作家でごはん!鍛練場

『マモン』

D著

お金に取り憑かれた人を書いてみました。
よろしくお願いします。

一 


 穏やかな春の晴天――二台のリムジンが広大な美しい庭園に止まった。ほぼ同時に扉が開き、それぞれ中から上等な服を着た男女が噴水の傍に降り立つ。その中には赤いリボンをつけたバロック時代の御姫様のような洋服の少女も混じっていた。三階のバルコニーから眺めていた健司には、それが誰であるのかすぐにわかった。目に入れても痛くはない孫娘の麗奈だ。もう小学生になったのだろうか。陽光を浴びて輝く噴水の水飛沫を背にして、浮かれたように踊っている麗奈の姿はまるで幼い天使のようだった。この無垢な少女にはいかなる罪の穢れもない。天真爛漫に微笑み、ただ祖父の家に遊びに来たことを単純に喜んでいるようだった。
 やがて執事長がバルコニーに入ってきて、健司に声をかけた。健司は今年で八十歳になる。耳も遠くなり、歩く時は杖の助けも必要になった。数度の病に冒されたが、その度に莫大な治療費を払ってなんとか克服してきた。それでも、加齢にはやはり勝てない。ややこしい相続の話は、全てあらかじめ弁護士に任せていた。先刻到着したばかりの息子たちには、弁護士を通して話すことにしている。健司は息子たちと話すよりも、むしろ麗奈と話したかった。
「父さん、お久し振りです」
 広く明るいバルコニーまで通された息子たちの家族は、全部で二十人ほどだった。今、挨拶をしたのが長男なのか次男なのか、それとも末の息子なのかもわからない。皆、なんとなくよく似た顔なのだ。それに、彼らの妻たちも美しさという点では申し分ないものの、やはりどこかよく似ていた。全員が健司に鄭重な挨拶をしていく。健司も微笑みながら曖昧に頷いたり、背中を撫でてやったりする。彼らは本当に心から自分との対面を喜んでいるだろうか――健司はふと寂しさと共にそう感じた。どいつもこいつも、なんとなく遺産目当ての舌舐めずりをしてこちらを窺っているような気がしてくる。昔は可愛げのある無垢な少年だった息子たちも、すっかり社交界の悪しき風習に毒され、堕落してしまった。最早、健司の心に安らぎを与えてくれるのは小さな麗しき御姫様しかいなかった。もしも、あの秘密を教えられる唯一の肉親がいるとすれば、それは麗奈しか残されてはいなかった。だが、麗奈に話したところで、彼女はその重大性を理解するだろうか。それが、どれほどまでに人生にとって重大な影響を与えるものであるかということを。健司が現在のこの地位、名誉、富に与れたのも、全てその秘密に拠っているのだ。それがなければ、今ごろ健司はいつぞや目にしたあの薄暗い地下鉄でゴミ箱を漁っていた老人のようになっていただろう。あるいは、貧苦と困窮に喘ぎながらもっと早くに若死にしていたことだろう。全ては、あの夜、あの決定的なこの世の秘密に触れたことで変わったのだ。乞食は王様になったのだ。
「父さん、あの二匹の犬って、もしかしてアメンとアテンかい?」
 息子たちの一人が、広い室内からこちらの様子を窺っている二匹の犬を指差して健司に言った。健司は黙って頷いた。
「ああ、なんて不思議な犬なんだ! 僕らが子供だった頃から、まるで変わってないなんて」
 その声に何人かが反応した。
「どういうことなの?」
「ああ、あいつらは年を取らないんだ。そういう品種だって、前に父さんも話してくれたじゃないか」
「でも、そんな動物がこの世にいるかい? 見てごらんよ。あの昔と変わらぬ勇姿。黒光りする毛並み。赤々とした鋭い目。まるで古代エジプトの神々のようだ!」
「あら、古代エジプトに犬っころの神様なんていたの?」
 息子たち夫婦がそんな談笑をしている間も、二匹の犬は黙ってバルコニーの賑わいを見つめていた。健司は犬たちの方を見返しながら、それで良いのだ、という自信に満ちた合図を送った。健司にとって、アメンとアテンはこの家を象徴する双子の守護神だった。どちらも古代エジプトで崇拝された神の名を冠しているが、神聖であるのが名だけではないことは、健司のみが誰よりもよく理解していた。アメンとアテンは、健司が大富豪の地位を築く上で決定的な役割を果たした。二匹の犬は健司に秘密を啓示した、紛れもない神だった。それゆえ、彼らの存在は健司にとって家族以上であり、それに相応しい特別な待遇を受けてきた。だが、誰も健司が決まって深夜の庭園で犬を散歩させる理由を知らなかった。知ろうとしても、この頑固な老主人がけして許さなかった。
「おじいさま、わたしの絵みたい?」
 ひょっこり後ろから現れた麗奈が、健司の背中を突つきながらそう言った。
「おや、御嬢さんは絵の嗜みがあるのかね?」
 健司は満面の笑みを浮かべて麗奈の顔を覗き込んだ。孫と話している時、彼の表情は幸せに満ちていた。
「うん、うさぎさん描いたの」
「どこにあるんだね?」
「こっち!」
 麗奈はそう言うと、健司の手を引っ張って庭園まで案内した。麗奈は玄関前の草原に点在する兎のトピアリーの影に、お絵かきノートを隠していた。色鉛筆セットもそこにきちんと置かれている。
「ここでつづきを描くの」
「どれ、見せてごらん」
 麗奈は自分の絵を嬉しそうな笑顔で見せた。まるで、自分の大切な友達の一人を紹介するように。健司はまったく感心してしまった。にっこり笑っている擬人化された兎の絵である。きっと、このトピアリーをモデルにしているのだろう。健司は褒めに褒めた。麗奈はすっかり有頂天になり、早速つづきを描き始めた。バルコニーの方を見上げると、もう誰もいない。きっと、難しい話を始めたのだろう。女たちは貪るように金を分け合うだろう。だが、彼らが手にする金など、所詮は有限な額に過ぎない。有限であるということは、それが具体的に可視化され得るということだ。一人につき100億与えたところで、たかがアフリカ象の夫婦二匹分、1tにしかならない。1tトラック1台分程度で持ち運びできる量だということだ。トラック一台など、宇宙の無限のスケールからすれば微々たるものだ。そんなものは、健司が握る秘密に較べればあまりにも安っぽいものであった。
「麗奈、おじいちゃんの宝物が見たいかね?」
 健司は夢中で色鉛筆を走らせている麗奈に顔を近寄らせながら、そう小声で囁いた。
「たからもの?」
「ああ、今その絵を見せてくれただろう? だから今度はおじいちゃんが大切にしてるものも見せてあげようと思ってね」
「なになに? れな見たい!」
 健司はその時、麗奈の瞳をすっと見つめた。
「誰にもぜったいに言わないって約束できるかな? ママにもパパにも、クラスメイトにも、先生にも、もちろんさっきのウサギさんにもぜったいに言わないって」
「うん!」
「れなはいずれ、その秘密をおじいちゃんのように守っていくんだ。おじいちゃんが守り続けてきたようにね」
「ねえ、いったい何なの? オモチャ? お車? それとも、ヘンゼルとグレーテルが食べたようなお菓子の家?」
 健司は微笑みを浮かべた。
「この世界のすべてが手に入るものだよ。しかも、けしてなくならない。無限にあるから」
「むげんって?」
「永遠に続いていくものだよ。れなは星の数を数えたことがあるかな?」
「うん、70個くらいまではね」
「実際にはもっともっと多いんだ。でも、その数よりも、もっともっと、多いんだよ。果てしなくね」
 健司は一抹の哀しみを湛えた眼差しで麗奈の頬を撫でると、そっと優しく手を取った。そして、ゆっくりと西の庭園の方へ向かって歩き始めた。あの、秘密の穴がある場所へと……。



