作家でごはん!鍛練場

『対岸の街 』

中田 新著

現実から逃げ出したくて書きました。

1/5
 
 その夜、私はいつの間にか見知らぬ街に迷い込んでしまっていた。
 それは色とりどりの光に照らされた冷たい都市であった。道路の両側にそびえる高層ビルの窓には総じてまばゆい明りが灯り、幾重にも繰り出される光の筋が、深い夜の闇をいとも簡単に貫いていた。立並ぶ街路樹や、石敷きの歩道や、夜中まで営業を続ける瀟洒な店の看板が、それらの光を反射して、闇の中に浮かび上がる。私はそれを次から次へと追い越して、否応なく街の奥深くへと吸い込まれていく。
 雨のにおいが残る通りを歩いている間、私は茫然とあたりを見渡していた。この街では線路を行く列車も、道路を行く車の群れも、街灯も街路樹も、全てが神々しい光と重苦しい闇の中にある。移動するものは、目まぐるしく光と闇の間を行き交うことになる。先ほどまで光をその一身に浴びていたものが、数分後にはもう冷たい闇の中にいる。通り過ぎる人々は、まるでこの都市をさまよう亡霊のようである。彼らは光の中に突如として現れ、そして闇の向こうへ去って行く。彼らもまたこの街に迷い込んだ人間のうちの一人なのかもしれない。そして彼らから見れば、私も彼らと同じような亡霊のうちの一人なのかもしれない。そう思うと、心の奥底にはわずかな恐怖が湧いてくる。果たしてもとの場所に帰ることはできるのだろうかと、私はそう考えずにはいられなかった。
 私は絶えず、どうしてこの街に迷い込んでしまったのかと、そのことばかりを考えていた。私に残された最後の記憶は、自宅の書斎の記憶であった。私はそのとき、窓の外に広がる夜の海を見ながら、小説を書いていた。机の上に原稿用紙を並べ、そこにいくつかの文章を書きなぐっては、その原稿用紙を払い飛ばして、次の原稿用紙に文章を書いていたのである。前日からあまり寝ていなかったせいで、思考は著しい停滞の中にあった。自分の書いた文章の良し悪しもよく分からず、どれだけ書いても満足は得られなかった。しかし、もうどうしようもないと分かっていても、易々と眠るわけにもいかなかった。小説を書くことのできる時間はあまりにも限られていたからである。そして真夜中は、その限られた時間の中でも最も大切な時間の内の一つであった。
 私がそのとき書いていたのは、紛れもなく、巨大な都市を舞台にした小説であった。見知らぬ街を歩きながら、私はその小説について考えていた。何度も書き直した小説の断片は頭の中をぐるぐると回り、もはやその混沌に収拾をつけることは不可能であるようにさえ思えた。飛び散った破片には破れた写真のように何か風景の一部が映り込み、それがかろうじて小説の一場面を私に思い起こさせた。私は絶えずその断片と、今目の前に広がる都市の風景を見比べていた。私にはそれらが無関係のものであるとはどうにも思えなかった。歩けば歩くほど、私はその記憶の中に吸い込まれていく。陳腐な想像ばかりが脳裏に浮かび、そしてまた消えて行く。私はそれらを振り払うようにして、歩道の上を歩き続けた。




