつ、丁寧に対応していた。
「ふぅ……」
 その女子たちがようやく立ち去ると、遥は一つ、小さなため息を吐いていた。筆箱とノートを取り出し、早速ノートの写しを始める。
「なぁ、遥」
「……何ですか、黒瀬君」
 ノートからわずかに視線を浮かせた遥に、俺は小声で問いかける。
「……本当に、家の用事で休んでいたのか?」
「やはり、気になりますか?」
 俺は深く頷く。ここに転入してきた理由も、遥は偽っていた。その時と同じ理由で休んでいたのだから、疑ってしまうのも致し方ないだろう。
「ちょっと、人の居ないところに行きましょうか」
 借りているのであろうノートを鞄の中に入れ、遥は立ち上がる。俺は彼女の背中を、無言で追った。


「黒瀬君の想像通り、あれは嘘です」
 体育館裏にある、ごみ捨て場へと遥は歩き、立ち止まるなりそう告げた。今日も一輪の小さな花が、温かい風に揺れている。
「そうか。じゃ、本当の理由は何なんだ?」
「……体調不良、みたいなものですよ。ちょっと、しんどかったんです」
「風邪……って感じでもなさそうだな。見る限り元気そうだし」
「えぇ、そんなどこにでもあるような病気ではありません」
 じゃ何なんだ……とは、すぐには訊けなかった。遥が屈み、足元に落ちていた空き缶を、籠の中に投げ入れる。乾いた音は、湿った風にすぐに吸い込まれていった。
「黒瀬君。黒瀬君にとって、『大切な人』って、誰ですか?」
 俺の方は振り向かず、高く積まれたごみ袋を見据えながら、遥は問う。
「以前尋ねた、『特別な人』ではありません。『大切な人』です」
 特別な人と、大切な人は違う。彼女の声はそう訴えかけていた。黙ったままの俺に、遥はそのままの姿勢で話し出す。
「……わたしには、そのような人が多くはありませんが存在します。いなくなると寂しく感じる人がそういう存在に値するのなら、すぐに思い浮かぶ人が何人かいます」
 声音は初めて彼女と出会った時のそれと同じようだった。数か月前の彼女に戻ったように感じられた。
「そんな人に、気づかれない。相手にされない。わたしのことを、特に何とも思っていない。だったら、それはとても悲しいことだと思いませんか?」
 遥は振り返る。微笑み、それ以上何も発することなく、俺の横を通り過ぎて行った。校舎に掲げられている校旗が、ぱたぱたと音を立てて揺れている。何(いず)れ縛りから解き放たれ、どこかへ飛んでいきそうだった。
 数分後、誰もいなくなったその場所から、俺は静かに立ち去った。教室に戻ると、相も変わらない喧騒が俺を迎える。机に向かって懸命にノートを写している遥に話しかける者は誰一人としていない。周囲が気を配っているのだろう。
 歩いている間じゅう、俺は遥の問いについて熟考していた。以前、公園で遥は、特別な人を見つけろ、と俺に言った。その答えすら、まだ出ていないような気がする。
――黒瀬君は、わたしにとって特別な人です……。
 あの時の遥の言葉が蘇る。今もそれは変わっていないと信じたい。もし変わっていたのなら、俺は少なからず寂しいと思うだろう。光に照らされた笑顔も、見られなくなるのだから。
「はぁー……」
 息を吐きながら机に突っ伏す。すぐにチャイムが鳴り、ホームルームが始まった。机に抑えつけられているように感じられ、体を起こすことができなかった。そのまま、一日を過ごしたような気さえ、する。


  *

 目の前で談笑する遥からは、俺と話した時のような雰囲気は一切感じられない。あの時の会話など忘れたかのようにその後はいつも通りに俺と接し、今日に到る。祭り会場はどんどん近づいており、大音量で流れる祭囃子が聞こえ始めた。
――今度の、七月七日……。
 今日が答え合わせの日だ。そう思うと、楽しいはずの会場が、緊張の場へと様変わりする。極力考えないようにしていたが、軽快な音楽が俺の気持ちを安易に呼び起こさせる。他人は俺たちのことなど見えていないかのように早足で道を歩いていた。俺を追い抜いて行った女子高生グループの一人の肩が、先を歩いていた遥に軽く当たる。だが、謝ることなく、きゃっきゃと騒ぎながら足早に去っていった。
「ちょ、ちょっとアンタたち……!」
 璃子が追いかけようとするが、それを遥が穏やかに宥める。
 俺は、怒りよりも先に悲しみの感情が浮かんでいた。
やはり人は、他人に与える想いなど持ち合わせていない。それは俺とて変わらないが、理不尽な感情は少しずつ膨らんでいるように思う。自分と関係さえなければ、何も知らない他人は、自分とは違う世界で生き続ける魔物のような存在だ。だから怖がり、慄き、接触を拒む。だが、人は大切な人を見つけ出そうとする。根底から矛盾している。そんな存在の人だって、他人であることに変わりはない。俺にとってだって、誰でも他人だし、誰からも他人だ。ならば、近くを歩いているカップルはどうなんだ。学校や図書館で勉強デートしている高校生カップルは何なんだ。
 徐々にヒートアップしてゆく自問は、ずっと消えることなく脳裏にこびりつく。だが、そのうちに、答えが出てくるような気がした。


