作家でごはん!鍛練場

『たまかぎる』

おにぞうしか著

 自分の好きなものを詰め込んだ小説です。自然描写には気をつかっております。
 上記は数年前に書いたものでライトノベルやライト文芸を扱う新人賞に応募して全く通らなかったものです。
 友人に意見を求めたことも何度かあるのですが感想など殆ど貰えずそもそも読み切ってもらえたかさえ怪しいのでなるべく多くの意見、アドバイスなどを頂きたく投稿した次第です。
 上記のことから自分のレベルは分かったようなものですが、なにがいけないのかどこを伸ばすべきなのか分からなくもやもやとしままま現在に至っておりますのでご意見よろしくお願い申し上げます。

(一応転載でないことを示すために書かせて頂きますが現在同文は小説家になろう様で公開しております)

序章

 空から降ってきた桜の花びらが、ちらちらと舞って鼻先に着地した。
 視線を横に遣ると、あちらこちらで同様に花弁が踊っている。
 玉をいくつも結んだ簾が、風に吹かれて煌めくようだ。
 ほの暗い世界で、植物は光に当たっているわけでもないのに鮮やかにくっきりと、その体を外へ外へと伸ばしている。
 梅、椿、女郎花。紫陽花、蒲公英、萩。芍薬、躑躅、柳。橘。菊。
 ありとあらゆる草花が、今が盛りと咲き乱れている。
 季節がないのではない。
 ここから北へ進めば冬、南へ行けば夏、東は春に西は秋。季節は順繰りに巡り方位も移ってゆく。その中央であるここは全ての季節の草木が一堂に会しているのだ。気温は暑くもなく寒くもない。春の香りがすることもなければ秋の冷やかな風が吹くこともない。何故ここでは開花時期の違う花が咲くことができるのか、昔考えたこともあったが結局分からず考えるのにも飽きてしまった。
ここはそういうところだ、それでいいではないか。
 枝に己の蛇体を絡ませて、ずるずると枝先へと進む。重みで枝がたわむ。ずるずるずるずる這っていくうちに、枝を掴んでいるのは尻尾だけになった。体を揺らすと枝も揺れて、花弁や葉がばらばらと降ってきた。頭の下にある水溜りには白い体と真紅の瞳が映っている。その姿は落下物があるたびに波紋をたてて歪む。犬に見えたり猫に見えたり、熊だったり鼠だったり。見たこともない化物にもなった。一瞬現われては瞬く間に消えてゆく姿を面白がって暫く枝を揺らして遊んでいたが十分もしないで飽きてしまった。
……つまらない。
 枝から尻尾を離して俺は姿を変えた。
 銀色の靄に二つの眼。
 地面ぎりぎりを抜けてぼんやりとしていた桜の木の上で体を漂わせる。
 瞬く星を眺めながら、俺は暇を持て余していた。
 俺は生まれてこの方殆どこの場所から出て行ったことがない。
 食べ物を探しに人間の世界へ出掛けることはあるが、それは山の中で事足りる。たった一度しか行ったことがないのは人が住まう場所。一生暮らすための家を建てて商売をし、文明を発達させる場所。
 何故なら幼いころに行くことを禁じられていたからだ。
超自然的に生まれる俺達の親代わりである“爺さん”は幼い俺には持て余すほどの有り余る力が人間に害を及ぼすことを心配したのだ。
未知の世界に興味を覚えていた幼いころの俺は、行ってみたいと何度駄々をこねたことか。
しかし年を取るにつれて、いつの間に好奇心は薄れていった。
なにか原因があったような気もするが忘れてしまった。
捕食の対象である彼らに興味を抱いて何になる。
かつては人間と関わってあたら命を失う者が多くいたらしいが、それは俺が生まれるずっと昔の話。
昔から訪れていた、爺さんのような物好きは未だ人間達の中へ遊びに行っているが、多くの俺達の仲間は人の世界を嫌って去った。
そのうちに人間は俺達を忘れ、文明を発達させていった。
残っていた連中も少しずつ減っていき、反比例するように人間は膨張していった。
弾け散るその瞬間まで。
 人間は生活水準を、日本髪を結っていた時代と同等までに落とし科学を駆使して自然と折り合いをつけたらしい。
妖怪も神も、もう人の世には殆ど残っていない。
彼らは存在しないのではない。
人間の世界から去ったのだ。
 勿論彼らは人間をまるまる嫌っているわけではない。良いところも悪いところも、楽しかったことも哀しかったことも、沢山俺に話して聞かせた。
 俺の興味を惹くことはなかったが。
 このあやかしの世界に、俺はずっと住んでいる。
飽きるほど、何百年も。
この世界にも生活があって、娯楽も日々の変化もあったが、そういったものも何百回も繰り返しているうちに退屈なものになってしまった。
楽しみはない。
目標も願いもない。
なにをやっても空しくなって、すぐに飽きてしまう。
腹が減ったら食べ、眠くなったら寝る、そんな生活を送っていた。
この世界が俺の全て。
たんたんと時の流れゆくままなんとなしに生きている。
平穏だが味気のない日々を送っていた。
昨日も今日も明日も、何一つ変わることのない――。
シャランッ。
 どこからか鈴の音が聞えた。
 耳を澄ますと鈴の音は僅かではあるが次第に大きくなっていた。こちらに近付いているようだ。
 シャランッ。シャランッ。シャラシャランッ。
 東の方から来ているようだ。人のしゃべり声も聞こえる。少女のような声。
 道に迷ったのか。その割に声は明るく楽しそうだ。人間がこの世界に迷い込むことは珍しい。あやかしと人が接点を持たなくなって益々その傾向は強まっている。
 俺は体を空気中に漂わせて声のする方へ向かった。丁度小腹も空いているし喰ってしまうというのもありだろう。
 靄は楽だ。障害物などものともせず真っ直ぐ行きたい方向へ行くことができる。木の枝にぶつかって体が分かれても通ってから元に戻せばいい。速度だって思いのままだ。
 人間は俺のいたところから一キロメートルほど離れた場所にいた。小柄な少女で、目も髪も黒い。尻まである、少し毛先にクセのある髪を高い位置で一つに結んでいる。その結び目には鈴や色つきの紐が括りつけられていた。これが鳴っていたのか。紺色の地に白い大輪の花が描かれた着物を着ていて、背には頭の高さを悠に超える高さの荷を背負っていた。彼女の横には銀色の毛の子狐がとてとてと歩いている。二人はとても楽しそうに話をしていた。
「あたしのお勧めは春だね! 暖かいしいい匂いがするの!」
 子狐は歩いてきた方を鼻でさした。
「わたしも季節の中では春が一番好きかな。色んな生きものが動き出すところが好き。好きな花が沢山咲いているし」
「でもね、ここで一番凄いのは真ん中だよ! 色んな季節の花がみーんな咲いているの!」
 少女は興味をひかれたようで、声が少し上擦る。
「違う季節の花がみんな! でも混ざってしまってごちゃごちゃしちゃうんじゃないかな?」
「それが不思議と違和感がないの」
「そうなんだ! 見てみたいな」
「目的地がそこだから見られるよ! 楽しみにしててね!」
「うん!」
 迷ったわけではなさそうだ。ならこいつはなんのためにここに来たのだろう。子狐に連れられて来たのか。
 まあそんなことはどうでもいい。喰ってしまえ。子狐程度が抵抗したとしても俺に傷一つつけられまい。わざわざ人間に下りる手間が省けて丁度よい。
 俺は狼に姿を変えた。
 音をたてないようにそっと背後に近付き、間を置かずに飛びかか――
「止めておけ」
 聞きなれた声で、俺はぴたりと動きを止めた。少女と子狐は声でやっと俺の存在に気付いて振り返る。隙があり過ぎる。
 なぜ邪魔をするのか。ムッとして爺さんの気配のする方を睨みつけた。先程まで気配すらなかったのに、いつから監視していたのか。
 爺さんは柳の陰から現れた。彼お気に入りの豊かな白ひげの翁の面をつけた人の姿をとっている。
「この娘には手を出すな。彼女は“言伝え”じゃ」
「“言伝え”」
 言伝えとは簡単に言えば宅配人だ。手紙を中心としたものをあやかしからあやかしへと配達する。遠い場所にいる相手への通信手段となるため、決して彼らに危害を加えてはならないというのが俺達あやかしの暗黙の了解となっている。かつては言伝えを生業とする一族があったが、確か俺が幼いころに受け継ぐ者がなく絶えてしまったはずだ。
「言伝えはいなくなったんじゃないのか」
「ほれ、この娘の髪飾りを見ろ」
 紐に括りつけられた鈴。
「……変なものを髪飾りにしているな」
 俺が理解できないことに爺さんはやきもきしているようだ。
「そこまで分かって何故気付かんのじゃ! あれこそ言伝えの印だろうが!」
「……そうだったか?」
「阿呆、忘れたか!」
「数百年前のことなど忘れて当然だろう」
 歯牙にもかけない俺の態度に爺さんは溜息をついた。
「……まあ思い出してみろ」
 最後に見た言伝えはどんな姿だったか。初老の男だった気がする。確かいつも重そうな荷物を背負って、腰になにかを差していたような……。鈴と鈴が触れる心地よい音が暫く耳に残っていた。
 ポンと手を打つ代わりに地面を打った。
「あれか」
「やっと思い出したか」
 爺さんは少女に向き直った。
「人の子よ、誰かへの配達物はあるのかね?」
「はい。銀嶺(ぎんれい)様から高木(たかぎ)様へ」
「銀嶺が!」
 高木とは爺さんの名だ。
「私が高木だ。受け取ろう」
 少女は油紙をはずして爺さんに和紙に包まれた手紙を渡した。
 爺さんはその場で手紙を開いた。宙に手紙を広げると、折りたたまれた和紙が滝のように地面に零れ落ちた。それには一メートルにも及ぶ和紙にびっしり流麗な文字が書き込まれていた。手紙の送り主は狐らしい。狐独特の文字グセがある。
 やっとこさ手紙を読み終えると、爺さんはそれを丁寧に折りたたんで懐にしまった。
「そうか、そのようなことがあったのか……」
 ぽつりと呟いて空を見上げた。
「人の子……、いや、お主の名前は灯火(とうか)だったな。初めての仕事で疲れたろう、暫し休息をとったらどうだ?お前達が見てみたいと言っていたこの世界の中心部は儂が管理しているから安全じゃ。その間に儂は渡してほしい手紙があるからそれを執筆しておく」
 子狐が少女の足元に纏わりつく。
「寄ってよ! 一緒に遊ぼ!」
 少女は子狐の頭を撫でながら遠慮気味に訊ねる。
「いいんですか?」
「よいよい」
「ならお言葉に甘えて」
 少女は照れ笑いをした。
 子狐は少女に飛びつく。
「やった! あたしのお気に入りの花を教えてあげるね! 母さんが言うには人間の世界だとすーっごく高い山の上にしか咲かない花なんだって! でもそこならいつの花だろうとどこの花だろうと咲いてるの! あたしと同じ銀色の花なんだ!」
「すてきだね」
 もふもふした毛にくすぐったそうだ。
 爺さんは少女と彼女にじゃれる子狐の頭に手を置いた。孫を慈しむ爺みたいだ。
「こいつに案内してもらえばすぐ着く筈じゃ。ゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます」
「案内を頼んだぞ?」
「はーい!」
 子狐は元気に返事をした。早速尻尾を振りながら道案内を始めた。俺の気配に全く気付けなかった奴らが大丈夫なのか。
 言伝えがここを頻繁に行き来していたのは何百年も昔の話だ。俺のように忘れて飛んで火に入る夏の虫だと襲いかかろうとするやつがいないはずがない。
……中央部に着くまで遠くから監視しているか。
面倒だが、爺さんが配達を頼むのに死んだら困るからな。
 俺が二人の去った方へ脚を向けると、
「送り狼にでもなるつもりか」
 爺さんに水を差されてしまった。
「誰がするか。親切心を悪い方にとるな」
 爺さんはからからと笑って、
「冗談じゃ。お前は儂についてこい。話したいことがある」
 靄に姿を変えたので俺もそれに倣った。
 俺達が通り過ぎると、木がざわざわと揺れて葉や花弁が落ちる。呑みこまれそうな暗闇の中で、植物は自ら柔らかな光を発してほんのりと明るい。木々の陰から火の玉や光る何者かの毛がちらほら見える。
しんと静まり返った春の森を抜けると、俺達の住む中心部だ。
ここはあやかし共が一番多く生活をしている場所で家も多い。赤と白の提灯が交互に下がっているそのうちいくつかは付喪神が宿っていて道行く者に話しかけている。道の両脇には店がひしめきあって建っていて、暖簾の向こうから賑やかな笑い声が聞こえる。ある者は愚痴をこぼしある者は酔った勢いで相手に絡む。彼らは人型であったり動物の姿をしていたりもはや形にならない者もいる。器物に魂の宿った者、所謂神と呼ばれる者、化物と呼ばれる者。多種多様な存在が薄闇の歓楽街を行きかっている。
「お! お二方お久しゅうございます!」
 狐の客引きが俺達に気付いて声をかけた。着物の袖を襷でたすきあげ、腰には前掛を巻いている。
「久しぶりじゃのう。どうだ、商売は上手くいっているか」
「へえ、悪くはないです。けどやっぱ高木様がいらしている時とそうじゃない時じゃあ盛り上がり方が違いますねえ」
「ほう、どう違う?」
 爺さんはある飲み屋の前で立ち止まった。
「なんかこう、おめでたい気持ちになるんですよね。高木様がいるだけで! 店のもんも他の客も皆祝いの席にいるみてえになるんです」
 客引きのふわふわとした抽象的な褒め言葉に、爺さんはご満悦のようだ。
「そうかそうか。なら今度行くとしよう」
「へえ、お待ちしております!」
 いつまで油を売っているつもりか。
「爺さん、話ってのはなんだ?」
「そうだったな。では暇になったら寄るからよい酒を用意しておいてくれ」
「お引き止めしちまってすんません。いつでもどうぞ!」
 手を振って見送る客引きを後にして俺達は中心部でも北の方角、爺さんとその兄弟や親子同然に育った者達が住む場所に着いた。爺さんの屋敷はその住宅域の端にある。
 寝殿造の広い屋敷。庭には人工の小川が流れていて、爺さんお気に入りの金木犀と銀木犀が甘たるい香を四方に放っている。
 勝手に開いた門をくぐり抜け、一直線に書斎に行った。
 通りすがった召使いがお帰りなさいませと口々に声をかけた。
 爺さんは筆をとるのに便利な人の姿になると、俺に背を向け熱心に手紙を書き始めてしまった。暫くの間召使いの出した茶を啜りながら待っていたが一向に書き終える気配がないので待ちくたびれてしまった。
「爺さん」
「なんじゃ?」
 振り向こうともせず夢中に手紙を書いている。
「なんじゃじゃない。話があると俺を連れてきておいてなんの声もかけずに手紙を書き続けるとはなんだ」
「おう、すまんのう。年をとると自分にとってのちょっとは他には長い間に感じられてしまうのかもしれんなあ」
「その言い訳、意味が分からないのだが」
「そうせっかちになるな」
 爺さんは筆を置いて例の翁の面をはめると座布団の上で体の向きを変えた。
「……その面好きだな」
「うむ、昔友人に貰ったものでな。人の世界ではめでたい演目で使われる面じゃぞ」
 追加情報はいらない。
「お前も気になるか? 貸してやってもよいが」
「いらない」
 即答か、と爺さんは苦笑をした。
「さて、本題に戻るがお前に頼みたいことがある」
 爺さんは姿勢を正した。背はしゃんと伸びて、近頃のガキより姿勢がいい。「玄幽(げんゆう)」と俺の名を前置きした。
「お前には言伝えの灯火と共に儂の手紙を配達してほしい」
……は?
 どうして俺が人間と一緒に行動しなければならないのか。
「何故?」
「あの娘を見てお前も感じたと思うが、戦い方もろくに覚えていないようだ。道中危険は山ほどある。あやかしだけなく人も襲ってくるかもしれない。ちゃんと手紙が届くか不安だからお前が付き添ってくれないだろうか」
 つまりあの少女の警護をしろということか。人様の警護など真っ平御免だ。
「断る。もし不安だったらあの女ではなく他の奴に頼めばいいだろう」
「内密な内容の手紙なんじゃ。関わる者は少ない方がいい」
「だから信用のおける奴に頼めばいいではないか」
「お前と灯火に頼みたいのじゃ」
「どうして」
 しかし爺さんは俺の質問には答えず、顔をずいと近付けた。にやけた爺の面の奥の目がきろりと見つめてきた。
「よいな?」
 断る権利はないということか。
 俺は長々と溜息をついた。
「……分かった。だが手紙を配達した後は知らないからな。その後は面倒をみない。あいつがどうなろうと知ったことではない」
「よかろう」
 爺さんは俺に背を向けると手紙の執筆に戻った。とても長い文章で、手紙の全長は二メートルを超えている。
「ところで誰宛てなんだ?」
「市のところじゃ」
 爺さんの市姫はこの国の西方にある神社に今も暮らしているという物好きの神だ。会うとよく俺に絡んできて面倒臭い。
ここから市のところまで行くとすると二月ちょっとはかかるだろう。
長い旅になりそうだ。
あんな会って間もない脆弱そうな人間のお守など気が重い。
「ほい、出来たぞ。宜しく頼む」
 先が思い遣られて溜息ばかりつく俺の手に手紙を握らせた。
「さて灯火はどこにおるかな」
 爺さんは少女と子狐を使いに呼びに行かせた。屋敷に呼ぶつもりか。
「お前は人型になっておけ、人間の世界を歩くのにその方が便利だし灯火も親しみやすいだろう」
「別にあの小娘が親しみやすかろうかなかろうがそんなの関係ない。俺の好きな形になる」
「なんでもかんでも駄々をこねるな。人型になっていた方が警護するのによいぞ。人間界に溶け込めるし相手も警戒するからな」
 俺はしぶしぶ人に姿を変えた。白髪に赤い瞳を持つ男の姿。
「目つきが悪いがまあいいじゃろう」
 元々こういう目つきなのだ、ケチつけられる筋合いはない。
 俺達は様々な形に変化できるといっても型は決まっているのだった。俺は何者に変化しても赤い目と白い毛は変わらない。
 二人が到着したという連絡があって、俺達は座敷に向かった。座敷の下座にちょこんとすわった少女は相変わらず子狐にじゃれつかれていた。
 少女は俺達が入ってきたのに気付いてぺこりと頭を下げた。
「どうじゃったかね?」
「はい! とっても綺麗でした!!」
 少女が目を輝かせて答えたので、爺さんは嬉しそうに何度も頷いた。
「そうかそうか。それはよかった。これは僅かながら手紙を届けてくれた礼と配達を頼みたい手紙じゃ」
「はい」
 少女は緊張した面持ちで手紙とお礼の絹織物を受け取った。絹織物は全て女ものでかわいらしい花模様がついたものや金糸を豪勢に縫い込んだものまで様々だ。これで着物を作って、余ったら売るようにという意図だろう。
「今回頼むのはとても重要な手紙でな、誰かに狙われる危険もあるからこいつを警護につけたいと思うのじゃがいいだろうか?」
 爺さんは俺を前に押しやった。
 少女は自分が信頼されていないなど一欠けらも考えていないようで、迷わず快諾した。
「はい、よろしくお願いします」
「こいつは玄幽というんじゃ。むっつりで愛想はないが悪い奴ではないから気を悪くせんでくれ」
「宜しく」
「わたしは灯火っていいます。よろしくお願いします!」
 少女は手紙とお礼の品を抱える腕の力を強めて一礼した。
こいつで本当に大丈夫なのか。
 少女のあどけなさに俺の不安は増すばかりであった。


第二章 薄墨

 低い山の山頂に神社があった。
創建されたのがいつか記録にないが、古代の書物にもその名が載っているというとても古い神社だ。
境内はとても広く、いくつもの小さな社殿や宿坊が建っている。
第一の鳥居は山の麓にあって、そこから頂上へ続く参道が通っている。山道や急な階段があり、第一の鳥居から登ろうとすれば二時間はかかってしまう。
三つ目の鳥居を抜けると平地がありそこに宿坊はあった。
そこから二十分ほど歩いた先の丘のような場所が頂だ。
頂には小さな社殿があるが、そこに一般の人が入ることは許されておらず、入ることができるのは、その小さな社殿を隠すように建っている一際鮮やかで大きな権現造の社殿である。
社殿は色が剥げて黒ずんでいるが、所々に華やかな装飾が見てとれ、往時の美しさを想像できる。麓の住民から篤く信仰されていて、休みの日には観光客も多数参拝に来る。
 俺はあやかし専用郵便配達人である少女灯火(とうか)を、親代わりの爺さんに頼まれ、爺さんの手紙を配達し終えるまでの護衛として一緒に配達の旅に出ている。
 爺さんに否応なしに承諾させられた護衛を始めてから一日が経った。
爺さんたっての勧めで灯火は一晩爺さんの屋敷に泊まり、早朝に出発した。
泊まるということになった時は大分不安そうだった。当たり前と言えば当たり前だが、爺さんはあんな変な奴だが一応人間からは神と呼ばれた存在である。失礼ではないか。
泊まるところがないからと親切心で言ってやったというのに。
あんな奴はその辺の道端に転がしとけばよいものを。
 元々乗り気でなかった上に不愉快なことも重なったため、出発してから俺は自ら一言もこいつに話しかけなかった。
時々あちらから、あやかしの世界はどんななのかと訊ねたり自己紹介をしてきたりしたが、俺の反応が薄いためにすぐしゃべるのを止めた。黙々と歩き続けて着いたのがこの神社である。社務所でなにやら話をしていた灯火が駆け戻ってきた。
「宿坊に泊まらせてもらえることになりました。あの宿坊に泊まってください」
 鳥居の横にある宿坊を指差した。木造平屋の建物で、板葺きである。玄関の扉は開け放たれていて靴や草履がごちゃごちゃと転がっている。沢山の人数が中にいるのだろう。
「いらない」
俺は首を振った。俺達あやかしは人間ほど睡眠が必要ない。それ以上に建物の割に人が多い。川の字ではないにしても狭い場所で寝るのは避けたい。
「でも寝る場所がないと…」
「俺は好きなところに勝手に寝る」
「風邪引いちゃいますよ?」
「風邪など引くか、阿呆」
 いらぬおせっかいだ。
灯火はしゅんとなったが気を取り直して、
「ならご飯を食べに行きませんか? 昼ご飯もいらないって言って食べなかったじゃないですか。ちゃんと三食食べないと健康に悪いですよ?」
 これも余計なお世話である。
「いらない。俺達は人間ほど食事の頻度が多くないと昼に説明したはずだろう」
「そうですか…」
「そうだ。それはそうとお前に聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
 初めて自分から訊ねた。灯火は少し元気を取り戻したようだ。
「明日は何時に出発するつもりだ?」
「八時には出ようと思っていますが」
 予想していたものと違った質問を俺はしたようで、彼女は不思議そうな顔をしている。
「そうか。俺は八時になったら三番目の鳥居に行くからそれまで放っておいてくれ」
「玄幽(げんゆう)さん」
 立ち去ろうとする俺の着物の裾を灯火が掴んだ。
なんだ、面倒臭い。
 仕様がなく振り向くと、こいつの人差し指が俺の頬に刺さって顔が歪んだ。
「なにをする!」
 手を振り払われたこいつは尚も負けじと俺を指差した。
「少しは楽しい顔をしましょうよ! 幸せが逃げちゃいますよ!」
 不機嫌の元凶はお前だというのに。
よくもまあいけしゃあしゃあと正義面でそんなことが言えるものだ。
「人を笑わせることとか苦手ですし、わたしといても楽しくないのかもしれませんが…」
そこで一度口を噤んで困ったような顔をした。怒るべきか迷っているような表情。
「でもそんな風に嫌な顔ばかりされるのはちょっと…」
「ちょっとなんだ」
「……嫌です」
灯火は視線を逸らしながら言った。
お互い一緒にいることで不愉快になるのなら猶のこと。
「そうか。ならなるべく一緒にいない方がいいだろう」
「そういう意味で言ったわけじゃ――」
 視線を上げた彼女の言葉を制止した。
「離れていた方がいい」
 灯火は口に手をあてて思案していた。俺の意を察しかねているらしい。
「……無理に一緒にいなくてもいいんですよ。わたしが一人でちゃんと配達しますから」
 それでは安心できないから俺が遣わされたのだ。
 なにが「いい」だ。お前に許可されてどうにかなる問題ではない。
「帰れるものなら帰っているわ。お前がひ弱で届くか心配だったから爺さんが無理に頼んで俺は同行することになったのだ。仕方なく、な」
 目一杯嫌そうな感じを出して言ってやった。
「信用おけない……?」
 彼女は顔を俯せて唇を噛んだ。
「そうだ」
「……ならどうして別の人に頼まなかったんですか?」
 キッと睨みつけてきた目には涙が溜まっている。
「知るか! 俺もそう言ったが、爺さんはお前がいいと言ったのだ」
 ぶるぶると肩を震わせる灯火に追い打ちをかける。痛い目に遭わせておけば余計なことをしてこないだろう。
「俺はお前となど出来る限り一緒にいたくない。だから放っておけ。無論警護はちゃんとする。ある程度離れていても監視はできるからな。お前は黙って手紙を配達すればいいのだ」
「……帰ればいいじゃないですか……」
 彼女の頬に一筋の涙の線ができた。
「何度も言わせるな。爺さんに逆らうことはできない」
「そして……嫌々、二カ月もわたしといるんですか……?」
 俺が頷いたことで彼女の涙の堰が一気に切れた。ぼろぼろと零れる涙を袖で拭きながらぷいと背を向け建物の裏へ走っていった。これで大人しくなるなら万々歳だ。
さて、好きな姿になるか。
 俺は人気のない、変化しても誰の目にもとまらない場所を探し歩いた。
最も適当な場所は灯火に使われてしまっているから、よい場所を探すのに苦労した。
考えあぐねた末に派手な社殿の裏の丘にした。
辺りは一周注連縄で囲まれていている。禁足地のようだ。
伸び放題の草木が一面に生えている。
人も来ないし一晩居座る場所もここにするか。
 一番楽な靄に姿を変えようとすると、
「ほほほ。見ておったぞ」
 古代の礼服を着た老婆がいつの間にか横に立っていた。薄くなった白髪を頭のてっぺんで宝髻に結っている。腰は曲がっているが目は生き生きと輝いている。
 この神社に祀られている神だろうか。
「可哀そうじゃのう。あの娘っ子」
「事実をつきつけてやっただけのことだ」
「何千年も生きている奴が二十年生きているか分からない小娘さえ上手く扱えないとはのう」
 こいつはそれを言うために現われたのか。
「なにしに現れた」
「ん? 儂は儂の敷地内に入ってきたガキに挨拶しに出向いてやっただけのことよ」
「そうか。俺は玄幽だ。宜しく頼む」
「ふむ、宜しく。それはそうとお前、娘に謝ったらどうだ」
 何故俺が謝らなければならないのか。別に悪いことはしていない。
「謝る必要はない」
 老婆は首を傾げた。
「そうか? わざわざ娘に言っても仕様のないことを言って困らせていたではないか」
「それはあいつが楽しい顔をしろなどと馬鹿げたことを言ったからだ」
「馬鹿げたことか? 誰しも嫌な顔で接せられたらいやじゃろう?」
 俺は黙ってしまった。老婆の言うことは正しかったからだ。
「だが仲良くする気が起きないのだ」
「しようともしないからじゃろう。娘っ子が仲良くしようと、相手のことを知ろうとしているのにお前は知ろうとしないではないか」
 煩い奴だ。お説教のつもりか。
 いくら相手の論理に筋が通っていたとしても、それを指摘されるのは嫌だった。自分の欠点を他人から指摘されて受け入れられるほど、俺は大人ではなかった。
 ぎろりと睨むが老婆は全く動じなかった。
「都合が悪いと睨んで黙らせるのか。残念だが儂には通じんぞ」
 むしろ俺が老婆に気おされてしまった。圧倒的に長い歳月を生きてきた者の威厳に、動けなくなっていた。
 そんな俺を老婆は鼻で笑った。
「まだまだガキがじゃのう」
 ガキガキ言われるのが気にくわない。俺だって俺なりに経験を積んだつもりだ。それを会ったばかりの婆さんにとやかく言われる筋合いはない。
 だが文句を言おうにも口が開かなかった。
「玄幽、といったな、お主。世界を知れ。そして自分を磨け」
 老婆はそう言い残して草陰に消えた。
 一人残された俺は唇を噛む。
 悔しい。なにも言い返せなかった。
 何故俺ばかり嫌な思いをせねばならない。
 苛立ちを押さえきれず、闇に包まれつつある神社の上空をぐるぐると回った。靄になった俺に気付く者はいない。参拝客も次第に減り、完全に闇夜に包まれた時には誰も外には人っ子一人いなくなった。
境内にある石燈籠の火がちらちらと燃えている。
宿坊の戸の隙間からは温かな光が漏れている。
穏やかな景色にだんだん気持ちは静まり、内省できるようになった。
婆さんの言う通り、俺が悪かったかもしれない。それに言い過ぎた。どんなに嫌だと相手に訴えたとしても相手にはどうしようもないのだから。
あんなに機嫌を損ねるなど大人気なかった。
仲良しこよしはご免だが、それなりにはつき合わないといけないな。
地上を眺めていると、一人第三の鳥居をくぐる者がいた。男はランプを手に持つだけで他になにも持っていない。こんな夜更けに参拝だろうか、珍しいこともあるものだ。
禁足地には例の婆さんの姿は見えない。社殿の中に入っているのか。
俺は姿を人の形に変えた。謝るなら早く済ませてしまおう。善は急げ、だ。そうはいってもこちらから宿坊に行くのは気が引ける。あちらから外に出てきてはくれないだろうか。
ぐずぐずしているうちに一時間は経過してしまった。
あちこちの宿坊の光が次第に消えていく。消灯の時間だろうか。
謝るのは明日になるだろうと諦めかけていた時、灯火に動きがあった。
宿坊の外に出たようだ。この気を逸してはいけない。俺は急いで彼女の元へ行った。
俺が自分から現れたので灯火は驚いたような顔をしたが、すぐにむくれて顔を背けた。
「…なんですか」
 まだ拗ねているのか目を合わせようともしない。
 文句が口から出そうになるが、それを堪えて、
「……さっきは言い過ぎた。すまない」
「…………」
「確かに仕方なく行動を共にすることになったが、俺にせめてお互い楽しく過ごそうとする意識が不足していた。嫌だという感情をお前に押しつけて、自分勝手なことを言ってすまなかった」
 灯火は首を振った。
「わたしが弱いのは動かしようのない事実ですし……」
 でも、と彼女は続ける。
「仲良くしましょうよ、ね?」
「そうだな」
 これから二か月一緒にいる他ないのだから。仕事と思ってやろう。
 少女は相変わらずそっぽを向いたまま、俺の方に片腕を伸ばした。
 俺が彼女のしようとしていることが分からず戸惑っていると、
「握手、です。配達を終えるまではフリでもいいので仲良くしましょう」
 握手をすれば契約成立というわけか。いいだろう。
 俺は彼女の手を握った。
「あの」
「どうした?」
 他になにか条件でもあるのか。
 灯火は遠慮がちに、
「わたし……お手洗いに行こうと思って外に出たので……」と言った。
 便所に行きたいということか。
 なんとも間の抜けた発言だ。
 一笑して手を離した。
「行ってこい」
 久しぶりに笑った。出発してからは元より、もっと前から笑っていなかった。
 笑ったためか心についていたとげとげしたものもいくつか剥がれたような気がする。
 灯火もそれにつられて微笑を浮かべた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 彼女は縁側をぺたぺたと足音を立てて足早に歩いていった。
 俺は社殿の屋根に寝ころんでぼんやりと考えて夜を過ごした。
 やはり気持ちの問題だったのだ。
 日中の嫌な気持ちはどこかへ吹き飛んでしまっていた。
 いい齢なのだから俺がしっかりせねば。
 見た目の年齢だって数歳は上なのに、あれではガキは俺の方だ。
「ちゃんと謝ってきたな」
 説教婆さんが俺の隣に座った。
「なんだ、あんたか」
「なんじゃあ? あんたとは。儂の社殿の屋根に寝ころぶ無礼なお主を許してやっておるのじゃぞ?」
 言う割に特に嫌そうではなかったので、俺は相変わらず寝ころんで月の光すら通さない曇天を眺めていた。
「やはりこの神社の神か」
「そうじゃ、お主ももう少し年寄りを敬ったらどうじゃ。ほれ、あの者のように」
 婆さんが指差した先には、鳥居で見た男がいた。
まだいたのか。
男は手を合わせて熱心に祈っていた。
「あやつは甲斐甲斐しくも妻の病気平癒を願って毎夜々々参拝しておるのじゃ。初日に百度参ると誓ったのをちゃんと守り、今夜で九十九日目じゃ」
 婆さんは頬杖をついて男を優しそうな目で見下ろしていた。
「約束を違わなければ、儂もあやつの願いを叶えてやろうと思っておる」
 あちらが勝手に願って約束したことをいちいち守る義理などないだろうに。
 物好きな婆さんだ。
 東の空が白んできた。