 私が小説を書き始めたのは、昨年の夏のことである。どうして小説書くことにしたのか、その理由の明確なところは自分でもよくわからない。しかし、その契機が一枚の絵にあることは疑いようがなかった。その年の夏に、私は郊外のギャラリーを訪れた。それは年老いた女がオーナーをつとめる小さなギャラリーで、その夏には市井の画家の絵を集めた展覧会が開かれていた。ギャラリーは郊外の荒れ果てた草地の中にぽつんと建っている。建物は灰色のいびつな形をしており、さながら草地に降った隕石をそのままくりぬいて作ったかのようである。夏の休暇の間、時間を持て余した私は、毎日のようにその草地を通り過ぎて、異世界のようなその建物の中へと足を踏み入れていた。私はその時間が好きだった。夏の風に吹かれて草地を歩く時間も、薄暗くひんやりとしたそのギャラリーの中に立っている時間も、私にとってはひどく貴重なものであった。
 ギャラリーの中央に立つと、周囲の壁に横一列に並ぶ絵に取り囲まれる格好になる。私は誰もいないギャラリーを独り占めして、心行くまでそれらの絵を眺めた。その中の一枚に、私の心を強くとらえたものがあった。それは青色の濃淡だけで描かれたプロペラ飛行機の油絵であった。金色の額縁の中で、飛行機は紺色の夜空の中を静かに飛び続けている。一体どのような人物がこの絵を描いたのだろうかと、私はその絵を見るたびに想像を巡らせた。男か女か、どんな職業に就いているのか、年齢はいくつか、どんな髪形をしているのか。ギャラリーのオーナーに会ったときには、絵の作者について彼女に何度も尋ねたものである。しかし彼女は私に何も教えてはくれなかった。作者について教えられることは何もない。丸フレームの老眼鏡を押し上げながら、彼女はいつもその言葉を繰り返した。
「すまないけれど、言えないものは言えないんだよ。悪いねえ」
 ある日彼女は私にそう言った。彼女の声はしわがれて、その声の震えは、手でつかみ取れそうなほどに粗野なものであった。
「あんたにはもう言ったかね。私はその絵については誰にも話さないと心に決めているんだよ。作者のことはもちろん、その絵がどこで描かれたものかも、私がどこでその絵を見つけたかもね。例えあんたが何度このギャラリーに通って来ようとも、私は気を変えるつもりはないからね」
 彼女は丸眼鏡を押し上げて、ぐしゃりとした笑みをその顔に浮かべた。
「どうして何も教えてくれないのですか?」
 私は尋ねた。彼女は笑みを浮かべたまま、こちらをまじまじと見つめている。
「嫌な思い出があるんだよ。吐き気がするほど嫌な思い出がね」
 彼女は嘔吐するふりをして、それからまた楽しそうに笑う。
「いいかい。どんなに信用できる人間が相手だって、自分が本当に大切だと思うものについて話してはいけないよ。ありふれ警句だと思うかもしれないけどね、そういうものってのは心の奥底に鍵をかけて、その中にしまい込んでおかなくちゃいけない。だから私はこの絵についてなにも語らないのさ。もし私が何か言えるとしたら、それは私がこの絵が好きだということくらいのものだね。だから私はこの絵を一番いい場所に飾ったんだよ。ただね、なぜこの絵が素晴らしいのかは、私にも正直なところよく分からない。時折、どうしようもなくこの絵が憎たらしく思えることもあるし、そうかと思うとその翌日には何かとてつもなく素晴らしい絵であるようにも思えてくる。本当に不思議な絵だと思うよ。でもね、この絵が今の私にとって一番大切なものであることだけは間違いがない。私が望むのはね、あんたのようにここにやって来た客たちが、この絵について何か語ってくれるのを聞くことだよ。あんたがこの絵の素晴らしさについて語ってくれるなら、私はいくらでもそれを聞こう。それはきっと素晴らしい時間になるだろうね。しかし、私の方からこの絵について言うことは何もないよ。もし何か知りたければ、自分の力で何とかしておくれ。まあおそらく何もわかりやしないだろうがね。」
 彼女は皺だらけの顔で再び私に笑いかけ、それから暗闇の向こうへ去って行く。私はその場に立ち尽くしたまま、ギャラリーの奥へ消えて行くその後姿を見送ることになる。
そのようにして、私は夏の休暇の間に何度もギャラリーを訪れた。絵に想像を巡らせ、そしてその魅力について考えた。私はそうせずにはいられなかった。ギャラリーに通ってその絵を眺めることだけが、私にとって必要なことの全てであった。
 そのような日々を繰り返しているうちに、私はいつの間にか小説を書くようになっていた。
 私は毎夜、その絵の作者を主人公とする小説を書いた。小説の世界にできるだけ深く潜り込み、現実から遠く離れた場所へ自分自身を封じ込めた。小説の世界はいつでも新しい発見に満ちていて、それがなんとも言えず楽しかった。たとえ稚拙な文章が積み上がっていくだけだとしても、私はそれで一向にかまわなかった。私は自分が書いた文章を読み返すこともなく、ただ筆が進む方へ文章を書き連ねていった。もちろん、休暇の間に小説を書き上げることなど到底できるはずもなかった。私はしかるべきときに元の世界に引き戻されて、自分自身の現実と向き合わされることになった。朝起きて仕事へ向かうとき、心は決まってどんよりと濁っていた。そんなとき、私はいつもあの絵について考えたものである。思うに、私はいつかあの飛行機が自分のことを迎えに来てくれるのだと本気で信じていたのではあるまいか。もしあの飛行機に乗ってどこか遠くへ飛んでいくことができたら。そのような夢想だけが、私の空虚な日々には漂っていたのかもしれない。



