作家でごはん!鍛練場

『劉裕(2章/全9章、257枚)』

佐藤著

重篤な長い物語を書けない病患者です。佐藤です。
現在カクヨムの連載システムに乗っかって、長いものの執筆に挑戦中です。

それが今回提示させて頂いた作品、
五胡十六国時代を代表する英雄の一人、「劉裕」を描く物語。
物語としてはようやく長いプロローグが終わったという感じではありますが、
ここまで書いてきて、ふと気になりました。

ここから先を書いていくにあたって、
どのようなバランス感覚の元に書き進めるべきなのだろう、と。

現在は一章が軽く、二章が若干重め、となっていますが、
一章の重さを二章に寄せるべきか、あるいはもう少し二章を軽くすべきか、
そう言ったところで迷っております。

だいぶ長い原稿になってはおりますが、
ここから先の物語を編むにあたっても、
ここまでの原稿にどのような印象を得たか、
を聞かせていただくのは有用であるよう思いました。

よろしくお願いします。

序幕  旅の涯て


 庵の縁側に腰掛け、そよぐ柳の枝を眺め、ふ、と息を漏らす。
 庭先に植えられている、五本の柳の木。それが先生の号の由来だ。
「ン、のどかで好いな」
 先生が差し出してくれた濁り酒を喉に流し込むと、どんだけ盛大にしゃべり倒したのかを実感する。こんだけカラカラになってて、しかも、そいつに気づかなかったなんてな。
 それに、すぐ酔いが回る。
 揺れてんのが柳じゃなく、己のほうだ、って言われても、あっさり信じちまいそうな気さえした。
「面白い話だったよ、旿の字」
「あんがとよ、先生にそう言ってもらえりゃ叶ったりだ」
 にしてもねぇのかよ、ツマミはよ。わざと文句を垂れたら、柳で十分だろ、って返された。この偏屈、きっとそんなんだからかかあにも逃げられんだ。
「にしても、龍、とはね」
「あァ、見ちまったからな。信じるっかねェ」
「疑わないよ。信じもしないけど」
「それ疑ってる、ってんじゃねェの?」
「いるってお前さんが言うんなら、それでいいだろうさ。いたからこそ、お前さんはこれまでやってこれたんだろ?」
「んー、なんか丸め込まれてねェか、己?」
「アタシが知ってんのはお前さん、だからね。龍じゃない」
「じゃ、それでいいや」
 風の向こうに、鉄のにおいを感じる。
 もうって言うべきか、気を利かせてもらえたって言うべきか。
「寄奴の野郎、随分急かしてきやがんな。或いは三莫迦か」
「来たのかい?」
「あァ」
「道済もご苦労なこったね、あんなのに使いっ走りさせられて」
「アレは融通利かねェからな。しゃあねえんじゃねェの」
「宮仕え向きじゃないとは思うんだがねぇ」
「ハハ、違げぇねェ」
 柳の向こう、開け放たれたままの門から、馬にまたがり、烏帽子を折り目正しくかぶった細面のおさむれぇ――道済が現れた。その後ろには朝服、帯剣の奴らが続く。
「おいおい」先生が手にしていた杯を置き、立ち上がった。
「無作法だね道済、せめて頭のもん位下ろせないのかい」
「失礼致しました、五柳先生。とは申せど、此度は公務ゆえご容赦を」
 先生が苦笑交じりのため息を漏らす。己もそいつを真似しようと思ったが、さすがに奴のやぶ睨みをまともに浴びちまうと、そうも行かねェ。
 それにしても寄奴のヤツ、天下に鳴らす大将軍、檀道済さまを随分シケたお仕事に充ててきたもんだ。もちろん先生との知己ってのもあるんだろうが。
 きつく引き締まった口元にゃ、いかにも余裕がねェ。ついでに言や、後ろにあんだけ従えといて、己のことを軽く見る気もさらさらねェらしい。こちとら疲れと怪我とで、もうろくすっぽ動けもしねえってのに。
「随分逃げおおせたな、白髪」
「あァ、お陰でクタクタだ」
「宋王より、首だけでいい、と言われている。ここで仕舞いだ」
「あいよ」
 道済の取り巻きが動くと、数人がかりで己をふん捕まえてきた。縄が己の身体のそこかしこを締め付けてくる。だが、もう痛みなんざろくすっぽありゃしねェ。
「なァ道済、先生の庭を己の血で汚してくれんなよ」
「心得ている」
 初めて薄ら笑いが浮かぶ。へへ、と己も笑ってみせた。
 無理に引っ立てられるようなことはねェ。先生の方に振り向くことくらいは許された。熊みてぇにずんぐりした顔。隠匿の詩人とかぬかしやがるが、道済よりもよっぽど武人くせェツラしてやがる。しこたま飲んだくれてるせいで、少しその鼻が赤らんでた。目の辺りもちょっと緩んでる気はしたが、そいつァたぶん酔いのせいだろう。
「じゃァな、先生。楽しかったぜ」
「あたしもだよ。息災でな」
「無茶言いやがる」
 そんで、へ、って笑い合った。

 柳の木を間を抜け、門をくぐり。
 先生が耕してきた畑を抜け、やがて道は林に差し掛かる。
 仰々しい行列の真ん中、己を真ん中に置き、その真後ろにゃ道済。
「白髪、いやさ、丁旿」
「おう」
「独り言を言う。聞き流せ」
 何だよそりゃ、思わず吹き出しそうになる。振り返ろうとも思ったが、そいつァ己を引っ張ってる役人が許さなかった。
「つくづく思う。ここまでの道のり、長くも、短くもあったものだ」
「あァ」
「初めて貴様と出会ったのは、淝水の折であった。あの頃には、よもやここまでの付き合いになるとは思いもよらなんだ」
「あの頃のおめェの目つき最悪だったよな、今もひでェけどよ」
「五斗米道戦では、多くの窮地にも立たされた。しかし勝ち残るたび、不思議と高揚していったことを覚えている。それは今にして思えば、宋王の旗の下で剣を振るう事に、確信のようなものを感じていたからのようにも思う」
「あん時ゃ祭りみてェなもんだったな。夜の酒が旨かった」
「桓玄打倒の軍を起こした折には、何か見えないものに突き動かされていた気がしたものだ。よもや、隣で共に剣を振るっていた男が晋の中枢を握るに至るとは思いもよらなかった」
「巡り合わせなんだろうな。夢でも見てんのかって思ったぜ」
「南燕を下し、盧循を追い詰め。そして国内での勢力を盤石のものとし。気付けば京口の野良犬が晋軍十万の帥。野良犬に従う自分までもが、このような立場となるにまで至った」
「まァ似合わねェよな、アイツにも、お前ェにもよ。もうできねェもんな、莫迦な事なんざ。ほんっと、ご愁傷さまだ」
 カラカラと笑う己に対し、役人どもが凄みを利かせて来てた。
 知ったこっちゃねェ。こちとら、もう死人だ。
 やがて、ちょっとした広場に差し掛かる。
 道済が行列に停止を掛けた。すると役人どもが、ぐるっと己を取り囲む。
 ようやくこれ以上歩かなくて済むんだ、己ァ思わずため息をついた。道済に向き直ると、どっかとあぐらを組む。
「さ、とっとと終わらしてくれ」
「承った」
 檀道済が剣を抜くと、役人どもが俺の上体を抑え込む。
 いちど刀身が、己の首を軽く撫でた。
「正直に言えばな、丁旿。貴様のことを、羨んだこともある」
「だろう?」
「――この期に及んで、苛つく男だ」

 地面に落ちる己の影が広がり、


第一章 龍、来たりて


 長江の向こうには化けモンがいる。
 ガキの頃からさんざっぱら聞かされてきた話だ。
 向こう岸も見えてこねぇ、このクソでっけえ川。
 いつかすげぇ将軍さまが現れて、己らを川の向こうの故郷に連れ戻してくれる。そんなことを、爺さん婆さんがこぞって言い聞かせてきた。
 けど正直、なんでアイツらがそんなことを話してくんのかよくわからねェでいた。己ァ京口の町で生まれ、そして京口で育った。ジジババどもが、その化けモンとやらに追われて長江の向こうからおん出されたとか言われても、まるっきりピンときやしねェ。
 そもそもこちとら街中をたむろしてる荒くれどもの世話で、あっちゅう間に昼夜が吹っ飛んじまってた。化けモンなんぞより、アイツらにぶん殴られたり、ぶっ殺されねぇようにどう立ち回るか、のほうがよっぽど大問題だった。
 京口って町ァ、まァ一言で言ってロクなもんじゃなかった。
 すぐ西にある都と長江をつなぐ港ってもんで、えらい勢いで人やらモノやらは溢れ返る。だからいつも慌ただしいし、やかましい。そりゃ荒くれどもの巣窟にもならぁな、ってもんだ。
 また、ちょっと有名になった将軍さまなんてのが「ホクバツじゃー、ケンドチョーライじゃー」とか言い出しやがる。そんで荒くれどもの雁首ひっ捕まえて、長江の向こうに攻め込もうって町ン中で大騒ぎし始めやがる。
 この将軍さまってのが、下手な荒くれどもよりタチ悪りィ。あいつら偉そうな御託並べといて、結局やんのは追い剥ぎみてぇなもんだった。あげく攻め入った後はズタボロになって逃げ帰ってくんのが常で、しかも帰ってきたら返ってきたで、町で憂さ晴らししてきやがる。
 己みてぇなクソガキは、どうにかして自力で身を守ってかなきゃ、まともに生きてけなかった。同じようなクソガキどもとつるんでな。
 寄奴は――あァ、今は宋王さまだっけな。
 まァ、どっちでもいいか。アイツは、そういったクソガキどもの中でも、当たり前のように王さまだったよ。ガタイも腕っぷしも半端ねぇ、その上気ッ風もいい。博打はとことん下手くそだったけどな。ただ、あいつについてきゃ間違いねェ。当たり前のようにそう思ってた。実際、アイツと一緒じゃなかったら、己みてェな半端モンはとっくに魚の餌ンなってたろう。

「ムカつくんだよ」
 長江の川べりで、アイツはよく言ってた。
「なんなんだよ、化けモンって。そんな得体も知れねぇモンに大の大人どもが怯えて、尻尾巻いて逃げ帰っても来て。そのくせこっちじゃデカい顔でのさばりやがって。なにが大いなる晋国の尖兵、だ」
 こう漏らすような奴だから、当たり前のように兵隊どもともちょくちょく喧嘩してた。よく巻き込まれたもんさ。
 いくら負け犬ったって、相手ァ大の大人だ。はじめはボッコボコにされて終いだった。だが、何せ寄奴の野郎、あっちゅう間にデカくなったもんだから、そこいらの下っ端なんかすぐに相手にならなくなった。
 もめ事やら何やらに引っ張り出されてるうち、辺りの顔役みたいな感じになってったな。荒くれどもをどうにかねじ伏せて、町の奴らがそいつらからひでェ目に遭わないように済む、みてぇなことを請け負うことも多くなった。
 中には、そんな寄奴を気に入ってくれる将軍さまってのもいた。そういう将軍さまの兵隊ってのも、またいい奴が多くてよ。
 はじめに寄奴を気に入って下すったのが孫無終将軍。
 ご先祖は王族らしいが、ご本人はそんな偉ぶったところもなく、己らみてェな奴らともよく遊んで下すったもんだった。
「お主らのような者どもと共に戦えたら、さぞ心強かろうな」
 ため息交じりに、孫将軍が己らにそう言ってきたことがあった。例によって、負け戦の帰り。この時、将軍の部隊はずいぶん死んだらしい。普段はあんまりお仕事の話なんざしちゃくんねえお方だったが、この日ばっかりは別だった。
「将軍、いったい何と戦ってきたんです?」
 ここぞとばかりに嘴を突っ込む寄奴。お前それ聞いちまうのかよってビビったが、当の将軍はそれほど気にする風でもなく「蛮族どもよ」と答えて下すった。
「蛮族? そんなのにボコされてんですか」
「そう言ってくれるな。残念ながら、奴らは途轍もなく強い。特に、氐族の苻堅。奴が蛮族どもの頭に立つようになってから、ますます手が付けられなくなってきた」
 そこから、将軍は長江の向こうに何がいるのかを教えてくれた。もともと己らの先祖が住んでたところになだれ込んできたって言う、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五部族。そいつらがお互いに殺し合いを繰り返していく中で苻堅が力をつけ、他の部族を圧倒、ついには“天王”を名乗るにまで至った、と。
「何だ、化けモン、って訳じゃねぇんですね」
「いや、化物よりもたちが悪い。奴らは我らの同胞を取り込みもする。もともと荒れ野を駆け回っていた蛮族どもは屈強だ。そこに同胞の知恵が加わるのだからな」
 集まった奴らの中で、何人かが将軍の話にひるんだ。
 だが、寄奴は笑った。
「へぇ、面白そうだな。そいつら潰せりゃ、こっちのクソどもにデカい面させずに済みそうだ」
 おいおい、と将軍が苦笑する。
「私もその端くれなのだがな」
 それが笑いごとで済んじまったのは、将軍のお人柄のおかげでもあったんだろう。だが、やっぱり一番は将軍が寄奴にほれ込んでた、ってことだと思う。

 その後己らみたいなゴロツキ、厄介モンどもを、将軍は兵士として招き入れて下すった。ただそれは、いわゆる正規軍として、じゃなかった。
「苻堅、百万の軍を率い、侵攻。」
 最悪の急報に応じ、慌ててかき集められた、急ごしらえの軍。
 それでも、こっちは十万にも届かねェという。
「おい、えらいことになったな」
 そう己に言ってきた寄奴は、やっぱり、笑っていやがった。


「おい劉裕、すげぇなアンタ!」
 後ろからのチャラい呼びかけに、露骨に寄奴がしかめっ面をする。あんま他人の好悪を表に出すことがねェアイツにしちゃ珍しいことだった。
 しかし、アイツを劉裕、って呼ぶのはどうしても慣れねェな。先生に取っちゃこっちの名前のがなじんでるだろうし、そもそも今日びアイツのことを寄奴って呼ぶ奴ァ己くれェしかいねえんだが、そこはまァ、勘弁してやってくれ。
 声の主、名前は諸葛長民。割と名家の生まれらしく、ゴロツキ上がりの己らたァ、もう身なりからして違う。底抜けに明るいってか、一言でいやお調子者って奴だな。
「いや本当、浮民あがりに何が出来るかって思ってたんだけど、あんだけ鮮やかに勝たれちゃ、もう拍手しかねぇわ!」
 ……いい奴はいい奴だと思うんだがな。正直、何喋れば虎の尾踏めるのかを考え尽くしてるようにしか思えねェのが、こう。
 寄奴がピクつくこめかみを軽くほぐして、ひと呼吸、ふた呼吸。何とか怒気だけは誤魔化して、けど仏頂面までは誤魔化そうともせず。アイツにしちゃ我慢してる方だとは思った。何せ今まではそのケンカっ速さだけなら天下取れンじゃねえの、って感じだったしな。
「そう言うお前も、ずいぶんな大活躍だったそうじゃねえの。もっとも、」
 言って寄奴が、アゴで長民の後ろ、ひょろっとした風体の、いかにも根暗そうな野郎に水を向けた。
「だいたいの成果は、そっちの檀道済のお陰、って話も聞くけどな?」
 ぴく、と反応したのは、むしろひょろひょろ、檀道済の方だった。長民自体はまるで激する様子もない。どころか、「だろぅ?」と鼻高々になりさえする。
「本当、すげぇよコイツは。ウチで飼ってた時にゃただの根暗だと思っちゃいたが、いざ戦場に連れてけば、どうよ。まるで別人だ」
 あっけらかんと背中を叩いてくる長民に対して、道済は立ち上げかけた怒気のやり場に戸惑ってるようだった。
「ねぇわ、こりゃ」寄奴が呆れ顔で独りごちた。
 そいつが全く耳に入らなかったか、あるいは言葉の含みに気付きもしなかったのか。「おめぇもすげぇが、俺らもすげぇぜ!」長民が、今度は寄奴の肩を乱暴に叩く。
 そしたら、
「うわ、莫迦が移る」
 己の後ろから、にべもない呟きが飛んできた。
 声を立てて笑いそうになったが、そこは何とか堪えた。
「なんで旿兄ィと言い、兄貴の周りには莫迦ばっか集まるかな」
「そりゃおめェ、道和。アレが莫迦の総元締めだからだろ」
 あと、しれっと己まで混ぜ込むんじゃねェ。道和の頭を小突く。
 寄奴の弟、道和。
 先生もよっくご存知のあの皮肉屋は、あの頃からもう絶好調だった。
「ななな、劉裕! ぶっちゃけ敵にも味方にもろくな奴らはいねぇ! ここは一つ、どうだい? 俺とお前ェさんで組んで、蜀漢の主従よろしく、いっちょどデカく名を上げねぇか!?」
 まるで周りに憚ることもなく、平然とそう言い切るのは、ある意味では肝が据わってる、って言っちまってもいいのかもな。これで後はそろそろ寄奴の堪忍袋の緒が切れそうだってことを察してくれたら最高だったんだが。
「ねぇ、諸葛先生」
 そこに、いい具合で道和が割って入る。骨組みこそちんまいが、寄奴そっくりの目鼻立ちが満面の笑顔してんのを見ると、道和には申し訳ねぇが、正直気色悪りィ、と申し上げざるを得ねェ。
「蜀漢の、ってこた、先生が諸葛亮役? 兄貴が劉備で?」
 長民は唐突の問いかけに呆気にとられたみたいだったが、ややあってその鼻の穴がぷくっと膨らんだ。そして「おっ、まさか知ってる奴がいるとはね」ときた。
 軍隊に入って知ったんだが、お偉い方々ってのァ、昔の偉人やら英雄やらを把握しててなんぼらしいな。巷でも確かに面白おかしく始皇帝だの劉邦だのの名前は聞かないでもなかったが、そういったごっこ遊びどころじゃなく、史書の一句一文まで覚え込む勢いなのには、いやはや、己みてェな無学モンはもう感心するしかなかったよ。
「おうともよ、この大晋国の危地に立つ英雄二人が、劉と諸葛! いにしえの二人が叶えられなかった悲願を、時をこえて叶えようッてんだ! 誰でもアガるってもんだろ!」
 ひとり勝手に盛り上がる長民と苛つきてんこ盛りの寄奴。まぁ申し訳ねェが、この画を目の当たりにして笑うなって方が無理だよな。むしろここで平然としてた道和がすげェよ。
「いや、諸葛先生、ありがとうございます! 愚兄をそんなに買ってくれるなんて!」
 謙りがまんま寄奴へのおちょくりになってる辺り、まったくお見事この上ねェ。「あン?」と凄みかける寄奴については、さすがに己が留めおく。道和の「いい仕事だね、旿兄ィ」よろしい目配せは見えなかったことにする。
「けどね、先生。匈奴族リウ部の狼藉はご存知です?」
 道和の、それは露骨に挑発だった。
 ここに至って、初めて長民の顔からニヤけが消えた。
 嫌悪、あるいは恐れ、だろうか。
「……おいガキ、ケンカ売ってんのか?」
「いやいや、まさか! 兄への分不相応な賞賛に感動しちゃいまして!」
 必要以上に大仰な取り繕いの言葉。誰から見ても、その返しが言葉通りの代物じゃねェのは明らかだった。
 道和の声を、野次馬どもが聞きつける。
 ガタイだけで言やガキンチョと力士みてェなもんだ。人目が集まれば集まるほど、長民の立場が悪くなる。
 さしもの長民も、すぐにそこには気付いたみてェだった。渋々、といった体で道和の問いに応じる。
「名乗りやがったな、あいつら。よりによって劉姓を。ただ、てめぇらの一族の名前が似てる、ってだけで」
「えぇ、本当に! 不遜きわまりない行いで!」
 ここで道和が言葉を切った。
 そんで、ひと目が十分に集まったの見計らって、言葉を継ぐ。
「ただ問題は、それがどうもぼくらの先祖かもしれない、ってことなんです」
 ひゅっ、と長民が、音に聞こえて息を呑んだ。

 まったく、どこでそんな手管習うんだか。
 匈奴族リウ部って言や、いったんは天下を統べた大晋国を長江の南に追いやった、まさにその原因なわけだ。長民になぞらえて三国志に例えりゃ「劉備だと思って組もうと思った相手が董卓の孫でした」ってなもんだ。
 うまく二の句が継げず、口をパクパクしてる長民に、済まし顔で道和が言う。
「どうせ組むなら、もっとご立派な劉備がいいんじゃないんです?」
 そして指差したのが、軍の本営だった。


 軍の本営には、ひときわ立派な旗が二本立ってた。ひとつには謝の字が、そんでもう一つには、劉の字が踊ってた。
 旗の主は、今回の戦の大将を務める謝玄総司令と、その副官、劉牢之大将軍。
 もちろん道和だって、大将軍さまふん捕まえて長民ちょうみんを煽ったわけじゃねェ。
「劉二将、ご帰還!」
 掛け声とともに、けたたましく銅鑼が鳴る。がやがやしてた陣内は途端に慌ただしくなり、本営の前を大きく開けた。そこに飛び込んできたのが二人の鎧武者、そして二本の劉の旗。立派な鎧に身を固めたおさむれえ達がそれに連なる。
「劉毅・劉敬宣、洛澗にて梁成・王顕軍を撃破!」
 陣内がおお、と沸き立った。
 梁成と王顕って言えば、苻堅が放った一の矢、先遣隊だ。これまで続いてきた小競り合いも、もとはと言えばこの両軍がこっちの脇をチクチク攻めてきてたことにあった。言ってみりゃ己らが泥臭くとってきた戦功の元締めを、二人の劉将軍が盛大にぶっこ抜いてきた、ってこったな。
 本営から二人、ひときわ立派な鎧に身を包んだ方々が出てきた。一人は白面の美丈夫、謝玄総司令。一人は鈎ッ鼻の偉丈夫、劉牢之大将軍。何ともまァ対照的ないでたちではあったが、どっちにしろあの頃の己らに取っちゃ雲の上にもほどがある存在ではあった。
 劉将軍二人は馬から降り、兜を脱いだ。
 歳のかさは、己らと同じくらい。その若さでもう将軍だってんだから恐れ入る。
 まァそりゃそうだ、二人の劉将軍は、ともに大将軍のご子息。己らが街でドヤドヤしてた頃にゃもう戦働きしてたってんだから、年季が違う。
 二人が拱手する。見事なくれぇ揃った動きだった。「どんだけ練習したんだろ、あれ」と道和がひとりごちた。
「大功、大儀!」
 応じて拱手した大将軍の声が、とことんデカい。本営から百歩くれぇも離れてた己らのとこまで、その声の張りだけで空気が震えてきた感じさえあった。
 拱手を解くと、大将軍がぐるりを見渡した。
 いや、あれは見渡す、じゃねえな、睨め回した、のほうが正しいか。
「露払いは済んだ! いよいよこの先、淝水にて我々は百万の敵と相対する!」
 前線のおさむれぇたちが威勢よく鬨ときの声を上げた。一方で己ら辺りになると盛り上がる奴、うへぇって顔になる奴、まちまちだった。そりゃそうだ、普通に考えて死にに行くようなもんだしな。
 ちなみにこの時、寄奴はそのどっちでもなかった。
 腕組みして、眉根にしわ寄せて。きらびやかな本営辺りをじっと睨んでいやがった。まぁアイツのことだ。どうすりゃあそこまで上り詰められんのか、みてェなこと考えてたんだろうけどな。
「諸君」
 そこに、やかましい、って訳でもねェが、けど、よく通る声が響く。
 総司令が前に出てきてた。あれだけ波打ってたおさむれぇたちが一気に静まる。不思議なもんで、そうなってくると己らも変に声出しちゃいけねェような気持になってきた。
「改めて言うまでもない事だが、敢えて言おう。ここから先は、死地である。だが、我々が狄軍を討たねば、江南はともがらの血で溢れかえる。それだけは、断固として食い止めねばならぬ。幾世代もの争乱を、わずか一代で統べた苻堅の軍である。当然、弱い、などということはない。だが、急激に膨れ上がった軍の統制は、得てして脆いものだ。対して我々には、同じくする志がある。志を鎹とし、強く結び合おう。そうなれば、いかなる相手とて、突き崩せぬものはない」
 総司令が言葉を切ると、当然沈黙が落ちる。
 いったい何事か、言葉を発しないまでも、誰も彼もが周りを見回し始めた時、
「わが精鋭、万騎将!」
 総司令、裂帛の呼びかけ。
「は!」
 それに応じた将軍が、八人。
「謝琰! 謝石! 袁山松! 孫無終! 高雅之! 徐道覆! そして劉毅、劉敬宣よ! 貴公らの従える精兵は一騎百当である!」
 そして今度は隣、大将軍のほうに向く。
「増して、この軍を劉大将軍が統べられる! 勝てぬ道理などあろうか!」
 この辺りの流れはお手の物なのか、大将軍が剣を抜くと、盛大に、吠えた。
 瞬く間に、大声が広がっていく。
 まァ、己らはちょっと冷めた目で見てたけどな。いや盛り上がってくださるのは勝手だし、不安誤魔化すためにとりあえず叫びてェ、ってのもわかるけどよ。いくらなんでもお作法通り過ぎなんじゃねェの、って。
「あーうっさい、ほんとこういうノリ勘弁してほしいんだけど」
 露骨な呆れ顔で、道和。
「けどほら、先生。実際、あっちで呼ばれた二人の劉備のほうがきらびやかだし、大活躍じゃん? どうせ組むんなら、ああいった人たちのほうが、物語の主役として輝けるんじゃないかな?」
 あくまで澄まし返ってる道和に対し、長民は泡食った顔になってた。
「な、なに言ってんだお前ぇ、俺はのし上がりてぇんだよ! もうのし上がってる奴なんかと組んだって仕方ねぇだろ!」
 まったくお話にならねぇ、吐き捨てるように長民が踵を返す。そこに付き従う檀道済が、去りしなに藪睨みを置き土産にしていった。
「いやぁ、忠犬だねぇ」
 二人を、手を振りながら見送った道和だったが、その脇の下がじんわり濡れていた。まァ当然だ、道和と長民がやり取りしてた間、ずっと檀道済がこっちに殺気向けて来てやがってたからな。
 見れば寄奴の奴も、何かあればすぐ抜けるような体勢でいた。
 二人が完全に立ち去ったのを見て取り、ふう、と息を漏らす。
「おい道和、あんまあぁ言ったのの前で遊んでくれるなよ」
「はは、ごめんよ兄貴。けど、ああでもしないと、兄貴があいつ斬ってたろ?」
「う」
「で、その後はあの凶犬と大ゲンカ。正直さすがの兄貴だって、あれとはキツいんじゃない?」
「莫迦言うんじゃねぇ、余裕だ余裕」
「あっそ、ならそれでいいけどさ。巻き込まれるこっちはたまんないの」
 軽妙に、あっという間に寄奴をやり込める。まったくもって顔立ち以外は正反対な二人だが、だからこそ気持ちいいくれェに噛み合ってもいたんだろうな。
 何も返せなくなった寄奴は、バツが悪そうに頭を掻いた。
「あ、けどよ。道和、アレ本当なのか?」
「あれって?」
「俺らの先祖が匈奴だ、って話」
「あァ、もちろん嘘」
「は?」
 は?
 つい、己と寄奴とで見合っちまった。
「っていうかさ、分かるわけないじゃん。こちとら立派な流民さまだっての。もしかしたらどっかに匈奴やら鮮卑やらの血だって混じってるかもしれないさ。けど、そいつだってどうせ木っ端だよ」
 あっけらかんと言い放ってくれる。すっかり毒ッけを抜かれちまった己らにしてみりゃ、もう道和の舌先と、ついでに言や、そのクソ度胸に苦笑を浮かべるしかなかった。
「つうかさ、旿兄ィ。結局のとこ、兄貴あってこその僕らなんだ。兄ィにも、もうちょっとしっかりしてもらわないと。きっとこの先、もっといろいろ面倒ごとに巻き込まれるよ?」