二 


 どこまでも続く地下鉄の線路の奥を見つめながら、プラットホームの片隅で健司は沈鬱な溜息を吐いた。電車はいつまで経っても来ない。プラットホームにいるのは、ベンチの脇の可燃物用ゴミ箱を漁り続ける悲愴な身なりの老人と、健司の二人だけだった。老人は悪臭を撒き散らしながら、先刻から「ない、ない……」と呟き続けていた。健司は今にも線路に飛び込みたい気持ちだった。信じて働いてきた会社での失職、それに伴う妻の百合子の出奔、最後の肉親であった父親の病死、更にこうした不幸に追い打ちをかけるように、百合子が密かに作っていた借金の返済を迫る男たちが頻繁に現れるようになっていた。善意から連帯保証人になってしまったことが恐るべき足枷になった。借金取りの男たちは、表面的には穏やかな顔を装いながら、ほとんど脅迫まがいの言葉を平然と言い放った。それらに伴う心労――自分もどこかへ逃げ出したいが、経済的困窮により身動きすらとれないというありさまだった。
 つい一週間前には、生活保護課を訪れ、事情を説明した。自分が今、どれほど生命の維持すら危うい状況に置かれているかということを、頬に涙を伝わせすらして懇願したのだった。その時、相談に乗ってくれた担当者は寛容な眼差しを浮かべながら事情を察してくれたが、数日後に訪れたケースワーカーの若い男の態度はまったく違っていた。既に預金通帳にも手持ちの財布にもお金がないことを証明したはずだったが、ケースワーカーは五、六年前に百合子が作成していたらしい知らない銀行口座の預金残高が不明な点を指摘し、これがわからない限り申請は受理されないと主張した。だが百合子は既に行方を眩ましていたし、電話も繋がらない状況だった。住民票での居住地が二人一緒のためため、申請の際には二人分の残高を証明できる資料が必要となる。百合子の件は警察にも捜査を依頼していたが、彼女が現れない限り、どうしても申請は受理されないのだった。自分が身代わりとなって困窮しているのに、逃げ出した百合子が足を引っ張って生活保護さえ受けられない現状を、健司は心底呪った。憂鬱を通り越して、この世の地獄を目の当たりにしているかのようだった。精神的に追い詰められ、ろくに食べることもできず、虚ろな顔をしながら天井を眺めることが多くなりつつあった。最後の手段として電話した生活支援センターの窓口では、妻が行方不明になって警察が介入していることを聞くと、途端に弱腰になって公的な解決手段を何一つ提示してはくれなかった。
 一人の人間がこれほど苦しみ、地獄の底で凍え死にそうになっているというのに、国家は何一つ救済の手を差し伸べてはくれない。健司はそんな怨みと憤慨と絶望が入り混じった暗澹たる感情に取り憑かれていた。これまで信じてきた友人も、仕事を失い、警察が介入していることを知った途端、急によそよそしくなり、他人面を始める。いったい、自分のこれまでの世界はどうなってしまったのだろう。少年時代、あれほどの美しさに感動した大自然を写した地球図鑑に、今襲い掛かっているような地獄絵図が記載されていただろうか。本当に、これは現実なのだろうか。実はこれは休日の白昼夢であり、隣には昔と変わらない微笑みを浮かべる百合子が、こちらに優しげな手を伸ばしているのではないか。――そう、あなたは今、恐ろしい悪夢に魘されているだけよ……。でも、もう大丈夫、夢はしょせん、目覚めれば消える幻に過ぎないわ。あなたは明日も、いつもと同じデスクで、ばりばり仕事をこなしているのよ。そして帰宅したあなたは、幸せそうな顔でわたしが作ったクリームシチューを食べているのよ……。――健司の意識に、麻酔のように残酷な虚像が過る。
「危ないっ!」
 電車の凄まじい警笛で、健司は我に返った。駅員が健司の体を必死に取り抑えている。眼前すれすれで回送電車が通り過ぎた。
「もう少しで死ぬところでしたよ!」
 若い駅員は冷や汗をかきながら、健司の腕を強く握り締めていた。プラットホームには、いつの間にか何人か人が集まっている。母親と手を繋いでいる小さな女の子が、蒼褪めた顔で健司を見つめていた。健司の意識は、まだどこか朦朧としていた。
「大丈夫ですか……? 救急車を呼びましょうか?」
 駅員は健司の顔を覗き込みながらそう言った。あの老人は相変わらず、失ったものを必死で探すようにゴミ箱を漁り続けている。
「いいえ……。大丈夫です……。ご迷惑をおかけしました」
 健司は魂が抜け去った死人のように感情のない笑顔を浮かべると、ふらふらと階段の方へ歩き出した。すぐさまトイレに駆け込み、一番奥の扉を開けて鍵を閉めた。誰もいないところで冷静に今の自分を見つめる必要があったのだ。彼の鼓動は凄まじく高鳴っていた。あれほどなんとか生き延びようと必死になっていたが、たった一歩線路に進み出ただけで、全てが台無しになる瀬戸際まで来ていたとは。あの驚愕したような少女の表情、周囲にいかなる気も配らずにひたすらゴミ箱を漁る老人の横顔……。そういった直前の光景が、危うく生の最後の局面になるところだった。自分は今、確かに生きているのだろうか。九死に一生を得たことが、健司の意識を奇妙にも高揚させ、手足を落ち着かなくさせていた。そもそも、自分はなぜ駅にやって来たのだろうか。どこに行くわけでもない。たとえ行ったとしても、もう帰りの切符を買うお金も残されていなかったというのに。
 健司はその時、はっきりと自分が極限の沈鬱さに衝き動かされるようにして、地下鉄まで死にに来ていたのだということを悟った。ここ数日、生き延びてやろう、なんとかこの不条理で残酷な世界を生き延びてやろうと、健司はもがいていた。だが、いつの間にか生への執着は、死の誘惑に交替していたのだ。健司は自分の心の中で、希望よりも、消滅への渇望が強まっていたことを改めて実感した。その意識の反転劇を、今はっきりと自覚した。そう、健司は本当は心から死を願っていた。誰よりも、死こそ最速で一連の解決不能な問題を処理する手段であることがわかっていた。だが、それは最も強力で唯一無比な効果を発揮するがゆえに、文字通り、人生の最終手段としてどこまでも回避されねばならなかったのだ。その一歩手前で、彼は見知らぬ駅員に奇跡的に助けられたのだった。
 健司は自分の掌を見た。それは、生きている存在の、緊張と不安によって脂汗に覆われた手だった。あの老人はこれからも永遠に失った何かをプラットホームの片隅で探し続けるだろう。だが、自分は見つけた。自分はなんとか生きねばならない。生きねばならないのである。たとえ汚物に塗れた暗い洞穴の中ででも、血の涙を流しながら、歯を食い縛って生き続けてさえいれば、きっと最後に微かな光が届くだろう。だが、どうやって生きていけばいいだろう。この苦境をいかに乗り越えるべきだろう。とにかく必要不可欠なのが金であることは一目瞭然だった。それを死に者狂いで稼ぎに稼ぐ必要があることだけは間違いない。金、金、金……健司がこの瞬間ほど、生きる上で経済力こそが最も信頼に足る人生の基準であることを痛感した日はなかった。自分には今、それが絶対的に不足している。なんとかしなければ……。だが、どうやって……? 健司はわなわなと両手を震わせながら、万札を鷲掴みしている自分の姿を想像した。