 ポケットの中の携帯電話が鳴ったとき、私ははっとして歩みを止めた。私はもう歩き疲れてしまっていた。見知らぬ街は相変わらず夜の中で輝き続け、冷たい空気の向こうでその光が幾重にも重なり合って見えるのだった。
「もしもし」
 電話の向こうからは、湿っぽく、絡み付いてくるような不気味な声が聞こえてくる。
「今どこにいるんです? 今日が最後だというのに、こっちに顔も出さないつもりですか?」
 不思議なことに、私はその声をどこかで聞いたことがあるような気がした。どこで会ったのかはまるで思い出せないのだが、その声の記憶は、また一段と私をこの街の奥深くに誘い込んでいくように思われる。
「もしもし、聞いてますか? こっちも一晩中は待てませんよ。向こうの都合も考えないといけないことくらいあなたも分かってるでしょう? あいつがやってきて、あなたがいないと知ったら、さすがに何を言うかわかりません」
 私はしばらく彼の言葉について考えをめぐらせた。当然ながら、私には何の心当たりもなく、答えるべき言葉も見当たらない。その間にも、男は絶えずこちらに言葉を投げかけてくる。
「すまないけど、迎えに来てくれないかな?」
 私は彼の言葉を遮るために、思いついた言葉を口にした。目の前にそびえるビルの名前をゆっくりと読み上げ、その前に立っているからと彼に言う。この街にやって来て最初に口にした言葉は、自分でも驚くほどに滑らかであった。
「なんだ、ずいぶん近くにいるじゃないですか。まあいいや。どうせ今夜は暇だし、車でさっと迎えに行きますよ。頼むからそこを動かないでくださいよ」
 私が短く返事をすると、そこで電話は切れてしまった。
 私は歩道のすみのベンチに腰を下ろし、深いため息をついた。一度に息を吐いてしまうと、頭が少し痛んで、少しずつ脳が縮んでいくような感じがした。それはこれまでに幾度となく経験した感覚だった。真夜中に物語の続きを考えているとき、私はいつもこのような感覚に襲われた。脳の働きはみるみる鈍くなり、発想の新鮮さは失われ、思考は散り散りになっていく。時間だけが無為の内に過ぎ去り、後には何も残らない。
 私はそのとき、現実の中に取り残してきた日々について考えていた。思い出されるのは、真夜中に鳴り響く携帯電話の音や、一人取り残されたオフィスに漂う不安や、朝目覚めたときの気怠さばかりであった。そのような日々の中で、小説は遅々として進まなかった。物語は支離滅裂になり、いくつもの断片がいびつに積み上げられていった。それはこの街を彷徨っている自分とあまりにもよく似ていた。私は自らが作り出した物語をまるで思い出すことができなかった。どこへ行けばいいのかもわからぬまま、私は失われた記憶の中を闇雲に歩き続けているようだった。

