作家でごはん!鍛練場

『偏差値55なりに一生懸命生きてきました』

偏差値55著

内容はわりとガチです。
よろしくお願いします。

 私の子供時代の夢は何だったんだろう。
 かつてこの胸に抱いた純粋な夢は。
 純粋?
 私にも純粋な時代があったなんて。
 小学校二年生の時に作文に書いた将来の夢はゲームプログラマーだった。ファミコンが流行り出した時だった。それから、漫画家だったことも覚えている。ドラゴンボールに夢中になっていた。絵は落書き帳にオリジナルのロボットの絵をたくさん書いていた。あまり上手くなかった。
 小学校六年生の時は映画監督だった。あの頃、ハリウッド映画に夢中で、週に一回はレンタルビデオ店に話題のビデオを借りに行っていた。
 中学に入ると、小学校時代に描いた夢はどうも実現しそうもないことを他人から説得されて理解し始めるようになり、現実路線で行かなければならないなと思うようになった。
 それで、一応学校の勉強に精を出すことにした。手に入れた参考書の模擬テストの内容が実によく当たり、その8割程度を丸暗記すれば学年で10位以内に入れた。だから、毎日コツコツと勉強しなくても、その参考書を使って一週間前から丸暗記に取り組めば、優等生になれた。
 だが、将来何になりたいというイメージが全くなくなっていた。ゲームプログラマーも漫画家も映画監督も無理そうだった。自分にはそういった分野で活躍できるクリエイティブな発想も、コミュニケーション能力もなかったことを十分に知っていた。どうせその世界で上手くやっていけるわけがないという諦めが最初に来てしまった。諦めは自分を憂鬱にさせた。
 高校は進学校に進んだ。中学時代、いくら成績が良かったとはいえ、その場しのぎの一夜漬けタイプだったので、基礎的な力があまり身についていなかった。高校に入ったとたん、勉強が中学時代の10倍くらい難しくなった。とてもついていけないと根を上げた。
 何か現実的な夢があればよかった。医師でも弁護士でもいいが、そういう現実の職業を夢見ればよかった。
 相変わらず私は自分のオリジナリティ輝く華やかな世界でスポットライトを浴びるような、自分の性格とは縁のない華やかな世界に憧れを抱いていた。心の底で諦めきれていなかったのだ。自分にはそんな職業は現実的には無理だが、夢見ることだけは許されているかのように。あひるは白鳥にはなれないのに。
 自分はもうその年頃で鬱気味で重度の対人恐怖症だった。そういったコミュニケーション能力の欠如がさらに自分を自己嫌悪や自信喪失に追いつめて行った。
 高校に入ったとたん、急に思考能力が落ちたようで、いくら机に向かっていてもだめだった。どこか、日々のいろいろなことがむなしかった。あかたも西日が地平線の彼方に沈んでいくような終末感に心を支配されていた。
 もうその時点で、いろいろなことが自分の中で終わってしまっているような感じだった。
 それでも、3年になった時点でいい加減本気で受験勉強をしないともうどの大学にも入れなくなるのではという恐怖に襲われた。それで、少しずつ机に向かって勉強するようになった。わずかながらではあったが、少しつずつ成績は持ち直して来た。とは言っても、よくて学年全体の中の上だった。志した有名大学の合格判定はDだった。偏差値70以上の学部だった。
 偏差値は50くらいから55まで上がった。自分がここなら入れそうだなと思って現実路線で志望した大学は偏差値57と書かれていたので、油断できなかった。地方のあまり名の知れていない国立大学だった。偏差値だけで比べるとMARCHレベルだったが、知名度で言ったらMARCHの方が上かもしれない。
 それなのに、私はそろそろセンターが近づいている秋ごろになって、突然一流大学を目指すと言い出した。教師は無理だからやめとけと警告した。私は何かにとりつかれたように、いや、何と言われても受ける、挑戦する。記念になるから、と言っていた。