 
 生きてやるという固い決心を秘めて、健司は地下鉄から自宅アパートへ向けて歩いていた。辺りは既に薄暗くなっており、公園の街灯の近くで数匹の蛾が飛び交っていた。この公園は運送会社の広々した敷地に隣接しており、周囲も工場や倉庫が多く、夜になるとほとんど人通りはなかった。ふと、砂場の辺りからがさがさと音がする。見やると、二匹の野良犬がしきりに砂場のある地点を掘り返そうとしていた。荒々しい息を吐きながら、無我夢中で一点を前肢で掘り続けるその狂気じみた光景は、健司の脳裡に思わず、あのゴミ箱を漁る老人の一心不乱な姿をフラッシュバックさせた。取り憑かれたように、あの野良犬はいったい何を探しているのだろう。しばらくフェンスの網目越しにその様子を眺めていると、野良犬たちは突然、雷にでも撃たれたように背筋を真っ直ぐに伸ばし、静止した。石化した二匹とも不気味なほど奇妙な笑みを浮かべて、夜空を眺めている。数秒――いや、もっと短い一瞬、健司は犬たちのその謎めいた仕草に目を奪われた。犬たちは一声遠吠えをあげたかと思うと、素早く反対側の公園出口へ向かって駆け出した。辺りは再び静かになり、健司だけが誰もいない公園に残された。
 いったい何が埋まっているのだろう。健司は砂場に近付き、バスケットボールが5、6個ほどは入るその穴を見下ろした。明滅する街灯に照らされて、底で何かが光っている。コインだろうか。健司はおもむろに手を伸ばし、それに触れた。拾い上げて、健司は目を見開いた。500円である。古いタイプの白銅色の500円硬貨ではなく、淡く黄金色に輝くニッケル黄銅素材の、あの正真正銘の500円硬貨だった。それも、穴にはまだまだ500円が散らばっていた。健司は昂奮のあまり、思わず感嘆の声をあげた。片手でひと掻きしただけで、ざっくり30枚前後は掬い取れた。いったいどれほどの枚数が、この人気のない夜の公園の一隅に埋まっていたのか知れない。健司は狂ったように、掬い上げてはまた掴み、掬い上げてはまた掴み取る行為を繰り返した。土の層がそこから以下、果てしなく500円硬貨によってじゃりじゃりと埋め尽くされ、硬貨の層を形成しているかのようだった。掘っても500円、幾度掘っても掘っても、際限なく500円硬貨が溢れ出てくる。健司は辺りを見回し、誰にも見られていないか注意した。やはり自分以外、公園は無人である。あの野良犬たちも最早いない。目の前には、泉のように湧出し続ける500円玉の山のような塊が堆積している。健司は持参していた鞄に詰め込めるだけ詰め込んだ。足りない分は、茂みの端に打ち捨てられている古い段ボールを組み立て、そこに入れた。それでも、まだまだ足りない。500円玉は間欠泉の迸りのように、穴の底からどんどん沸き上がってくる。健司は嬉しさのあまり、これは夢かと疑った。強めに頬を握ると、痛みが走る。やはり夢ではない。これは――この奇跡のような金の泉は、まぎれもなく目の前にある現実だった。
 一抹の不安が健司の脳裡を掠めた。もし、これら全ての500円の発行年度が同じであったらどうしよう。偽造硬貨の場合、すぐにそれとわかるような違和感があるのではないか。例えば、どの硬貨も発行年度の表示が一様であったり、連番が続いているような場合。あるいは、普通の500円より少し軽いとか、逆に重過ぎる、花の絵柄が微妙に違うような場合。急速に心配になり始めた健司は、慌てて携帯電話の画面を開き、市場に流通している500円硬貨の特徴をチェックした。一般的な500円玉の模様は、表面に桐が、裏面の左右に橘、上下に竹が描かれている。重さは7.0g、直径は26.5mmであり、新500円硬貨の場合、平成12年から発行が開始されている。見たところ、掘り起こしたものは全て新500円玉だった。もし、この中に旧500円玉の発行が終了した平成11年以前のものが混じっていれば、それは何かのプレミア版でもない限り、偽造だということになる。こういった疑問点を調べるため、健司はいったんアパートに引き返すことにした。穴の上には別の段ボールの板を被せ、巧妙に土を覆ってカムフラージュしておいた。確認が取れ次第、再び公園に舞い戻るつもりだったのである。