「おー、賑わってますねー」
 祭り会場は、多くの人で埋め尽くされていた。提灯に包まれた、穏やかな赤い光が至る所から発せられ、香ばしい香りや甘い香りが混合し、空中を漂っている。
「先輩先輩! 早速何か買いに行きましょう!」
 そんな匂いに惑わされた璃子は、遥の手を強く引いて屋台に出向こうとする。遥は戸惑ったように璃子と俺とを交互に見ていたが、俺が軽く頷くと小さな笑みを浮かべて璃子の手に引かれていった。途中、何度か転びそうになりながらも、雑踏の中へ二人は消えていった。
「さて、と……。俺は……」
 とりあえず璃子に、「適当に空いてるスペースを確保しとく」とメッセージを送り、適当にぶらつくことにした。
 あまりお腹は減っていない。人の流れに巻き込まれぬように歩くだけで精いっぱいだ。ようやく開けた場所に出ると、そこではカップルや家族連れがレジャーシートを広げて座り込んでいた。普段は元気の良い少年たちが鬼ごっこや簡単な野球などをする、柔らかな芝生が豊富に生えている場所なのだが、今日に限ってはその面影は一切なく、少年たちの遊びの軌跡は消え去っている。三十分後には少量ではあるが、花火の打ち上げがある。皆、それを楽しみにしているのか、大半の人は夜空を見上げて、光の彩りへと想いを馳せていた。
 その人と人の間には一定のスペースが開いており、場所によっては大きく開いているところもあった。レジャーシートはきっと誰も持ってきていないので、出来るだけ汚れなさそうなところを選び、そこに腰を下ろした。空気に反して、涼やかな草の感触が背中を伝う。芝生の上に寝転がる寸前で手を突き、そのまま空を見上げた。
 今夜、きっと織姫と彦星は邂逅を果たすのだろう。天の川を渡り、一年間の互いの苦労をねぎらった後、きっと彼らなりの楽しみ方をして一日を過ごすのだろう。過去の俺は、星に願ってみようと思い立った。願えば何かが変わるわけでもない。ただの気休めでしかないことは分かっていた。
「……結局、願うことって何なんだろうな……」
 願うことで幸せになれる奴もいる。だが、願うことによって不幸になった奴もいた。「叶えたい願い」とは、自分が幸せになる、もしくは親しい誰かを幸せにする内容であるように感じられるが、一概にそうとは言い切れないのかもしれない。誰かを不幸にする願いだって、ごまんと存在するのだ。
 スマホが震える。璃子から『今どこにいるんですかー?』とメッセージが来ていた。俺は簡単に今いる場所の説明を載せ、返信する。了解の旨を伝えるメッセージがすぐに届き、そのまま視線を前に向けると、遠くなった屋台の光が一瞬だけ見えた。それは異様に眩しく感じられ、そこでうごめく人たちは輝く光以上に煌めいていた。表情までは見えないが、皆きっと笑っていることだろう。そんな声が常に聞こえる。
 今日のこれまでを思い返すと、二人は常に笑っていたように思う。璃子は願うことによって悲しい想いを味わったと俺に話した。かといって、全てが不幸であっただろうか? 彼女には苦しみしか残っていないだろうか? 俺には璃子の心中は察してやることしかできないが、きっとそれは否定することができる。願いの内容が不幸なことだからといって、それが招く結果が完全に相手を、もしくは互いを不幸に貶めるものになるとは限らないのだ。不幸の中から幸福を見つけ出す。璃子は、それを成し遂げたと言えるのだろう。
「あっ、先輩いた」
「はぁ、はぁ……黒瀬君、探しましたよ……」
 声の方を向くと、璃子は元気そうに手を振りながら、遥は息を切らせながらこちらに歩いてきているところだった。手の中には焼きそばやフランクフルト、かき氷といった、屋台の定番のメニューが見える。
「へぇー、結構いい場所じゃないですか! ここなら花火も見えそうですね!」
 荷物を置きつつ空を見上げた璃子が嬉しそうに燥ぐ。脇から、いかにも味が濃そうなソースの香りが漂ってきた。
「黒瀬君は、何も買わなくていいんですか? 何ならわたしたちが荷物、見てますよ」
「そうですよ、先輩! せっかくお祭り来たんだから、何か買わないと!」
 時計を見ると、花火の打ち上げ開始時刻まであと十分。匂いを嗅いでいたら少し小腹がすいてきたような気もするし、急いで行けば間に合うかもしれない。
「もしかして、お金、ないんですか? 何ならわたしが……」
「いや、大丈夫。ありがとう。お金はあるから、ちょっと行ってくるわ」
 いってらっしゃーい、という二人の声に見送られ、俺は明るい場所へと足を踏み入れた。


 *

「……ねえ、璃子ちゃん」
 先輩の姿が完全に見えなくなってから、遥の小さな囁き声が私に届く。
「なに? 遥」
「どうして、わたしが璃子ちゃんの友人だった人物だとわかったんですか? 何か根拠があったんでしょう?」
 結ばれた髪がふわふわと揺れ、私に被さる寸前で止まる。そして私から逃れるように去ってゆく。
「女のカン、……じゃ駄目?」
「真面目な話です」
 後頭部を小突かれる。遥は自然な柔らかい笑みを浮かべていたが、しっかりと拳は握っていた。ごめんと軽く謝った後、私は数回頭を擦り、遥を見据えて答えた。
「シュシュだよ。今、髪を束ねている、その」
 薄茶色の小さなシュシュを指さす。
「これ……ですか?」
「うん、それ。そのシュシュがあったから、私はあなたが遥だと分かったんだ」
 どうして? と問いたがっている遥の瞳をまっすぐに見つめ、その問いが漏れる前に私は答える。
「『これからもよろしくね。これ、あげる』」
「……え?」
 私が呟いた言葉に、遥は目を丸くする。それも当然だろう。遥にはきっと存在しない記憶だ。私だって遥のことが分かるまでは忘れていた。だが、これは私たちにとって忘れてはならない言葉の一つだったはず。小学校低学年の頃の会話だ。
「シュシュのこと、覚えてくれてただけでも嬉しいよ。だって……」
 夜風に靡く彼女の髪はしっかりと留められている。長い年月が過ぎても、使ってもらえていることに嬉しさを感じずにはいられない。
「私が初めて、遥にあげたプレゼントだもん」


 私が遥の誕生日を知ったのは、出会ってから二年ほどが経ってからだった。それまでは遊ぶことだけに必死で、誕生日など気にしていなかった。逆に言えば、大切な誕生日の存在を忘れてしまうほどに充実していたのかもしれない。遥のお母さんから「璃子ちゃんの誕生日はいつ?」みたいな話題を振られ、ようやく互いの誕生日を共有したのだ。
 その後の一回目の誕生日に、私は手作りのシュシュを贈った。まだ針と糸を自由に扱えない年齢なので、お母さんに手伝ってもらいながら作った。何度も針が指の腹に突き刺さり、そのたびに泣き叫んだものだったが、お母さんの助けもあって、何とか完成させることができた。私が遥にそれを渡した時、彼女は大きな瞳をさらに大きく見開いて喜んだ。
「汚したりすると悪いから、特別な時だけに……」
「ちゃんと、明日から毎日付けてよね!!」
「えぇー……」
 困った顔で遥は笑った。きっと遥なりに悩んだのだと思う。結局、私の命令は無視され、遥が学校にそれを付けていくことはなかった。だが、家族ぐるみで遊びに行ったりするときには、その花は彼女の上で綺麗に咲いていた。
「それと同じシュシュを、ケーキバイキングの時に見た女性は付けていたの。だから私は気づけたの。私の近くに遥がいる、ってね」
 あそこにいたんですね……という遥の言葉には頷きだけを返す。
 あの時の私は、その事実に驚いて逃げるようにその場を去ってしまった。二度と会えないと思っていた相手が、自分の目の前にいたのだ。だから私は、この世界が偽物なのではないかと疑った。
「それまでの私は、天月遥という女性は彼女の同姓同名の存在なんだと自分に言い聞かせて、その考えを抑え込んでた。でも、ちょっとした希望と言うか……疑う気持ちもあったんだ。もしかしたら遥は気づいてなかったかもしれないけど、初めて学校で出会った時、私は遥をすごい目で睨んでた。……黒瀬先輩に聞いたら分かるよ。その現場を見られちゃったから」
 あの時の、魔物でも見たかのような先輩の驚く表情は、今も脳裏に焼き付いている。きっと先輩の記憶にも残っているんだろうな、と思った。
「それは、どうして?」
「……正解なら正解と教えてほしかった。間違っているのなら間違っているとね。それを求めるために、私は天月先輩を観察しようとしたから。多分、必死になりすぎて怖い顔になっちゃったんだと思う」
 黒瀬先輩に見られたことによって観察しにくくなり、それ以降は行わなくなった。だが、その日から、それまで忘れていた遥との想い出をよく夢に見るようになった。朝になり、夢から醒める度に、私は印象深く残っている言葉を心の中で繰り返した。楽しかった日々が戻ってくればいいのにという強い願望と、あんな下らないことなど願わなければ良かったという深い懺悔の思いと共に、自らの体の中に埋め込むように反芻した。
「そうだったんですか……。全然気づきませんでした。いえ寧ろ、気づかなくてすみませんでした。もっと早く気づいていれば、色々お話もできたでしょうに……」
「いやいや! 遥が謝んなくてもいいってば! 悪いのは全部私なんだから!」
「いえいえ、わたしが……」
 数秒固まったのち、私たちはほぼ同時に笑い出した。いつものやりとりだった。二人の性格を表してるなぁ、と目尻の涙を拭いながら濡れた心の中で思った。
「でも、そう……このシュシュはそんなに大事なものだったんですね……」
 頭上に咲くその花を、遥は優しく撫でる。カサ、カサ、と擦れるような音が聞こえた気がした。
「昔のわたしは、このシュシュを特別な時にだけ付ける、と言ったんですか?」
「うん、言ったよ。はっきりと覚えてる。実際、遥もそうしてくれたしね」
 普段付けてくれなかったのは悲しかったけどね、と私は付け加えて苦笑した。周りにはだいぶ人が集まり始め、それが私たちを仮想の世界へと誘(いざな)ってくれているようだった。
 一分ほど遥は黙ったのち、ぽつりと呟いた。
「そう、ですか……。なら良かったです」
 何が……と訊く暇は訪れなかった。
 ヒュゥゥゥゥ、と糸を引くように高い音が闇夜に響き渡り、直後に巨大な破裂音が辺りの空気を震わせる。美しい大輪の花は私たちの体を駆け巡り、心臓を大きく揺らした。周囲から歓声が上がる。それらをいとも容易く打ち消すがごとく、花火はどんどん暗い空を光と煙で白く染めてゆく。
 ドンドン、ドンドン、と何かを打ち壊すようにそれは生まれ、消え続けた。豊かな色彩がみんなの顔を灯りの代わりに染めてゆく。赤に、青に、黄色に。人間を表すように、様々な色が私にも、遥にも、名前も知らない誰かにも貼り付けられていた。
 私たちは花火が打ち上げられていた約三十分間、特に何も発することなくずっとそれを見つめ続けた。黒瀬先輩は十分ほど遅れて戻ってきたが、私たちが彼に反応することはなかった。周囲から切り離された別世界で私たちはそれを見ているように、私には感じられた。そこには誰も介入ができない。二人だけの空間だったからこそ、何も感想が出てこなかったのかもしれない。