 私は自分の人生というものをあまり真面目に考えていなかったのだと思う。
 だが、正直、私の心はその時点で結構ボロボロだった。
 自分がろくでもない人間で、社会に出てもほとんど役に立たないような気がしていた。
 そこで自分なりに努力して自分を変えられたら良かったのだが、それも出来なかった。
 自殺は考えなかった。死ぬことは何かとても恐ろしいことのような気がしていた。
 前期は難関校に挑戦して玉砕した。後期も決して油断はならなかったが、得意な文系科目だけだったので合格出来た。
 大学に入ったら生まれ変わろうと思った。それは、派手ないでたちをするとかそういう意味ではなくて、これまでどん底だった精神状態をせめて人並みに元気に健康的にしようという意味だった。
 ところが、大学に入ったとたん、ストーカーみたいな男子学生にまとわりつかれるようになった。ちなみ私は男である。その人は別にホモというわけではなかったのだが、常に私と行動を共にしようとして、朝から晩まで私について回るのである。
 私は出来れば、一人で気楽に行動したかった。そのことをそれとなく彼に言うと、彼は「自分と一緒にいるのがそんなに嫌か」とはっきりと聞いて来た。私は臆病な性格だったので、はっきり嫌とは言えなかった。
 血液型占いからしても相性が悪い相手だったが、それはあまり関係なかったのだろうか。しかし、彼と一緒に行動しているととてもストレスのたまることばかりだった。こちらがストレスがたまっているのにうすうす相手も気付いていたと思うのだが、どうしても私から離れてくれなかった。
 私としては何もかも彼とは合わない気がした。こちらが善意のつもりでした行動が彼にはとにかく気に入らなくて、いちいち文句を言って来る。だったら私と一緒にいなければいいのにと思った。だが、結局私が謝らなければならなかった。地獄だった。時々一人で行動している人を見て、「あの人はいいなあ」とつぶやいたりした。そんなつぶやきが彼に聞こえた、というか、わざと聞こえるように言うところまで追いつめられていた。
「一人でいたいのか」
「自分と一緒にいるのが嫌なのか」
 と相手はまるで裁判官のように偉そうな態度で聞いて来た。そう思うなら、少し私から距離を置いてほしかった。こちらの機嫌が悪いのはこちらに原因があるかのように、そういうことを面と向かって聞いてくるあたりも、私とは性格が合わない人だった。
 私は、私が少し機嫌悪い態度を見せたら、互いの関係を少し考え直してくれるような人が友達だったらよかった。しかし、そのストーカーは、私が機嫌悪い素振りを見せると、「僕のことがそんなに嫌か!」と、自分を嫌う人間が間違っているかのように考える人だった。ついていけなかった。
私は精神状態がおかしくなり、食生活が乱れ、嘔吐するようになった。
 気が付けば、私は行動していた。講義を受ける時も、彼とはあえて離れた席に座るようにしたのだ。これは周りにも目立ったらしく、何かあったのかと聞かれるくらいだった。だが、もう取り繕ってもいられなかった。このままあの男と行動を共にしていたら人生がめちゃくちゃにされると思った。
 その男と距離を置いて、だいぶ精神的に楽になった。だが、完全に縁が切れたわけでもなく、時々キャンパスで顔を合わせて挨拶したりちょっとした会話をしなければならなかった。私はその男が一人で歩いているのを見たことがない。いつもどこかのグループにくっついて歩いていた。
 もともと孤立主義的な性格をしている私が、どうしてよりによってあんなまとわりつくタイプの男に発見されてしまったのだろう? もともと大勢でいるのが好きなら、私のような人間のところに来ないで、最初から大勢のグループの方に行ってほしかった。