 朝、俺が鳥居に来る前に、既に灯火は待っていた。
「すまない。待たせたな」
「いえ。さっそく行きましょうか」
 俺達は山道を下っていった。早朝にも拘わらず参拝客で道は混んでいた。早い者は六時には登り始めているということだ。朝からご苦労なことである。場所によっては通行する人数の割に道が狭く、横に避ける時に梅雨の長雨でぐったりしている草を踏んだ。ここ二、三日雨が降っていなかったので地面はぬかるんでおらず歩き易い。
「今日は山の麓の町にとどまって必要なものを買いこもうと考えています。ここがこれから二週間の道のりの中で一番大きな町なので」
「いいんじゃないか」
「玄幽さんはなにか買いたいものとかありますか?」
「特にないな。自分のことは自分でどうにかするから俺のことは気にしなくていい」
「そうですか」
 昨日のことがあってまだ互いに慣れない俺達の会話は大体が必要な情報の交換だった。相変わらずぎこちない会話。昨日より自然に接せられているだろうか。
 一時間半で山を下りて麓に着いた。
第一の鳥居から小川を挟んで太い道ができていて、左右には参拝客向けの旅館や土産物店が軒を連ねている。時間が時間だからか境内以上の混みようだ。
 彼女は一度鳥居に向かってお辞儀をしてから、
「買い出しに行ってきますね。五時ごろには買い終えるのでここでまた待ち合わせにしましょう。玄幽さんは好きに行動していてください」と言った。
「分かった」
 昨日の俺の発言を考慮して言ったのだろう。
 俺も気楽でいい。
 境内を出てすぐの、葉の生い茂った人が登れない高い木の上で道行く人を眺めたり昼寝をしたりして気ままに一日を過ごした。町を一望できる高さなので、人や物で溢れる様子がつぶさに分かる。気をつけないとぶつかってしまいそうなほど混んだ通り、店に重なるように並べられた商品。なにが楽しくて騒いでいるのだろう。
視線を先に遣ると門前町を囲うように川が流れている。川を越えた向こうは更地で、開発途中なのか造りかけの人工物が見える。
 夕方になる。待っている間は長く感じた時間も、終わってみれば短かった。
 俺達は鳥居で落ちあうと今晩泊まるところを探した。生憎部屋はどの宿泊施設も満員で、悉く断られてしまった。
 案内所の前で、どこか野宿できそうな場所を探すか諦めずにもう暫く探してみるかどうか話しあっていると、丁度通りがかった買い物帰りの婦人に声をかけられた。
「あら、お二人さん今日泊まるところがないの?」
 小太りの年配の女で、気さくに近付いてきた。
「はい……」
「有名な観光地ですものね。困ったわねえ」
 どこか泊まれそうなところはないかしらと頬に手をあて考えていたが、
「……やっぱり思いつかないわあ」
 と肩を落とした。
「一緒に考えてもらって、すみません」
「いいのよお。お客様には親切にしなきゃ。また来てもらいたいもの」
 それにしても困ったわね、とうんうん唸っている。
「そうね……、あたしが働いている家なら泊まれるかもしれないわ。そこのうち、丁度離れに住む人を募集しているのよね。それに見聞を広めて町の発展に活かすためかしら、旅の人を呼んで話を聞いているのよね。もしかしたら話をする代わりに泊まらせてくれるかもしれない。よければご主人に頼んでみるわ」
「そちらが構わないのでしたらぜひ」
 灯火は大きく首を縦に振った。


 俺達は女と共に彼女が働いているという家へ向かった。
観光地といっても神社一つで繁栄させるのは簡単なことではなく、一寸大通りに逸れると人通りが急になくなった。静かな住宅街が続く。
女が雇われている家は、夫と病気がちな妻の二人暮らしで仕事が忙しく、手に回らない家事を代行している。
この家は先代が一代で財をなし、町の観光化や整備に尽力したことで有名らしい。息子も父親の遺志を継ぎ、現在は町の端にある沼を埋め立てて食べ物や工芸品を売る町の一大観光施設を造る事業で指導者的役割を果たしているそうだ。
女の指差した方向に布に覆われた骨組みの先端が見えた。
「順調にいっていたらおすすめできたんだけどねえ」
「順調にいってないんですか?」
「工事が半年も遅れているの」
 女は急に怖い顔になってずいと灯火に顔を寄せた。
「実は、この工事現場にこわーい噂がたっているのよ」
「噂ですか?」
女は顔の前で両手をだらりと垂らして白目を剥いた。
「あの土地は呪われているんじゃないかって」
 噂より女の顔の方が不気味だった。
「毎日順調に工事が進んでいたわ。けれど半年前から何者かによって工事現場が荒らされるようになって……。その壊され方が、まるで化物か何かが暴れたようだったらしいの」
「化物、ですか」
 灯火は笑いながら訊ねた。女の顔が面白かったらしい。
「そうなの。なんでも厚さ十数センチの木材が木端微塵になっていたとか、金属の棒がへし折られていたとかなんとか……」
「建設に反対している人の仕業でしょうか」
「さてねえ。町をあげての事業だし、反対の声なんて聞いたことないけど」
「警備はつけましたか?」
「つけたこともあったらしいけれど、噂によると警備についた人は皆気が狂ってしまったとか」
 灯火が首を傾げる。 
「お仕事先の旦那さんが後援者なんですよね? ご存じないんですか?」
「聞いても教えてくれないの。工事会社も情報を伏せているから益々憶測が行き交ってるの」
 灯火と女が変だ不思議だと話しているうちに例の夫婦の家の前に着いた。
 女は俺達を庭門の前に置いて主人を探しに中へ入っていった。
 比較的新しく建てられた洋風建築の家で、白い壁に屋根と同じ若草色のペンキで蔦や花模様が書かれている。
「親切な方に会えてよかったです」と灯火が呟いた。
 背伸びをして塀の向こうを見ようとしているがあまり上手くいかないようだ。
 今の言葉が独り言か俺に向けられた言葉か分からなかったので返事はしなかった。
 間もなく門が開いての男が現れた。着流しに下駄という略装の三十代の男で、疲れている様子だったが俺達を見るとにこりと微笑んで門の内へ入るように促した。
「どうぞ中へ」
 切りそろえられた濃い緑色の柴の上を歩く。点々と植えられている薔薇の低木に咲いた花は、縁が茶色みを帯びて少々くたびれているようだ。
「手入れをしていないので見苦しいかもしれませんが、宜しければ離れにお泊まりください」
 案内されたのは先程見えた洋館だった。塀に隠れて見えなかった門前にある母屋と渡り廊下で繋がっているそうだ。
「あの、宿泊代はいくらでしょうか?」
 玄関の鍵を開けている男に灯火は訊ねた。
「いいですよ、お金なんて」
「そういうわけには」
 男は鍵を無造作に懐に入れる。
「その代わり伺いしたいことがあるので知っている限りで構いません、お話して頂けませんか?」
「勿論、知っている限りのことはお話しします」
 意気込む灯火の頭に片手を置いて、すぐに離した。
「それで十分ですよ」
 灯火は眼を見開いて固まっていた。そして一寸泣きだしそうな顔になる。
「どうした」
「あ、いえ……」
 なんでもないですよ、と彼女は首を振った。
 その様子が目にとまった男は開けたドアを押さえながら訊ねる。
「どうかされました?」
 灯火は慌てて恥ずかしそうに顔の前で手を振った。
「お礼の品になるものを、と考えていまして」
 灯火は俺達に待つように言うと背負った荷物を下ろしてごそごそと中を探りだした。
ややあって彼女は箱を取り出す。巨峰の房ほどの大きさで、中には粉状のものが詰まった小瓶が入っている。灯火は手をうろうろさせながらも一つの小瓶を選び、一緒に入っていた巾着に入れた。
 俺達は不思議そうにその様子を傍観した。
 灯火は握りしめている巾着を男に突き出す。
「あの、よかったらこれ使ってください。ラベンダーにはリラックス効果があるといいますし」
 男はきょとんとして目を瞬かせて、すぐに済まなそうにした。
「ご心配をおかけするほど見苦しい姿でしたか」
「そういうわけじゃ…」
 灯火が口籠もっていると、男は顔を綻ばせる。
「ありがとうございます。使わせていただきますね」
 二人は微笑みあって、男は巾着を受け取った。
「玄関の鍵は僕が持っているので夜、戸締りは忘れないでください。あとなにかありましたら厠の脇に母屋に繋がる渡り廊下がありますので、渡り廊下を抜けたさきにあるベルを鳴らして下さい」
「はい!」
 灯火は胸の前で拳を握ってみせた。


 天気はその晩から大雨だった。
窓ガラスに激しい風雨が叩きつけ、ガタガタと鳴った。
庭の木がざわざわと音をたてて揺れ、枝が窓を引っ掻いて嫌な音をたてた。
雨樋からぼたぼたと水が零れ、裏に置いてあった空の植木鉢や壊れた鉄製品にあたって跳ねた。
どこからかひゅうという隙間風の音が聞こえてきた。
 それらは一晩中収まることなく鳴り続け、夜が明けてもなお衰える気配がなかった。
 空はいつにも増して暗く、もう十分日が昇っている時間なのに日が沈んだ後のような薄暗さだった。気温も七月後半にしては寒く、春の初めのようだった。
「おはようございます」
「おはよう」
 二階の部屋から食堂に下りてきた灯火も袷を着ていた。
「酷い天気ですね。これだと出発を遅らせた方がいいかもしれませんね」
「そうだな。こんな天気で外に出るのは危ないだろう」
 この雨量では道も川になってしまうだろう。
 窓の外を見遣ると、庭は沼のようになっていた。
 灯火は窓に手をつけて、「折角の庭が…」と残念そうにその様子をじっと見つめていた。庭に咲いていた薔薇の花もこの雨には抗えまい。
「なんでしょうね、この豪雨。梅雨の時期の雨の降り方じゃないですよね」
 台風が通過している時のような雨だ。
 時計の時を刻む音すらかき消す豪雨を俺達は黙って眺めていた。
「おばさん、遅いですね」
「この雨じゃさすがに来られないんじゃないか?」
 離れには食料を置いていないので、昨日案内してくれた女が主夫婦の朝食を作るついでに俺達の分の朝食を作って持ってきてくれることになっていた。
 来ないならと持ってきた携帯食料を彼女は食べた。
「皆さん大丈夫でしょうか?」
 灯火が即席で作った味噌汁を啜りながら呟いた。
「皆?」
「旦那さんと奥さんとお手伝いのおばさんです。あちらからなんの音沙汰もないのでちょっと心配になってしまって」
 電気がつくから電話が通じないことはないはずだ。それなのに朝食を持ってこられなくなったことを誰も伝えに来ない。
 時刻は十一時になっていた。朝ご飯には遅すぎる。
「母屋に伺ってみませんか?」
「分かった」
 母屋に続く渡り廊下はトイレの脇から伸びていて、庭を突っ切って縁側と繋がっている。渡り廊下の両側はガラス張りになっていたので雨にあたることはない。
 しかし家より屋根や壁が薄いため、家の中にいた時より雨音が激しく聞こえる。
縁側と渡り廊下の間には木の扉があって、傍に呼び鈴がついている。
 一度鳴らしてみたが返事はない。数分待ってからもう一度鳴らすも反応がない。ノックをしても答えはなく、試しにドアノブを捻ってみたが鍵が掛っていて開かない。
「いるのでしょうか」
「こんな雨の中わざわざ外にでる馬鹿はいないだろう」
「でも昨晩旦那さんが雨の中出掛けるのを窓から見ましたよ。なにかあったんですかね? そしてそのまま帰れなくなっているとか……」
「ありえなくもないな」
「奥さんはどうしているんでしょう。旦那さんが帰ってこなければきっと不安でしょう。もしかして探しに行ってしまっているかも。おばさんも自宅に留まっているといいのですが……」
 彼女が表情を曇らせた。
「連絡がつかない以上俺達は離れで大人しく待っている他ないな。無暗に外に出るのは危険だし行き違いが起こるかもしれない」
 誰からも連絡が来ず、孤立状態のまま午後三時になった。
 未だ雨の勢いは収まる気配がなく、雷がすぐ近くで鳴り響いている。ぴかりと光って一秒の間もなく、ごろごろと腹にくる音が轟く。
一際大きな音で雷がどこかに落ちた時、誰かがドアを激しく叩く音がした。
 覗き穴から見てみると、ドアを叩いていたのはびしょぬれになったお手伝いだった。
ドアを開けると開口一番彼女は、
「旦那さんは来ていない?」
 そう言って部屋をきょろきょろと見渡した。
「いえ、わたし達も心配しているんですが、来ていません」
強風がドアを勢いよく閉めた。
開いていたのはものの数秒間だったのに、床は水浸しになってしまった。
「そう……。実はこの大雨で家に伺うのが難しいと伝えようとして電話をかけたのだけど誰も出なくて。離れの電話は母屋としか通じないし……。心配でいてもたってもいられなくなって出掛けてやっとこさ母屋についたのはいいのだけど、母屋は玄関が開けっ放しで誰もいない。それでもしかして離れにいるんじゃないかと思って来てみたんだけど……」
 女は家に上がると棚からタオルをとり、それでぽたぽたと水の滴る髪や顔を拭いた。
「離れにも来ていないのね……」
「あの……」
 灯火が遠慮がちに口を開いた。
「わたし昨晩旦那さんが雨の中出ていくのを見たんです。わたしの泊まった部屋から門がよく見えて。旦那さんはよく夜中に出掛けるんですか?」
「ええ、昨日工事現場が何者かに荒らされているって話したでしょう? それでご主人自ら見張りに行くことがあるわ」
 女は髪を拭く手を止めた。
「荒らされるのは雨の日に限られているようだ、今度雨が降ったら行くと、ご主人が数日前におっしゃっていたわ。……もしかしてこの雨の中工事現場に行ったのかしら」
 昨晩男が出掛けた場所として一番あり得るだろうな。
「なら、奥さんは?」
「奥様は……」
 灯火の質問に女はみるみる血の気を失い棚に体をもたせかけた。
 最悪な状況を想像してしまったのだろう。
明け方激しい雨に目を覚ました妻が、夫がいないことを心配して飛び出したとか。
「いいえ、そんなことはない。あたしが伺った時トイレかなにかに入っていたから気付かなかっただけよ!」
 不安を振り切るように女は傘もささずに外へ走り出た。こんな豪雨では傘など意味をなさないだろうが。灯火はその後を追った。
 母屋に俺が追いつくと、居間で女が灯火の肩を借りてさめざめと泣いていた。
 家の中には俺達以外の生きものの気配はなく、叩きつける雨音と女の泣き声がばかりが響いていた。
「どうしましょう、どうしましょう! ご主人が犯人に襲われでもしていたら! 奥様だって重い病気の中外に出たら死んでしまう…」
 自分が言ったことの可能性を想像しては鼻水がたれるのも構わずわんわん泣いている。
 どうして他人のことでそんなに泣けるのか、俺には不思議でならなかった。
 心配かもしれないがあまりに大袈裟ではないか?
 灯火は女抱きしめて背中をぽんぽんと叩いていた。これではどちらが年下か分からない。
「とにかく落ち着きましょう? 落ち着かなければよい案も浮かびませんよ?」
「そ、そうね」
 女は端に置いてあったティッシュで大きな音をたてて鼻をかんだ。
 真っ赤になった顔や腫れた瞼は滑稽である。
 二十分ばかりしてやっと泣きやんだ。女の周りには鼻をかんだティッシュが山のように積み重なっている。
「取り乱してしまってごめんなさいね」
「わたしでも心配なんですから、もっともっと心配ですよね」
 灯火の言葉に女の目には再び涙が溜まった。
「ああ、本当に二人は今どこでどうしているのかしら。無事だといいのだけど……」
「わたし達が気弱になっていちゃ駄目ですよ」
「ええ」
 けたたましい音をたてて女は鼻をかんだ。
「夕方になっても帰ってこないなんて……。犯人に襲われてでもしていたらどうしましょう。あんな化物みたいな奴に襲われたらひとたまりもないもの!」
 突然、玄関の方から電話の呼び出し音が響いてきた。
 灯火がびくりとして玄関に続く廊下を覗き込む。女は慌てて立ち上がって、もたもたと廊下に出ていった。
 ややあって顔を俯けて女が戻ってきた。
「旦那さんからでした?」
 灯火の質問に女は首を横に振る。
「工事現場の近くに住む人から、現場から金属を叩くような音がしているって報告があったわ。ああ! 本当に化物なんじゃないかしら! でもお祓いしてもらっても駄目だったし、なにをすれば……」
 俺達が黙っていると、
「工事現場のお祓いをするためだったのだと思う、ご主人が最近頻繁に祈祷師とか術師を呼んで祈祷をしてもらっていたの」
「それでも駄目だったと……」
 本当に力のある奴なんて今はそういない。 
「最近じゃ偽物が沢山往行してるって聞いたことがある。お前の主人のところに来たのが偽物か修行が足りない奴らだったんだろう」
 灯火は膝の上に乗せている拳をぎゅっと握った。
「わたし、見てきます」
 なにを言いだすと思ったらこの嵐の中外に出ようというのか。
「なに馬鹿なことを言っている! 死ぬぞ!」
「そうよ、危険なだけだわ。それに行くならば灯火ちゃんでなくあたしが行くのが道理!」
 しかし灯火はきかなかった。
「町の人に分からなくても、他人のわたしなら分かることもあるかもしれません」
「お前に何ができるというのだ!」
 その細腕で犯人と戦うつもりか。
 水の流れに足をすくわれておしまいだろう。
 否定的な言葉に、俺をキッと睨みつけた。
「目算はあります!」
 俺はその吸い込まれそうなほど黒い瞳に戸惑った。
 何故そんな真っ直ぐな目で俺を睨みつけるのか。
 何故他人のためにそんなに一生懸命になるのか。
「どうしてお前は……」
「皆さんが親切にしてくれたからです。見ず知らずのわたし達のために悩み、東奔西走し、受け入れてくれたから。わたしも皆さんのためになにかをしたいんです」
 感情が高ぶると泣き出す性質なのか、黒目がうるんでいた。
 どうしてこんなにも必死になるのか。
 俺には分からなかった。
「……勝手にしろ」
「はい」
 そう言って灯火は懐から爺さんから受け取った手紙を出して俺に渡した。
「なにかあるといけないので持っていてください」
 だが俺は受け取らなかった。
「それはお前が爺さんに託されたものだろう。お前が責任もって持っていろ」
「……はい」
 手紙を押し返す。
「あと俺もついて行く」
「え……でも」
「文句あるのか?」
「いえ」
「警護が俺の役目だからな」
 こいつが死ぬようなことはこいつが暴れて嫌がろうとも避けなければならない。
 それが爺さんの依頼だから、面倒でもやらなければならない。
「それならあたしも行く」
 女が立ち上がると、周りを囲んでいたティッシュの山が崩れた。
「あなたはここにいてください。もし二人が戻ってきた時に誰もいないと心配するでしょう。雨に濡れた二人に柔らかいタオルでも差し出してあげてください」
「けど……」
「お願いです」
「……分かったわ」
 灯火はにこりと微笑んだ。
「ちょっと観光に行ってきます」
「いってらっしゃい!」
 女も赤い鼻で満面の笑みを浮かべた。
 何故二人はわざわざ笑うのか。
 俺に不吉なものにしか思えなかった。
 外に出ると靄が立ち込めていた。建物があるはずの方にぼんやりと影らしきものが見える。
 ごうごうと音をたてて風雨がそちらから吹いてくる。
 屋根から剥がれた板や外に置かれていた玩具がこちらに飛んでくる。
 立つのがやっとの豪雨の中、俺達は化物がいるという場所に向かって足を踏み出した。


 町は人っ子一人いない。皆家に籠って嵐が過ぎ去るのをじっと待っているのだろう。暫く進むと川が行く手を遮った。木造の橋は、河岸段丘の低い部分に架かっていたので川の水嵩が増したことで欄干の半分の高さまで水没していた。丁度俺の膝辺りまで水がきているのだ。
「行きます」
「ああ」
 手すりに掴まりながら灯火はそっと半分川に沈んだ橋に足を踏み入れた。俺もそれに続く。勢いよく流れる川に時々足が取られそうになる。流れてきた小石や枝が足を打って痛む。姿を変えたいが、彼女が変身したところを見たらたまげて、橋を渡るどころではなくなってしまうに違いない。姿を変えたい気持ちを押さえて一歩ずつ進む。
「……すみません」と灯火が前を向いたまま言った。
「何がだ?」
 何故急にそんなことを言い出すのか。
「わたしの我儘につきあってもらっちゃって……。足とか、痛いでしょう?」
 なんだ、そんなことか。
「問題ない。俺は人間と違って怪我などすぐ治るからな」
「でも今は痛いんじゃないですか?」
 人のことを心配する前に自分の心配をしたらどうだ。
 こいつには自分を顧みるという思考が存在しないのか。
「気にするな。そんなことをいちいち気に病むくらいならさっさと用事を済ませろ。その方が俺のためだ」
「……はい」
 何度も強風に邪魔されながらも二つの橋を渡り切った。
 全身雨と川のためにびしょ濡れで、もはや自分の濡れることが気にならなくなった。視界さえ遮る滝のような雨の向こう側に人影があった。
 水に流されないよう一歩一歩慎重に近付いた。二人の人間で、片方が女でもう一方が男。女が髪を振り乱し、男の首を締めながらしきりに喚いている。もう一方の人間は探していた男、泊まっている家の主だった。なんとか相手の手を外そうともがいているがびくともしない。
「旦那さん!」
 灯火が叫んだ。
「馬鹿、気付かれるだろうが!」
 女が斜め後ろにいるこちらに首を回した。体ごと曲げなければ向けない角度のはずなのに、そいつは苦もなく首を回した。こいつは人間ではない。少なくとも意識はあやかしが握っている。
女が急に手を離した。男は地面に倒れて咳き込む。女は足元の水など物ともせず灯火に掴みかかろうと飛び上がった。
言わんこっちゃない。
だが俺が前に出るより前に、灯火は懐から腰刀を抜いた。
刃長が大人の拳二つ分ほどの直刀。薄暗い中でも品のよい光沢がわかる。空気さえ切ってしまいそうなほど薄く鋭い刃。その鋒を向けられて、女はたじろぐばかりか後ろに引いた。充血した目で灯火を睨みつける。
「あなたは誰ですか?」
 女は答えない。
「どうして……」
「僕の妻だ! どうかこいつ助けてくれ!」
 立ちあがった男は背後から女を羽交い締めにした。
「こいつは何者かにとりつかれているんだ! 医者にも術者にもみせた。お祓いもしてもらった。けれど最後の一念だけはどうしても消えない!」
 女は男の腕に噛みつこうと歯をガチガチ鳴らしてもがく。「許さじ」と繰り返しながら。その声は酷く嗄れていた。
「旦那さん!」
 灯火が男に駆け寄ろうとするので、腕を掴んで引き止めた。行ってなにになる。
「離してください!」
 灯火は俺の手を除けようとした。無論指一本外すことができない。
「頭を冷やせ」
「でもっ……」
 鈍い音と共に首を曲げた女は、男の腕に噛みついた。灯火が小さく悲鳴をあげた。男は顔を歪ませて必死に耐える。
彼女を無視して男に訊ねる。
「お前、誰かに恨まれた覚えはあるか」
 男は歯を食いしばって首を横に振った。女の力に押され、締めつけは次第に弱まっている。返事をすることもやっとようだ。女は体をくねらせなんとか脱出を試みている。目はカッと開き、口は顎が外れてしまいそうなほどこれでもかとばかりに開けている。シューという唸り声。その姿はある生きものを彷彿させた。
「お前、蛇に恨まれているな」
「は? 何故蛇が僕を?」
 驚きで腕の締めつけが緩む。女はするりと男の腕から逃れると、造りかけの建物へ風の如く走り去る。
「この沼の主だったのかもしれませんね」
「身に覚えはないのか」
「覚えなど……」
 覚えなどないと言いかけて、男は色を失った。
「まさか……あの時の……」
 あったのだな。
「女性が工事を中止しろという夢をみたんだ。僕は自分の不安が夢に出てきたのだろうと気に留めなかったけれど」
 突然、ガツンという硬いもの同士がぶつかる大きな音が建物からした。打つ速度は次第に早まり、反響音が重なって音一つ一つが繋がって聞こえる。そして急に静かになったかと思うと再び連打が始まる。その音は建物が悲鳴を上げているようにも聞こえる。
「一体なにが……」
「建物を壊そうとしているんです」
 だらだらと血の流れる腕を押さえながら男は言った。
「この建物を造り始めた頃、妻は工事の中止を求めてきました。それまではずっと応援してくれていたのに。しかし今までにない大規模事業で、家を開けることが多くなるのを心配しているだけだろうと耳を貸しませんでした。奇妙な行動が目立つようになったのは半年前のことでした」
 半年前。女が言っていたことと合致する。
「小動物を捕まえてきたり食べてみたり、体をくねらせ譫言を言ったり。いつの間にか大怪我を負っていたこともありました。医者や旅の術師などにも頼んだんです。けれど原因だけはどうしても分からなかった」
 今時力のある祈祷師など滅多にいない。偽物ばかりが横行しているのだから当然だろう。
「施設の建築を中止にしたのもその時期ですね」
 はい、と男は言った。
「ある日現場に行くと機材がめちゃくちゃに壊されていました。見張りをたてたこともありますが、見張りについた者の多くが殺されました。それが毎回続き、工事を無期限延長にしたのです」
 骨組みを晒した、なるべきものになれない固まりを見上げる。
「今朝目が覚めたら妻がいない。今日は化物が出る雨の日。僕はまさかと思いましたが現場に行きました。そこには機材を叩きつけ、その破片で骨組みをぶち壊そうとする妻がいたんです!」
 語る姿は神に乞うかのようだった。
工事現場から流れてきた大きな鉄の塊を避けきれず、男は痛みに膝をつく。水は一瞬赤色に染まり、元通りの黒色に戻った。怪我など構わず男は水の流れる地面に拳を叩きつけた。
「何故沼の主は僕に憑かない! 悪いのは僕だろう! どうして妻が!」
 身近な人間に憑いた方が男を苦しませられると蛇はふんだに違いない。
上げた顔は雨のせいで泣いているようだった。
「どうか妻を助けてくれ! 自分のせいで妻を苦しめたのに、僕は無力だ! 止めることすら叶わない」
 相変わらず建物からは硬いものを叩く音がする。時たま崩れる音がすると、男は不安そうに建物を見つめた。トタン屋根がコンクリートを叩き、電線が撓む。
「……一つだけ助けられる方法があります」
「教えてくれ! 僕ができることならなんだってする!」
 灯火は男を見下ろす。
「恨みを背負えますか?」
 男は答えなかった。
「奥さんにとりついた沼の主の怨念を強制的にあなたに移すんです。沼の主が満足して消えるまで、奥さんをあそこまで壊した恨みを自分で背負えますか? 彼女の中に残っているのは恨みのほんの欠片でしょう。けれど恨みは恨みです。とても苦しいですよ」
「そうすれば……妻は助かるんだな……?」
「……少なくとも苦しむことはなくなるでしょう」 
 ややあって男は頷いた。
「頼む」


 建築途中の建物の中。俺達は二百メートル離れて丁度女の正面にいた。女は鉄の棒を叩くのに夢中で俺達に気付いていない。なにかにぶつかったのか、女は頭や手足から血を流している。叩かれた棒は皆同じ向きに折れ曲がっていて、建物全体が歪に傾いていた。
 灯火は幣を握る男の前に座って、簡易な幣を自分の周りの四方に挿した。そして一際大きい幣を正面に挿すと両手を合わせる。男の握る幣を通して、女の中に残った怨念を男に移すという算段だ。そうすれば女は楽になるだろう。蛇の怨念がめちゃめちゃにした精神はもう戻ることはないだろうが。
彼女は唱え始めた。
 ピンと幣で囲まれた四方の空気が澄むのが分かった。その旋律は清らかで、まるで歌っているようだった。これが、年寄り達が懐かしそうに口ずさんでいた唱え言葉の一つか。想像していたよりずっと心地よい旋律だった。俺が物心つく頃には唱えられなくなった言の葉達。目を瞑って耳を傾けていたくなる。
「灯火さん?」
 男の声で我に返った。見ると灯火の合わせた両手がわなわなと震え、首に太い縄で絞められたような赤い痕ができている。男の方は何事もなくぴんぴんしている。
 失敗したという可能性が過る。だが唱えごとも物の配置も問題はなかったはずだ。
 ……いや、違う。確かに問題はなかった。だが男に蛇の一念が移らなかった。否、移さなかったのだ! 灯火の唱え言は完璧だった。己に神霊をおろすには。ということはまさか……
「お前! 初めから自分に移すつもりだったな!」
 幣で作った境界のうちに入ると、首の赤みの原因がはっきり見えるようになった。首に巻きついた蛇。恐らく例の沼の主の恨みの念が姿をとったものだろう。
「俺に爺さんとの約束を破らせるつもりか! 俺達の約束は人間がする約束と桁違いに重いのだぞ!」
「待って!」
 目を瞑ったまま、引き離そうとする俺を制止する。
「誰が待つか!」
「もうちょっと……もうちょっとで主さんと話ができるから!」
「ああ、あの世に行けばできるだろうな!」
 蛇の頭が灯火の正面にくるとぴたりと動きを止めた。首の絞めを緩めて、じっと彼女を凝視する。
「悲しいよね、恨めしいよね」
 蛇がちょろりと舌を出した。
「わたしも帰る家がもうないの」
 蛇が口を動かした。音は出ない。
「うん、一緒」
 蛇は灯火の額にこつんと頭をぶつけて、ゆっくりととぐろを解いていった。解くに従い尻尾から蛇の姿が消えていく。
「ありがとう。あなたもね」
 灯火と蛇の間で話し合いがついたようだ。胴体が消え、姿が見えなくなった。彼女は合わせていた手をそっと離す。
「玄幽さん」
「なんだ」
「迷惑かけてごめんなさい」
「全くだ。危険なことを避けてもらいたいものだ」
 そういえば夫婦はどうなったのだろう。男が女を背負って帰ってきた。その瞼は涙のせいで赤く腫れていた。
「旦那さん……」
 灯火は二人に駆け寄ると、女の口に手を近付けて呼吸を確認する。
「妻を助けてくれてありがとう」と言って男は深く頭を垂れた。
 緊張の糸がほぐれたのか、灯火は背中から倒れそうになった。襟首を俺に掴まれたまま、灯火は両手で顔を覆って声もなく泣き始めた。
「おい……」
 よかった、と何度も繰り返して。


 その夜も主人のたっての希望で離れに泊めてもらった。一昨日の晩からの雨が嘘のように止み、雲一つない美しい星空だ。
 手伝いの女は夫婦の無事を喜んで誰よりもわんわん泣いた。けたたましい音で鼻水を咬んでいる時分になって漸く俺達が泥だらけ、傷だらけなのに気がついて慌てだした。風呂に入り夫婦は母屋、我々は離れで出してくれた夕食を食べ終えたあと、女は食器洗いをすると言って台所に行ったので、俺達はダイニングでコーヒーをすすっていた。
「ご飯、食べないわけじゃないんですね」
 灯火は安心したように微笑む。
 心配してくれていたのか。
あんなに素気無くしたのに、酷いことを言ったのに。
そんな俺さえ気にかけてくれるのか。
 そう思うと一昨日の俺の態度があまりに酷かったと気付いた。
「人と頻度が違うのと、加工食品が好きではないからな」
 語調が柔らかくするつもりがあまり上手くできなかった。何百年も生きているのに自分の感情すら制御できない自分が恥ずかしい。カップの底を睨みつける。
俺の中で灯火の印象は会った頃と比べて大きく変化していた。
気付いた時には既に変わっていたので理由は分からないが、彼女といるのが苦痛ではなくなっていた。彼女に対する苛立ちよりも好奇心が勝ったのだろう。灯火と俺はものの考え方が大きく違っていたため、理解に窮した。なんとなしに生きてきた俺には彼女の言動が新鮮に映った。当初は分かりあえないものと捨ておいていたが、次第に侮蔑が興味に変わった。
 なにが彼女を動かしているのだろう。
 どうしてそんな感情が生まれてくるのか。
 無意識のうちに対象の心の動きを捉えようとしていたのだろう。
 いつの間に俺にとって灯火は、俺達あやかしに襲われる“人間”ではなく“灯火”という一つの存在になっていた。
「一昨日はすまなかった」
 自然に言葉が出てきた。絹布に触れた感触のようにするりと喉を通り抜けた。
 灯火は表情を変えずにもう終わったことだと言った。
「気になさらないでください」
「そういうことではないのだ」
「そういうことではないとは?」
 察してもらえないことを歯痒く感じた。無論俺がちゃんと説明していないのだから彼女に分かるはずがないのだが。また同時に彼女の敬語が妙に気になり出した。壁を作ったのは俺の方だ。それは分かっている。原因不明のじれったさは俺を悩ませた。
「わからないなら忘れてくれ。あと敬語やさんづけ止めてくれないか」
「嫌ですか?」
 嫌というわけではない。
 鈍感な俺は自分の気持ちすら理解できず、それ故上手く表現することもできずこう言うしかなかった。
「止めろと言っているのだから止めろ」
 俺は己の口下手を恨んだ。もっと上手く言えないものなのか。言い訳を並べたててみたがそれも上手くいかない。
「敬語を使われるとなんというか……落ち着かないというか……すまない」
「……さっきから謝ってばかりだね」
 彼女の顔を見ていられなくて、俺は視線を壁に遣った。暖炉の上で掛け時計がチクタクと時を刻んでいる。かなり古いもののようでフレームの木は深い色をしていた。
 ふと、蛇のことを思いだした。
「蛇は沼の主だったのか?」
「うん、沼の主だったよ。昔あの辺りに住んでいて、いなくなった先代の後を継いで主になったみたい。先代が好きだったから、あの沼を失いたくなかったんだって」
 蛇にも蛇の大義があったのだ。それにも関わらず人間は悪だとして祓おうとした。
 身が滅んでもなお沼を守ろうとしたのに、蛇は結局果たすことができなかった。
……儚いな。
 そう声に出さずに呟いて、俺は手を止めた。
 いつのまに俺は感傷的になったのだろう。
 顔を上げると灯火は窓に顔を寄せて夜空を眺めていた。
 コーヒーはまだ半分近く残っている。
「奥さんは……」
「どうした」
 灯火の首には蛇が締めた痕がはっきりと残っている。
「奥さんはあのままなのかな」
 ぽつりと呟いた。
「だろうな。既に精神は壊れていたからな」
 女はあれからずっと眠り続けていた。目はじきに覚めるだろう。だが覚めたとしてもぼんやりとしてまともに返事をしないだろう。
「よかったのかな? 旦那さんと奥さんのためになれたのかな?」
 窓ガラスに額をあてた。窓に映った顔の眉間には皺が寄っている。ぐっと堪えるように目を瞑って。
 灯火が気にしてもどうしようもない。
「男はお前になんて願った?」
「助けてほしい」
 男は灯火に妻を助けることを願い、灯火はできる限りのことをした。少なくとも俺にはそう映った。
「お前は精一杯やっただろう? いいじゃないか、それで。お前に会えたことで助かったんだ。会えなければ間違いなく女も男も死んでいた」
「……そうですよね、気にしてもしょうがないですね。あれがわたしにできる最善だったんだから」
 くるりと振り返った灯火の表情は、いつも通りの子どもっぽい笑顔だった。
 へらへらしていても頭の中で彼女は色んなことを考えていたのかもしれない。
 俺はぼんやりと今日の出来事を振り返った。
 今日一日で彼女のことを少し知った。
 お人好し、頑固、泣き虫。
 馬鹿みたいに他人のために行動する。
 泣いて、笑って。
 俺にしてみたら愚かでありえないことだが、不思議とそんな彼女に興味がわいた。
 何故泣くのか。
 何故微笑むのか。
 何故睨むのか。
 全く見当のつかない彼女の心の内を知りたいと思った。
 灯火は席に戻ってコーヒーを一息で飲みほすと、片付けようと席をたった。
「灯火」
 思わず呼びとめると彼女は驚きのあまり目を丸くした。
「今、わたしの名前呼んだ?」
 ずいと寄せた目はきらきらと輝いている。
「呼んだが……それがどうした?」
 俺ははっとした。会ってこのかた俺は彼女の名を呼んだことがなかったのだった。
「初めて呼んだね。わたしのこと、認めてくれたってとっていい?」
 実に楽天的にできた彼女の脳みそである。俺は呆れつつも心を弾ませていた。
 灯火の好きなようにすればいいと言うと、灯火は手を出してと言った。
 俺が右手をテーブルに乗せると、彼女は両手で俺の手をとった。ほんのりと温かい手だった。
「玄幽。改めまして、よろしくね」
「よろしく」
 小さな手の温もりを感じながら俺は言った。