 今にして思うと、道和のこのセリフ、正解も正解なんだよな。
 この時にしたって、あっはい、すんません、としか返しようがなかった。


「劉裕ンとこの! 生きてたんか!」
 一言で言や、訳わかんねェ。そんな中で聞こえてきた呼びかけは、たとえそいつがどんなにいけ好かねェ奴だとしても、ほっとさせられるもんだった。
「おゥ長民、お互い悪運強えェな!」
「分かんねぇぞ、後か先かの違いかもだ!」
 怪我してねェとこを探す方が難しい、昨晩まで騒いでた奴らがどこで何してんのかもわかんねェ。ちィと気を許しゃ、あっちゅう間にタマを刈り取られる。今まで潜ってきた戦場がどんだけままごとだったのか、あの時はつくづくと感じたもんだった。
 己の方に向かってきた歩兵どもを、檀道済の鞭みてェな切っ先が軒並みなぎ倒す。安心のあまりへたり込みかけたところに、長民から水筒が差し出された。
「済まねェ」
「んな事より、アイツはどこだ? この状況建て直すにゃアイツが必要だろ」
「や、己もはぐれちまったんさ」
「ンだァ!? 助け損じゃねぇか!」
 それはあくまで冗談めいた物言いで、正直身も心も糸が切れかけてた己にゃ、この上ねェ潤いだった。
「ま、二人っきりよかはマシか。やれねぇとは言わせねぇからな?」
「うっせェ、半死人に期待すんな」
 己と長民が前に立ち、道済には後ろを固めてもらう。向こうに回しゃこの上なくおっかねェ道済だが、護ってもらえるとなりゃ、これほど心強えェ存在もねェ。そんで長民も、でけェ口叩くだけのことはあった。脇も尻も心配しないでいいってな、ほんにありがてェモンだ。
 騎馬どもはいなし、歩兵どもは潰してく。
「おい、アイツらの剣上物だぜ。劉裕の、そのボロよかこっちのがマシじゃねぇか?」
「そうみてェだな、っつうか略しすぎだろお前ェ。己ァ丁旿ってんだ、覚えとけ」
「分かったよ、死ななかったらな」
 辺りを切り開く内、道済が盛り上がってる箇所を見出した。どうなってるかはわかんねェ、ただ、ここよっかマシだろ、ってなモンで、そこに向かうことにした。
 結局ンとこ、そこでうまく寄奴に再会できはした。そいつは良かったんだが、オマケがいけねェ。とんでもなくいけねぇモンがついていやがった。

 そうさな、アレを何て言えばいいんだか。馬に乗ったオオカミ、ってとこか。そいつが鮮卑トゥバ部の王、トゥバ・ギを初めて見たときの印象だった。
 あの寄奴が為す術もなく打ち込まれてる、もうそれだけで事態を理解すんには十分だった。少し離れたところで道和が腕を押さえながらへたり込んでる。己らは一目散に道和の方に向かった。
「おい道和、あいつァ何だッてんだ、一体?」
「こっちが聞きたいよ、いきなりアイツが来たと思ったら、あっちゅう間に皆吹っ飛ばされたんだ」
 吹っ飛ばされた、たァ尋常じゃねェ。けど、辺りを見れば信じるしかなかった。
 ボロ雑巾。講談じゃよく聞いた死体の言い回しだが、ありゃ本当に起こるモンなんだな。甲冑なんざまるで用を為してねェ。ごっそりとえぐられて、どれが誰の肉なのかもろくすっぽ分からねぇ。
 それもその筈、トゥバ・ギの持つ得物はぶっとい丸太みてェな槌だった。あんなんが駆けずり回る馬の勢いに乗ろうもんなら、そりゃ城壁だって粉みじんだろうぜ。
 けど、にしたって信じらんねぇのは寄奴だ。そんな化けモン相手に、防戦一方たァ言え、それでも引くことなく馬の上で……
「って馬ァ!?」
 いや、分かってたんだ。そんな間抜けな声上げてる場合じゃねェって事は。けど無理だった。何せアイツ、それまで馬になんざ、乗るどころか触ったこともなかったんだからな。
「おっ、おい寄奴、お前ェいつの間に……」
「ッせぇ! 出来なきゃ潰されんだ、やるっきゃねえだろうが!」
 いやそう言う問題じゃねェから、ツッコミかけたが、そこにトゥバ・ギのひときわ強烈な一撃が襲いかかった。
 信じらんねぇモンの目白押しだ、あの寄奴が、木っ端みてェに吹っ飛んだ。
 とは言っても、何とか防いじゃいたんだ。今なら分かるが、鐙あぶみに慣れてねェところを突かれちまったんだな。打ち下ろしじゃなく、すくい上げの一撃。踏ン張ることも、流すことも許されねェ。
 アイツが飛んできた先は、ちょうど己らが固まってた辺りだった。たぶんトゥバ・ギの事だから、狙ってやったんだろう。長民に突ッ飛ばされ、己はあえなく道和のとなりに転がる。そんで長民、道済が、二人がかりで寄奴を受け止めた。
 何せ辺りは死体やら武器やら鎧の破片やらだ。そのまま落ちたらどんな大怪我負うかも分かんねェ。三人のうち己が外されたのは、己の怪我がとことんひでェからだった。
 ただ、ひと一人が吹っ飛ぶのを受け止め切るとか、そう簡単にゃあ出来たもんじゃねェ。実際コイツで長民は腕とあばらをやった。道済も肩が外れたって言う。もっとも、その甲斐あって寄奴は頭の打ち身と、軽い打撲くらいで済んだんだが。
「――吧吧吧吧吧吧!」
 散々な己らを見下ろしながら、トゥバ・ギが高らかに笑う。
 やおら槌を振り上げて、振り回す。すると奴の部隊があっちゅう間に己らを囲んだ。隙間なく内を、外を固めた、言ってみりゃ人の牢獄だ。
「崔宏!」
「は、愚臣めはここに」
 トゥバ・ギの呼びかけに答え、人垣からしみ出してきたのは、およそ戦場働きには似つかわしくない、軽やかな出で立ちの優男。
 そいつを見た瞬間のことはよく覚えてる。
 いきなりだ。いきなり全身が逆毛だった。
 何が気持ち悪りィって、そいつァ全然薄汚れてなかったことだ。血、汗、臓物、小便、糞便。ありとあらゆる汚物がぶちまけられてる 、この戦場で。
 ろくすっぽ身動きも取れねェでいる寄奴に向け、トゥバ・ギはその大槌を突き付けてきた。
「@@~○☆◇! &*#@○☆!」
「勇猛なる漢族よ、まずは貴様の武を讃えよう」
「――へ?」
 まさかこの是非もねぇ場所で、敵さんからおしゃべりの誘いを受けようたァ夢にも思わなかった。揃いも揃って、しばし呆気にとられる。そんな己らの様子を見かねてか、優男がトゥバ・ギに軽い一瞥をくれた。
 そんで改めて己ら、正確には寄奴のほうに向きなおる。
「こちらにおわすは、トゥバ部大人トゥバ・ギ。通詞は不肖、崔宏が仕る」
 崔宏、そう名乗った男の気持ち悪さは、見てくれだけじゃなかった。余りにもお綺麗なんだ、己らの言葉が! 京口で見掛けた貴族さまどもだって、あそこまで綺麗にしゃべれる奴ァいたもんじゃねェ。
「まずは問おう、猛者よ。汝の名は?」


 氐族の愚かな虚栄心が招いたこの戦場は、果たせるかな、惨憺たるものだ。
 さしたる大義もなく起こされた諸族の軍営、その繋がりは疎にして脆い。寧ろ内輪で相食んでいた漢族どもの繋がりを、空脅しによって無闇に強固にしたようなものだ。
 概況を見渡せば、此度の対陣、その初動はほぼ漢族の勝利。本陣は大いに乱れ、立て直しを図らねばならぬ有様と果てた。予が孤軍気炎を吐いたとて、所詮潮流には逆らえぬ。この遣る方なき憤懣よ!
 故にこそ猛者、劉裕よ。汝との邂逅には、喜びを禁じ得ぬ。一合の毎に重みを増す長刀。色褪あせた戦場が、汝によって精彩を取り戻した。
 示すべきは血、示すべきは誇り、示すべきは命!
 強者と干戈を交え、討ち果たし、斯くて我が天命は勇躍す。強者、劉裕よ。汝は予が糧たるに相応しい。故にこそ、この邂逅を、今は惜しまねばならぬ。
 この戦は、汝を更なる強者へと育もう。予が握るは龍、予が握るは天。鳳雛を討ったとて、果たして易は至極を示そうか。
 雄飛せよ、強者よ。汝は予と同じく、天に嘉されし者。のちの戦場にて、雌雄を決せん。

 ……道和と目が合った。たぶん、言いたかったことは一緒、だな。
「ところで、晋国の猛者よ。我は今、大人よりの賜句に込められた威儀を、余すところなく表現したわけだが」
 また道和と目が合った。
 二人して長民を見る。例によって長民は、なんで己らに見られてるのかには気付いてそうにもねェ。
「――もう少し、恐れ畏まっても良いのだぞ?」
 そこに、すかさずトゥバ・ギの蹴りが入った。崔宏が何をやらかしてんのか察したらしい。
 だいたい、ほとんど吠え声に近かったトゥバ・ギの一言二言が、なんでいちいちあんなキラキラ言葉に化けるってんだ。奴らがどんなやり取りしてんのかは分かんねえが、あの身振りからすりゃ、おそらくは「そんな、貴方のためなのに!」「知るか莫迦、まじめに仕事しろ」、だろうな。
「何やってんだあいつら」たァ長民。いや、お前ェも大概似たようなことやってんぜとは、優しい己だから飲み込んでやった。
「つまりアレか、優しい優しいトゥバ・ギ様だから、己らのことを見逃して下さるってか」
 寄奴が笑ってた。
 んで、わなないてた。
 やべェ、さっきとは違った意味で道和と見合う。アレは、寄奴が一番ブチ切れてるときの顔だった。
 ガキ同士のケンカじゃねェ。チンピラどもとの厄介ごととも話が違う。相手は今、己らをあっさりと、一方的にぶち殺せるだけの備えをしてる。しかも、一旦その気になれば、即、だ。寄奴一人がキレてどうにかなる状況じゃねェこた、きっと誰よりも寄奴がわかっちゃいたはずだ。
「あ、兄貴……」
「分かってンだよ!」
 声だけだ、身じろぎは一切ねェ。だってのに、あの道和がマジでビビってた。空気だけでひと死にが出てもおかしかねェくらいだ、つうか己ァ普通に漏らしてた――今更なんだがな。とうの昔っから、服なんざテメェのクソでベトベトになってた訳だし。
 と、歓声とともに、囲みの一隅が乱れる。
 トゥバ・ギの眼差しが寄奴から逸れた。同じく崔宏も音のした方に向く。
「ほう? 貴公ら以外にも活きの良いのが居るようだ」
 奴らの対応は速かった。囲いが解かれたかと思うと、音のした方にぶ厚く配下どもが配される。トゥバ・ギから鋭く二、三の指示が飛ぶ。
「大晋国、徐道覆が属、何無忌推参! 蛮夷よ、道を開けよ!」
 囲みの向こうからのデケぇ声。声とともにトゥバ・ギの一部隊が大きく崩れたのが分かった。
「予想以上に、やる」
 けど、トゥバ・ギたちの余裕は崩れねぇ。
 馬首を返し、悠々と退却を始める。
 トゥバ・ギを先に逃がし、しんがりを崔宏が固める。
「劉裕」
「あン?」
「改めて、我からも礼を言う。あれだけ愉しそうな大人のお顔を、久々に拝することが叶った」
 そう語る崔宏は、やっぱり涼しげで、まるで親友に話しかけるみてェな。そんな表情だった。
「我らトゥバ部は今、ムロン、ユウェンの二部に圧され、その趨勢、はかばかしいとは決して言えぬ。大人の焦り、苛立ち、慮るに余りあった。そこに、貴公が風穴を開けてくれたのだ」
「そうかよ」
 まるで聞く耳持とうともしてねぇ寄奴。まァ道和が全力で耳ンなってっから、問題ねェっちゃねェんだろうが。
 崔宏が寄奴に微笑んだ。ただ、そいつァ「優しい」からは程遠いシロモンだった。細まったその目が、とことんまでに冷てェ。
「肥えてくれよ、立派な贄に。我が大人のためにな」
「――!」
 止める暇なんざ、あらばこそだ。
 トゥバ・ギとの戦いでズタボロになった長刀を握り、躍りかかる寄奴。怒りにまかせた渾身の一撃、だが崔宏はそいつを、いつの間にやら取り出してた杖で防いだ。
「良い打ち込みだ、大人が惚れるのも分かる」
 いなし、弾く。
 あっさり寄奴は振り落とされた。その長刀は、あえなく真っ二つに折れた。
 着地こそ難なくしたものの、どうにもブチ切れの収まった気配はねェ。忌々しそうに舌打ちし、剣を乱暴に投げ捨てる。
「なら奴に言っとけ、てめぇの天とやらは、この己にぶった切られるさだめだってな!」
「頼もしいな」
 柳に風、たァあの事だな。柳を見てっとよく分かる。
 人の足で、馬に追いつこうなんてのがどだい無茶な話だ。追撃をかけようとするこっちの軍をうまくあしらいながら、奴らが遠ざかる様を見送る以外、もう己らに出来るこたァなくなってた。
 寄奴は、しばらくは怒髪天だった。が、目をつぶり、二、三度大きく息を吐くと、
「――戻んぞ、己らも」
 その声は、もう落ち着きを取り戻してた。

「孫無終軍が属、諸葛長民。他の者も同属だ。助勢に感謝する」
 こういう局面で、まさか長民が役立つとはな。
 軍属になったたァ言え、結局己らはやくざもんみてェなもんだ。おさむれぇ同士での会話とか言われても、お作法がトンとわかんねェ。
 何無忌の隊に拾われ、その陣営にまで引き返した。
 どっかで見たことあるよーな見事な鈎っ鼻、つっても年かさは己らと同じくれェか。ちょこちょこ隊員どもとのやり取りを見てると、ずいぶん信頼されてんだな、って思う。
 何無忌は、そういう男だった。
「それには及ばん。むしろ我々こそ礼を言わねばならんのだ」
 何無忌から聞いた戦況は、こうだ。
 苻堅軍の一軍隊、羌族ヤオ・チャン率いる軍勢の一部将としてトゥバ・ギは配されていたという。対する晋軍は徐道覆・孫無終の両軍が当たった。戦況は晋軍優位に進むものの、遊軍として動いたトゥバ・ギが要所要所で破壊的戦果を挙げ、情勢以上に戦況を硬化させていた。
 で、たまたま居合わせた寄奴が、あろうことかトゥバ・ギを足止め。その結果戦況が大きく動くに至り、ヤオ軍撤退のきっかけを作った、んだとか。
 それが本当ならとんでもねェ大手柄だ。ただ、当の寄奴にしてみりゃそんなもんはクソどうでもいいこと、みてェだった。
「何もできなかったんだ」
 トゥバ・ギ、そして崔宏。あの二人に、完全に封じ込められたこと。
「手前ェがいくら切れたところで、アイツらがその気なら、とっくに終わってた。ひたすら、てめぇの無力にムカついて仕方ねぇ」
 そう、さっきも落ち着いたわけじゃァなかった。
 内に、内に。泥だんごを握り締めて、固くするみてェに。
 戦意を、より濃く煮詰めていやがった。


「聞いたぞ劉裕、値千金の活躍ではないか」
「勘弁して下さいや、お目こぼししてもらったようなもんですよ」
 夜。寄奴、己、道和は孫無終将軍の帷幕に招かれた。卓の上には滅多に飲めねェような上モノの酒、アテには煎った豆と塩。喜んで飛びつこうと思ったら「モノには順番があんだろ」って道和にはたかれた。
 帷幕の中には己ら、孫将軍のほか、副官の桓不才、それから妙に威厳のあるおっさんが一人。その隣には何無忌が付き従ってた。
「こちらは徐道覆将軍だ。そなたの話を聞き、会ってみたい、とのことでな」
「へぇ、ドウモ」
 桓副官が色めきたつが、それを留めたのは、他でもねェ、徐将軍だった。
「今、必要なのは戦働き。そうであろう?」
 穏やかな物言いじゃァいたが、にべもねェ。嫌な予感しかしない、って道和の顔にありありと書き出されてた。
「助かりまさ、話が早そうで」
 そう言って寄奴が酒をあおり、豆を頬張った。もう桓副官ときたら、どう返すか考えんのも面倒くさくなったみてェだった。
 くく、と徐将軍が肩を揺する。
「だいぶ暴れ馬のようだな。御せそうか、何無忌?」
「御する気はありませんよ。自分に出来るのは運ぶこと、位でしょう」
 そしたら、今度は 徐将軍が大きく笑った。「炯眼だ、何参軍」と、なぜだか孫将軍も妙に愉しそうにしてた。何とも居づらそうにしてた寄奴の渋面ったらねェ。
「話が前後したな。劉裕、お主には、ここな何無忌と共に、明日の先鋒を務めてもらいたいのだ。いったん部隊から離れてな」
「将軍直々に、ってこた普通の先鋒じゃねぇですよね?」
「話が早いな、そういうことだ」
 徐将軍が促すと、何無忌が卓の上に地図を広げた。真ん中に淝水が大きく描かれてる。その左右にたくさんの赤い駒と、それよっかまるで少ねェ白い駒が置かれてく。
「赤が秦、白が晋だ。淝水を渡ってきた部隊との戦いは並べて優勢であったが、肝心の苻堅本軍は、いまだ岸の向こう。だが、それも明日になれば動いてくる」
 孫将軍が赤い駒の内、一番デケぇやつを河中に押し出した。それに合わせて徐将軍、桓副官がほかの赤い駒どもを一気に動かす。あっちゅう間に白い駒が飲み込まれた。
「己ら全滅っすか」
「このままでなは」
「じゃ、どんな仕掛けなんで?」
「大将軍は、脆きを衝く、と仰っていた」
 聞き覚えのある言葉だった。
 よりによって、そいつは敵さんからのもの、だったが。
「合図があるそうだ。秦軍内部からのな。その合図とともに、各軍の最精鋭を、一斉に、叩きつける」
「はぁ」
 いまいち得心がいかなさそうな寄奴だったが、暫く地図を眺めてた。すると、だんだんその顔に喜色が浮かんでくる。
「こんな博打、よく張るもんですわ。うちらのお頭、頭沸いてません?」
「まぁ、認めるにやぶさかではないな」
 正直己にゃ、この話を聞いてても、翌朝に何が起こるのかなんざ、とんと見当がつかなかった。
 ただ分かったのは、寄奴の笑い方が一世一代の大博打張ったとき、まんまだったことだ。寄奴のやつ、普段の賭け事じゃすぐスカンピンになるくせに、どでけェ勝負でその負けを一気に取り返しやがるんだ。
 その笑顔に何度か儲けさせてもらった身としちゃ、あ、行けるんだな明日、ってついつい考えちまう。
「どう転んでも、中途半端はなさそうっすね。明日、楽しみにしてますよ」

 孫将軍と徐将軍とで打ち合わせたいってことで、己らは解放された。
 帷幕から出ると、そろそろ夜も更けようってェのに、割と辺りはまだざわついてた。笑い声とか、喧嘩だとか。いつもの夜だ。このうちどんだけの奴が、明日の夜にも同じことができるんだかな。
 切った張ったしてんだから、隣のアイツがいなくなる、なんてな珍しい事じゃねェ。ただ、さすがにこの日は失い過ぎた。ふとこうして思い出すと、あいつが今いたら、なんてこともちらっと考えちまう。
「兄貴、どうなっちまうんだろね」
「さてな。まぁ、くたばったらくたばった、だ」
「……兄貴に聞くのが間違いだったよ」
 はは、と何無忌が笑った。
「兄弟、仲がいいんだな。羨ましいよ」
 思いがけない言葉だったのか。寄奴と道和がきょとんと何無忌を見、そんでお互いに向き合った。すぐにうへぇ、とでも言わんばかりの顔になる。
「そうか? 面倒くせぇぞこいつ」
「喧嘩するほど、という奴だ。本音をぶつけ合えれば、その分互いの背も守りやすくなるだろう。信頼は、何よりの武器だ」
 そんなもんかね、寄奴はいまいち納得いってねェ様子だった。こっちにしてみりゃもうまさしく仰る通りって感じだったが、わざわざ藪から蛇をつつきだすこともあらんめェ。
「何参軍、失礼ですが、……大将軍とは、ご親戚なんですか?」
 おずおずと、といった感じで道和が切り出した。
 その立派な鈎ッ鼻、戦場にあってよく通る声。大将軍のお顔を近くで見たわけじゃねェから、もしかしたら顔立ちもそっくり、なの、かも。
「多少、気弱になっているのかもな」何無忌が苦笑した。
「親戚というかな。いわゆる、庶子という奴さ。公的には甥と言う事になっているが」
 ずいぶんあっけらかんと内々のことを教えてくれるもんだ。まァ、あとで聞いたんだが、そこを明かした方が信頼してもらえるだろう、と思ってのことだったらしい。
「万騎将お二方の軍才を疑ってはいない。だが、折り合いがどうにも悪いのがな。ともに行動することこそ多いものの、その競い合う気持ちが、幾分悪いように働いているように思えてならんのだ。君らのように扶助しあえるような間柄ともなれば、大将軍もきっと安心できるだろうに――と、まぁ老婆心にも程があるのだが」
 漏らす言葉が作為的でこそあったものの、何無忌がいい奴だ、ってのは疑いようがねェ。ついでに言えば、手前ェから貧乏クジ引く性分なんだろうな、ってのもよく分かった。
「扶助もクソもねぇだろ。どう敵を殺せるか、じゃねぇか。結局ンとこ」
 寄奴の切り捨て方も、ひたすらに容赦がねェ。
「手厳しいな」
「どこがだよ。殺さねぇと己らがおっ死ぬんだぜ? 死んだら死んだ、仕方ねぇさ。けどな、何にも足掻こうとしねぇで、いけしゃあしゃあとくたばるなんざワリに合わねぇ」
 そう言って、寄奴が何無忌の首根っこを抱え込む。「っな、何を……」って戸惑う何無忌になんか全然お構いなしだ。
 そんかし、ただただ強く、言い切った。

「くたばらせねぇからな、そう簡単にゃ。また呑もうぜ、美味ぇ酒」


 さて、と。
 いきなりだが先生、龍、っていると思うかい?
 あァいや、信じる信じねェは、正直どっちでもいいんだ。ただ、こっから先に起こったことを話すに当たって、前置きなしだと、ちぃと突拍子もなさすぎっからよ。
 そいつが起こったのは、実際の戦いが始まる前だった。
 淝水を挟み、対陣する苻堅の軍と己ら。本当、冗談みてェな景色だったぜ。川岸をみっちり埋める奴らが、皆して己らを殺そうって手ぐすね引いてんだ。
 向かい合っただけで逃げだそうとした奴らも沢山いたって聞く。そいつらはだいたい捕まって殺されたらしいけどな。
 けど、体面って奴がどうしても重要になんのが、やんごとなきかたがたの事情なのかね。数に任せてただ突っ込んで来りゃ、並べて事も無し、だったってのに、よりにもよって盛大に鼓吹を鳴らし、親分さま、こと苻堅が単騎前に出てきやがる。
「憐れなる漢奴よ! まずはいたいけなその奮戦を讃えよう!」
 デケぇだけじゃねェ。敵さんだってことも忘れそうになるくれェの美声だった。
「なれど、そなたらの苦闘、これ以上は見るに堪えぬ! 我が刃は天下を安んじるが為にあり! 淝水をそなたらの血に染むは、我が本意にあらず!」
 檄に対してキレるとかどこのアホかって話だが、大変残念なことに、うちの寄奴は掛け値なしのアホだった。
「ほぉう……?」
 先頭に陣取ってた寄奴は、例によってこめかみをぴくつかせながら前に出る。いやいやそこは出る幕じゃねぇから、とヤツを窘めに出て、
 そこだ。
 そこで出会った。

 講談の世界じゃ、どでけェ転機ってな、だいたい英雄同士が実際にぶつかり合ったときに起こるもんだ。けど、本当は目が合う、だけで十分らしい。身をもってそいつを知った。

 龍が、来た。

 ――始まりは盤古。ひとを統べる、そいつを初めて叶えた男だ。
 その後を神農が継ぎ、伏羲に女媧、それから黄帝から舜までの、いわゆる三皇五帝に繋がる。
 舜を継いだのが、禹王の国、夏だ。龍はそっから十七代、桀王の時代まで、ずっと王とともにあった。
 桀王の時、龍は夏から離れた。代わりに宿ったのはご存知湯王、殷の初代王だ。湯王から紂王までが三十代。
 で、周の武王。武王から幽王までが十三代。龍は、そっから鄭の武公に移る。
 史記でも確か、こっからを春秋時代って呼んでたよな?
 周が覇権を失ってこっち、龍は王と王の間を渡り歩いてった。斉の桓公、晋の文公、楚の荘王。呉の闔閭、越の勾践、んでもう一回呉、夫差。
 龍が夫差から魏の文公に移った辺りのころ、晋が割れた。こっからが戦国時代だな。
 この時代、龍は少しばかり国とともにあった。文公、武公、恵王。恵王の時代に斉に移る。威王、宣王、湣王と。そんで秦だ。
その頃の秦の王が孝公。かの始皇帝に至るまでが七代。
 龍は、始皇帝から楚の項籍に移った。コイツは通り名のほうが有名か。項羽、だな。そんで劉邦へと至る。つまり漢の高祖だ。
 いったん滅んだ平帝までが十四代。龍はそのまま光武帝に移り、献帝までで十四代。曹操を経て、宣帝に移り、いよいよ我らが晋の御代……といきてぇが、そうは問屋が卸さねェ。武帝までの四代のあと、龍は、匈奴リウ部の王劉淵、そしてその息子劉聡を次の覇者に選んだ。
 こっからはもう、流れからすりゃ最近だよな。羯の石勒、そんで、苻堅。
 一回、暇に任せて数えてみたんだがよ。百四十人いた。

 まァ、先生にとっちゃ今更な昔話だよな。ともあれなんでそんな話持ち出したって、
 ――来たのさ。
 龍に喰われたと思った、そん時に。この王さまがたが見たこと、感じたこと。そんなモンが、いっぺんに。
 気でも違ったのかと思ったぜ。ノーテンキな莫迦の脳みそにゃ過ぎたシロモンだ。
 いきなり降って沸いたそいつに、己ァ暫く固まっちまった。のたうち回ることも許されねェ。周りの奴らにも訝られたみてェだが、どうしようもねェ。そんな己の頭ン中を少し冷やしてくれたのが、

 ――なんだ、こりゃ?