 しかし、考えてみると、いろいろ不思議なことばかりである。あの男と私が出会ってしまったことも、悪魔の計らいによるものとしか思えない。どうしてもっと自分の性格に合う人と出会えなかった。いや、合う人は何人かいた。しかし、後になって思えばそういう気の合う人たちも、結局どこかおかしなところがあって、私を間違った、本来近づくべきでない道へと私を導いていたように思う。総合的に考えたら、結局そういう友達さえいらなかったように思える。誰と関わっても、結局自分は不幸になってしまう。そういう考えが確信になっていき、私はだんだん人とのかかわりを徹底的に避けるようになっていた。
 だが、孤立したら孤立したで必ずしも正しく生きてこれたかというとやはり自分の弱さが邪魔して自分を間違った方向へと自分で導いていた。結局自分はどうしたらいいのだろう? 宗教にすがるしかないのかもしれない。それで、宗教の朗読を聞いたが、文学的にも高度な内容で、なかなか良かった。心洗われた。日本では宗教を不気味がる傾向があるが、私のねじ曲がった心を矯正してくれる最終手段なのだと思った。さすがに出家とか在家とかそこまでいかないが、原始仏教の朗読などはとても哲学的にも素晴らしいことが書かれていて感動した。
 それにしても人生は分からないことだらけだ。
 どんなに善良で心が綺麗で、将来世の中の役に立つ人でさえ、ある日突然車に轢かれて死んでしまうかもしれない。しかし、どうして私は生き恥をさらす前にどこかの時点で死ななかったのだろう? 死ぬ時だけは楽に死にたいものだが。
 もちろん悪いことばかりでもなかった。素晴らしい経験もたくさんした。村上春樹の小説に出会えたことはその素晴らしいことの一つだった。春樹の小説は私の人生に確かに潤いを与えた。彼の小説を読むために生まれて来たのだと考えるなら、人生には確かに何らかの意味があるのかもしれない。
 素晴らしい音楽もたくさん聞いた。自然の美しさにも感動した。おいしい食事にも舌鼓を打った。
 この世界には、人生には、確かに明暗というものがある。
 あの男にまとわりつかれたことは黒歴史だった。だが、あの男にまとわりつかれた時に、うまく対処できるように人間的に成長していれば良かったのかもしれない。ああ、だが、しかし、こういう人と大学生活を送りたいなと思う人は近づいて来ることがなく、こんな人とはどうしてもうまくやっていけないと思うようにまとわりつかれるのはどうしてなのだろう?
 大学時代のそんな経験があったので、社会人になってから人と関わることに対してすごく警戒するようになった。それは仕事をする上でとても不利に働いた。
 それでも、ちょっと苦手だなと思うような人に限って私に近づいて来る。それは永遠にそうなのだろうか?
 ひょっとしたら、誰からも嫌われるようなタイプの人が、私なら気が弱そうだから相手にしてくれるだろうと思って私に近づいて来るのかもしれない。だとしたら、善人らしく振る舞いことは身近に悪魔を呼び寄せる原因になりはしないだろうか? 怖い、嫌な感じの人として振る舞った方が、そういう連中から身を守る術になるのではないか。
 確かにそういうところはあったかもしれない。自分は他人に嫌われることを異常に恐れ、なるべくいい人そうに振る舞おうとしていた。それが、悪魔のしもべたちにつけ入れられる隙を作っていたのだろう。悲しいことだ。
 今では人を恐れ、警戒するあまり、対人恐怖症的な側面が色濃く出ている。
 バリヤーを張っているというか、殻に閉じこもった感じを出しているが、これはこれで結局周りとうまくいかない原因になっている。
 世界に対して融和的に振る舞えば嫌な人から近づいて来られるし、殻に閉じこもれば孤立してしまう。私はこの世界に生きるのに向いていないのかもしれない。
 