 狭いアパートの薄暗い一室で、健司は机に山盛りの500円玉を広げた。隣室に響かないように細心の注意を払ったが、広げた時は大量の金貨を床一面にばらまいた時のような胸をときめかせる音が響き渡った。秤、物差し、虫眼鏡を取り出す。懐中電灯を当て、それらの小道具を使って一枚一枚、念入りに偽造ではないかチェックしていく。平成15年、平成18年、平成23年、平成28年、平成17年……。一枚一枚、血眼になりながら健司は硬貨を命懸けで検品した。途中で、手が震え始めた。昂奮が祟り、妙な尿意を催して幾度もトイレに足を運んだ。犯罪に加担しているような、暗く後ろめたい気持ちがどろどろと胸の奥から沸き起こる。罪悪感は粘っこく糸を引き、何度振り払おうとしても無駄だ。あの駅員に呼び止められ、命が助かった時、健司は確かにとことん生き延びてやろうと決意した。だが今や、彼は生き延びるための手段である金の完全な虜になっていた。生きるためには金がいる――これは全世界共通の不変の事実だ。どれほど金とは無縁に慎ましく禁欲的な生活を送っていても、ひとたび世俗に解き放たれたならば、この掟に従わざるを得ないだろう。他人を蹴落としてまで金が欲しいとは思わない。しかし、困窮している我が身にあって、この奇跡をみすみす見逃すことは愚の骨頂に思われた。何らかの超越的な存在からの贈り物だろうか。それとも、ヤクザがあそこに纏まった金を埋めていたのだろうか。だが、どういうわけでわざわざ幅を取る500円玉にしたのだろう。万冊をトランクに入れて地中深く隠した方が量を圧縮できるし、まだ発見を免れ易かったのではないか。それに、隠し場所を教えてくれたあの謎めいた二匹の野良犬も、考えれば考えるほど不可思議な存在だった。
 健司は再び公園へ走った。考えていても始まらない。今はとにかく、金を全て持ち帰ることだけを考えよう。罪悪感と向き合うのは、それからでも遅くはない。健司はそう考えながら、穴の前に立った。下を見下ろしてみる。500円玉は掴んでくれるのを待ち侘びていたかのように、そこで妖しく光り輝いていた。健司は早速続きを始めた。掴んではリュックに詰め、掴んではリュックに詰めを繰り返す。一つ目のリュックがはち切れんばかりに膨らんだら、次のリュックに詰め込んでいく。まるで宝島で金塊を発見した海賊のような高揚感だった。金塊は果てしなく溢れ出てきた。どれほど掘削し、たとえマントルまで突き抜けようが、今後一切は500円玉しか現れない勢いだった。手が赤らんできた。鼻先に蚊が、頬に蠅が止まっても気付かなかった。一心不乱に、悪魔に取り憑かれたかのように健司は金を掴み、この千載一遇の奇跡を食らい尽くした。いったいどれほどの時間、その作業を続けたことだろう。夜が明け、雀が鳴き始め、早朝のマラソンに精を出す中年男性がフェンスの向こうを走っていくのが見えた。徹夜明けの作業で、はたしてどれほどの大金を掴んだだろう。一夜のあいだに、健司はアパートと公園のあいだを実に37往復もしていたのである。掌には血豆ができ、それが潰れて更に血と膿が流れ出しても、健司はまったく気にかけなかった。掘る、掴む、詰め込むという単純作業にひたすら没頭していたので、顔を上げていつの間にか朝陽が昇っていたことを知った瞬間の彼の顔は、まるで何十年も眠り続けてようやく目醒めた患者のようだった。
 それでも健司は、睡魔を押し殺して38度目の往復に挑もうとしていた。彼をそれほど切迫して駆り立てたのは――他でもない、止め処なく溢れ出る底無しに貪欲な罪深い穴が齎してくれるであろう、将来の不動の安定である。金がありさえすれば何でもできるだろう。無限に金が湧いてくる以上、もう働く必要もない。一生、遊んで暮らせる。女遊びに一晩で十万使ったとしても、そんな端した金は健司がその夜に掘り起こした大金と較べれば、微々たるものに過ぎなかった。百合子がこのことを知れば、血相を変えて戻って来るだろう。縒りを戻して欲しいと哀願するだろう。だが、健司にはそんなつもりはなかった。今や、彼の薄汚く狭いアパートの一室には、所狭しと500円玉の堆い山が聳えていた。人が埋もれるほどの、もう眠れるスペースはおろか座布団を敷く程度の空間さえ存在しなかった。ぎっしりと、金の山で埋め尽くされていたのだ。玄関でそんな壮大な光景を瞳に写している健司の顔には、どこか末恐ろしい怪奇さが漂っていた。遂に彼は疲れ果てて金の山にざっぷりと浸かった。積まれていた山は崩れて黄金の海になった。
「ない……ない……」
 鼓膜の内側から、聞き覚えのある低い声が鳴り響いてくる。
「足り……ない……まだ……足りない……」
 それは地下鉄にいた、あのゴミ箱を漁り続ける奇怪な老人の声だった。
「まだ足りない……掘っても掘っても……掘っても掘っても……まだ足りない……」
 次の瞬間、健司は意識を失った。体力も精神力も、今や限界に達していたのである。