 そんな、寄奴の呟きだった。


 寄奴が己を見た。
 何かが起こった、そいつに気付いたのは、二人、いや、三人だけだった。
 己らに躍り掛かってきた龍、その出元を見る。呆然とした苻堅が、おそらく似たような表情を浮かべてただろう己らを見つけ、笑った。
 泣きそうな、うつろな笑い。
 その顔つきの意味を、己らは嫌ってほど理解しちまった。
 歴代の覇者たちの記憶ともなりゃ、当然苻堅の記憶が一番色濃いんだ。
 氐の王族の傍流として生まれ、石勒から龍を得、中原に覇を唱え、そして今、覇道を失った、苻堅の記憶が。

 苻堅の一族は、もともと氐族を統べる立場じゃあった。だが、とにかく石勒が強すぎた。氐族ァ、部族ごとまるっと石勒の臣下として仕える以外なかった。
 まァ、石勒だけを見るなら、正真正銘の覇王だった訳だけどな。奴が天下を取るってんなら、それはそれでありだろう。苻堅もそう思っちゃァいたんだ。
 けど、龍は苻堅を選んだ。
 龍を失った石勒は、一族の無軌道を抑えきれねェまま死んだ。後を継いだ石虎ってェのがまた、とことんなアホだったもんだから、あっちゅう間に反石虎の機運が募った。
 そんな中で、鮮卑ムロン部が台頭してくる。当時の大人がムロン・ジュア。ジュアを中心に出来上がった燕の国が、石虎をぶっ倒し、苻堅の前に立ちふさがった。
 ただ、苻堅は苻堅で、この頃アホな親戚に振り回されてた。そいつは、アホたァ言え荒事にゃ滅法つえェ奴だったし、ぶっちゃけ苻堅自身荒事にそれほど秀でてたわけじゃねェ。そいつが邪魔で仕方ねェ訳だが、手の打ちようがねェ。
 そんな時苻堅は、王猛に出会った。
 王猛は、奴らが言うところの漢族だ。つまるとこ、己らのお仲間ってこった。だが王猛は、主君として苻堅を選んだ。
 控えめに言って、王猛ってな、化けモンの類いだった。あっちゅう間に氐族の覇権を苻堅に戻し、んでその勢いで、あっさりと燕をぶっ倒した。
 名宰相ってな、名君の下でこそ輝くもんだ。軍事に、政治に振るわれる王猛の手腕は、とても人臣の位についてる奴の発想じゃねェ。言わば、王者のそれだった。普通の王さまなら、こいつに王位を乗っ取られるんじゃねえかって恐怖してもおかしくねェ。けど苻堅は、王猛をただただ信頼した。
 その結果、苻堅は、五胡、そして漢族入り乱れる国々を支配できたんだ。
 けど、その直前に王猛を失う。信頼してた片腕がいなくなるってな、並大抵の喪失感じゃねェ。それでもなお覇道を進まなきゃいけねェってな、どんだけの茨の道なんだろうな。
 この時、苻堅が思ったのは、龍の事だった。
 龍は、ある時は国とともにいた。けどある時は、王たちの間を渡り歩いてもいた。
 直前の劉淵、劉聡、石勒。どいつも龍を長く留めることが叶わなかった。いま王猛を失い、もしかしたら自分も龍を留め置き続けることができねェんじゃねえか。そう思った。だから、焦った。
 天王って苻堅は名乗ってた。こいつは皇帝に準じる覇者、ってことだ。なんだかんだで苻堅自身は晋を正当の王朝だってことにしてたわけだが、だからこそ晋を滅ぼし、皇帝の位を手にしなきゃなんねェ。そんで、百代にも渡る偉大なる帝国を築く必要がある。そう思った。
 その結果起こったのが、今回の大軍だった、って訳だ。
 皮肉なもんだぜ。龍を留めんがための行動が、結果として龍を手放すにつながったんだ。

 苻堅は己らのほうを見ながら、二、三呟いた。
 そんで、全軍に号令をかける。あっちゅう間に、その姿は兵どもの中に埋もれてった。
「うだうだ考えてる暇はなさそうだな」
 真新しい長刀を握り、寄奴がつぶやく。とたん俺の頭ン中に強烈な熱湯が流し込まれた。そいつは、寄奴の意志。殺意、って言い換えてもいい。どう敵を殺すか、どうこの戦を駆け抜けるか。苻堅のことも思い描いてたが、それよりもデカかったのは、トゥバ・ギの事だった。
「祭りの時間だ! 手前ェら、ついて来いよ!」
 寄奴が一も二もなく飛び出す。
 決して浅くねェ淝水ン中に飛び込み、水しぶきを上げて。
 相手の先頭は、ずらっと槍衾。先陣ってな、こいつにぶっ刺さって槍を槍じゃなくする、ってェのも一つの役割だ。けど寄奴はあっさりとかいくぐり、敵兵どもをなぎ倒す。その脇は、怪我のせいで戦えなくなった長民のとこから引っ張ってきた檀道済が固めてる。化けモン二匹だ、奴さんらに同情するしかねぇぜ。あっちゅう間に、相手の配置に風穴があいた。
「暁勇に続け! 寡兵何するものぞ、貫くぞ!」
 二人の破壊力を、何無忌の檄が後押しした。
 突入した後続が風穴になだれ込み、その傷口を一気に広げる。
 ただ、妙な雰囲気だった。
 弱すぎんだ。いくらなんだって、奴さんらもただホイホイと死にに来てるわけじゃァねェはずだ。己らをあっさりと招き入れて、いたずらに食い散らかされるままにするたァ、いくらなんでもチョロすぎんじゃねえのか。
 思いっきりねじ込まれた己らの様子を見て、いよいよ晋の軍勢が本格的に動き出す。どうやら苻堅の狙いはこっからが本番だったみてェだ。突撃してきた晋軍に対して、中央が後退を始める。
 左右両翼は動かねェ。つまり、ホイホイ出向いたこっちの軍勢が、あっちゅう間に取り囲まれちまうことになる。
「おい何無忌! いいのかよこのまま遊んでて!」
「もうじきだ! 合図を待つしかない!」
 次に起こりうる惨状を想像したのは、何無忌も一緒だったみてェだ。たしなめるふうじゃいたが、その言葉にゃ焦りが隠し切れてねェ。己らと向かい合ってた敵のうろたえっぷりは決して芝居なんかじゃなかった。ただ、その二つ、三つ奥の奴らは、余裕がある分、何が起こりつつあんのかを察してるみてェだった。
 そこに、叫び声が響く。

「――負けた! 天王は討ち取られたぞ!」
 
 そっからの流れは、今思い返しても、にわかには信じられねェもんだった。
 叫び声は数を増やし、一気に敵陣内を駆け巡る。
 真っ先に反応があったのが、まさに己らと向かい合ってた奴らだった。奴らが向かい合ってる相手ってのが寄奴と道済だってんだから、そりゃあっさりと信じ込むわな。「や、やってられるか!」と武器を投げだし、目の前に己らがいるってェのに逃げだそうとしやがる。
 狂乱は、一気に広がった。
 その間にも「負けだ、負けだ!」の声が敵の陣営内から聞こえてきた。みるみる間に敵軍の陣容が崩れてくのがわかる。
 後から聞いた話だが、例の叫びは、苻堅の軍の中に紛れ込んでた、朱序って将軍の働きだったらしい。数カ月前にあった別の戦いで苻堅に捕まり、捕虜になったはいいが、その気骨を見初められ、苻堅の部下として召し抱えられたんだとか。
 けど朱将軍は、表向き忠誠を誓った振りをしつつ、反撃の機会を狙ってた。そんで今回、ひそかに大将軍と示し合わせて、内側からの崩壊を狙った。
 嘘みてェな話だし、そんな簡単に上手く行くもんなのかよ、とは思わざるを得ねェ。けど、実際に目の当たりにしちまったんだ。そういうもんなんだ、って言い聞かせるっかねェ。
 慌てふためく奴さんらだ。もはや統率もクソもねェ。
 苻堅軍は、そのでけェ図体が災いし、全体が退却の体勢を取るのに、えれェ時間を取られた。そうこうしてるうちに混乱は混乱を招く。そんな奴らのケツを、晋の軍が刈り取ってく。
 もう、そいつァ戦争なんてもんじゃなかった。
 ただの、殺戮の舞台だった。


 馬に乗れる奴らを募られたんで、寄奴と己が手を挙げた。
 ちなみに、さっきも少し話したが、寄奴はそれまで全く馬になんざ乗ったこたァねえ。そいつは己も一緒だ。けど、この時にゃ乗れる確信があった。
「兄貴はともかく、なんで旿兄ィまで?」
 訝いぶかりと心配が半々、ってとこか。道和が馬上人になった己らに尋ねてきた。
「細けぇこた、また後で話すさ」
「いきなり白髪になってんのに絡んでんのかい?」
「たぶん、な」
 そう言って、手前ェの髪をなで付けた。
 龍を浴びて、己だけが白髪になった。寄奴のヤツはそのまんまだったにもかかわらず、だ。たぶんだが、いきなり浴びた王さまたちの記憶に、己の頭だけが吹っ飛びかけたんだろう。
 戦場ってな、とかく状況がめまぐるしく変わる。龍についてのこと、己と寄奴に起こったいろいろ。あん時ゃそんなことをゆっくり考えてる暇なんざ、まるでなかった。

 追撃戦の肝は、どう大将首を落とすか、にある。そこが叶わねェんなら、せめて相手のうち、どんだけデケぇ首を落とせるか、だ。でなきゃ無駄に味方が散らばるだけだし、ってこた、ちぃと敵さんが冷静になりゃ、逆に己らが狩られる立場になったりもする。つまるとこ、
「待ち侘びたぞ、劉裕!」
「そう……かよッ!」
 トゥバ・ギみてェのにとっちゃ、当然絶好の遊び場になるわけだ。
 出会い頭に、例の槌が飛んでくる。斜め下からの、すくい上げ気味の一撃。こないだ寄奴を吹っ飛ばしたヤツだ。
 寄奴に慌てた様子はねェ。剣を差し込むと、跳ね上げ、あっさりと槌を受け流した。
「芸がねぇな、おい」
「なんの、ここからよ」
 おいおい普通に言葉が通じてることに疑問持たねぇのかよお前ェら、ってお伝え申し上げてェとこだったが、脳筋どもはあっちゅう間に一騎打ちを堪能なさり始めた。
 似たモン同士なんだな、つまり、あのアホ二匹。
 ただ当然、そこに呆れてられる暇なんざありゃしねェ。トゥバ・ギの従える部下どもは精鋭だ。数こそ多かねぇが、右から左から、己らの軍に躍り掛かってくる。
 しかも、
「孫無終将軍! 崔宏の姿がねェです!」
「例の参謀か! 二段仕掛けは警戒せねばな!」
 己らは川っペりを走ってた。見晴らしは決して悪かねェ。どうして、こんな奇襲に向かねェ所で仕掛けてきたのか。悪手にも程があんだろ、って思ったが、そいつを崔宏が仕掛けてきてる、って思うと不気味で仕方ねェ。
 寄奴がトゥバ・ギに釘付けにされちまってる以上、一番怖えェのは孫将軍を殺られて、指揮がガタガタになることだ。だから己は他のおさむれぇ方と一緒に将軍の周りを固めて、
「助かるよ。お陰で、貴公を狙いやすくなった」
 ――後ろからの声は、崔宏のモンだった。
 そう気付いた時にゃ、あえなく己ァ気を失わされちまってた。

「天王、仰せの通り、白髪の小僧を連れて参りました」
「大儀」
 目が覚めたとき、己の目の前にいたのァ、他でもねぇ、苻堅だった。
 毛という毛が逆立つ。腕に矢が刺さってたり、鎧がちょくちょく破れてたりしちゃいたが、それ以外にゃ怪我らしい怪我もねぇ。射すくめられる、ってな、たぶんああいうことを言うんだろう。全身が強ばっちまったのを感じた。
 ――旿、起きたのか! 何で苻堅の前にいんだ!
 寄奴からの呼び掛けが届いてきた。己もよく分かんねェよ、そう返すことしかできねェ。
 もう、トゥバ・ギは寄奴のところにいねェ。つまるとこ、何から何までが己を掠さらうためのお膳立てだった、ってことだ。ふと今回のことで拷問でもかけられたりすんのか、って思ったが、ただ、そういう雰囲気でもねェ。
 苻堅の横には、明らかにただもんじゃねぇヤツが一人。そいつは、のちにトゥバ・ギと覇権を争うことになるムロン部の男、ムロン・チュイだった。
 後ろに崔宏がいて、前にムロン・チュイ。その場にいたのァそいつらだけだった。別にふん縛られてるわけでもねェし、何かひでェ目に遭う、ってことでもなさそうではあった。ただ、この二人に囲まれちゃ、変なことすりゃ為す術もなく殺されるっかねェ状態だ。
「不作法な誘致を赦せ。先の戦の前、矢庭に白髪と化した汝に、奇しきを覚えてな。ひと目、顔を見たく思ったのだ」
 わざわざここまでして、それだけ、ってこたァねェだろう。が、さすがの己でも、今この場で迂闊に龍のことなんざ喋らねえ方がいいのはわかる。
「いや、王さま。大したこたねェんです。己の隣にいた寄奴……じゃねェや、劉裕のヤツが、王さまについてさんざ脅かしてきやがったモンだから、心底ブルっちまいまして」
 ほんの少しだが、苻堅が目を細めた。
「劉裕とやらは、だいぶ無礼な輩のようだな?」
「そりゃもう、ひでェもんで。だいたいアイツに付き合ったせいで、己ァこんな血みどろな目に遭わなきゃいけなくなったんでさ」
 寂しがるような、懐かしむような。そんな苻堅のほほえみ。
 崔宏も、ムロン・チュイも、己らが何でこんなこと話してたか見当もつかなかったろう。第一、見当をつけさせるわけにはいかねェんだ。奴らに龍なんてモンがいることを知らせたら、そもそも己自身、どうなるかわかったもんじゃねェ。
 だから、せめて。
 龍が、誰の手に渡ったか。
 それだけは伝えなきゃなんねェ。そう思った。
 戸惑うムロン・チュイの所に、ややあって使者が来た。報告を受けるや、すぐさまその顔つきが引き締まる。
「天王、そろそろ限界のようです」
「そうか。無理をさせたな、チュイ」
「我が業、主が意のままにて」
 苻堅の無念がわかる分、ムロン・チュイの口惜しそうな表情にも合点がいく。ただ、一方では、己らがどんなモンを背負っちまったか、も嫌ってほどわかった。
「白髪。そなた、名は?」
「へい、丁旿、って言いやす」
「そうか。丁旿、我にもたらされた凶兆の端を求め、汝に出向いてもらったのだが……思いがけず、快き問答をさせてもらった。感謝する」
 あァそうか、これが王さま、ってヤツか。そう思った。
 自分に降って掛かったもろもろごと、そいつらを恨むわけじゃねェ。悲しむわけでもねェ。ただ、受け入れてる。
 腰を上げると、苻堅は腰に佩いた剣をほどき、己に投げて寄越した。ムロン・チュイ、そんで崔宏さえも驚きの顔を浮かべてる。どんな代物なのかは、二人の反応が全て、なんだろう。
「王猛と戦場を駆けた日のことを思い出せたよ。場が場なら褒美を取らせたいところだが、生憎と、汝に報いるには、今はそれしか見合う物がない。受けよ」
 受け取ったそいつは、ただただ重かった。施された装飾がどうこう、の話じゃねェ。
 受け取るや、己はそいつを脇に抱えた。
 そんで苻堅に向け、手前ェにできる、一番の拱手をする。
 苻堅がうなずいた。
「腕を失うは、丁旿。痛み、と呼ぶことすら生ぬるい。励めよ」


「……詰まるとこ兄貴は、過去の王さまたちのことの他、旿兄ィの見聞きしてることもわかるようになった、ってことだね」
「あぁ。言っとくが、嘘じゃねえからな」
「どうせ嘘つくなら、もっと他愛ないもんにして欲しいよ」
 京口に戻り、寄奴の家。部屋にゃ寄奴、道和、あと、己がいるだけだ。こんなけったいな話、おいそれと触れて回る訳にゃいかねェしな。
 道和が天井を仰ぎ、ため息をついた。
「じゃあ、こっからが大切なとこだ。兄貴、何がしたい? 言っとくけど誤魔化しは無しだ。したとこで、どうせザルの旿兄ィからバレるけど」
 いちいちこっちをイジんなきゃ気が済まねぇのかね、あのお坊ちゃんは。まァその通りだとも思っちまうんだが。
 己と道和が、寄奴を見る。
 不思議なモンで、寄奴から己は筒抜けだったみてぇなんだが、己から寄奴は見えたり見えなかったりだった。道和は「幹と枝みたいなもんなんでしょ」って言ってた。わかるような、わからねぇような、だ。
「そうさな。今は、ぶっ壊してぇ、としか言えねぇ」
「ぶっ壊すって? 晋を?」
「何もかもだ。この国のクソどもも、江北のクソどもも。どいつもこいつも好き勝手暴れやがって、己らみてぇな庶民のことなんざ、道ばたの雑草くらいにしか見てねぇ。どっちも所詮、同じクソ袋でしかねぇのによ」
「汚いたとえだなぁ」顔をしかめた道和だが、ただ、その答えにまんざらでもねェようだった。そっか、と目をつぶり、腕を組んで考えこむ。
 ふと思う。京口での日々のこと。
 女やガキどもがズタボロにされんのを見ンのなんざ、割としょっちゅうだった。折しも寄奴も、そうした奴らのことを思い描いてた。また、そいつらを見下しながら、薄汚ねェ笑いを浮かべてた奴らのことも。
 弱い奴らを嬲るようなクソどもは、いくらぶっちめてもいなくなったりゃしねェ。それに、京口だけじゃねェ。淝水の行き帰りだって、道みちにゃ、飢えと病と死体が当たり前の風景になってた。
 天下。あるいは、道。
 王さまたちが、折々にその言葉を口にしてきてた。何ほざいてんだ、ってなもんだ。お高い夢の果てに、どんだけ関係ねェ奴らが死ななきゃならなかった。戦うことすら、許されねェままに。
「――よし。じゃあ、兄貴。旿兄ィとは出来るだけ早く、出来るだけ遠くに離れないとだ」
「は? 何でお前ぇ、そんな藪から棒に」
 わかんないの、と顎と上げる。まァ堂に入った所作なこった。
「考えてもみなよ。伊尹、太公望呂尚、田単、商鞅、李斯。簫何に鄧禹、荀彧、陳元達。それから張賓、そして、王猛。王さまと一緒に龍を浴びたって人々だ。誰も彼もが不世出の天才って呼ばれてた。で、どのくらい高く見積もれば、旿兄ィのおつむがこの天才たちに並ぶと思う?」
「む……」
 否定しろよ寄奴、って言いてェとこだったが、他ならねェ己自身が、そんな方々と較べられんのはご勘弁願いてェ、って思っちまう。
「兄貴は、今までの王さま達とは全く毛色が違う。ってことは、旿兄ィが背負った、苻堅の言う“腕”としての役割も、矍鑠たる名宰相、みたいなものじゃない。きっと、もっと隠微で、もっと細やかなものだ」
 言わんとしてることの意味は、正直ほとんど分からなかった。だが道和の言葉からは、アイツがとんでもなく深けェとこまで考えてたんだろうな、ってことは感じられた。
 今なお思うぜ、龍に喰われたのが、己じゃなくて道和だったら、ってな。
「兄貴に必要なのは、きっと、目なんだ。その為にも、旿兄ィには敵の中に潜り込んでもらわなきゃならない。敵を倒すには、敵を知る必要があるからね」
 この時、寄奴は当然トゥバ・ギのことを思い描いてた。長い目で見りゃ、そいつァ決して間違った話しでもなかった。
 けど、己も寄奴も勘違いしてた。
 晋って国ァ、己らが思ってたよりも、遙かに根深く、病み爛れていやがったんだ。

 都、建康で淝水の論功行賞があるって聞き、真っ先に食いついたのが道和だった。
「お? 珍しいな道和、そんなに旨めェ飯にありつきてェのか?」
「旿兄ィはほんと莫迦だね、見に行かないとヤバいから、行きたいんだよ」
 いつもなら冗談で返してきそうなやり取りだったってェのに、とにかく道和の返しに容赦がねェ。泣きそうな己の肩に手を置いてきた寄奴にしたって「いい加減諦めろよ」ってなもんだ。
「帝から宰相からが集まるんだぜ。そんなら、一等ぶっちめるべきクソだって、きっと見つかんだろ」
 ひでェ大雑把な話に聞こえたのは、気のせいだったんかね。
 寄奴は、万騎将軍下の驍勇って題目で式典に招かれてた。付き添いが許されたのは一人。己ァ喜んで、そのお役目を道和に譲って差し上げた。
 あの戦ン時、寄奴と何無忌みてぇな感じで、各万騎将から先陣を崩す役割を負った精鋭が選出されたらしい。言ってみりゃ、朱序将軍のハッタリをどんだけもっともらしく聞かせるか、ってための人身御供だった訳だ。
 万騎将は八人だから、驍勇は八組。うち五組は、乱戦の中で討たれたって聞く。生き残ったのァ、寄奴、何無忌の他に、魏詠之って奴だった。
 仰々しい式典が進んで、寄奴が壇上に召し出された。そんで帝直々に褒美を賜ったときに、寄奴が「コイツはどうでもいいな」ってすぐさま切り捨ててたのがちょっと面白かった。
「で、道和。見た感じ、どうよ」
「そうだね。朝廷、西府、そんで僕らの北府。正直、どこも面倒くさそう、かな」
「面倒って、そんだけかよ」
「そう実感できただけでも収穫さ。ただ、」
「ただ?」
 道和が目線で示したのは、西府の連中が固まってる辺りだった。
「今回、淝水は北府が主導で戦った。けど、気付けば一番の大物首は、援軍扱いの西府がかっさらってる。自分たちの軍に、被害はろくろく出さずにね」
 西府。
 建康からずっと西、江夏の地を本拠地にしてた軍団だ。淝水の前哨戦じゃ、きっちり奴さんらから土地を守り切った実績もある。
 奴らは、己らが朱将軍の呼び掛けに応じた辺りで淝水に到着した。総崩れになった敵さんを見て、これ幸いと、そのケツをぶっ叩きに掛かりやがった。
 結果奴らは、ドサクサに紛れて苻堅の弟、苻融を討ち取った。雑兵、将軍の首ならいくらでも挙がってたが、うちで言う万騎将以上の首ってな、苻融くらいっかねェ。
「奴らの様子を見るに、たぶんこの功績は偶然じゃない。もっかい言うけど、どこも面倒だよ。けど、一番厄介なのは、間違いない。西府だ」
 道和が苛々したような、それでいて心底愉しそうな。そんな顔つきになった。寄奴ももう、多くは語らねェ。「そっか」だけ言って、道和の肩に手を置いた。

 それから間もなくして、謝玄総司令の叔父、晋国を束ねてた、謝安丞相が死んだ。
 折しも、激しく雨の降りしきる日。
 京口の街も、にわかに慌ただしくなったのを覚えてる。


幕間


「謝安丞相ね。あの方にゃよくして頂いたよ」
 先生が、遠い目で杯を傾ける。
「愛嬌のある方だった。ついでに言や小心者で、見栄っ張りで。向こうに回した相手に、いつもビクビクしてたクセに、ここ一番じゃどデカいハッタリを突き通す。ああ言うのをクソ度胸、って言うんだろうね」
「ひでェ言いようだな、オイ」
「しゃあなしさね。そんでも、結局はとんでもないことを成し遂げなさったんだ。ちょうど、旿ごの。お前さんが語る劉宋王どのみたいな感じだ、って言えば話が早いかね?」
 五柳先生は、そう言っていたずらじみた笑顔を己に向けてきた。畜生、って思うしかねェ。ここで寄奴引き合いに出してくんのは、いくらなんでも反則だろ。
「あーはいはい、分かりましたよ、じゃ謝丞相最高ってこってすね」
「実に話が早い、助かるよ君ィ」
「そりゃ痛み入ることで、ならついでに、謝丞相についてもう少し教えて欲しいんだが」
「構わないが、何をだい?」
「あの方が亡くなって、一気に晋がガタガタになってったじゃねェの。あん時はそんなもんだって思ってた。けど、今思うと、さすがに速すぎじゃなかったか? あっこから晋が転げ落ちてくの」
 きふふ、と先生が変な笑い方をする。
「つまり、それだけ丞相が偉大だったのさ」
「いやそう言うのはいいから」
「えー? なんだい、つれないねぇ」
 そう言う問題かよ、思わずツッコんじまう。そしたら先生は不思議な笑みを残したまま「けどね、半分は本当なんだよ」って、また一杯を乾した。
「丞相でなきゃ抑えきれなかった。それほど、あの頃の晋の歪みはひどかったんだ。正直思うよ、あの方の早世は淝水のせいだ、ってね。ぐちゃぐちゃな晋を、それでもあの時だけは秦に抗うよう団結せしめたんだ。あの性薄弱な丞相がよく踏ん張りなさった、って思うよ」

 ――あの頃は、西府の力が物凄くてね。統領の桓温が北を攻めれば連戦連勝、一時期はそのまま捲土重来もなるんじゃ、って期待させたくらいだった。
 ただ、そうもいうまくいかないのが世の常さね。のちに秦に服属することになる、ムロン・チュイ。奴の前に、西府軍はあえなく惨敗する。
 この段階で既に、丞相は秦に対して最大限の警戒をしてた。加えて、そこに桓温を一蹴したムロン・チュイが合流したってんだから、たまらない。
 それまでは、北は北、南は南で仲良く内輪もめを繰り返してきてたようなもんだった。秦は、間違いなくそんな太平楽な事態をひっくり返す。丞相はそうお読みになった。
 チュイにボロ負けした桓温は、その後焦りからか、朝廷にちょっかいを出し始めた。あとは五胡どもとの戦いの中で、実感もしたんだろうね。「皇帝なんて、名乗ったモン勝ちだ」ってさ。揺らいだ自分の威光を、皇帝、っつう肩書きで補おう、ってんのさ。浅はかにもほどがあらあな。
 さて、丞相は考えた。ボロボロになったとはいえ、西府軍は未だ強力だ。その勢力を可能な限り残しておけば、少なくとも強大化する秦への牽制にはなる。なら晋の国を護るためにゃ、その西府軍の強さをできる限り保った上で、北府ほくふ軍を更に精強なものとしておく必要がある、と。
 だから、桓温については変に反逆者扱いにはせず、あくまで同じ晋国の臣として扱った。その上で桓温からのちょっかいをのらりくらりと躱しながら、北府に信頼できる甥っ子――のちの総司令、謝玄どのだね――を送り込み、軍部を精強に出来るだけの人材を探させた。
 そうこうしてるうちに桓温は死んだ。病死、って言われてるが……あぁ、いや、野暮な憶測は止めとこうか。
 さて。
 謝玄どの自体は、いくさごとにそれほど深く通じてたわけじゃない。が、劉牢之将軍と誼よしみを結ぶようになり、軍権を将軍に委ねることで、かれは北府軍の強化に成功したんだ。この辺は謝家の人たらしの才能の面目躍如、ってとこだろうね。
 ただ、北府西府が強大になるのを見て誰が恐々とするって、朝廷さ。特に皇族たる司馬一族は気が気じゃなかったろうね。自分たちじゃ操りきれない武力が、並んで二つもすくすく育ってきてんだ。この頃丞相は、余計なことしてんな、とばかりに、日夜陰湿な目にもあったそうだ。
 けど丞相は、硬軟色んな手で、朝廷をも押さえ込んだ。
 丞相に、敢えて難を申し上げるなら、淝水以後のことを考えてなさ過ぎだった、ってことだろうね。
 西府軍の実権を削がなかったから、いったん皇統が途絶える羽目に陥った。それに、強引に朝廷を押さえ込んだから、皇族どもは報復じみた行動に出た。
 ただそれは、どう見積もっても難癖のたぐいだ。
 全てが終わった後でデカい顔で評価を下せる史家どもの見解にしたって、丞相以上の良手は「早い段階で秦に臣属すること」くらいしかなかった。

 今になると、思うんだよ。
 宋王どのが活躍できたのだって、つまりは丞相のお膳立てあってのことだったんじゃないか、ってね。


第二章 広陵擾乱


 叫ぶより、止めたほうが早えェ。
 王謐のオッサンに懐刀を突き付けようとしてた奴の頭をふん捕まえ、そのまま引き倒す。寄奴ァさくっとやって見せちゃいたが、そんな芸当、どんだけ腕力ありゃできんのか、正直己にゃ見当もつかねェ。
 寄奴に躊躇はねェ。ぶっ倒したそいつの手首を踏みつけ、そのまま、へし折った。
「が……っ!」
「情けねぇな、ひと一人ふたり殺ろうって奴が」
 脇腹に蹴りを一発、そんで手前ェの帯をほどき、ふん縛る。
「おいおっさん、怪我ねぇか?」
「あ……いや、大丈夫だ」
 いきなり殺されそうになったとこを、いきなり助けられたんだからな。王謐のオッサンにしたって、そりゃ目を白黒するしかなかったろうぜ。
 見れば、刺客とおぼしき連中の一人は魏詠之が押さえ込み、一人は何無忌が斬り殺してた。
「おいおい無忌、そいつが頭目だったらどうすんだよ」
 にやにや顔の寄奴に「うっ、うるさい!」って何無忌が返す。
「こうも粗末な闇討ちなら、誰を締め上げたところで変わらん!」
「だといいが、ねぇ?」
「っく……!」
 寄奴と何無忌が戯れてる間に、まだ死んでねェ二人を魏詠之がまとめてふん縛り上げてた。
「お前ら。戯れは、ことが済んでからにしろ」
 何無忌で遊ぶ寄奴にせよ、うっかり失態をキメた何無忌にせよ、魏詠之のこの正論にゃ返す言葉もねェ。寄奴は軽く肩をすくめ、何無忌は「むっ……ぐ……!」ってあわあわしてた。
 それ以上余計な茶々は入れず、魏詠之は王謐のオッサンに向き直った。跪き、頭を垂れる。
「粗野な連れの無礼、ご寛恕下さい。作法には疎いが、御身、並びに御身のご主君を危地より護るに当たっては、万億の信に足ること、お約束致します」
 ソツのねェ口上を前に、ようやくオッサンは少し冷静さを取り戻したようだった。魏詠之の言葉に対して「う、うむ」って頷いて、その後ろに控えてた青年貴族どのに目配せ、耳打ちをする。
 その貴族どのは、まだ少し動揺の色を残しちゃいた。が、それでもオッサンをよけさせ、しっかりと寄奴らの前に顔を見せる。
「貴公らがおらねば、我らは凶刃の錆となっていたことであろう。我は司馬休之、ここな侍従は王謐と申す。この大恩に報いたいところだが、今は感謝の言葉しか持ち合わせがない。許されよ」
 へえ、と寄奴が小さく感心した。
 お貴族さま、しかも司馬姓ともなりゃ、どう考えても半端ねぇご身分のお方だ。そんなお方にもかかわらず、努めて、こちらと同じ立場に立とうとなさってた。
 命を狙われるような立場のお方が、しかもその気になれば、明らかに手前ェらを締め上げられるような奴らを前にしてんだ。仮に取り乱してたとしたって、決して笑われるような状況じゃねェってのにな。
 建康のお巡まわりも、それなりに仕事はしてるみてェだった。数人連れの兵士たちが、なにやら騒ぎたてながらこっちに向かってきた。
 その様子を認め、ようやく司馬休之どのの緊張が少し緩んだみてェだった。が、すぐさま顔を引き締めると、寄奴らの方に向く。
「慌ただしくなりそうだな。改めて礼の場を設けたい。貴公らの名を伺ってもよろしいか?」