自分は殻に閉じこもる一方で、豊かな人、人気のある人、活き活きしている人を見ると、うらやましいというか嫉妬してしまうところがあるようだ。自分が他人に抜きんでて優れていないと思えるところがあると、競争心をかりたてられる。だが、もうそういうことはやめようと思った。やめようと思えるまでに30年くらいかかった。負け犬の遠吠えだった。
 そうやって競争心を煽られて、スポットライトを浴びようとしても、結局華やかな世界が向いていない自分は挫折する。以前、芸能界がうらやましくてオーディションに書類を送ったことがあるが、ダメだった。
 シナリオを送ったこともあるが、ダメだった。
 もし自分の中に悪魔が棲んでいるとすれば、そういう畑違いの功名心とかがそれなのだろう。
 スターになれるなどとどうして思ってしまったのだろう?
 夢を見ること自体が楽しかったのかもしれないが、大きな落とし穴だった。
 自分の身をわきまえず1パーセントの可能性もない夢を見るという楽しみにひたった。それが私の精神に巣くった難病だった。ああ、学生時代に自分の身をわきまえて人生設計に取り組んでいたら、と後悔する。それでどうなっていたかと問われればどうなっていたか、分からない。もしかしたら、一流企業に勤め始めたその日に交通事故に遭って死ぬ運命にあったのかもしれない。誰もがうらやむような成功をおさめた芸能人や文化人がある日突然自ら命を絶つという例もたくさんある。人間にとって何が幸せなのか分からない。
 私もずいぶん年をとった。気付けばアラフォーである。考えようによっては、私のような対人関係が最悪レベルの人間が、どうにかして今日の日まで生きてこれたというのは、それなりに自分なりに頑張って来れたということなのではないか、と奇跡を眺めるような気持で思う。
 そうなのだ、私はもっと昔に死んでいたかもしれないのだ。何らかの理由で。自分が青信号を渡っていても、居眠りで信号無視するトラックに轢かれていたかもしれないのだ。自分が正しい車線を運転していても、対向車線の運転手が突然発作を起こして私の運転する車に正面衝突していたかもしれないのだ。だが、運よくそうはならなかった。しかも事故にあって重い障害が残ったりするわけでもなく、一応健康体でいられるのは恵まれている方だと思う。
 生きていれば素敵なジャズ音楽を聴く機会にも恵まれるではないか。素敵な小説を発見することもある。
 だが、いっそひと思いに死んでしまって、あらゆる悩みや不安から解放されることが出来るのなら、それが最高の幸福なのかもしれないと思う時もある。
 日本で一年間に自殺する人は3万人と聞く。原因が自殺とはっきりしているだけで3万人もいるのだ。
 私はとても自殺する勇気はない。ということは、私はまだ幸せな方の人間なのだろう。本当に不幸で疲れ切ってしまった人間は選択肢なく自殺せざるを得ないのだから。
 そう考えれば、私はまだ恵まれている方である。とすれば、今生きていることには何か意味があるのではないか、とも思う。
 あるいは意味なんて探さなければいいのかもしれない。意味なんて考えずにただその日その日を過ごせたら、傷口をナイフでえぐるような精神的な苦痛も和らぐだろうか。
 私に向かって車が何の意味もなく突っ込んで来るということがなかったのも、人込みを歩いている時に後ろから(前からでもいいが)刃渡り30センチの牛刀で内臓を貫通するまで突かれるようなことがなかったのも、そこには私が生きる何らかの意味があったからなのではないか?
 