 花火が終わると、多くの人たちは帰路に着いた。会場から人は見る間に減っていき、出すものが無くなった屋台は、早くも撤収作業を始めていた。それでもまだ営業している場所は多くあり、数少ない残り客に余っている商品を買ってもらおうと、おじさんたちは一所懸命に声を張り上げていた。
「綺麗でしたね、花火」
「あぁ、そうだな。俺は途中から見たようなもんだけど」
 先輩の手にはほぼ溶けてしまったかき氷のカップが握られている。花火に集中してしまったせいで、ほとんど食べられなかったそうだ。
 時計を見ると、時刻はもうすぐ夜の九時。あと三時間もすれば、七月七日は終わってしまう。夜空では、何かを訴えかけるように星々が瞬いている。二人にとって楽しかった時間は終焉(しゅうえん)を迎え、再びそれぞれの役目を果たす日々が戻ってくる。彼らにとってそれは避けられぬ運命であるが、遥にとってはそうではない。変えなければならない運命なのだ。
 私が軽い焦りの気持ちを込めた視線で彼女を見ると、遥は分かっていると言いたげに微笑んだ。そして黒瀬先輩に一歩近づき、声をかける。
「黒瀬君、お願いがあるのですが」
「……何だ?」
 溶けた氷を飲みながら先輩は振り向く。
「申し訳ないのですが、かき氷を買ってきてもらえないでしょうか? 黒瀬君のそれを見てたら、無性に食べたくなってきまして。お金は渡しますから」
「かき氷って……お前、持ってなかったか? あれはどうしたんだよ?」
「あのかき氷は璃子ちゃんのものです。わたしはちょっとお手洗いに行きたくて……。お願いできませんでしょうか?」
 急いでいるように体を揺らしながら遥はお金を渡そうとする。先輩はしばらく考えた後に、渋々ではあるが頷いた。そして硬貨を受け取り、かき氷の屋台がある場所へと向かって行った。
 先輩の姿が見えなくなると、遥は体の揺れを止めて元に戻し、表情をも引き締めた。
「……いよいよ、だね」
「ええ。今日が彼にとっての別れ道……。そう、なってほしいです」
 言いながら、遥は先輩とは逆方向に歩を進める。視線の先には暗闇の中に佇む小さなトイレがあり……その奥には、鬱蒼と茂った木々の間をくり抜くように伸びている小さな道が、あった。


 *

 かき氷を手に元の場所へと戻ってくると、そこには璃子だけがおり、遥はまだ帰ってきていないようだった。暗がりの中に、璃子は一人で佇んでいた。
「遥はまだなのか? 俺が買いに行ってから十分ほど経ってると思うんだが」
「先輩、女の子には色々と事情があるんです。それは愚問ですよ」
 片目を軽く閉じ、上目づかいで俺を見る。はぁ、とため息を吐き、右手からゆっくりと熱が奪われていく感覚を味わいながら、俺は適当に辺りを見回す。
「今日は、星が綺麗ですね……」
「あ? ……あぁ、そうだな」
 上空を見ていた璃子が漏らした言葉に、俺も上を向く。建物や木々などが邪魔をして完全には見えないが、純粋に綺麗だと感じられるほどに、空に浮かぶ妖精たちは人間世界を淡く、そして宥めるように照らしていた。
「今日、雨が降らなくて良かったですね」
「催涙雨、ってやつか? 逢えなくなった織姫と彦星が流す涙と言われてる」
 それです、と璃子はうなずく。この宇宙のどこかで、彼らは出会えているだろうか。今日は良く晴れた。彼らが悲しみの涙を流すことはないはずだ。
「……雨が降れば、このお祭りは中止になっちゃいます。今年に限っては、それは二人が味わう苦しみと同じくらい、辛いものなんですよ」
 織姫は彦星に逢えなくなっちゃいます。自らの記憶の中に、光り輝くそれらを仕舞い込むように、彼女は拳をぎゅっと握る。それとほぼ同じタイミングで、璃子のスマホが震えた。
「あ、先輩。ちょっと失礼しますね……。遥からだ。えーっと、もしもし?」
 操作して耳に押し当てた璃子だったが、穏やかだった表情がだんだんと険しいものへと変化していく。「すぐに行く!」とだけ遥に向かって叫び、勢いそのままにスマホをポケットへとねじ込んだ。
「ど、どうしたんだ? 遥に何かあったのか?」
 璃子は小さく肩を震わせている。それが移ったようなか弱い声で彼女は告げた。
「……遥が、トイレ近くの山道で迷ってしまったそうです。何かを落としたような音がしたので探し回ってたら、変なところに行ってしまった、と……」
 璃子の言葉を聞き、すぐにでも走り出そうとする俺を、「待って!」という言葉が制する。
「何だよ!? あそこは立ち入り禁止なんだから、すぐにでも助けに行かないと……!」
「はい、それは分かっています。ですが道は舗装されていないですし、何よりこの暗さです。これ、持って行って下さい。私は警察の人に伝えてきますから。もししばらく探しても見つからなかったり、危険を感じたりするようなら大人しくここに戻ってきてください! 先輩まで迷ってしまったら面倒が増えるだけですから!」
 璃子は俺に小さな懐中電灯を渡し、俺の方は一切見ずに駆け出す。俺のスマホのライトよりもかなり明るかった。小さな彼女の背中は、既に彼方へと消えてしまっている。心の中で礼を言い、俺は俺が向かうべき場所へと歩き出す。黒い小屋のように見えるトイレのすぐ近くに、その小さな道は開いていた。来た人々が呑みこまれそうなぐらいに、奥は暗い。灯りで照らしてもそこ以外の場所は全く視認できなかった。だが、逃げ帰ることなどできない。既に黒ずんでいる張られたテープを跨ぎ、白い光だけを頼りに、俺は砂石と大きな根で覆われた道を行く。木々のざわめきに震え、どこに潜んでいるかわからない獣に怯え、周囲を確認していく中で何度も転んだ。だが、遥の名を叫び、ゆっくりと前進していった。不思議と途中から恐怖は感じなくなった。早く見つかってくれることだけを祈り、俺はまた一段と大きく叫ぶ。