 己か?
 あの場にゃいなかったぜ。後で話すが、もうこの頃にゃ西府に向かってたからな。だから、この辺は全部寄奴を通して見聞きしてたことだ。
 淝水の論功行賞の後、寄奴らと魏詠之は当たり前のように意気投合した。あのメチャクチャな戦場を同じように生き抜いた絆、って言うとちょっと臭せェけどな。何無忌にしろ魏詠之にしろ、ああいう場ででけェ功を上げるような奴ってな、何かしら持ってるもんだ。
 三人はちょくちょくつるむようになった。そんで、お互いの夢なんか語ったりした。寄奴は戦場で成り上がってやると、何無忌は劉牢之将軍を盛り立て、北府軍を支えると。そんな中魏詠之の志は、「中原を夷狄から取り戻し、晋室の威光いこうを旧に復する」だった。寄奴にせよ何無忌にせよ、魏詠之の揺るぎねェ目途に、軽くのけぞってた。
 休之どの、それから王謐のオッサンを刺客から護ったのは、そんな呑みの帰り道の事だった。
 にしたって、いくら刃傷沙汰を防いだっつったとこで、ひとを殺しちゃ、当然お調べもお咎とがめもある。寄奴はゲラゲラ笑っちゃいたが「劉裕、貴様が捕らえた相手も相当な大怪我だぞ」ってお役人に釘刺されたもんだから、軽くすねてたな。
「下手人は判明したのですか?」
 場は打って変わって、休之どのの私邸。休之どのに献杯しつつ、魏詠之が問う。対する休之どのは「うむ……」って言葉を濁しなすった。
 そんで、魏詠之に目配せをする。
「それにしても、魏詠之どの。貴公が注ぐ酒の味は、実に快い」
 あ? と前のめりになりかける寄奴を、何無忌が抑える。「いいから黙って聞いてろ」って、寄奴をして有無を言わさせねェだけの強さで言い切った。
「朝廷で振る舞われるのは美酒ばかり、と伺いますが?」
「風評ばかりが先走りしているものも多くてな。幻滅を禁じ得ぬこともあるよ」
 ふむ、と魏詠之が一息つく。
「私は季預、と言う酒を嗜んでおりまして。これがまた、信じられぬ美酒なのです」
「貴公の勧めであれば、さぞ美味であろうな」
「保証致します」
 この時、寄奴は相変わらず二人のやり取りの意味を分かってなかった。まァ後でいきさつを聞いたら聞いたで、「何でそんな回りくどい事してんだよ」って苛ついてたんだけどな。
「良き酒に巡り逢い、良き酔いにたゆたいたいものだ。それに引き替え、過日味わった元馬顕には、ひどく悪酔いをさせられた」
 ぴく、と何無忌もその酒の名前に反応した。
 ――季預。
 そいつァ、休之どのの字だ。つまり魏詠之は、酒の話になぞらえて「貴方に全力で協力します」って休之どのに伝えた。ってこた、その休之どのが持ち出してきた酒の名前が、刺客の黒幕。
 ただ、誰が黒幕か、なんてな突き止めたところで大した意味ァねェ。軽々しく動いたとこで、相手は簡単にこっちの動きを握りつぶしちまえる。どころか、迂闊に「誰に命を狙われたか」なんて話が洩れたら、あっさりこっちを潰すことだって出来る。それほどの相手だった。
 だから、その名前を直接言うわけにはいかなかったんだ。

 諱を二つに割ってきた辺り、休之どのも相当腹に据えかねてたんだろうな。そいつの名前は司馬元顕。
 当時の帝、孝武帝の、実の甥っ子だ。


 司馬休之どのに招かれた翌日、今度は王謐のオッサンからの招待を受けた。オッサンの屋敷は、門構えこそ司馬休之どののそれより豪華だったが、出された食事だ、酒だはむしろ質素とも言えそうだった。後日何無忌から「主人の賓客を、従者の方が手厚くもてなすわけにも行かないだろう」って話を聞き、なるほど、そんなもんなのかね、って思っりしたもんだ。
「さて。立場が立場故、我々はあまり大っぴらに動くわけにもゆかん。そこで、諸君らに渡りをつけやすくするよう、信用のおける連絡役を設けておきたい」
 そう言って王謐のオッサンから紹介を受けたのが、ちょっと線の細せェ、けど目つきは妙に鋭でェ奴だった。歳のかさは己オレらよっかちょっと上。ただ、魏詠之、何無忌はさておき、露骨にボロの寄奴きどに対しても、奴さんは侮あなどりの様子をおくびにも出さねェでいた。どころか、そいつが真っ先に頭を垂れたのは、寄奴に対してだった。
「淝水での武功、広陵より胸を熱くしながら伺っておりました。私めは広陵主簿、孟昶と申します。よろしくお願い致します」
 広陵。
 建康からは、長江を挟んだその向こうにある町だ。その頃は淝水の騒ぎもあって、北の方から新たに逃れてきた流民の対応にてんてこ舞いになってたらしい、って聞く。そんな町の主簿ってんだから、流民とりまとめの手続きだとかでかなり忙しかったろう。にもかかわらず呼び出されたってんだから、そんだけでもオッサンからの信任の度がうかがえようってモンだ。
「おう、よろしく頼まぁ」
 ぐい、と寄奴が孟昶に酒杯を押し付ける。しばし固まっちゃいたが、やがて孟昶はそいつを受け取ると、一気に呷り、んで、派手にむせた。
「お、おい昶、お主酒はからきしだろうに」
 心配そうに割り込んできたオッサンに対して、えづきながらも「頂いた杯ですから」って孟昶が返した。寄奴に向き直る。
「り、劉裕どの。杯、ありがたく頂戴しました。ご返杯を、と参りたいところですが、なにぶん私めはこの通りにございます。なので、質問を一献に替えさせて頂けますまいか」
 寄奴は孟昶のその様子が、とにかく面白くてならねェでいた。咳き込んだあまり猫背になってる孟昶に、敢えて目線の高さを合わせる。
「いいぜ? 肴になるか分かんねぇけどな」
 しばらく、その姿勢でにらみ合う。間近で寄奴に目ェつけられるなんざ、そこいらの奴ならそんだけで尻尾丸めようってもんだ。だが、孟昶に退く気配はねェ。虎の眼差しをまともに浴びながら、やがて、深呼吸を一つ。
「ありがとうございます、では遠慮なく。何故、この泥船にお乗りになろうと思われました?」
 後ろでオッサンがヒェッ、って息を飲んだ。
「おぅ、言うねぇ!」
 寄奴は呵々と笑いこそしたが、一方じゃ思いっきり値踏みもする。固てェ。が、変に取り繕つくろうような奴じゃなさそうだ。この手のは土壇場に強えェ。この先どう話が転がるにしたって、ひとまずこいつが大きく揺らぐこたァねえだろう。
 そんで、同じくオッサンについても値踏みする。驚きゃしたが、止めようとはしねェでいる。少なくとも孟昶の質問をナシたぁ思ってねえって事だ。慌てふためく様子がいくぶん芝居がかってんのが、きっとすべてなんだろう。
 悪かねェ取り合わせだ。だから寄奴は、もうちょい揺さぶることにした。
「けどな、あんたのご主人だろ? いいのかよ、そんな風に」
 こう仕掛けられりゃ、だいたいの奴は主人のほうに目を飛ばす。迷いがあるかどうかは、その仕草に出る。
 じゃ、孟昶はどうだったかって言うと、まるで揺るがなかった。こりゃ思った以上だ、寄奴が感心した。
「主人なればこそです。刺客に狙われるような立場でありながらも、満足な護衛もつけられないでいる。この状況に対し、今更何の言い訳が出来ましょう」
 オッサンが申し訳なさそうに頭を掻く。
 そこに魏詠之が「王謐どの、そう韜晦なさいますな」って呼びかけると、少しきょとんとしたあと、やたら大げさに「いやいやいやいや」って首と手を振った。
「対してお三方の武勇は、今や晋しん国じゅうに轟かんばかりの勢い。この昶めの腹算用では、そのご決断、正直申し上げて、全く割に合っておりませぬ」
 なるほどね、と寄奴が小さく鼻を鳴らす。言葉尻こそこっちを立てる風じゃいたが、顔つき、口調からすりゃ、
 ――下賤の者、何が狙いだ。
 って言ってるようなモンだ。そりゃ目つきも鋭くなる。
 いちいち大げさに過ぎらぁ、そう言って寄奴が、バチバチに向かい合ってた視線を先に外した。何無忌らの方に歩み寄る。
「言うまでもねえだろうが、淝水でいちばん秦兵をぶっ殺したのは謝玄総司令だし、劉牢之大将軍だ。己らじゃねえ」
 龍がもたらした王さま達の記憶の中でも、寄奴が好んで頭ン中に引っ張ってきたのは、王さま自ら軍勢を率いて敵を散々に打ち負かすような奴だった。中でも項羽のことを思い返すことが多かった。あと、一緒に劉邦も。とんでもねェ戦上手と、そいつに散々負け続け、にもかかわらず、最後にはそいつをズタボロにした奴と。
 己らみてぇな小僧どもがふだん考える将軍さまってな、颯爽と馬に乗り、手にした矛でばったばったと敵をなぎ倒す、一騎当千、天下無双のおさむれぇ。だが、たくさんの戦争を知っちまった今となっちゃ、いやってほど実感しちまうんだ。どんな長い矛だって、いっぺんに殺せて二人三人でしかねぇ。その点うまく兵どもを操れれば、殺せる敵は兵の数だけ多くなる。
 王さま達が見てきたもんと、手前の耳目で味わったどでけェ戦争とが、寄奴ン中で混じり合い、形をなす。そいつを言い表すのは、そうさな、志、ってのが近いか。
「多少名前が通るようになったっつっても、しょせん吹きゃ簡単に飛ぶ木っ端に過ぎねぇ。だから今、肩ひじ突っ張って踏み出してく必要がある」
 目配せをすると、魏詠之は苦笑交じりにうなずいた。何無忌は――渋面と、あとはそこはかとなしの怒り、か。
 寄奴はそんな二人の間に割り込んで、後ろから二人の肩を抱えた。
「それとな、孟昶さん。己らぁ知っちまったんだよ。デカく勝つことの快感をな。ありゃ病みつきになる。そしたら、こっからのし上がってくのに、誰と組むのが面白そうだと思う?」
 いくらなんでもものの言い方を考えろ、そう何無忌が小耳に刺してきた。
 少し考え込む風だった孟昶だが、やがてその目つきが少し緩んだ気がした。
「なるほど。ではお互い、精々苦い酒をすすり合うとしましょうか」


「それで、驍勇どのは見事に大いなる敗北を味わわれたわけか」
「おいおい無忌、そう褒めんなよ」
「褒めておらん!」
 ばん、と机を何無忌が叩く。三つの茶碗が跳ね、わずかに茶をこぼした。
「季子との接見にしてもそうだが、徳與(※劉裕の字)! 君はもう少し会話の機微を身につけろ! 季子が我々に下さった資金が、まるまる只の謝礼である訳がないだろう! それを、よりにもよって博打で溶かすとは――」
「何参軍。お気持ちは分かりますが、さすがに声が大きすぎです」
 う、と何無忌が止まる。
「す、済まん。道和どの」
 いったん何無忌が激し始めると切りがねェわ、声がどんどんでっかくなってくわで、まァとにかく寄奴とは違う意味で手綱が必要だな、ってのが道和の見立てだ。そのせいもあって、こん時にゃもう何無忌へのぶった切りにも、だいぶ遠慮がなくなってきてた。
 王謐のオッサンの招きに応じた、更に翌日。建康に宿を借りてた寄奴と道和、そして何無忌は、そのままオッサンの屋敷に、賓客扱いってことで厄介になってた。だから人目を気にする必要はねェ訳だが、とは言えどこに耳があってもおかしかねェ。使用人の数だって少なくねェしな。
 あ、因みに季子、は司馬休之どのの事だ。寄奴が司馬休之どのと知り合ったこたァ、耳ざとい奴ならとっくに知ってたろう。とは言えわざわざこっちから堂々と渡りがついてる、なんて喧伝したって、うま味なんざ何一つねェ。だから、ちょっとひねってお呼びすることになった。
「しかし道和どの、……苦労するな」
「お察し頂ければ何よりで」
 道和が、これ見よがしにため息をついてみせる。
「で、兄貴。首尾は?」
「よくぞ聞いてくれた! 刁逵の奴、チンピラばっか抱えちゃいたが、さすがに都の顔だな。賭場で己の顔見て寄ってきた奴らは結構なもんだったぜ。だから、お前さんの言うとおり、二、三杯酒を振る舞ってやった」
「つなぎは取れそう?」
「まぁ、改めてこっちから取るまでもなさそうだな。京口とも繋がってるヤツが多いみてえだし」
「そか、じゃ京口に戻ったら忙しいね」
「だな」
 わっとまくし立てた二人に、何無忌は全くついてけねェでいた。かわりがわりつに顔を見ながら、おず、と切り出す。
「――徳與、なんの話だ?」
「あ? ――道和、おめぇ、無忌に説明してねぇの?」
「いやそこは兄貴から話があってしかるべきじゃない?」
 少しだけにらめっこにゃなったが、先に根負けしたのは、やっぱり道和だった。もちろん「まぁ、兄貴に話させたって要領得ないだろうしね」ってちくりと刺すのも忘れねェ。
「昨日兄貴が浮かれてたから、二つお願いしたんです。どうせ賭場に行くなら、刁逵って奴が開いてるところあるからそこに行け、と。そして、そこで兄貴にすり寄ってくる奴がいるだろうから、これは、って奴におごってやれ、と。その余った金で賭博やるなら止めない、とも伝えました」
 言いながら道和が、寄奴から割れた茶碗だ、うす汚れた木片だを引き取り、何無忌に示す。そいつらを見て、ようやく何無忌の中で話の中身がつながったみてェだった。
「そうか、どうせなら今のうちに建康の白籍たちとつながっておこう、と言う腹か」
「はい。今の兄貴は、言わば真夜中の焚き火です。その手のを寄せるなら、何参軍や魏主簿よりも、兄貴の方が似合っていると思いませんか?」
「おめぇ本当にいちいち一言多いな」
 さすがに最後の言葉は寄奴にしてもちょっと引っ掛かったみてェだ。そいつを聞いて何無忌がようやく、くくっと笑った。
「本当に、道和どのは徳與の扱いにかけては天下一品だな」
「あんまり嬉しくないですね、それ」
 道和が懐から竹簡の板を取り出すと、寄奴から受け取ったそれぞれのがらくたの持ち主を聞き取る。破片どうしがぴったり合わされば、本人、あるいは代理だって証が立つって寸法だ。
「しかし、まさか道和どのは、ここまで見越して?」
 道和の筆がぴたり、と止まった。何無忌の驚嘆の顔を見て、いっさいの演技っけナシで首を振った。
「いえいえ、まさか。地震だの火事だのの被害を、せめてどう活かすかと考えているようなものです」
「徳與は天災か」
「そのようになるのは、敵に向けてのみにして欲しいのですが」
 全くだ、何無忌が肩をすくめた。
「お前らな……なんならここで天災になってもいいんだぜ?」
「どうぞ。全部母さんに報告するけどね」
「う」
 はじめて寄奴の顔が引きつった。
 そりゃそうだ、あの寄奴、あの道和にしてあの母あり。先生はお目に掛かったことねェよな、寄奴のかか様、簫文寿様ってんだが、とにかく寄奴ァ厳しく、っつーかありゃこっぴどく、だな。しつけられてきたもんだ。つるんでた己らも、割と一緒に怒られたっけな。
 ただ、言ってた事はまとめちまえば二つ。「お天道様に顔向け出来ないことはするな」「いったん手前で決めた事は曲げるな」だ。だからケンカしてきたときも、怒られたのは負けたことに対してだった。そんかし勝ったらごちそう振る舞ってくれたりな。己自身、あのお方にゃご恩ばっかりだ。全然返せてねぇのが心残りだが、事この期に及んじゃ、出来ることなんざ文寿様のご長久を願うっくれェだな。
 ――お? 先生、似合わねェぜ、そんなしみったれた面。
 ともあれ、驍勇も形無しだな、って何無忌が苦笑した。嘆息を一つ、少しこぼした茶を一気に呷る。
「晋の東遷から、はや五十年。だと言うのに黄籍と白籍の間に横たわる溝はいっこうに埋まる気配がない。むしろ広がった、とすら言っていい。今回、白籍の君たちが挙げ得た大功、湖面の一石にのみ留めるわけには行かんな」
「お汲み頂けたこと、忝い限りです」
 改まって、道和が頭を垂れた。
 併せて寄奴も、ちみっとだけだが神妙そうな顔つきになる。
 先生の知ってる白籍はほとんどがお貴族さまだったろうから、あんまピンとこねぇだろうたァ思うんだ。けどな、白籍、要は江北から逃げてきた己らのご先祖と来たら「平和になったら元の住まいに帰る」てなもんで、こっちでの籍はあくまで仮のものにさせられた。
 仮だから、当然マトモな仕事ァ回ってこねェ。抜け目ねェ奴でもなきゃ、ほとんどが街の隅っこで這いつくばってるっかなかった。そんなんが五十年だ。こっちにしちゃ恨みつらみも溜まるし、けど当然黄籍の連中に取って厄介者だって負い目もある。いやでも日陰モン暮らしにゃなる。よしんば兵隊になったって、ほとんどが使い捨てだ。淝水で孫無終将軍に取り立てて頂けたのだって、ほんに普通じゃあり得ねェことだった。だから寄奴にしてみりゃ、ここでデカく名を上げて、「市井の白籍に人あり」を訴えなきゃいけなかった。
 その気張りを何無忌、黄籍を代表する将軍の一族が認めてくれてる、ってんだからな。感謝、ってェのとはちと違うが、心強くはあった。
「それでは、速やかに動かねばな。明日にでも動くか?」
「そうだな、」
 そこでふと寄奴が考え込む。
「――なぁ、お前ら、先に京口に戻っててくれねぇか?」
「構わないけど、――なんで?」
「白籍、で思い出したんだがよ。一回、広陵に行っておきてぇんだ」
 寄奴のその申し出の意図を、何無忌はうまく汲み取れねェでいるようだった。無理もねェ。こいつばっかりは、似た境遇の人間でねェと、なかなかたどり着けねェ考えだ。だから、道和が寄奴の言葉を請ける。
「見ておきたいんだね、追われてきた人たちのこと」
「あぁ」
 淝水の戦いが生んだ、新たな「白籍」の人間たち。実際のとこ戦争はとっくに終わってる。戻ろうと思えば戻れなくもねェ。だが、一回刻み付けられた恐怖ってのは、そう簡単に拭い去れるモンでもねェ。また奴らがやってくるかも、なんて思いながらまともに夜を過ごせる奴なんざ、果たしてどれだけいたもんか。
「だから、」
 この上なく真剣な眼差しで、寄奴は何無忌を見た。

「貸してくれ。路銀」


「なるほど。つまり徳與殿、あなたは莫迦なのですね?」
「――否定できる材料がねぇよ」
 船の欄干に寄りかかり、寄奴は渋い面をする。片頬がリンゴよろしく真っ赤になってる。何無忌みてェな豪腕に殴られたってのにその程度で済んでたんだから、あいつも頑張って堪えてたんだな。本当、何無忌にゃ同情するぜ。
 建康と広陵とを結ぶ船にゃ、建康に集められた食料だ衣料品だの他、おさむれぇたちも結構な数が乗り込んでた。何でも孟昶が建康にいたのも、広陵に寄せてきた流民たちに行き渡るだけの物資を買い集める為だったんだとか。おさむれぇたちは野盗対策で雇われたんだって言う。
「くれぐれも英雄でいて下さい。いま、子どもたちは講談師の語るトゥバ・ギと徳與殿との一騎打ちに心躍らせているのですから」
 ほとんど無表情のままの孟昶。英雄ならもう少しやさしく扱えねえのかよ、聞こえよがしの寄奴のぼやきも普通にしらん顔だ。
「招かれざる客ではありますが、こちらにも体面があります。先頃申し上げましたとおり、当家にて逗留頂けるよう手配を取っております。ですので、幾分は当家の予定にもおつきあい頂きますようお願い致します」
「わーってるよ、ただ、あんま堅っ苦しいのは勘弁な」
「ご安心を。此方もあまり英雄殿の化けの皮が剥がれるのは都合がよろしくございませんので」
 出航前に道和と孟昶がひそひそ話してたのがなんだったのか、嫌ってくらい味わってる訳だ。寄奴がぶすっとしてんのを己ァ遠いところから爆笑してたが、「手前テメェ今度会ったら事だぞ」って脅されたもんだから我慢、
 しきれねェで、やっぱり笑ってた。
「どうかしましたか?」
「何でもねぇ。不愉快な虫の知らせだ」
 手前ェひとを虫扱いかよって内心で怒鳴ろうとしたが、うまくいかなかった。この頃ァお互いどうやれば上手く話せるかよく分かってなかったんだよな。だいぶわちゃわちゃなやり取りばっかしてたように思う。
「――? まあ、こちらに益のない情報であれば、それで構いません。ただ、この点についてはお伺いしてもよろしいでしょうか」
「あん?」
「今回の広陵入り、どちらに徳與殿の益があるのです?」
 平坦な表情に隠れちゃいたが、好奇心はだいぶ強えェほうなんだな。真っ直ぐに寄奴を見つめてくる。
 孟昶の後ろにゃ船頭のがなり声、漕ぎ手の太鼓、おさむれぇどものいざこざ、そんなモンがとっちらかってる。そいつら全部を、青空がひっくるめる。
「義侠心じゃ駄目か?」
「ありえません」
「ひでぇな。あるぜ、三分っかたくれぇ」
「では残りの七分でお願いします」
「へいへい。――要るんだよ、手垢にまみれてねぇ奴が」
「手垢、ですか?」
「あぁ」
 帯にはいた青銅環をちゃら、と弄もてあそぶ。北府兵だ、って身元を明かす為の代物だ。兵卒なら木、部曲長やら参軍のは青銅、将軍なら銀で出来てる。もちろん、金は誰もが憧れる大将軍。
「敵、味方。季子の周りに何があんのか、今の己にゃ全く見えねぇ。勿論オッサンからも、あんたからもいろいろ教えてはもらいてぇ。けどそこにゃ結局あんたらの色がつくだろ? 己なりの目がねぇと、誰を殴っていいかで迷っちまう」
「なるほど、――孫子ですか」
「あー、それそれ」
 適当な返事にもほどがあらァな。
 王さま達が見聞きしてきたこと、ってんだから、そん中にゃ当然四書五経、諸子百家、史書なんぞの文字も軒並み残ってる。が、寄奴の奴ァその辺についてはわざと見えねェ振りしてやがった。だから孟昶の言う孫子、つまり「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」なんざ言われても頭ン中に浮かびゃしねェ。
 そんかし、こん時に寄奴が思い出してたのァ、同じ孫子でも孫臏の方だったな。分かるだろ? 「龐涓ここに死す」、だよ。龐涓の性格を気味悪ィくれえ見抜いて、ひたすらガタガタにしてったアレだ。
「――貴方は、不思議な方ですね」
 その呟きの声色は、今までの孟昶たァちょっと違った。いつも通りに固てェは固てェんだが、何つか、表が溶けた氷、ってのが似合うかな。そんな感じだった。
「聞いていた話では、何処までも剛勇、あるいは蛮勇。それはそれで、この行き詰まった晋の国の行く先を切り拓くに相応しいか、とも考えておりました」
 の割に随分噛みついてくれたじゃねぇの、寄奴がそれこそ噛みつくと、虎に警戒せぬ人などおりますか? ってあっさり返して来やがる。
「こうして話していても、やはり、失礼ながら武辺者の印象は変わりません。しかしその言葉に、徐に将、どころか帥、の視野が交じってこられる。一体、徳與殿に天下はどのように見えておられるのか」
 ちょっと考え込み、寄奴は顎を掻いた。
「んー、今は一寸先も見えねぇぼうぼうの草むら、って感じだけどな」
 そいつを聞き、孟昶がきょとんとする。が、すぐに解れた。唇の端がわずかに持ち上がる。初めて見る孟昶の笑顔だった。
「なるほど。虎と呼んだのは失礼でしたね。貴方は、或いは龍なのかもしれない」
 ぎくり、としかけちまったのは間抜け、としか言いようがねェ。虎とか龍とかを、どいつもこいつもが好き過ぎんのがいけねェんだが、たァ言えそこに引っ掛かっちまうのは事だ。
 だから寄奴は一回孟昶から視線を切った。
 水平線、その向こうから、広陵の町が顔を出し始めてた。
「んなことよりも、孟昶。そろそろ広陵について教えてくれよ」
 寄奴の様子に訝ったみてェだが、変に突っ込んではこねェ。軽くうなずいた。
「承知致しました。ご存知の通り淝水以降、五胡勢力の寇略を恐れた民が流入、俄に人口は増えております。これによって食料不足が深刻化、併せて溢れかえる流民たちは賊徒にとって奴婢を得る又とない機会と言うことで、周辺に姿を見せる人攫いの類いにも頭を悩まされております」
「奴婢? どの辺に売り飛ばされんだ?」
「大部分は中原でしょう。あちらも淝水以後荒れに荒れ果て、人手はいくらあっても足りない、と聞いております」
「――胸クソ悪りぃ話だな」
「誠に。その為広陵太守、高雅之はこの船の手配をしたほか、北府軍にも防備の援護を依頼致しました。恐らくはこちらとほぼ同時期に、京口よりの軍船も到着するものと思われます」
「統括は?」
「仄聞では北府軍副将の王恭徐州刺史、司馬に徐道覆将軍とのことです」
「そうか」
 王恭副将、についてはともかく、徐将軍については知らねェ顔でもねえ。あの豪快そうなおやっさんのことをふと思い出す。
 驍勇として都で褒賞を受けた寄奴らは、この時休みをもらってた。が、もちろん軍全部がお休み、って訳にゃいかねェ。特に、広陵なんて都に目と鼻の先の町でてんやわんやになってんだ、変にここでボヤが上がろうもんなら、下手すりゃ晋全体に飛び火することだって考えられる。北府軍としても、デケぇ厄介ごとはごめんだ、ってなモンで送り込んだんだろう。
「――それと、こちらは問題、とは違うのですが、流民の間に、五斗米道の者の姿を見た、と言う噂も立っております」
「五斗米道?」
「太上老君を始めとした神々を信奉する、と自称する集団です。流亡生活の不安に付け込み、信徒を増やそうと目論んでいるのでは、と」
「おいおい、メチャクチャじゃねぇか」
「仰る通りです。ですので、」
 孟昶が、この上なくわざとらしく、拱手して来やがった。