第三章 鉄紺

 村長の家の縁側で俺は大欠伸をした。
喉を広げ過ぎたのか蛙の鳴き声のような音が出た。
手元には村長夫人が出した夏蜜柑の割ったものがあるがまだ一つも手をつけていない。
背後の座敷で灯火(とうか)と村長の話が終わるのを待っている四十分の間に何度かそれらに手をつけようと思ったことはあったが、この七月下旬の気温に温められたと思うととたんに食べる気をなくしてしまった。
眼前の庭に植えられた草木は焼けつくような日差しに焦がされて茶色になっている。土は乾いてところどころにひび割れができている。風はなく、蒸し暑い空気で息苦しい。
 門前町で涙とともに見送られて数日が経った。
あの日の大雨以来一滴も雨は降っていない。灯火も今年は梅雨の雨が少ないみたいだねと言っていた。山中を歩いている時は日差しが遮られてまだよかったものの、人里におりると日差し避けとなる木が一気に減り、立っているだけで太陽に焼かれているような心持ちになった。
今日俺達は、現在いる村より山を一つ越えた村に行き、そこで泊まることにしていた。
行きずりの者から聞いた話によると山を越える道は一応道ではあるものの、とても険しい道で人の往来は殆どないらしい。時間もかかるそうだ。そのため俺達は念のためさっさと山を越える計画だった。
暑さのためか外にいる人は誰もいなかったのと俺達がそのように急いでいたため、誰とも行き合わず、誰とも話をしなかった。
土色の里とそれを囲むやや疲れている木々。洗濯物が干されているから人がいるのは確かだが、家の隣の畑に植えられた野菜や果物の多くがぐったりと俯いていた。
家がまばらに建つ道を抜けると、林に挟まれた道に差しかかった。ここまで来ると家は木の間から見えるだけですぐ傍には建っていない。
あと目的の山道の入口まで少しというところで、若い男に声をかけられた。
全国を巡り歩く者には術者や宗教者が多くいるからそれらと勘違いしたのだろう、男はもし可能なら頼みたいことがありますと言った。
急いでいるのだから無論俺は反対したのだが、話だけでも聞いてみようと言って灯火はきかなかった。結果として配達は期限のあるものでもないからと俺が折れた。俺は関知しないという条件をつけて。
人助けなどする気が起こらない一方で、彼女が動くことでなにか新しい発見があるのではないかと期待していた。
灯火はそれでもいいよ、ありがとうと言った。
 そして今彼女は依頼人と話をしている。
 依頼は村唯一の水源に夜、人魂が出てそれ以来怖さのあまり日中さえ近づけないというものだった。
なんでもこの村はもともと水資源に乏しく、川が流れていない。
昨年秋に道に迷った行商人がたまたま村を囲む山に小さな泉を見つけた。僅かな水を頼りに細々と暮らしていた村人は、神の恵みと感謝した。
だが喜びは束の間、最近になって人魂が現われたのだという。
そこは山奥で昼間でも木々が鬱蒼として薄暗く、日が入らない所だ。
所謂“なにかが出る”スポットだ。
木を切ればいいのだが、泉の湧く山は村の守り神がおわす山で、代々そこの木を切ってはならないといわれ続けていた。
なら諦めて近隣の村に頼るか、といえばそうもいかない。冬からの水不足と日照りでこちらに水を回す余裕がなくなってしまった。商人から1年も続いたら村が滅びてしまうくらい高い金を払って手に入れる他に方法はない。
人魂が出てから1カ月。値はどんどんつり上がり、既に村の積立金も個人の貯金も使い果たした村は困窮している。娘を身売りに出すかまで話し合われているそうだ。悪い噂は瞬く間に広がり、親戚関係を頼りにして水をせびられることを恐れた他村から嫁入り聟入り話はぴたりと止み、時たま起こる犯罪がこの村の所為だとたびたび訴えられるまで自体は悪化した。
このままでは雨期を待たずに廃村してしまう。
村人は買いためた水を一杯すくうたびに恐怖する。
この水が尽きたらどうやって生きていこうと。
どうにかして人魂に退散してもらわねば。
力自慢を売りにする屈強な若者達が何度も退治に向かうも果たせず逃げ帰ってきた。
万策尽きたと諦めかけたとき、たまたま我々がやって来た。
そして俺達に救いの手を求めたというわけだ。
「玄幽(げんゆう)」
後ろから声がかかって振り向くと彼女が中腰になって立っていた。前かがみになっているので髪が肩に零れている。
毛先にクセのついた長い黒髪に同じ色の瞳。背は低い。歳は聞いていないから分からないが自分は童顔だと言っていたから見た目よりは年上なのだろう。十代後半か。
灯火は隣にしゃがみこむと、ぬるくなっているであろう蜜柑を1つ取るとかぶりついた。蜜柑の汁が空中で弾けて、柑橘類の甘酸っぱい香りが辺りに広がる。おいしいねと言って皿に手を伸ばす。
「話は終わったのか?」
「うん。解決するまで旅館にただで泊らせてくれるって。取り敢えずそこに行こう?」
 灯火は地図を目の前に差し出した。近すぎて見えないと何度言ってもやってくる。癖なんだろう。まあ俺が自分の視力を調整すればいいのだが。
 俺は人間ではない。
 だが人がすぐさま思いつくような妖怪や幽霊の類でもない。
 上手く説明できないが簡単にいえばそれより上の存在だ。ある博士は妖怪を神の零落したものだと言ったが、所謂神とも違う。いうならば森羅万象を作りだした源、それが形をとったものだ。だから今の姿……人間の男の姿は仮の姿である。いかなる生き物にもなれるし、ものにもなれる。まあ好き嫌いがあるから変化するパターンは決まってはいるが。彼女と行動を共にする前は楽だからと基本的に靄になっていた。
 村長に見送られて俺達は旅館へ向かった。
旅館への道は舗装されていないために砂埃がたってけむい。
山近くの村らしく、四方が山に囲まれていた。交通の便が悪く、水もない所にわざわざ村を作ったのがはなはだ不思議だ。
「村長さん、すごく怖がってたけど大丈夫かなあ」
「平気だろう。人魂くらいなんだというのだ」
 灯火はうーんと唸ると、
「まあ村長さんの怖がり方はひどかったよね」
「心当たりでもあるんじゃないか? 政敵を蹴落としたとか、女を捨てたとか」
「まさか」
クスクスと笑った。
普段から俺のような怪異に触れている灯火からみれば人魂など驚くべきものではないのだろう。初めて会った時も平気で狐と会話をしていたからな。
そんなことより俺達が怪異を解決していると聞いた時の村人の顔を助かったと胸を撫で下ろした表情の中に、我々を異質な存在として見下し、他人が犠牲になることへの安堵する心が透けて見え、それが表情に隠し切れていないところが実に一笑ものであった。
「依頼はどうだ? 解決できそうか?」
 まだ笑いが収まらない灯火に訊ねてみた。この間のようになにか策があるのだろうか。
 灯火は少し考え込んで、
「ん……一筋縄ではいかなそう」
「問題があるのか? 過去になにかがあったとか」
 人がこの世に残る理由なんていくらでもある。
「いや、特に村長さんからは聞かなかったなー」
「ならなんでそう思うのだ?」
 彼女は俺の思いつかないようなことを考えていると思う。凄いと思いつつも考えすぎな気がする。他人のことばかり気にかけていたら心がもたないだろうに。
 灯火は大人に新しく見知ったものを自慢する子どものような笑みを浮かべる。
「なんだと思う?」
 分からないから聞いているのだが……。
 不満に思うも笑顔に負けて、当てずっぽうに答えてみる。以前のような苛立ちは術にかけられたかのようにぴたりと起こらなくなっていた。
「なんだろうな……風の噂?」
「はずれ!」
 またひとしきり笑った後で、横に並んで歩いていたのを数歩先に駆けて軽やかに身を翻した。
「わたしもまだ確証がないから分かったら教えるね」
 おしりまである彼女の黒髪が風にふわりとなびいた。


次の日。
日中は村人たちに話を聞いた。曇っていて気温もあまり暑くなかったため、外に出ている村人を簡単に見つけることができた。
元々過疎の村であったし、村長から回覧板が回っていたのではやく解決したい村人たちはこぞって灯火の質問に答えた。
いつから人魂が現われたのか、出てくる時間、今までの人魂出現の話、人魂がどんなものだったと聞いたか、水に関する言い伝えや伝説、山の伝説、商人から聞いた世間話……
人魂に関する詳しい話から関係のなさそうな話まで、入念に灯火はメモしていた。
「以前に人魂が出たという話を聞いたことはありますか?」
「ないわねえ」
一番詳しいと教えてもらった家の女と話をすることができた。洗濯物を竹竿に干している最中だったが、手を止めて快く質問にのってくれた。
「人魂はいつから出ましたか?」
「そうねえ、1カ月前くらいだったかしら」
「いつ出ました?」
「向かいの家の家族がね、その日たまたま結納があって忙しくて水汲みを忘れてたのよ。夕方になって気付いて父親と長男で汲みに行ったのよ」
「夕方に人のいない山におなごを行かせんのはあぶねえからな」
 女の夫が話に割り込んできた。仕事途中だったようで、作業着は土で汚れている。妻は肩にかけていたタオルを夫の顔に投げつける。
「ちょ、あんた汚いわね! 手ぐらい洗ってから来なさいよ」
「手拭いで拭いたから平気だ」
「汚れた手拭いで拭いたんでしょ!」
 やれやれと肩をすくめると、妻は再び話し始める。
「泉のあるところに着いたのは日が沈んだ後だったんじゃないかしら。葦原の奥にあるから泉に辿りつくにはそこを通らないといけないの。自分の背丈ほどもある葦原を抜けると、まるであの世に行ってしまったんじゃないかってくらい沢山の人魂が飛んでたのよ!」
 村長の話では目撃した村人は怖がってまともに語らないそうだ。彼女は何故こんなに見たように話せるのか。
 灯火も同じことを考えたようで、メモをとる手を止めた。
「見た方がそうと?」
「いんや、大体が家内の想像だ。俺らが見たのは父子が夕方に水汲みに出掛け、逃げるように帰ってきた後泉で人魂を見たとばかり繰り返していたことだけだ」
「あら、そうだったかしら」
「そうだ、おめーはいつもべらべらと周りに話をしているうちに想像を事実と思い込んじまうこと忘れたのか」
「言いがかりはよして!」
 妻は怒って家の中へ入ってしまった。
「すまねえな」
 夫が薄くなった頭をぽりぽりと掻きながら言った。
「いいえ」
「夕方に家を出れば家内の言う通り泉に着くのは日が沈んだ後だろう。最初は見間違いだって他の連中は信じなくて水を汲みに行ったが人魂は出てないし、二度目以降に目撃されたのもたまたま汲み遅れた奴が夕方とか夜に目撃してるから、出現時間は夕方から夜で間違いねえ」


 村境に住む村で一番の若夫婦は、
「いやー、俺達の世代になるとあんまり伝説とか聞かねえんだよな」
「小さい頃におばあちゃんおじいちゃんが話してたのは覚えてるんだけど詳しいことは……」
「大雑把なものでもいいんです。話を聞かせてほしいです」
 男はもじゃもじゃと伸びた髭を撫でつけながら、
「幽霊の話とかはあんだけど人魂はねえなあ……」
「幽霊の話?」
「家の蜜柑を盗まれたおばあさんが怒って死後も犯人を捜すんだけど、村を訪れたお坊さんにケチを諭されて改心する話」
「昔女を捨てた男が女の生霊に会って平謝りしたんだけどそれは酔っぱらってみた幻覚で、生霊だと思っていたのは柳の木で、男は村人にその様子の一部始終を見られて赤恥をかく話」
 笑い話しかこの村にはないのか。
 一度思い出すと他の話もどんどん思い浮かぶのか、夫婦はどっちが多く思いだせるか勝負するように次々に語る。
「隣村の弥七さんが村の寸劇で幽霊役をしたら夢に役で演じた幽霊本人が出てきたとか」
「いつも思うんだけど弥七って名前古くね?」
「あー分かる。何百年前だろうね」
「千年単位じゃねえ?」
話が完全にずれていると思う。
いつの間に太陽は真上に昇っていた。
お昼は旅館に戻って部屋でとった。旅館は木造2階建ての建物で大昔に建てられた校舎のようだった。その建物の上階、階段から最も遠い、大きな窓と簡素なベッドと洗面台しかないシンプルな部屋を2つ貸してもらっている。
村は水不足が続いていたから食物が育たず、保存食も底を尽きかけていた。他村同様余裕はなくただでさえ少ない食べ物を我々の食事に出してもらうことは謝礼として食費を含む滞在費はただだったものの、遠慮して灯火は部屋で持っている保存食を食べた。
俺は長時間食べなくても平気なので灯火にならって何も喉に通さず過ごした。
灯火は俺がなにも食べないといつも心配そうな顔をする。挙句の果てには持っている僅かな食べ物を俺に与えようとするから困ったものだ。だから灯火は小さいんだと言うとむくれて暫く口をきいてくれない。だがいつもより食べるようになるからその方がいい。
人間適度に栄養をしなければ死んでしまうし、死ななくとも体調は悪くなる。俺の役目は彼女が無事手紙を届けられるようにすることだ。それを妨げられるようなことは避けなければならない。
食べたのか食べていないのか分からない食事の後、今度は実際に見た人の話を聞いた。
先述の通り山奥で危険だからと村中の屈強な男達が選ばれて人魂退治に行ったのだが、彼らは皆そろって食べ物が喉に通らなくなってしまった。夜になれば山の方を見ては怯え、昼も部屋に閉じこもって働かないばかりか家族ともしゃべらないという有様だ。
多くの者が衰弱して話せる状況でなかったため、幾人かの回復した人達の家を訪れた。
皆口を揃えて不気味だったとか恐ろしいものだったと答えた。ぺかぺかと光るそれは何十も泉に集まって飛んでいたという。
元気になったはずの彼らでさえ、話をしながらガチガチと震えていた。
会話にならない。
彼らからは良い情報は得られなかった。
 太陽は山の裾に隠れようとしていた。太陽が雲に隠されて橙色の明かりで照らされることのない村は暗く、重たい影を地面に落としながら闇へと沈んでいった。


翌朝。朝食後俺達は最初に案内された村長の家に訪れた。
山に入る許可をとるためである。
神のおわす山として崇敬を集めている以上村人の了承を得て入らないと悪い印象を与えかねないという配慮である。
村長は二日前と変わらずおどおどとした様子で俺達を迎えた。
「急なお越しですが、いったいなんのご用件でしょうか」
 人魂事件はお前たちに任せたのだからなるべく関わりたくないといった態度だ。
「お願いがあります!」
 灯火が前に乗りださんばかりの勢いで切りだすと村長は肩を僅かに強張らせた。
「お願い?」
「はい。わたし達に山に入る許可を与えてほしいんです」
「入山……神の山にですか?」
 神の山とは例の人魂が出る山のことだ。村人はそう呼んでいる。
 灯火が頷くと、眉間に皺が寄り、組んだ皺だらけの手に筋が浮き出た。
 数秒の間があって、村長は灯火を責めるように睨んだ。
「あなた達は自分がよそ者であることを分かって言っているのですか?」
「はい、人魂事件を解決するためです」
 声に揺るぎがない。
「村の人達から話を聞いて、皆さんは水を汲みに行くときは山にお供えをしてから山に入るなどとても大事にしていることを知りました。そして人魂事件以来頂上にあるお社に参拝できないということも。よそ者の入山を許可するという罰あたりより、よそ者が入ることを嫌がって村人が神をお祀りできないほうがよっぽど罰あたりではないでしょうか」
 村長は唸って、
「……至急代表を集めて話し合ってみましょう」
 苦々しい顔で答えた。
「よい返事がもらえることを願っています」
 俺達は席を立った。
 外に出ると灯火は大きく伸びをした。小さな欠伸もおまけについてきた。
「村長さん、嫌そうだったね」
「そうだな。だが」
 最初に事件の概要を聞いてから気になっていたことがふと口についた。
「どうしたの?」
「あの山に強い霊力を感じないのだが……。本当に神がいるのか?」
「さすが玄幽! こんな遠くからも感じ取れるんだ!」
 灯火は大したことのないことまで褒めようとする。
「すごくはないが……、神のいない山をどうして村人たちはあんなに頑なに守ろうとするんだ? いくら神聖化しようと部外者を排除しようと、祀る対象がいなければ意味がないというのに」
 強風で乱れる髪を押さえつけながら灯火は空を見上げた。視線の先を追うと、雲が早い速度で流れていた。西の山際には灰色の雲が溜まっている。
「信仰は実際に神がいるかいないかはあんまり関係ないよ。大事なのはむしろその土地の人々がそこに神がおわすと信じているかどうか」
「……そんなものか?」
 人というものは実に不思議な生き物だ。理解に苦しむことが多過ぎる。
 当の人間である灯火は不思議なことなどなにひとつないとでも言うようなすっきりとした表情をしている。
「そんなもんだよ」
 午後はその足で昨日と同様村人から聞き取り調査を行うことにした。
事件の現場である山に入って実際に調べることが一番てっとりばやいが、村長から許可がでるまでは待っていなければ。旅館でなにもしないよりはなにかいい情報が得られるかもしれない。
この村はなんとなく嫌な感じがするから個人的には早く立ち去りたい。
彼女にそんなことを言っても「玄幽、人が多いところが苦手だからね」と笑って流されるのが関の山だろうが。
木陰で他愛のない会話をしながら昼食をとっていると、背の高い女性が現われた。鍛え抜かれた体の動きは俊敏で、俺達の前に立った体は微動だにしない。
灯火が戦ったら一撃で負ける。
 俺達の前でそびえる塔のように立ちつくして数秒観察してから、
「人魂を退治してくださるという方ですね?」
と女は訊ねた。
「ふぁい」
 灯火が乾パンをもしゃもしゃとかみながら頷いた。
口にものが入ったまましゃべるからもともと幼い印象なのに余計に子供っぽい。
女は俺の方を一瞥して、
「こちらの方ではなく?」
 俺の方に手を向けた。
 どうやら俺が人魂を退治してくれると勘違いしていたらしい。
 俺がなんの義理で人間などを助けなければならないのか。
 どこで人間が死のうが苦しもうが俺には関係ないことだし興味はない。
 ただ俺は灯火の身を守るように爺さんに言われているからそうしていて、また彼女について知りたいと思ったから一歩下がった場所から事の成り行きを眺めているだけだ。鷲が空の上から地上を眺めるように、第三者の位置でものごとを見ていたいだけだ。
 でもそれは口に出さず、
「違う」
 悪い印象を与えない程度の無表情で答えた。
 言っても変な奴と女に訝しがられるだけだからな。
 まあ灯火が弱そうことは否定しない。
 だが少なくとも巫としては一流だ。
「わたしです。どうかしたんですか?」
 灯火は明らかにがっかりした女の態度をなれっこだという風に特に気にせず訊ねた。
女はしゃんと姿勢を正すと「長老が呼んでいます」と言った。
 表情には相変わらず不安の色が窺えたが。


 長老の家は山の斜面に立っており、到着するのに急な上り坂を1時間も登らなければならなかった。例の山のすぐ傍を通ったが強い霊力は全く感じない。雑魚がちらほらいるくらいだ。
 木々のトンネルを抜けた先にひらけた場所があり、そこに長老の家がある。家の裏には鳥居があり鳥居をくぐって長い階段を上った先に先に社はある。なんでも長老の家は代々社の祭りの取締役を請け負っているそうで、神の山の管理者の役割も担っている。どうりで一軒だけ家がこんな山の傍にあるわけだ。
 村の家の中でも圧倒的に大きい木造建築に長老の翁と息子家族が住んでいる。
「ようこそお越しくださいました」
 俺達は丁重に家政婦らしき人に迎えられ広間に通された。
 歴代の当主の写真が壁中に掛っており、俺達を注視しているようだった。
 灯火は落ちつかないようでそわそわしながら与えられた椅子に座った。
 俺も隣に座る。
 向かいには白髪の老人が肘かけに両腕をもたせながら座っている。簡単な自己紹介を済ませた後、彼は優しそうな表情で言った。
「急に呼び出して済まない。本来なら儂の方から窺えばいいのだがこの通り体が言うことを聞かない身でな。小間使いに呼んでもらった」
 老人はテーブルにたてかけている杖をぽんぽんと叩いた。
「人魂を退治しようと立ちあがってくださったあなた方にぜひ話したいことがある。聞いてはくれないだろうか」
 長老がわざわざ話したいと言ってきたのだ、なにか有力な情報を得られるかもしれない。
「ぜひ聞かせてください」
 灯火の目は長老の意気込みが移ったのか、真剣なものに変わった。
 彼は背後に控えていた小間使いを部屋から去らせるとテーブルの端に置かれていた急須と茶碗を三つ取って慣れた手つきでお茶を注いだ。湯気が注ぎ口や椀からたち、夏本番少し前の季節にはやや不向きだが、香ばしい焙じ茶の香りは鼻孔をくすぐる。
とくとく、とくとく。
 あらかじめ準備されていたかのような綺麗な茶色だ。
 お椀に八分ほどで老人は急須の口をあげて元の位置に戻し、三つのうち一つを俺に、もう一つを灯火に出した。
「つまらないものですが」
 灯火は自分の前に置かれた茶碗を手に取ると息を吹きかけた。
「熱いですか」
 それに気付いた老人は申し訳なさそうに眉毛をさげた。
 灯火はぶんぶんと首を横に振った。
「わたしが猫舌なだけなので」
 恥ずかしそうにする灯火に穏やかな微笑をして彼はお茶をすすった。
「では本題にいくとしよう」
 茶碗の中のものを一気に飲み干すと彼は直前とうって変わったひどく深刻なものになった。年の功故か表情の深みは村中探しても彼以外にはまみえることができないくらい並々ならないものだった。
「あなた方は村長や村人から人魂についてどのように聞いていおりますかな?」
 灯火は手帳のページをめくりながら、
「一か月前に泉に現われ、出現時期は夕方から夜。最初に発見されたのは夕方でした。目撃者本人達からは怖がってあまり詳しく聞けなかったのですが、近所の人が彼らのこぼした言葉から想像したもので共通していたのは、無数の小さな人魂が泉周辺を浮遊していたことですね」
 長老は頷いた。
「ざっとそんなもんじゃろうな」
「また、過去にこの村には人魂が出現したという記録や噂はない」
「そう。なかったのじゃ」
 彼は最後の言葉を妙に強調した。
「なかったんじゃ……。だが現われた。やれ化け物だの、神の祟りだの人々が騒ぐ中で儂はふと何十年も昔のことを思い出した。それはまだ儂が十になるかならないかくらいの子供のころじゃった」
 肘かけをごわごわになった手で強く握った。
「父について神の山に入り、儂は道に迷ってしまった。日も暮れてきてだんだん焦ってきた時、儂は細い道を見つけた。随分古くなっていて草も伸び放題、長い間人が通った形跡もなかったが獣道ではなさそうだった。もしかしたら使われなくなった旧道かもしれない。下りられるかもしれないと危険を承知で一か八かでその道に入った。くねくねした悪道じゃった。ごろごろした小石ばかりで足場の悪いところや斜面ぎりぎりの場所もあった。迷った時は上へ登れと父からは言われていたからな。どんどん先へと進んだ」
 俺達は黙って聞いていた。老人は目を瞑る。
「自分の背丈もある笹原を歩いていると道の終わりに大きな岩を見つけた。それは三メートルを悠に越す巨岩じゃった。苔生し、傾いているが土の上にどっしりと根を下ろしとった。夕べを残す空を背景にして巨岩は黒々とした長い影を落としていた。圧倒され、幼心にも感動しておった。もっと近くで眺めたい、触れてみたいと思った」
 灯火も目を瞑っていた。老人の見た景色に思いをはせているのだろうか。
「岩に手を伸ばした時、目の端に白いものを捉えた。最初は石かと思ったがどうも質が違う。時間を経て変色し、土に埋もれていたが儂はそれが気になって仕方がなかった。引き付けられるように土を掘ると、思いもしないものが出てきた」
 老人は小刻みに震え始めた。
 彼は戦慄く手で目を瞑ったまま茶碗を探した。
まるで目を開けると死んでしまうと信じ込んでいるように。
灯火が目を開けて「大丈夫ですか」と訊ねるが耳に入っていない。
なんとか茶碗を探し当てると彼は空の茶碗を口につけた。震えのあまりに茶碗が手から滑り落ちた。がしゃんと床で盛大な音をたてた。
「人骨じゃったんだ」
 うっすら目を開いた。
「腰が抜けたよ……。初めは気付かなかったらどんどん掘り進めていたが、我に返ったら何重にも折り重なって人骨が埋まっていたんだから。辺りを見渡すと人骨らしきものが所々で地面に露出していた。怖くて怖くて力が出ない下半身を引きずりながら無我夢中で逃げ帰った。どうやって帰ったかも思い出せない」
 そこで老人は元の穏やかな目つきに戻って、テーブルにたてかけていた杖で床を突いた。ぱりんという茶碗が砕かれる音が小さく鳴った。一分もせずに俺達を連れてきた女が現われた。
老人は彼女に茶碗を片付けるように指示した。
「父から聞いたことによるとそれはずっと昔、千年以上前の生贄の跡だそうだ。昔はこの国でも生贄の習慣があり、動物だけでなく人も生贄として差し出されたそうだ。……おっと、これはあなた方には既知のことだったかの?」
 俺は仲間から聞いた話で生贄の習慣があったことを知っていた。事例を挙げてみろと言われればぱっと思いつくだけで二十三個の事例を言うことができる。灯火も否定したり訊ねたりしないところから察して多少なりとも知っているのだろう。
「それでじゃ、儂はこう思ったんじゃ」
 彼は一息間を置いて、
「生贄にされた人々が人魂になって現われたのではないか」と言った。
 彼の瞳は確信に満ちていた。
 灯火は口を噤んでいる。
「年寄りの昔話に付き合ってくれてありがとう。難しく考えなくていいが、参考にしてくれるとありがたい」
 老人は小間使いの女に支えられて立ち上がった。
 三人だけだった時の怯えた様子は既に無く、小さいながらも曲がった背には長老としての威厳が漂っていた。
 彼に送られて俺達は山を下りた。
 疲れてしまった灯火は調査を早めに切り上げて旅館に帰ることにした。
 今は夜中の十二時を回っている。彼女が泊っている隣の部屋はとても静かだ。
 なんだかとても気分が悪い。ここ一週間くらいなにも食べていないからだ。
 少し動くたびに軋むベッドから、重い体を起こす。
 久しぶりに食事をとろう。
 窓を開けて山を眺めながら考えていると胸糞悪い気分も大分ましになった。
 耳を澄ますと生きものの声が聞こえる。今日は何を食べようか。
 灰色の曇天が夜風に押され、俺の髪を撫でた。
 闇に体を沈める冴えた意識の中で彼女の寝息を聞いた。


翌日。
「おはよ!」
 ベッドに座って朝焼けを眺めていると灯火はノックもしないで部屋に入ってきた。
「おはよう。疲れはとれたか?」
「おかげさまで。爆睡」
 寝癖を押さえながらはにかんだ。
「いびき、聞こえなかった?」
「いや、気が付かなかった」
「そっかー。よかったあ」
 実を言うとほんの1時間前まで部屋を空けていたから分かるはずもなかった。
「そういえばね、今日はいい夢みたんだ!」
「いい夢?」
「うん! あのね、家で、」
 そこで灯火は言葉を切った。
 どうしたのだろう。
 灯火はじっと俺の顔を見つめると膝が触れるくらい近付いて俺の目を覗き込んだ。彼女の黒目が深紅色の輝きに照らされる。
「顔色いいね」
「そうか?」
「うん!」
 あどけない笑顔で灯火は肯定した。
 俺は気付かぬうちにかなり疲れていたみたいだ。
まだ人の姿を基本の姿にして間もないからこの姿での体力の消費量を慮るのは慣れない。以前の姿だったら1年なにも口にせずとも平気だったからついその勢いでものを判断してしまう。
ぼんやりと彼女を眺めていると、ぽんと彼女は手を打った。
「そうそう、さっきフロントから連絡があってね、村長さんが家に来てほしいって」
 昨日の申しこんだ入山の是非についてだろう。
「わざわざ朝早くに連絡が来たんだから、許可が下りたのかもしれないね」
 許可しないのだったらまだ人々が仕事を始めていない時間帯に敢えて連絡を遣す必要もあるまいと彼女は考えた。勤務時間外に働くには何か特別な理由があるはずだと。
 俺は腰を上げた。
「ならもう行くか?」
「そうだね。玄幽はご飯食べた?」
 俺が頷くと彼女は「よかった」と微笑した。
「百聞は一見に如かず! 現場を見なきゃどうしようもないからね」
 もう許可が下りている気になっている。彼女の楽観さは一抹の不安を覚えるが当の本人は足取り軽く玄関へ続く階段を下りていった。
 何度も訪れた村長の家に着くと、家を囲むように五、六十代の男達が立っていた。
 玄関の横に立つ男に、
「おはようございます」と彼女は会釈をした。
 男は俺達を一瞥しただけで目を合わさそうとしなかった。
「……よう」
 ふてぶてしい。なんなのだ。
 明らかに嫌そうな態度で接している。挨拶すらしない俺を無視するのは一向にかまわないが彼女はちゃんと挨拶をしたし、何より賓客のはずだ。人魂退治に立ちあがってくれてありがとうとお礼を言われるのなら分かるが無礼を働かれる筋合いはない。
 灯火はどうすればよいか分からなくて彼を見上げた。
「あの……わたし達は」
「人魂退治をしてくれるって奴だろ。知ってるよ」
 知っているならさっさと案内しろ。
 むっとして俺が睨むと男は少し怖気づいて、
「昨日あんたらが話をした部屋で村長が待っている」
 片手で引き戸を開けた。
 古い木造家屋は足が床に着くたびにみしみしと軋む。昨日は村長の家には数人しかいなかったのに今日は何十人もの人の気配を感じる。部屋に隠れて姿は見えないがあまり良い気は発していない。
 村長から神の山入山許可の申請の件を聞いて多くの村人は気分を害したようだ。
 全く、人魂を退治してほしいと縋っておきながら無礼千万。
「玄幽」
 彼女が俺にしか聞き取れない声で言った。意志のこもった低めの声だった。
「どうした」
 小さな頭に問うてみたが、彼女はただ頭を横に振るだけだった。
 言うな、ということか。
 所詮俺には人の感情など分からぬ。
 彼らが俺達に負の感情を向ける理由など。
 逆立ちしても俺と彼らは違う生きものなのだから。
 目を閉じる。
 言うなというなら言わないでおこう。
「お入りください」
 灯火が立ち止ったドアの内側から村長の声が聞こえた。
 ドアを開くと村長が心痛甚だしげな表情で座っていた。
「お掛けください」
 俺達が挨拶する間もなく彼は言った。
 昨日は一睡もしていなかったようだ。目の周りにくまができており、疲労困憊していた。
「昨日のことだが」
 彼は俺達が座るとすぐに口を開いた。
 迷いが彼の頭の中を走り抜け、それを振り払うように首を振った。
「入山を許可しよう」
 灯火は安堵してほっと息を吐いた。
だがそれを切り捨てるかのように彼は叫んだ。
「しかし!」
 彼女が驚いて少し目を開いた。
「日が沈むまでに下山すること。泉への道以外には通らないこと。無闇に山のものに触れないこと。いいかね?」
 一息にまくしたてると村長はこちらをぎょろりと睨んだ。
「はい」
 灯火ははっきりとした口調で肯諾した。