Ⅰ/Ⅴ

 雑居ビルの一室では、一人の男が私のことを待っていた。待ち合わせの時間はとうに過ぎていたのだが、私は平静を装った。私が部屋に入ると男は立ち上がり、私に握手を求めてきた。
「ようこそ。心配していたんですよ」
 男は穏やかな笑みを浮かべてそう言った。男は細身の体に合った濃紺のシャツを着て、茶色い革の短靴を履いていた。余分な肉のない鋭い顔をしていて、それでいて相手に対して威圧感を与えるようなところは微塵も感じられない。その外見は、職業的に洗練されたそれのように見える。黒く短いその頭髪の一本一本にまで、隙のない意識が行き届いているかのようであった。
男はソファに腰を下ろし、大きなため息をついた。狭い部屋は、事務所を兼ねた彼の生活の拠点であるようだった。テレビと冷蔵庫と背の低いテーブルがあり、我々はテーブルを挟んでそれぞれ一人掛けのソファに座った。部屋は異常なほどに青色で満たされていた。家具の全ては丹念に青に塗られており、床も壁も、玄関のドアも、そのすべてが濃淡の異なる青色に染められている。テーブルの上には小さな照明がぶら下がっている。青色と金色のモザイクガラスを組み合わせたシェードが電球を覆っており、その光が海の底のような部屋を慎ましく照らした。
「途中で誰にも声をかけられませんでしたか?」
 男はコーヒーをマグカップに注ぎ、それを私に差し出してくる。
「ええ」
 私はそれを受け取り、自分の手元へと引き寄せる。
「最近はどうも取締りが厳しくなっているようです。用心するに越したことはない」
 男は座ったまま青いカーテンを開け、窓の外を何気なく眺める。彼の口元にはわずかな笑みが浮かび、そしてそれはすぐに消えてしまう。彼は次に発する言葉を考えているようである。男の次の言葉を待つ間、部屋に漂う時間は次第に重みを増していくようにさえ感じられた。
 その無限のような時間の中で、私は部屋の中をゆっくりと見回していた。そしてようやくこの場所にまでたどり着くことができたのだと、あらためて感慨の念に打たれた。
この部屋にたどり着くことができたのは、我々にとって全くの幸運であった。本来この部屋に来るはずだった女を見つけ出したのは、つい数時間前のことである。女は突然の雨の中、傘も差さずに通りを駆けていた。ベージュのトレンチコートは雨を吸い込み、サングラスには雨滴が霧のようにかかっていた。女は時間に遅れていた。職場の近くで飛び乗ったタクシーが渋滞に巻き込まれたせいだという。それで仕方なくタクシーを降りて歩道を走っていたのである。のろのろと蠢く人影を追い抜いて、女はこの部屋を目指していた。この部屋にたどり着くことさえできれば、海を渡ってこの憂鬱な街を抜け出すことができる。女はそのことだけを信じていた。横断歩道の上で部下がその肩に手をかけたとき、女は部下には目もくれず、目前に迫っていたこのビルの薄明かりを悲しげな目で見上げていたという。
 女のショルダーバッグから偽造の旅券が発見されたとき、我々はすぐさまその女に成り代わってこの目の前の男と接触することを決断した。接触の役目は私が担うことになった。簡易な変装だけで女に成りすますのは、あまりに粗野な計画であるようにも思えた。しかし、我々はこの機を逃すわけにはいかなかった。雑居ビルの周囲を仲間が取り囲み、私は悠然と非常階段を上った。これは名誉な大役であった。階段を上って行く間、私は長く続いた案件に自分が終止符を打つのだと、絶えず自分に言い聞かせていた。
 しばらくの後、男は青色の光の下で、自分のこれまでの仕事について滔々と語り始めた。それはまるで懺悔のようでもあった。私のポケットに隠されたレコーダーが、その全てを記録した。今にして思えば、それは初対面の人間に対する言動としては、あまりにも不用心なものであった。しかし、その時の私はそんなことはまるで気にも留めなかった。むしろ時間を経るごとに積み重なっていく言葉の数々に狼狽し、同時に興奮もしていた。ようやくこれで全てが終わるのだという予感がして、その昂揚感を抑えるのに必死であった。
「これを最後の仕事にするつもりなのです」
 長い独白の後で、男は神妙そうな顔つきでそう言った。