「徳與殿におかれては、この広陵で慎ましやかな時をお過ごし下さるとのこと、大変、大変有り難く思っております。ですので、く、れ、ぐ、れ、も、よろしくお願い致します」


 広陵の北側、町外れで人だかりを見つけた。寄奴きどが何事かと思い近付くと、途端に蜘蛛の子みてェにわっと散る。まァ馬に乗ったまま近付いたのがいけねェ。そりゃやべぇ奴って思われても仕方ねェわな。
 あとに残ったのは若い女、幼子二人、それと、乳飲み子を抱えた野郎が一人。野郎は寄奴をいっとき見たあと、女子供に向けて「大丈夫ですよ」って声を掛けた。
 乳飲み子を見る。土気色の顔、枯れ果てた呼吸。枯れてんのはそんだけじゃねェ、ぼろっ切れから覗く手指もだ。
 苦しそうにあえぐちびの顔に、野郎が掌を添えた。その眉根がキツく寄る。
「賀也汝便登仙堂」
 ゆっくり顔の上で掌を回す素振りをしながら、抱えてた方の手がわずかに動いた。寄奴が動こうとしたが、もう遅せェ。ちびのうなじがかくん、と落ちる。安らかに眠ったかのような顔つきになった。ただ、もう二度と目が開くこたぁねェが。
「――あ」
 女の目から涙がこぼれた。震える手で、死体を引き取る。
「ご夫人、仙堂は良きところです。お子様のこの先は、心配なさいませんよう」
「あ、ありがとうございます、孫恩様」
 女はそう言うと、横目で寄奴を見、大げさなお辞儀のあと慌てて子供二人を促し、退散した。気付きゃ孫恩って呼ばれた男と寄奴の周りからは人がいなくなり、とは言え遠巻きには見られてるような状態だ。寄奴はぐるりを見渡し、「あー……」って頭を掻いた。
「悪かった。邪魔しちまったみてぇだな」
「いえ、とんでもない。あなたのような士大夫の気にお留め置き頂け、光栄です」
 緊張するでも、警戒するでもねェ。物腰と同じく、柔らかな語調。かと言って余裕、ってのとも違う。上手い言い方が思い付かねぇな。何の無理もなく、そこにいる、とでも言やいいのか。
 孫恩が拱手した。
「私は浹口に庵を結ぶ、孫恩と申します。士大夫様はさぞ名のある方とお見受け致しますが、お伺いしても?」
「大した名じゃねぇ。項裕ってんだ」
 多少ケツにむず痒さを覚えながら、それでも寄奴は孟昶からの進言に従い、偽名を名乗ることにした。
 船上で話を聞いちゃいたが、実際に広陵の町なかに出てみりゃ、思った以上に寄奴の名前は知れ渡っていやがった。第一にゃもちろん謝玄総司令だったが、さすがに一騎討ちなんて分かり易い大立ち回り決めたもんだから、将軍がたを飛び越えて、第二、っくれぇの勢いで名が鳴っててな。こんなとこで本名を名乗りゃ、たちまち面倒くせぇ事になるのは間違いねェ。
「ありがとうございます、項大夫」
「勘弁してくれ」
 手綱は手放さねぇままで、馬から下りる。
「にしてもあんた、随分慕われてんだな。遠巻きだが、どいつもこいつもあんたのこと心配してら」
「勿体ないことです」
 柔和な笑顔からは、裏が見えねぇ。
 あるいは本当に、ただの笑顔なのか。かえって寄奴が戸惑うくらいだった。
「だからこそ気になってな。あんた、なんであのガキを殺した?」
 どこまでもまっすぐに、ためらいもせず、言葉の剣を突き付ける。騒ぎは起こすなってこそ言われちゃいたが、こん時寄奴ァ返答次第じゃ脳天かち割るくらいのつもりでもいた。
 辺りがざわめく。
 だが、やっぱり孫恩自体に動じるところはねェ。
「理由が必要でした」
「理由?」
「はい。諦めるに足る理由です。あの子は助かりません。然し、親子の情はそれを易々と認めるわけには参りません。ですので、私が理由となりました」
「それで、仙堂か」
 ――おめでとう。君は間もなく、仙堂に召されるのだ。
 孫恩がちびに掛けた言葉は、また、母親への慰めでもあったんだろう。死によって、救われる。そう考えでもしなきゃ、まともに立てもしねェ。
 身も蓋もねぇ言い方だが、ちびが一人死にゃ、その分食い扶持も減る。ってか、減らさにゃ、結局他の奴が死ぬ。分かっちゃいるが、だからといってはいそうですか、なんて訳にゃ行かねぇ。
「なぁ、孫恩さんよ。仙堂ってな、何処にあんのかね?」
 つい、聞いちまう。
 仕方ねぇ話だ。寄奴自身、産みの母親にゃ生まれたその日に死に別れてる。思い詰めた親父にゃ殺されかけ、けどひょっこり命を拾って。その親父殿も今や土の下。後妻の簫文寿様のこたァ慕っちゃいるが、寄奴の根っこにゃどうしても「自分が生まれて良かったのか?」って気持ちが横たわってた。
 と、そこへ、後ろから、殺気。
 声も掛けずに容赦なしの一振り、やり慣れてる奴の手口だ。寄奴も迷わず腰に佩いてた剣に手を掛ける。
「止まれ、循!」
 さっきまでの柔和な顔つきからは信じられねェっくれぇ、孫恩の声は鋭かった。
 振り向いたとこにいたのァ、十四、五になろうかってェガキ。寄奴の剣はその首筋、皮一枚んとこで止まってる。その顔に浮かぶ怒りが恐怖に取って代わるのにゃ、数瞬の間があった。手から、棒ッ切れが滑り落ちる。
「随分しつけのなってねぇガキだな」
「申し訳ありません。そして殺さずにいて下さり、ありがとうございます」
 寄奴が剣を引くと、循、って呼ばれたガキは力なくへたり込んだ。
 腰周りが濡れる。
「私の連れ、廬循と申します。逸り気も甚だしく、このご無礼には、何の申し開きも叶いません」
「――まぁ、己もいい加減どう見られてんのか弁えるべきたぁ教わったよ」
 ため息と共に、剣を収める。
 別に、孫恩に迫ってたわけじゃねェ。にもかかわらず、廬循とやらは問答無用で突っかかってきた。さっきがさっきだった分、血の気がどう、で片付けるにゃ、寄奴にも思い当たりがありすぎた。
 あやしい奴が来たら、見極めるより先に逃げろ。あるいは、殺せ。ここはそう言う場所だ、ってことだ。
 孫恩の前髪が、ひと房落ちる。
「にしてもこえぇな、あんた」
「何のことでしょうか?」
 もう、孫恩の顔にゃさっきまでの笑顔が戻ってた。大儀そうに立ち上がると、びっこを引きながら寄奴の脇を通り過ぎ、廬循に歩み寄った。
「私を心配してくれたこと、それは嬉しい。だがね、廬循。彼我の力の差を見抜けないのはいけないよ」
 そこかよ、寄奴が獰猛に笑う。柄に掛けた手に、ほんのちぃとばかし力がこもった――のと、孫恩が顔を向けてくんのはほとんど一緒だった。
「項大夫。恐れながら、これにて失礼させていただきます。この粗忽な連れの介抱もせねばなりませんので」
 そう言って、廬循の手を引く。何とか立ちあがった廬循の目にゃ、もう怯えの色はなかった。憎々しげに寄奴を睨んできやがる。何はともあれ、勘違いから突っかかってきやがったのァそっちだってのにな。
「なので最後に、中座となった問いに答えさせていただきます。仙道は、今この時、最も求められるべきものです――が、」
 片手で廬循を担ぎ、もう片方は、天に向ける。
「そんなものは、ありません」
 天に向けたほうの手を握り締め、振り下ろす。
 まるで空から何かを引っぺがし、捨て去ったかのような。

 ありもしねぇものを、そうとわかりながらも、拠り所とさせる。
 詐術もいいところだ。けど孫恩は、それでいて、民心を掴んでた。
 ――妖賊、五斗米道。
 奴らはずっと先、寄奴の前に立ちふさがることになる。


「おぅコラ、ずべた! テメェ調子こいてんじゃねえぞ!」
「あぁん!? 狒々が虎の皮被って偉そうに! どうせ下も被ってんだろ!」
「なっ……って、てめぇ、言わせときゃあ!」
「おーやだ、ちょっと図星つかれりゃすぐオツムが止まんのかい! だらしねぇったらないね!」
 よくあるケンカの一コマに、もとより寄奴が付き合う義理ァねェ。ただそれも、組合せが組合せじゃなかったら、だ。
 腰に木環ぶら下げたチンピラが三人。どいつもこいつもいいガタイしてやがる。向かい合うはやせ細った、けど眼力ばっかりがやたらと強えェ女が一人。後ろじゃちびが震え上がってた。
「おう、ずいぶんおあつらえ向きじゃねぇか」
 折しも寄奴ン中にゃ、孫恩の言葉がぐるぐる回ってた。
 この町にゃ今、ありもしねェ仙堂に、それでもすがらにゃなんねえ奴らがごまんといる。そん中の一人を、寄奴ァ何も出来ねぇで、ただ見送るっかなかった。
 思い返すだに、そいつは苛立ち、として降り積もってた。そんなとこに、またもガキが縮み上がってやがんだ。
 だから、腰に佩いてた銅環を外した理由なんざ、義憤、なんてお綺麗なモンじゃねェ。言ってみりゃ、ただの八つ当たりがしたくなったんだな。
「人がせっかくおまんまの駄賃恵んでやろうってぇのに、ずいぶんつれねぇじゃねえか、あ?」
「いらねえっつってんだよ、狒々のこ汚ねぇケジラミついた金で買った食いモンなんざ、可愛い弟がゲボ吐いてくたばっちまわぁ! よっぽどてめぇらが去んだあとの空気吸わしたほうがあいつらも元気になるってんだよ! すくすく無駄にデカくなりゃあがって、そんなご立派なナリしといて、やるこたぁ三人掛かりでモヤシ女にご執心かい! てめぇらのへなちょこ槍で氐猪どもがどんだけ食い止められんだかあやしいもんだねっ! 何ならお望み通りてめぇらのひょろ槍くわえ込んで、三本ともへし折ってやろうかい!」
 つるつる決まる啖呵に、チンピラどもァのけぞるのけぞる。いっそ小気味いい、とすら言っちまっていい。みるみる間に、奴らの頭に血が上ってくのが分かった。
「面白れぇ」
 寄奴はにやりと笑うと、馬から飛び降りた。女の後ろで震えてたガキに手綱と、駄賃を渡す。
「ガキ、しっかり見てろよ」
 そう言ってチンピラの方に向きゃあ、真ん中の一匹がいよいよ剣に手を掛けようとしてやがった。そう、こいつを狙ってたんだ。これならぶっ倒しても、向こうが先にケンカを売ってきた、で片がつく。
 女の脇を通り過ぎるとき、ちらりとその顔を覗く。チンピラどもの様子に、全く動じてる様子はねェ。ずいぶん強えぇな、ちぃとばかし感心しつつ、寄奴は真ん中の奴の、剣の柄に掛かった手を乱暴につかみ取る。
「!? なんだっ、てめ……」
「抜いたよな? おめぇら」
 そうこうしてる内、脇の二人はとっくに抜いてる。
 共に右利きみてェだ。だから寄奴は真ん中の奴から見て右にいる奴に向けて、思いっきり真ん中を突き飛ばした。巻き込まれて、二人がもろともにぶっ倒れる。
 残る一人をにらみ付ける。そいつはびくっとして、剣を振り上げようとした。そのがら空きになった脇に肘を叩っ込みゃ、やっぱりそいつも吹っ飛んじまう。
 正味の話、馬力が違い過ぎんだ。トゥバ・ギの槌を真正面から受け止めるってな、大の大人が三人掛かりで突っ込んでくるようなもんだ。寄奴ァそいつをまるまる受け止める。
 だから、寄奴は戦場以外じゃめったに他人を殴らねェ。
 絶対に、怪我、じゃ済まねェからな。
「な――何だよあんた、誰が助けてくれって言った!」
「知らねぇよ。己ぁ憂うさ晴らしの理由見っけただけだ」
 チンピラどもから女を遮さえぎる形で、立ち塞ふさがる。
「女入れても二対三だ。まさか卑怯たぁ言わねぇよな?」
 吹っ飛ばされた奴らァ息巻こうとしたが、はじめに寄奴に吹っ飛ばされた奴が泡吹いてんのに気付き、その顔から一気に色を失った。何モンを相手にしてんのか気付いたらしい。一気に及び腰になる。そして、
「て、てめぇ! 覚えてろよ!」
 そう。戦場で生き延びんのにゃ、そいつが肝心だ。敵わねぇ奴からは、速攻逃げるに限る。奴ら、ある意味じゃ優秀だったみてェだな。
「あ、おい」
 寄奴が間抜けな声を上げる。あんだけ派手に彼我の差見せつけといて構ってもらえるって思ってんのがなかなかだ。
 ざわざわする町なか、いきさつがいきさつなだけに、寄奴にまとわりついてくる視線にゃだいぶ賞賛の気配もあったりした。褒められるのが苦手、なんてこたァねェ。だが、一等やりたかった「阿呆をぶっちめる」をし損じてんのにもてはやされるこの感じが、とにかく居づれえったらねェ。
「てっ……」
 後ろからの、女の声。そいつが、すとんと落っこちる。
「あん?」
 寄奴が振り返ると、女は腰を抜かしてやがった。
 見りゃ足が震えてる。足だけじゃねえ。腕も、歯もだ。
「何だお前ぇ、はったりだったんかよ」
「う、うるせぇな。悪りぃかよ」
 寄奴のところにちびが駆け寄ってきた。寄奴から預かった手綱、それから小銭、を返してくる。「そっちは手綱の駄賃だ、取っとけ」そう言って寄奴は手綱だけ受け取る。ちびは女の方を向いた。
「いいよ、熹。もらっときな。そんかし、ちゃんと礼は言え」
「う、うん! お侍様、姉ちゃんを助けてくれて、ありがとうございます! ぼくは臧熹って言います!」
 一生懸命に首を垂れ、顔を上げてきたときの顔が期待に満ちてんのを感じる。また名乗んなきゃいけねえのか、寄奴はちいとばかし億劫になってた。
 孟昶に言われた言葉がよぎる。「くれぐれも目立たぬように」。もう騒ぎを起こしちまってる。つっても騒ぎ自体は別に構わねぇ。問題は、それでこっちの氏素性がバレちまうことだ。
 けど、英雄にでも会ったみてェな目で見られりゃどうしようもねェ。
「っこ、項裕だ」
 思わず噛んだ。
 けどそこにゃお構いなしだ。ちびの顔が、ぱあっと輝く。
「項将軍! このお金、大切に使います!」
「あぁ、そうしてくれ」
 とにかく寄奴ぁ、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
 手綱を引く。が、その視界の隅にゃへたり込んだまんまの女がどうしても入り込んじまう。ちびが心配そうに縋すがりつくが、明らかに無理して「少し休めば大丈夫だからさ」って笑ってみせてやがった。
「――あぁ、くそ!」
 乱暴に女を小脇に抱えると、馬上に放り上げる。
 見た目通り、驚くほど軽りィ。
「な、何しやがる!」
「そんなザマで何いきがってやがる! いいから言え、どこがおめぇらのヤサだ!」
 こうなりゃもうヤケだ。やたらとつっけんどんな言葉尻になっちまったもんだから、女はびくりと目を見開き、固まった。
 ッたく、と舌打ちひとつ、続いてガキも馬に乗せる。
「熹。姉貴を支えろ。できるな?」
「っは、はいっ!」
 姉貴と違って弟は素直だな。しかしあっさり馬になじんでる辺り、どいつも馬に乗るのぁ初めてじゃねえみてぇだった。
 前に座った臧熹の案内に従い、街を行く。
「――どうしてさ」
 後ろから、女の声が降ってきた。
 振り向く。
 寄奴ァこん時になってはじめて、まともに女の顔を見た。
 痩せこけちゃいるが、決して貧相な顔つきじゃねェ。鋭でェ、って言ってもいい。たぶん、まともに着飾ったら、相当な美人のはずだ。けどそん時ゃ、眼付きから発する意志の強さばっかりがやたらと印象的だった。
「どうして、ここまですんだ。あんたにゃ何の得もないじゃないか」
「うるせぇな、気まぐれだよ」
 そりゃ、素直に言うわけにもいかねェからな。
 ちびを守る姉貴。いやでも寄奴が小さかった頃の画と重なっちまうんだ。もっとも寄奴の場合は姉貴じゃなく、かか様だったが。
 出稼ぎに出てる親父殿を待つ間、京口に闊歩するやくざもんを丁々発止のやり取りで潜り抜けてきた、簫文寿様。寄奴や道和の前でこそ大丈夫な振りしてたが、それがやせ我慢だって気付くのにゃそう掛からなかった。そいつこそが、寄奴が強くなりてぇって思ったきっかけだった、って言っていい。
 余計なこと思い出しちまった、バツが悪そうに、寄奴ぁ頭を掻く。
「ともあれ、申し訳ねぇ。あたしからの礼が遅れちまったね」
 謝りつつも、あんまり頭は下がんねぇ。いつもあんまり誰かを頼ったりしてこなかったんだろうな、ってのがよくわかる。

「ありがとう。あたしは、愛親って言う」

 ――長くなっちまったな。これが寄奴の、奥方との出会いだ。


 驢馬飼いの到爺ィが信用できる、そう愛親が言ったのを寄奴ァ鵜呑みにして、到爺ィに馬を預けた。孟昶から借りた馬だってのにな。あんまりにもあっさりしたもんだったから、かえって愛親が驚れェたくらいだ。
「え、い、いいのかよ?」
「信用できるって言ったのはおめえだろ?」
 こともなげに言い切ってみせる。据わりの悪さを感じたか、愛親ァちぃとまごついたが、意を決して到爺ィに威勢良く「頼んだぜ!」って声を掛けた。
 その様子を見て、寄奴ァ小さくにやりとする。好きなんだよな、あいつ、こうやって仕掛けんの。
 愛親の住まい、っつったってそんなご立派なもんじゃねェな、地べたに藁敷いて、その上に柱を立て、ぼろ切れおっかぶせただけの代物だ。掘っ立て小屋だってこいつに比べりゃまだ上等だァな。寄奴に愛親、熹きの三人が入りゃ、もうそんだけでみっちりだ。
「だから言ったろ、何にもねえって」
「いや、上等だ」
「はぁ?」
 愛親はぞんざいな口を叩きながらも、奥の座はきっちり寄奴に譲る。寄奴が腰を下ろしてから、入り口を背に自分も座る。その隣に熹も座る。二人とも、正座したその背はまっすぐに伸びてる。
「何だよ、さっきとずいぶん違うじゃねえか」
「茶化すんじゃねえよ」
 そう言うと、愛親、熹は頭を下げた。それこそさっきの半端な礼たぁまるで違う。藁に額がつこうかって勢いだ。
「改めて、御礼申し上げる。項将軍、貴殿の奮武により、東莞郡功曹、臧俊の子、臧熹は匹夫の暴より免れた。熹を守ろうにも、惰婢の非力では到底叶わぬ所であった。ともすれば臧家の督を絶やし兼ねぬ危地を救い果せた将軍の神勇に対し、今は下げる頭しか持ち合わせるものしかない。どうか、お許し願いたい」
 固っ苦しい口上だってのに、全く噛みもしねぇ。
 ちら、と寄奴が奥を見る。何もねぇ、訳じゃなかった。ちんまい卓が置いてある。その上にゃ、銅環が飾られてた。
「親父さんか。どこの戦場だ?」
「戦場じゃない。家だ。蛮夷の強襲を受け、あたしらだけが逃がされた。銅環は、国に返してくれ、と」
「そうか」
 熹の鼻が、ず、と鳴る。そこにすかさず「なんだ当主が、情けねぇ!」って愛親の手が飛んだ。語気こそ鋭でェが、ぺし、って音は存外に弱々しい。
「誰に返す?」
「分かんねぇ。ただ、ここのお役所に行けば何とか、って思ってる」
 愛親の言葉にためらいがある。だから、寄奴は敢えて、言葉で切り捨てる。
「物盗りって疑われんのが落ちだぞ」
「けどなぁ……っ!」
 がば、と愛親が顔を上げた。眉間にしわを寄せ、口元をわななかせて。だが、すぐに歯を食いしばる。
「じゃあ、どうしろってんだよ」
 食いしばった面ァ、長く保つもんじゃねぇ。愛親の目に、涙が浮かぶ。
「臧家を建て直すためなら、何だってするつもりだったさ。けど、ここまでの道すがら分かったのぁ、ガキ一匹小娘一匹なんぞにゃ、どいつも目なんざくれねえって事だ」
 愛親の訴えを聞くでもなしに聞き、寄奴は外、に注意を向けた。
 ――いる。
 何人もだ。外から、じっと息を殺して、中の様子を伺おうとしてる。抱くのは怒り、焦り、あるいは怯えか。
 小娘一匹ね、顔には出さねェまま、寄奴はほくそ笑んだ。どうにも愛親の奴ァ手前の値段をよく分かってねェらしい。
 到爺ィを寄奴があっさり信用したのだって、別に戯れなんかじゃねェ。心酔してんのが分かったからだ。もうお迎えもやってこようってじいさまが、孫みてェな年かさのメスガキに対して。
 寄奴が、銅環をつかみ取る。
「て……っ!」
 慌てて身を乗り出した愛親だったが、銅環と愛親の間にゃ、他でもねェ。寄奴ってこれ以上ねぇ妨げがある。片手で寄奴の顔をふさぎ、もう片手で銅環を奪い返そうってェ肚だったみてェだが、寄奴相手に通じるもんでもねェ。
 顔に向かってきた手をあっさり撥はねのけ、そのまま寄奴ァ愛親を抱きすくめた。
「なんだ、本当にモヤシだな」
「う、うるせぇ!」
 じたばたする愛親を、構わず寄奴は手前ェに押し付けた。銅環は返す。そしたら存外すんなりと、愛親の奴ァ大人しくなった。
「あんま気張りすぎてんなよ。思ってるほど、お前らぁ二人ぼっちじゃねえぜ」
 そう言って、寄奴が愛親の頭を撫でようとした。
 そしたら、
「――誰が!」
 完全に油断してたんだよな、寄奴の奴。あっさり愛親に突き飛ばされ、オマケに頬に一発、思っきしイイのをもらった。目は白黒するわ、口ン中に錆臭せェ匂いは広がるわ、本当にモヤシの一発なのかよって疑いかけたくれェだ。
「ドサクサに紛れてテメェ、好き勝手しやがって! なんだかんだ言っても結局はぼぼ狙いかよ! お生憎様だね、こちとらこの股ぐら、そうお安く払い下げるつもりなんざ毛頭ねぇよ! ちょっと恩着せてくりゃすぐそれかい、ほとほと見下げ果てたもんだ! いいよもう、そんなに欲しいならくれてやらぁ、ただしてめぇが突っ込むぼぼぁ、くたばったあたしの冷え切った奴だと思いな!」
 真っ正面からその啖呵を貰うと、なるほど、もう気合いだけで木っ端なら吹っ飛びそうなもんだぜ。
 だから、堪らず、寄奴は噴き出した。
「――ははははははは!」
 口ン中ににじんだ血がこぼれたが、意に介そうともしねェ。
 いったんツボにハマったら、そう簡単に笑い止めるもんでもねェ。戸惑いながらも「馬鹿にしてんのか?」って凄んでくる愛親にも、片手を挙げて制すんのが関の山だった。
「いや、悪りいな。お前みてえのが縮こまったら、見ててケツがむず痒くならぁ」
 何とか発作を抑えて、二、三回深呼吸する。口許の血をぬぐう。
 そんでぼろっ切れの向こう、あからさまに聞き耳立ててた気配に向け腕を伸ばし、むんずと捕まえる。
「うわわわわっ!?」
 片手でそいつを引っ張りながら立ち上がり、もう片手では柱からぼろ切れを引っぺがす。くくりつけられてた紐じゃなく、布そのものが派手な音を立てて引き裂かれた。
「えっ、おい、おま……っ!」
 愛親、熹、それと、寄奴。三人の上に青空が覗き、一方じゃぼろを着た男と言わず女と言わずが、わらわらとつんのめり、倒れ込んできた。
「うわっ!」
「ち、ちょっと!」
「ぎゃっ!」
 銘銘に上がる悲鳴を聞き、愛親ァどっから怒りゃいいのかわかんなくなっちまったみてェだった。つんのめり、ずっこけ、積もり積もる顔、顔、顔。どいつも愛親と目が合うと、ばつが悪そうに笑う。
「な、何だよこれ」
「莫迦どもさ」
 言われて愛親が寄奴を見る。そのツラからァ毒っ気が完全に抜け落ちてた。
 へっ、って寄奴が笑う。
「その様子じゃお前ぇ、気付いてなかったな? こいつら、お前ぇが己をここに連れ込んでこっち、ずっと外から心配してたんだぜ。なぁ愛親、ちっとおつむ巡らしてみろや、つまんねぇ奴を、誰がこんだけ心配すると思う?」

 仕事が早えェ奴ってな、どこにでもいるもんだァな。そう時を置かず、広陵警邏の隊がやって来た。することしてるわけだ、寄奴も大人しく縛ばくにつく。
「愛親」
 引っ立てられる前に、呼び掛ける。
「約束してやるよ、その銅環、己が戻すべき所に戻してやる」
 そいつを聞き、愛親はきょとんとしたが、ややあって苦笑した。
「莫迦かおめえ、どの口でほざいてんだ。いいから死ねよ」


 こんなん改めて言うことでもねェんだけどな。寄奴みてぇな奴だ、当然女にゃモテた。京口でも女に困ったこたねェし、行く先々でもデケぇ、強えぇ、気っ風がいい、こんだけ揃ったアイツをほっとく女なんざそうそう居たもんじゃねェ。
 だからこそ、って言うべきなんだろうな。アイツぁほとんど女ってモンに冷めてた。言い寄られりゃ適当に応じもすんだが、まぁメスガキどもにしちゃあ、較べられっちまうのが、なにせ簫文寿様だしな。そりゃもうお気の毒様って申し上げるより他ねェ。
 そんなアイツを知ってるから、
「いい女みっけちまいましてね。つい、猛っちまったんです」
 こんな言葉が飛び出るたァ、ついぞ思ってもみなかった。
 広陵府、執務室。だだっ広れェ机の上にゃ竹簡がこれでもか、とばかりに積み上げられてる。その向こうにゃ竹簡を書令史に開かせ、ざっと目を通し、左の隅っこにちょい、と墨を入れて、を繰り返す徐道覆将軍の姿があった。
「なるほど。で、そののろけを儂にしてどうするのかね?」
「や、徐将軍のお顔拝見したら、つい聞いて欲しくなりまして」
「そうかね」将軍がため息をつく。
「破天荒なのは、戦働きにのみ留め置いて欲しいものだが」
 窓の外にゃ、慌ただしく動き回ってる役人やらおさむれぇやらの様子が見える。将軍の墨が入った竹簡は乾くのを待つのもそこそこに丸められ、書令史の手から待機してた役人に渡された。役人は慌ただしく退出する。
「にしてもお忙しそうっすね、将軍」
「見る目はあるようだな、徳與。ところで君が儂の仕事をひとつ増やしてくれたのには気付いたかね?」
「将軍がいらっしゃるなら何とかなんだろ、って。頼りに思ってました」
「儂は君の便利屋ではないのだがな」
 ひとつ竹簡をさばく内に、ふたつ、みっつと新手が加わる。徐将軍は心底げんなりしながら書令史に「おい、そろそろ二人三人くらいの主簿は付けられんのか」ってぼやいた。
「は、はっ、手配しておりますが、なにぶんどこも手薄でして……」
「――もう良い!」
 ことさら乱暴に筆を走らせると、将軍は筆をぶん投げた。
「休憩だ! 徳與、散歩に参る! 付き合え!」
 がた、と派手に椅子を倒し、将軍が立ち上がる。
「し将軍! しかしこの件は火急の――」
「徐書令史! 同姓のよしみだ、君にしばし全権を委任する!」
「っええっ!? っそ、そんな!」
 完全に泣きっ面な徐書令史――徐羨之を尻目に、将軍ァ寄奴の首根っこ捕まえて、さっさと執務室から逃げ出した。
「あーあ、かえーそうに。災難だな、書令史どのも」
 ンなこと言う寄奴が、将来もっと無茶振りしてアイツ泣かすんだけどな。
 廊下に出ると、行き交うどいつもが徐将軍のツラ拝むなり慌てて脇によけ、拱手する。そんでちら、と後ろにつく寄奴に奇異の目を向ける。ただ、何者かって聞く度胸はどいつも持ち合わせちゃいねえみてェだった。
「それで? 晋国の英雄殿は、この広陵に何を嗅ぎ付けた?」
「嗅ぎ付けた、ってほどじゃねえですよ。いま一等荒れ狂ってるところに首突っ込んだら面白そう、ってくれえで」
「荒れ狂うか、確かにな」
 階段を上り、高楼に。哨戒に当たってた兵に「しばし息抜きする! そこを退けい!」って怒鳴り散らし、広陵府いちの展望を奪ってから、どっからくすねたか、酒瓶を懐から取り出した。
「ところで徳與、儂は正直、君を信用しておらん」
「いきなりっすね」
「うむ。だので、儂に仕つかえぬか?」
「や、話が見えねぇんですが?」
 ハッ、って徐将軍が笑った。酒瓶を一口呷ると、寄奴に押し付けてくる。寄奴は迷いもせず、残りの分を一気に飲み干した。
「淝水の時にも思っていたのだがな。君は人の下に従容として付く口ではないだろう。首輪をつけておかんと、何を仕出かすかとんと見当がつかぬ。この広陵入りのこととて、孫無終は知らんのではないかね?」
「そうっすね、道和と何無忌、あとこの町の孟昶しか知らねえと思いますよ」
「それが恐ろしいのだ。いま、君はその気になればこの町で一大勢力を築くことも難しくはないだろう。講談師の手を経て、君の名はいささか大きくなりすぎている。わしのような小心者には手に余る事態だ」
「買いかぶりっすよ」寄奴は酒瓶を高楼の外に投げ捨てた。
「それに、己も正直、この名前の売れ方にはうんざりしてたんです。だから将軍が、警邏の奴らに有無を言わせず連れ出してくださったこと、感謝してます。叶うなら劉裕なんて奴ぁ広陵にいなかった、で押し通してほしいくれえで」
 徐将軍が、まっすぐに寄奴を見る。寄奴だって別に後ろ暗れぇ所があるわけでもねェ。真正面から将軍の目を見返す。
「――これでも目力には自信があったのだがな」
「や、普通に怖えぇですよ」
「そう言う事にしておくかね」
 将軍の懐から二本目、三本目の瓶が出てきた。どうなってんだその懐。
 片方を寄奴によこすと、将軍は一気に呷る。寄奴もそいつに倣う。
「まぁ、よかろう。君がこの町で自由に動けるよう、便宜を図ってやる」
「助かりまさ。じゃ、己のこた、項裕って呼んでいただければ」
「よりによってその姓か」将軍が苦笑いを浮かべた。「呉楚の地で、しかも劉姓の君が名乗るにはいささか皮肉が利きすぎてはおらんか?」
「面白れぇでしょう?」
「それを、晋将たる儂に言うかね」
 ――項。
 寄奴がこいつを偽名に選んだのにゃ、項羽のことが頭ン中にあったからだった。いにしえの、始皇帝しこうていで名高いほうの秦帝国亡き後、中原を席巻した楚の旗を掲げた、項羽。どでけェ武功を上げた寄奴がその姓を偽りゃ、下手すりゃ「劉裕に晋を滅ぼす意図あり」って見られてもおかしくねェ。
「まったく、君という男は――ともあれ、項参軍。こちらも便宜を図るのだ、当然こちらの依頼も聞いてはくれるよな?」
「承知してまさ」
 うむ、と将軍が頷いた。
「建康から回ってきた物資に、だいぶ横流しが出ておるようでな。些少であれば見過ごせもしようが、どうにも軍部内にもつながりがあるようなのだ。放っておくと大ごとにもなりかねん。探りを入れてはもらえんかね?」
「――は?」
 思わず寄奴ァ、素で言っちまった。
 そいつを見て、将軍がにやり、と笑う。
 さらりと言ってきたが、徐将軍がねじ込んできたのァ、既にして結構な大ごとだ。下手すりゃ広陵に駐屯してる軍部が割れかねねェ話ですらあった。
「将軍、こっちが断れねぇからってブッ込んできますね」
「いや、自由に使える耳目がなくてな。難儀しておったのだ」
 そう言って将軍が、寄奴の肩をポン、と叩いた。