 泉に着くのに二時間とかからなかった。比較的楽な道で石も綺麗に除かれている。泉が見つかってまだ半年しか経っていないのにこれほど道が整備されているのは、それほど人々がこの道を沢山往来した証拠だ。ひと月人は踏み入れていないが雑草に道を隠されていなかった。
 木の葉は熱中症になっている麓の植物と違って青々として幹はほんのり湿り気を帯びていて柔らかい。木々は気温を僅かに下げ、ひんやりとした空気は心地よい。
 案内に立つ、玄関先にいた男が葦の茂みの前で立ち止まった。
「この茂みを抜けると泉がある。俺が案内できるのはここまでだ」
「この先は案内してもらえないんですか?」
「馬鹿言うな。誰が人魂の出るところに行けるか!」
 男は吐き捨てるように言った。しゃべり方は高圧的だが指先が僅かに震えている。
「ならここで待っていてくれますか?」
 灯火が茂みに入ろうとすると、後ろで男は首をぶんぶんと振った。
「いや、俺は今すぐ帰る。なんだか気温も下がってきたし薄気味悪い」
 空は昨日より今日と次第に雲に覆われる面積が増えていた。登る前にはさんさんと照らしていた太陽もいつの間にかその姿を消していた。
「そうですか……。分かりました」
 言葉尻が不安げに揺らいでいた。彼女にだって雨の山は危険なのだ。ましてよく知らない山だ。道を見失ってしまう可能性が大いにある。
 彼を姿が見えなくなるまで見送った後、俺達は茂みを通り抜けた。足元がぬかるんでいてはっきりした道が分からなかった。葦をかき分けていくと二十分もかからないで茂みを抜けた。人によって地面に石が敷き詰められ足場が築かれていた。石の途切れた先が泉だ。
 光の当たらない水面は風に撫でられて波紋を描いていた。薄暗く水底を見通すことはできないが滾々と水が湧く音は確かに聞こえる。
 灯火は黙って暫くその心地よい音を聞いていた。
 こぽこぽ、ここぽ。
 ふと顔を上げた。
「玄幽、霊気を感じる?」
 俺は首を横に振った。
「全くといっていいほど感じない。隣の山まで範囲を広げればちらほら感じるがな」
「夕方になったらここに来るのかもしれないし……」
 灯火は片手を自分の頬に当てて悩む仕草をした。
「日が暮れるまでここで待ってみるか……」
「いや、それは止めた方がいい」
「どうして?」
 俺は空を指差した。
「じき一雨くる。それも大物がな」
 どんよりした群雲が忙しなく西から東へと流れ、空を埋め尽くしていった。
 彼女の黒髪も俺の髪も吹き上げられ、葦が騒ぎ出す。
 だが灯火は首を縦に振らなかった。
「わたしは待つ。皆の様子じゃまた明日も入山させてくださいって言っても許してくれなさそうだし」
「駄目だったら『退治できませんでした』じゃいけないのか?」
 分からない。
危険な目にあってまで成し遂げなければならないことなのか。
 村人とは赤の他人。村を離れれば互いに忘れてもよいどうでもいい存在ではないか。
「自分が請け負った仕事だから、できませんでしたは最後の選択肢にしたいんだ。やれるだけやりたい」
「道に迷うかもしれない」
「いざとなったら野宿する」
「風邪をひくぞ」
「合羽持ってきているし大丈夫だよ」
 ……頑固だ。
 彼女は一度決めたらなかなか折れない。
「……勝手にしろ。俺は知らないからな」
「うん。嫌だったら先帰っていてもいいよ」
 馬鹿か!
 俺は怒鳴ろうとして開いた口をきゅっと結んだ。
俺は灯火の安全を確保しなければならないのだ。己の内に仕事であるため以上の理由があるような気がするが、それが何か自分でも理解できずにいた。
 本当に灯火は分かっていない。
 自分の悪いところを省みず、ただ彼女を心の内で責めていた。
 表現できないことを怒っても仕方がないから、俺は仏頂面で、
「……どうせ暇だから付き合う」
「そうっ! ありがと!」
 彼女の笑顔に負けた。
 雨が降らないうちに着ておいた方がいいと強いて俺に合羽を着せられた灯火は、早めに昼食をとると泉を一周すると言って葦原に入った。かがんでいるから姿は見えない。風で波打つ葦が他と違う動きをしたところが彼女の通った場所だとなんとなく見当をつけられるくらいだ。
 正午頃に雨粒がぽつぽつと落ちはじめ、三十分とかからずに土砂降りになった。
 人の目では数メートル先が見通せないほどだ。水面が乱れ、髪からぼたぼたと雫が零れる。
 気温が一気に下がり、雨粒が顔に吹きつけて邪魔くさい。
「灯火!」
 彼女の名を呼んだ。
「なにー?」
 雨音にかき消されそうになりながらも遠くから声が届いた。随分遠くに行ったものだ。
「いい加減帰った方がいいんじゃないか! 泉の水かさも増している!」
「でも夕方になってないよ!」
「夕方になる前にお前が風邪を引くぞ!」
「大丈夫! わたしは丈夫だから!」
「そういう話ではない!」
「わたしより玄幽は大丈夫なの? ずっと立ちっぱなしでしょ?」
「俺は風邪を引かん!」
 違う、俺はこんな問答をしたいわけではない。
 風雨が互いの声を時間が経つほどにどんどんかき消してゆく。
「ここにいたら危険だ! 土砂崩れが起こるかもしれない!」
 実は村を挟んだ向かいの山からゴゴゴッという地響きが聞こえてきたのだ。
 聞こえていないのか灯火からの返答はなかった。俺は声を張り上げた。
「向こうの山は既に土砂崩れが起こった! こちらもいつ起こるか分からない!」
 本当のところ向こうの山で土砂崩れが実際に起こったという確証はないが、彼女を動かすためには多少の誇張はいたしかたない。
「灯火!」
 10分経っても反応がない。気配を頼りに葦原を進むもぬかるみに足をとられて歩きにくい。
 だから人の姿は面倒だ!
 腹が立ってくる。
 突然大地を震わすようなごろごろという大きな音がした。
 雷神が腹をすかしてやってきたか。
 舌打ちするが早いか稲光が走り、向こうの山が光った。
 ドミノ倒しのように木がみしみしと断末魔を上げながら倒れるのが見える。
 もう一度彼女の名前を叫ぶ。
「灯火!」
「玄幽?」
 灯火が葦の原からすくと立ち上がった。全身濡れ鼠のようになっている。顔はびちょびちょでなにごとかという風に不思議そうな目をしていた。
 俺は彼女の方にずかずかと向かうと腕を引いた。
「ちょっ……玄幽! まだ……」
「阿呆! こんな天気に山にいる馬鹿がいるか!」
 彼女の背後で稲妻が走り、束の間昼のように明るくなった。
「あ……あのね、ここで……」
 俺の怒りに完全に委縮してしまっている。
「煩い! 行くぞ!」
 強風で取れた彼女の合羽の帽子を被せ直すと、俺達は山を下っていった。
 八合目まで下りたところで彼女は俯いていた顔を上げた。
「……ご……ごめんね……」
 俺は腕を引っ張る力を弱めた。
「全くだ。俺がいなければ灯火は何度命を失っていたか知れない」
「そうじゃなくて……、危ない目に遭わしちゃったから……その……」
 あの程度じゃ死なないと何度いったら分かるんだ。
 俺の溜息を聞いて彼女は体を強張らせた。
「謝る暇があるなら自分の心配をしたらどうだ。脆弱なのはどっちだ?」
「……うん」
 それから彼女は黙りこくってしまった。時たま俺が話しかけてもぽつぽつ呟くように話すだけで自ら話そうとしない。拗ねているのか、泣いているのか。俺に掴まれた手はだらんとして力がないが僅かに震えているのを感じた。ちらりと振り向くも視線を下に落としており、暗い空の下、大雨の中では表情は窺い知れない。
 山の出入り口、長老の家の裏の鳥居まであとは一直線の階段を下りるだけという時に、俺はある異変に気が付いた。
 鳥居に集まり俺達を待つ人々から凄まじい殺気を感じたのだ。
 灯火はまだ俯いているから気付いていない。
「……」
 俺は警戒しながら一段一段階段を下りていった。靴から染みた水が足まで到達して気持ち悪い。
雨音の中で村人と俺達は互いに無言で間合いを詰めていった。
「……あんたら」
 長老がお付きのものに支えられながら人混みの中から現われた。
 露骨に不信感を顕わにした声に灯火も思わず長老の方を見た。
「今すぐこの村から立ち去ってくれないか」
「どうして……?」
 灯火は長老の態度に動揺を隠せずにはいられなかった。
昨日はあんなに穏やかで優しそうなお爺さんだったのにといったところだろう。
 細めた目は慈愛に満ち腰の曲がった背は威厳がある、慈しみと厳しさを併せもつ長老の名に恥じない老人だったのにと。
 けれど今の彼から感じ取れるものはただただ俺達に向けられた憎悪、懐疑心。
「先程村内で土砂崩れが起きた。家が五軒埋もれ、十軒が押し流された。重体二十五名、死者九名。これは何を表すとあんた達はお考えかな?」
 災害。森林放棄。単一種の植林。地盤の脆さ。
 考えられることを挙げてみたがまだまだ思いつく。
 頭の端で暇つぶしがわりに考えていると、長老が杖で思いっきり地面を突いた。泥がはね、周りの人に付いたが彼らは文句一つ言わず、俺達を睨んだままだった。
「祟りじゃ!」
 ……は?
「あんたらを神の山に入れたことを神はお怒りになったのだ!」
 周りの村人もそうだそうだと口々に叫ぶ。
「うちの子を返して!」
「家を元に戻せ!」
「あんたらのせいで――」
「化けもん!」
「とっとと失せろ!」
「悪魔!」
「消えちまえ!」
見当違い甚だしい。
 入山を許可したのはどこのどいつだ。
 泥を掴んで投げつける者。鉈を片手に握る者。泣き喚く者。
 はては俺達の荷物を投げつけてきた。ここに持ってくるまでどれだけぞんざいな扱いをしたのか泥だらけだ。
「……分かりました」
 灯火は汚れた荷物を拾い上げると俺の分まで背負った。
「行こう、玄幽」
 そう言うと彼女は群衆の真ん中へ進んだ。人々が彼女を避けるように移動して道ができる。
 群衆をあと少しで抜けようとした時、
「こんの疫病神!」
 一昨日話を聞いた髭面の若者が木の陰から刀を抜いて駆けてきた。
 村人が作った道を駆け抜け、俺の背に刀を振りかざした。
 避けられない。
人々が罵るのを止めてあっと息を呑んだ。
振り返らず俺は刀を片手掴んだ。
 パキンッ。
 予想だにしない音に彼らは目を見張った。
刀が俺の握ったところから鍔まで一瞬にして粉々になり、砕け散った鉄の破片が雪のようにキラキラと降って、雨で流されていった。
 俺は残った切っ先をくるりと空中で持ち替えると、身を翻して切っ先を唖然とする男の首元に向けた。それは僅かに男の皮膚を切り裂き、血が首を伝った。
「今、俺達に刃を向けたな」
 ふざけるのも体外にしろ。あらぬ疑いをかけて貶したあげく殺そうとするなど、認められるはずがない。これ以上は我慢ならない。これ以上――
 男は腰を抜かしてその場にへたり込んだ。血の雫が服に滲んで雨で溶けた。
「玄幽!」
 灯火が着物を強く引いた。
 何なのだ、機嫌が悪い時に。灯火のことだから怪我をさせるなということだろうか。
「殺してはいない」
「いいから行こう!」
 先に刃向ってきたのはあちらだ。どうして俺が責められなければならないのだ。
 解せない。
 けれども灯火は俺の腕をぐいぐい引っ張って離そうとしない。
「俺はっ」
 彼女の手を振り払った。
 どうして我々が恨まれねばならない。
 どうして粗略な扱いを受けねばならない。
 なぜ!
 この山に神などいないのに!
 どうして――
「やめて!」
 ……灯火?
声が震えている。手も、声も、全て。凍えたようにぶるぶると小刻みに震えている。
雨粒が合羽の皺に沿って小川になって流れてゆく。それは滝に落ちて手を、足を濡らした。
合羽に隠されていた鼻は赤く、漆黒の瞳はいつもより潤んでいる。
 泣いて……いるのか?
 はたと俺は気が付いた。
俺の苛立ちは彼女も感じていること。
俺が怒りの矛先を何かに向ければ、巡り巡って彼女に返ってくること。
何故なら彼女がこの依頼を請け負った張本人だからだ。
『玄幽が不愉快な目に遭うのはわたしのせいだ。わたしといるから……』
 そんなに自分を責める必要はないのに。
彼女だって遣る瀬無いのだ。
そうか……。
 彼女を傷つける理由はない。
 俺は灯火の持っていた荷物をひょいと取った。
「……済まない。行こうか」
 彼女はううん、と首を振った。
それから大きく頷いた。服を握る力が和らいだ。相変わらずぐずぐず泣いているようだが。
「ま、待ってくだされ!」
 長老が背後から叫んだ。
 帰れと言ったのに今度はなんだ、図々しい。
「あなた方はもしや神なのか?」
 お付きの者が止めるのも構わずに老人は動かない足で群衆をかき分けた。だが昼からの雨でぬかるんだ大地に躓き頭から転んでしまった。
「長老!」
 村人が我に返って長老に駆け寄った。
「いい!」
 彼はうつ伏せになったまま喝を入れた。そして足を胸の方に引き寄せて正座の姿勢をとると額を地面にすりつけた。
「あなた方が神なのならばこの災害も納得がいきます。俺共が1カ月以上お祭りしなかったからでしょう。神の山の水を伺いだてもせず勝手に使ったからでありましょう。これらのことに関して我ら村人全員いかなる罰も受ける所存でございます。ですが……、どうかこれからはあの泉を我らに使わせては頂けないでしょうか? この老いぼれの命でよろしければいつでも差し上げます。ですから、どうか……どうか……」
 なにを勘違いしているのだ?
 長老は頭が地面に埋もれてしまうのではないか思われるほど平伏している。
 灯火をちらりと見ると、彼女は黙って長老の願いに耳を傾けていた。涙は既に止まっていたが体はまだひくひくとしゃっくりを続けていた。
 村人は一様に長老を見つめていた。
 彼らの高ぶった感情は冷やされ、落ちついていった。
 老人の決死の覚悟は彼らを安心させた。
 だがそんなこと知ったことではない。
「灯火、行くぞ」
 俺は灯火の肩を引いた。
 まだ人魂を発見できていないし原因も分かっていないから解決しようがない。
 だがこれ以上この村に留まるのは嫌だ。
 ここまで酷いことをされて、村人を助ける義理などどこにあろうか。
 去ろうとする俺達の背に少年の声が投げかけられた。
「逃げるのかよ!」
 灯火が足を止めた。
「何千年もずっと俺達に祀られていたくせに、いざとなったらなんにもできないのかよ!」
 この期に及んでまだ言うか。
 声のした方を睨みつけるとその周りの村人まで小さな悲鳴をあげて腰を抜かした。
 大人に隠されていた声の主は十代になるかならないかくらいの日焼けした少年だった。ひょろりとしていて筋がみえる。その顔が不健康そうに真っ青だった。
「分かりました」
 灯火がこくりと頷いた。
村人の視線が一気に彼女に集まる。
 なにを言っているんだ、人魂の原因はまだ分かっていないではないか。
 長老が顔を上げた。目には光が差している。
「助けてくださるのですね」
「おまじないをします。ただし水汲みは昼中にしなければ駄目です。それを破ればおまじないは効果を失い、再び人魂は現われるでしょう」
 村人達は騒然となった。
「それでは今と変わらないではないか!」
「いや、日中だけでも安全を保証されたんだ。十分だろう」
「日中以外は駄目なのか?」
「かあちゃん、おなかすいた!」
「静かにおし!」
「やっと安心して山にいける……」
「これで生計がたてられる!」
「そんなもん認められっか!」
 長老はお付きの者に助けられて立ち上がった。
「恐れ入りますが……、夜はいけない理由を教えていただけませんか……」
「夜は神霊が泉を使う時間。だからその境目の日の出、日没頃も駄目です」
 長老は辺りを見回した。雨は土砂降りが続いて、周縁にいる人まで見通すことができない。
「皆の衆、儂は今、神からの申し出に対して答えを申し上げたいと思う。儂の選択で村の未来が決まるがそれでもよいかな?」
 村人は次々に肯諾する。
 長老は小間使いの持ってきた着物をはおり、木の玉を数珠繋ぎにしたネックレスを首にかけた。木製の数珠のじゃらじゃらという音は雨音にかき消されながらもなんとなく聞こえる。彼はそれを合わせた両手にかけると膝をついた。
「申し出、承ります」
 石が転がる音、土が削られて生き物を引き剥がしてゆく。雨に打たれた葉はもはやそれを跳ね返す力もなく風のなすままに流れていた。ごうごうと風がたち騒ぎ、村を、山を駆けてゆく。屋根、道、畑。跳ねたり沈んだり渦を巻いたり立ち止まったり。雨は沢山の忘れ物を残して忙しなく去ってゆく。
 西の雲がほんのり橙色に染まっている。


 そのあと、俺達は神の山の社に詣でて灯火は形ばかりのまじないをした。山にいる間中ずっと意識を研ぎ澄まして神霊の気配を探していたが結局祀られるに足り得る神霊を見つけることはできなかった。ここ最近では神のおわすとされる場所に神がいないということはよくあることだ。数千年前くらい前から次第に神霊は人の近くから去っている。おかしいはずなのに人間の中で気付いているのはほんの一握りに過ぎない。
俺がかつていた場所にもそういった人里から来た神霊達がいて、彼らは口々に言った。
「世界が壊れ始めた」
「もうあそこにはいたくない」
「手の施しようがない」
 人中に身を投じて早数週間。その変化は表立って目にすることはない。だが着実に進んでいることは確かだ。
 この世界はいったいどうなってしまうのだろうか。
「真剣な顔だけど……、どうかしたの?」
 並んで座っていた灯火が俺を見上げた。
「いや、なんでもない」
 村人に疑われては面倒だと何度も俺が説明したのに彼女がどうしても神の山に数日残りたいと片意地を張ったので一日がかりで尾根を通って迂回すると裏から神の山に登った。泉からほど近い場所に寝る場所を整え、夜空を眺めながら俺達は火にあたっていた。ぽこぽこという水が湧く心地よい音が聞こえる。
 雨雲が掃かれた後には満天の星空が広がっている。
 草木は日中に太陽に乾かされて今は雫の一つもない。ただ足元の土の柔らかい感触だけが昨日大雨が降ったことを語っていた。
「灯火」
「うん?」
 小さな焚火に両手を近付けたり離したりしている。
「どうしてここで泊ろうと思ったんだ?」
「泉に近いからだよ」
「ならなんで泉に近いところがよかったんだ?」
 しかし質問に答えずに、
「なんだと思う?」
 膝に頬を載せて訊ねた。
 炎に照らされた彼女の顔は太陽の下よりずっと大人びていた。
 俺は顔を上げて考えてみる。
 泉の近くがいい。
 近くでないといけない。
 神の山。
 人魂。
 皆目見当がつかなかった。
「……分からないよ」
 彼女は泉を一瞥した。
「ヒント。泉に見たいものがあるの」
「見たいもの? 人魂? 未だに現われる気配はしないが」
「違う。ヒントその二、人の出入りが少ない山のつい最近発見された泉」
「だから霊魂はいないって……」
 神のいない、空虚な山。
「違う」
 灯火は頬を膨らませた。
つい数分前に大人びて見えたのは幻覚だったのか。
「今は何月?」
「……7月。それがどうかしたんだ?」
 季節と関係があるのか。
 未だ怪訝な顔を続ける俺に灯火は不服そうだ。
 火にあたった頬は闇夜の中でも紅潮していることが見て取れる。
「なら最後のヒントね」
「うん」
 彼女は座っていた石の上から腰を上げるとすくと立った。
「あ」
 黒髪が舞った。彼女は泉の方を見て目を輝かせる。
 彼女の見ている方向を眺めてみると、
「人魂……?」
 泉があるであろう場所に薄ぼんやりとした火が無数に光っていたのだ。浮遊する火はぺかぺかと消えたり燃えたりしながらあっちへ行ったりこっちへ行ったり彷徨っていた。
「ちょっと見てくるね!」
 灯火は手元のランプを取ると小走りに駆けていった。
 取り残された俺は視線を変えずに小首を傾げた。
 俺であろう者が人魂の気配に気がつかないなんて不覚だ。現に今でも遠くで燃えている炎の気配を感じることはできない。
 どうして気が付かなかったのだろう。どうして感じられないのだろう。
 あれは本当に人魂か?
「あ……」
 はたと気付いた。
 なんでこんな単純なことが分からなかったのだろう。
 答えは至極簡単だったのだ。
 あれは人魂などではない。
 最初から人魂と言われ続け、人魂であることを前提に物事を考えていたから人魂としか思えなかったのだ。
 興味がないが故に人魂であることに疑いを持たなかったのだ。
 俺はいてもたってもいられなくなって灯火の消えた方向へと足を進めた。
 草をかき分け、葦原を抜ける。
 あれは人魂でなければ怪異の類でもない。
 そう。それは、
「蛍」
 淡い光が泉で乱舞していた。火が垂れ、水面に落ちる。別世界に入りこんでしまったかのように闇夜の中でここだけは光に満ちている。風はなく静かで、水の滾々と湧く音がはっきりと聞こえた。
 灯火は足場に立ちつくしてその様子をじっと見つめていた。
「人魂の正体が蛍だっていつ気付いたんだ?」
「最初からなんとなく人魂じゃないとは思ってたよ。長年知られていなかった場所にどうして人魂が出るのかって。村の人は神の山が危ないからって水汲みに行ける人を制限していたから誰かが亡くなったって話も聞かなかったし、水も皆で分け合っていたそうだから怨恨に発展することもなかったみたいだからね」
 人魂が出ている可能性は低かったということか。
「はっきりしたのは昨日。葦原を歩き回っていた時に風雨を逃れて隠れている蛍を見つけたんだ」
「ならどうして村人に人魂じゃなくて蛍だって言わなかったんだ?」
 そうすれば彼らはもう怖がる必要もないではない。夜も好きなように山に行くことができるようになるのだ。時間を気にして、存在しない神の怒りに触れることを恐れることはなくなる。お人好しの灯火に限って何故村人の損になることをしたのか。
 灯火は消えては現われ群舞する炎を見つめたまま呟いた。
「……分かってくれると思う?」
 声が僅かに震えているのを俺は聞き逃さなかった。
「いいや、思わない」
 村人の山への信仰心は強かった。だからこそ人魂の出ない昼間でさえ山に入ることを恐れた。俺達が神の山に入ることを忌み、災害の原因を、部外者を山に入れたためとして畏れ、呪い、怒り、恨んだ。そのせいで灯火の服には村人に荷物を投げつけられた時に付いた土が乾いてこびり付いている。思い出すだけでも胸糞悪い。そして俺の力を目の当たりにして神と勘違いをして助けを請いた。彼女の形だけのまじないで安心し、畏れ崇めて俺達を見送った。
「最初は説明しようと思ったんだよ。けど村の人達に殺気だった目で見られて、恨みの言葉を投げかけられて思ったんだ、説明しても無駄だって」
 彼女の肩が小さく上下した。
「人魂が蛍だと認めることは、彼らの考えを否定することだって。彼らの考えを否定するということは彼らの信仰を否定することに繋がるんじゃないかって」
 大袈裟に聞こえるかもしれないが、閉鎖的な社会ではよくあることだ。ある社会で共通認識になっていることを否定すればその社会から排除されかねない。社会に属するものならば村八分を、部外者ならば礫を投げられ殺されるかもしれない。
「……そうだな」
 信じ込んでいることを変えるのは難しい。
「それにしても彼らは何故蛍を人魂だと思ったのだろう」
 水辺がなく、水場があっても蛍が住めるほど綺麗でないこの村で蛍を知る者はいなかった。故に蛍を初めて見た村人は困惑した。閉鎖的な村では考えられなくもない。だがそうだと言って何故人魂だと思ったのだろう。発光する生きものは他にもいる。ホタルイカやツキヨタケがその例だ。ツキヨタケは山中でごく当たり前にいる茸だから知らないはずがない。
「もの思えば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」
 灯火がぽつりと和歌を詠った。
「それは?」
「昔の和歌。もの思いにふけっていると沢の蛍も私から離れ出た魂に見える、という意味。昔から人は蛍を魂に擬えてきたんだよ。だから蛍を人魂と思い込んでもおかしくないよね」
 俺は首を捻った。闇夜に綺羅、星の如く輝く蛍の光は確かに美しいが、どうしてもこれらを人魂などに見立てることはできない。どう頑張っても見てもただの発光する虫だ。
「これが恐ろしいのか?」
「もっと昔には蛍は不吉な存在とされていたもの、不思議じゃないよ」
 灯火はしゃがみこんだ。水面には蛍の炎が映り、水中は宇宙に繋がっているように幾億万の光に満ちていた。どこまでも静謐な世界が俺達を包む。
 彼女は立ち上がると何かを包んだ両手を空に掲げた。開くと小さな手から一滴の光が零れて闇に消えた。
「こんなに綺麗なのにね」
 脱力したように両手を下ろすと、
「でね!」
彼女は俺をきらきらした瞳で見上げる。その漆黒の瞳の中にも、蛍の光は瞬いている。
「蛍がいるなら久しぶりに見たいと思ったの。最近は人のいるところでは見られなくなって、山の方じゃないと見られないでしょ?だから!」
「灯火は蛍が好きか?」
 彼女は満面の笑みで頷いた。
「綺麗で儚げで、夢幻のような、あやしくも優しくて温かみのある蛍の火が好きなの」
 微笑み返す。
「俺も好きだ」
 月のない夜。鉄紺の世界は光を湛えていた。


第四章 待宵草

 山の向こうで入道雲が湧いている。
 目一杯広げた空色の反物には白で模様が描かれている。
 金糸で縫いとった太陽と銀糸で縫い取った三日月。
 視線を下に下ろすと、右手には畑が広がっている。どっしりと土の上に腰を下ろした西瓜や淡い紫色のナスの花が小さく見える。左手は坂になっていて、下りた先には町が広がっている。家や蔵の屋根が見える。
 道の左右に植えられた桜の木では、蝉がけたたましく鳴いている。
「いい景色だね」
 わたしが言うと、隣で歩く玄幽(げんゆう)がちらりと眼下の町を見遣ってそうだなと言った。本当にそう思っているかは分からない、あっさりとした声だ。
 わたしは事故で育ての親を失い、生計を立てるために主に神々を顧客として手紙などの郵便物を配達する“言伝え”となった。育ての親の一人から託された手紙の届け先で玄幽に出会った。
 最初にもった印象はつまらなさそうな顔をしているな、ということだった。口をいつでも引き結んで、常に嫌そうに眉間に皺を寄せて目を細めていた。そのため血のように赤い瞳に光が入ることはなく、折角の綺麗な目が死んでいた。一方で光の加減で色が僅かに変わる銀髪や血色の悪そうな肌は植物からの光でぼんやりと光っていた。玄幽は先の手紙の受け取った方の頼みで、配達が終わるまでわたしの護衛をすることになった。最初はお互い喧嘩をしたりしてどうなることかと思ったが、今は上手くやれていると思う。
 怒ってばかりなので仲良くなれるか心配だったけれど、仲良くなってみるとなんだかんだ心配してくれたり優しくしてくれたりした。きっと根は素直なのだろう。
「灯火(とうか)、今気付いたが風邪が治っているな」
「あ。確かにそうだ」
 数週間前にどしゃぶりの雨に何時間もあたっていたためか、数日後にわたしは風邪を引いた。咳と微熱だけで済んだが、玄幽にだから言っただろうとお説教をされてしまった。大した風邪じゃないんだけどな。まるで悪戯をした幼い子どもを叱るような調子でくどくど不平を並べたてた。わたしは黙ってそれを聞いていた。心配させてしまったのは申し訳ないが、村の人達のために一生懸命になったことに後悔はしていない。
 喉に手を当ててみる。まだ少し痛むが今日はまだ1度も咳き込んでいない。
「大分治っているね!」
「治っているねって自分の体だろ」
「気付かなかったんだもの」
「気付かないって……。それでは怪我させられても気付かないんじゃないか?」
 玄幽の複雑そうな表情が面白かったので、笑いを堪えながらじっと見つめていた。
「それは流石にないと思うけどなあ」
「あると思うぞ」と言ったところで「なにがそんなに面白いのだ」と玄幽は眉をひそめた。
 隠しおおせると思ったが駄目だった。
「なんでもないよ?」
「嘘をつくな」
 玄幽は口をへの字に曲げた。
 納得してくれなさそうだったで、失礼にあたるかもしれないけどと前置きをして言った。
「玄幽の表情が面白くって」
「……そんなに変な顔をしているか?」
「面白いっていうのは悪い意味じゃなくて、なんて言うのかな……表情豊かだなーってこと」
「俺が?」
 信じられないという顔をして玄幽はそっぽを向いてしまった。
 惜しいなとわたしは思った。彼の色んな表情を少しずつ知っていくのがちょっとした楽しみになっていた。最初は始終不満そうな顔だったが、一緒にいる間に様々な顔を見るようになっていた。怒ったり呆れたり心配そうだったり。笑顔も仲直りした時初めて見た。良い笑顔なんだからもっと笑えばいいのに。笑っていれば心持ちも変わって、今まで見られなかったものが見られるかもしれないのに勿体ないな。
「うん! 気付いていないかもしれないけど、玄幽は玄幽が思っている以上に色んなものを感じているんだよ。自分の小さな変化の蕾を見つけることができれば、新しい発見があるかもしれない」
「蕾か」
「そう、蕾。たとえば雲を見てみて」
 わたしが空を指差すと、玄幽はその指し示す先を追った。
 反物に千切った綿が散らばっている。青色は吸い込まれてしまいそうなほど澄んでいて、高さによって僅かにグラデーションが生まれている。
「なにか感じる?」
 玄幽は真面目な顔で首を横に振った。
「なにも。いつもと変わらない夏空だな」
「次に木の下に行ってみよう」
 桜の木の下まで引っ張って木陰に立った。木陰は日向に比べて涼しく、そよ風が心地よい。木漏れ日が地面をきらりと照らした。葉脈が透けて見え、葉の重なりによって変化する葉の色合いは瑞々しい。
「息を吸って」
 荷を下ろすとわたしは両腕を上へ伸ばして息を吸った。日陰なので蒸し暑いながらも呼吸が大分楽だ。木の枝には蝉の抜け殻がついている。この木で鳴いている蝉もここで脱皮したのだろうか。
「目を瞑って。大きく深呼吸をして、ゆっくり吐いて」
 わたしはおひさまの光を沢山含んだ空気を吸い込んだ。空気が気管に入るのを感じる。そして吐きだす。暫く目を瞑ったまま周りの音に耳を傾けていた。音の中で最も目立つのは蝉の鳴き声。その後は鳥の囀り、行き違う人の話し声、足音。葉が擦れる音も聞こえる。
「目を開けて」
 光りが目に勢いよく射し込んできて、一瞬目が眩む。だがすぐに視界は元に戻って眼前には夏の町並みと自然が広がる。遠くで青くかすむ山。屋根の続く町。中央を分かつように川が流れている。
「気持ちいいね」
「そうだな」
 見上げた玄幽の横顔は穏やかだ。口角が僅かにあがっている。
「ほら、玄幽幸せそう。笑ってる」
 こちらまで嬉しくなって自然に頬が緩んでくる。
「そうか?」
 玄幽は口角に手を当てて自分の顔を引っ張りまわす。
「そうだよ」
「俺はこういう景色が好きなのか」
「好きなんじゃないかな? 自分で分からない?」
「一応好き嫌いはあるが、景色に対して好きだとか嫌いだとかは考えたことがなかった。当たり前に存在しているものだし、どうでもよかった」
 きっと誰でもそうだろう。前や下ばかり向いていると周りの景色に気付かない。ふと横を向いた時、空を見上げた時にあっとするのだ。こんな綺麗な景色があるのだと。同じ空が二度とないように、同じ景色は二度とない。小さな変化で気付けないことが多い。だからこそある日気付いた変化に驚くのだ。それは感動だけではないかもしれない。淋しさを感じることもあろう。
「わたしも気付けることは稀だよ。わたしはこんなのが好きなのかと驚かされる。思いもよらなかったことだと余計にね。見慣れていたものが時たま特別なものに変わることも。ものにもハレとケがあるのかな。不思議だね」
 わたしは日差しの下に戻って振り返る。玄幽は町並みから視線を外す。
「そろそろ行こう。今日はもうちょっと進んでおこうよ」
 彼は冷やかな視線で、
「配達が遅れる原因は全て灯火なんだけどな」と言った。
「うっ……。手厳しい……」
「だが事実だろう」
「それはそうなんだけどさ」
 突き放しているようにもとれるが、玄幽の言葉には温かみがあった。以前のような冷たさはなくなってきている。だから彼の文句を笑って流してしまうのだ。彼に甘えて、我儘を通してもらう。少しは気をつけなければと思いつつも、さほど嫌そうでないからこのままでもいいだろうなんて都合のいいことを考える。
 その時、町とは反対側、わたしの歩いている方向でいう右側から風がどうと吹いてきた。結わえた髪が乱れて視界の邪魔になる。葉が揺れて、蝉が一瞬鳴きやむ。数歩前を歩いていた女の子の頭に乗っていた麦藁帽子が彼女の小さな悲鳴と共に坂の方へと吹き飛んだ。空にリボンの鮮やかな赤が舞う。
 わたしは帽子を追いかけ飛び出した。腕を伸ばしてリボンの端を掴むも、結び目がゆるかったのか解けて帽子は滑空を続ける。
 だが掴んだ時に生じた力で帽子は浮力を減らし、ゆっくりと地上に落ちてゆく。
 一方飛び出した先が坂だということを忘れたわたしは着地に失敗し、バランスを崩して前のめりになる。立て直そうと足を進めるも結局追いつかず頭から落ちる。ぎゅっと目を瞑って体の動くままに任せる と、ゴツンとなにか固いものにあたる鈍い音がした。石にぶつかったのか。おそるおそる目を開けると、人を押しつぶしていた。
「ごっごめんなさい!」
 わたしはすぐさま体を起こして押しつぶしてしまった相手を見た。相手は「いたた」と言いながら頭をさすって振り返った。わたしと彼の目がぱちりと合う。背はわたしと同じくらいで年は十三、四歳くらいだろうか。睫毛の長いきれいな少年だ。
 少年はわたしの顔をじっと見つめて、
「いいよ、そんなに痛くなかったし」と頭を擦りながら言った。
「でも擦ってるってことは痛かったんでしょ? なにか冷やすものを持っていればよかったんだけど……」
「だから大丈夫だって」
 頭から手を離した。
「たんこぶとかできてない? 脳震盪とかなってない?」
 少年の頭にたんこぶができてないか触って確かめる。よかった、たんこぶはできていない。されるがままになっていた少年は「それよりさ」と呟いてわたしの手を退かす。
「たんこぶなり脳震盪が心配なのは君もでしょ?」
 そうかもしれないがこの状況は完全にわたしが悪い。怪我でもさせてしまったら一大事だ。少年はやや呆れた顔で立ちあがるとくるりと一回転してみせた。
「ほら、俺はこの通り元気だから」
「それならいいのだけど……」
「信用してないでしょ」
「そんなことないよ!」
「ならそんなに心配しなくていいから」
 少年は足元に置いてあった麦藁帽子をとると、わたしの頭に乗せた。
「君のでしょ」
「わたしのじゃないの」
 わたしはそれを頭から取ると首を横に振った。
「それを追いかけて落ちてきたんじゃないの?」
 少年は首を傾げた。
「うん、そうなんだけど」
 丁度女の子が坂を駆け下りてきた。スピードに足が追いついていないので、今にも転んでしまいそうな走り方だ。
 帽子を女の子に渡すと、彼女は喜んでお礼をして元来た道を戻っていった。
 少年は次第に小さくなる女の子の背中を見送りながら、
「あの子のだったんだね」と言った。
「そう。あの子の帽子を捕ろうとしてバランスを崩しちゃったんだ」
 いつの間に下りてきたのか玄幽がわたしの腕を掴んで立ち上がらせる。
「灯火、大丈夫なら行くぞ」
 服についた草を叩いて顔を上げると、少年と目が合った。遠慮する素振りもみせずにじっと見つめてくる淡い茶色の瞳は淹れたての紅茶のように透き通っていた。光彩がはっきり見える。少年はその眼を細めた。
「お願いがあるんだけど」
 ちょっとつんとした態度で、けれど上品な雰囲気がそれを打ち消している。
「なに?」
「絵のモデルになってほしいんだ」
 少年は視線を少しも逸らさずに言った。