 *

「……嘘吐いてごめんなさい、先輩」
 駆けてゆく黒瀬先輩の背中を見つめながら、小さな声で謝罪する。先輩からは死角になる場所から、その姿を見た。もとより私には、警察にこのことを伝える気など微塵もない。
「私の慌てる演技、うまく先輩を騙せたかな?」
 自画自賛ではあるが、上手にできたと思う。少し気恥ずかしかったのだが、全ては遥の為だった。先輩だけを山の中に誘導し、私は遠くからそれを確認する。今回私に課せられた任務はそのようなものだった。
 山道へと入っていったのを確認し、私は遥にメッセージを送る。
「順調。あと二十分もしないうちに先輩は到着すると思うよ、っと」
 すぐに既読と表示され、遥から「ありがとうございます」と返信が届いた。私はしばらく考えた後、その文章を打ち込んで送信する。
『気にしないで。それよりも、黒瀬先輩の織姫になってあげてね。今日は、快晴なんだから』
 送り終えた私は、スマホの電源を切り、そのままポケットに突っ込んだ。
 遮蔽物の無い場所からは、この星空はどのように映るのだろう。その光景を勝手に想像して、そんな自分への笑いを込み上がらせながら、その場に座り込んだ。
 自分が小さくなると、世界は一層大きく見えた。誰かを不幸にさせることはもうこりごりだ。二度と同じ過ちを繰り返さないために、何も願わないで生きようと決めた。自分自身を、そして大切な人を守るために、私は願いを封印した。
 だが、仮に願うことに力があるのならば、それは誰かを幸福にさせることも可能だ。また良くない結末を招くんじゃないかと不安になる気持ちは止まらない。それでも私は胸の前で両手を組み、どこかへと続いている果てしない空を見上げる。
 私も星に願ってみよう。二人の幸せの為に。


 *

 暗い山道を、俺は遥の名を呼び続けながら、歩き続ける。走ることはできない。急ぎたい気持ちが足へと伝わり、小さな虫が這いずりまわるような焦燥感に襲われる。俺はそれを無理やり抑え込み、転ばないように、道から外れないように一歩一歩を踏み出していた。
 既に喉は痛みで満たされており、掠れかけた声しか出せない。仮に近くに遥がいたとしても、聞き取れるかどうか分からない。脇でないている虫たちの声の方が余程大きかった。
 横を見ると、闇に覆われた傾斜がアリジゴクのように口を開けている。もし躓いて運悪く傾斜側に倒れ込んでしまったら、きっと大けがを免れることはできないだろう。この道の終着地が近づくにつれ、その角度は卑劣さを増しつつあった。
「……ん?」
 視界の先がぼんやりと霞んでいる。懐中電灯を消し、その明かりに目をすぼめる。とても眩しく感じられた。俺を安らぎの場所へと誘ってくれるような、そんな優しさも感じた。
 本当は見つけることができたことに喜び、涙を零す場面だったのかもしれない。だが、その場所は実に彼女らしいと思った。光と闇が混合し、自分はそのどちらにも染まらない。独立した場所に居続ける彼女を象徴した場所であると思えた。
「…………遥」
 暗いせいで、表情はよく見えない。だが、唇だけはなだらかな孤を描いており、地面に落ちている枝葉を踏みしめながら俺の元へと静かに歩み寄った。無言で小さなペットボトルの水を差し出し、ジェスチャーで飲むよう促す。
「……ありがとう」
 封を開け、勢いよく流し込んだ。そんな俺を彼女はじっと見つめていた。キャップを閉めて、空になったそれをポケットに仕舞い込む。
「そういう律儀なところ、何も変わってませんね」
 彼女は俺の手の動きを視線で追っていた。俺の目の前まで近付いていた遥は、困ったように、それでいて嬉しそうに微笑んでいた。
「もしポイ捨てとかするようなら、わたしはこのままここを離れていたんでしょうがね……。わたしが知っているままのあなたで良かったです」
 風が吹き抜け、恐怖心を煽る森のざわめきが流れる。一枚の葉が、俺たちの前を落ちていく。それは再び吹いた別の風に攫われ、深い闇の中へと消えていった。
「ここまで来てくださって、ありがとうございます。迷ったわたしを探すために――」
「嘘吐け。迷ってなんかないだろ、お前。わざとここに来たんじゃないのか?」
 はは、と遥は小さな声を上げて笑った。
「いくら鈍い黒瀬君でも気づきますよね、さすがに。……いえ、ここはかつての呼び方で呼ばせてもらいましょうか」
 軽く頬をつねって表情を正し、はためく長い髪を諌めるように押さえつける。間もなく風はやみ、静寂の空間が訪れる。
「昔話をしましょうか、魁人君」
 一呼吸おいた彼女の口からは、俺の知らない現実だけが語られる。俺の、消え去った記憶の欠片が集まり、ようやく形を為し始めた気がした。ふわふわと漂っていたそれらはやがて意思を持ったように、各々が向かうべき場所を目指しだす。
「わたしがあなたを助けられなかった、過去のお話を――」