“参振威軍事官、項裕。広陵市街にて擾乱を引き起こし、市中に不安をもたらした咎により、三日間の謹慎処分とする。期間中はくれぐれも同様の騒ぎを起こさぬこと。仮に禁を破りし折りには免官も有り得るものと心せよ。――鎮北軍事司馬 振威将軍 徐道覆。”

 そう書かれた符を眺め、寄奴は舌打ちした。
 将軍からいただいた立場は「好き放題したせいで徐将軍からお叱りを受けた暴れん坊」だ。そいつをもっともらしく見せるために、小半刻くれェひと前でこってり絞られてからの放免ほうめん、ってェ形になった。
「あの爺、覚えてろよ」
 符を懐にしまい込む。
 寄奴を怒鳴りつける将軍の目が、ちょくちょく笑ってたのを寄奴ァ見逃さなかった。将軍のことを恨んでる、そういう建前にしといた方が寄奴が動き易いのァ確かだ。だが、その一方で寄奴で鬱憤晴らししてんのも間違いのねェことだった。
 広陵府を後にする。
 モノもヒトも激しく出入りしてる中、寄奴一人きりが立ち尽くす。でけェのに往来のど真ん中に立たれたもんだから、行き交う奴らが針みてェな視線を飛ばしてくんのがわかる。
 そん中に、一つ。好奇心に満ちた眼差しがある。
「いた! 項将軍、ですよね?」
 ぱたぱたと、そいつが駆け寄ってきた。
 ガキだ。十を数えようかどうか、ってとこだろう。仕立てのいい着物に身を包んで、うっすら化粧もしてるようだった。貼りつけた笑顔について言えば、小賢こざかしさを鼻にかけたような、って言えばいいか。
「あん? なんだガキ、物乞い、って訳でもなさそうだが」
「ひどいな! なんで真っ先にそっちが浮かぶんですか! 探してたんです、ある方に頼まれて!」
「生憎だな、こっちにゃ用はねえよ」
 寄奴の勘が、全力で告げたんだ。このガキにゃ関わり合いにならねぇ方がいい、って。だからとっとと振り切ろうとする。
 が、裾すそを掴まれた。
「ちょ、ちょっと! じゃあ、せめて言伝だけでも聞いてくださいよ!」
 所詮しょせんガキの力だ、引きずって引っぺがすのなんざ、別に訳ぁねェ。けどつい今しがた将軍に釘刺されちまった傍ら、変な波風の元を立てるわけにもいかねぇ。
「わーったよ。聞くだけ聞いてやる」
「へへ、さすが将軍。そうでなくちゃ」
 おべんちゃらはいいんだよ、って切り捨てる。ガキに怯んだ様子はねぇ。口元に手を当て、寄奴にしゃがみ込むよう促した。思いっきり渋面こそ示したが、聞く、って言ったのはほかでもねェ、寄奴自身だ。大人しく従う。
 にやり、とガキ――王鎮悪が笑った。
 そいつァ奴くれえの年かさのガキにゃ到底出せそうもねェ、何てんだろうな――そう、奸智かんち、ってやつに満ちたシロモンだった。

「白髪の側仕えはご健勝ですか、劉裕殿?」


「項将軍。ご足労、感謝する」
「何が将軍だ、白々しい」
 大通りに面した一流の宿。入り口から廊下から、もう目もくらまんばかり、としか言いようのねェ景色に出迎えられ、招かれた部屋がまた広れェ。寄奴きどの家が軽く二つ三つは入ろうってぇ代物だった。
 そのど真ん中に佇まう、貴公子然とした優男。淝水で見たそれと全く変わらねェ。寄奴がいやな汗掻いてたのァもちろんだが、そん時ばかしは、そこにいなかった己もやけに固まっちまってた。
 崔宏がいる。
 何の説明も要らねェ。それだけで、何もかもが十分だった。
「改めて、ごきげんよう。此度は驍勇としての顕彰、改めて慶賀申し上げる」
 うやうやしく、クソ丁寧に、頭を垂れる。
 寄奴が辺りの気配を探る。部屋がだだっ広れぇのを活かして、一匹か二匹匿ってんのかって思ったが、そんな様子もねェ。
「王鎮悪、よく将軍を連れてきてくれたね。それでは、いったん席を外していてくれるかな」
「ええ。じゃ、お礼、楽しみにしてますね」
「勿論だとも」
 にこり、とふたりが笑い合うと、その内王鎮悪は寄奴に向けて、バカ丁寧な拱手きょうしゅのあと退出した。
「あの歳で、あの貨殖への余念のなさは、いやはや見上げるばかりよ」
 心底愉しそうに呟く崔宏だが、そんな寸劇に付き合う余裕なんざ、寄奴が持ち合わせてるはずもねェ。
 部屋に連れ込まれるにあたり、剣を取り上げられたわけでもねェ。確かに寄奴ァ淝水の折、崔宏に渾身のひと太刀を防がれた。だからと言って、いま殺されねェだけの腕の覚えがあるたぁ考えにくい。
「うるせぇよ、こちとら気が短けえんだ、とっとと本題に入れ」
「つれないものだな、死地を分かち合った仲ではないか」
 うっすらと、崔宏が笑う。何が演技で、何が本音か。全く把握できたもんじゃねェ。
 まるで舞いでも披露するかのように、しつらえてあった卓へ促してくる。「無礼の極みであると思いはしたのだが」わざとらしいくれェに哀しそうに、崔宏が言う。
「この状況、我が御身であれば、まずは害する意図を想像しよう。故に、敢えて饗宴の交々は揃えずの招待をさせて頂いた」
「構わねえよ。長居する気もねえからな」
 崔宏が示してきたのァ上座、詰まるとこ奥手の椅子だった。だが寄奴ァ構わず下座、手近なほうにどっかと腰掛けた。そんで顎で崔宏に上座を示す。
 別に礼儀うんぬんの話じゃねぇ。単純に、入り口に近けぇから座っただけだ。その方が面倒もねぇし、何より、いざとなったら即逃げ出せる。
 崔宏に面食らった様子はねェ。その薄ら笑いはまるっきり崩れねェまま、あっさりと卓につく。
「また斬りかかられては堪らぬからな。まずは用向きを伝えさせて頂こう。主上は、御身と当面の間協力し合いたい、とお考えだ」
「あ?」
 寄奴の脳裏にトゥバ・ギの獰猛な顔がよぎった。
 淝水の追撃戦、寄奴がトゥバ・ギに釘付けにされてる間、まんまと己がかっ攫われた。まさかまさかの己がお目当てたァお天道さまだって気付けなかったろう。だから寄奴にしたって、あっさりとトゥバ・ギが一騎打ちを投げうつなんざ想像だにしなかった。
 ――愉しかったぞ、劉裕。
 そう言って兵の塊ン中に解けていったトゥバ・ギ。
 奴の姿ァ、その後結局見つけられずじまいだった。
「己ぁ、贄じゃなかったのか?」
「贄よ。そこは変わらぬ。然し、ここから先、主上は更なる勇躍を遂げる。なればこそ、御身にも大いなる贄でいて貰わねばならぬ」
「ずいぶん身勝手な話だな」
 寄奴は腰に佩いてた剣を解き、卓の上に置いた。柄は寄奴の右手側に向いてる。
 舐めたことほざいたら叩っ切んぞ、ってなもんだ。
「まぁいいさ。心にもねぇおべんちゃら食らうよか、そっちの方がよっぽど信じられっからな。だが、はいそうでした、よろしく、で終わりになるたぁ思ってねえよな?」
「無論。相応の手土産は差し上げよう。今ならば、……そうさな。広陵に鎮する晋軍の内情、と言ったあたりか」
 ぴく、と寄奴のこめかみがひきつった。
 その刹那を見逃す崔宏でもねェ。
「草はどこにでも生えるのだよ」
「――みてぇだな」ふんぞり返り、ため息をつく。
 理解するしかねェ。ここで激しても、いいことなんぞ何一つねェ。崔宏のことだ、どうせ寄奴が切れたにしてもなんとかできるから、こんな席を設けてんだろう。なら、ここは大人しく乗っとくしかねェ。
 腕組みする。
「で?」
「晋軍の一部が、五斗米道とよしみを持っている。この五斗米道と言うのは、なかなかにしたたかな集団のようだな。広陵に行けば救いがある、と民を誘導し、流民がこの町へ集まるよう仕向けたようだ。広陵府の手に余るほどに流民が集えば、朝廷が動かざるを得ぬ。しかし、誰が動いたとて、ことが大きくなれば綻びは免れ得ぬ。結果集まった人と物とが、じわりじわりと五斗米道側に漏れ出している」
「その言い方なら、武器もだいぶ流れ込んでそうだな」
 崔宏はうなずいた。
「五斗米道、党首は孫泰。これを張士道、姚盛が実務の面で支えている。この孫泰が、だいぶ黄巾の乱にかぶれているようだな。かの漢を転覆させた乱を、己が手で、と目論んでいるようだ」
「また乱かよ」寄奴が舌打ちする。
「乱なんぞ起こしたとこで、結局は貴族どものダシに使われんのが関の山だろうが。なんでそんな分かり切ったこともわかんねぇで、無駄に農民流民の暮らしを荒らしたがんだ、あの手のは」
「荘子も説いている。井戸の蛙は井戸の中しか知らぬ、故に海に考えが及ばぬ、とな。ならば海たる御身が蛙を押し流すのが筋ではないかね?」
「なんで己が海なんだよ」
「――毒蛙に難儀する井戸の主の覚えは目出度めでたかろうな」
 敢えて、矛先を外してくる。
 睨みつけてみるも、崔宏は微動だにしねェ。相変わらずの笑みを張りつけたまんま、目にたたえた冷たさも一切隠そうとしねェままで、見返してくる。
 と、寄奴の後ろで扉を叩く音がした。
「ご歓談中、申し訳ありません。鎮悪にございます」
「構わぬ。入りなさい」
「はい」
 扉を開けた鎮悪の顔に、さっきまでの笑顔はねェ。小さく一礼をした後、崔宏、そんで寄奴の顔をかわるがわるに見た。その様子に何かを察したか、崔宏がうなずく。王鎮悪もうなずき返すと、何やら文字の書きこまれた紙片を掲げた。
「たった今、草よりの至急の報せが入りました。先だって劉裕殿と接触していた少年、臧熹が、血色を変えて劉裕殿を探し回っております」
「!」
 寄奴が立ち上がり、剣を掴む。
 目を見開き、王鎮悪を親の仇か何かみてェな剣幕で睨みつけた。
 王鎮悪ァ露骨にたじろいだが、気を取り直すと、改めて紙片に目を落とした。

「臧熹の額には痣がありました。――臧愛親が、何者かにさらわれたようです」


 崔宏の草どもが動いてた、って事もあるんだろう。臧愛親は割とすぐに見つかった。臧熹と二人で幌を建ててたところから少し離れた、ひと気のねぇ路地の片隅。
 愛親ァ、そこにひっそりと転がされてた。
「あ、姉上!」
 悲痛、と言っていい臧熹の叫び。
 草どもが掛けた布の下、呼吸は、ある。だが、目にはあざ、頬には砂利の交じったひっかき傷。傍らにゃ明らかに愛親のもんだとわかる髪の毛の束が散り、そこに、四、五枚の銭が投げ落とされてる。
「熹! 下手に触るな!」
 縋り付こうとした臧熹に、寄奴が怒声で待ったを掛けた。
 びくっと止まった後、臧熹ァ恨めしそうに寄奴を睨んで来る。だが、そんなんに構ってる暇なんざねェ。臧熹を脇にどけ、少しずつ布をはだける。腕、肩、胸、腹、腰、股、腿、脛、足、と調べて回る。
 そして、ぎり、と歯を食いしばった。
「怒鳴っちまって悪かったな。だが、下手にお前が縋り付いてたら、愛親の肋が飛び出てたとこだ」
 臧熹が息を飲んだ。そのまま力尽き、へたり込む。
「な、なんで――」
 なんでもクソもねぇ。分かり易いくれぇに分かり易い意趣返し、って奴だ。
 うっすらと、愛親の目が開いた。
「愛親!」
「うっせえ、傷に、響く、んだよ」
 あれだけ圧のあった声が、何ともか細く、切れ切れになっちまってた。
「熹。あんたにも、怪我、させちゃった、みたい、だね」
「私は大したこともありません、それよりも姉上が――」
「いいんだよ。アンタが、無事なら、……臧家は、」
 愛親が口に出来たのァそこまでだった。ふたたび意識を失う。
 いつの間にやら、臧熹の顔ァ涙でぐちゃぐちゃになってた。「こっちなら大丈夫だ」って寄奴が布の下から愛親の右手を引っ張り出すと、おずおずと握り締める。
「項将軍」
「何だ」
「どうすれば、強くなれますか」
 吐き出すような、ひねり出すような。さっきまでいた、姉貴の後ろで引っ込んでたちびガキは、どうやら死んじまったらしい。
「戦う、しかねえな」
「はい」
 臧熹の懐から、銅環が転がり落ちる。
 そいつは、薄汚れ、ひしゃげちまってた。
 途端、寄奴の中に殺意が荒れ狂う。戦働きン時たぁ、まるっきり違う。どす黒く、ヘドみてェな奴だ。
 愛親がしきりに口にしてた言葉、臧家。
 手前ェにどんだけの災難が降りかかったとしても、臧家を再興する。その旗印を失わねェでいたからこそ、愛親ァ強くあれたんだろう。
 先だって蹴散らしたチンピラどもの、ゲスな笑いが寄奴ン中で響いた。愛親を掠ったのが奴らだってのぁ、臧熹自身から聞き出したことだった。家宝でも抱えるかのように飾られてた銅環が、いま、散々な有様と果ててる。
 たまらず剣を握り、立ち上がる。
 だが、
「おや、どこに赴かれる?」
 背後からの落ち着き払った声が水を差す。
「――邪魔すんのか、崔宏」
「さて、如何したものか」
 振り向きざま、崔宏に切っ先を突き付ける。
 するとほぼ間を置かず、草たちの刃が寄奴に向いた。突き付けられた当人である崔宏は微動だにしねぇ。――つくづくにして思うぜ。トゥバ・ギも化けモンだったが、そこに従ってやがった崔宏も大概だ。
「止められるとでも思ってんのか? 安く見られたもんだな」
「止めるというよりは、諫める、であろうな」
「あん?」
 しばし睨みつけた後、剣を下ろす。だが、収めはしねェ。
 だから、草どもも刃を下げるこたぁねェ。
「おおよその話は聞いている。なるほど、義は御身にあろう。それで、如何様にして裁くお積りか?」
「知らねえよ、ぶち殺す」
「そうか」
 崔宏の目が愛親と、側に居る熹に向いた。
「御身なら容易く成し遂げような。だが、結果として晋兵同士の私闘となる。御身にも罰は下ろうが、まぁ、概ね問題あるまい。だがな、そこな二人は死ぬぞ」
 びく、と寄奴の肩が揺れた。
 そもそも私闘なんてな、両成敗が妥当なお裁きだ。だが、いま寄奴が私闘を引き起こしたことについちゃ、おそらく上が揉み消しに掛かってくるだろう。別に寄奴を上がどう思ってるか、なんてことじゃねェ。チンピラどもと寄奴とじゃ、値段があまりにも釣り合わねェんだ。
 だから、釣り合う値段の奴ァ誰か、って話になる。
 寄奴は怒りに口元をわななかせた。だが、どうしようもねェ。英雄だのなんだのと持てはやされたところで、所詮はこんなもんだ。白を黒とするにゃ、あんまりにも、そん時の寄奴の力はちっぽけなもんだった。
 だから、天を仰ぎ、深呼吸する。そして、剣を収める。
「なら、崔宏。教えてくれ。己は、どうすればいい?」
 その言葉を聞いて、崔宏が微笑んだ。気のせいだろうか、そいつァ初めて温度の伴った微笑みだったような気がした。
 草を下げさせると、まずは改めて拱手をする。
「恐れながら、言上申し上げる。先にも指摘した通り、此度の障害は、このままでは御身と下手人とのいざこざが私闘となることにある。であるならば、私闘、とならねば良い」
「簡単に言うじゃねえか」
「無論、手立てを持つが故に申し上げている。もとよりこの広陵へは、御身との接見のほか、野暮用を果たしにも来ておったのでな。そのついでよ」
 実感せざるを得ねェ。崔宏ンとこに招かれたって時点で、もう始めっから蜘蛛の巣に飛び込んじまってたようなもんだったんだ。いきさつはどうあれ、崔宏ァとっくに寄奴にゃ考え付かねぇような根っこを、この広陵で張り巡らしてる。
 不用心にもほどがあったって臍を噛んだが、後の祭りだ。
 なら、今は崔宏に乗るしかねェ。
「己は何すりゃいい?」
「二つ。臧愛親の看護、そして、五斗米道掃討部隊の編成」
「五斗米道、だと?」
 崔宏が顔を上げた。その顔に浮かぶ笑みは、もう、さっきまで浮かべてたような、うすら冷たいシロモンだった。

 その三日後、夕刻。
 広陵府の中庭に、おさむれぇどもが並ぶ。五人をひと固まりにして、十小隊。
「結局はこうなるのですね」
 盛大にため息をつきながら、孟昶が言う。
 は、って寄奴が笑った。
「そういう巡りあわせなのかも知んねぇな」
「諦めるより他ないのでしょうね。ではせめて、近侍を付けることくらいはお許し願えますでしょうか」
「ああ」
「ありがとうございます。――龍符!」
「オウ!」
 孟昶の招きに応じて姿を現した男、いや、男ってのもアレだな。動く小山とか、そう呼んじまったほうがいい気もしてきた。顔つきは孟昶と似てるように見えなくもねェ。が、体つきがまるで違う。
「へぇ」思わず寄奴が感心の声を漏らした。
「すげぇな。俺よりでけえ奴にゃ会わねぇでもねえが、ここまで厳つい奴ぁそうそうお目に掛かれねえ」
 ぎろり、と龍符が寄奴を見た。
「そりゃどうも。アンタのウワサは嫌ってほど聞いてる。なるほどとも思ったぜ。だが、己のが強えぇからよ。安心して己のケツにひっついてろ」
「無礼だぞ、龍符!」
 泡食った孟昶が、寄奴と龍符の間に割って入った。
「失礼致しました、項将軍。こちら私のいとこ、孟龍符と申します。いとこのひいき目を抜きにしても、その武は冠絶しており、将軍の助けとなってくれることでしょう。――とは申せ、この通り、いささか軽率ではありますが」
「いいってことよ。頼りにしてっからよ」
 寄奴ァ孟昶の頭を飛び越え、龍符の胸甲に軽く拳をぶつける。龍符がにやり、と笑った。
 軽く笑みを返した後、寄奴は顔を引き締める。演壇に上り、改めて、この任務のためにつけられた部下どもを見回す。
「振威参軍、蕩難将軍。項裕より申し伝える」
 おさむれぇどもが姿勢を正した。
「五斗米道がこちらの撒いた餌に食いついた。今宵、虚報に乗り、西部の蔵に賊徒どもが寇掠に入る。かねて示し合わせた通り、賊徒が蔵に押し入ったところで、入り口を抑え、殲滅する。ただし元佃夫、朱幼、申伯宗の三名は生け捕りとせよ」
 三人の名前を挙げると、そんだけで寄奴の奥でちり、と焦げるもんがある。そいつァ他でもねェ、例のチンピラどもの名前だった。崔宏が、あっちゅう間に調べ上げやがったんだ。
「軍内部より五斗米道に通じ、無法を働かん、という者である。しかるべき裁きを、かの者らにはもたらさねばならぬ」


 路地で何もんかが言い争ってんのが聞こえてきた。
 家ン中からじゃ、いささか遠い。隊の中から耳のいい奴を呼び寄せる。
「聞き取れそうか?」
「やってみます」
 五斗米道どもへの餌としてこしらえた倉の隣、崔宏が一晩だけ借り上げた家の中。
 総勢ン十名の野郎どもが押し込まされてんだ。当然狭っ苦しい。かといって迂闊うかつに声なんぞ上げようもんなら、外の奴らに気取けどられる。いい加減どいつも我慢の限界、みてェなツラになってた。
「片方が言いました。人道に悖る行いをして得た財貨を一度手にすれば、必ずや報復を受ける事になる。まだ間に合う、引き返せ」
 どこの莫迦が余計なことを、寄奴ァ内心で毒づいた。
「面倒くせえことしやがんな。で、相手は?」
「そいつを聞いて笑いました。中原から畜生どもに追いやられてんのに、何を今更人道だ、って、全く取り合おうとしません。片方は更に食い下がろうとしてましたが、あっさり突き飛ばされて、尻餅をついたみたいです」
「そうか、ならいい」
 真夜中。この刻限だけ見回りの経路に穴が出来、西の蔵が丸裸になる――ことになってた。
 崔宏が、そういう情報を元佃夫どもに握らせ、五斗米道に垂れ込ませたんだ。どうやって奴らに握らせたか、ましてや垂れ込ませたか、って辺りについては言ってこなかった。「そこまで教える義理はない」って言われちまえば、もうどうしようもねェ。
 二階から、石が落ちてきた。一つ、二つ。
 蔵周りを見張らせてた奴からの合図だ。五斗米道が、蔵の中に入った。外に二人の見張りをつけてる。
 寄奴が振り返る。どいつも早く飛び出して堪らねぇ、って顔してる。
「心強えぇぜ、お前ら」
 蔵ん中に嵌りこまりゃ、向こうから勝手に袋の鼠になったようなもんだ。もう息をひそめてる必要もねェ。玄関を開けると、
「――孫恩?」
 寄奴一人が、足止めを食う。
 そこにすかさず、後ろにいた孟龍符が寄奴の肩を小突いてきた。
「オイ大将、何やってんだよ」
 振り返り、龍符の怪訝そうな面を眺める。
 それから、改めて尻餅ついたままでいた孫恩を見た。
「悪りぃな龍符、先に突っ込んでてくれるか。こんなとこに顔見知りだ。偶然たあ思えねぇ」
「構わねぇが、後悔すんなよ」
「何をだ」
「お前ぇが蔵に来る時にゃ、もう獲物ぁ狩り尽してっかんな」
「それならこっちも楽でいい。任せるぜ」
 へ、と龍符が笑い、兵たちに合図を出した。
 先陣切る龍符に、すぐに他の兵士どもも続く。
 蔵の内外が、たちまち剣戟と喧騒のるつぼになる。
 そっちを少しの間眺めた後、寄奴ぁ改めて孫恩と向き合った。
「項大夫。まさか、ここで貴方に見えるとは思いませんでした」
 十三夜の月の下。満月ほどじゃねェにせよ、それでも人の顔を見分けられる程度にゃ明るい。そんなほの明かりが照らす孫恩の顔に浮かぶのは自嘲か、あきらめか。そんな感じの笑みだった。
「五斗米道だったんだな、あんた」
「仰る通りです。この通り、歯牙にもかけられておりませんが」
 孫恩も蔵のほうを見た。
 曲がりなりにも晋の正規軍と強盗崩れだ。元々勝負になんざなりゃしねェ。そこに加えて、完全に不意打ち決めてんだから、もうなすすべなんざあったもんじゃねェ。あっちゅう間に喧騒は収まりつつあった。
「我々は、踊らされていたのですね」
 口をつぐむ。
 その通りだ、なんて簡単に言えるはずもねェ。何から何までが、崔宏の差配。そこに寄奴ァちょこんと乗っただけだ。
 五斗米道どもがどんな奴らかもまともに調べ上げられてねェのに、あれよあれよとそいつらをぶっちめる役を請け負う羽目に陥った。パシりを褒める奴なんざそうそういねェ。なのに、パシらされてることに感じ入られてる。
 こん時寄奴ァ、誰も見てなきゃ、盛大に反吐をぶちまけてェ気分でいた。だが、そいつァ一隊を任された身の上、どころか、心ならずも認めちまった奴が目の前に佇んでるような折りにやらかせる失態じゃねェ。
 だから、何もかもが掌の上だった、みてェな振りすんのが精一杯だった。
 龍符が蔵から出てくる。
「おゥ大将! 何だよ、終わっちまったぞ!」
 剣を持った手にゃ生首ふたつ、もう片方の手にゃ髪の毛をふん捕まえた野郎が引きずられてる。そいつァ「っや、やめてくれ……」なんて情けねェ声上げやがる。
「悪りぃな、朱幼と申伯宗は殺っちまった」
「おいおい――ま、一匹残っただけマシか」
 そう言って、龍符が連れてきた野郎の正面に回り込み、屈み込んだ。
「よう、久しぶりだな」
「な、なんだよ、いきなりそんなこと、――!?」
 泡食ってたそいつ、元佃夫ァ、寄奴の顔を見るなり、いよいよ色を失った。
 どんな奴がいま目の前に来たのかを、ようやく理解したらしい。たった今龍符みてぇな化けモンにボコボコにされ、その上で、先日に為すすべもなくぶちのめされた奴が正面に来る。己が元佃夫みてェな境遇に立たされたら、恐怖だけで死ぬ自信がある。
「っな、なんでアンタが、こんなとこに――」
 喚く元佃夫のアゴを、寄奴が平手で払う。そんだけで、奴のアゴの骨が外れた。声にならない悲鳴が上がる。
「どの道うるせぇんだな、鬱陶しい。龍符、黙らせとけ」
「アイヨ」
 言うが早いか、龍符が元佃夫の首筋を突いた。「はがっ――」って漏らし、その首がかくんと落ちる。
「で、首尾は?」
「殺したのが朱幼、申伯宗込みで六人。三人は逃がした」
「追えてるか?」
「ああ、繋ぎもつけてる。今晩じゅうに片は付きそうだぜ」
「分かった、己も後を追う。根城を炙り出してくれ」
「今度は間に合うといいな」
「うるせぇよ」
 崔宏の見通しじゃ、蔵に押し入ってくんのァ孫泰自身じゃねえだろう、ってことだった。あくまで手下どもを使っての盗み働き。ってこた、きっちり五斗米道どもをお縄にするにゃ、根城に待ち受ける孫泰をふんづかまえる必要がある。たァ言え、奴さんだってそんな簡単に尻尾は掴ましてくんねェだろう。
 だから、わざと逃がし、わざと見失ったよう振る舞わせて、残った奴らを根城に向かわせるように仕向けた。で、一網打尽にする。
 そいつが、崔宏の引いた絵図だった。
「項大夫」
 龍符らを一通り見送ったとこで、よろよろと孫恩が立ち上がる。
「何だ」
「叔父を――孫泰を、よろしくお願いいたします」
 孫恩を見る。
 哀願、というわけでもねェ。いまの顛末の先に孫泰が捕まるってんなら、その後どう扱われるかってのも、重々把握してたはずだ。その上での言葉、ってことなら。
「あぁ」
 手配しといた馬が届けられた。
 飛び乗る。
「分かった。せめて、苦しまねえようにしてやるよ」