 少年は絵を描くことが趣味なのだと言った。
 自然や街中の風景を描くのが好きで、暇があると家の屋根の上やこの坂の上で写生をしているそうだ。
 今日は山の風景を描くためにここに来ていたと言ってスケッチブックを見せてくれた。開いたページには描きかけの風景があった。ページをめくると町の風景や市井の人々の生活、自然などがスケッチブック一杯に描かれていた。人物画もある。一瞬の表情を切り取ったものばかりで、画中で生きているようだ。どれも鉛筆画で、色は殆どない。着色された数少ない絵も水彩絵の具で薄く塗った程度だ。
「すごいね! 将来は画家になるの?」
 最後までめくり終え、スケッチブックを閉じるとわたしは言った。
「あくまで趣味だよ」と一旦言葉を切ってから「それに」と付け加えた。
「絵を描くのは暫くできない」
「どうして? 続けられないの?」
「うちを継がなきゃいけないから」
 筋が通らない。何故家を継ぐと趣味さえ続けられなくなるのか。
 わたしが首を捻っていると、
「そういう決まりなんだ。うちでは十四歳になると家を継ぐための修行をすることになっているんだ。修行中は修行に専念しなければいけなくて自分の好きなことはできない。一族皆がこいつは後を継ぐに相応しい人物になったと認めれば大人の扱いを受け、自分の好きなこともできるようになる」と淡々と言った。
 厳しい決まりだ。わたしだったらストレスになってかえって修行期間が延びてしまいそうだ。
「難しそうだね。わたしにはきっと無理」
「僕もそうだと思う。息抜きがないなんて気が重いよ」
 少年は肩をすくませた。
「でも昔からの慣例だからね。従う他ないよ」
 少年は膝を屈めて、わたしの持っているものとはまた別のスケッチブックを拾いあげるとパラパラとページをめくった。真ん中辺りで手を止めると、一枚ページを戻して真っ白なページを出した。鉛筆を取ってちらりと顔を上げたかと思うとすぐに目を伏せてさらさらと鉛筆を動かし始めた。アタリから考えると人を描いているようだ。
 驚いたわたしは彼の手を止めようとする。
「もしかして早速描き始めてるの? わたしまだ良いって言ってないよ!」
「あ、動かないで」
 鉛筆の先をわたしに向けてちらりと視線を合わせると、また紙に目を落としてしまった。
「油を売ってないでさっさと行くぞ」
 玄幽が不機嫌そうに言った。
「勝手に人を描き始めるなんて失礼だろう。描かれたくないなら立ち去るのが早い」
 それを聞いた少年は顔色を変えた。今まで表情に大きな変化は見られなかったのに、すぐにでも泣き出してしまいそうな顔になる。
「一時間と待たせないから」
「でもわたしなんて描いて面白いもんじゃないよ……」
 可哀そうに思いつつも、顔をじっと見られるのは恥ずかしいので躊躇する。
「上手く説明できないけど……君を描きたいと思ったんだ」
「わからないよ」
 口を結ぶ。
「お願い。ぶつかって申し訳ないと思うんだったら」
 そう言われれば頷く他ない。
「わかった」
 少年は子どもらしからぬ微笑を浮かべた。
 それからわたしは彼の絵の題材になりながら色んな話をした。名前、好きなことなど、暇に任せて話していた。
 少年は名前をゆづるという。一人っ子で兄弟姉妹がほしいそうだ。家は坂のすぐ下にある大きな桜の木が生えている家だそうで、春になるとその木に登って昼寝をするのが好きらしい。
 親戚が沢山いるが彼らのことをあまり好きにはなれず、毎年一族が集まってくる時期が辛いそうだ。今もその時期にあたり、家にいるのが嫌で一日中出歩いて絵を描いている。明日が十四歳の誕生日で、理由は教えてもらえていないが修行の一環として一日部屋に押し込められて監視下に置かれるのだという。
「理由が気になるね」
「何度も聞いてみたんだけど毎回のらりくらりとかわされてしまうんだ。どうしてかな」
 ゆづるはわたしについて聞きたがった。
「灯火の家はどんな感じ? 決まりとかあった?」
「家の中とか知り合いのところでは結構自由にさせてもらってたよ。外では保護者同伴じゃなきゃ駄目だったけど」
「一人になれるところがないってこと? 辛くなかったの?」
「まあまだ子どもの時だったからね。そんなものだと思ってた」
 今は亡き家族のことを思いだして温かくなったがすぐに悲しみに心が塗り替えられた。
 両親は幼い頃に亡くなり面影すら残っていない。育ての親であった人に大きくなって写真を見せてもらったがぴんとこなかった。彼はわたしによく似ていると言っていたがわたしにはそうは思えなかった。抱かれた温もりも覚えていないのに実感がわくはずがない。その育ての親もわたしがゆづると同い年位の時に事故で亡くなり、その後の面倒をみてくれた白狐も亡くなった。全ては終わってしまった過去で、そこにあった幸せはこの世には残っていない。わたし一人おいてけぼりをくらった。淋しくて心細かった。失うのが怖かった。
 考え込んでいるうちに描き終えたようだ。ゆづるがスケッチブックを閉じた音で我に返る。
「ありがとう。一時間って言ったからね、これで止めるよ」
「いいの描けた?」
「うん。今までで一番良い出来だと思う」
 けれどゆづるはスケッチブックをひしと抱いて、人に取られないようにしてしまった。
「見せてよ」
 わたしが口をとがらすと、
「またこの町に来たら見せてあげる」と言ってスケッチブックを抱えたまま片付けにはいった。藍色で染め抜いた縞模様の麻布でできた筆箱に鉛筆や消しゴムなどをしまった。筆箱の隅には赤紫や水色の朝顔が描かれている。
「すてきだね」
「こういうの好きなの?」
「うん」
「うちに使っていないの一杯あるからもらってってよ。箱だけじゃなく巾着とか髪留めとか沢山あるんだ。死んだお婆ちゃんが好きで俺が生まれる前から孫のためにってつくってたんだけど、俺男だから女の子用が余っていて困ってるんだ。母さんが使うにしては子どもっぽいし。今日はもう行っちゃうんだろ?」
「そうだね」
「じゃあまた来た時に」
 そしてわたし達は別れた。夏まっただ中の夕方はまだ昼のようで1日が終わるような心持ちがしない。ただ気温が少し下がったのと蜩が鳴き始めたのが時間の経過を知らせていた。


 丘の上の道は崖にぶつかって大きく右に道筋を変えた。そこから坂は急勾配になった。左右は林で、林を抜けると隣町だ。一時間ゆづるに付き合っていただけでなく途中の蕎麦屋で早めの夕食をとったので、町の入口についたのは日の沈んだ頃だった。心地よい風が日中の熱を冷ましてくれる。月は屋根のすぐ上で細長い体を凭せ掛けている。星は疎らに散らばって、めいめい自分のテンポで光っている。
「存外遅くなっちゃったね。宿はあるかな」
「あいつに付き合っていたからだ。訊ね歩くしかないだろう」
 まだ町の入口だったので畑ばかりで人家はない。町の中心部の明かりが遠目でもちらちら光っているのが見えるが、この辺りは灯りがなかった。
「道は……このまままっすぐでいいんだよね」
 太陽はなくても西の空はまだ明るい。二つに分かれた道もしっかり見える。
 視界の端、数メートル先の二股がのぶつかったところにある小さな石碑の陰で何か動くものを見つけた。目を凝らしてそれを捉えようとするも、もう見つけることはできなかった。
 見間違いだったのかしらと首を傾げると玄幽が、
「なにかいるな」と言った。
「やっぱり?」
 見上げると玄幽の真紅の瞳がぎらりと光っていた。瞳の中で紅の水が波打つかのように色合いが変化していた。わたしはその瞳から目を離せなかった。美しくカットされた宝石に光を当てているような、赤色のものばかりを入れた万華鏡を覗いているようなそんな気持ちになった。
「灯火?」
 玄幽が不思議そうに視線を合わせてきた。
「玄幽の目……、すごく綺麗だね」
「そうか……?」
「うん、とっても!」
 玄幽は変な趣味だなと呟いて石に視線を向けて、話を元に戻した。
「人間や動物の類ではないだろう。おそらく俺と同種だ」
「人里に結構下りてきているんだね」
 わたしは神様以外で人里にいるあやかしに会ったことがなかった。
「昔よりは大分減ったがな。物好きもいるし。ちなみにあそこにいるのは石に憑いているのが一体いるがそいつは下りてきたとはいえない」
「石に! 今時珍しいね」
 あやかしも食事をする。人からの奉げもので食を繋いでいる神にとってどれだけ信仰を集められるかは死活問題だ。大きい神社の神なら一定の信者を保っていられるが、町の片隅にある小さな祠や石などへの信仰は薄れ易い。場合によっては奉げものがなくて死んでしまう神もいるらしい。そのため多くの神は神社を空けて食べ物を探しにいったり神社から去ってしまったりするのだと昔聞いたことがある。
「そういえば神様をやってない人達って皆どうやって食べているの?」
「山に入って自分でとっている」
「玄幽も?」
「そうだな」
 玄幽はわたしの背中を軽く押した。
「さあ、人のいないところに暗い時間帯にいるのは危ない。町もすぐそこなんだから行ってしまおう」
「うん」
 歩いていると、石の陰から話し声が聞こえてきた。一人はしわがれたお爺さんの声。もごもごしていて気弱そうである。もう一人は性別の判別できない高い声。人間に出せそうもない声色が不気味だ。
 高い声が早口で言う。
「もうすぐだな」
 お爺さんがおどおどしながら言う。
「やはりどうしてもなさるのですかな」
「勿論だ。呪いを消すことは呪った本人であるオレにもできん。仮にオレが止めにしたいと思ってもそれは到底できねえ話だ。お前さんが何度願おうともできないものはできん」
「私は止めてくれと頼んだでしょう」
 高い声はぎゃっぎゃと笑った。
「オレはあのガキに恨みゃあねえが先祖に恨みがあんのよ。オレは百二十年前当時の当主に言ってやった。『お前の血筋を九代まで呪ってやる。お前の家の長男は皆十四の誕生日で死ぬ』てな」
 十四歳の誕生日というのが気にかかる。
「八代目が死んでやっとあいつらは呪いの仕組みが分かったらしい」
「仕組みですと?」
「おっと、ガキが助かるなんて期待しちゃあいけないぜ。仕組みを知れば呪いから逃れることができなくもないが、オレがあんたを行かせることを許すわけがないだろ。まあ誰かがこの話を聞いていたら別だが聞いていたとしても誰か分かんなけりゃあ手の施しようもない」
「そ、それでメカニズムというのは……」
「どうしようもねえのに聞きたいのか? あんたも物好きだな」
 いいぜと高い声は言った。
「“水”だ」
「水ですと?」
「ああ。二代目は川で水死。三代目は毒入りの水を呑んで死亡。四代目は海で……おっと、あんた顔色が悪いぜ」
 あと数歩で石の横を通る。背筋が寒くなって横にいた玄幽の服の裾を握った。自分とは関わりないことのはずなのに身の毛がよだって声も上手く発せられない。
玄幽があいつらに関わるなと耳打ちしてきた。
「一族はガキを水に近づけさせないように部屋に閉じ込めるらしい。可哀そうな話じゃねえか、死ぬ最後の日に部屋に閉じ込められ水分が入っているかもしれねえって食べもんも食わせてもらえねえんだぜ」
「あんたの呪いのためでしょう」
「まあなあ。けど原因を作ったのはオレじゃねえ。先祖を恨むこったな」
 べちゃっと水気のあるものを叩く音がした。
「さてゆづる君の運命はいかに、てか?」
「ゆ!」
 思わず声を上げてからあっと口を押さえる。高い声が「人間がいる、人間がいる」と言って立ち上がった。暗くなってきてよく見えないが蓑を乗せたようなぼさぼさの髪にひょろ長い体をしていた。お腹が巨大な球をつけているかのように出っぱっている。玄幽が彼らとわたしの間に立って着ていた羽織の中にわたしを隠した。
「俺を人間と勘違いするなど失礼にもほどがあるぞ」
 高い声の主は急に腰が低くなった。
「これはこれはご無礼を……。今日はお食事で?」
「お前には関係ない」
「そ、それはそうですな! 失礼しました」
 玄幽は一言「煩い」と言い、わたしの肩を掴んでその場を後にした。高い声は始終へこへこしてわたし達を見送った。遠く離れてから高い声が「確かに人間がいた気がしたんだけどなあ」とぼやいていた。
 人通りの多い場所に出て、玄幽は羽織を退けた。
「大丈夫だったか?」
「うん、ごめんね。迷惑かけて」
「それが俺の役目だからな。だが灯火も気をつけろ。俺がいなかったら死んでいたかもしれないぞ」
 尤もだ。わたしは弱い上に咄嗟に判断するのが苦手だ。あの時玄幽がいなければあの場から動けず逃げることすらままならなかっただろう。
 もう安全だと思うとどっと疲れが押し寄せてきた。眠気でぼうっとしてきて、その後を覚えていない。
 

 はっと目が覚めると木目が目に入った。がばと起き上がって辺りを見渡すとどこか部屋の中のようだ。三畳の部屋で家具が何一つない。部屋の隅にわたしの荷物が壁に凭せ掛けられていた。
「へ?」
 立て付けの悪いドアを開けると、玄幽が向かいの壁によりかかってぼうっとしていた。背後の窓からさす朝日で毛先がキラキラと輝いている。太陽が昇ったばかりのようで、鳥の鳴き声がする。
「おはよう」
 彼と目が合った。昨日のような不思議な煌めきはもう瞳にはない。
「え? あ、うん、おはよう」
 わたしが事情を掴めずにいると、
「灯火が急に寝てしまったから宿を探して寝かせた。生憎部屋が一つしかとれなかったから俺は一晩ここで暇を弄んでいた」と簡潔に説明をした。
「ご、ごめんね……」
「まあ俺は一日くらい寝なくてもなんともない。あれらにあってもの凄く気を張ったんだろう。疲れるのも無理はない」
 昨晩のことを思いだして血の気が引いた。
 なんでわたしは寝てしまったのだろう。
『ゆづるくんの運命はいかに、てか?』
 名前も生まれた年月日も一緒の人なんてそうそういるはずがない。もしも本当に昨日出会ったゆづるのことをさしているのなら助けられるかもしれない。住んでいる家は桜の木がある家。大きな桜の木がある家などそうそうないはずだ。
「玄幽、お願いがあるのだけど……」
「だめだ」
 なにも言う前から反対することないじゃないか。玄幽の想像していることと違うかもしれないのに。
「まだ言ってない……」
「あの子どもを助けたいんだろ」
 図星だった。人の心が読めるのか。
 わたしが黙っていると玄幽は溜息をついた。
「灯火がそう言うことくらい俺にもわかる。灯火は何故そう他人を気にかけるんだ。赤の他人ではないか」
「赤の他人じゃない。仲良くなったもの」
 彼は「あれで仲良くなったというのか」と鼻で笑った。
 仲良くなった。少なくとも知り合いにはなった。なにが可笑しいのか。
「灯火にとってあれが仲良くなったというのだと仮に認めよう。だがそれでもだ、俺に迷惑がかかるということは忘れるなよ。俺にあのガキを助ける気はさらさらない」
 それを言われてしまったらなにも言えない。
「玄幽に迷惑がかかっているのは本当にごめんなさい。けど……、目の前で命が失われようとしているのを黙って見たくないよ」
「自分の良心が痛むからだろう? 死ぬ者はどう足掻いたって死ぬ。それをどうこうしようとするのは自己満足だ」
 いけない。目が潤んできた。確かに自己満足なのだ。わたしに人の生死を操る力はない。そんな力があれば、とうの昔に使っている。家族を死という運命から逃している。もし運命というものがあって、わたし達はそのレールから逸脱することができないとしても、それでものたうちまわって足掻かずにはいられないのだ。小さな子供が店先で両親に玩具をねだるように不様でも格好悪くても望む未来を手に入れようとするのだ。
 呪いに抗おうとあらゆる子どもを飲むも食わせもさせず一日中部屋に押し込めてまで子を生かそうとする家族の悲痛な思いをどうして見過ごせよう。
わたしの感じた無力感を、誰にも味わわせたくない。
「死ぬなんて勝手に決め付けないでよ! まだ決まったわけじゃないんだから……」
 最後まで強く言えなかったのは、死んでしまうのではないかという不安が心の中を陣取って、強い存在感を放っていたから。
 わたしは、わたしと親しくしようとしてくれた人を見捨てたくない。
 例えどんなに細くか弱い縁だとしても、切ってしまいたくない。
 失いたくないのだ。わたしは欲張りなのだろうか。
 十分ばかり視線による無言の戦いが繰り広げられた。先に視線を逸らしたのは玄幽である。斜め下を細目で見遣って、目を瞑った。
「……好きなようにすればいい」
 懐から出したおにぎりを放った。
「朝ご飯くらい食べておけ。腹が減っては軍ができぬ、だ」
 塩加減の丁度よい鮭のおにぎりはおいしかった。


 わたし達は来た道を早足で戻って町の境に出た。蝉の大合唱が響き渡る林は、昨晩とうって変わって明るい。日差しが差し込んでいる小石の転がる一本道には商売のため早朝に自宅を出た人々の姿がある。食材を担ぐ者、仕事先へ行く者。
 道は今、人の世界に属している。
 昨日のことを思いだしてごくんと唾を飲み込んだ。もし彼らにまた会ってしまったらどうしよう。人に好んで害をなす者でなければよいが、そうだとしたら知ってはいけないことを知った者と判断して襲ってくるかもしれない。玄幽に挨拶しようとしてまた現れるかもしれない。
 わたしは不安を振り払うように首を振った。
 あの子のためにも怖がってはいけない。
 わたしは足を速めた。
 例の場所を予想より早く通り過ぎた。怖々石の陰を覗いたが誰もいなかった。石は道祖神が彫られた石だった。風雨に晒されて凹凸がなくなってきていたため最初見た時はなにか分からなかったが、裏に“道祖神”という文字が彫られていて分かった。あのどちらかが道祖神だったのだろう。
「……消えたな」
 通り過ぎざまに玄幽が呟いた。
「二人とも?」
「二人ともだ。近くにはいないようだし……どこに行ったんだか」
 昨晩ここで話されていた物騒な話も、不気味な雰囲気も、まるで夢だったかのように静かだった。
「ところで灯火、行ってどうするつもりなんだ? あいつの家族は呪いのメカニズムに気付いていると言っていたではないか。灯火にできることはあるのか?」
 人一人の命が危ないということに居ても立ってもいられずにここまで来たが、別段なにかできることなど考えていなかった。ただあの子が無事であるのを確認できればよいと思っていた。彼が無事だとしても他の誰かが死んでいるかもしれないことは分かっている。でもそれはどこに住んでいるか分からない限りどうしようもない。せめて知っている“ゆづるという名の今日十四歳になる子ども”を守りたい。
「家族の人が“水”を断っているのを一先ず確認したいな。第三者の目でしか気付けないこともあるだろうし」
 彼が無事であることをただ祈るばかりである。
 ゆづるの家はすぐに見つかった。昨日会った場所から坂を下ると誰かの家の敷地に入った。墓が二基建っていてその横に昔の人の墓石だろうか、文字の読めなくなった石が寄せてあった。その傍を抜けると花壇があってそこで初老の女性が土をいじっていた。彼女にゆづるの家はどこかと訊ねると門を出て右折した先にあると教えてくれた。門から外を覗くと葉の生い茂った大きな木が見える。果たしてそれは桜の木だった。
 彼の家はこの辺りでは大きなうちらしく立派な門構えをしていた。二階建て家の隣には黒い蔵が建っている。門前ですみませんと叫ぶとすぐに返事があった。しかし門は開かない。
「どちら様でございますか?」
「灯火と申します。ゆづるくんの友達で……」
 指一本通るだけの隙間が開いた。暗い目がわたしを捉えた。大分年をとった男性の声だった。
「申し訳ありませんが今日ゆづる坊ちゃんに会うことはできません。明日いらしてくださいまし」
「火急の用でどうしてもゆづるくんに会いたいんです!」
「坊ちゃんにお伝えしたいことがあるのでしたら私が聞いてお伝えします。今日はお引き取りください」
 おじいさんは頑として応じなかった。無理にでも入ろうとすればぴしゃりと門が閉まってしまいそうだ。彼の頑なな様子がわたしの不安を募らせる。これだけは聞いておきたい。
「あの……ゆづるくんは無事で……? 水から離れさせていますか?」
 “水”という単語におじいさんの垂れた瞼が動き、門が拒むような音をたてて閉まった。返事はない。
 彼は大丈夫なのだろうか。不安で泣き出しそうになる。昨晩のあやかしの不安を描き立てる高い声が頭の中で繰り返されて身震いをした。
どうかこの世にいるゆづるが死んだりしませんように。
 齢十四歳で呪いのために死ぬなどあってはならない。彼になんの罪もない。
 わたしはその場に立ちつくした。
「男の反応をみると、恐らく昨晩の奴が言っていたのはこの家で間違いないようだな」
 呪いをかけられた家でなければ水に反応することはないはずだ。
「ここに突っ立っていてもしかたない。これからどうする?」
「どうしようか……」
 ゆづるの無事を確認したいためだけに戻ってきたわたしは、何も思いつくことができなかった。彼に会うことができれば1日傍にいることができたが、会えないとなると、何ができるのだろう。いっそ侵入してみるか。だがそれで騒ぎを起こしてしまい目を離した隙に彼が死んでしまったら、後悔で一生苦しむことになるだろう。それならば家族の方達に任せてしまったほうがいいのではないか。昨晩の彼らの話やおじいさんの様子から察すれば、恐らくゆづるは厳重な監視の下で守られているはずだ。
「出発するか?」と玄幽が訊ねた。
 それも一つの案だが、彼を後に残して出発してしまったら、きっと心残りになるだろう。
「……お団子、食べに行こう」
 わたしは胸から溢れだそうになる感情を押しとどめるためにぎゅっと目を瞑った。ひとまず落ち着かなくては、よい策も浮かぶまい。
 風は止んでいる。太陽はこの家の人達の不安などお構いなく、ぎらぎらと輝いていた。
 団子屋はゆづるの家から十数軒先の向かいにあった。昨日話をしていた時におすすめの団子屋だと教えてくれたのだ。百年前から続いている団子屋で、家が贔屓しているらしい。雀色の暖簾をくぐると腰掛け椅子が並んでいて、その向こうにカウンターがある。白髪のお婆さんが丸眼鏡をかけて読書をしていた。
 彼女はわたし達の足音に気付いて顔を上げると、会釈をして本を開いたまま横に置いた。
「いらっしゃいませ」
「“待宵草”二人前、お願いします」
 ゆづるがここに来たら頼むといいと教えてくれた品だ。
 少々お待ちをと言ってお婆さんが裏に消えた。わたし達は椅子に座って待っていた。
 十分ほど経ってお婆さんが戻ってきた。お盆の上には三本団子の乗った皿が二枚ある。丸い団子が一本あたり四つ刺さっており、上には餡子だろうか、黄色いものがかかっている。
「どちら様からの紹介で?」
「ゆづる君から教えてもらいました」
「坊ちゃんから。もしかして昨日この町にいらしたという方で?」
 お婆さんはゆづるのことを知っているらしい。さすが家全体で贔屓されているだけある。
 彼女は団子の上に粉を振りかけながら訊ねた。そうだと言うとお婆さんは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「ゆづる坊ちゃんから伺っていますよ。あんなに興奮した様子で話をする坊ちゃんは初めてでした」
「ゆづるくんはなんと?」
「それは私と坊ちゃんの秘密です。言ったら怒られてしまいますからねえ」
 ニコニコしながらカウンターから出ると、お婆さんは団子の皿を手渡した。
「どうぞ」
 わたしは1本団子をとり、一番上の団子をかじった。口の中にふわりと甘さが広がった。かかっているものが何だか分からない。餡子に何かが混ざっているようだが今までに食べたことのない餡子の味だった。その上の粉は胡麻のすり潰したものだ。甘さと胡麻の風味が合わさって、いくつ食べても飽きない味に仕上がっている。団子は上手に焼かれていて、香ばしさが新たな味わいを添えている。舌先を火傷しながらもあっという間に完食してしまった。
おいしいと素直な感想を言ってから餡について訊ねたが、中身は企業秘密だとして教えてもらえなかった。ただこれはゆづるが案を出して名付けたということは教えてくれた。
「今度は坊ちゃんと一緒にいらしてくださいね」
 わたし達は店をあとにした。
 この通りの家の多くは蔵を持っていた。白い漆喰で塗られたものや黒いもの、扠首束には家紋や火除けの模様が描かれている。大小の差こそあれ、どの家にも背の高い門や庭がある。垣根や塀のために家の中まで見て取ることはできないが、屋根の瓦が日差しを受けて目が眩むくらいにその光を反射している。家と家の間に疎らに建つ商家はどれも大きなものばかりで、何人もの人が暖簾の下を潜って出たり入ったりしている。前方の店では前掛けをした店の者らしき人が入口で客に商品を手渡して礼をした。比較的静かな通りは、いつもと変わらない日常をすごしていた。この通りの一角で、一人の子どもの命が危うくなっているなど想像もせずに。
 世は非情だ。
 わたしは世界のほんの一部しか知らない。わたしを取り巻くほんの一部しか。わたしが笑っている時に、世界では沢山の人が泣いているかもしれない。喧嘩をしたりいがみあったりしているかもしれない。そんなことを気にもとめず、感情の赴くまま、喜んだりはしゃいだりしている。一方で自分が世界で一番辛い境遇にあるような心持ちになることもある。他ではもっと声すらあげられないほど辛くて悲しい状況にある人もいるのに。いちいち気にしていたら生きていけないから、わたしは己の非情さを苦々しく思いつつも、自分の外のことは見えない振りをしている。自分の周りのことに首を突っ込むことで手一杯なのに他のことに手を出そうなどおこがましい。自分の実力を知れ、というものだ。
 そんな気にしても仕方のないことを頭の中でグルグルとかき混ぜながら毎日を過ごしている。
 考え込んでいると、玄幽が顔を覗きこんできた。いけない、なにはともあれゆづるの無事を確認することが先決だ。
もう一度ゆづるの家に行ってみよう。
どうするというあてもない。このまま去ってしまうことの口惜しさがわたしをゆづるの家へと向かわせた。
彼の家の門前で、腰の九十度も曲がったお爺さんが仏頂面で行ったり来たりしていた。彼はわたし達に気付くなりこちらに近づいた。見た目よりも健脚で、歩くペースはやや遅いもののふらつく様子もなくわたし達の前に立つと、ぎろりと三白眼で睨んできた。
「道に……迷ったんですか?」
 お爺さんは小声でそんなことがあるかと呟くと、丁寧な口調で、
「奥様がお呼びです」と言った。
「奥様?」
「ゆづる坊ちゃんのお母様でございます」
 ゆづるのお母さんがなんでわたしを呼んでいるのだろう。
「先程いらっしゃった時、中でお二人と私の話を耳にされまして、ぜひ会いたいと仰せでございました」
「じゃあ中に――」
 お爺さんは頷いた。そしてくるりと踵を返すと門の横についた、わたしでさえ屈まなければ入れないくらい小さな扉を開けた。
「ご案内致します。……くれぐれも失礼のないようにな」
 最後だけぞんざいな口調だった。


 敷地は道沿いに続く塀の長さから想像してかなり広いと想像していたものの、その広さには驚かされた。都市部や伝統的な町ではなく意匠が凝らされているとは言い難いが、それでも前栽や草木の配置は整っていて感じがよい。普段のわたしならここで褒め言葉の一つでもかけるのだが、今日はそんなことを言いだす雰囲気ではなかった。
家屋の格子戸や障子の空気の通れるところや簡単に破けてしまうところは全て板を釘で打ち付けてあって、その上からさらに開けることができないようにと隙間を板で覆っている。
敷地内はしんと静まり返りわたし達以外は誰もいない。門を潜って数十メートル右斜め前方に玄関がある。戸には流石に板を打ちつけていないが魔除けを目的にしているらしい怪しげな札が重なるように貼ってあった。見たことがない札だ。この辺りでは有名なのだろうか。
お爺さんは戸を叩いて自分であることを知らせた。ガタリと木のぶつかる音がして、戸に成人女性の目の高さに鉛筆一本ほどの隙間ができた。中から両目が覗く。
「あんたかい。遅かったね。奥様が待ちかねていらっしゃるよ」
「知るか。こいつらがいなかったのは俺のせいじゃないわい」
 間もなく戸が開いて使用人らしき五十歳後半の女性が会釈をした。彼女の着物の袖は襷あげられ、足は動き易くするためか裸足だった。
「いらっしゃい。案内するからついてきてちょうだい」
 わたし達は履物を脱いで屋敷にあがった。縁側を通ることができなかったので、沢山の部屋を通り抜けた。どの部屋も閉め切られていたため暗い。人がいる部屋といない部屋があり、人々は皆袖を捲し上げたり袴をはいたり動きやすい格好をしていた。彼女達はわたし達が部屋に入ってくるとちらりと顔をあげて、見知っている女性が前に立っていることを確認してまた顔を伏せた。皆疲れているようで、壁に寄りかかって座っている。
 十何個か部屋を通り過ぎて女性は立ち止った。襖が開かれると先程までの女性とは打って変わって着物をきっちりと着こなした女性が一人正座をしていた。四十歳前後の涼やかな顔の女性で、どこかゆづるに似ている。彼女はわたし達が入ってくるのを見て向きを変え、自分の前に座るように促した。そこには座布団が二つ置いてある。
「探していたと伺いました」
 わたしは簡単な自己紹介をしてから言った。彼女は表情を変えずに一言ええ、と言った。彼女の目元にはクマができていて、顔色も悪い。
「あなた方は息子の……ゆづるの無事を確認したいとのことでしたね」
 わたしは頷いた。
「息子は無事です。ですがまだ会わせることはできません」
 ゆづるのお母さんは襖の向こう、さらに奥の部屋を見遣った。
「どこで知ったか存じませんが、ご存じの通りこの家では先祖が受けた呪いにより本家長男が水によって早世しています。今回こそ守り抜くため、私達はゆづるを屋敷中央の部屋に隔離しています。どこから水に関係するものが出てくるか分からない。ですから人の出入りを制限しているのです。どうかご理解ください」
「では何故わたし達をここまで連れてきたのですか?」
 なんのためにわたし達を呼んだのか。
「昨日息子があなた方のことを楽しそうに話しておりましたので」
 彼女は膝の上で指を弄んでいる。
「息子は一人で過ごすことが好きな子どもでして、滅多に放課後友達と遊びに行かないばかりか学校での出来事を私達に話すことはありません。訊ねれば答えますが訊ねなければ言いません。絵を描くのが好きなのは知っていましたが、見せてくれたことはありません。とにかく自分を語らない子でした。その息子が昨日に限って声を弾ませてあなた方のことを自ら話したのです。女の子が空から降ってきたこと。その子を描いたこと。その子は遠い場所から来た子で、玄幽という人と旅をしていること。女の子について、男の人について。だからあなた方がいらしたと聞いた時、会ってみたいと思ったのです。息子があんなに興奮して話した人物とは一体どんな人達なのか」
 そこまで言うと彼女はほうと息を吐いた。
「息子は失礼なことをしたでしょう? 何歳も年上の女性にため口をきいたり、無理に絵のモデルにしたり」
「年下に見られるのはいつものことなので特に気にしませんでした。それにゆづる君はなんていうか……特別な雰囲気がありますね。お願いをきいてあげたくなるような……」
「その雰囲気のせいで我儘のきらいがありますが」
 彼女は苦笑した。
「歴代の本家長男は皆十四歳の誕生日に死んでいます。ですからその日が終わるまでは厳戒態勢を取らねばなりません。明日になったら必ず、息子の元気な姿をお目にかけましょう」
 子どもを救いたいという家族の切実な思いをどうして無下にできようか。わたしは了承した。
「明日また伺いますね」
 彼女はわたし達を門まで見送ってくれた。丁度昨日ゆづると会った時間だ。昨日はこんなことになろうとは思いもしなかった。少女の帽子がゆづるの座っていた方に飛ばなければわたし達は出会わなかった。ゆづると出会わなければここにいることもなかった。これらが偶然なのか必然なのかは分からない。けれどなにか連綿と繋がる一本の糸のように感じた。
 明日まで待つように言われたのだから今あれこれ考えても仕方あるまい。わたしはぐるぐると音をたてて訴えかけるわたしのお腹を満足させることを考えた。
「玄幽、なにか食べたいものとかある?」
「特にないが、灯火、以前町に入ったらマーライオン……だったか? それを食べたいと言っていなかったか?」
「麻婆豆腐? 言ったね。じゃあ中華料理屋さんを探そうか」
 店の暖簾が風でゆらゆらと揺れている。