「率直に言って、我々は危ない橋を渡りすぎました。いくつもの無謀な計画を練って、それを強引に実行してきたのです。依頼人は毎回切実な思いを抱えている。それを思うと、多少の危険はあっても、計画に手を付けないわけにはいきませんでした。計画には多大な金が必要でした。糸目もつけずに、関係者にはあるだけの金を与えました。旅券の偽造業者や空港の関係者、それから他人名義の身分証や携帯電話の調達、無数の美術関係者たち。数えればきりがありません。もはや我々が扱える限度の額はとうに過ぎている。彼らは今では金の亡者となって、我々に残った最後の金を貪っているところです。たちが悪いことに、彼らの脅しも日がたつにつれて過激になりつつある。もはや我々は終わりです。仲間ももう何人も捕まりました。元々、我々は強固な組織とは言いがたい。寄せ集めの集団なのです。遅かれ早かれ、この場所にも捜査の手が及ぶことになる。私は今回あなた方と一緒に街を出るつもりなのです。非常に残念ではありますが、私の役目はこれで終わりです。対岸の街へは明日の夜に出発しましょう。飛行機のチケットをお持ちします」
 男はそう言って立ち上がると、部屋の奥にある寝室と思しき部屋へ入っていった。
彼を待つ間、彼が口にした対岸の街という言葉が何度も脳裏に思い返された。それは彼にとっても我々にとっても特別な街であった。私がこの部屋にたどり着いたのは、まさにその街のためであり、私の意識の中には常にその街の存在が漂っていたからである。
 二つの街は、海岸から互いにその突端を視認できるような距離にある。二つの街の間では、毎日のように貿易船が行き交い、コンテナを積み上げた巨大なタンカーが頻繁に港に押し寄せる。港では潮風で錆びついたクレーンが必死に荷物の積み下ろしを行い、トレーラーがコンテナを山のように積み上げる。その間に船尾を開いた貨物船には次々と自動車が飲み込まれていく。空港ではプロペラ機が離発着を繰り返し、物資や人を毎日のように運び続けている。飛行機は海上に浮かぶコンテナ船を見下ろし、そして瞬く間に空の彼方に消えて行く。二つの都市の間で取り交わされるやり取りは、いつ果てるとも知れず、永遠に繰り返される。
 それら取引の中には、当然のごとく不純な取引が混ざっている。種々の禁制品の密輸は日常茶飯事であり、薬物や武器の密輸事例が頻繁に報告された。コンテナの底、自動車の裏側、中身がくり抜かれた分厚い辞典、偽装された玩具、スカートの裏側の無数のポケット。無限の手口は摘発のたびに報道された。誰もがその手口の稚拙さを嘲笑い、逮捕された者は不気味に否認を繰り返した。この都市に持ち込まれる不純物の数は増え続ける一方である。しかしその一方で、我々の街から失われていくものもあった。それは、年々その数を増していく密航者である。一般人の渡航は厳しく制限されているにもかかわらず、彼らはどういうわけか、実に容易く対岸の街へとたどり着いた。手口は明快であった。偽造の旅券と渡航許可証を携えて、空港の搭乗ゲートを通過するのである。その手口からして、彼らの密航を手助けする人間がこの街に存在しているのは明らかであった。対岸の街からの要請に応える形で、我々の街は密航者の取締りを強化した。その中で亡霊のごとく浮かび上がってきたのが、先ほどまで私の目の前に座っていた男であった。
 男は一向に寝室から出てこなかった。不穏な気配が青い部屋の中に充満し、私はそれに耐えきれなかった。青く塗られた壁に、金色の額縁に入れられた絵が飾られているのが見えた。それは青色の油絵具で描かれたプロペラ飛行機の絵であった。その絵を眺めていると、私は心が過去へと引きずり戻されていくような不思議な感覚に捉われた。遠い昔に感じた思いが、ゆっくりと立ち上って来るのである。この部屋は青の放つ憂鬱で満たされている。そしてその憂鬱の正体は、おそらくは過去の街への郷愁である。私は遠い過去の記憶を思い返していた。どうしてこんなときにそんな記憶がよみがえってくるのか、自分でもよく分からなかった。考えるべきことはほかにいくらでもあるはずだった。しかし私の過去を呼び覚ます何かが、間違いなくこの部屋には潜んでいた。
 私は立ち上がり、ゆっくりと寝室のドアを開けた。部屋は薄暗く、そこにはまるで人の気配がしなかった。部屋の奥でカーテンが風にはためいている音が聞こえる。吹き込む風の音だけが、部屋の中に虚しく響いている。
 寝室の電気をつけると、ベッドには男が横たわっていた。
 手には消音機つきの拳銃が握られており、部屋にはわずかに火薬のにおいが漂っていた。弾丸はその心臓を貫き、開かれた窓の外へと飛んでいったようである。
一体どこで気づかれてしまったのか。私は眠ったように安らかに死んでいる男の顔を見ながら、あれこれと思案した。しかし答えなど出るはずもなかった。時間は刻々と流れていく。そしてその間も、部屋に漂う青色が、私の心に少しずつ染み込んでいった。 

