作家でごはん!鍛練場

『夜のおと』

ラピス著

主人公の長い人生の一場面です。作中の曲は西野カナ。

ご意見ご感想をお待ちしています。

  
  会いたくて会いたくて震える
  君想うほど遠く感じて……

 さっき消したラジオの曲が頭の中でぐるぐる回っている。さびしい、むなしい。ひどい喪失感がして眠れない。寝返りを打って体位を換えるが、同じだ。独りぼっちの寒い夜、凍える身体を温めるものは水鳥の布団だけだった。
 暗い静寂を縫って何かが鳴いている。鳥だろうか、獣だろうか。どこか物悲しい、叫びにも似た鳴き声だった。苦しい、苦しい。闇の圧力が我が身を押し潰していく。ひしゃげた私はいつしか眠りに落ちていった。
 どのくらい経った頃だろう、眠りが浅くなったとき、ふと「起きなきゃ」と思った。何でだかわからない。ただ、起きなければならない、と思った。ベッドサイドの灯りに手を伸ばしてスイッチを押す。けれど灯りは点かない。ああ、私はまだ眠っているのだ。心が起きているが、身体が休んでいる。気合いを入れて、指に力をこめた。だめだ、指先も動かない。
 動いた、立ち上がった。いや、まだ寝ている――何度も繰り返す、起きた夢。そして――
 ぎいっ。ひそやかに玄関ドアの開く音がした。夜気が、澱んだ空気を切り裂いていく。
 私は、ようやく起き上がり、二階の自室を出て一階へ下りて行った。階段の先の玄関ドアが開いて、三和土に旅行鞄が放り出されている。
 母が帰って来たのだ。
 母は廊下の端の洗面所のあたりで、所在無げに座り込んでいた。要介護1の認知症で旅行に出るなどありえない。脊椎を圧迫骨折していて、歩いたのか?――考える間もなく私は母の股座を探った。湿っていて、その下の床が濡れている。
「またなの?」
 ヒステリックに叫ぶと母がびくりと肩をすくませた。びくびくしているからよけい、いたぶりたくなる。何かがぶちりと切れた。もう止まらない。
「いつもいつも世話を焼かせて」
「他人は子供の世話をしているのに、私は結婚もせずに母さんの世話」
「母さんのおかげで私の人生は狂った」
 人生すべての後悔や怒りを母にぶつけていく。育ててもらった恩など、忘れていた。母のせいではないのに、自分でも収まらない苛立ちをそのまま口にした。母は涙を流している。
「死んだほうがまし」
 と泣く母を、半分抱えながら風呂場へと引っ張って行った。
 母を裸にして、服を洗濯機に投げ入れた。尻についていた糞尿をトイレットペーパーで拭き取り、屑籠に入れる。タオルにお湯をふくませ、石鹸をつけて、汚れた母の身体を乱暴に洗った。縊れそうな首を、乳房の垂れた薄い胸を、細い腕を、背骨の浮き出た背中を、もろく折れそうな脚を。母は常日頃そうしていたように簀の子に座り、大人しく私に従っていた。
「どこへ行っていたの?」
 聞いても母は答えない。
「ずっと家にいてね」
 命令口調でお願いすると首をふる。
「行かなきゃいけない」
 ぼそりと母は言った。
「どこへ?」
 私が聞くと、母は彼方を指さした。呆けた母はどこか頼りなげで、あどけない。興奮が冷めた私は罪悪感でいっぱいになった。お湯で洗い流した後、タオルでやわらかく母の身体を拭く。寝間着を着せて母を座敷に座らせた。そうして母を抱きしめる。
「言い過ぎた。ごめんね」
 父が亡くなってから二十年、母ひとり子ひとりで暮らしてきた。今まで抱きしめたことはない。でも母の温もりは知っている。ひとりでは便所に行けなくなった母を、私が排泄の介助をして抱えていたから。
「どこへも行かないでね」
 私は抱きしめた腕をゆるめ、母を見た。
「行かなきゃ」
 と母は、ぼんやりと虚空をながめている。
 同じように何もない空間を仰いだせつなだった。私は気づいてしまった。母が死んでいたことを。これは夢なのだと。 母は痛めた胃のせいで血尿を流していた。血液さらさらの薬を飲んでいたので血が止まらずに輸血するはめになって、でもその前に検査で胃カメラを入れられたら心臓が止まって死んでしまった。
 私はまだ眠っていて、夢を見ているのだ。
 気づいた途端に、私の腕から母が消えていく。
「行かないで」
 私は夢の中で声のかぎりに、叫んだ。