 町と町の間の森や山の中では日中を有効利用しなければならない。そのため必然的に早寝早起きになる。町にいると自然遅くまで起きてしまうので朝も遅くなりがちだが、今日は日の出前に起きた。ゆづるのことが気にかかっていたせいだろう。気になってもすぐに会いに行くことはできないのに。ゆづるが無事ならばまず家族が喜びを分かち合うべきだ。もし駄目ならば、急いでも仕方ない。そう言い聞かせたがやはり気がかりで、門の前にいるだけならばいいだろうとわたしはまだ夜も明けないうちに宿を出た。
玄幽はあまり寝ないようで、わたしが起こさないようにこっそり出ようとした時に勝手に出掛けるなと小言を言って隣の部屋から出てきた。わたしの行動が視えているのだろうか。
夜明け前は夏といえども過ごしやすく、朝の澄んだ空気が心地よかった。歩いているうちに空が白んできて太陽はまだ昇ってきていないが東の空は朝の色をしていた。
門前につくとすぐさま門を叩いたが反応はない。ドキリとして何度も門を叩いたり呼んだりしていると、十分ばかりして先日のお爺さんが隣の戸から現れた。全身汗びっしょりだ。
「どうかしたんですか!」
「どうもこうもないわ。今屋敷中の板を外したり片付けで忙しいんでね、あとにしてくれねえか」
 彼は肩にかけた手拭いで顔の汗を拭った。
「ゆづるは無事なんですね!」
「当たり前だ。坊ちゃんが簡単に死んでたまるかよ」
 お爺さんはふんと鼻を鳴らした。どこか嬉しそうである。
「ということで今俺達は大忙しなんだ。後にしてくんな」
よく耳を澄ませばあちらこちらから釘を抜く音や外した板を重ねる音がする。
奥では煙がたっていて、ご飯を作っているようだ。
わたしは何か手伝えることはないかと訊ねたが、邪魔なだけだと断られてしまった。仕方ないのでわたし達は朝ご飯を食べることにした。
選んだのは路地をいくつか抜けたところにあるお店で、1階は惣菜屋、2階は下で売っている総菜にご飯と味噌汁をつけて食べられる食事処になっていた。
障子は外の景色が見えるように全て取り外されていて、露台でも食事ができるようになっている。店は朝早く仕事に出る人達がまばらに座ってご飯をかきこんでいた。
わたしは卵焼きと焼き鮭、入口でよそってもらったご飯とお味噌汁をお膳に乗せ、窓際の小さなちゃぶ台の上に置いた。2階建ての建物が多くないので、坂側にぼこぼこと建つ蔵と物見櫓の他は遮るものがない。
玄幽はわたしの前にご飯と味噌汁を乗せたお膳を置いて腰を下ろした。
本人がいいと言っているから言わないが、食事を共にするたびに少量で足りるのかと心配になる。以前頻度が違うと言っていたからそういうものなのだろうか。もしかしてわたしに合わせてくれているんじゃないだろうか。好きな料理というものがないのか、わたしが食べたいものがあるかと訊ねてもいつもなんでもいいとか灯火の好きなものでいいとか言っている。ならば昔はなにを食べていたのか訊ねると急に歯切れが悪くなってあやふやにされてしまうのが常のことだった。
「無事に誕生日を終えられてよかったね」
 玄幽はうんともすんとも言わないばかりか箸に手をつけない。何やら考え事をしているようで腕を組んでいる。
「玄幽?」
「すまない、考え事をしていた」
「考え事?」
「ああ。誕生日は終わったと言えないのではないかと思ってな」
 それはどういうことか。
「零時を一日の始まりとしているのは現代人だ。かつては日の出を一日の始まりとする考え方もある」
 ある一つの可能性に、みるみる血の気が引いた。
「まだ……警戒を解いてはいけないってこと?」
「なにを基準にしているかわからないが、念のため解かない方がいいだろう」
 ちゃぶ台に手を叩きつけて立ち上がった。急いでゆづるの家に行かなければ。一刻も早く彼らの止めなくては、万が一にも玄幽の想像が正しかったらまずいことになる。もしかしたらもう外に出ているかもしれない。太陽が昇るまであと三十分もない。
「すみません、すぐ戻ってきます!」
 入口にいた店の人に声をかけ、返事も聞かずに階段を駆け降りた。幸い店からゆづるの家までは歩いても十分と掛からない。近い店を選んで本当によかった。総菜を吟味しているお客さんの間を謝りながらすり抜け、道を歩く人に危ないとどやされても構わず、門に辿りついた。普段走らないのであっという間に息が上がってしまった。ドンドンと門を叩いても返事がない。大人しく待っているのはじれったくて、脇の戸を引いてみると鍵がかかっていなかった。これ幸いと戸を潜りぬけ、丁度対応しようと門に向っていたお爺さんの肩を掴んだ。
「い、一体どうしたんだ?」
「まだ駄目なんです! ゆづるを外に出しちゃ駄目!」
「意味が分からねえよ! 坊ちゃんがどうしたっていうんだい! ちゃんと筋道をたてて話したらどうだ!」
 追いついてきた玄幽がお爺さんからわたしを引き離すと、頭が一杯々々になっているわたしに変わって彼の考えを述べた。お爺さんも血相を変える。
「そろそろ坊ちゃんが起きる頃だ。昨日屋敷から出してもらえなかったらきっとすぐに外に出られるだろう。顔も洗うだろうし飯も食うだろうし……まずいな」
 お爺さんはすたすたと、恐らく彼の全速力で歩いた。わたしもべそをかきながらそれについていく。
「ゆづるは、ゆづるは大丈夫でしょうか」
「あんたは暫く黙ってくれ」
 なるべく早く足を動かすことに全神経を使っているようである。
彼は自分の全速力の限界に気付いて、近くで釘を集めていた人にゆづるに部屋から出ないように伝えることを頼んだ。
その人はなにがなんだか理解できていないようだったが、わたし達の緊迫した様子に押されて草履を脱ぎ棄てて縁側から屋敷に入ってすぐに襖の陰に消えた。部屋の分からないわたしはお爺さんと一緒に玄関から入り、昨日奥さんと話した部屋で、ゆづるのところから戻ってきた人と行き合った。
説明不足で理由を知らなかったその人は、「坊ちゃんは部屋で大人しく外の景色を眺めているから問題ないです」と言ってお爺さんに「馬鹿者!」と怒鳴られてしまい、また部屋へ走ることになった。わたしもその後を追った。
二部屋先の部屋の襖を勢いよく開けると、ゆづるが開け放しになったいくつもの部屋の向こうの景色を、手をぶらぶらとさせながら眺めていた。膝にはスケッチブックが乗っている。空は明るくなっているにも拘わらず、脇の坂のために屋根の他蔵の壁殆どが濃い影に覆われていて真っ暗だった。何事かと振り返った彼は、わたしの顔を見て立ち上がった。
「灯火! なんでここにいるの?」
 生きていてよかった。今朝からの不安や緊張が解れ、目頭が熱くなる。生きているという安心が心中の危機感を全て流し去ってしまった。
 スケッチブックを脇に挟んで、ゆづるはわたしの手を引く。
「それより見てよ! 金が有り余っていたのか、先祖が作った面白い仕掛けがあるんだ! 一見何の変哲もない蔵だけど、ほんの僅かな間だけすてきことが起こるんだ」
「面白い仕掛け?」
「蔵に家紋があるだろ? 毎朝決まった時間に中に入っているカラクリが動いて家紋から文字に――」
 薄日でぼんやりと見えるようになった蔵の壁上部に付けられた模様に目を凝らした時、わたしはしまったと思った。
血の気が引いて頭の中が真っ白になった。
何故今の今まで気付けなかったのだろう。昨日一昨日と何度も蔵を見たというのに。
人が見たら何故それでと笑うかもしれない。だがそれが真実であることを覆すことはわたしにはどうしてもできなかった。
古い書物にこんな話がある。
ある子どもが水を見ると死んでしまうという運命にあった。家族は蔵に子供を隠すが、次の日子どもは“水”と書いた掛け軸の傍で死んでいた。
 どうして――
 これを定めというのだろうか、目の前に突き付けられた事実は余りにも残酷だった。
 歯を食いしばり、わたしは掴まれた腕をこちら側に引いた。彼が蔵に飾られているものを見ないようもう片方の手を彼の頭に伸ばした。どうか間に合いますように。それは一縷の希望というよりも僅かな希望だった。しかしそれに縋るしかなかった。万分の一だとしても希望があるのならば万分の一の可能性を信じたかった。
 だが運命はわたしを嘲笑う。
 掴んでいた手は解かれ、伸ばした手は空を掴んだ。
 ガタンッと仕掛けが動きだす音がした。
 ゆづるは蔵を見て指差した。
「ほら!」
 家紋がひっくり返り裏側にあったある文字が現われる。それは防火のまじないとして蔵によくあるものだ。
輪の中に“水”の文字。
丁度山際を越えた太陽が模様を照らした。日が昇った。
全ての時が止まってしまったような、無音が広がる。
 それを切り裂くかのように、頭の中で昨夜のあやかしの、気味の悪い甲高い笑い声が響いた。
「ゆ…」
 どうかどうか死なないで! お願いだから!

 わたしがそれに気付いてからの時間は、三十秒にも満たなかっただろう。だが時の流れが遅くなったように感じた。ゆづるは無邪気な表情のままふわりと前に倒れた。体が床を打つ鈍い音が一際大きく耳に響いた。脇に挟んでいたスケッチブックが床に落ちてぱらぱらとページが捲れた。お爺さんがゆづるの名を繰り返し叫びながら抱き起した。
 はらはらと零れるのに任せて涙を零しながら、わたしはその場に立ちつくしていた。苦しむことは一切なく、まるで眠りについたかのようにふわりと倒れたので、彼はただ意識を失っているのだけではないかとしか思えなかった。だが頭ではゆづるが死んでしまったことを確信していて、その証拠にこうして涙がとめどなく流れている。
 背後で玄幽が小さい声でわたしの名を呼んだ。
「ねえ玄幽」
「なんだ」
「ゆづるは、死んでしまったの?」
「……死んだ」
 “死んだ”その一言でどっと涙が溢れ出てきた。目の前で誰かが死ぬのは、何度見ても辛い。
なんで早く蔵の模様に気付けなかったんだろう。
あの時もうちょっと早く腕を伸ばしていたらゆづるを止められたかもしれない。
ああしていたらこうしていたらという後悔の念ばかりが頭を過って呼吸が苦しくなる。結局わたしは誰も助けることができなかった。ゆづるだけではない。蛇に取り憑かれてしまった女の人やその旦那さんも。命だけは助けられたけれど、二人の未来までは救えなかった。助けようとしても、助かることを祈っても、誰ひとり助けられていない。わたしは無力で、誰かに助けてもらってばかりだ。
「なんで……こうなっちゃうのかなあ…………」
 自分が駄目過ぎて笑えてくる。自分でどうにかするとか言っていても、自分一人の力ではどうしようもないことがあまりに多い。
 人が次第に増えてきた。奥さんがゆづるに駆け寄った。まさかこんなことになろうとは誰が想像しようか。誕生日というのが夜中の零時から翌日の零時までではなく日の出から翌日の日の出までで、それを知らなかったために我が子をみすみす死なせてしまったなど誰に言えようか。もしわたし達の運命を握っている誰かがいるとしたら、その人につまらないなぞなぞを言われたようなものだ。その人はきっとどこかで一人笑い転げているのだろう。
 屋敷が騒がしくなってきたので、わたし達は退散することにした。かける言葉が見つからなくて、なにも言わずに屋敷を後にした。一昨日歩いた坂の上の道をとぼとぼと歩いて、隣町の宿に泊まった。自分のベッドに寝転ぶと、ご飯も食べず風呂にも入らず服も替えず泥のように眠った。
 真夜中に部屋のドアが叩かれた。
嫌な夢を見ていたわたしは、まだ半ば夢心地でドアを開いた。宿の主人の女性は寝巻姿だった。
「……なんでしょう」
「使いの人が来て、これをお客様に渡すようにと」
 受け取ったのは画用紙を何枚も重ねて四つ折りにしたものだった。
誰からですかと訊ねたが、返ってきたのは知らない名字だった。
そもそもわたしが今ここにいることを誰が知っていたのだろう。
ベッドに腰掛けると、備え付けのランプを点けた。ぽうと橙色の光が部屋を照らし、わたしの影が壁に大きく映し出された。ランプの傍に寄って画用紙を開く。
 あ……。
 そこにはわたしが描かれていた。怒ったり笑ったり困ったり。色々な表情で、様々な角度から僅かな変化さえ区別されて描かれていた。
「なにこれ……変な顔……。これは美化しすぎだよ……」
 視界がぼやけるので、何度も目を擦らなければならなかった。
 わたしは一番上の紙をベッドに置き、次の紙を上に重ねて順々に見ていった。最後の一枚にさしかかった時、画用紙の端に小さな文字で書かれた文章を見つけた。ランプを近付けて目を凝らさないと判読できないほど小さな文字だ。

『灯火に次に会った時に、絵を見せる。団子を一緒に食べる』

 あるはずだった未来がそこにあった。
 ゆづるの未来が確かにあった。
 わたしは天井を見上げた。橙色の灯りが天井に映っている。
 一緒に団子を食べようと約束したじゃない。
 おすすめの場所を教えてくれると言ったじゃない。
 言っても仕方がないことは重々承知だ。誰を責めても甲斐のないことも。ただ言わずにはいられなかった。窓の外に目を遣ると、僅かな月明かりの下、黄色い花が咲いていた。
 待宵草。
 すくと伸びた茎の先で静かに咲いている花は朝には萎んでしまうのだろう。
 わたしは儚い花の名をつけられた甘い団子の味と、名付けた少年に思いを馳せた。
 ランプの灯はちらちらと燃えている。


第五章 芋名月

「ようこそいらっしゃいました」
 何十、何百もの赤い鳥居でできた道を抜けると、その先で一人の女が立っていた。色が白いので細く引き締まった唇の紅さが目につく。どこか笑っているような細い目。鳥子色の地に鮮やかな橙色で紅葉(もみじ)が描かれた着物を着、束髪を結っている。
 女の後ろには山中にしては大きな集落と、それを周りから隠すように聳える山々があった。山は斑に色が塗られていて、ひと足早い秋の訪れを知らせている。
「お久しぶりね、灯火(とうか)ちゃん」と女は親しげに言った。
 一方の灯火は誰だか分からないようで、目を瞬かせている。
「分からないのも当然だわ。まだあなたは子どもだったのだから」
 女は華麗に着物の裾を捌いて背を向けると、頭だけ振り返った。
「ご案内しますわ。自己紹介は道中でいたすことにしましょう」
 数日前の夕暮れ時、俺達が泊まろうとしていた宿に一通の手紙が届いていた。
どこの誰だか分からない男の子がそれを届けて来たそうだ。この手紙というのが今はもう使われていない古い形で、差出人の名前はなく、ただ宛名に“灯火殿”と書かれていた。手紙を預かることはよくあることだったのでよく確認せずに手紙の山に載せたが、ふと思い出して手にとってみて、改めてその手紙の特殊性に首を傾げた。悪戯だったのか。包みを開こうとしたが糊付けされていないのにどうにも開かない。気味が悪くなって捨ててしまおうとした時、俺達がやって来たのだった。芳名帳に記名された灯火の名に従業員は驚いた。悪戯ではなかったのだ。
そのような話と共に、俺達は手紙を受け取った。従業員は気付いていなかったが、俺達は宛名の字を見てはっと顔を見合わせた。狐特有の細くてはね気味の字。手続きを済ませ灯火の部屋に集まると、手紙を開いた。折り目は難なく伸ばされた。
『拝啓 初秋の候いかがお過ごしでしょうか。
灯火殿が毎日無事に言伝えの役割を果たしていること、私も嬉しく存じます。
 さて、私は先日風の噂で貴女様が近くを通ると伺いました。つきましては中秋の名月の日に行われますお浚い会を観に来て頂きたくお手紙を差し上げました。会終了後に行われます観月会にもぜひご参加下さいませ。』
 以下日付と場所を書いた地図、署名、宛名が書かれていた。
 灯火は自分の持っている地図と場所を照らし合わせてみた。現在位置から目的地までの道筋をなぞることを二度繰り返した。
「この村、結構前に廃村しているよ」
「人がいなくなった村に狐達が住んでいるんじゃないか」
 灯火は狐達と仲がよい。小さい頃に世話になっていた者の一人が地元の神社の狐だったと以前言っていたから、恐らく幼いころから狐達と親交があったのだろう。そういえば、爺さんのところに来た時も子狐と仲良くなっていた。
「どうする?」
「興味はあるけど……」
 遠慮しがちに言葉を濁した。灯火らしくもない。
 俺は間髪入れずに、
「なら行こう」と決定した。
 狐達がどのような生活をしているのか見てみたい。
「でも遠まわりになるし、あまり道草しちゃいけないよね」
「俺も行ってみたいと思っていたから問題ない」
 輝いた灯火の瞳は綺麗だった。
 目的地は現在いる場所から徒歩で半日もかからず行ける場所にあったので数日この村に逗留し、当日の早朝宿を出た。消えかかった道を歩き、峠を越え、現在に至る。
 女はかつて修行のため、灯火が世話になった狐のいた神社に暫くの間逗留していたそうだ。そこで子どもの頃の灯火にも会っていたと話した。一緒に境内を駆けまわったり、ごっこ遊びに興じたり。
「自分が化けられないからってわんわん泣いていたのが昨日のようだわ」
「そんなことありました?」
「ええ。銀嶺様に化け方を教えてとせがんで困らせていたわ。できるようにさせてあげたくてもなんだって人間だからねえ。私達のようにはいかないわ」
眩しそうに目を細めて、
「どうしても化けられるようになりたくて、修行に参加したこともあったわね。若いのが面白がって人の子には危ないことをやらせようとして、こっぴどく叱られていたのを覚えているわ」
 二人は昔話に花を咲かせる。狐火を境内に散らばせて、沢山集めた方が勝ちという遊びがいっとう流行ったとかあの年の祭はどうだったかという懐古から、果てはあの狐に近頃孫が産まれたとかあそこの店がつぶれてしまったとかいう世間話まで、話は尽きない。
 急な下り坂が終わったところからぽつりぽつりと家が建ち始めた。みな木造の茅葺屋根だ。通ってきた町や村の屋根の多くは瓦か、板葺きだった。他のものに隠れて僅かに建っているということはあったが、このように全部が全部茅葺というのも珍しい。屋根が皆茅葺だと俺が言うと、廃村した当時の家をそのまま利用しているのだろうと灯火が教えてくれた。
 道筋にある家の戸が三寸ばかり開いた。突き出た鼻がこちらを向いた。丸い手に細い目、狐である。
 女がごきげんようと言うと、知っている者がいると分かって安心したのか、ひょっこりと顔を戸から出した。
「ごきげんよう! お浚い会に行くの?」
 着ている服の袖の蓬色が、隙間からちらりと揺れてみえる。
「ええ」
「そちらは?」
「この前話した子よ。灯火ちゃん。もう一人が灯火ちゃんのツレの玄幽(げんゆう)様」
 狐は一度顔を家の中にしまうと、下駄をつっかけて外に出てきた。縞の小袖に秋草を描いた帯を締めている。
「かねてからお噂は伺っております。どうぞ、村での一時を楽しんでってくださいな」
腰を折ると顔を上げて、癖なのか、ちょっと首を傾けながらそいつは言った。
女は顔が知れているようで、女を見ると皆が声をかけた。人間である灯火や部外者の俺がいても全く気にする素振りを見せない。我々が仲間ではないと気付いていないのだろうか。
村にいるのは皆狐のようだが、姿は一定しない。先程の蓬色の着物を着た狐のように姿形は狐のままの者もあれば、一見すると人間のようだが、尻尾や足先など体の一部狐の特徴のままの者もいる。感じ取る気配が違うから人でないことはすぐ分かるが、見た目だけでは人間と区別できない者もいる。俺達を先導する女がそのタイプだ。
洗濯物をとりこんだり赤ん坊をあやしたり、人間の村と何ら変わりのない生活。
俺のいたところの狐達もきっとこんな生活を営んでいるのだろう。
村の中心まで来ると一際賑やかになって、そんじょそこら人間の村より活気に溢れている。
中心部を歩いていると目につくのは鳥居。鮮やかな紅の鳥居があちらこちらに建っている。どれも一つだけでなく少なくとも三、四基。多いと何十基もある。子らが路地でビー玉大の狐火を出してじゃれている。
軒先に並んでいる品は魚や野菜と様々なものがあるが、特に油揚げが多いように思われる。
よく言えば気さくな、悪く言えば馴れ馴れしい者ばかりで度々話しかけられた。
女は一際大きな鳥居の前で立ち止まった。鳥居の向こうでなにやら楽しそうな調べが聞こえてくる。三味線と鼓のようだ。笛の音もある、歌声も聞こえる。
「こちらですわ」
 杉に挟まれた参道は木陰になって薄暗い。道の中央に枝葉の隙間から漏れた陽光の筋ができていて、それは本殿まで真っ直ぐに伸びている。葉と葉が触れ合う音が心地よく耳を抜ける。
 ツン、チン、ツン。
 なにかを叩く軽快な音。
ツン、ドツツン。
繰り返される音に鼓が合わさる。深緑色の簾の向こうに、舞台が見えた。引き上げられた幕の向こうで、何者かが拍子をとっている。白粉を顔や手足に塗りたくった狐が、鎚のようなものを握っている。その隣では人間の男が真剣な面持ちでじっと下を睨んでいる。
彼らの後ろでは三味線が弾かれ、鼓が叩かれている。笛の音、唄い。彼らは皆紋付袴で澄ました顔をしている。
 俺達は観客が座る茣蓙の一番後ろを陣取った。
 灯火が女の耳に手を添えて、
「これって“小鍛冶”ですか?」と小声で訊ねた。
 女は嬉しそうに頷いた。
「“小鍛冶”よ。能や歌舞伎の小鍛冶と筋書きは一緒だけれど衣装や台詞などは私達独自のものなの。うちのお浚い会は同じ演目を異なる芸能でやるのだけれど、能や歌舞伎の前にまず、私達の狐に伝わる形で演目をやるのが決まりなの。これに出られるのは特に上手い者だけだから、出られるということはとても名誉なことなのよ」
「小鍛冶? なんだそれは」
 舞台では刀が完成したところである。男が刀を天へ掲げている。日の光に輝いている。波紋が空気の中を波打って、切っ先が一番星のように煌めく。
 刀鍛冶の宗近が、伏見稲荷の神の力を借りて名刀「小狐丸」を作る物語だそうだ。
灯火に解説を受けているうちに次の演目が始まった。
衣装や化粧の異なる男が下手からのしのしと現れる。
うららかな日差しが注ぐも、山から吹き下りてくる風は冷たい。風が木を揺らす音で役者の声も途切れがちになる。舞台に飽きて背後の空いた場所で遊んでいた子供らが、鬼灯を吹いて遊んでいる。どこというわけでもなく建てられた人の背ほどの鳥居は、子供の格好の遊び場だ。うねうねと鳥居の間を縫って子供らは走り回る。
 次は狐葛の葉と安倍保名の物語。その他人間に捕らえられるが知恵の限りを尽くして逃げる話、人間をばかす話などがあれば叶わぬ恋の物語もあった。灯火は場面のたびにころころと表情が変わって大変そうである。
日が暮れても舞台は続く。
 僅かに薄色を山際に残して太陽は沈んだ。鳥の黒い影が魚鱗の陣になって山へ進んでいく。闇に包まれようとする東側では、満月がぽっかりと浮かんでいる。
 舞台の左右に神職らしき者によって篝火がつけられた。赤々と燃える火は舞台や我々の顔に濃い影を落とした。三方を囲む幕に映る炎の揺らめきが、目に見えない存在を映しているようだ。
 最後は巫の言祝きで締め括られた。
 辺りはもう真っ暗だったが、観客の出したいくつもの狐火が頭上でちらちら燃えている。篝火のぱちぱちという音、木の擦れる音。あちらこちらで狐達が舞台の批評をし合っている。
 女が体を前へ傾け、こちらを向いた。
「観月会の会場へ参りましょう」
 観月会はお浚い会の主催者宅で行われた。門前には左右に二つ、赤い提灯が掲げられていた。提灯には黒字で紋が描かれている。玄関で主人と挨拶を交わし、俺達は客座についた。膳には旬のものが沢山使われていた。どれも人間が食べるような調理が施されている。栗ご飯に里芋の味噌汁。鮎の塩焼き、白和え、茄子の炒め物。主催者の祝辞が終わると、宴会は始まった。
「ささ、お客人も一杯」
 既に顔が真っ赤になった男が大人の顔ほどの大きさの杯を小脇に挟んでやってきた。もう片方の腕で瓶子を抱えている。
 俺が杯の大きさに戸惑っているうちに、灯火は男から杯を貰って酒を注いでもらっていた。しかもその量が半端ではない。二、三升はあるのではないだろうか。
「大丈夫なのか?」
「平気平気! お酒強いもの!」
「それにしたって……」
「お! お嬢さんいける口だねえ! こりゃあにいさんも負けてられねえなあ!」
 男は俺の膝の上にぼんと杯を置くと、瓶子の残りをなみなみと杯に注いだ。空になると背後の席から瓶子をふんだくった。縁まで残り四分。俺が止めなければ溢れていたのではないだろうか。その量に唖然として横を見遣ると、ちびちびであるが平気な顔をして灯火は杯の中身を飲んでいた。
「よく平気だな」
「わたしが住んでいたところでも宴会になるとこんな感じだったからね。さすがにいっき飲みはできないけど、マイペースに飲んでいていいのなら大丈夫」
 ほんのり頬を染めて灯火は言った。
「両手で持たなければいけないほどでかい杯に、まるで水のようにたっぷり入れるなんて無粋じゃないか?」
 彼女は苦笑して小さく頷いた。
「でも折角だしこの状況を楽しもうよ。皆悪気があってやっているわけじゃないんだし。こういうのもたまにはあっていいんじゃないかな」
 成程、とり方の問題か。嫌だと思っていると思っている以上にその気持ちが増幅していってしまう。灯火と行動を共にすることになったばかりの頃も似たような悪循環に陥っていた。気持ちを切り替えれば、見方を変えれば、素晴らしいものがあるのに、否定的な感情に呑まれてしまっていた。
杯を持ち上げてみる。内側に一匹の白い魚が描かれている。銀箔で泡が表現されていてさながら泳いでいるようだ。なかなかいい。
 向かいが騒がしいと思ったら先程の男が皆に囃されて持っていた瓶子でいっき飲みをしていた。立っている者は皆千鳥足で、ただもう笑っていること自体が可笑しいかのようにげらげらと笑っている。
爺さんが鼓をとってきてポンと打った。それに合わせて酔っぱらいが謡いだした。最初は各々好きなものを謡っているのだが、謡っている者の数が多いものに次第に統一されていった。節はてんで駄目で、もはや唄になっていない者もあるが、彼らが合わさるとなんとなしに一つの曲になっているような感じがする。
若い者は酔いが回るにしたがって化けの皮が剥がれている。上半身だけ元の姿に戻っていたり、顔だけ戻っていたりする。下手に化けるより不気味かもしれない。様々に化けた姿は、浮かれた百鬼夜行のようだ。皆好きなように滑稽な踊りをする。それらがどうにも可笑しくて、つい吹きだしてしまった。吹きだしてから口を覆う。
俺としたことが、こんな阿呆らしいことで笑うなんて。
今の姿を灯火に見られてやしないだろうかと確認すると、案の定見られてしまっていた。
「楽しいね」
 灯火は熱くなった顔を冷ましているのだろうか、両手を頬にあてながら言った。
「ああ……そうだな」
恥ずかしい。
だが何故恥ずかしいと思うのだろう。見られた如きどうだっていうのだ。
「酔った?」
「俺は酔わない」
 人間と体の構造が違うのだから酔うはずがない。
 玄幽は全く酔わないの、と乗り出すように訊ねられたので、俺は頷いた。灯火はちょっと考える風で元のように座ると、
「辛いね」
ぽつりと呟いた。
 辛いとはどういう意味か。何故酔わないことが辛いことなのだろうか。むしろ醜態を晒さずに済むからよいことではないのか。
 だがその疑問は口に出す前に遮られてしまった。
「声がする」と言って灯火が耳を澄ませたためである。
 座敷のお祭り騒ぎで聞きとりづらいが間違いない。子供が声を合わせてなにか歌を歌っている。
「“芋盗み”ですわ」
 紅葉の着物の女が俺達の前に膝をついた。手には菓子と急須、湯呑みの乗った盆。
「ここらでは芋名月――十五夜に子供達が二組に分かれ家を回って祀られた芋を盗むという行事があるんです。盗まれる方も沢山盗まれた方がよいといわれていますの」
 給仕が酔っぱらっててんで仕事にならないから代わりに持ってきたと、花林糖とお茶を出しながら言った。灯火は身を乗り出して女の話に耳を傾けた。
「十五夜には他になにかするんですか?」 
 湯呑みにお茶を注ぎながら、
「あとは竿の上部に短い竿を十字になるように縄でとめて、その先に里芋を刺したものを軒先に飾りますわ」
 女が空を指差した。雲が満月の前を急ぎ足で走り抜けてゆく。
「お月様に捧げるという意味があるようです」
「文献で読んだことがあるんですが、そこでは現在は行われていないと書いてありました」
「私達のような者の方が古い習慣を残していますからね」
 盆を脇に置いて花林糖を一つ摘まむと女は口に放った。ぼりぼりと音がする。
「興味があるなら参加してみますか? 年齢制限がありますが、まあお客様ならいいでしょう」
「ぜひ!」


 植え込みの陰、庭の隅で俺は子狐に囲まれてじっと身を潜めていた。
 目の前にある家は明かりがついているがしんとしている。縁側には花瓶に挿さった薄と平皿の上で積み重ねられた団子と里芋。ここは長の家で、一番多くの芋と団子を祀っている。他の家では外に出すのは五、六つ、せいぜい十個だが、この家は芋と団子を合わせて五十個ほど祀っている。故にこの家の芋を盗めれば劣勢の組は逆転の、優勢の組は差をつけることができる。
今俺のいる白組は灯火のいる赤組よりやや盗んだ数が多く優勢だった。
俺達がいる所とは反対側、家の陰に赤組はいる。赤組と白組が互いを窺い合って二十分は経過していた。
「おい、げんゆー。お前の力で敵を撒けないのかよー」
 待つのに飽きた一匹の子狐が訊ねた。
「術は使ってはいけない決まりなんだろう」
「どうせできないんだろ」
 油を絞られることを恐れぬ態度である。一度、干からびた油揚げのようになればよい。
 子狐を摘まみ上げる。逃げようと暴れていて反省する気はないようだ。
「お前、何様のつもりだ」
 子狐は胸を張ってフンと鼻を鳴らす。
「お狐様だい!」
 すると周りにいた奴らもくすくすと笑いだした。なんだか苛立ったのが馬鹿らしくなってきた。「そうか」と適当に相槌を打って、子狐を生垣の外に放った。
「痛いぞ! バカ!」
 子狐が生垣の向こうで騒ぎ立てる。
「それくらいで済んで幸せだと思え、阿呆」
「なにい! アホっていう奴がアホなんだぞ! このすっとこどっこい!」
「……お前自分の言っている言葉を理解しているのか?」
 阿呆と言う奴が阿呆と言ったくせに。
 年長者らしき子狐が静かにしてと苦言を呈した。
「他の組に僕達の動きがばれちゃうだろ。で、他の奴らの動きは?」
「先程何匹か屋根に登って何匹かはどこかへ出ていったな。他はそのままだ」
「これ以上待っても仕方ない。他も回らないと他の奴らに取られちゃうから行くよ」
 子狐達が頷きあった。
「動きは相談した通りに。行くよ!」
 横に広がって二列になると、前列の狐が走り出した。縁側との距離が半分に縮まると後列の狐も後に続く。どこか一部に攻撃がきても手の空いている者が捕りに行き、前列の奴らが敵と鉢合わせても後列がその隙に取るという作戦だ。
俺と最年長の子狐は動かずに辺りの様子を窺う。
「もらった!」
一匹の狐が芋を取ろうとして手を伸ばした時、庭を覆うような大きな網が頭上から降ってきた。
「なんだよこれ!」
 慌てれば慌てるほど網から出られないでいる。一方俺はといえば図体がでかいために出るのに苦労する。
「へへん、頭上まで注意を払わなかったのがいけなかったな」
 屋根の上には数匹の子狐。残りの狐もしめしめと笑いながら屋根の上に飛び乗った。灯火の姿も見える。屋根の上の狐達はくるりと一回転して着地をするとさっさと籠に団子と芋を移して屋根に飛び乗った。
「じゃあな!」
「ばいばい!」
 灯火もけらけらと屋根の上で笑う。
「とーかの案、上手くいったね!」
「でしょ!」
 灯火と赤組の狐達は網に苦戦する俺達を置いてさっそうと家を後にした。
 赤組が歌う芋盗みの歌が聞こえる。白組の狐達はその戦勝歌にも聞こえる歌声を聞きながら、歯を食いしばっていた。
ぽっかり浮かぶ満月が、空からその様子を見守っている。