 私が不幸なのは私自身に問題があるのだと思う。
 それは認める。
 結局私はナルシストでエゴイストで対人恐怖症のうつ病だから。自分に問題がないと言えるわけがない。
 私は今ジャズ音楽を聴きながらこの作品を書いている。それは優しいトランペットの音色が、心に響く曲である。
 この世にはこんなに素晴らしいものがあるのだ。
 人はかたくなになっている時、こういう素晴らしい音楽とか絵とか文学が世の中にたくさん用意されていることに気付かなくなってしまう。
 それも悪魔のしわざなのかもしれない。
 だが、本当に苦しんで心に余裕のない人からすれば、こんな美しい音楽も雑音に聞こえてしまうのかもしれない。

 生きていることも死ぬことも、紙一重なのだと思う。
 どんなに自分が注意していても、ルール通りに行動していても、どこで歯車が狂うか誰にも分からない。空から自分めがけて隕石が落ちてこないと誰が100パーセント断言できるだろう。だが、もし隕石が自分に激突して、一瞬で自分の肉体を粉々にしてくれるなら、楽な最後なのではと思うこともある。
 生きている以上は、何かしら課題を与えられているのだと思う。
 辛い時や、困難にぶち当たることもあるが、それも学校のテストと同じで、避けて通れない課題なのだと思う。
 それは死よりも幸福だとは限らない。その課題から逃げたくなったら、むしろ死を望む場合もある。だが、死は簡単ではない。痛みとか不安とかが大きくのしかかり、生きるという課題から簡単には逃げられないようになっているのだ。
 その大きな恐怖に比べれば、生きて目の前の課題をとりあえず解決した方が楽かもということになる。 

 今、素晴らしい一流のジャズ音楽が私の心を勇気づけてくれている。応援歌に聞こえる。
 とりあえず今は心を安らかにして、何か人生のために出来ることを考えたらと言ってくれているようだ。
 とりあえず、私は今、取り組まなければならない課題を見つけた。それは、ずっと長い間自分を苦しめて来た自分の邪悪な部分を治療する必要があるということだ。それを治療しなければ、自分を取り巻くあらゆることが改善しないと分かっているのだ。本当はもっとずっと昔に根治しなければならない病だった。だが、結局ほったらかしにしていた。しかし、今回だけは自分と向かい合って、その問題を解決に導きたいと思う。ひょっとしたら、その治療をすることが私の人生の最大の課題で、それ以外のことはもうどうでもいいのかもしれない。他の些末なことにとらわれていたが、そんなことは本当はどうでもよくて、自分が命をかけて取り組むべき問題はずっとたった一つそのことだったのかもしれない。いや、本当にそうだったのだ。その根本問題さえ解決できれば、あとの全てのことはどうなったってかまわないのだ。それくらい重要なことなのだ。そして、それを成功に導くには、精神の統一、深い瞑想、徹底した自己改革が要求される。今回ばかりは命がけでなければならないだろう。今回駄目だったら、もう死ぬしかない。それくらいの覚悟で臨まなければならないのだ。
 愚痴は厳禁だ。愚痴は話を他人のことにそらす自己正当化に過ぎず、卑怯だ。誰が悪い、何が悪いと言いがちなのだが、悪いのは私なんだ。本当に私なんだ。本当に、ごめんなさい。
 愚痴は仏教でも悪いことと言われているが、人のせいにすることの何がいけないと言うと、自分の欠点から目をそらしてしまうからだ。本来自分自身の欠点に怒りを向けなければいけない時に、他人の悪口を言うことに夢中になって、自分を変革する機会を失ってしまうのだ。これまでの私の人生を一言で集約するなら、そういうことであった。
 愚痴はよくないと思う。他人の悪口はもう言わないようにしよう。どんなに嫌な人であっても。言うとしたら、自分が完璧な人間になってからにしよう。
 嗚呼、後悔と恥の多い人生であった。自分第一の、自分さえ良ければそれで他人がどんなに不幸になってもお構いなしといった人間だった。本当にひどい。情けない。反省しているようで、全く反省していない開き直りの連続だった。本当は死んで誰の記憶からも消えてしまいたかった。だが、生かされている以上はまず今目の前にある課題としっかり取り組もう。命がけで取り組まなければならないようだ。
 命がけで。文字通り。それが出来なかったらもう、私はゴミだ。権利ばかり要求するだけのゴミになってしまう。もうそんなんじゃ生きていけない。
 真剣に。もっと昔に真剣になっていれば良かった。なれなかったのはやはり自分が腐っていたからだ。
 腐っていた。本当に。
 まだ、間に合うだろうか?
 やり直したい。今からでも。