「二年前のちょうど今日、わたしたちは一緒にこのお祭りへとやってきました。あの日も今日と変わらぬ賑やかさでした」
 まるで水のように、彼女の言葉はさらさらと流れる。そのせいで、夢の中にいるような心地にさせられる。
「以前、お話ししましたよね? わたしには彼氏がいたことがある、と。その彼氏というのが、黒瀬魁人君、あなたなんですよ」
「俺……? でも、俺にはそんな記憶は……」
「ええ、無いでしょうね。あなたはわけあって、中学校時代の記憶の多くを消されてしまっています。きっと、覚えているのはおおまかなことだけ……。特に、わたしとの日々の記憶は完全に消えてしまっていることでしょう」
「……どうして」
 その三年間の記憶は、断片的な物しか残っていない。誰とどこでどのようなことをしたのか、という詳細な部分は抜け落ちてしまっている。だから、俺に彼女がいた、などということはおろか、天月遥という少女の存在も思いだすことができない。
「先日、璃子ちゃんからお話があったと思います。その時、璃子ちゃんは言ったはずです。『願いの力は人類を守るために生み出された』と。魁人君の記憶が消えてしまっているのも、それと同様の理由からです。つまり、記憶に残していては魁人君の精神や肉体に影響を及ぼしかねない出来事があったんですよ」
 頭の中に、軽い痛みが走る。時間という果てしなく、壮大な流れを自身の肉体で直に追っているような、恐怖にも似た感覚が俺を支配した。
 一つの情景が思い浮かぶ。諒也とラーメンを食べに行った帰りに浮かんだものと同じだった。色々な声が聞こえる。ただ、どれも聞いていて穏やかな気持ちになるようなものではない。怒りに震え、慟哭し、苦しみに悶える、そんな負の感情がもたらすものばかりで満ちている。
「それで……その記憶って、一体……?」
 一筋の汗が両者ともに流れる。彼女はすぅ、と息を吸い、長い時間をかけて吐き出した。ぼんやりとした光は片頬だけを白く染め、静謐な瞳は揺れることなく俺だけを見据える。
 少し掠れた、静かな声で彼女は告げた。
「あなたは殺されました。わたしの目の前で」
 それが、真実であり、現実でもあった。


 *

 わたしたちは二人で屋台を巡り、花火を楽しんだ。花火が終わるとひとけは疎らになり、疲れはじめていたわたしは、もう帰ろうと提案した。魁人君は少し不満そうに唇を尖らせながらも、わかったと頷いてくれた。でもその前に……と魁人君はわたしの手を掴み、ある場所へ向かって歩き出した。ぽっかりと穴が開けられたように存在している獣道。魁人君はこの先へ行こう、と言った。未だ戸惑っていたわたしを勇気づけるように、魁人君は目的を告げた。
――この先に星が綺麗に見える穴場スポットがあるんだ。一緒にそれを見たいな、と思って。
 そういうことなら、とわたしはうなずいた。暗い山道を、スマホの灯りだけを頼りに歩いた。先にも後にも人はいないように感じられ、小さな場所に取り残されたような寂しさ、怖さを感じた。それは魁人君も同様だったのか、鳥が羽ばたく音や枝を踏み折る音がする度に身を竦ませていた。わたしがからかうと、魁人君は握る手に力を込めて、恥ずかしそうな声で言い返した。
――黙ってろよ……。多分もうちょっとだから。
 早く暗い空間から脱したいという気持ちはあるのだろうが、わたしの浴衣という服装を考慮して、ゆっくりと歩いてくれているのはちゃんと分かっていた。だからわたしも汗ばんだその手をきゅっと握り返し、二人で細い道を歩き続けた。
 あっ、光が……とわたしが思った瞬間だった。わたしの肩が何者かに掴まれ、強引に後ろに引っ張られた。繋いでいた右手は容易く離れ、わたしは固い肉体に縛られた。わたしがもたらした勢いのせいで、魁人君はその場に倒れ込んでいた。何が起こったかわからずにわたしがもがくと、わたしを抱えているものは大声で怒鳴った。
――動くな! 男も女もだ。怪我したくなければ大人しくしてろ!
 聞き覚えのない声だった。うちの学校の不良生徒などではない。わたしを拘束している男の後ろからさらに二人の男が出てきて、魁人君を地面に抑え込んだ。深夜の路上でたむろしてそうな柄の悪い、けれども筋肉質な男たちだった。何とか逃れようと魁人君は渾身の力で手足を動かしていたが、男の一人に顔を殴られ、悔しそうに歯噛みしながらも抵抗をやめた。
――ったく、ぱっとしない面してるくせにこんなかわいい彼女とデートか。幸せだなぁ、おい。
 わたしの体を持った男が、言いながら一歩ずつ魁人君の元へ歩み寄る。その太い足で容赦なく顔を蹴った。
――どうしたらこんな彼女が出来るんだよ? 参考にするから教えてくれよ?
 かかか、と笑いながら男は魁人君を見下す。仲間の男たちも笑い声をあげ、リーダーと思しき男を囃し立てる。
 痛みに悶絶しながら男を見る魁人君と目が合った。その瞳は未だ諦めない、絶対にわたしを助け出すと訴えかけていた。だが、わたしはそんな想いに首を振る。これ以上大事な人を傷つけたくない。苦しい思いをしてほしくない。わたしが耐えれば、また一緒に学校生活を送ることができる。わたしには諦めの気持ちが既に生まれていた。もう少しわたしが解放を求めていれば、結末は変わったものになっていたのかもしれない。
――俺たちはこの女が気に入った。しばらく借りてくぜ。安心しな、すぐに返してやるから。
 止めだと言わんばかりに、最後は一人一発ずつ魁人君を殴っているようだった。ただ、それは音が聞こえただけなので正確には分からない。視界は滲み始め、恐怖のあまり目を閉じていた。それでも、か弱い声は漏れる。やめて、やめて、と。わたしを連れて行くのは構わないから、彼を痛めつけないで。男はそんなわたしを見て愉快そうに笑う。叶えられない想いは笑い声に乗って、そのまま消えていく。
 魁人君が動かなくなったことを確認した男たちは、わたしを抱えたまま来た道を戻ろうとした。きっとわたしは彼らに辱めを受ける。耐えがたい苦痛を与えられ、羞恥に心を痛めることになるだろう。不安でたまらない。生きて帰ることができるだろうか。また二人で笑いあえる日々が戻ってくるのだろうか。目の前の恐怖よりも、永遠の不幸の方がわたしには辛かった。お願い、壊れないで、わたし。涙を流しながら、わたしは自身に祈った。
 その刹那、わたしは前に倒れ込んだ。いや、正確にはわたしを抱えていた男が倒れたのだ。何が起こったのかと首を捻って後ろを振り向くと、ぼろぼろになった魁人君が荒い息を吐きながら立っていた。固く握られた拳は男の頬を抉ったのか、男は手でその部分を押さえている。縛りが緩くなった隙に、わたしは駆け出した。殴られた男は仲間の一人にわたしを追うよう指示し、自身はてめぇ……と咆哮を上げ、魁人君を今度こそ動けなくしようとする。
 わたしは必死に走ったが、服装の動きやすさには雲泥の差があり、体力にも同等の差があった。わたしはすぐに捕まり、元の場所へ連れ戻された。そこでは、まだ男と魁人君がもみ合っていた。残っているすべての力を魁人君は放出し、逃れようとしているように見えた。
――先輩、これじゃ埒が明かないっす。もういっそのこと……。
 先輩と呼ばれた男は、囁きかけた男の案が良いと思ったのか、嫌らしい笑みを浮かべる。背筋に悪寒が走った。こいつはヤバい。直感的にそう感じた。
 男は人差し指を小さく動かし、魁人君を煽る。精神的にも肉体的にも余裕がもうなかったのか、魁人君はそれにすぐにのってしまった。ダメ! 行っちゃダメ! とわたしは叫ぶ。そんなわたしの声に、魁人君は驚いたような表情をこちらに向ける。それでも勢いは止めることなく、男の懐に潜り込んだ。だが、その力は男にとって、幼児に殴られた程度の痛みに過ぎなかったことだろう。男はそのまま疲弊しきった魁人君の体を掴み、ハンマー投げをするように森の彼方へと放り投げた。魁人君の空しい悲鳴だけが木霊のように残り、それも男の衒った笑い声で掻き消される。わたしには悲鳴を上げることすらできなかった。只々、目の前で起こった突然の悲劇に、茫然とするだけだった。
 わたしが守らなければならない存在は、目の前から忽然と姿を消してしまった。魁人君がどこへ行ってしまったかなんて、知る由もない。本音を言えば、今すぐにでも暗い森の中へと分け入って彼を探したかったが、男たちが許すはずがない。男たちはこれからわたしをどのように蹂躙するかだけに期待の心を持ち、一人の人間の命など眼中にはない。下卑た笑みを浮かている男たちに惑わされる自分が馬鹿らしく思えた。わたしに、拘束され続ける理由はもはや見当たらない。かといって、今すぐ逃げ出すのは無理だった。先ほどの二の舞になることは、火を見るより明らかだ。
――おら、あそこが目的地だ。
 男が指さす先には、既に誰も使わなくなって年月が経っているのだろう、ぼろぼろの小屋があった。重そうなドアを開け、中に入ると、かび臭さが鼻孔を強く刺激する。天井にはモールのようにびっしりと蜘蛛の巣が張り巡らされており、地面はその主や小動物の死骸が横たわっていた。男は地面に落ちているそれを足で蹴り飛ばし、小さなスペースを作った。その間に、わたしは部屋の構造を把握する。
――扉は一つだけ。窓は二つあるが、はめ殺し窓のようで、簡単に脱出はできそうにない。他には……。
 視線を巡らせていたわたしの首が掴まれ、そのまま顔面を押し付けられる。べちょっとした感覚に襲われ、わたしはたまらず噎(む)せた。その隙に猿轡(さるぐつわ)を噛ませられ、伸びた無数の手はわたしの身体を撫でまわした。男たちはわたしの反応の一つ一つに笑みを浮かべていた。
――大人しくしてろよ……。楽にしてやるから……。