  会いたくて会いたくて震える
  君想うほど遠く感じて

 眠る前に聞いた曲が脳裏に蘇る。若向けの切ない失恋の歌が、私には母への鎮魂歌に聞こえた。

  会いたいって願っても会えない
  強く想うほど辛くなって……

 母が死んでから四十九日になる。
 ひとり、とり残された私は今度こそほんとうにベッドから起きて、しらじらと明け行く朝の気配を感じていた。


     

夜のおと ©ラピス

執筆の狙い

主人公の長い人生の一場面です。作中の曲は西野カナ。

ご意見ご感想をお待ちしています。

ラピス

160.249.72.217

感想と意見

ちょび

初っ端、西野カナの名曲の引用から始まって興味をもちました。
古く小さな木造建築の様子がモノクロで脳裏に浮かぶ文章でした。
雰囲気はとても好きでしたが、後半に突然置いてけぼりをくらいました。笑
死んでいることを読者に説明するための文章がとても急なものにみえました。
最後もまた西野カナで締める。なるほど、ふうむ。読後にもう一度読見返したくなる作品でした。

2017-04-15 20:58

107.167.112.147

ラピス

ちょび様
雰囲気が好きだとの事、嬉しく思います。西野カナのこの曲は何度も聞いて、カラオケでも歌うのですが、意外と難しいです。
夜、眠れなかったり、起きる夢を見たりは経験ある人いるんじゃないかなと考えて、この作品を書きました。
母の死に気づくあたりが急でしたか? うーん、夢で夢だと気づくのって現実でも唐突だから、私が上手く処理できなかったみたいですね。
再考します。

ありがとうございました。

2017-04-16 01:54

49.104.35.180

あでゅー

あなたには珍しく、なにか言葉の精査を行わず出してしまった作品のようです。
でも、悲しみは伝わってきました。ありがとうございました。

2017-04-16 13:35

106.161.143.190

岩作栄輔

拝読いたしました。
西野カナを聴かないので歌詞との連想がピンとこないのですが、西野カナを使わないほうが作品のイメージは上昇するのではないか、とまず最初に思いました。
西野カナには軽薄で都合のいい、大衆のそのまた若年に迎合するようなスタイルをイメージするからです。
偏見ですので、あまり気になさらないで下さい。思ったまでの事です。

母が死んでいる、と気付いた場面はもう少し手をくわえたほうがいいのではないでしょうか。流れの中にあるようで、劇的さがあるべきではと思いました。

『乳房の垂れた薄い胸を、細い腕を、背骨の浮き出た背中を、もろく折れそうな』
・・・という部分は、乳房の垂れた、などと血肉の通うリアルな描写がよいかんじなのに、もろく折れそうな、で台無しになっていると思いました。それこそ西野が歌っていそうな耳障りの良い飾り言葉は、ありていで作品を劣化されると思います。

2017-04-16 15:07

118.241.242.109

ラピス

あでゅー様

勢いで出してしまったかも知れません。それと、久しぶりに書いたので前より下手になったかも。鍛練は大事ですね。
書かずにいられなかったテーマです。
悲しみは伝わったとのこと、ほっとしました。

ありがとうございました。

2017-04-17 19:32

49.104.35.180

藤光

読ませていただきました。

ミスマッチですね。

あえてのミスマッチなのでしょうか。

ラピスさんには、思い入れのある曲とシチュエーションなのでしょうか。――だとすれば、そうした思い入れの埒外にいる読者は、置いてけぼりを食らった感じです。

2017-04-17 19:36

182.251.255.50

ラピス

岩作栄輔様

西野カナの歌は省こうかなとも投稿前に迷いました。なくても補正したらいけそうだったので。
が、あの歌を聞いてこの話を思いついたので、生かしました。
公募に応募などしたら、著作権で面倒くさいことになるでしょうね。ごはんサイトの為に書いた作品です。