偏差値55なりに一生懸命生きてきました ©偏差値55

執筆の狙い

内容はわりとガチです。
よろしくお願いします。

偏差値55

219.167.46.78

感想と意見

青山りか子

 読ませていただきました。
 割と良かっと思います。これは、私小説でしょうか。
 
 起承転結が、良く分かり、すっきりとした内容だったと思います。

 ラストに、少しでも勇気と希望を与えてもらいました。それも良かったと思います。

 例えば思ったのは、春樹を、正式に村上春樹と書いてみたりしたら、ぐぐっと、正確性あるいは、親近感が、読者側に伝わってくると思いました。

 私小説にせよ、よく言うではないですか? 人は、希望があるかぎり生きていける、とか。死という言葉が多々出てきますが、それは、我々みな同じです。その中で、私たちは生きているのです。
 
 では、また、次作期待しています。あ~それから、書く事も生きる事だと思います。以上です。

2017-04-17 18:16

124.96.75.205

童子繭

呼吸は大事だよね。いい呼吸をすると鬱が少し和らぐ

2017-04-17 18:18

210.142.99.201

偏差値55

青山りか子様感想ありがとうございます。

どちらかというと私小説の部類に近いと思います。
自分の半生をストーリーにした独白という感じでしょうか。
他人との関係も描いているので、一応小説になっているのかな。

>起承転結が、良く分かり、すっきりとした内容だったと思います。

言いっぱなしではなく結を感じていただけてよかったです。
あまり構成は意識していなかったのですが。
最後が前向きな感じで終えられたから結として成り立ったのかもしれません。

書くことも生きること、その通りですね。
書くと気持ちがすっきりするところがあります。

2017-04-17 19:40

219.167.46.78

偏差値55

童子繭様感想ありがとうございます。

気の乱れは危険ですね。
鬱を治すとしても、リラックスするだけでなく、緊張感は失ってはいけないと思います。
気も呼吸も秩序正しく一定であるべきです。
人間、常に緊張感を持って一秒一秒生きていないと落とし穴に気付かないものです。
明るく楽しく生きるとしても緊張感は失わないようにしたいと思います。

2017-04-17 19:44

219.167.46.78

佐藤

読ませていただきました。
モノローグに混じる鳥瞰のさじ加減もうまい塩梅だな、
と言うのは感じました。

ただ、あえて苦言を申し上げさせていただければ、
タイトルで偏差値55なりに、と書かれているのが厳しいです。
この作品の内容として、偏差値でなくEQ的な部分での
苦悩のウェートが大きいように思います。

その意味では前作を想起させるようなタイトルでは
大きく損をしているように感じました。
(ちなみに前作も読ませて頂いておりましたが、
 そちらではほぼ共感はできませんでした)

ご自身を眺めるその筆致は迫るものがあり、
素晴らしかったと思います。

ご自身との対話のツールとして、また小説を活用してくだされば、と思います。

2017-04-18 17:24

126.36.64.124

偏差値55

佐藤様感想ありがとうございます。

>モノローグに混じる鳥瞰のさじ加減もうまい塩梅だな

ありがとうございます。
ただ、自分ではそういう風に書いているのかな?
という感じであまり意識していなかったところでもあります。

>偏差値でなくEQ的な部分での
>苦悩のウェートが大きいように思います。

なるほど。
個人的には偏差値がもっと高かったら人生違ってたかもなんていう思いでいろんな言い訳しているところもありますから、
何でもかんでも偏差値とか大学での生活のせいにしがちでしたが、言われてみると、やっぱり自分の人間的な稚拙さから来る問題がほとんどでした。
そういうことに気付かせていただき、ありがとうございました。