 部屋に連れ込まれ、十分ほどが経過しただろうか。やはり、耐えることはできそうにない。男たちのそれはわたしの想像以上に残忍なものだった。浮かぶ悲しさや悔しさを圧倒的に凌駕する勢いで、沸々と怒りが湧き上がる。大切な人がいると知りながらそれを簡単に踏みにじる人間の存在価値など、何かに例えられるものではない。
 消えてほしい。消えればいい。消えろ。思いはすぐに膨張し、一つの願いを為す。このままではわたしの身体は壊れ、一生その影響は残る。わたしの身体と心は、そう判断したのだろう。
 気づけば、わたしを襲う者はいなくなっていた。部屋の中にはわたしだけがぽつんと取り残されており、小屋の外では自然で生きるものたちの日常が繰り広げられていた。
 わたしは汚れた服を着て、ふらりと立ち上がる。体に力が入らない。彼を助けに行かなければと思うけれど、それを果たすための気力は尽き果てていた。
 その後、巡回していた警察の人に保護されたわたしは、先ほど起こったことの一部始終を説明した。彼はすぐに見つかった。投げられた勢いで首の骨が折れ、窒息死していたらしい。彼の遺体を見る勇気はなかった。
 どうして、どうして、とわたしは自問し続け、苦しみに涙を流した。身体の痛みなどは、もはや感じない。彼を失ったことによる精神的ショックの方が遥かに大きかった。
 そんな時、一人の警察官に質問をされた。どうして君は助かったの、と。そしてわたしは思いだす。
――願ったら、それが現実になった。ならば……。
 わたしはその場で願った。
――魁人君と見られなかった星空を、一緒に見られますように。
 そして。
――再び生きる魁人君が、満足のいく人生を送れますように。


 *

「その後、わたしは一旦町を離れることになりました。面倒事を嫌う学校がわたしを退学にしたんです。色々な場所を彷徨いました。どこにいるかわからない魁人君と再会することだけを生き甲斐に、今まで生きてきました」
 目尻を拭いながら話す遥に、俺はかけるべき言葉が見つからない。彼女が話した内容は、にわかには信じがたいものだった。俺は一度死んでおり、遥の願いによって生き返った。そして今まで生きてきたのだ、と。まとめるとそのような結果になる。
「そして去年の春ですね。高校はこっちの学校に通えることになったんです。地元に帰ってきて、もしかしたら再会できるんじゃないか、と期待していました。初めは今通っている学校とは別のところに入学したんです。ですが、そこに魁人君と思しき人物はいませんでした。わたしは諦めずに、町中を探し回りました。すると、微弱な気配を感じ取ったんです。それをわたしは辿りました」
「……てことは、感じてた視線とかって……」
「はい。目の前の人物が本当に黒瀬魁人君か、観察していたんです」
 その後のことは俺が経験した通りだ。なかなか声をかけられなかった遥は俺の呼び声で姿を現し、何事もなかったかのように俺に接した。そして色々ありながらも今に至るというわけだ。
「……そんなことがあったなんて……」
 話を聞いている間にも不可解な感覚は俺の身体を縛り付けていた。だが、その答えが出ることはない。中学時代の記憶は戻って来ず、靄のような漠然としたことしか思いだせない。
「……これを、見てください」
 遥はスマホの画面を突き付けてくる。そこには新聞記事の画像が表示されていた。大きな字で、『高校生、森の中で窒息死』との見出しが書かれていた。
「全て真実です。これが、現実なんですよ」
 念を押すように言った。
「……じゃあさ、一つ訊くけど」
「何ですか?」
「俺、遥と出会ってから、時々幻聴みたいなものを聞いたんだ。途切れ途切れでよく聞き取れなかったんだけど、小さな女の子の会話だった。いずれも楽しそうな声だった。今になって考えてみると、名前を訊いたり、何かをプレゼントしたりするような声だった気もする。それも、遥がやったことなのか?」
 遥は少し考えたが、間もなく首を横に振る。
「わたしは知りませんね……。でも、もしかしたら余波のようなものかもしれません。力の影響なのかも……」
 そうか、と俺は頷く。
 遥が口にしたことは、完全に受け止めきれたわけではない。だが、証拠もあった。俺にそれを否定するほどの力は残っていない。
「話してくれてありがとう、遥」
 一歩近づき、語りかけるように言う。遥は穏やかな微笑みを浮かべた。
「悪いけど、俺はその時のことは思いだせそうにない。遥との過去の想い出も思いだせなさそうだ」
「…………うん。仕方ないですよね」
 悲しそうに俯く。彼女も覚悟はしていたのだろうが、僅かに期待している部分もあったのかもしれない。
「でも、約束は守りたい」
 遥の驚いた声が小さく上がる。もう一歩遥に近づき、手を差し出した。
「だから……行くぞ、ほら」
「え……? あ、はい……」
 俺たちが向かうべき場所は、もう目と鼻の先にある。俺は伸ばされた遥の手を取り、ゆっくりと歩き出した。