 孫泰の周りをゴロツキが囲ってた。
 どう見繕っても信者、ってツラじゃねェ。
 奥手にゃふん縛られた女子供、それにちょっとした財宝の山。
「五斗米道ぁひでぇ目に遭ってる奴らを救おうとしてる、って聞いたんだが」
 血に濡れた剣をもてあそびながら、寄奴が笑った。
 たった今斬り倒した、足元の死体を乗り越える。
「ずいぶん奇妙な救い方もあったもんだな、え?」
 寄奴が一歩前に出りゃ、孫泰が一歩下がる。だが、すぐに行き止まりだ。
「って、手前! それ以上近付くんじゃねぇ、こいつらが――」
「構わねぇよ、殺しな。そいつら助けんのは勘定に入ってねえからな」
 奥にいる奴らの顔がいっそう青ざめた。
 やれやれ、ものにゃ言い方があんだろうに。
「けどな、お前らにそんな真似さす暇なんざやると思ってんのか?」
 構わず、また一歩を踏み出す。びく、と孫泰が震えた。
「っち、畜生! てめぇら! 殺んぞ!」
 ヤケんなったか、孫泰と、その取り巻きが剣を取った。全部で、十人。
 そうこなくっちゃな、独りごちると、寄奴ァ死体をむんずと掴み、相手に向かって投げつけた。三人ばかしが巻き込まれ、ぶっ倒れる。
「えっ」
 巻き込まれなかった奴も、それが最期の言葉になった。
 ぶん投げた死体を追った寄奴が、もうその懐に踏み込んでたからだ。
 そいつは寄奴から見て左手側にいた。すれ違いざまに、左下方からの斬り上げ。腰から肋、肺腑を裂く。
 足元にゃ死体ぶっつけられて転がってる奴らがいる。ぶっ倒れた奴のうち、一番近くにいた奴の胸を踏み折り、真ん中の奴ァ死体の上から胸を刺し貫く。
 正面を向く。
「う、うわぁ!」
 寄奴と目を合わせた奴が、情けねぇ声を上げる。
 左手を伸ばしてそいつの喉笛をふん捕まえると、そのままブン回して隣の奴らに叩きつける。
 その勢いを活かして、剣を引っこ抜くと、
「――ふッ!」
 横薙ぎ。
 目の前にいた四人の腹と足とを、まとめて泣き別れにさせる。
 顔に赤茶色いのを浴びりゃ、鼻に血と、クソの匂いがへばりつく。
 そいつらが崩れ落ちた先に、孫泰の怯えきった顔が現れた。
「おめぇは後だ」
 左手に持ってた上半身を捨てると、孫泰を突き飛ばす。
 残るは三人。目の前で何が起こってんのか理解しきれねェみてえだった。そりゃそうだ、一呼吸の内に、いきなり七人がおっ死んでんだ。把握できる方がおかしい。
 睨みつけると、一人は腰を抜かしてへたり込み、一人は変な声を上げながら剣を振りかぶった。だから寄奴ァそいつののど元に、あっさりと剣を突き立ててやった。
 ひゅう、と音が洩れる。寄奴が剣を引き抜くと、へたりと崩れ落ちた。
 と、寄奴が舌打ちする。
「やっちまった」
 これで孫泰を除きゃ、あと二人だ。ひとりは投げつけられた死体の下で往生し、ひとりは寄奴に睨まれたせいで腰砕けになってる。吹っ飛び、壁にたたきつけられた孫泰を守れる奴なんざ、もうどこにもいねェ。
「悪りぃ。お前らの仕事、奪っちまった」
 振り返ると、どいつもこいつも呆気にとられてた。孟龍符ですら、だ。
「いや、悪りぃも何も」
 ひく、と龍符の頬が引きつる。
「大将。あんた、――やべぇな」
「何がだよ」
 転がってる奴らのうち、あんま血で汚れてねェ奴の服を使って剣の血のり、脂をぬぐい取る。ついでに顔も拭く。
 顎で生き残った三人を示すと、何人かが弾けたように動き出した。
 捕まってた奴らの解放、積まれてる宝の検分、三人の捕縛。
 邪魔する奴もいねぇ以上、ことはするすると片付いてく。
「あー、っくそ。もっと抑えなきゃだめだな」
「そうかよ。己としちゃ面白れぇもん見せてもらったぜ。講談師の話耳にしたときにゃ本当かよ、って疑ってたんだが」
 寄奴の動きがぴく、と止まった。
 龍符を見る。ぎょろりとした目つきのまま、ニヤニヤしてる。
「――そっか、お前孟昶のいとこだったもんな。誰にも言ってねえよな?」
「それやったら昶兄ィに殺されっちまわ。ああ見えて怖えぇんだよ、あの人」
「ああ見えて、じゃねえだろ。何でも見透かしてきそうだぞあいつ」
 はっ、って龍符が笑った。
「違げえねえ」
 お宝の検分を進めてた奴が、竹簡をもって寄奴のとこにやってきた。
「項将軍、お話し中のところ失礼します。こちらをご検分ください」
「おう」
 おずおずと差し出された竹簡を受け取り、開く。そこには、たくさんの名前と職位、それから納めてきた財貨の額面が並んでた。その内のいくつかは、寄奴も広陵に来てから見聞きしたもんだった。
 五斗米道とつながってる、晋の人間の目録。
 大暴れしたばっかの熱が、すう、と引いてく。
「おい龍符」
「おう」
「後始末、頼んでいいか」
「構わねえが、大将。――アンタは?」
「こいつを、届けなきゃいけねぇ人がいる」
 そう言って、竹簡を懐にしまった。
 胸がざわつく。あまりにも出来すぎた話だ。
 頭ン中に、ちらちらと崔宏のあの薄ら冷えた笑みがちらつく。
 訝る奴らに構ってなんざいらんねェ。慌ただしく、孫泰のねぐらを出る。
 分かっちゃいた、分かっちゃいた筈なんだ。はじめっから、すべて奴の掌の上だ、って事は。だが、それでも厭な汗は止まらねェ。
 そいつを振り切るためにも、思いっきり、馬でかっ飛ばさずにゃいられなかったんだ。

 寄奴が徐道覆将軍に竹簡を持ってったもんだから、そっからたちまち広陵府内の大掃除が始まった。中にゃ結構な大物の名前もあったりで、高雅之将軍の責任問題にすらなりかけた。
 そんな折、広陵府に張士道と姚盛が出頭してきた。どっちも崔宏からその名前を聞いてた、五斗米道を支えてるって言う幹部だ。
 張士道は、孫泰が大師父である杜炅を殺し、大師父を名乗って教団を牛耳ったこと、かどわかし、盗み働きを行うことで、広陵の擾乱に紛れて教団の勢力を拡大せんと狙ったこと、なんかをゲロってきた。
「孫泰は教団の金を使って、荒くれどもを手下に引き込みました。そして奴らに武器を与えました。孫泰に異を唱えるものは、軒並み奴らめに殺されたのでございます」
 震えながら、板の間に思いっきり額を叩き付け、張士道が訴えかける。
 そいつの言葉は、広陵府内にいた五斗米道どもの証言とも噛み合った。奴らの口からァ孫泰か、もしくは孫泰の子飼い――聞けばそいつァ寄奴が孫泰のねぐらで真っ先に斬り捨てた奴だったらしい――位しか、名前が挙がってこなかった。
「つまり我々は、奴らの内輪揉めに巻き込まれたわけか」
 竹簡を眺めながら、徐将軍がため息をつく。
「なれど、徳與。君の仕事なくば、我々はその企てに乗るがままであった」
「そうなりますかね」
 胸を張っての返事なんざ、出来ようはずもねェ。
 広陵府、執務室。相も変わらず徐将軍の前にゃ竹簡の山がこれでもか、とばかりに積み上がってる。だが徐将軍ァ、そいつらに欠片ほどの関心も向けようたァしねェ。
「本当に要らんのかね、特等の褒章ものだぞ」
「ええ。先日話した通り、そいつは項裕って言う、本当ならいねぇ奴の手柄です。そんなことより、別にお願いがありまして」
「別に?」徐将軍が竹簡を閉じる。
「褒章をなげうっての頼み事か。恐ろしいな」
「いや、そんな大したこっちゃねえんですが」
 そう前置きしてから、崔宏からの進言を思い出す。
「――東莞郡郡功曹、臧俊の息子、臧熹、ってのがここ広陵に来てます。将軍の権限で、こいつを仮に、でも結構ですんで、ここで取り立ててもらえませんかね?」

 その夜、孫泰が、何者かに殺された。
 牢の中で、ぐったりしてるところを見回りの兵に発見されたらしい。
 不審者らしい不審者は、誰も見かけなかったって言う。


「熹少年の値を吊り上げれば良い」
 冷てェ笑みからは、身も蓋もねェ言葉が飛び出てきた。
 寄奴が孫泰をふん捕まえる、その前日。崔宏が泊まる宿に、寄奴はいた。
 はじめに寄奴を呼び込んだ時にゃ、部屋をきっちり片付けてたみてェだった。いまや机の上にゃ、これでもかとばかりに紙の巻物が積まれてた。竹簡に較べたら幅も取らねぇそいつに書き込まれてる文字の量は、きっと徐将軍がさばいてた仕事の何倍、何十倍もするんだろう。
「値? なんだそりゃ」
 寄奴ァ王鎮悪が持ってきた茶を一気にすすった。崔宏に対しての警戒を解いたわけじゃねェ。だが、そいつが今日あしたにタマ獲ろうってェモンじゃねェのは間違いがねェ。
「熹少年の父御は功曹位に就いておられたそうだな」
 言いながら、巻物に目を通し、あるときは墨で、あるときは朱でなにがしかを書き加えてる。その手が止まるこたぁねェ。
 またか、出来るだけ顔には出さねェように気をつけたが、きっとバレバレだったろうとは思う。寄奴から崔宏に臧家の話を持ち出したこたァ一回たりとてねェ。何もかもが筒抜けでいる、この感じ。クソしてんのを覗かれたって、あんな気分にゃならねェだろう。
 だが、そいつが崔宏と向かい合う、って事だ。ならそんなモン、として受け止めるしかねェ。
「ああ」
 小さく、崔宏がうなずく。
「ならば臧家の禄を、御身の陳情にて旧に復すのが良い。さすれば熹少年は下士の身となる。ただの流民、でなく。元佃夫らは庶人。彼の者らを罰するに、熹少年がただの流民であるか、下士であるかの違いは大きい」
「なるほどな」
 より、奴らを厳しく罰するため。言い換えりゃ、より愛親、熹の屈辱を晴らすため。
 そのためにも、奴らと熹とに身分差をつけて、多少強引にでも、奴らに「不忠」の烙印を押し付ける。そうすりゃ奴らの罪は重くなる。なるほど、奴らをこっぴどく仕置くにゃ、うってつけの手だ。
 と、崔宏が筆を止めた。
「言うほどには納得しておらぬようだが?」
 寄奴に向けて微笑んだ。きかん坊をあやすような、出来の悪りィ弟子を見守るかのような。
「いや、手口に文句はねえよ。何もかもお前の手の内なのが癪なだけだ」
「そこはあまり、素直に言うものではないな」
「うるせぇな」
 それ以上の返事はせず、崔宏はふたたび巻物に目を落とした。
 窓から飛び込んでくる喧噪を聞き取るだけでも、広陵の町が抱いてた活気がよく分かった。
 どんないきさつであれ、人が集まんだ。ひとも、金も、文字も。何もかもが、えれェ勢いで動く。
 崔宏が手掛けてる巻物どもによっても、もしかしたら何かが動いてるのかもしれねェ。だが、ちらりと見たそいつァ寄奴も知らねェ文字で書かれてた。ってこた、今までの王さま、誰もが知らねぇ文字、って事になる。
 いま崔宏の手で、何が進められてんのか。どうせ聞いても答えねェだろう。だから、見過ごすっかねェ。
「だがよ、簡単に言っちゃくれるが、そんな無茶な願いごとが通るもんなのかね?」
「通るだろうとも。代わりに、報奨を辞退すれば良い」
「――冗談だろ?」
「冗談でなどあるものかよ。辞退により、御身が項姓を騙った事に筋が通るのだ。加えて、徐道覆には重き貸しをつけることになる。この貸しを御身の私情の引き替えとせば、徐道覆にしてみても、そう高い取引ではあるまい」
 くくっ、と、何やら楽しそうに。もちろん提案は提案だが、一方であからさまに寄奴が迷ってんのを楽しんでる風だった。
「それにな、項将軍。報奨の辞退は、天下の徳として受け止められる。慣れておいて、損はないぞ」
「今更項とか呼ぶんじゃねえよ、くそ」
 盛大にため息をつき、天井を仰いだ。
 ここまでも、何もかもが崔宏の言葉通りだった。寄奴から見えねェ部分が大きすぎる以上、ヤツの言葉を突っぱねてもうま味があるようには思えねェ。
「崔宏。お前、割とトゥバ・ギもいじめてんだろ」
「まさか。常に深き敬意を以て仕えておるとも」
 足蹴にされときながら、よくも言えたもんだ。そこは口に出さず、椅子を立つ。
「まぁいいさ、やることやるしかねえんだ。お膳立て、あんがとよ」
「ご武運を」

「――次なるは、元征北軍属、元佃夫。彼の者は晋の軍属にありながら、五斗米道とよしみを通じ、盗み働きの手引きをした。のみならず、その前日には晋陵郡仮功曹、臧熹の姉である臧愛親を暴行、陵辱。臧家に対する甚だしき冒涜行為を働いている。その行い、死一等ではなお生ぬるい。宮刑の上、処断とする」
 広陵府の隣に、急きょ設えられた裁きの広場。柵の外にゃたくさんの見物人どもがひしめき合ってた。その最前列に寄奴ァ陣取ってる。隣にゃ腕を包帯で吊してるガキ。
 驢馬飼いの到爺ィの孫。名前は到彦之。臧愛親が掠われたとき、臧熹と一緒に抵抗したが、叶わなかったって言う。
「熹! やっちまえ!」
 憎々しげに到彦之が吐き捨てた。
 臧熹ァ柵の向こう、元佃夫の隣にいた。元佃夫ァ丸裸に剥かれて、板の上に両手両足を縛り付けられてる。何事かを訴えちゃいるが、口にも猿ぐつわがされてるから、何言ってんのかはわかったもんじゃねェ。
 まずは酷吏がそれ専用に鍛えられてるって言う、丸刃の短刀を持ち、見事に縮こまり上がってる元佃夫のチンコをつまみ取った。そんでタマの裏側に短刀を当てると、そのまま、刈り取った。
「~~~~~! ~~ッ! ~~!」
 元佃夫の悲鳴と、それ以上の歓声が刑場に響く。
 縛り付けられながらも、その想像なんざしたくもねェ痛みに、元佃夫は暴れ回った。そいつを、やせ細ったその身の丈にゃ似つかわしくねェ、ゴッツい剣を抱えた臧熹が冷え切った目で見下ろす。
 涙で、鼻水、脂汗で顔中をぐしょぐしょにした元佃夫ァ、臧熹に気付き、その眼で必死に命乞いしてんのが分かった。
「姉上がやめろと叫んだら、お前は、やめたか?」
 逆手に剣を持ち、腹に、突き下ろす。
 臧熹にゃ武の心得がねェ。だから、どんな所を刺しいいのかよくわかってねェ。だから前夜、寄奴ァ臧熹に教えてやった。「どこを刺したら、手を傷めずに済むか」。そうすっと、臧熹の力で骨を断とうなんてな論外だ。四肢も、胸辺りもいけねェ。喉はマトが小せェ。だから、腹。
 それでも、一発目は逸れた。わき腹をえぐる。
 金切声は、さらに激しくなる。
 臧熹は憤怒の形相で、元佃夫の鼻っ面を思いっきり殴りつけた。悪態をつく。だがもう、そいつもまともな言葉にゃなりゃしねェ。けど、そいつがうまい具合に働いたか、息も絶え絶えな元佃夫が、急におとなしくなった。
 臧熹も、肩で息してた。
 ――傷つけること、殺すこと。
 まして、無抵抗の相手だ。どれだけ憎かろうと、最初の一人、ってなそんな簡単なモンじゃねェ。何よりも、手前ェ自身が一等の敵として迫る。そいつを乗り越えられるかどうかが、いくさ場で敵を殺せる側になるか、殺される側になるかを分ける。
 臧熹は大きく息を吸うと、元佃夫のへそ辺りに剣を当てた。
 突き刺す。元佃夫の身体がびくん、って跳ねる。
 そこから、思い切り剣を押し倒した。
 腹が割け、血しぶきと臓物が飛び出す。
 腹の上に乗り出してる臧熹ァ、思いっきり返り血に染まる。
 拍手に、喝采。
 酷吏が苦悶の形相を浮かべた元佃夫の首を切り取り、掲げた。
 放心の態になった臧熹ァ、そのまま酷吏に肩を支えられ、刑場を後にした。
「くそぅ、臧熹の奴、先に武士になっちまったなぁ……!」
 到彦之が柵を掴みながら、悔しそうに歯噛みした。
 そいつを見た寄奴が、肩を軽くたたく。
「焦んなよ。戦のタネなんざ、いくらでもそこら辺に転がってる」
 到彦之が寄奴を見上げる。熱のこもった眼差しで、うなずく。
 臧熹の晴れ舞台さえ見れりゃ、もう刑場に用ァねェ。
 寄奴は到彦之を肩車してやった。
 熱狂冷めやらぬ刑場から、一刻も早く抜け出したかった。

 ――その背中に、次の咎人の断末魔を浴びた。


「そうかい。ザマミロだ」
 布団で横になる、包帯まみれの臧愛親。襲われてからこっち、十日は経とうとしてる。だがいまだ満足に起き上がれもしねェでいた。
 布団から出てる右手を、臧熹がさすってる。そうしてもらえると、痛みが和らぐんだって言う。
 孟昶の私邸、その客間。元々ァ寄奴のために割り当てられた部屋だったが、無理言って愛親らを匿ってもらうことにしたんだ。
「熹少年は、責任持って儂が預かろう。他にあまり類を見ぬ登用ゆえ、茨の道とはなる。が、他ならぬ君の弟だ、見事に乗り越えよう」
 布団の隣に、徐道覆将軍があぐら組んで座ってる。平服姿じゃいたが、その堂々たる恰幅はおいそれとして覆い切れたモンじゃねェ。
 そして寄奴ァ、その後ろ。同じくあぐらでいる。
「恐縮です、徐将軍。これ以上頭を下げられぬ事、申し訳ございません」
「何、項裕より取り立てるのでな。君が煩うこともない」
 言って将軍が、ちらりと肩ごしに寄奴を見た。あわせて愛親も見てくるが、あいつァすぐにそっぽ向いちまう。しゃあねえっちゃ、しぁあねえ態度だ。徐将軍が苦笑を浮かべると、寄奴ァ頭を掻いた。
「さて、あまり怪我人の隣で喧しくするものでもないな。この辺りでお暇致そう」
 徐将軍が立ち上がる。寄奴もそいつに続き、そんでふすまに先回りした。
「熹少年、――いやさ、臧功曹。ここから先、甘えは許されぬぞ。励めよ」
「御意にございます」
 臧熹が平伏する。将軍、寄奴が部屋を出て、ふすまを閉めるまで、そのまま微動だにせずにいた。
「思いがけぬ買い物やも知れんな」
 顎髭をしごきながら、将軍が、ほんのりと嬉しそうに独りごちた。
「すんません将軍、まさか見舞いにまでお越し頂けるなんて」
「天下の驍勇を骨抜きにする女子だ、是非とも見ておかねばと思ってな」
「ほんと勘弁してください、柄じゃねえんですよ、そう言う扱われ方」
 将軍ァ心底愉快そうに、豪快な笑いを上げた。そんで乱暴に肩を叩いてきた。ありゃ寄奴じゃなかったら、普通に外れてたよな。
「それで、君はこの後殺される、と言うことでいいのかね?」
「ええ。五斗米道の残党に恨まれた、ってんなら言い訳も立つでしょう。晴れて身軽に帰れるってもんです」
 手掛けた働きから勘定すりゃ、働き損って思ってたのも確かだ。だが、将軍へ返した言葉に偽りァねェ。評判についた尾ヒレを耳にするに、こん頃にゃもう、いつ寄奴が空飛んで氐の蟻んこどもをなぎ倒してってもおかしくねェくらいでいた。そこに「実は広陵で大立ち回りしました」なんて話をつけようもんなら、ますます身動きが取れなくなっちまう。
 少しでも早く、道和と先のことをすり合わせねェといけねェ。これ以上広陵に縛られちまってる訳にゃ行かなかった。
「しかし、君の振る舞い、羨ましくはある。こちとら広陵に来て以来、王徐州の尻ぬぐいに追われ通しだ。あの白面、ろくに仕事もせず雑事ばかり増やしてくれて、どれだけ素っ首をひねってやろうと思ったことか 」
「刑場で、将軍の隣にいた奴っすね」
 臧熹が元佃夫を殺した、あの時。刑場の北側にゃ、立派な櫓が組まれてた。言ってみりゃ、お偉いさんが執行の様子を見学するための特等席だ。
 そこに徐将軍、そして高雅之将軍を差し置いて、一等立派な椅子に腰掛けてた貴族がいた。そいつが王恭どのだった。徐州刺史にして、鎮北将軍。あの頃の北府軍じゃ、謝玄総司令に次する肩書きを備えたお貴族さま。
 だが、まァ、なんて言うか。とてもじゃねェが、戦ごとに強えェようにゃ見えなかった。
 徐将軍も、白面たァよく言ったもんだ。遠目にも、こんでもかってくれェべったべたにおしろい塗りたくってんのが分かった。お偉いさんってよりゃ、役者って言われた方がよっぽど腑に落ちるような出で立ちだった。
「そう言えば、徳與。王徐州は君にも興味を示しておられたぞ。何なら推挙してやろうか?」
「勘弁してくださいや、あんなんに飼われたら、きっと息が詰まって死んじまいまさ」
 心底げんなりした寄奴に、「それも面白そうなのだが」って、徐将軍がにやりと笑う。
 玄関まで来ると、孟昶、それから孟龍符の見送りに出くわした。特に孟昶にしてみりゃ内輪ごとの問題を解決して貰っちまったってもんで、下げてくる頭が、とにかく低い。
「こんな縮こまった昶兄ィ、初めてっすわ」
 孟龍符がカラカラと笑った。孟昶がぎろりと睨むと、わざとらしくそっぽを向く。
「そう畏まらぬでも良い、同胞の煩いは相身互いよ。それよりも、高雅之の周りはますます慌ただしくなろう。君の俊才は内外にも聞こえている、よく高雅之を支えてやってくれ」
「勿体ないお言葉にございます」
 深々とした拱手を頑なに崩さねェ孟昶の肩を、将軍が二、三度軽く叩いた。
 外に出る。
 門のところにゃ車が留められてあった。二頭の馬と、周りにゃ人夫たちが何人か。それから、そいつを手配したって言う商人が、ひとり。
「待たせたかな、王玄伯どの」
 徐将軍が、崔宏に向けて、そう呼びかけた。

 徐将軍が前向きに掛け、寄奴と崔宏が並んで将軍に向かい合う。孟昶の家から広陵府までは、馬の並足で半刻足らず。わざわざ車で戻るような距離でもねェ。
「徳與よりは、君が此度の画図を引いてくれたと聞いた。ならば広陵の患いの種は、君が刈り取ってくれたようなものだな。感謝する」
「礼には及びませぬ。利鞘を徳與殿に見出したまでのこと。お蔭様にて、こうして将軍に汗顔晒すこと叶いました」
 寄奴ァ聞こえよがしに、思いっきり舌打ちをしてみせた。崔宏はまるで動じねェし、徐将軍についちゃひたすら大笑い。寄奴の腹の虫ァますます幅をきかしてくる。
「だが、お互い暇ならぬ身よ。君の言う利鞘について、早々にご訓じ願えるかね?」
 ぐい、と徐将軍が身を乗り出す。
 炯々とした目力ァ、前に寄奴が鐘楼で浴びたそれたァ圧がまるで違った。
 寄奴ァ、それでも徐将軍に取っちゃお仲間だ。だが王玄伯って偽った出来不明の輩、つまり崔宏を受け容れる理由ァ、徐将軍にゃあまるでねェ。たとえ寄奴づてだとしても、いや、寄奴づてならばこそ。
 まして、この期に及んで寄奴の氏素性を知ってる奴が徐将軍の前に現れんだ。構えねェほうがおかしい。
 だが崔宏は、飽くまで涼やかに、拱手を示す。
「私どもは材木商を営んでおります。淝水落着のこの折、江北より淮南では、今後復興事業も多く立ち上がりましょう。しかるに、我らが抱える拠点は下邳。この南徐州での事業に携わるには、些か遠くございます」
「では、ここ広陵に拠点を築きたい、と?」
「恐れながら」
 何だって、危うく寄奴は声を上げかけた。何とか堪え、外を見る。
 崔宏が示してきた一手ァ、じかにこっちを殺しにくるモンでもねェ。だが、明らかにのど元に匕首を突き付けてくる類のもんではあった。
 どんだけ、敵のことを調べ尽くせるか。その上で殺すための手立てが取れるか。寄奴だってその辺をおざなりにする気ァ毛頭ねェ。だが、早すぎる。
「どうかしたのかね、徳與?」
「いえ、――この野郎、まだ儲けるつもりかよって思っただけっすわ」
「とんでもない。我が目指すは晋国を支えうる基石となること。貨殖はその術に過ぎぬ」
「わざとらしいぞ、玄伯どの」飽くまで愉快そうな声色は崩さねぇままで、徐将軍が割り込んでくる。
「だが、ここから木材が入り用になってくるのは確かだ。加えて、君の手腕は徳與づてにではあるが、確かに見せて貰った。なるほど、悪からぬ話であるよう思う」
「では――」
 少し前のめりになった崔宏を、徐将軍が制した。
「ただし、だ。この広陵において、儂は所詮客将に過ぎぬ。推挙までは請け負えようが、地元の問屋連への折衝までは叶わぬぞ」
「心得て御座います。商いもまた戦なれば、この非才、振り絞る所存にて」
「そうか」徐将軍が頷いた。
 車の足が緩む。どうやら広陵府に到着したみてェだった。
「では後刻、君の泊まる宿に付け届けを回そう。活躍を楽しみにしている」
「ご期待に添えるよう、尽力致します」

 車から降りると、崔宏と並んで拱手し、徐将軍を見送った。
「肝が冷えたぞ」
「あん?」
 飽くまで、頭は垂れたまま。
「貴公が、我の素性を暴露するのではないか、とな」
「言ってろよ」
 材木商を偽る王玄伯は、実は鮮卑どもを利する漢人の裏切者、崔宏でござい、ってか。そんなん到底言えたもんじゃねェ。例え草どもに周りを固めさしてるっつったって、結局ァ身一つで寄奴の目の前に出て来てんだ。
 草なんざ、その気になった寄奴の相手にもならねえだろう。だが、仮にそいつらをぶっ倒して、崔宏をお役所に引っ立ててみたところで、残るのァ崔宏を向こうに回すのが恐ろしい余りに、相手が差し出してきた素ッ首を喜んで刈った臆病者、って汚名。
「どう逆立ちしたって己の負けなんだ。今更みっともねえ真似晒せるかよ」
「その潔さは、我が主上とよく似ているな。好ましく思うぞ」
 冗談ともつかねぇその言葉に、寄奴がう、って詰まる。
 顔を上げる。
 相も変わらず、底を読み取り切れねぇ、曖昧な笑顔。
「――くそ」頭を掻く。
「本当、どうしようもねぇな。ここまで手玉に取られちまえば、もうぐうの音も出ねえよ。降参だ、降参。だから、せっかくの機会だ。教えちゃくれねえか」
「何をかね?」
 相変わらずの笑顔に、わずかにいら、っとくる。
 少しでも、意趣返しができりゃいいんだが。
 そう思いながら、寄奴ぁ言葉を投げ掛けた。