>ご自身を眺めるその筆致は迫るものがあり、
>素晴らしかったと思います。

>ご自身との対話のツールとして、また小説を活用してくだされば、と思います。

そういう使い方をしてもいいのであれば、是非ツールとして使わせていただきたいです。
今後ともよろしくお願いいたします。

2017-04-18 22:56

118.19.13.28

大丘 忍

若い頃、特に中学、高校の思春期には色々な悩みが有ったと思います。皆はその
悩みを克服して歳を取って行くのですね。
後年、自分の人生をやり直すとすれば、もう一度同じ人生を辿りたいと思える人
は幸せです。
この作品で、現在の若い人たちの悩みがどんなものかの一端を知ることができま
した。偏差値を高める。良い大学に入る。良い職場に就職する。素敵な彼女(ま
たは彼)を見つけて結婚し、幸せな人生を送る。そして年老いて死ぬときは、あ
あ、良い人生だったなあと思う。
でもこんな人生を辿る人は少数でしょう。大なり小なり、この作品にあるような
悩みを持っているだろうと実感しました。
年取って、若いときにもっと頑張っておけばよかったのにと後悔しても遅い。現
在の若い人、この小説を参考にして頑張って悔いの無い人生を送ってください。
と、84歳の老人は叫びたいですね。

2017-04-19 11:40

221.242.58.46

偏差値55

大丘様感想ありがとうございます。

今思えば、若いころは可能性がたくさんありすぎたことが苦悩の原因だったのだと思います。
でも、自分の現実から乖離した夢は自分を病的に振る舞わせたのだと思います。
特別な存在になりたいという願望があまりにも強烈すぎて、自分の進む道を誤らせたのでしょう。

先日、司馬遼太郎先生の作品を半日くらいかけてじっくり読みました。
衝撃的なほどに素晴らしい内容で、ごはんで作家気取りだった自分は、彼の足元にも及ばないと思わされました。
書くのをいったん止めて、読書に取り組むことで自分は謙虚になれました。
何だか、自分が小説を書くということそれ自体が傲慢に思えました。
そして、全く書けない人も世の中にはいるのに、ある程度書けるというだけでも自分はすごいんじゃないかという意識におぼれていました。
ごはんに小説を投稿している時の自分は、どこかでプロ気取りになっていたと思います。
上手くないのは分かっていても、無意識に気取ってしまうのです。
そういうのはよくないなと思っていながらも、どうしてもやめられませんでした。
でも、先日、半日くらいかけてずっと読書をして、自分の100倍も才能のある作家の作品を素直に読みふけって、
ああ、自分はまだ書く段階ではないな、プロ作家の作品を1000冊くらい読んでもまだ足りない、一万冊読んでも足りるかどうか分からない、
でもとにかく、自分よりずっと優れた作家の作品を読んで、学ばなければならない段階なんだなと心から気付かされました。
死ぬまでそういう風に読み続けなければならない気がしました。
読むということは、謙虚になるということでもあると思いました。
書くということは傲慢になる可能性をはらんでいると思いました。
だから、本当に書くべきなのかどうなのか、しっかりと見極めた上で書くことも大事だと思いました。
プロ気分を味わいたいがために、ただやみくもに書くことや、かまってもらうことを目当てで書くのは本当にもうやめたいです。
今はただ優れたプロの作品を読み漁りたいです。
読み漁るだけで死んでもかまわないです。
書くべき機会が訪れずに一作も書かずに死んでもかまわないです。
今はとにかく優れた作品を読みたいです。