「魁人君、いて座の話、覚えてますか?」
「あれだろ? 俺が遥の家で聞かされた話」
 ええ、と遥は頷く。ベッドの上で静かに聞いた日を、少し懐かしく思う。
「悲しい話ではあったな。知らなかったとはいえ、恩師を自らの手で苦しめることになったんだから」
 ただ矢に討たれて死ぬだけならどれだけ楽なことだろう。だが、彼は不死身ゆえに永遠の苦しみを味わうことになった。それが両者にとってどれだけ辛かったかは、想像することすらできない。
「そう、ですね。ケイローンはきっとヘーラクレースを恨んだでしょう。恩を仇で返されたようなものですから。でも、起きてしまったものは仕方がない。その時のケイローンにとっての幸せとは、何だったのでしょうね」
 まるで自問するように遥は話す。大きな瞳に、枝葉の隙間から見える小さな星が一つ彷徨っていた。誰とも見られなかったその一つの星に、彼女は過去の想いを乗せている。
 彼女の表情から、俺にも一つの答えが浮かぶ。
「安らかに眠ること、か……?」
「ええ。推測ですが、わたしもそう思いますね。きっと彼も願ったのでしょう」
 果てしなく遠い存在の人物に自分を重ね合わせるように遥は目を細める。
「ケイローンは不幸な最期を遂げてしまいましたが、彼の願いはヘーラクレースとゼウスによって叶えられました。ケイローンにとって、それはとても幸せなことだったと思うんです。だからわたしは、この神話を悲しいだけのものとは捉えません。不幸の中で巡り合える幸福こそが、真の幸福なのだと思います」
 遥が、この神話の登場人物はわたしに似ている、とあの時口にした理由がようやく分かったような気がした。大切な人を突如失い、半永久的な苦しみを味わうことになっただろうが、その結末は自身の願いによって覆された。彼女はヘーラクレースでもあるし、ケイローンでもあるのだ。
「……ほら、魁人君。着きましたよ」
 俺の手を握る力が少し強くなる。目の前に広がるのは、草野球でもできそうなぐらいに広い芝生を持った場所だった。夜風に短い草は靡いており、植物の香りを漂わせている。
「……魁人君、実はわたし、少し怖いんです」
 握る力はどんどん強くなる。男の俺が少し痛みを感じるほどにまで増幅する。
「魁人君との願いが叶えば、わたしはどうなっちゃうんだろう、って。願いが叶うということは、裏を返せば生き甲斐を失うことに等しいです。そう思うと、少し……不安です。これまでの日々が楽しかった分、わたしは何を目指して生きていけばいいんだろう、って考えてしまうんです」
 必死にその感情に抗い、彼女は俯いている。顔を上げ、目を開けばその願いは叶えられる。それは一瞬のことだろう。俺にもその後のことは分からない。彼女にはこれ以上不幸にはなって欲しくないという思いはある。その思いによって、俺はどのようなことができるのだろうか。記憶は戻ってこないし、過去の想い出を持っている彼女の悲しみは癒えない。それがとても申し訳なく思えた。
「魁人君……何も、思いだすことはありませんか? 孤立していたわたしのために尽力してくれましたし、色々な問題も解決させてくれました。ケーキバイキングにも行きましたよね。本当に……思いだせないですか?」
 とても苦しかった。彼女を過去の記憶で縛っておくのが、とても残酷なことに感じられた。針で体の至る所を刺されているような痛みに耐えながら、俺は声を絞り出す。
「ど、どういうこと、だ……? 今の……」
「……やっぱり、演技とかじゃなさそうですね、その声。思いだしてくれるかも、とか思ったんですが……」
 遥は下を向いたまま自嘲的な笑みを浮かべる。
「わたしたちがここ数か月の間に経験したことは、過去のわたしたちが経験したことと全く同じなんです。なぜでしょうね……偶然だと思ったんですが、わたしは確信しました」
 遥は遂に目を開け、俺を見る。俺を瞳に映し、彼女は言った。
「黒瀬君は、やっぱり魁人君だ、ってね」
 遥は俺の反応を待つことなく、俺の手を引いて歩き出した。俺は引かれるがままに歩いた。
 誰もいない空間に、二人の足音は大きく響く。彼女は一切、上を見なかった。俺も見上げるつもりはない。彼女の願いは、『黒瀬魁人と一緒に星空を見ること』だ。同時に見ることに意味があると思った。それを交わした時のことは記憶にないが、彼女の願いを叶えたいと深く考えている自分がそこにいた。そのまま中央付近まで歩き、遥は足を止める。彼女は少し呼吸を荒くしており、膝に手を置いてしばらく息を吐き出していた。それでも瞳を俺のそれと重ね合わせ、笑顔で言った。
「わたしの願い、一緒に叶えてください。魁人君」



 遥か彼方までそれは広がっていた。
 とく、とく、と胸の鼓動を感じる。
 いまは、少しうるさく思った。
 つよく、つよく、波を刻んでいる。
 まるで、燃え上がっているようだった。
 であってから今に至るまでの間に、俺はたくさんの、心の変化を覚えた。
 もし、願いが叶うのなら……。
 …………。


エピローグ

 遥の願いは叶えられた。それによって何か良くないことが起こったりすることはなく、その後、俺たちは何事もなく来た道を戻った。
「わたし、とても満足しています。幸せな気分です。今まで生きてきてよかったなーって思えました」
 遥は子どものように燥いでいる。これから彼女には幸せになって欲しいと願いたいが、禍福は糾える縄の如し、とも言う。この先ずっと幸せが続くことはありえない事であり、必ず苦しいこと、辛いことは訪れるだろう。その時、また彼女は立ち直るだろうか。俺たちが生きてきた時間は短く、時を経るにつれ、幸福や不幸の大きさは確実に増幅する。俺たちはまだ世界の一パーツにもなり得ておらず、現実を何も知らない。今日知ったことは、広大な世界において些細な一例に過ぎないことだ。
「なぁ、遥」
「何ですか?」
 楽しそうな声色のまま、遥はこちらを向く。俺の中に渦巻いているのは、大きな不安だった。遥のことを守りたい。これから苦しいことがあったとしても、側に居られる存在でありたい。あまり遊ばない彼女と、唯一遊べる存在でもありたい。これが独占欲というものなのだろうか。
「……魁人君、昔の魁人君みたいな顔してます」
 心の葛藤を感じている俺を見て、遥がぷぷっと笑い声を漏らす。
「え……どういうこと?」
「過去の魁人君も、わたしを前にしてそんな悩み抜くような表情をしていたんですよ。あれはー……まだお付き合いをする前のことでしたかね」
 遥は思いだし笑いをやめない。そうか、その時の俺もこんな想いを抱いたのか、と思い、少し親近感が湧いた。過去の俺も、やはり変わらず今の俺なのだ。彼女の前に立つ記憶を持たない俺は、昔の俺にはなれないと感じていたが、そのようなことはなさそうだった。そのことに、言い表せない喜びを感じる。
「……話の腰を折ってすみません。それで魁人君、何でしょうか?」
「いや……」
 改めて問う遥に、俺は言葉を返せない。何とか繋げようと必死に言葉を探す。
「……星空、綺麗だったな」
「はい。美しかったです」
「……」
「……」
 無言の空間はすぐに訪れる。頼りない自分に腹立たしさを覚えた。
「……ごめん、こんな俺で」
 俺の謝罪に、遥は笑顔を返す。
「いえ、そんなに自分を卑下(ひげ)しなくても大丈夫ですよ、魁人君。ありのままでいてください。変に肩肘張られる方が、わたしとしてもしんどいです」
「……分かった」
 俺は素直に頷く。
「じゃあ、一つだけ言わせてくれ」
 今、俺がこうして遥の横で並んで歩けているのは、彼女が願ってくれたからだ。それに尽きる。ならば、俺には絶対にしておかなければならないことがあった。彼女の力が無ければ、俺はあの星空を見ることはできなかったし、遥を置いてけぼりにして死んでいたことだろう。それを全て覆してくれたことに対して、伝えられずにはいられない。
――俺を生きさせてくれて、ありがとう。
 お前は俺を助けられなかったと言ったが、それは間違いだ。充分俺は助けられた。だから俺は生きることができている。そう感じた。
「…………はい。また、ここで星を見ましょうね」
 来年、再来年もここに来て、遥か彼方まで続く星空を遥と見たい。何年経っても、あの場所を漂う星空は変わらないだろう。だが、見るたびに感じ方は変わるはずだ。来年見る星空は、きっと違ったものになる。今年以上の感動を覚えるかもしれないし、逆になってしまうかもしれない。どうなろうと、俺はその結末を受け入れなければならない。
 だから。
 だから、俺は決意する。
 今日の星空を、俺は忘れない。現在に生きる黒瀬魁人の脳内に焼き付ける。
 俺たちのために遥が描いてくれた星空は、永遠に残り続けるのだ。