 健司が目覚めたのは昼過ぎだった。目を開いた瞬間、跡形もなく金が消失している可能性もこの時まではまだ半分ほど信じていたが、それが夢ではなかったことは眼前の莫大な硬貨の山が証明していた。早速、健司にはやらねばならないことが沢山あった。まず、発掘したこの硬貨の総計のカウントである。健司の手は大きい方で、両手に山盛りにすると100枚前後入る。これは100円均一ショップなどで市販されている500円用コインケース2本分に過ぎないが、一回の両手分で少なくとも5万あるということだ。これをリュックで20回、段ボール箱で60回、それぞれ満杯になるまで繰り返したはずなので、アパートまでの1往復を少なくとも約400万として計算する。それを昨夜は記憶にある限り38往復したので、単純計算で1億5千2百万――手から零れ落ちたりした分を差し引いたとしても1億は確実にあるだろう。現在の室内にある500円玉総数はざっと30万~30万4千枚ほどだろう。
 次に、これを安全かつ速やかに両替する。銀行では手数料がかかるので、郵便局で預り入れをし、札束で引き出すという手段を取る。防犯カメラに何度も出入りしている不審者が映るのは危険なので、できるだけATMの多い郵便局を何店舗か選び、分散して両替していく。入金の際は無論、2万5千円分入るコインケースから取り出すようにする。一週間で100万ずつ両替していったとしても、152日、一年の1/3も費やすことになってしまう。部屋に第三者がいつ立ち入ることになるかもわからない状況なので、より迅速に両替したいところだった。百合子が残した借金227万は、明日にでも先に返済しておく必要がある。健司にとって、取り立て人が部屋を覗くことの方がリスクが大きいのだ。何もなかったはずの部屋に、突如として大金が積まれているのを発見すると、彼らはきっと警察に通報するか、最悪の場合、より恐ろしい手段に出るだろう。そのリスクを考えると、百合子の残した返済分の処理を可能な限り最速で行わねばならない。
 健司は先の手段で両替を済ませると、返済手続きをするために件の消費者金融の事務所へ向かった。遅延金なども含めて50万更に増えていたが、問題はなかった。あまりの手際の良さに担当者も急に態度を軟化させ、帰るときは鄭重に玄関まで見送ってくれたほどだった。これでもう、借金取りはやって来ないだろう。翌日、健司は同じ手段で100万を両替した。郵便局へ行く時は、行きは重いが帰りは軽かった。厄介なのは預り入れ作業中で、コインケースを一本ずつ取り出しているとはいえ、なかには不審な視線をこちらに投げかける人もいた。それでも、だいたいにおいて健司は人の出入りの少ない時間帯を選んで、効率よく分散的に郵便局で両替を繰り返した。結局、一週間で健司は1000万を札束に両替した。いざ紙幣にしてみると、そのボリュームの少なさに落胆を禁じ得なかった。1億でも縦32cm、横38cm、高さ10cm、重さ10kgの家具程度にしかならない。両替して幅を取らなくなるのは好都合だが、500円硬貨の時のあの圧倒的な多幸感とは比べ物にならないほど現実的で、どこか味気なかった。
 とりあえず、札束にして使い易くなった金は1000万ある。たかが10cm――されど1000万。ティッシュの小さめの箱程度の紙の厚みを、健司は見つめていた。今後の人生、何が起きるかわからないので早急に遊興費に使うこともできない。もっと快適なマンションに越してもいいし、買えなかった最新鋭の家電や車、海外旅行というのも良いだろう。仮に生活水準を今より少し上程度で維持して、少しずつ金を使い回したとしても、かなりの年数は労働から解放されるのではないか。これを担保に更に金を倍増させる投資に乗ったり、カジノで大当たりを狙うなどというつもりも毛頭ない。そんなことをして、せっかく掴んだ大金が水泡に帰す危険に身を曝すほど、健司の精神は病んではいなかった。だが、できることなら大金に相応しい遊びも楽しんでみたい。節約と蕩尽、自制と誘惑のはざまで健司の心は揺れ動いていた。あの駅員にまず御礼をしに行くべきだろうか。そんな思いも過った。
 穴の正体は何だったのか。財宝が眠っていた、あの平凡な薄暗い公園の一隅にぽっかりと開いた穴。あの夜以来、まだ足を運んでいなかった。要心のためというのもあったが、部屋の物理的な制約のためでもあった。最後に立ち去る前、眠かったとはいえ健司はもう一枚も硬貨が存在しないことを念入りにチェックしたはずだった。どれだけ掘っても、あとは土の塊と新鮮な蚯蚓しか現れなくなったのだ。それは残念至極なことだったが、その時は持ち帰ることで頭がいっぱいだった。もし、あの穴が何度でも沸き出す金の泉だったとすれば……? 一回目に1億5千万を溢れ出させ、次回にも再び同じ金額を溢れ出させる、文字通り尽きることのない無限の泉だったとすれば……? 健司はそう考えると、居ても立ってもいられず、即座に確認へ向かった。夜の街路はやはり人気が少なく、公園の周辺はあの夜と同じく無人だった。健司は穴の場所を正確に覚えていた。覗き込むと、そこにはただの空っぽの穴だけが広がっていた。底には煙草と犬の糞しか落ちていない。姿勢を低くして注視したが、10円玉さえ見つからなかった。健司は溜息を吐いた。
 その時、野犬の息遣いが後方のジャングルジム辺りから聞こえてきた。見ると、あの夜と同じ二匹の野犬だった。気のせいか、前よりも体躯が大きくなっているような気がした。目は淡い穏やかな朱色に輝いている。ネオンのような人工的な光ではなく、眼球の奥からじんわりと滲み出ている赤い宝石の柔らかい反射に近かった。しばらく見張っていると、やはり野犬たちは啓示を受けて急に夜空を見上げた。慎重な、何か物思いに耽るような顔で数分感、二匹の野犬は瞑想している。あの時のような底知れない微笑は浮かべず、今夜はどこまでも思索的な印象を与えた。次の瞬間、かっと目を見開いて一目散にフェンスの向こうへと駆け出した。健司は既に、この先の展開を予感していた。そう、あの穴がそこに開いているはずである。近寄ると、予感はずばり的中した。街灯に照らされ、穴の底でじゃらじゃらと500円硬貨が溢れ始めている。あたかも硬化それ自体がジェル状の生き物となったように、それは暗闇の底で蠢きながら健司を誘惑していた。金だ――金が再び、欲望の底へ蟻地獄のように吸い寄せていく。健司は息を呑みながら硬貨の蠢きを見下ろしていた。黄金の蛇たちが巣穴からどんどん溢れ出してくる。
 健司はその時、あることを理解した。穴は無限に存在する。きっと、明日も、明後日も、あの二匹の野犬たちは、自分がそこを訪れる限り、同じ公園のどこかで穴を掘っていることだろう。あれはきっと、埋められたものではなかったのだ。それは今、この瞬間にまさに湧出しているのだ。誰の手にもつかないところで、誰の指紋も、誰の欲望の痕跡も留めずに、黄金の蛇は無限に繁殖を繰り返し、自己増殖を繰り返す。一度軌道に乗ったビジネスが、面白いほど儲かり始めたのを目の当たりにした人のように、健司は含み笑いを浮かべた。さて、これから本当に何をしよう? この公園の秘密は今後も自分一人で死守していかねばならない。一回限りだと思い込んでいた穴は、またすぐに開いた。野犬たちはまた舞い戻るだろう。この公園の土地それ自体を買収できないだろうか。おそらく、この調子だと一年後には名立たる大富豪に肩を並べる資産家になっているだろう。野犬たちはどこからやって来るのか。溢れ出る500円硬貨のように、太陽が沈むと同時にどこからともなく出現するとでもいうのだろうか。健司が究明しておかねばならないことはまだまだあった。この穴の秘密、野犬たちの所在。全ての金は、この二つの要素が源泉になっている。どちらが欠けても金は尽きてしまうのではないか。最も合理的なのは、あの野犬たちを飼犬にし、公園の土地を自邸の庭の一部にすることだ。そこに二匹を放し飼いさせておけば、夜になると自動的に金の在処を教えてくれるはずだ。
 健司はそこまで考えると、既に500円硬貨の詰まった箱で満杯になりつつあるカートに、もう一つ箱を乗せた。深呼吸して、空を見上げる。
「巨大な屋敷がいる……」