2017-04-19 13:56

118.19.13.28

七篠

 拝読しました。私小説って、まっすぐで好きですよ。
≫夢見ることだけは許されているかのように
 かつてはわたしも叶うはずもない夢に憧れた身ですので、この表現は的確に感じました。
 偏差値云々はあくまでライトノベルのタイトル的な役割を担っている程度に終わっているように思います。最弱、劣等生、とかと似たような。(わからない人にはわからない感覚だと思いますのであまりお気になさらず)
 宗教の素晴らしさを評する文章がありましたが、その説明がなんとも曖昧に感じられて釈然としませんでした。おそらくわたしが無宗教であることに起因するのでしょうが、その説明こそがまさに宗教に溺れる人のソレのようにしか見えず、少なからず憐れむ自分がいました。
 夢について感じたことは、劣等感にさいなまれていた自分を勇気づけるための概念に留まっているのだと思いました。みんなから注目されてちやほやされることこそが夢で、それに現実感を与えるために映画監督やプログラマを見出したのではないか、と思いました。だから無理だと思っては捨てて、新しい、まだ可能性や説得力のありそうな、夢に辿り着きうる理由付けを探しているのだと。
 生きる意味とやらはたぶん誰しも考えたことのあることだと思います。それだけに、その答えをあっさりと提示していしまうのは反感を買ってしまうのではないかと思いました。わたし自身も、生きる意味についての描写は「何言ってんだこいつ」的な感じ方しかできませんでした。ある意味、答えがないというのが答えですから。
 私小説ですし、決して嘘ではないのはわかっているのですが、高校生で対人恐怖症になった原因らしきものがまるで見当たらず、困惑してしまいました。性格というのはそうわかりやすく形成されていくものではないとわかっていますが、人に読ませる以上避けられないと思います。
 ストーカー男の関係性も正直理解できなかったです。明確に拒むことができないような雰囲気は感じられず、ストーカー男の存在を容認していながら文句だけは言って自分がダメになった元凶のようにしたてあげるその態度はあまりに自己中心的だなと。

 最後に愚痴はダメだ、エゴイストでナルシストな自分を変えよう、とありますが、文章を書く上で見出した真実なのか、自分の心境を物語のようにして描き出した際の結論なのか、でかなり変わってくるように感じます。前者であれば、この物語に漂う、他人に誘導されて歪められてしまった可哀そうな俺の人生、みたいな雰囲気もまだ納得がいきます。しかし、後者であるならば、前半を描いている時点で矛盾が生じています。文章には他人に対する責任転嫁が溢れ、どこまでも被害者精神を貫き通しており、とても「自分を変えよう」と本気で決意した人間の書く文章ではありません。確かに終盤に原因は自分にあるのだと言っていますが、それは所詮このような批判を避けるための上っ面だけの言い訳にしか過ぎないとわたしは思っています。過去の自分を憐れむ文章ではなく、過去の自分を労りさえしているこの文章ではとてもではないですが説得力に欠けています。

2017-04-23 16:51

121.83.56.198

偏差値55

七篠様、感想ありがとうございます。

>みんなから注目されてちやほやされることこそが夢で、それに現実感を与えるために映画監督やプログラマを見出したのではないか

これについてですが、映画監督やプログラマは、本当に個人的な好きが高じて目指した職業でした。
それについては決して無理だとは思っていなかったのです。
むしろ、成人になってから志した小説家とか音楽家とかの方がまず無理だろうと思っていながらも夢見たという意味で、意地になっていたというか、現実逃避的で、純粋ではない、つまり、自己の劣等感の裏返し的なところがあったと思います。
映画関係やプログラマはそれ関係の会社に勤務するという方法もありますが、小説家とか音楽家というのはいったいどうしたらなれるのか、自分でも分からないことばかりでした。
現実にどうしたらいいか分からないのに夢ばかり見ていたという点で、何か職業としてというよりは、自分を飾り立てるものとしてイメージしていたと思います。

>どこまでも被害者精神を貫き通しており、

本当に、ずっとその通りでした。
それにもっと早く気付ければよかったのになと思います。

>過去の自分を憐れむ文章ではなく、過去の自分を労りさえしているこの文章ではとてもではないですが説得力に欠けています。

文章を書く時、もっと自分に厳しくありたいと思います。

2017-04-29 13:43

118.19.13.28

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3,000字以内