君が描いた星空へ ©深淵ノ鯱

執筆の狙い

前向きな気持ちがあれば、その願いが潰されることはない、意外と何とかなるものなんだ、という実体験を踏まえて感じたことを伝えたいという思いで執筆しました。
第24回電撃小説大賞に応募しましたが、1次落選でした。
一度、一冊の本として出版できるような量をきちんと書き切りたいという願望がありましたので、半年いう時間はかかりましたが完結させることができました。

深淵ノ鯱

60.57.103.17

感想と意見

加茂ミイル

冒頭のロマンティックな描写に惹かれました。
何だか全体的にとても綺麗な印象を受けました。

これだけの長さの話を最後まで整った文章で書けるのはすごいと思いました。

学校生活を舞台にした青春ものが私は好きです。

ピュアな描写を読んでいると、心洗われる感じがしました。

やはり、物語を美しく彩るテーマは愛なのでしょうか?

登場人物の台詞も自然な感じで、地の文も落ち着いた感じで読みやすかったです。

これから私もこれくらいの長さの小説を書こうと思っているので、いろいろ参考になることがありました。

2017-07-17 12:50

60.36.85.240

地獄極楽丸

こういうのを読みきるひとを見るたびにすきなんだなあと感心させられます。
ヒントになるようなヘッドラインがないと僕なんかにはつらいです。
筆者の伝えたいことや狙いがぞんぶんに発揮され達成されているならそれでいいと思います。

2017-07-17 13:37

1.0.87.165

深淵ノ鯱

加茂ミイル様

読んでいただき、ありがとうございました!
綺麗に感じられたのならば、それはきっと星のお話だからではないでしょうか? 星は多くの人にロマンチックに受け取っていただけると思います笑

愛……愛って難しいですよねぇ……。僕は燃えるような愛を語るお話はあまり得意ではなく、淡い恋物語が好きですので、僕の考えを述べさせていただくと、「友達以上恋人未満」のような関係が最も書きやすいのではないかな、と思います。あとは作品に対する愛ですかね。笑 これを失うと書けなくなっちゃいますから……(体験済みです)。

参考になるようなことがありましたのなら、とても嬉しいです! 改めて、感想、ありがとうございました!

2017-07-17 15:44

60.57.103.17

深淵ノ鯱

地獄極楽丸様

感想、ありがとうございます!

地獄極楽丸様が仰っているようなヘッドラインですが、一応存在はしています(「小説家になろう」への投稿用に設定しました)。ですが、「作家でごはん!」には初めての投稿でしたため、勝手をよくわかっておらず、省かせていただく形式にいたしました。編集が可能であれば、それを加えた状態で掲載したいと考えております。また、次回、このような長いお話を投稿させていただく際には、きちんとヘッドラインを記したうえで投稿をいたします。

ご意見、ありがとうございました! 今後の参考とさせていただきます!

2017-07-17 15:53

60.57.103.17

八月の鯨

長いもの苦手なんて、中身読んでなくて、書いててすいません。


「書式」で気になったのが、

>――俺を生きさせてくれて、ありがとう。

↑ 「――」の前に、全部「一字下げ」(1マスアキ)入れて下さい。



もひとつ、

>「……星空、綺麗だったな」
>「はい。美しかったです」
>「……」
>「……」
> 無言の空間はすぐに訪れる。頼りない自分に腹立たしさを覚えた。
>「……ごめん、こんな俺で」

↑ ただの「書き癖」なんだろうとは思うんですが、台詞の頭に一々、ほとんど「……」が入ってて、見るだけで、げんなり。。
この状態だと、肝心の(「ここぞ」って所で使いたい所の)「……」が、まったく機能しない。



「タイトルと、冒頭3行、末尾2行」がワタシがチェックする箇所なので、これもスクロールだけして「結び」見ましたけど、

>だから、俺は決意する。
>今日の星空を、俺は忘れない。現在に生きる黒瀬魁人の脳内に焼き付ける。
>俺たちのために遥が描いてくれた星空は、永遠に残り続けるのだ。

↑ 個人的には、「永遠なんてどこにもないさ」って思ってますし、
無窮の星空と対峙する時、特にそれを強く感じるので、

このオチには納得しない。

2017-07-17 20:12

219.100.84.60

八月の鯨

たとえば・・


>だから、俺は決意する。
>今日の星空を、俺は忘れない。現在に生きる黒瀬魁人の脳内に焼き付ける。
>俺たちのために遥が描いてくれた星空は、永遠に残り続けるのだ。


   ↓    ↓

 遥が描いてくれた星空。
 この夜の眺めを、俺は忘れない。決して。
 網膜に、記憶の中に焼き付ける。永遠に。


とかだったら、「黒瀬魁人にとっての“永遠”」であって「心情描写としてはアリ」なんで、特に引っかかりもないんですが、

>俺たちのために遥が描いてくれた星空は、永遠に残り続けるのだ。

だと、“物理的永遠”になっちゃって、「引っかかる」んですよ。

2017-07-17 20:30

219.100.84.60

深淵ノ鯱

八月の鯨様

ご意見、ありがとうございます!

勉強不足ですみません、「―—」のまえの一字下げは初耳でした……。以後、きちんと一マス開けて執筆をいたします。

「……」は、八月の鯨様が仰る通り、確かに書き癖になってしまっています。八月の鯨様がお読みになっていない箇所にも多く「……

」を入れてしまっています。ここぞというところで機能させられるよう、改善をいたします。


最後の文章については、具体的な改正案まで提示してくださって、感謝しております! なるほど、確かに受ける印象が違いますね……。とても勉強になります! 八月の鯨様の例を参考にさせてもらって、最後の文章をより良いものにいたします!

貴重なご意見、ありがとうございました。深く感謝します!

2017-07-17 20:47

60.57.103.17

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です(テクニカルサポート)。

:
:
:
3,000字以内