「この茶番を仕立てた理由だよ。わざわざ、五斗米道とまでつながってな」


「まずは事の前後を正さねばなるまいな」
 夕刻。崔宏の部屋に差し込む夕日も、もうだいぶ赤ェ。
 王鎮悪が崔宏、寄奴、それぞれに茶を注ぐ。それから灯りを卓上に据えると、小さく頭を垂れ、退出しようとする。
「鎮悪。此度はこのままに」
 そう言って崔宏が、手前の後ろに置いてある椅子を示した。「――あぁ」見当がついた、とばかりの笑みは、なんつうか、崔宏そっくりだった。
「あの話ですね、分かりました」
 どの話だよ、とは聞かねェ。どうせ否応なく分からされることだ。
「否定は、しねぇんだな」
「せぬともさ。むしろ気付かれねばどうしたものか、と気を揉んでいた」
 顛末から逆引きすりゃ、寄奴ァ孫泰を消すための手引きに載せられた、ってことになる。張士道、姚盛。奴らに下ったお裁きだって、それほど厳しいもんでもねェ。五斗米道そのものを取り潰されたわけでもなく、しかもご丁寧なことに、新たな大師父にゃ孫恩が据えられるって言う大団円。芝居だってこうもお綺麗な筋にゃしねェだろう。
 何よりも決定的なのが、張士道が巻いてたはちまきだった。そこにゃ、まさしく崔宏が巻物に著してた文字が躍っていやがった。
「以前野暮用、と申したであろう。元々五斗米道との件が先なのだ。そこに臧嬢の件が紛れ込んだため、多少筋を書き換えた」
「あいつらとつるんで、何をしようってんだ?」
「答えると思うかね?」
 返す刀に間髪がねえ。言葉に詰まる。
 崔宏の後ろで、王鎮悪が吹き出す。
「意地悪ですよ、先生。隠す気ないくせに」
 寄奴が王鎮悪をにらみ付ける。すると奴ァわざとらしく首をすくめた――大の大人だって震え上がるひとにらみだってのにな。
「鎮悪」
 軽くとがめ立てるように、崔宏が呼びかける。それだけで王鎮悪がうなだれた。
 崔宏がため息をつく。
「しかし、我も戯れが過ぎたな。過日申し伝えたとおり、我らは貴公と約を結びたく望んでいる。なので腹蔵なく申し上げよう。五斗米道に望むは、この広陵にとどまらぬ、晋国そのものの擾乱」
「――なんだと?」
 崔宏の顔からは、いつもの笑みが消えてた。冗談、戯言をほざいてるわけじゃねェ。だからこそ、余計に意味が分からねェ。
「己ァ、晋の兵だぞ」
「弁えておる」
 崔宏が、懐から短刀を取り出した。柄を寄奴に向け、差し出す。気に食わなかったら、いつでも斬れ、って事だ。
 しばらく短刀を眺めてから、寄奴ァそいつを脇にどける。そんで、ぐいと身を乗り出す。
「――で?」
「淝水の大敗後、天王苻堅は、羌族ヤオ・チャンの手にかかり、殺された。頭を喪った秦国は瓦解、今や中原は群雄割拠の再来となった」
「そうか。じゃ手前らをぶったたく絶好の機会だな」
「どうかな。我らよりも先に、貴公らの前にはムロン・チュイが立ちはだかる。彼奴めもまた、驍勇よ」
 ムロン・チュイ。淝水の追撃戦で、苻堅の隣にいた、あの老将。
 元々あの桓温将軍をこてんぱんに蹴散らした相手って事で、奴の名前は晋国内でも脅威としてちょくちょく聞いちゃいた。だがそいつは、言ってみりゃわがまま放題ふるまうガキンチョを脅し付けるためのネタみてェな扱いだった。「悪いことしたら、ムロン・チュイが来るぞ!」ってなもんだ。
 そこに、己づてたァ言え本人を目の当たりにし、しかも改めて崔宏の口から、その名前を聞く。ぴり、と寄奴のこめかみ、その奥が響いた。
「ゆえに、五斗米道なのだ。彼の者らは晋国内の他、チュイの勢力圏内にも多く信徒を抱く。我らにとっても、やはりチュイは大いなる憂い。しかも我らはチュイにのみかかずらう訳にも行かぬ。北にはユウェン、ダン、ロラン、西にはガオシェ、ルゥ・ゴァン、南西にヤオ・チャン。我らの南より東に掛けてを大きく領するチュイこそが険敵であることは間違いない。なればこそ、今彼奴めに動かれれば、他の勢力も連動してこよう。さすれば、我らが陣営の瓦解は免れ得ぬ。故に、五斗米道には足止め役になって貰わねばならぬ。もっとも、彼の者らの本拠は晋国内ゆえ、影響は晋の方が大きくなろうがな」
「ふざけんな――って言いてえとこだが、どうせ手前のことだ、もう仕込みは済んでんだよな」
「無論だとも」
 寄奴が頭を掻く。
「だよな。ならもう、なるようにしかならねえってことだ。踊らされてやるさ」
「痛み入る」
 崔宏と、王鎮悪がわざとらしく拱手してきた。軽く鼻を鳴らすと、椅子の背もたれに寄りかかり、腕組みする。
「だがな、どうしても解せねぇ事がある。何で、わざわざ己を巻き込む必要があったんだ」
「そうさな、そちらが本題よ。お答えいたそう、なれど、その前に一つ。この広陵には、天王より賜りし宝剣を持ち込んでおられぬようだが?」
「あ? あんな豪勢なモン、おいそれと持ち歩――」
 そこまで言って、一気に血の気が引く。
 掛けられたカマのデカさは、並じゃなかった。
 崔宏が顔を上げ、冷たい笑みを浮かべた。
「――ほう? あの剣は、丁旿殿が受け取った筈だが?」

 ここまでは、それでも堪えて来てた。
 だが、駄目だ。遂に、驚きを思いっきり表に出しちまった。
 知られるわけにゃ行かねェはずの「龍」の存在。
 そいつを、よりにもよって。

「なるほどな」
 崔宏がうなずく。
「丁旿殿が矢庭に白髪と化したこと。主上と貴公とが通詞無しにて言葉を交わし合ったこと。また丁旿殿が天王の前で、貴公の名を敢えて挙げたこと。そして、今。――鎮悪、仮説は、やはり近しき所に辿り着いていたようだ」
「――何の、ことだ」
 こめかみを伝う汗に気付かずにおれねェでいた。
 胸がバクバクと言いやがる。
「ここな鎮悪は、かの王猛殿の孫でな。弱冠にして四書五経、史典の類は易々と諳んじるようになった。故にその才を愛され、時には王猛殿の夜伽語りにじかに触れたこともあった」
 王鎮悪が立ち、改めて頭を垂れる。
「祖父は、私に多くの物語をお聞かせくださいました。しかし、そのいずれもが私の知る史実とはいささか食い違っていた。左氏春秋、史記、漢書、そして近しきは三國志。崔宏先生に師事するに及び、私は予てよりの疑念を先生にお伝え申し上げたのです。先生のご助力を頂戴し、記憶にある限りの祖父の物語を再構成し、史書の記述と比較致しました。結果導き出された先生の仮説は、祖父の物語のほうが、より正しき歴史を語っているのではないか、というものでした」
 そりゃそうだ。王猛は、苻堅と一緒に龍を浴びた。
 俺と寄奴が見聞きしてきたことからすりゃ、苻堅と王猛だって同じようなもんだったんだろう。実際に、王さま達が見聞きしてきたこと。そいつをそのまま史書に残すことにゃ、正味のとこ大した意義ァねェ。王さまを直に見ること叶わねぇ奴らに、王さまの威信を伝えるにゃ文字が必要だ。
 本当に起こるのは、当人の間に龍が行き来することだけ。そいつも、余人にゃ一切見えねぇ。そんなもんをいくら証しだてしようったって無茶にもほどがある。だから、史書にゃ瑞祥が載る。めでたい龍が、麒麟が、鳳凰が、どこそこに現れた、ってな。そんなもん現れるはずもねえってのに。
「怪力乱神の類など、元より信じるつもりはない」
 崔宏が王鎮悪の言葉を継ぐ。
「なれど、淝水における対峙の折、天王と貴公が見合った直後に、些かの空白が生じたこと。また、その折時を全く一とし、丁旿殿に異変が起きたこと。そこには、我の知り得ぬ何かが起こった、と見做さねばならぬ。また撤退時には、追う晋軍に貴公らが加わっていることを知った。故に、敢えて天王へ具申した。白髪の小僧が紛れている、と。そこへ天王が下命せしは、拉致。我の中で細い糸が徐々に繋がりつつあった」
 崔宏が立ち上がり、窓のほうに向かう。
「申し訳ないが、ここからはひととき、顔を逸らさせて頂く。我としても、妬みに醜くゆがむ顔を見られたくないのでな。――天に見出されし、貴公には」
 天。
 動揺に殺されかけちゃいた寄奴だったが、何とかその一言が踏みとどまらせた。卓上に置かれてた短刀を引き寄せる。何かにすがりでもしてねェと、ぶっ倒れちまいそうな気さえした。
「丁旿殿接見の折、天王が宣し賜うたは、顧みるだに、禅譲の辞にも等しい。即ち、どのような経緯であれ、天は次なる覇者に貴公を、その腕に丁旿殿を選んだ、となろう。主上でなく、貴公らをな」
 崔宏の拳が、ぎり、と強く握られる。
 その一言を口にすんのが、崔宏に取っちゃどんだけ屈辱的なことだったのか。許しがてェことだったのか。想像するっかねェ。だが、あの崔宏が、激情を隠し切れねェでいた。そいつだけが、確かなことだ。
 改めて、崔宏が寄奴に振り向く。
 もうその顔は、いつもの冷ややかなそれだった。
「なれば、我らは覇たる者として貴公に勝たねばならぬ。斯様な些少なる戦でなどなく。そして、来たる大いなる戦のためにも、今は貴公とは約を結ぶが上策、と判断した」
 そう言って、王鎮悪の肩をぐい、と押す。
「貴公には、ここな鎮悪をお貸しいたそう。この者は草とも通じておる。華北の報は、この者を通じて仔細を届けられもしよう。我らとしても、江南の事情をより正確に掴み得る」
 王、って名乗るわけだ。
 王玄伯の材木商。ってこた王鎮悪ァ、そこの跡取り息子かなんかって態で居座れることになる。
「元々はこの地盤を築いてから、京口に立ち寄る心積もりでおったのだがな。だが貴公がこうして広陵に足を運んでくれたおかげで、予定よりも早く盛楽城へ帰還することが叶いそうだ、感謝する」
 崔宏が改めて拱手してきた。
「劉徳與殿。願わくば、貴公がより良き主上の贄とならんことを」


 あの崔宏とのやり取りが、寄奴ン中でもとびきりの窮地だったんは間違いねェ。だが残念ながら、あいつの窮地はそこで仕舞い、って訳にゃ行かなかった。
「これを読みなさい」
 簫文寿様が、三本の竹簡を卓の上に差し出す。なんだこりゃ、って言いそうになったが、そこにゃ「孟叔白」の署名があった。
 叔白は孟昶の字。つまり、孟昶からの文が、家に届いてたわけだ。
 寄奴の背筋に、冷水でも浴びせられたみてェな何かが、ぞわわっと駆け抜けた。
「あの野郎、余計な――」
「何が余計です! 穆之に心配を掛けまいとの心遣いではありませんか、それが友の厚意に掛ける言葉ですか!」
 文寿様の啖呵に、寄奴ァのけぞった。
 ここまで一方的に寄奴をぶっちめられんのは、本当、文寿様だけだろう。へいへい、って寄奴が竹簡を取ると、今度ァ返事は一回でよろしい、ってぴしゃりだ。全く、立つ瀬なんざあったもんじゃねェ。
 初日に一本、そっから五日目、十日目で一本ずつ。細やかなお仕事でいらっしゃる。
 孟昶からの文にゃ、寄奴を広陵滞在中は項裕として孟家に寄宿させること、流民絡みでやっぱり(やっぱりってなんだって内心寄奴ァキレかけてたが)一悶着やらかしたこと、徐将軍からの無理難題と一緒に傷付いた流民の姉弟を連れ込んできたこと、王玄伯とか言う胡散臭い商人もろとも五斗米道討伐隊の編成業務に巻き込まれたこと、けどひとたび事が転んでみりゃ広陵府の内憂をすっかり洗いだされてたこと、なんかが書かれてた。
 振り回され通しの半月間、此方の膿を絞り出してくれた事への感謝は言葉に言い尽くせないが、このような形で世話をするのは二度とごめんだ。広陵に来る分には歓迎するが、寝床は期待せぬように。――そう、文は結ばれてた。
 孟昶が、寄奴に掛けた見送りの言葉は「またのお越しをお待ち致しております」だった。なるほど、確かに次も面倒見る、たァ言ってねェ。
「読みましたか?」
「おう」
「付け加え、訂正は?」
「ねえ」
「そう。では申し開きは?」
「――は?」
 寄奴が聞き返したのと、文寿様が卓をぶったたいたのが、ほぼ同時。かえーそうに、これまでも文寿様の怒りを一身に浴びてきたその卓ァ、その近い将来、真っ二つにブチ割れちまうんだ。
「なぁにボケッとしたことほざいてんだいこのウドの大木! 今更お前がどんな女選ぼうとも、そいつぁあたしの知ったこっちゃないよ! けどな、手前ぇで選んどいて何おめおめと守り切れてねぇんだい!」
「や、ちょっと待ってくれよお袋、やった奴ァぶっちめたぜ」
「そんなん当ッたり前ぇだろがいこの唐変木! アタシが言ってんのァそもそも怪我もヤな思いもさせちまった時点でてめえの負けだってこったよ! どんな理由があろうとも好いた女も守り切れねぇ野郎ァ下の下さね! お前なんぞに見初められちまった愛親とやらぁ、なんて可哀相なんだろうね! 出会ってすぐでこの体たらくじゃ、こっから先、何度お前に泣かされることになるんだい!」
「いや、ちょ、待ってくれよ、そもそもあいつの返事もまだ聞いてねぇし――」
「はぁ? なにのんべんだらりとしたこと言ってんだ! お前が守り切れなかったんだから、ならこっから先、断られてもお前が全力で守れよ! そいつが義理の通し方ってモンだろが!」
 ――まぁ、何てかな、そっくりなんだ、笑っちまうほど。愛親と、文寿様。
もちろん顔立ちやら何やらは全く違う。けどあの、誰かを守るためにゃ全く手段を選ばず、ぶち抜いてきそうな感じ。ああいうのに、心底参っちまうんだな、アイツ。乳離れできてねェガキかよって話だけどな。
 一気にまくし立てたあと、文寿様は黙り込む。まっすぐに、寄奴そっくりな眼でにらみ付けてくる。決して、言いっ放しにゃならねェ。言うだけ言ったら、相手に言わせる。
 しかも、急かさねェ。そんかし答にトチんと、また地獄行きだがな。
「己ぁまだまだガキだが、いつまでもクソガキのまんまじゃねえ」
 寄奴が、なんとか口を開く。
「お袋が、そして親父が、己をここまで育ててくれたこと。本当に感謝してんだ。だからこそ、己のガキにも、最高のお袋を用意してやりてえ。そいつぁ半端な奴じゃ、駄目なんだ」
 その言葉だけで、結構文寿様はぐらりときかけてた。
 それもそうだ、元々寄奴ァあんまし文寿様に感謝の気持ちを言葉にしたこたァねェ。うまく言える自信もなかったし、何より恥ずかしかったからな。
 だが、ことコイツは、って嫁を連れ込もうとなりゃ話は別だ。
 思い出す。あんだけひでェ目に遭ったにも拘わらず、愛親が始めに気遣ったなァ臧喜のことだった。
 家のため、なんてな口先じゃ簡単に言えるが、そいつを行動にできる奴なんざ、そうはいねェ。
 親を敬うからこそ、家のためを思う。大体にしてあの二人ァ、広陵に辿り着いた時点でほとんど天涯孤独みてェなもんだった。でなきゃ、寄奴の揺さぶりに対して、すぐにツテが思い付くはずだ。
 ツテがある奴なら、まだ家なんて言葉も軽々しく言えるだろう。だが、アイツらはそうじゃなかった。
「アイツならきっと、ガキどもの最高のお袋になってくれる。だから、アイツを養いてえ、って思ってる。その為にもこっから先、アイツのためにゃ何だってするつもりだ」
 思いがけず、あっさりと言い切れたことに、誰よりも寄奴自身が驚いてた。
 言葉にできるってな、つまるとこそんだけ考えてた、って事だ。気恥ずかしいやら、面映ゆいやら。そんな気持ちをまるまる浴びるこっちの身にもなってくれってなモンだが、一世一代の大勝負、そんな頼みァさすがに野暮だァな。
「どう守るか、が見えません」
 が、文寿様はあっさり切り捨てる。
「心身に傷を負った者を守るのは、生半可なことではありませんよ。彼女を脅かした影は、それが最早この世にいないと分かっていても彼女を蝕み続けます。その時に貴方は確かな寄る辺となれますか? その手を掴み続けられますか? また、どのような家であれば、彼女に安らぎをもたらせるのでしょうか? 妻として力を振るい切れる場となりますか? 気概は結構。ならば、そこから先のことを考えなさい。もっと、具体的にね」
 ただ、言葉たァ裏腹に、口調は飽くまで柔らけェ。さっきまでの啖呵の威勢もどこ吹く風、だ。
「はい」
 だから、寄奴も素直に返事した。おのずと、背筋も伸びる。
 なるようになる、それでもいい。だが、覚悟するってェのがどういうことか。そいつを文寿様は寄奴に導いて下さった。
「勿論、考えてばかりおればよい、と言うわけでもありません。共に暮らすというのは、不測の事態の連続。そこに思い込みが紛れ込むと、どうしても相手が見えなくなります。間違いを繰り返す中で、虚心に相手に寄り添うこと。こればかりは、相手なしで行える作業ではありません。寄奴、あなたの目を疑うつもりはありません。なればこそ、良き家族となるためにも、私たちも最大限の努力を払いましょう」
 その上で、愛親を全力で受け入れます、っつう文寿様の宣言。そりゃ寄奴ならずとも平伏しようってモンだ。
 が、寄奴の薄っぺらな感動ァ、すぐさま文寿様の、崔宏もかくやって笑みにぶっ潰される。
「であるならば、寄奴。まさかこれで臧愛親を娶るのにしくじる、などといった失態はあり得ませんよね?」
 ――こっから先、寄奴が愛親の寵を得るために繰り広げた悪戦苦闘ァ、そりゃもう大変なもんだった。だが、そこを話し出しちまうと切りがねェ。
 だからよ、先生。そいつァ別の物語、っつう定型文に甘えさしてくれ。

「意中の女を落とす術? 知らないよ、いつも通りにすりゃいいじゃん」
 血相変えて縋り付いてきた寄奴に対して、道和の返しァどこまでもつれねェ。
 寄奴と違い、道和は人づきあいに掛けちゃ天性のもんがあった。寄奴に直よか、よっぽど道和づての連中の方が多い。その分寄奴の周りにゃ、どっちかってといびってくる連中の方が多くなるわけだが。
「それよりも」
 道和が二本目の竹簡を開き、床に広げる。指さすのは「王玄伯」の三文字。
「こいつに嫌な予感がして仕方ないんだ。兄貴、何者なのか教えてくれないか」
 はっとなる。文寿様に大いに揺さぶられ、肝心なことが抜け落ちちまってた。そうだ、今は泣きを入れてる場合じゃねェ。すぐ目の前に迫る脅威に、どう立ち向かってくか。だからこそ、見送りの宴もそこそこに、慌てて京口に引き返してきた。
「崔宏だ」
 勿体ぶらず、直に切り込む。道和の顔に、ありありと驚愕が表れた。
「それとな、あの野郎、龍についても織り込んでやがったぜ。道和、お前、初耳で信じられたか?」
 やがて驚きが、怒りに変わる。竹簡に、拳を振り下ろす。
「――んな訳ないだろ、畜生!」
 己と寄奴とで、龍についての話をしたとき、当たり前だが道和はしばらくはおとぎ話でもいきなり振られたのか、あるいは二人して頭でも打ったんじゃ、みてェな様子でいた。
 だから、色んな手立てで試された。己にしか見えねぇ筈のもんを寄奴が把握するか、寄奴にだけ見せた文字がなんなのか己に聞く、とか。手垢まみれの論語を持ち出してきて、上の句を受ける下の句を言わせたりとか。もっとも己も寄奴もこいつにゃものすげぇ手こずったが。興味ねぇモンは、いくら収まってるっつったって中々ひり出てこねぇモンらしい。
 崔宏とのいきさつを話す。面白ぇくれェに道和の顔色が替わる。話し終える頃にゃ、引きつった笑いが浮かんでた。
「――済まねぇ、道和。己が迂闊だった。まさか、奴の手回しがあそこまで速えぇなんて」
「いや、兄貴は悪くないよ」
 笑っちゃいたが、握った拳からァ血がにじんでる。
「むしろ、行ってもらえてよかった、って言わせてよ。お陰で、敵がどんな奴らかってのを、身を以て教えてもらえた。のほほんと構えてた、僕の責任だ」
 カッカした頭で、まともにモノなんざ考えらんねェ。急速に道和の怒りが引いていく。この辺りァ、つくづく兄弟だな、って思う。
 道和が、血でにじんだ手を寄奴の襟元に押し付けた。
「兄貴、覚えててくれ。兄貴は旗。僕らは、その竿だ。トゥバ・ギの竿とは僕らが戦う。だから奴らと戦うとき、兄貴はまっすぐにトゥバ・ギ見てくれ」
 そして、掌を更に強く押し付けてくる。
「約束するよ。強くなる」
「――おう」
 寄奴が手前の掌を爪で引っ掻くと、薄く血がにじむ。そのまま道和の手の甲に、手前ェの掌を重ねた。


幕間


「――のちの北魏帝道武、か。成る程ね。聞くだに恐ろしい相手だよ」
 とか言いながら、五柳先生ァひょいとどぶろくを傾けた。
 もう、だいぶん回ってるはずなんだが、その手つきに覚束ねぇところァねェ。どんだけのウワバミなんだ。
「己が先生と会ったなァ、だいたいそん頃だ。まったく、おでれェたぜ。晋国にその勇名を轟かした大将軍、陶侃さまの子孫がこんな酔っ払いで、けど、こといくさごとにゃめっぽう強えェときた」
「およしなさいよ」先生が手を振った。
「アタシゃ火の粉を浴びたくないだけ。我が身が何より大事なだけさね。だからこそ、こうして廬山の影に逃げ込んでんだ」
 柳と、ボロボロの門の向こう。霞にけぶる廬山を顎で指す。
 京口からァ、船で長江をさかのぼること二日。麓にゃ尋陽の街を抱き、神仙の降り立つ山として名高い、廬山。
 先生が庵を結んだのァ、その廬山が一等見事に見える小高い丘の上だ。ちなみに都、建康は東北の彼方。ご丁寧にも、廬山を挟んだ真裏にある。
「けど、結局逃げらんなかったじゃねェの。現に今も、己なんぞに絡まれてよ」
「それでも、建康にいるよりゃよっぽどマシさね。あんな腐臭の漂う巷に身を置いてたら、アタシの鼻がもげちまう」
「容赦ねえなァ」
「酒に対し、酔っ払い、土をいじるんだ。時折の来客は我慢するよ。ただね、旿の。アンタみたいのが時々顔を見せてくれるのは、本当に嬉しいんだ」
「――あんがとよ、先生」
 風にそよぐ柳を眺める。
 まるで薄墨でも垂らしたみてェな、山川の景色。絵心がねぇのが、ちっと惜しまれた。


 昔欲居南村
 非爲卜其宅
 聞多素心人
 樂與數晨夕
 懷此頗有年
 今日從茲役
 弊廬何必廣
 取足蔽牀席
 鄰曲時時來
 抗言談在昔
 奇文共欣賞
 疑義相與析

  南の村に移り住みたかった。
  風水がよかった、と言うわけではない。
  素朴な人たちが多い、と聞いたからだ。
  彼らとちょくちょく顔を合わせるのは、きっと楽しかろう。
  どれだけ、その思いを募らせただろうか。
  そして今日、ようやくその願いが叶った。
  この庵は、決して広くはない。
  だが、臥所の雨風さえしのげれば、それでよい。
  時折やってくる隣人と、
  共に些細なことを語り合う。
  善き詩を共に楽しもう。
  詩の難しきも、共に解釈し合おう。


 春秋多佳日
 登高賦新詩
 過門更相呼
 有酒斟酌之
 農務各自歸
 閑暇輒相思
 相思則披衣
 言笑無厭時
 此理將不勝
 無爲忽去茲
 衣食當須紀
 力耕不吾欺

  日々、これ佳き日。
  丘の上にて、新たな詩を読む。
  庵にやってきた友人を呼び止める。
  酒があるなら、飲み合おう。
  畑仕事は、おのおので。
  仕事が済めば、よき時を思う。
  衣を引っ掛け、さぁ集まろう。
  談笑の時は、いつまでも飽きることはない。
  これほど素晴らしいこともない。
  決して、この時を忘れたくないものだ。
  衣食は自力で調達しよう。
  畑仕事は、我々を欺かない。


 調子ッぱずれた琴に合わせて、先生が朗々と歌い上げる。
 いつまでも続く、平穏な時。
 そいつが叶うなら、どんなに心穏やかでいられたろうな。

劉裕(2章/全9章、257枚) ©佐藤

執筆の狙い

重篤な長い物語を書けない病患者です。佐藤です。
現在カクヨムの連載システムに乗っかって、長いものの執筆に挑戦中です。

それが今回提示させて頂いた作品、
五胡十六国時代を代表する英雄の一人、「劉裕」を描く物語。
物語としてはようやく長いプロローグが終わったという感じではありますが、
ここまで書いてきて、ふと気になりました。

ここから先を書いていくにあたって、
どのようなバランス感覚の元に書き進めるべきなのだろう、と。

現在は一章が軽く、二章が若干重め、となっていますが、
一章の重さを二章に寄せるべきか、あるいはもう少し二章を軽くすべきか、
そう言ったところで迷っております。

だいぶ長い原稿になってはおりますが、
ここから先の物語を編むにあたっても、
ここまでの原稿にどのような印象を得たか、
を聞かせていただくのは有用であるよう思いました。

よろしくお願いします。

佐藤

126.36.64.124

感想と意見

黒とかげ

拝読させていただきました。

自分を棚に上げて厳しいことを書かせていただきます。

文章について
 ・まず冒頭にいつの時代か明示して欲しいです。人物がマイナーなのでこの物語が古代中国であると
  初めからわかる読者は少ないと思います。
  その上で、もっともっとこの時代のことを勉強するべきでしょう。
  人々の服装、食べるもの、街並みや文化の程度。特に軍制や使っている武器についてなど。
  具体的な人々の生活がまったく描かれていなので、物語の住人の息遣いが感じられません。
  それは致命的な欠陥だと思います。

物語について
 ・まず戦闘シーンが下手だと感じてしまいました。戦いは物語の花なのでもっとスピード感や必死さを
  表現して欲しいです。
  他にも人物の外見がまったく書かれていないのも問題かなと思います。
  キャラが立っていないこともあって、どうにも誰が喋っているのか分かりにくいです。
  個人的には物語に安易に龍など出すべきではないと思います。
  天下を取る運命(龍)だったから、天下を取った。それでは面白くないでしょう?
  主人公の能力、運、あるいは盟友との友情、謀略を持って天下を取って欲しいです。
  
 以上です。文章書きとしてお互いがんばりましょう。

2017-04-20 21:33

124.86.172.187

佐藤

黒とかげさん>
うーん、なるほど。
正直やらかしたな、と思いました。
というのも、ご指摘を頂いた箇所は、
ほぼ興味も関心もない箇所でした。

この物語を書くに当たって
「ある程度人口に膾炙しうるように」
と考えていたのですが、
そのテーマを満たすに当たっては
黒とかげさんのご指摘は全面的に正しいと思います。
かつ自分は、その点についての改善をしたいとは一切思えません。

そうすると、困った、
作品の持つ大きなテーマそのものが揺らぎます。
つまり「馴染みのない時代を気軽に楽しんでもらう」
と言うものですが。


黒とかげさんのご指摘は正しいものだ、と前置きした上で申し上げます。
自分のやりたいことには沿わなさそうです。
一方で、これまでのこの物語が自分のやりたいことを幾分ねじ曲げるものであった、とも実感しました。

自分のやりたいことについて、
かなり重要な示唆を頂戴できた気がします。
ありがとうございます!

2017-04-20 22:27

49.98.14.109

殿様

転生☆少女 どどめちゃん

佐藤さん。作品、読ませて頂きました。
感想としては、すごく不思議な作品だった。
でも、何だか面白かったです。
文章も問題なく読み通せました。
でも、不思議です。

2017-04-24 23:23

126.161.172.26

佐藤

殿様さん>

えーと……どどめについての感想、と言うことでいいのですよね?
ありがとうございます。

2017-04-24 23:52

1.75.252.239

マーフィー

最初の方だけ読みました。
時間と場所が分からないまま読むのはもどかしいですね
最初に「諸葛孔明がまだ生きているという噂が絶えない」とでも入れてくれると
読む励みにもなったとおもいます。

あと、長すぎるのは此処では不利ですね。
適度に端折った方が良いと思います。

ではでは。

2017-04-25 01:35

150.246.41.15

佐藤

マーフィーさん>

なるほど、場所と時間ですね。
耳なじみのない時代を紹介する、としておきながら、
その辺りに対する情報提供が一切ないのはさすがに
読者フレンドリーではないですね。

この辺りはもう少し考えないといけないな、と思いました。
本格的な改稿は九章まで書き上がってからを考えてはいますが、
このご指摘は保管の上、検討要素に加えたく思います。

ありがとうございます!

2017-04-25 13:33

126.36.64.124

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