 西の庭園の刈り込まれた迷路園に、淡い夕陽が射し込んだ。世界的にも有数の面積を誇るこの庭園に、これほど入り組んだ複雑奇怪な迷路園の入口が存在していることを知っているのは、健司の血を引くごくわずかな親族に過ぎない。彼らも「お爺さまには庭の趣味があるんだよ」程度に軽く捉えていた。息子たちが小さい頃、好奇心を働かせて迷路園の最果てに何が存在するか密かに探ったりできないように、健司はこれまで細心の注意を払ってきた。並外れた才能によって庭園全体と地下空間を設計した造園家と、依頼主である健司以外、実質的に迷路園を完全攻略するルートを知っている者はいなかった。たとえ航空写真を眺めているある人が、たまたま迷路園の俯瞰図を知ったところで、それははるか地下にまで増殖しているこの迷宮のほんの一部を垣間見たに過ぎない。あの金が溢れる泉と同じく、それを隠匿するために造営された迷路園もまた、無限に拡張を続けていくだろう。世界の秘密は隠されねばならないのだ。
「おじいさま、ここは?」
 健司とその孫娘は今、鬱蒼とした背の高い迷路園の入口を前にしていた。
「宝物はこの奥にあるんじゃ」
 健司がそう言い終わるや否や、庭園の向こうから誰かが走ってやって来た。老眼で誰なのかよくわからない。健司は急に押し黙り、仏頂面になってじっとその動きを観察した。
「父さん、それに麗奈じゃないか!」
 声の主は四男の直人だった。
「あっ、パパ!」
「急にいなくなったからママが心配していたよ。でもお爺さまと一緒だったなら安心だ」
 直人はそう麗奈の頭を撫でながら言った。
「なに、庭を散歩していただけじゃよ。この子が描く絵の素材には困らない場所だからな」
 健司はそう言うと、麗奈の手を引いて迷路園から離れようとした。麗奈はせっかく教えてもらえる秘密が遠のいてしまったような、どこか残念そうな表情を浮かべていた。直人は何かよそよそしい面持ちで緑の壁を眺めている。
「それにしても、相変わらず凄い迷路園だ! 小さい頃からあったけど、結局今になっても奥に何があるか僕も知らない。兄さんたちもここは父さんだけの聖域だと言ってたよ」
 直人はそう昂奮した面持ちで言った。
「屋敷へ戻るぞ」
 健司は話を遮って元来た方へ歩み始めようとした。麗奈は祖父と父親の顔色を交互に見つめ、どうしたら良いのかわからない面持ちだった。
「遺産相続の件、弁護士から話は聞いたよ」
 直人が重い顔で健司の前に立ちはだかった。その眼差しにはどこか積年の怨めしい気持ちが滲み出ていた。
「兄弟で僕が一番少ないだね? それは僕が末の息子だからかい? それとも、僕のことをあまり愛していなかったからだろうか? ねえ父さん、この迷路園にあるんだろう? 父さんの秘密が。父さんがこれまでの人生で隠し続けてきた最大の秘密が。そうでなければ、これほど慎重に隠し続ける必要はなかったはずだ」
「何が言いたいんじゃ?」
 健司は直人を睨み付けた。
「分かるだろう? 僕の取り分は兄さんたちに較べるとあまりにもちっぽけだった。確かに、僕には母さんのようなビジネスの才能はない。その点、父親譲りだよ。僕は色んな意味で、父さんに一番似てるってわけだ。そんな僕だからこそ、勘付いてしまう親の秘密ってのもあるのさ。教えてくれよ、父さん。どうせ、この迷路園の奥にあり余るほどの金を隠してるんだろう?」
 健司はこの憐れな息子の姿を見つめながら口を閉ざした。確かに、直人には自分の最も弱く愚かしい側面が受け継がれていると健司は考えてきた。端的に言えばそれは、金を有効に使う才能も確固たる人生プランも持つことができないということに尽きていた。あの穴を夜の公園で発見して以来、健司は数年間、再現なく放蕩に身を委ねた。それが飽きてきた頃に、あるパーティーで若い女社長に出会ったのだった。羽振りが良く、どこか謎めいた印象を与える健司の煌びやかな姿は、新進気鋭の彼女にとっていたく魅力的に映った。彼女は自分の夢や理念について情熱的に語り、過去にある商談で失敗したのはつまるところ、自分たちの会社の資金不足が原因であったと悔しそうに洩らした。健司は彼女の誠実な態度や、しっかりと地に足のついた未来への展望、生きる目的を明確に主張できるその価値観などに、自分には欠落しているものを代理する何かを感じ取った。自分にはあり余るほどの金があるが、その目的がわからない。彼女には確かな方向性と理念があるが、それを実現するための資金が不足している。その時、健司は運命の人は彼女だと確信した。二人は激しい恋に落ちた。やがて結婚し、次々に息子が生まれた。健司の支援のおかげで、妻の企業は飛躍的な発展を遂げた。