母が死んでいると気づいた場面は確かに手を入れるべきです。どう書けば良かったのか、研究します。

文章については再考します。耳ざわりの良い言葉だと血肉を与えられないのですね。

ありがとうございました。

2017-04-17 19:45

49.104.35.180

佐藤

読ませていただきました。

何かしらの折に突然、何気なく接していたテキストが腑に落ちる。
そんな瞬間は少なからずあるように思います。
主人公の得た実感は、自分としても共感できるものがあります。
その意味では、西野カナの引用は、自分としてははっとさせられるものがありました。


ただ自分としては、展開と言うより、
表現に対する違和感でうまく入り込めませんでした。
特に気になった二点を挙げると、

「体位を換える」
 完全に介護者が要介護者に向けて用いる語であるよう思います。
 主人公が自らの行為として用いていることに違和感があります。

「夜気が、澱んだ空気を切り裂いていく。」
 表現そのものとしては秀逸だと思いました。
 ですが、二階と言う、玄関から遠く隔たった場所にいる
 主人公の実感としてはどうだろう、と。

 使い方次第では夢うつつになっている主人公の認識、感覚の混乱を
 描き出している、と言うようにも機能させられそうですが、
 そのためには、その後の介助描写でも混乱した感覚を盛り込む必要がありそうな。


エピソードとしては、介護ストレス、およびそこからの解放にまつわる
「原始的否認」を描いたもの、として読めるようにも思いました。
(すみません、あやふやな記憶だったので Wikipedia 頼りに語句を用いています)
これが、西野カナの歌によって惹起される。
大まかな構造は興味深いものだ、と思います。

そこの描き方について、現状だと読者に丸投げされてしまっているのかな、と。
ブラッシュアップできれば、多くの読者に響くのではないでしょうか。

2017-04-18 18:23

126.36.64.124

ラピス

藤光様

ミスマッチですか。そう言われるとそんな気がしないでもないです。歌に思い入れは特にありません。
内容を読んでも何も感じませんでしたか? 拙い私の書き方が悪いとはいえ、少し寂しいですね。私にとって介護は身近な問題ですので。

ありがとうございました。

2017-04-18 21:05

49.104.34.211

ラピス

佐藤様

ほぼ仰る通りですね。なぜ推敲の時に気づけなかったのか、、、見方が甘いからですね。
本作、不評みたいで凹んでます。これ実話なので、余計に。主人公の苦しみを描けなかったんだなあと。

温かい感想をありがとうございました。

2017-04-19 21:25

49.104.37.121

ドリーマー

こんにちは。作品、拝読しました。

『会いたくて会いたくて』はモロ失恋ソングなので、分からないではないけれど、ちょっと違うなぁという感じでした。
失恋の痛みは一過性のものですが、自分が介護(看病)していた相手を亡くした痛みは、一生ついて回るからです。もちろん月日と共に痛みは薄れていきますが、決して忘れることはありません。特に在宅介護の場合は、「あの時、ああすれば良かった」とか「私がもっと気を付けていれば」と、思い出すたびに後悔します。そのくせ介護していた当時の夢を見ると、目覚めた時に「ああ、夢だったのか」とホッとするのです。

でも母親が亡くなってまだ四十九日目ですから、主人公の痛みは薄れていないのでしょうね。在宅介護をしていると、ちょっとした物音で目覚めるようになりますから、主人公はまだその習慣が抜けていないのでしょう。でも、もう起きなくてもいいから、目覚める代わりに夢の中で母親の世話をしたのでしょうか。母親に徘徊の症状が現れた頃のことと、脊椎を圧迫骨折して歩けなくなった頃のことが、ごちゃ混ぜになって出てきます。おそらく主人公にとって一番辛かった頃のことが、夢に出てきたのでしょうね。
そう思うと、何とも切ない気分になります。
けれど一周忌を迎える頃には、「ああ、夢だったのか」とホッとできるようになるのではないでしょうか。