2/5

 迎えに来た男は、黒に塗られた小型車から降りると、反対側に回ってわざわざ助手席のドアを開けてくれた。私がシートに腰を下ろすと、車は静かに走り始めた。車内では、赤く光るスピードメーターが残光を引きずってわずかに揺れていた。その光に目が慣れるまでにはいくらか時間がかかりそうだった。
「こんな時間に街をうろつくなんて、やけに感傷的じゃないですか」
 男は冷笑的な笑みをその顔に浮かべた。男の真っ直ぐな髪の毛は肩のあたりまで伸びて、そこには随分とたくさんの白髪が混じっていた。鼈甲縁の丸眼鏡をかけているせいで、その素顔はどうにも判然としない。彼の眼鏡はスピードメーターの赤を映して、暗い車内で鈍く輝いていた。
「さっき向こうから電話があったんですよ」男は言う。「女が遅れているみたいです。まあ俺は鼻からあの女は信用していなかったんですがね。でも向こうも仕事だから、もう少し待ってみると言っています。こっちへの到着も随分遅れるらしいですよ」
 車は閑散とした夜中の道路を悠然と進む。
「しかし、問題はないんだろう?」
 またしても言葉は自然に脳裏に浮かぶ。
「あの男の言うことですから、おそらく問題はないのでしょう。でもね、近頃の取締りはかなりのものですよ。女が無事だなんて、誰にも言えるはずがありません」
 男は信号で車が止まると、鼈甲縁の眼鏡を手にとって、レンズを丁寧に磨いた。私にはその鼈甲縁の眼鏡がどうにも気にかかった。私はやはりどこかで彼に会ったことがあるような気がしてならなかった。そしてその記憶は、その鼈甲縁の眼鏡によって、どこからともなく喚起されてくるような気がしたのである。
「気持ちはよく分かりますよ」彼は眼鏡をかけなおし、再びアクセルを踏み込む。「私もこう見えて、この街になんかこれっぽちも満足しちゃいません。この街の生活はあんまりにも味気ないし、砂漠を歩いて行くみたいに虚しいものだと思っています」
「そうかい?」
「ええ、でもね、あんたみたいにこの街を出て行こうとはどうしても思えないんです。どうしてかはわからないけれど、一度この街で暮らしてしまえば、その考えを実行に移すのはそんなに簡単じゃありません。もちろん最初のうちは、心の奥にそんな気持ちもありました。でもいつの間にか、そんなものは欠片もなくなってしまった。どうしてだろうと考えてみることもあります。うまくは言えないけど、この街の光に魂を絡めとられてしまったような感じです。この街はそういうことが実にうまいような気がしますね。分かりますか? 少しずつ人間からその大事な部分だけを丁寧に吸い取っていくわけです」
「わかるような気がするよ」
 運転手はハンドルを握りしめたまま深くうなずく。
「だから、今まで俺たちがやって来たことには少なからず意味があるような気がするんですよ。俺もあんたも対岸からやって来て、こうして同じ目に遭ってるわけでしょう? それに、対岸からこの街に渡って来たほかの連中だって、大概はきっと同じような目に遭ってるはずなんです。あんたは気を悪くするかもしれないけど、俺らも彼らも、結局は対岸の街の生活に耐えきれずに、光に吸い寄せられてやって来た虫みたいなものです。でもね、一寸の虫にも五分の魂じゃないけど、絡めとられる前になんとかしなきゃいけないものは必ずあると思うんです。まあ、こんな暑苦しい話、あんたは聞きたくもないでしょうね」
 男はばつが悪そうにアクセルを強く踏み込んだ。
私は首を横に振り、それから彼の言葉を何度も思い返した。なぜそうするのか自分でもよく分からなかったが、そうせずにはいられなかった。彼の口にした対岸の街という言葉は、あまりにも直接的に私の記憶と結びついていた。私はその記憶を思い返すために、彼の言葉をたどっていった。少しずつ増していくエンジンの回転音の隙間を縫うようにして、私は自分の記憶の中へと潜り込んでいった。車がその速度を上げていくにつれて、その記憶は少しずつその輪郭を取り戻していくのだった。