 負けた組に待っているのは、勝った組による罰ゲームだ。墨や化粧道具で落書きされた顔で一晩過ごさなければならない。
 席に戻って酒を飲んでいると、灯火が墨のついた筆を持ってにじり寄った。
「俺にもやるのか?」
 まさかと思っていたが本当に実行するつもりらしい。
 灯火はにやりとして、
「もちろん!」と言うと返事を待たずに両目の周りに円を描いた。
 次々と子狐が来ては落書きや化粧を施してうちへ帰っていく。
白粉、紅、墨、絵具。
 一通り回り終えてその様子を横で見ていた灯火は、最初は必死に笑いを堪えていたがしまいには我慢することを止めて一人で爆笑していた。
「……そんなに変な顔か」
「とっても」
 紅葉柄の着物を着た女がお茶をつぎに来ると、俺の顔を見るなりぷっと吹き出した。
「失礼いたしましたわ」
 女は込み上げる笑いを押さえるために口を引きつらせている。
「いかがでしたか、芋盗みは」
「面白かったです!」
「酷い目に遭った」
「でしょうね」と言って女は鏡を差し出した。
 鏡に映る俺の顔は見るに耐えない有様であった。頬には絵具で渦巻きや髭、瞼や鼻の下には毛らしきものが描き足されている。飛んだ絵の具が髪や服に付いて色彩豊かだ。
「……ひどいな」
「ですがこういう日があるのも悪くないでしょう?」
 まじまじと見つめていると自分の顔ながら可笑しくなってきた。
「悪くもないかもな」
 どんちゃん騒ぎは暁まで続いた。俺達は次の日になる頃にお暇をし、女の家の空き部屋で休ませてもらった。部屋からでも楽しげな声は遠くながら聞こえてくる。酔っぱらい共の歌を子守唄にして暫しの休息をとる。


 翌日。太陽が昇りきった頃俺達は女の家を出た。
 道々で酔いつぶれた狐達を尻目に俺達は村の境へと歩く。酔った狐達は皆気持ち悪そうに家の庭や道に寝転がって唸っているが、時々寝ぼけまなこで歌っている者や気持ちよさそうに寝ている者もいた。
「はしたないこと」
 先頭を歩く女は嘔吐を避けながら、道に転がっている酔っぱらいに冷たい視線を送る。
 今でも耳には昨晩の唄や鼓の音が残っている。
 行きに出会った蓬色の着物を着た狐が恥ずかしそうに家の門の陰から手を振った。
 家がなくなって坂にさしかかる。坂の上には幾本もの赤い鳥居。
 華麗な裾さばきで、女は振り返った。
「こちらに立ち寄ることがありましたら、いつでもいらしてくださいね。村人一同心よりお待ちしております」
「はい!」
 坂の左右は一面青緑色の原が広がっている。遠くに薄が群生している。遮るもののない原っぱに、青空に伸び伸びと浮かぶ積雲の影が落ちる。
「楽しかったです」
「また会えるのを楽しみにしておりますわ。お達者で」
 女に見送られながら俺達は鳥居を潜った。


第六章 海松茶

 海からほど近い場所に松林があった。数十メートルにも及ぶ黒味がかった幹の松が鬱蒼と茂っている。浦から吹く風が木々の隙間を駆け抜け、去っていく。風の足音が林に響く。夕暮れ時の曇天の下では松が生い茂った林はひどく暗かった。鈴虫がちらほら鳴いている。
 そんな松林を、わたし達は歩いていた。
「なかなか林を抜けないな」
 玄幽(げんゆう)が感情のこもらない声で呟いた。さりとて不満というわけでもなく、ただ現状を率直に述べたようなもの言いだった。
 わたし達は街道に出る近道としてこの松林に入り、三時間程歩き続けている。
「うーん、もうすぐ出ると思うんだけど……」
 地図を広げたまま小首を傾げた。地図では松林の上に括弧でくくって“一時間”と書いてあった。林を抜けたところに太い道路がちょうど林道を断ち切るように伸びていた。道路に出て北へ四キロ行った先に小さな宿場がある。
 どうして街道に出ないのだろう。
 見上げるとうっすらと桃色がかっていた空は既にその色を失い、暗さの増した雲があるだけだった。
「道に迷ったわけではないよな」
 玄幽が上から地図を覗き込む。暫く黙ったあと「そうだな」と頷いた。
「宿場に着いたら今日はそこで泊ろうと思ってたんだけど……。暗くなる前に着くかな」
 宿場まで街道に出てから歩いて一時間はかかる。すぐに松林を抜けることができれば宿場まで着くまでに暗くはなっているだろうが闇夜を歩けない時間ではない。けれど松林を抜けるのに時間がかかれば街道を歩くのは危ない。どこか適当な場所に野宿になるだろう。
何故ならここ一帯は宿場こそあれ、その周りはなにもなくただ街道とは名ばかりの太いだけの道、それを囲むだだっ広い原、所々に群生する松林しかないからだ。
昔は街道の往来も多く、間を置いて茶屋や軽食屋があったというが、今はその面影はなく小さな宿場がかつての活気を生きた化石のように残しているのみである。
 りんりんりーん。
 風は夕方になるとぐっと秋めいて、冷やかな夜風が着物の隙間から入り込み、わたしはぶるりと体を震わせた。立ち止って上着を羽織る。
「寒くなったねえ」
「本格的に秋なっているからな」
下草は枯れ葉色に変わっていた。
「もうすぐ栗名月だね」
 旧暦九月十三日の、満月少し前の月ことである。
「そうだな」
「折角だし、またお月見しようよ。片月見はよくないっていうし」
 旧暦八月十五日の芋名月は楽しかった。狐達と飲んで笑って踊った。こんなに屈託なく笑ったのはいつぶりだろう。こんなに夢中で、涙が出るほど笑い転げたのは。
「今度は二人で月見をしよう」
「いいけど何故?」
 玄幽が情けない顔をした。
「何故って……、俺が酷い目に遭ったのを忘れたのか……」
 彼は子狐達との勝負に負けて、好き勝手に顔や髪形を弄り回された。長めの髪をリボンで結ばれたり、顔に化粧や悪戯書きをされたり。私もその一端に関わっている。
「なるほど……」
「納得だろう?」
「うん、でも狐と一緒じゃなければいいんじゃないの?」
「俺は静かに眺めていたい方なんだ」
 眉間に皺を寄せた顔が面白くて、思わず微笑が浮かぶ。
「だと思う」
 玄幽は着崩れていた着物の襟を正した。
「十五夜といっても、あいつらと俺がいたところはやり方や供えるものが少し違っていたな。灯火(とうか)はどんなのだった?」
「お団子と薄を供えるだけだったよ。都市部だったから地域独自っていうものはないのだろうね。玄幽はどうだった?」
「俺のところの月見で特徴的なのは、着物を供えることだろう」
「着物!」
 初めて知った。
「まだ袖を通していない新品の着物を供えるんだ」
「面白いね! じゃあ折角だし十三夜はその日に訪れた場所の風俗に合わせてお月見をするっていうのはどうかな?」
「いいんじゃないか?」
自分の心が弾むのを感じながら月に思いを馳せる。家の屋根から昇ってくる月は煌々と輝いていた。
「どこから月を見たら綺麗かな? やっぱ山とか丘の上かな?」
「俺がいたところはこの時期月がとても近くに見えていた」
「さすが神様が住んでいるところは違うね。星の数も比べ物にならなかったもの」
「機会があったらそこで月見というのもいいかもしれないな」
 山から見る栗名月はまだ見たことがない。空にぽっかりと浮かぶ月はどんなに美しかろう。
「今度行ってもいい?」
「好きにすればいい」
「玄幽も一緒に!」
 小指をさし出すと、彼はわたしの言わんとしていることを理解して、目を細めて自分の小指と絡めた。
「ああ、約束だ」
「約束」
 指きりげんまんを歌い終えると、指をほどいた。腕を空へと大きく伸ばして左右にふらふらと揺らす。
「いい加減街道に出ないかなー。道は複雑じゃないから迷うはずがないんだけど……」
「霊力が強い場所だし、迷うつもりがなくても出られないということはある」
「え、ここって霊力強いの?」
 気付かなかった。
 揺らしていた腕を止めて顔を上げる。
わたしは所謂霊的存在を一般人が見ることのできる程度しか見ることができなかった。つまり姿を見せようと思っている存在か、特別霊力が強い場所でしか見ることができない。
「灯火は感じ取れないんだったな」
 彼の瞳は薄闇の中でも毒々しい輝きを帯びていた。
「とりわけ強いなにかがいるっていうわけではないが、はっきりと存在する」
「ふーん」
 わざと足を上げて、草を踏む音を聞いた。鈴虫の声との合唱が爽やかだ。
 りんりんりん。
 自分に分からないものを分かるのはちょっぴり悔しかった。玄幽が羨ましいとかそういうものだけではなく、彼の感じているものを共に感じたいのにできないという淋しさに所以するものでもあろう。
「どうした?」
「ううん、なんでもないの」
 笑顔をつくる。闇が色を濃くすればするほど、彼の瞳は煌々とした。深紅の眼球は常人が見たら悲鳴をあげ動けなくなってしまいそうなほど不吉でおどろおどろしいが、同時にとても美しいものに映った。
「昼夜の境目は神霊が活発化する時間でしょ? そんな時間に歩き続けても出口を見つけるのは大変だし、今日はここで休もっか」
「その必要はないと思う」
「?」
 玄幽の指差す方向に目を凝らすと、最初は気が付かなかったがぼんやりとした明かりが見えてきた。
「人が住んでいるのかな」
「かもな。もしかしたら出口かもしれない」
「行ってみよっか!」
 駆けようとするわたしの腕を玄幽が掴んだ。
「急がなくても明かりは逃げない。足元が暗くて危険だから気をつけろ」
「うん」


 明かりは近付くほどその強さを増し、真昼のような白金色の輝きに満ちていった。あまりの眩しさに目が眩んでしまう。
風はいつの間にか静まって、遠くで馬の駆ける音がする。
鬱蒼と生い茂っていたはずの松もはっきりとした姿を捉えられない。喧噪が遠くから聞こえてきた。なにかを煮込む甘い香りが鼻孔をくすぐる。
 不思議と怖さはない。暖かい光に包まれて、一層強く輝く元へと進む。
 明かりが一度瞬くと、光が急速に弱まった。視界が戻り再び景色が現われると、わたし達は松林が途切れた場所に立っていた。
目の前に広がるのはあるはずのない宿場街だった。
この辺りまで宿場が拡大していたのはかなり昔の話のはずだ。二階建ての宿が一キロメートルほど間をあけて建っており、その間には常設のお土産屋から銭湯、食堂、仮設の飲み屋や茶屋、小間物屋が並んでいる。全ての建物が木造で、人々は平安時代か鎌倉時代の服装だ。小袖や帯がひらひらと揺れる。
つんと冷え渡っていた空気は、昇ったばかりの太陽で温められてほどよく湿っていた。舗装されていない道も夜に染み込んだ水蒸気で埃は少しもたっていない。
「あれ……宿場に出たの……?」
 時は早朝。明けたばかりの空は朝焼けの名残を残し、道端に生えている雑草は夜露に濡れていた。商人らしき人、奉公人、客。種々雑多な人々が行きかっている。あまりの人の多さに彼らの袖はすれ違うたびに触れ合った。仕事先へと急ぐ女性、足元がおぼつかない酔っぱらい、手を振って友を呼ぶ若者。子供が風車を回しながら走っていく。 
 どうして明け方なんだろう。今の今までわたし達は闇夜を歩いていたはずなのに。
 呆気にとられていると、
「本当にどこかに迷いこんだみたいだな」
 玄幽が眼光を鋭くした。
「どうする、灯火?」
 丁度その時、わたしのお腹がぐうと鳴った。
 場の雰囲気を考えない己の胃袋に思わず赤面する。
 何事もなかったふりをして、
「……取り敢えずご飯を食べるところを探そっか」
「そうだな」
 込み上げる笑いを必死に押さえる玄幽を睨みながらむくれる。
人の格好悪いところをそんなに面白がらなくてもいいのに。
「……おもしろくないよ」
「すまない。そう拗ねるな。夕ご飯がまだなのだから仕方ない」
「仕方ないなら笑わなくてもいいのに……」
「いや、つい」
なおもむくれていると玄幽は冷や汗をかきながら視線をそらした。別の話題を探しているみたいだ。
「あー、なにか食べたいものはあるか?」
「……食べたい?」
「そう。カレーとか、寿司とか」
「んー、じゃあ天ぷら!」
 おいしいものを考えると、心がうきうきとしてくる。
 笑顔で見上げると、玄幽は一安心とばかりに胸を撫で下ろした。
「そうしようか。適当な店があるといいんだが……」
「なかったら他のものでもいいよ」
「探すだけ探してみよう」
 わたし達は人込みの中へ入っていった。
 朝露できらめく通りは人がひしめきあっている。怒ったり泣いたり笑ったり、色とりどりの花が咲いている。生き生きとして活気に満ち溢れていた。それだけで心が弾んで足取りも軽くなるが、いかんせんこの人の多さである。なかなか前に進めないだけでなく、すれ違うだけで一苦労だ。数歩あるいただけなのに、ほら、ぶつかるのは避けられない。
「すみま……」
 謝りかけてわたしは口を噤んだ。
確かにぶつかったのに体に衝撃がこなかったのだ。
おかしいと思いながら歩みを進めるも違和感は拭えない。人の体がわたしの体をすり抜けているようだ。種種雑多な人々が行きかっているからぶつかるのは当然だ。それなのに、何度もぶつかってしまっているはずなのに、何事もなく歩き続けられる。
「玄幽……」
 なんかおかしいよ。そう伝えたくて見上げると、
「変だな」
 玄幽が右手を横に伸ばした。ぶつかるはずなのに人々は彼の腕を通り抜け、わたし達を見向きもせずに去っていった。
「異なる時間が同時に存在しているのかもしれないな」
 沢山の人がいるのに誰もわたし達に気付いていない。
 ぞっとして身震いした。
 二人だけの時は何ともないのに、他人が誰一人として自分達を認知しないことがこれほど恐ろしいなんて。
 たった一人でもいいからわたし達に気付いてくれる人がいないだろうか。
 急き立てられてきょろきょろと辺りを見渡していると、ある一軒の店が目にとまった。
簡素な木造建築の仮設店舗は板と板の間に隙間があいていた。屋根は時折かたかたと揺れ、今にも崩れてしまいそうだった。店先には紺色で染め抜かれた暖簾が掛っている。その横で主人らしい若い女性が白い息を吐き出しながら客引きをしていた。着古された橙色の着物に黄ばんだ前掛けをしていた。着物は短く、ふくらはぎが見えている。砂ぼこりで汚れた足には草履を履いており、道行く人の中でも一際古めかしい格好だ。
 振り返る者は誰ひとりいなかった。女性は諦めずに声をかけ続ける。
 だがまるで見えていないかのように、人々は目もくれずに女性の前を素通りしていった。
「お早うございます。朝ご飯は召し上がられましたか?」
 女性の立つ場所だけ時間がずれているようだった。彼女を見ることのできるのはわたしと玄幽だけ。女性と自分達の間を流れるこことは異なる時。それはごく当たり前の朝には不自然な様だった。
 そこから目を離せずに、玄幽の袖を引いた。
「玄幽」
「ん?」
「ここにしよう」
 彼女を放っておけないような気がして、届かない声を張り上げる女に歩み寄って口を開く。
「すみません」
 突然声をかけられ目を見張る女性に構わず言葉を紡ぐ。
「天ぷらはありますか?」
「ございます!」
 女性は照れながら戸を引いた。
「いらっしゃいませ」
 彼女の着物に描かれた菊の花は、鮮やかに咲き誇っていた。


 店は質素な小料理屋の造りになっていて、カウンターが奥へと伸びている。椅子の背後はお品書きで、大きな字でつまみの種類と値段が書かれている。反対にカウンター側には沢山の種類の酒瓶が置かれていた。老舗酒蔵のものから名の知らぬお酒までびっしりと並んでいた。女性は入口すぐ横の腰まである板の戸を開いて細長い台に囲まれた空間の内側に入った。
「なにに致しますか?」
 女性は髪を結い直しながら訊ねた。
「お酒はおすすめのものでお願いします。あとは……、天ぷらはなにがありますか?」
「ええ。シソとまいたけとキス、あとちくわがあります」
「まいたけとちくわで。玄幽は?」
「俺も同じもので」
「わかりました」
 女性は中に置いてあった酒瓶の一つを取り、徳利に移してお湯に付けた。また手慣れた手つきで小麦粉や油を準備した。切った具材に手際良く衣をつけ、熱した油の中へ入れる。じゅわっと揚げる音がして油の香りが満ちる。出来上がった天ぷらを紙の上に移して油を切った。
「なにを付けますか?」
「塩とつゆでお願いします」
「はい」
 醤油やだしを混ぜたつゆと塩を小皿にわけて二つずつ出した。
 少し遅れて箸を出すと、天ぷらを横長の皿に移して台に置いた。
 その後適度に温まったお酒をお猪口に注ぐ。白濁した液体が流れた。
「これは私が一番好きなお酒なんです」
 客が来ないのでしゃべる機会が少ない故か、はにかみながら言った。
「お口に合うといいのですが……」
「いただきます」
 わたし達は女性からお猪口を貰うと、一口飲んだ。甘い酒だった。
濁り酒は体を芯から温め、凍える体を溶かす。
「おいしい」
 なめらかで柔らかく、ほろ苦い。
 天ぷらを肴に酒をすすめる。まいたけはざくりと気持ちのいい音をたて、口の中で広がる。ざくざくと衣が弾け、ちくわが奥ゆかしくそれに添う。
 天ぷらを頬張っているわたしを見て、彼女は顔をほころばせた。
「この辺りには言い伝えがあるんですよ」
「言い伝え?」
 女性は頷いた。
「ええ、肴代わりに聞いてはくれないでしょうか?」
 もう日は昇りきったはずなのに、外では虫が鳴いていた。

 女は馬に乗って東へ東へと急いでいた。額金の入った鉢巻きをきつく結び、大鎧に籠手、脛当てといった戦闘用の格好をしていた。肩まである艶やかな黒髪が風になびく。彼女の着物には返り血が飛び散り、左手に持つ刀は血がこびりついていた。
 彼女の前には二騎が走っている。赤々と燃える夕日が彼らの背中を染めていた。
 握る手綱は汗で変色し、疲れ切った体は重い。
 三騎は松林に入った。道のない林の中を、木を避けながら進むと、どうしても速度が遅くなってしまう。焦りが募ってぞわぞわした。
 突然、先行する一騎が手綱を引いた。
「殿?」
 女は手綱を締めながら一番前にいる一騎に乗る男を呼んだ。
 しかし男は馬を止めたままじっとしていて、彼女の呼びかけに答えなかった。
「いかがされました!」
 敵が鉢合わせてしまったのではないか。女は男の元へ駆けた。
「初音(はつね)」
 男は馬を近付けた彼の恋人――女の名を振り返らずに呼んだ。
「はい」
「お前はここから先は一人で行け」
「殿! なにをおっしゃるのです!」
 かつては自分の武の才を嫌っていた。並みの男より恵まれた戦闘能力を多くの男が恐がり、疎んじた。殆どの女が年頃になれば恋や結婚をするのに自分だけは望まれなかった。父にはお前が男だったらと惜しまれ、兄弟には粗野だと馬鹿にされた。両親の言いつけで直そうとしたけれど上手くいかなかった。刀を握っている時が、馬に乗って原を駆けている時がなにより楽しかった。
望まれる自分にはなれなかった。
それなら自分はいらないのではないか。
 憂悶な日々を送っていた。男が現われたのはその頃だった。
 男はある地方を本拠とする武将で勢力拡大のために西へ向かっていた。その途中で初音の一族が住む家に泊まったのだった。
 男は初音の武力の才を見ても疎まなかった。むしろ褒め称えた。汗を流して刀を振り回し、馬に乗って疾走する初音を美しいと言った。
 初音と男は恋仲になった。
 もうなにも恐くない。誰が自分を疎んじようと構わなかった。男が自分を好きだと言ってくれたから、綺麗だと褒めてくれたから、今まで自分を苦しめていたことがほんの些細なことに思えた。そして誓った。
 この才能を男のために使うことを。
 時は流れ、男は西で大敗を喫し、東へと落ちることになった。男に従っていた者の多くが彼から離れ、今は自分と乳母子だけが残った。
 男は馬を操って振り返った。夕日が彼の姿を赤々と照らしている。
「追手が迫っている。女がいては足手まといだ。お前は勝手にどこかへ行くといい」
 初音は手綱を握る力を強めた。
「嫌でございます! 初音は殿に最期までお供しとうございます!」
 けれど男の顔は冷たかった。
「お前がいたら邪魔になる。俺のことを考えるなら今すぐこの場から立ち去れ」
「しかし――」
 男は血を吸った太刀の切っ先を初音の胸に向けた。初音の乗る馬が驚いて体がぐらりと揺れた。
「これは棟梁としての命令だ! 俺の言うことが聞けないのか!」
「そ……、そのようなことは……」
 愛する男に向けられた太刀は今まで戦いの中で受けたどんな傷より痛かった。
「ならば去ね」
 男の声はどこまでも冷え冷えとしていた。
 女は涙を堪えて馬の鼻の向きを変えた。
 男が引きとめやしないかと振り返ったが、男は既に初音に背を向けて松林の中へ消えようとしていた。
「殿……」
 どうして私を捨てたのだろう。ずっと殿を支えてきたつもりだったのに。足手まといなだけだったのか。
 遠くで人の話し声が聞こえた。
 初音は瞼を閉じた。
殿がいらないとおっしゃるのなら、私は誰にも望まれない存在だ。
望まれなければなんのために生きているのか分からない。
ならばせめて……
「一騎でも敵を倒す!」
最期くらいは殿のお役に。
 初音は刀を声のする方へ向けた。

 女性はそこまで話してほうと一息ついた。
 酒が冷めるのも構わず聞き入ってしまった。
 玄幽は冷めたちくわをくわえる。冷えてしまったちくわはぐったりとしていた。
「そして彼女は敵を切り続けたのです。自分の周りが屍の山になろうとも、着物が血で染められようとも」
 女にはそれしかなかった。敵を倒すことのみがこの世に自分を引きとめる手立てで、愛する男に必要とされる自分になるための最期の手段だった。
 火事場の馬鹿力というには切実すぎた。
 彼女は切って切って、切り続けた。
「自分に刃を向ける者がいなくなった時、彼女は思いました。愛する男は無事だろうかと。そして男が去った方へと馬を進めました」
 どんな仕打ちを受けようとも、男は彼女にとって己の全てであったから。
 男のために戦うことこそ彼女の生きる意味であったから。
「途中で力尽きた愛馬を捨て、男を探し続けました。けれど彼女を待っていたのは残酷な事実でした」

「殿! どこにおられますか!」
 初音は太刀を杖代わりにして歩き続けた。何十人もの血を吸った刀はもう使い物にならない。もしまた敵が現われたら今度こそ命はないだろう。
 それでも男を見捨てることはできなかった。
 日が暮れて、辺りは真っ暗になった。虫が一斉に鳴き出す。
 彼女は男の馬を松の陰に見つけた。そちらに急ぐと松に寄りかかる男の背中があった。
「殿!」
 いた。たとえ罵られようとも構わない。男の傍にいれるのなら。
「ここにおられたのですね!」
 初音が男の肩にそっと触れた時、男の体がずるりと傾いて倒れた。
 男は首から上を失っていた。
「え……あ……………………………………………………」
 首から零れ落ちた温かい血が彼女の膝を湿らした。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
最期まで殿と一緒にいたかったのに。刃向ってでもお供していれば、殿を死ぬような目には遭わせずにすんだかもしれないのに。
 初音は敵に見つかる危険など忘れ、男の胴体を抱いて泣き喚き続けた。
 生まれて初めて流した涙。
もう動くことのない体は、男の体とは思えないほど硬く、重かった。
男のために力を使うという誓いを、最後の最後で守れなかった。自分が女でなければお供できたかもしれない。自分が女であることを恨んだ。己の力はなんのためにあるのか分からなくなってしまった。
 
「彼女は男を彼の死んだ場所に埋め、男と仲間の菩提を弔いながら一生を終えたそうです」
 女性はお猪口に酒を入れて一口で飲みほした。
「暗くなってしまいましたね、すみません」
 女性の言葉に、わたしは首を横に振る。
「いいえ! お話を聞けてよかったです。お酒も天ぷらもおいしかったです」
「ありがとうございます。……お済みの皿をお下げいたしますね」
 天ぷらの乗っていた皿を手渡した時、女性の指先が触れた。話している間にすっかり冷えてしまったのだろうか、雪のように冷たかった。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさま」
「またいらしてください」
 お金を支払うとわたし達は店を後にした。女性は姿が見えなくなるまでいつまでもお辞儀をしていた。行き交う人々にのまれ、店の屋根が小さく頭の向こうに見える。
「いいお店だったね」
「ああ」
「お腹も一杯になったし、次はどうやってこの世界から脱出するかだね。悪い場所じゃないけどいつまでもここに留まっているわけにはいかないし」
「しかし原因が分からないと手の施しようがないな」
「だね……」
 爪先立ちをして先を窺うも宿場に終わりは見えない。どこまでも店は連なり、人々が途切れることはない。
「今は元いた場所だと時間は夜だろ? 灯火は眠くないか?」
「大丈夫だけど……、ちょっと眠いな」
「どこかに泊る?」
「いいや」
「なら戻ってみよう」
「そうだね」
 踵を返す。
「申し、そこのお二人」
 若い男の声がした。
 声のした方を向くと、男性が人ゴミをかきわけてわたし達の方へ向かってきた。黒髪を後ろで束ね、着崩れた着物を着ている。目は強い光を帯び、整った顔立ちは若々しさを引きたてている。日焼けした肌には沢山の古傷がついていた。
「やはり……俺を見ることができるのだな」
 男性は不思議なことを呟いた。彼もわたし達と同じで他の人には見えていないのだろうか。
「なんでしょうか?」
「初音という女をご存じだろうか」
「初音……」
 先程話に聞いた女武者の名前も初音だった。
「名前だけは。彼女がどうしたんですか?」
 男性は少し躊躇ってから真っ直ぐにわたしを見た。
「この空間に初音の霊がいるはずなのだ。彼女に会ったことがあるのなら、託けを頼みたい」
「託けですか」
「ああ。本当は直接言いたいのだが、俺は生前余りに多くの人を殺したために彼女に逢うことは叶わない。そしてそれは彼女も同様であろう」
 三人の存在が見えないように雑踏は流れていく。
「どうしてそんなことを知っているんですか」
「俺は死んだ後この世に心残りがあって、俺は長らく此岸と彼岸の境を彷徨っていたのだ。ある時オニに会ってな、お前の探し求める女はそこにいるからさっさと心残りをなくして彼岸に行け、と言われたのだ。早くしないとあいつも俺も境界にある歪みに呑まれて無に還ることになるだろうと」
 彼は彼岸で働く神霊異形に出会ったのだろう。
「女はお前のことが忘れられずにこの空間に留まっている。ここは同じ場所に違う時が同時に流れている場所。だから女は誰にも気付かれず、一人お前を偲んでいるのだと教えられた」
 “誰にも気付かれず”というのが菊の着物を着た居酒屋の女性と重なった。
 彼女はここで一人なにをしているのだろう。
 なんのためにここにいるのだろう。
 誰にも認められず過ごすなんて、わたしには耐えられない。
 もしかして誰かを待っているの?
 どうしても忘れられない誰かを。
 考えてみれば自分に気付く人がいない空間でどうやって店を建て、食材や酒を用意したのだろう。もしかしてこの空間がなせる業なのか、幻なのか。彼女の話しぶりは真に迫っていてまるでその場にいて、その目で見たようだった。
 もしかして彼女が……
「あの」
 男性が瞬きをした。
「もしかしたら会ったことがあるかもしれません」


日が山の向こうへ沈もうとしている頃、わたしと玄幽、男性の三人は松林にいた。頬を打つ松風は次第に冷えてきている。夜になることを知らせるように鈴虫が鳴きだす。
「ここであっているんだな?」
 玄幽が何度目かになる確認を男性にした。
「間違いない。自分が死んだ場所を違えるものか」
わたし達は「初音」に会うべく男性の死んだ場所にいた。最初は彼女の家に行こうとしたのだが、この空間が彼らを会わせることを拒んでいるようで、何度店があった辺りを行ったり来たりしても何故か見つけることができなかった。
途方にくれている中、玄幽が空間周縁部は力が弱いことに気がついた。そこならば二人を会わせまいとする力も弱いかもしれない。男性も誰か分からないが何者かが自分の墓に毎日訪れていると言った。その人が先程の女性であれば、場所を知っていただけかもしれないがもしかしたら「初音」本人かもしれない。
そうして前に小さな盛り土と磨かれた丸石のある、大樹の裏に隠れて誰かが訪れるのを半日以上待っているのだが、未だ現われる気配がないまま夜になろうとしている。
「そもそも初音とやらはここに来るのか?」
 玄幽は痺れを切らしてしまったようだった。
「来る。必ず」
 男性の顔は橙色の光に照り輝いている。
 西の空が藍色から闇色に変わるとともに、頭がぼんやりしてきた。
 まずい、寝てしまいそうだ。
 頬を抓ってみるが眠気は強くなるばかりだ。一日以上寝ていないから、そろそろ限界が来ているのだろう。でも今眠る訳にはいかない。
 眠たい目を擦っていると、草を踏みわける足音が聞こえた。足音はこちらに向かっているようで、次第に近付いてきている。待っている間人っ子一人通ることはなかったので、もしかしたら彼女なのではないかと一同木の背後で待っていると、松の陰から女性が現われた。大輪の菊を染め出した着物は見間違うはずがない、「初音」の物語をした彼女だった。手には白い花弁の雛菊の花束が握られている。盛り土の前に膝をつくと、女性は両手を合わせる。
「殿……」
 俯いた顔の表情は窺えない。だが声は揺らぎ、肩は僅かに震えている。
 虫の音がもの寂しさを添える。
 彼女は「初音」なのだろうか。確かめたいが声を掛けるタイミングを見つけられずにいた。手を合わせる彼女の世界は侵しがたく、彼女が思いを馳せる気持ちを断ち切ってしまうのはしてはならないような気がするのだ。
 女性は十分ばかりそうしていたが、ふと立ちあがった。淋しそうな微笑を地面に落として、踵を返そうと足を引いた。この機会を逃すわけにはいかない。
「初音さん」
 木の陰から顔を出したわたし達に女性は驚いたように目をまんまるにした。
「何故ここを? ここを知っているのは私しかいないはず……」
 男性の墓は、彼を埋めた「初音」しか分かるはずがない。
 わたしは一度視線を盛り土に落としてから、彼女を見た。彼女の背後で通りの明かりが松の隙間から灯のようにちらちらと輝いている。
「「初音」さんはあなたのことですよね?」
 戸惑うように表情を歪めるのに構わず言葉を続ける。
「かつてこの地で亡くなった最愛の人を忘れられずに、ここに留まっているのでしょう? 誰にも認められなくとも、一人ぼっちになっても」
 女性は顔を伏せた。
「そうです。私が「初音」です」
 松風で乱れる髪を掻き揚げた指先は真っ白だった。
「初音……私は殿をここに埋め申し上げた後、この近くで名を隠してひっそりと一生を終えました。ただ一人生き残っていることがどれだけ辛いことでも、殿と仲間達を弔えるのは私だけですから。死後、気付くと私はこの空間にいました。場所は同じでも、私一人誰にも気付かれることのない世界。ここに殿はいないと頭では分かっていても、殿の面影をこの地に探してしまうのでしょう」
 彼女は明かりの煌めく宿場の方を振り返って、
「亡くなられたこの場所で永遠に同じ日を繰り返しながら」
 悲しそうに首を横に傾けた。
「殿が知ったら無用だと怒られてしまうでしょうが」
 けれど、と女性は聞きとれるかとれないかほどのか細い声で呟いた。
「殿と共にありたかった」
 そこには強い意志が溢れていた。
「最期にお傍にいられなかった後悔が私をこの地に引き止めているのでしょう」
 間違いない。彼女は女武者の初音で、男性が探している初音だ。そして男性が初音の敬愛する殿。
「初音さん、あなたに伝えたいことがあるんです」
「私に……?」
 わたしは殿の立っている場所を指差した。やはり彼女には彼が見えていないようで、不審そうな顔で指された方をじっと見つめている。
「ここに殿がいます。初音さんの主の」
「な――」
 彼女は表情を強張らせた。
「彼もあなたと同様会いたい相手、つまりはあなたを目にすることができません。前世の報いとおっしゃっていました。けれど、誰にも気付かれなくても、彼はあなたに逢いたいと思いあなたを探し続けました。そして初音さんと殿、両方を見ることができるわたし達と会ったのです。彼はわたし達に託けを頼みました」
「冗談は止してください! 殿は亡くなられたのです! そして二度と逢えないところへ行ってしまわれた! 私は殿と永遠に逢えぬのです! ずっと。永久に……」
 可能性を自ら振り棄てるように、彼女は腕を大きく横へ振った。淡い期待を抱く、己に言い聞かすように。
 けれど目に見えるものだけが事実じゃない。
 わたしが殆どのあやかしの気配を感じ取れないが彼らは確かに存在しているように、わたしの知らない沢山の幸せ、嘆き、怒りが存在しているように。
 わたし達は目に見えるものと見えないもの、両方を地盤にした世界を生きている。どちらを抜きにしてもそれは事実ではない。
 彼らを見ることができるわたしが二人に出会ったのは、二人を結び付けるために違いない。神様が罰だと言おうが、これ以上彼らが苦しむ必要はないはずだ。わたしには二人を直接会わせる力はない。そんな力があればいいのに。でもないものは仕方ない。せめてこの世への心残りがなくなって生まれ変われたら、来世で巡り合うことができるかもしれない。わたしは手をさし出した。
「わたしは生きている人以外の声にならぬ思いを感じ、伝えることができます。どうせわたしに知られるなら、伝言を聞くより本人から直接聞いた方がいいでしょう。どうかわたしの手をとって殿の思いを聞いてください」
 ぶるぶると震えながらも、彼女の手はわたしの手をとった。ひやりとして冷たい、優しい手だ。太刀を振り回してきた力強い手。
「殿も」
 空いている方の手を殿に差し出した。
殿は初音さんのいる方を穴があくほど見ながらすっと手を伸ばした。
「そこに初音がいるのだな」
「はい」
 殿の手は初音より大きくがっしりとしていたが、彼女同様冷たかった。
 目を瞑って肩の力を抜く。頭から余念を除いてなにも考えないようにする。そうすると思いが体に流れ込むのだ。
 ドンと堰き止められた水が一気に流れ落ちるように殿の感情が頭に溢れた。
 男が彼女に伝えられなかった気持ち、伝えたかった思い。