小説として読むと、もう少し文章を精査した方がいいのでは、と思わなくもないですが、自分の介護経験を振り返ると共感する部分も多く、少し粗さの残る感情のままに書き殴ったような文章が、いい意味で主人公の気持ちを表しているように思いました。

自分のことを棚に上げて勝手なことを書きましたが、少しでも参考になれば幸いです。
それでは、失礼しました。

2017-04-20 13:16

116.67.216.94

大丘 忍

西野カナという歌手もその歌も知りませんので、それを引用した効果は私には全くありませんでした。

ここに描かれている出来事は夢なのですね。夢を使う場合にはよほどうまく使わないと「なんだ、夢オチか」と失望
されることがあります。ただ、認知症の母の介護のために結婚もしなかった娘の絶望感は想像できますので、それを
もっとうまく描いたら良かったと思います。
このテーマは単なる夢オチにするには重いテーマですね。工夫次第では良い作品になると思います。

2017-04-20 19:15

115.177.113.158

ラピス

ドリーマー様

失恋が一過性のものということは、今は幸せなのですね。私には永遠ともいえるテーマです。(笑)
介護経験がおありなだけあって、拙い私の作品からも色々と汲み取って頂き、感謝します。
文章の精査ですか。日本語として通じればいいなんて思ってました。イケマセンね。

ありがとうございました。

2017-04-22 08:17

49.104.37.121

ラピス

大丘忍様

大丘様の作品は度々目にしております。実体験を基にしたものばかりで勉強になります。
歌は概ね不評ですね。改稿の際には削るかも知れません。
認知症の方やその家族に接する機会もあるので、なんとか彼らの気持ちを代弁したいのですが、未熟なもので、なかなか難しいです。

ありがとうございました。

2017-04-22 08:32

49.104.37.121

アトム

拝読しました。
後悔と淋しさが夢を見させるという話しですね。
しんみりとした余韻を読者に与えるというのも作意のひとつと思われますが、夢というおぼろな感覚を用いたことで、その雰囲気は作られていると思いました。さて、この淋しさや後悔の土台に健常だったころの母がどの程度沁み込んでいるのか、その捉えようによって内容は変わってくると思うのですが如何ですか? 自分の時間や自由を奪われる苛立ち、煩わしさや悍ましさだけを残していたなら後悔や淋しさの色形が違ってきますね。ーーコントラストとかその辺にも目を向けて書かれると・・・と思いました。

そして、夢を使うならもう一工夫あってもいいのではないかと。ーー健常だったころの母は夢に出て来ないのかな? 夢ですから脈絡なく二人の母を登場させるなどして読者を惑乱させるのも面白いのでは、例えば母二人と自分の三人が同時に交わり会話をするとかです。不可解の答えは後ということで構成効果をねらう手もありますね。

・文章について

>さびしい、むなしい。ひどい喪失感がして眠れない。
・ひどい喪失感にまとわりつかれ〉とかならしっくりするのですが、喪失感が<して>には違和感を覚えました。ここは色々な思いが錯綜し、悶々として眠れない様子にとどめる方が良いと思いますね。書き出しでテーマに付随する喪失感をもってくるのは早いと思います。 それに作者は喪失感という言葉を使わずーー読者が、これは喪失感のせいと想うような文章表現(描写)を心掛けるべきです。伝わり方が違ってくるのではないでしょうか。

>夜気が、澱んだ空気を切り裂いていく。
・夜気とは夜のけはいや夜の空気という意味ですね。二階に居たのなら、・・・音もしくは匂いそれとも振動にした方が良かったのでは。
空気を切り裂くも陳腐だし、澱んだ空気も手垢がついています。捨てましょうーーラピスさんの言葉を見つけてください。

ありがとうございました。

2017-04-23 17:56

126.28.168.248

ラピス

アトム様

健常な頃の母親、確かに主人公の気持ちの中にありますね。それも入れ込むべきだったかも知れません。
文章表現については、あまり悩まず時間をとらず、感情で書いたので、芳しくない結果になったのでしょうね。
次回はもう少し、時間をかけたいと思います。

ありがとうございました。

2017-04-24 20:35

49.104.36.139

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