 結果的に、健司が現在の会社グループを影で操る会長として君臨できたのも、全て妻の計らいだった。彼女は健司に心から感謝していた。だが、健司はけして金の出先を明かさなかった。自分はとある財閥の社長が残した唯一の忘れ形見で、遺産が使い切れないほどあるとだけ伝えていた。健司を取り巻く現実は激変していたため、過去も巧妙に修正された。まるで、あの貧乏時代が真昼に見た悪夢であったかのように。本当に自分は、つい最近まで1Kの狭苦しく薄汚いアパートで、息を潜めるようにひっそりと生きていたあのみすぼらしく冴えない男だったのだろうか。健司にとって、生活の変革の全ての原因が超自然的な現象に基づいていただけに、それだけ過去との断絶は著しいものとなった。超自然、神秘、奇跡、魔術――そのような言葉以外で、いったいあの夜の公園で起きたことを表現するものが他にあるだろうか。掘っても掘っても、金は沸き出した。金の泉だった。それは紛れもなき恩寵であり、不可視の存在からの贈与であり、そしておそらくは神的な存在との何らかの秘密の契約だった。悪に染まる可能性を十分に認識していた当時の健司は、何としてでも社会貢献できる何かに身を投じたかった。生きる目的が欲しかった。金の有無に関わらず、確かに自分は今、この世界に瑞々しく生きているのだと確信できるような何かが欲しかった。
 与えられるよりも、社会に利益を還元し、贈る側になる方が、いったいどれほど幸福であるだろう! 健司は妻を援助し、妻を通して日本経済に一定の潤いを与えることで、初めて救われた気がした。受け取る一方で日に日に罪悪感が募っていただけに、贈る側の至福を知った瞬間は、健司の価値観を改めて作り替えた。同時に、全ての発端はますます隠蔽化された。秘密は厳重なヴェールで覆い尽くされ、家族にも明かされることはなかった。本当に信頼できる、穢れなき存在が現れるまでは。健司の後半生は、外面的には成功者の一直線だったが、その内面は明らかな分裂を、過去との痛々しい断絶を伴っていた。最も辛かったのは、それを愛する者にさえ打ち明けられず、たった一人で守り続けてきたことだった。孤独な夜、世間にあの穴の存在を知らしめたい衝動に駆られたことがいったい何度あったことだろう。そんな時、決まってこちらを見つめる赤々と輝く二匹の犬の目が、守護神の厳格な掟のように健司の背中に伸し掛った。アメンとアテンは、健司に恵みを与え、秘密を背負い込ませることによって、大いなる孤独と苦しみを同時に与えていたのだ。
「行きたければ行くがいい。ただし、一本でも道を誤ると中で迷って出られなくなる。以前、敷地内に強盗グループ五人組が侵入した事件があったが、結局、迷路園全体の1/7にも満たない地点で餓死しているのが発見された。悪いことは言わん。わしは自分の息子がここを墓場にしに行く姿を見たくはないんじゃ」
 健司がそう言うと、直人は愕然として膝を地に落とした。
「僕は……欲しいんだ……。もっと金が欲しい……。もっと、もっともっと……」
 直人は打ち拉がれたように肩を震わせた。健司は深い憐憫の孕んだ眼差しで、息子の背中に手を置いた。
「そんなに金があってどうする? 今のままでもお前は十分に裕福なはずだ。何一つ不自由のない暮らしを、わしはお前にも与えてきたはず」
「社交界の連中さ……。奴らの中には、底無しに貪欲な輩がいるんだ。単なるスノッブ程度なら、僕だって鼻で笑えるさ。だが、本当に怪物的なほど飽くなき欲望に取り憑かれた奴がいるんだ。金に取り憑かれ、再現なく遊び狂っているだけじゃない。他人の命まで、快楽のために買い取っているんだ……。僕は、そいつが許せない……。いや、正直に言えば……僕の内にこそ、そんな怪物が巣食っているんだ……。僕が怖いのは、僕自身なんだ……」
 健司はあたかも、自分の過去の姿を見るような目で、息子の姿を見つめていた。健司はその瞬間、これまで近親憎悪の対象であったこの末の息子に、初めて血の通った憐れみと慈しみのようなものを感じた。あの時の自分とは較べものにならないほど恵まれた環境下でさえ、人はこれほどまでに苦しむものなのか。人はなぜ苦しむのか。金が全てを解決できると本気で妄信している者のみが、これほどまでに欲望を煽り立てられ、破滅への道へ突き進んでいくのだろう。金は素晴らしい。だが、同時におぞましい。金は恵みである。だが、同時にそれは人を富ませることによって何らかの代償をも与える。その究極的な何かはけして誰にも、本人にも認知されない。金は与え、そして奪う。あり余る金があること、それを常に独占できる状況下にあり続けなければならないこと――それは実は不自由なのだ。金を稼ぐことが目的であった人は、それを頂点にまで極めた時点で目的を失う。足るを知ること――それはけして、金の多寡によって条件付けられてしまうものではない。健司は三年の蕩尽の末に、分け与えることに真の幸福を見出したのだった。与えられることではなく、分配することにこそ、真の喜びを発見したのである。
「今、ようやくわかった。わしは変わったはずじゃった。だが、今の今まで、わしは恵みを独り占めしようとしていた。ついて来なさい、二人とも。直人と麗奈、お前たち父娘に、わしが愚かにも独り占めしてきた無限の正体を見せよう」
 健司はそう囁くと、二人の手を取った。そして、ゆっくりと、それ以上けして言葉を語ることもなく、迷路園の中を歩み始めた。彼は自分の死期が既に近いことを予感していた。だが、最後に彼は最大のものを贈ろうと決心した。
 人は裸で生まれ、裸で還る……。