 男は馬を東へ東へと走らせていた。戦いに敗れ、残った手勢は己を合わせて三騎。本拠地まで落ち延びられれば立て直すこともできよう。しかしその道のりは遠かった。鍬形は折れ、兜を頭に結び付けている忍の緒は今にも切れそうだ。鎧も所々破れたり欠けたりしている。全身に敵と味方の血がこびりついている。腰の矢も残り僅かだ。
 背後で赤々と燃える夕日が沈もうとしている。
握る手綱は汗で変色し、疲れ切った体は重い。
 三騎は松林に入った。道のない林の中を、木を避けながら進むと、どうしても速度が遅くなってしまう。急がなくては追手に掴ってしまう。馬を急かすが馬も疲れているようで弱弱しくなくばかりで脚を速めることはなかった。馬の鳴き声で場所を察知されることを危ぶんで、それ以上愛馬に強いなかった。焦りが募るがどうしようもなかった。
 進む先にちらりと人影が見えた。
待ち伏せされていたか。
男は内心で舌打ちをする。是非に及ばず。戦うしかないと腹をくくった。ここで死ぬならそれが定めというもの。力尽きて死ぬくらいならここを死に場所にして討ち死にした方がいい。
けれど、
 男は手綱を引いて馬を止めた。
「殿?」
 後ろで最愛の女の声がした。自分より強い、美しく優しい女。
 彼女は生かしてやりたい。生きていてほしい。
「いかがされました!」
 なにも疑わずに自分を信じてついてきてくれている。それが嬉しくて、ついそれに寄りかかってしまうが習いになっていた。彼女の優しさに甘えていた。だがそれも終わりにしなければ。死出の山まで共にすることはない。彼女には生を全うする権利がある。
「初音」
 目一杯の愛情を込めて、しかしそれを悟られないように愛する女の名を呼んだ。彼女の名を呼ぶのもこれが最後になるだろう。これほどまで思いを込めて名を呼んだことがあったろうか。
「はい」
 女は声には不安の色があった。
「お前はここから先は一人で行け」
「殿! なにをおっしゃるのです!」
 振り返りたい気持ちを必死に押さえた。振り返ったら最後、彼女と一生の別れに耐えきれず、一緒にいてくれと言ってしまうだろう。きっと彼女はそれを聞いたら迷わず頷くであろう。だがそれではいけないのだ。己の弱さで彼女を地獄まで引きずることはあってはならない。
 女は納得がいかないようでその場に留まっていた。敵はすぐ傍まで来ている。すぐに逃げなければ彼女も捕われるか殺されてしまうだろう。彼女が敵に捕まった後を想像すると、怒りで身震いしそうだ。動かぬなら致し方ない。
 感情を押し殺して振り返った。
日が沈む直前、鮮やかさは最高潮に達した。美しく、どこか不吉さを帯びた光が眩しかった。
「追手が迫っている。女がいては足手まといだ。お前は勝手にどこかへ行くといい」
 彼女に後光が差した。
「嫌でございます! 初音は殿に最期までお供しとうございます!」
 崩れそうになる心を抑え、感情を押し殺した低い声を絞り出した。
本当は彼女に懇願したくて堪らなかった。
恐ろしいのだ。
一緒に来てほしい。
そんなこと口が裂けても言えるはずなかった。
「お前がいたら邪魔になる。俺のことを考えるなら今すぐこの場から立ち去れ」
「しかし――」
 早く行ってくれないと本当に言ってしまう。
 血を吸った太刀の切っ先を初音の胸に向けた。女の乗る馬が驚いて体がぐらりと揺れた。
「これは棟梁としての命令だ! 俺の言うことが聞けないのか!」
「そ……、そのようなことは……」
 心中で繰り返し謝っていた。
すまない。
邪魔ではない。

愛している。

「ならば去ね」
女は俯いて馬の鼻の向きを変えた。彼女が去るのを待たず、敵へとゆっくりと足を進めた。
「殿」
 左で馬を進める乳母子が言った。
「なんだ」
「初音を逃がされましたね。彼女は我々の中で最強の武者です。彼女を逃がしてどう戦うおつもりなのですか」
「……すまないが、お前には昔の約束を果たしても――」

 左腕が熱くなって乳母子を見た。彼の握る太刀には己の血がついていた。
「お、お前、まさか!」
 裏切ったのか、そう言う暇もなく乳母子は、手綱を引こうとした手を切りつけた。片手と共に馬の首の皮膚も裂いた。馬が驚いて男を振り落とした。
「負けると分かっている戦いに挑んで犬死するのは御免です。殿の首を渡せば命くらいは助かるかもしれません」
 乳母子はすっと馬から下りると太刀を抜こうとした右手を切りつけた。
「――っ!」
「彼女を逃がさなければ一緒に戦ってさしあげてもよかったんですけどね」
 乳母子の太刀が男の体を刺し抜いた。

 初音さんはわたしの手を強く握ったまま崩れ落ちた。草に露を落としながら彼女は見えない殿へ叫んだ。
「どうして、どうして本心を言ってくださらなかったのです! 私がいれば、私さえいればあの者に殿が殺されることなどなかったでしょうに! 私は殿と最期まで一緒にいたかったのです! 例え死ぬことになっても、殿のお傍にいられるなら――」
 殿はぎゅっと目を瞑って、わたしの手から初音の思いを聞いていた。
「すまない。けれど俺は、お前に生きてほしかったのだ。俺は、あの時の選択を後悔していない」
「そんなの自己満足です! 私は、私は……」
「ああそうだな。俺の自己満足だ」
「殿……」
 二人とも互いのことを思っていたのだ。だからこそすれ違って、傷ついた。
 わたしの顔色が悪いのに気付いて、初音さんは手を離した。彼女の心の声が聞こえなくなったのに気付いて、殿も手を離す。人の死を見るのは、人の痛切な思いを感じるのは、何度やっても慣れない。
「ありがとうございました。殿の本当の気持ちを伝えてくださって。殿は私を疎んじてはいなかった。愛してくださっていた。あの時本当の気持ちが知れたならきっと違う未来があったのでしょう。そう思って止みませんが、でもそれは過去のことです、いくら言っても仕方がありません」
 彼女にもう涙の色はなかった。本当に強い人なのだ。
初音さんはポンと手を打つと、
「ちょっとここで待っていてくださいね。お二人も、殿も。すぐ戻りますので!」
 わたし達を残して元来た道を駆けていった。
 殿に初音が言った事を伝えると、「そうか」と一言呟いて頭を下げた。
「ありがとう。初音に俺の気持ちを届けてくれて。これで死出の旅にも心安く出掛けられる。来世でも出逢えるかは分からないが、せめて現世での思いを伝えられてよかった」
 現世で自分がしたことが来世に影響するとはよく聞く話だ。生まれた家系がそうだったためだとしても人を沢山殺めた事実は変わらない。それが影響することを危ぶんでいるのだろう。
「彼女の魂が消えないで済みそうだ」
 殿は初めて口角を僅かに上げた。初音を思う彼の顔は優しかった。
「……優しいんですね」
「別に優しくなどない! あいつに思いを伝えられなければ俺の魂が消えてしまうからこうしたまでのこと。その上原因はあいつの気持ちを考えず俺が自分勝手に行動したからだ」
「そうだとしても、相手の幸せを願えるのはとても素敵なことだと思います」
 二人を逢わせてあげたい。けれどそれは自分の力ではどうにもならないことで、歯痒い。
 初音さんが戻ってきた。両手一杯に酒瓶を持っている。
「初音さん!」
「あの、宜しかったら一緒に飲みませんか? 感謝のしるしです」
 答えを聞かずに初音は酒宴の準備を始めた。玄幽とわたしにお猪口を渡し、殿の墓にもお猪口を置いた。重い荷物を持って戻ってきたのに断れるはずがない。彼女のなすままに酒を注がれ飲み干した。殿はお猪口に触れようともしなかったが、わたし達がお酒を飲んでいる様子を眩しそうに見つめていた。
木々の隙間から零れ落ちる月光が灯り代わりだ。いつからあったのか野菊がそこらじゅうに咲いていて、虫の音は尽きない。盃を月光に当てるとお酒に艶が出た。浮かぶ菊花は一段と色鮮やかで、飲んでしまうのが惜しいほどだ。
「……昔を、思い出しますね」「昔を思い出すな」
 殿と初音さんが口を揃えて呟いた。昔とはいつのことだろう。
 初音さんは帯に挟んでいた扇を抜くと、
「一曲舞いますので見ていてください。もし知っていたら一緒に歌ってくださいませ」
 ゆっくりと扇を開いて回りだした。束ねた黒髪がふわりと宙を舞う。
「“験なきものを思はずは”」
 大伴旅人の和歌だ。わたしは息を吸った。
「“一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし”」
“甲斐のないもの思いは忘れて一坏の濁り酒を飲むのがよいだろう”
 さあ嫌なことも辛いことも忘れて、酒を楽しもう。宴の始まりにぴったりな和歌だ。
 初音さんは微笑むと大きく扇を横へと振った。殿もすっと立ち上がった。
「「“古の七の賢しき人どもも”」」
 初音さんと殿は口を揃えて歌っていた。互いに見えても聞こえてもいないはずなのに、一言も違わず、少しもずれずに歌は流れてゆく。
 ぽかんと口を開けて初音さんと殿を交互に見るわたしに気付いて、初音さんは殿のいる方へ扇を向けた。それに答えるように殿も懐から扇を取り出す。
「「“欲りせしものは酒にあるらし”」」
“竹林の七賢も欲しがったものは酒であるらしい”
 二人は足拍子をとりお互いの方へ進み出た。
「“生者”」
 初音さんの謡いに殿が続く。
「“つひにも死ぬるものにあれば”」
 お互いに見えていないことが辛くて堪らなくなるほどぴったりと息が揃っていた。こんなにも好き合っているのに互いを見ることができないなんて。泣き出しそうになるのをぐっと堪えて二人の舞いを見つめた。きっと何度も共に舞ってきたのだろう。幾度となく、毎夜毎夜。家臣たちの笑い声や酔った声に囲まれて舞う酒宴は楽しかっただろう。春も夏も秋も冬も。いつでも酒を飲み、舞う。それは戦いの合間の安らぐ一時であったろう。
「「“今の世なる間は楽しくをあらな”」」
“命ある者も最後は死んでしまうものであるから、今世に生きている間は楽しくありたいものだなあ”
 二人は地を強く踏んだ。宙に投げられた扇は蝶のよう。
 その素晴らしさは、瞬きをする時間さえ惜しく感じるものだった。

 舞い終えた二人の表情は晴々として、優しさに満ちていた。
 月はいつの間にか傾いている。誰も彼も余韻に浸っていた。
次第に辺りが白金色の光に包まれていく。この空間に迷い込んだ時と同じ光。松林に明るさが増すに従い、初音さんと殿の姿は薄れていった。二人はめいめい扇をしまった。消え入りそうな微笑を浮かべて。
「私は今とても幸せです」
 目に一杯涙を浮かべて、初音さんはお辞儀をした。
「ありがとうございました」
「この恩は何世経っても忘れはせん。さらば、またどこかで会うその日まで」
 彼らの声はもうはっきりと聞き取れない。全て掃い去るかのようにごうと松風が吹き過ぎる。目が眩むほど明るくなったかと思うと、元の松林に戻っていた。盃も菊の花も彼らの姿も、何もかも消え去った。
 苔生した石が松の根元に転がっている。


終章

 ギギギッという鈍い船が進む音。水の微かな蠢き、船唄。
 乗客は俺達のみ。
 目の前には配達先の神社が見える。赤々とした巨大な鳥居。その先には社が建つ島がある。
右手の海も灯火(とうか)も船頭も、皆夕日で橙色に染められている。
「いやあ、あんた方は運がいい。今日はこの船が島へ行く最後だったんだぜ」
 唄の合間に、艫に立つ男が言った。
「こんな時間から行くということは、今日は泊まるつもりなんだろう? あてはあるのかい?」
「神社に知り合いがいるから、泊まらせてもらえないか訊ねるつもりだ」
 そりゃあよかった、と言って男は唄に戻る。風がどうのとか唄っている。
ここは入江で波は静かだ。灯火は船頭歌に耳を傾け、時々小さな声で口ずさんでいる。頭上では鳶が数羽輪を描いて飛んでいる。
桟橋に降りると渡し賃を払い、休む間もなく神社へ急いだ。海沿いの参道を歩いて三十分足らずで神社入口である。日没後であるため今から参拝しようとする者はいないようだ。神社から出てくる者も、もう本島行きの船はないから島に泊まって明日も観光しようと計画しているのだろう。朱色と白、緑青色の瓦の建物は、話に聞いた竜宮によく似ている。
「宛先は市杵島様、多紀理様、湍津様」
 灯火が懐から手紙を出した。
恐らくいるのは長女だけだろうが、もしいた時に名前がないと書かれなかった者達に文句を言われて面倒だから、念のため三人の名を書いたのだろう。
「どうやって会おうか……」と言って灯火は腕を組んだ。
「会い方が分からないのか?」
「高木様の時は案内してもらったから」
 灯火によく懐いていた、あの子狐か。
「俺と面識があるから、俺がいると知ったらあちらから現れるだろう。隠れて無視するような因縁があるわけではないからな。いたら教える」
「お願いします」
 釣灯籠が燃えて、模様が床に本来の形より伸びて映る。人っ子一人いない回廊に、俺達の足音が響く。灯火のおろした黒髪が、歩く速度に合わせて左右に揺れる。
「灯火は言伝えの印を身につけていろ。その方が分かり易くていいかもしれない」
「あ、そうだね! 思い出させてくれてありがとう!」
 長らく身につけていなかったから忘れていたようだ。灯火は荷物を下ろして言伝えの印である鈴を取り出した。紐で髪を一つに結わえると、鈴に付属している一際長い紐で髪に固定した。初めて会った時と同じ髪型だ。少し動いただけで心地よい鈴の音が響く。
「結わえ損なった髪とかない?」
「大丈夫だ」
 荷を背負い直して再び歩き始める。ここは国有数の規模と崇敬を集める神社で、仕える者も多い。それなのに神官にさえ会わないのが不思議だ。水は回廊の下にも流れていて、砂石が海底を流れ擦る音が微かに聞える。
「本殿に行ってみようか」
「その必要はありませぬ」
 声のした方を振り向くと、巫女姿の、年端のいかない少女が立っていた。横髪を房にして上の方を布で蝶々結びに結えている。目は翠玉色で、髪は毛先にいくに従って黒から群青色に変わっている。側仕えをする上級あやかしの仮の姿である。
「久しぶりだな」
 少女は深々と礼をした。
「お久しゅうございます。本日はどのような御用件で?」
無表情な彼女は目だけを動かして灯火を一瞥すると、
「やはりおっしゃらなくて構いません。用件は把握致しました」
 再び頭を下げた。
「市様の許へご案内致します」
 少女は俺達の横をするりと抜けると、ついてきているか確認せずにさっさと先へ進む。右に曲がったと思えば左に曲がり、いくつかの門を潜る。以前はこう迷路のようではなかったはずだ。造り変えでもしたのか。
 俺の心を読んだように、
「神官達に会うと面倒なので遠回りしております」
 振り返らずに言った。
「こんな夜に人の子が歩いていると知れれば心配されますからね。ここは十七時で一般参拝は終了ですし」
「時間を確認しておかず、すみません」
 盲点だったと口を押さえ、灯火は謝った。
「言伝えなら“一般”ではないのでよしとしましょう。人気が少ない方が会うのに好都合です。人の出入りが少ない時だからこそ姿を現せられるのですから、初のお目通りには丁度よいでしょう」
 少女は淡々と言葉を紡ぐ。遠くから見る者がいれば、見た目の少長と態度の不釣り合いを不自然に感じただろう。
 はるか遠くから人の話し声が汐風に運ばれてくる。観光客か神社の者か、そこまでは判断できない。一日人が行き来した廊下は、疲れたようにやや黒ずんでいて、壁の一部は劣化で褪色している。風雨の当らない内側へ行けばそういったものは目立たなくなるが、あとは闇に呑まれるだけの刻限であったので、どこか建物全体がもの寂しい雰囲気が流れている。
薄暗い、部屋に挟まれた廊下を抜けた先の海に突き出した舞台に、神社の主はいた。
欄干に腰掛けて、足を前へ投げ出している。背後は谷状になった島と海。彼女は待ち兼ねていたかのように、俺達の姿が見えるとすぐさま「久しぶりですねえ、玄幽(げんゆう)」と言った。人間が聞きとるには遠いだろうに、そのようなことはお構いなしだ。
「相変わらず可愛くない仏頂面」
「生まれつきだ」
「私達に“生まれつき”もなにもないでしょうに」
 主―市姫は眉間に皺を寄せると、丁度椅子に座るような格好に姿勢を正した。
「隣の女の子は新任の言伝え?」
「そうだ」
「灯火と申します」と勢いよくお辞儀をした。 
「宜しくお願いします」と言うと市姫も目を細めて「宜しく頼みます」と返す。
 市は頬に手をあてながら灯火をまじまじと見つめた。
「言伝えが数百年ぶりに蘇るというのは感慨深いものねえ。穏やかで居心地がよかったあの頃が懐かしいわあ」
「……ばばくさい」
 市がぎろりと俺を睨みつけた。
「玄坊、あとで神社の裏庭に来なさい。市様が締めて差し上げるわ」
「坊とか……」
 少女が無表情のまま、頬を膨らませて必死で笑いを堪えている。
「何が可笑しい」
「いえ。なにも」
 誰もいない方を見ながらけろりとしている。雀や鳩が目の前のことを理解できずにちょっと首を傾げるような様子である。文句を言いたいが、悉く胡麻化されそうだから止めておく。
「玄幽を締めるのは後にして」
 市が咳払いをした。それだけで神社全体が主の仰せを待つかのように静まり返る。
「灯火。お前がここに言伝えとして参ったということは、私に手紙を持ってきたのでしょう?それをお見せ」
 灯火はしずしずと市の前に進み出ると少女に渡し、彼女は市に恭しく差し出した。
「従祖父からね」
 宛名と差し出し人を確認してから市は言った。
「確かに受け取ったわ。礼を言います」
 市は包みを側仕えに放って、早速手紙を読み始めた。途中で投げ出したくなっても可笑しくないほど長い手紙である。だが市は最初に手紙の厚さを知って「あら厚い」と言ったきりなにも言わず手紙を読んだ。笑いもせず、真剣な面持ちである。手紙が風に吹かれて海に落ちてしまわないように、読んだ傍から丁寧に折りたたんでいる。俺達3名は黙って読み終えるのを待っていた。
「紙と硯を用意してちょうだい。あと灯火へのお礼も」
 最後まで折ると、手紙の両脇を爪で伸ばした。市は手紙を自分の懐へとしまう。
「かしこまりました」
 少女の姿が薄闇に紛れた。
「私も手紙の配達を頼みたいから、二人は明日までお待ちなさい。どこか泊まるところは決まっているの?」
「それがまだなんです」
「どこか適当な場所を知っていたら教えてもらいたい」
 市はいいわよ、と快諾した。
「灯火は人が入ってこない部屋があるからそこで休んでちょうだい。案内させるわ。あんたは……」
ちょっと天を見上げてから、
「靄にでもなってその辺漂ってなさい」
 邪魔者を追い払うかのようにしっしと手首を振った。
「……扱いの差が酷くないか」
 市の俺に対する扱いがぞんざいなのは昔からのことだが、灯火と対比されるとその差が歴然としてきて不愉快になる。
「冗談よ、冗談。いちいち本気にするんじゃないわよ」
市は呆れながら頬杖をついた。笑えない冗談は程々にしてもらいたいものだ。
「さ、今日はたっぷり休んでちょうだい。長旅は疲れたでしょう? 明日からまた手紙を届けに行くのですから、今夜くらいはゆっくりなさい。いいわね?」
 丁度戻ってきた側仕えの少女に案内を申しつけると、神社の主は舞台中央に簡易な文机を設けてさっそく手紙を書き始めた。ひょろ長いあやかしがそっと主の前に明かりを置いた。半透明の箱の中に何匹かの蛍烏賊らしき影が見える。手元がぼうと明るくなる。海には神社や町の明かりが映って揺らめいている。
 灯火が案内されたのは特別な神事の時神官が控えるという部屋だった。灯火は畏れ多いと戸惑っていたが、主がいいというのだから問題あるまい。確かに滅多に人が入らない場所だから、見つかることも怪しい者が入ってくることも少ない適当な場所だろう。
「玄幽」
「どうした、灯火」
 部屋の戸を閉めていた手を止めて、灯火は言った。
「無事配達できてよかったね」
 全くだ、と言って俺は首肯する。
「灯火のために俺が何度ヒヤヒヤさせられたか知れない。……ともかくよかったな」
 申し訳なさそうに彼女は笑った。その顔がどこか寂しそうで、心が痛む。
「沢山迷惑かけちゃったね。ごめんね」
「……謝らなくてもいい」
 俺が灯火に詫びを言わせたのだ。分かっている。だが彼女の口から謝罪の言葉が出ることも、済まなそうな顔も、俺には見るに忍びなかった。
 灯火は曖昧に微笑んで、おやすみなさい、と言った。鸚鵡返しに答えようとして突然灯火が頭を下げたので、俺は口を噤んだ。急にどうしたのだろう。
「今までお世話になりました。ありがとう」
 すっと血の気が引いた。
 そうだ、配達までという約束だったのを忘れていた。
 なにか返事をしようと口を開くも、言葉が出ない。息だけが空しく吐き出される。
 面倒なことも終わる。喜ばしいはずなのに何故こんなにも浮かないのだろう。
「……いや、こちらこそ世話になった」
 なんとか言葉を紡ぎ出すものの、灯火の顔をまともに見られなかった。嫌な思いをさせてしまったに違いない。どうして俺は感謝一つまともに伝えられないのだろう。
 俺は側仕えの少女に案内された小部屋を断って、結局神社の屋根で一晩過ごすことにした。瓦は想像以上に冷たかった。屋根に一人寝そべると、先程の感情について考え始めた。何故素直に喜べない。あれ程心待ちにしていたではないか。
 心にしこりの様に引っかかる、この気持ちはなんだろう。
 かなりの難問だ。俺は目を瞑って今までのことを思い返す。
 灯火とはよくぶつかった。苛立つこともあった。
 彼女はとても頑固で、人の迷惑も顧みず自分のしたいことをする。
 頑固で自分勝手で、しょっちゅうへらへら笑っている。他人の心配ばかりして自分のことは顧みない。それでいて自分の行動に後悔ばかりしている。
 灯火と俺は少し似ているかもしれない。
 だが彼女は俺と違って目の前のことに常に一生懸命向き合っていた。
 その直向きさにはいつも驚かされた。些細なことに泣いて笑って、神経をすり減らしているようで心配でならなかった。
 何にでも足を突っ込みたがる癖。よく言えばお人好しだが、悪く言えば独りよがりだ。
 迷惑することの方が多かったが、彼女のお陰で知れたことも少なからずあった。
世の不条理、理不尽。醜さ。
美しさ、儚さ。
 井の中の蛙のままでは目の当たりにすることもなかったであろう出来事に、鈍っていた感覚が研ぎ澄まされていくのは心地よかった。 
 かつて神社で会った神に言われた言葉を思い出す。
 爺さんはもしかしてこれを狙っていたのかもしれない。俺が世界を知る楽しさを覚えることを。灯火を弱いと適当な理由をつけて俺を同行させたのだろう。
ではこの一抹の寂しさは、なんなのか。
楽しみがなくなることによる寂しさなのだろうか。
 ならば灯火と別れてからも一人で世界を見て回ればいい。
 そう決心しても心は晴れなかった。
 果たして俺一人でできるのだろうか。俺だけでなにを知れるというのだろう。
 この三カ月見て感じたもの、全て灯火が関わった成果ではないか。
 彼女なしでなにを感じ取れるというのだろう。
 何一つ感じ取れないのではないか。
 あれこれと考えを廻らしていると、俺の名を呼ぶ声がした。目を開いて体を起こすと、欄干から身を乗り出している灯火と目が合った。彼女はニパッと笑いかけてきた。
「おはよう!」
 暁の空はまだまだ暗い。
「おはよう。朝からやけに元気がいいな」
 俺と別れられてそんなに嬉しいのか。仮に思っていても顔に出さない奴だと分かっていても、つい捻くれた解釈をしてしまう。
「玄幽、わたしを屋根まで引き上げられる? あ、市様にはちゃんと許可とったよ!」
「愚問だな」
 柱に掴まりながら欄干に足を乗せ、立ちあがるのをヒヤヒヤしながら見守った。庇が外に飛び出ているので、灯火は手を震わせながら伸ばした。その手を掴んでやると、彼女の足が欄干から離れたので、落ちてしまうのではないかとドキリとする。離さないよう強く握って、浅瀬の上で宙ぶらりんになっている灯火を引き上げる。
「市様が、ここから見る朝日は格別だって教えてくれたの」
「分かったらから早く足を屋根に乗せろ。腕が疲れる」
 仰せのままに、と灯火はおどけてみせて、まず空いている手で瓦の凹凸を掴んだ。やや力を入れて俺の引く力に乗せて体を持ち上げると、足を屋根に乗せた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 彼女の背後には海がどこまでも広がっている。船が沖に漂っている。漁は上手くいっただろうか。昨日聞いた舟唄がすぐ耳元に聞こえてくるようだ。
 灯火が首を傾げた。彼女の漆黒の瞳に曙色の光が射した。
 その美しさに目を見張った。吸い込まれそうな暗闇に映し出された世界は、この世界を鏡のように映し出しているだけのはずなのに、全く違うもののように思えた。
こんな綺麗なものがこの世にあるのだろうか。
 彼女の瞳に映る景色は、彼女の目でしか見られない景色を映し出しているに違いない。
「玄幽! 見て! すごいよ!」
 綺麗なものは呆気にとられているうちに俺の前から消えた。灯火は俺の横をすり抜け危なげな様子で屋根を上り、腰を浮かす。身を乗り出して明けようとしている東の空を見つめる。柔らかな潮風が彼女を愛撫する。
「きっと今世界が生まれているんだね」
 俺は振り返った。彼女の言葉で彩られた景色は本来の美しさを取り戻す。
入江の先では本島が闇に包まれている。くっきりと浮き出た稜線。曙色の山際は、一瞬しかもたない永遠が生み出した奇跡だ。疎らに浮かぶ雲は、下の方は深紫だが上部は暗い夜の色を残している。白んだかと思った空色はすぐに色を帯びて、花色へと映ってゆく。藍、青鈍と暗さが増していく中で、終わりつつある昨日が静かに時の流れに身を任せている。ぽつりぽつりと闇の中で瞬いている町の明かり。底知れぬ海の音。
 空はいよいよ紅潮して、夜は呑まれてゆく。
 この曙色は、灯火によく似合う。
 楽しいことばかりではない人生を認め、懸命に生きている。酷い仕打ちを受けても、涙を流しても、次の日には微笑んでみせる灯火のような色だ。
 その光は空を、海を、町を、優しく包み込む。
 語彙のない俺は、世界が生まれる瞬間をただ見守る他なかった。
 こんなに心動かされた朝焼けは初めてだった。
今まで何度も朝焼けは見たはずなのに。
他の朝焼けにはなにが無かったというのか。
「きれいだね」
 灯火が太陽の眩しさに目を細めて微笑んでいる。
そうか、彼女がいなかったのか。
 彼女の花のような笑顔で、全てを悟った。
 俺の感動の傍にはいつも灯火がいた。
 俺の何倍も感じ易い彼女の心は、俺にとって複雑怪奇なものだった。
 だからこそ訝しく思った。
これが喜ばしいことなのか。悲しいことなのか。美しいのか醜いのか。
何故泣いて何故笑う。
己の申し訳程度の感性を捩って捻って、漸く絞り出した一滴の雫は尊いものだ。
やり方は彼女が教えてくれた。見方を変える、心持ちを変える。小さなことにも注意を払う。そんな些細なことでこんなにも面白いものを見られるなど、かつての俺には思いもよらぬことだろう。まだ見足りない。灯火と一緒にいて、もっと様々なことを見ていきたい。
「と……」
 名前を呼びかけて、胸の痛みに口を噤む。ちくりという小さな痛みと共に、まだ会って間もない頃の彼女への態度が思い出された。自分の大人げなさが恥ずかしい。灯火を馬鹿にしていたのだ。こんなに学ぶべきことが多い人だったのに。
 俺は足元の埃まみれな屋根を睨みつけ唇を噛む。
 伝えたい。
だがこんな俺が配達をこれからも手伝いたいなど、どうして言うことができようか。
 喉まで出かけた言葉を引っこめようとして、心中で首を振る。
 言わなければきっと後悔する。相手を傷付ける言葉はいとも簡単に出るのに、肝腎なことは言うことができない。
「……灯火!」
 景色に夢中になっていた灯火は俺の声にびくりとした。
「どうしたの? 突然大きな声を出して」
 彼女の目に景色はどう映ったのだろう。
 全身で受け止めた風の感触は。波の音は。どのようなものだったのだろうか。
「これからも配達を手伝ってもいいだろうか」
 彼女が気付かなければ見逃してしまう世界をもっと見ていきたい。
 一度知ってしまった世界の鮮やかさを、捨てることなどできようか。
 稜線の一点がきらりと光って、あっという間に太陽が悉く照らしだした。町についていた明かりが光に呑まれる。彩りは陽に隠れて姿をくらまし、空はその変化にそしらぬ顔をしている。
 灯火が微笑んで口を開いた。
「よろしくお願いします」
 朝日に照らされた波が、きらきらと輝いている。

たまかぎる ©おにぞうしか

執筆の狙い

 自分の好きなものを詰め込んだ小説です。自然描写には気をつかっております。
 上記は数年前に書いたものでライトノベルやライト文芸を扱う新人賞に応募して全く通らなかったものです。
 友人に意見を求めたことも何度かあるのですが感想など殆ど貰えずそもそも読み切ってもらえたかさえ怪しいのでなるべく多くの意見、アドバイスなどを頂きたく投稿した次第です。
 上記のことから自分のレベルは分かったようなものですが、なにがいけないのかどこを伸ばすべきなのか分からなくもやもやとしままま現在に至っておりますのでご意見よろしくお願い申し上げます。

(一応転載でないことを示すために書かせて頂きますが現在同文は小説家になろう様で公開しております)

おにぞうしか

106.167.99.157

感想と意見

六月の夜と昼のあわいに

あけてびっくり、うすら長い。

まず、「これだけの長さのものを、一般の人に読んで貰おう」と思ったら、【原稿用紙換算○枚】を、タイトル脇もしくは「執筆の狙い」に書いておくのが、配慮とか親切ってもんじゃなかろうか?? と、長いもんを「なろう」からの転載や再掲する人には、いつも思う。

>梅、椿、女郎花。紫陽花、蒲公英、萩。芍薬、躑躅、柳。橘。菊。

↑ うん、読めるよ?
「うめ、つばき、おみなえし、あじさい、タンポポ、はぎ、シャクヤク、ツツジ、やなぎ、たちばな、キク」だな?

でもまあ、「馬酔木」とか「百日紅」とか「満天星」とか、作中に出す時は、いちおう「ルビ」振ります、私は。
あるいは、一部植物名をカナ(かな)表記。

とか思ってたところ、直下の記載が、

>ありとあらゆる草花が、今が盛りと咲き乱れている。

↑ 冒頭に出て来た桜と、ここに列挙された「梅、椿、紫陽花、躑躅、柳、橘」は全部【草花じゃない】よね??


なんだかどうも、書き方仰々しい割に「読者に不親切」だし「無神経」なんで・・
一旦そこで挫折しました。


あらためて、眺めてみるかもしれないし、しないかもしれない。

2017-06-19 20:17

219.100.84.60

アフリカ

第一章
拝読しました

ん……
辛口ですが……
冒頭から、喋りたがり、で、遠回しに、小難しく、表現してるつもり……になっていると……感じました。
と言うもの、読み手には殆んど何も情景が入って来ないと感じたのです。(僕だけかも?)

スルスルと書かれていると言うか語られてはいるのだけれど読み手が知りたい情報は余り無くて、何だか硬くて冷たい何かを顔にグイグイ押し付けられているような居心地の悪さを感じます。物語が人間世界で無いからと言えばそうなのかもな……とも感じるのですが、なんだか難しく表現するのがとても格好いいと作者は考えてます。と……ぽろぽろ溢れているような……再度、辛口ですが。そんな風に感じます。

それと、情景が入って来ないので特殊な世界で展開が始まる準備が読み手として出来上がらないと言うか……続けて読むにはかなりの根気が必要なのかな……と、勝手に感じてしまいました。

ですが、これだけの枚数を書けるのはそれだけで凄い集中力があるのだと思うし、特に御作法的に間違いがあるようには感じなかったので……
自分が力を抜いて楽しめる掌編とかを沢山書かれてから長いものに取り組んでみても良いのかもですね。

とにかく、沢山書くのは本当に大変な作業ですからそれは素晴らしい才能だと思います。

頑張って下さい。

ありがとうございました

2017-06-19 21:30

122.131.159.98

おにぞうしか

六月の夜と昼のあわいに様

貴重なご意見ありがとうございます。
これを書いた当時を思い出すと肩肘を張って書いてしまっていたと思います。
自己満足で配慮が足りなかったです。
今後今の文では分かりづらいことを意識していきたいです。

ページ数についてですが、たまたま載せ方の参考に開いた作品を読んでこの形式で大丈夫であろうと思い込んでしまい配慮が足りませんでした。以後気を付けます。

草花は草木などとした方が正しいですね。

ご意見ありがとうございまいました。

2017-06-19 22:50

182.251.253.37

おにぞうしか

アフリカ様

貴重なご意見ありがとうございます。
冒頭に気をつかおうとして肩肘張って、見事に失敗しました。
どうすれば読み手に伝わりやすい表現になるのか模索してみます。

アドバイスもありがとうございます。
作文自体まだぎこちないですので掌編書いていこうと思います。

重ねて御礼申し上げます。

2017-06-19 23:06

182.251.253.37

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