マモン ©D

執筆の狙い

お金に取り憑かれた人を書いてみました。
よろしくお願いします。

D

60.137.228.83

感想と意見

童子繭

文章はすごい素晴らしいかっこいい 真似たい うらやましい 

でも 展開はなんかもったいない もっとなんか 理由というか なんか カタルシスがあればよかった

なんでこの人だけがその穴を見つけたのか?
結局この運が良い一族は彼の恩恵でさらに運がいいままなの?
因果応報もサプライズもなにもないの?

このお金は孫娘が将来努力して稼ぐはずだった金を前借して使っていたとか? 日本の巨大な国家債務が子々孫々に受け継がれるみたいな?

なんか おちがおれがよかったのに と思いました

でも文章はもう感服でっす

中島ラモの 『光の王』 俗物の信仰がかなって一介の穴掘り風情からのし上がって宝石王に 最後の結末が・・・・

に雰囲気が似ていますね

2017-05-18 20:42

27.120.134.1

五月雨をあつめて早し最上川

駆け足でざざざーっと、ストーリーの大筋だけ追いました。

書き出し、二章のあたま、 

>どこまでも続く地下鉄の線路の奥を見つめながら、プラットホームの片隅で健司は沈鬱な溜息を吐いた。電車はいつまで経っても来ない。

から始まった方が、ドキドキ感が維持できていいような気がする。
現在のカタチだと、主人公が富豪になる事ははじめから分かっているので、500円玉じゃらじゃらに熱狂し、掘り出して換金方考えている部分がスリリングではない。
(この部分の描写、結構執拗で長いのに)


個人的に500円玉の重量感サイズ感じゃらじゃら音が好きで、500円玉貯金までしていた。だから、本作の500円玉愛?も分かるんだけど、
この湧き出る富って、「金、ゴールド」じゃダメなの?
富の源泉ここ掘れワンワンが「古代エジプトの神の名前」を冠しているだけに、そう思った。(個人的に)


駆け足で、細部まで読んでないので、見当はずれな意見になるかもですが……

古代エジプト神の名を冠した黒犬? で、普通連想されるのは「アヌビス」。
だから、主人公なり息子の誰それなりが「ぴっちりミイラ状態に包まれ葬られる末期」を、どきどきして待ってしまってましたが、

本作のラストは、

>人は裸で生まれ、裸で還る……。

エジプトはそうじゃないよねー と、すこし落胆してしまった。

2017-05-18 23:47

219.100.84.126

五月雨をあつめて早し最上川

追記になって申し訳ない。


全体に文章は達者なのに、題もシンプルイズベストでいいと思うのに、書き出しがの1文が……

>穏やかな春の晴天――二台のリムジンが広大な美しい庭園に止まった。

「穏やかな春の晴天」ってちと安直表現すぎるし、「頭痛が痛い」みたいで、まず違和感が。
そして、「二台のリムジンが広大な美しい庭園に止まった」も……なんだか状況がちょっとおかしいような?


直後の描写が、

>ほぼ同時に扉が開き、それぞれ中から上等な服を着た男女が噴水の傍に降り立つ。その中には赤いリボンをつけたバロック時代の御姫様のような洋服の少女も混じっていた。三階のバルコニーから眺めていた健司には、それが誰であるのかすぐにわかった。

英国式庭園みたいなのを備えたお屋敷を想像して読む訳だけど、玄関に屋根つきのポーチ?が貼り出してて、そこに車や馬車を回す用のロータリー?があるよね、英国ドラマ等だと。

2017-05-19 00:06

219.100.84.126

D

童子繭様へ

こんばんは。
読んでくださってありがとうございます。

カタルシス!
まさにそうですよね。
構成が甘いのかな。
わたし、ストーリーのプロットを練るのが超ヘタで、いっつも書きながら考えちゃうんです。
もっと因果応報みたいにした方が良かったですよね。
たしかに、本当にそうですよね。
童子繭はプロットとかどうアイディア出してるんだろうな。。。
読ませるプロットで文章も維持させるのってホントむずかしい。。。

今回はありがとうございました♬

2017-05-19 00:19

60.137.228.83

D

あっ! 
すいません!
童子繭さんの「さん」が抜けました。
謹んで訂正します。てへぺろ

2017-05-19 00:20

60.137.228.83

D

五月雨をあつめて早し最上川様へ

こんばんは!
読んでくさだってありがとうございます。

>現在のカタチだと、主人公が富豪になる事ははじめから分かっているので、500円玉じゃらじゃらに熱狂し、掘り出して換金方考えている部分がスリリングではない。


あぁ!
そっかぁ、そうですよね。
実は。。。わたし、二から書いてたんです。
あとでシャッフルして一を付け足したんですが、そのせいで大富豪になったっていう落ちがわかっちゃいましたね。
大富豪の秘密が明かされてく、みたいな感じで考えてたんですけど、逆にダメになっちゃったかな(涙)

>古代エジプト神の名を冠した黒犬? で、普通連想されるのは「アヌビス」。
だから、主人公なり息子の誰それなりが「ぴっちりミイラ状態に包まれ葬られる末期」を、どきどきして待ってしまってましたが、

そうすれば良かった(笑)
アヌビスっていうんですね!
本とかあんまし読まないダメ人間なので初めて知りました!
ミイラ化エンドも全然アリだと思います。
ってか、ほんとそっち路線で推敲しようかなー。
孫娘をミイラにして悲壮感出すとか♬

>「穏やかな春の晴天」ってちと安直表現すぎるし、「頭痛が痛い」みたいで、まず違和感が。
そして、「二台のリムジンが広大な美しい庭園に止まった」も……なんだか状況がちょっとおかしいような?

たしかになんかアンチョク。。。
ここは修正しないと!

>英国式庭園みたいなのを備えたお屋敷を想像して読む訳だけど、玄関に屋根つきのポーチ?が貼り出してて、そこに車や馬車を回す用のロータリー?があるよね、英国ドラマ等だと。

ここはおばあちゃんちの庭をイメージして書いてました。
庭の前にまず正門があって、その先に家の玄関があるんです。
だから家に入るために必ず噴水とか通らなきゃダメで、いちいちメンドクサイというか。。。
様式的にいえば、英国式風景庭園とフランス式幾何学庭園がミックスしちゃったかんじ? です。

今回はとてもありがたいタメになるコメントをありがとうです♬
また書いちゃうのでよかったら来てくださね。

2017-05-19 00:34

60.137.228.83

五月雨をあつめて早し最上川

>実は。。。わたし、二から書いてたんです。

うん、それは、ざざざーーっと眺めている状態でも、すぐ分かった。
文章の練り上げ度?と力の入れ方が、歴然と違ってたんで。


作者さん、基本出来てるし、もう全体にお上手なんで、「1」から始めても支障はないし、ラストの持ってき方(〜その対比?)次第では「1」から始めた方がいい場合も実際あるため、
そこは本当にケースバイケース。


精読できれば良かったんですけど・・療養中なため、視力と気力が保ちません。

2017-05-19 14:37

219.100.84.126

D

五月雨をあつめて早し最上川様へ

遅くなりました!
お返事してくださってどうもありがとうございます。
お友達3人と休日にキャンプに行ってたんですんが、そのまま遭難しかけてました(笑)

療養中でいらっしゃるのに、わたしの作品に感想書いてくれて嬉しいです。
五月雨さんのおっしゃること、次回にも活かせたらいいな♬

2017-05-22 01:38

60.137.228.83

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