 その記憶は、私が小説の中で描いた対岸の街に関するものであった。
対岸の街は、道路も建物も電車もすべてが青に染められた、奇怪な街である。夜になると空には青い星や月が輝き、青白い街はその光でさらにその青さを深める。私はその青白い街を、巨大な対岸の都市とともに小説の舞台に据えた。そうすれば、小説を書いている間、私は現実の全てから解放されて、その青白い憂鬱の中に身を委ねることができる。プロペラ飛行機の絵の作者はその青白い街で生まれる。その街では道も建物も海岸の砂も全てが青く染められている。その珍奇な光景を眺めるために、観光客が街を訪れる。そしてその観光客だけが、街を青以外の色で染めることになる。
 ある夏、少年時代の画家は路地裏の陽だまりの中にしゃがみ込み、淡青色の石畳の上に白いチョークで絵を描いていた。それは巨大なプロペラ飛行機の絵であった。その飛行機はあまりにも子細に描かれており、それは石畳の空が続く限りどこまででも飛び続けることができそうな代物であった。少なくとも通りを行く数人の目にはそのように映った。何人かの観光客が少年の前で立ち止り、何を言うでもなくその絵を眺めた。それは夏の間を流れるあまりにもゆったりとした時間であった。時間は無限に引き延ばされ、その昼は永遠に続くかのようにさえ思われた。唯一時間の経過を伝えるものは、そのプロペラ飛行機の絵だけであった。チョークの粉が路地を吹き抜ける風に飛ばされて、飛行機の輪郭は少しずつぼやけていくのだった。
 黒い服を着たが少女が絵の前で立ち止ったときには、絵の大半はその輪郭を失っていた。それでも少女はしげしげとその絵を眺め、その横でしゃがみ込んだ少年を眺めた。少年はちらりと顔を上げ、少女を見た。少女は悲しそうな眼をしていて、それがひどく印象的であった。
 家族とはぐれてしまったのだと彼女は言った。彼女は絵の前にしゃがみ込み、少年に対して様々に語り掛けた。対岸の街からやって来たのだと彼女は言った。彼女はちょうど画家が描いたようなプロペラ飛行機で海を渡ってきたのである。裕福な旅行客はおおむねそのようにして海を渡った。夏になると色とりどりのプロペラ機が海の上を飛び交い、のろのろと海上を進む連絡船を瞬く間に追い越していった。
 彼女は家族を探して青い街の中をあてもなく彷徨っていた。小さな路地が入り組んだ街で、家族はなかなか見つからなかった。行けども行けども青しかない街に彼女は辟易していた。彼女は自分が生まれた対岸の街を思った。色とりどりの光に溢れた街が、ひどく懐かしく感じられた。
 こんなところでずっと絵を描いているつもりなの?
 彼女は呟くように言った。その言葉は少年の心に長い間留まることになった。心の底にいつまでも沈殿して、そして何かのきっかけで心が揺さぶられると、それが突如として浮き上がってきたりした。
 やがて彼女の家族はやって来た。どれだけ入り組んでいようとも、所詮は小さな街であった。父親が彼女を抱き上げ、彼女は悲しそうな眼をしたまま去って行った。突然時計の針がぐるぐると回り始めたような気がした。昼間は終わり、夕闇が背後には迫っていた。少年は手で石畳をこすり、チョークの粉を跡形もなく振り払った。そして背後の海を眺めた。海の上をちょうどプロペラ機が一機飛んでいくところであった。海の向こうにある対岸の街について、少年は考えを巡らせていた。
 対岸の街に関する小説の記憶はそこで一度途絶えてしまった。しかし私は、そこには何かしら記憶以上の意味があるような気がしていた。私は走り続ける車の中で、その意味について考えていた。いつの間にか、道の向こうには巨大な高層ホテルの姿が見えている。男は口を閉ざしたまま、一路そのホテルへと車を向ける。私は車内の赤い光の中で、記憶をたどり続けていた。現実と想像が混ざり合い、それらは複雑な模様を描いていく。車がホテルにたどり着くまでの間、私はその奇妙な模様の上で、延々と思案を巡らせ続けるのだった。


Ⅱ/Ⅴ

 男の死体が運び出された後の部屋の中を、私はぐるぐると歩き回っていた。心の中にはいつまでも晴れない霧がかかっていた。私にはこれを事件の解決と呼んで良いものか、それがまるで分らなかった。男の死はあまりにも唐突で、私はその死に対してどんな意味を見出すべきなのか、それをうまく見定められないままでいた。
 部屋の捜索はあらかた終わり、部屋の隅には運び出されるのを待つ段ボールがいくつか積み重なっている。ワゴン車の到着を待ってその段ボールを運び出せば、今夜の仕事は終わりである。捜査員は必要最小限の人数を残して引き上げてしまっている。持ち主を失ってしまった部屋はもの寂しく、隣の寝室からは今でも死のにおいが漏れ出している。
部屋の中でもっとも目を引くのは、やはりあのプロペラ飛行機の絵であった。どうしてその絵が私の心を捉えるのか、その理由は自分自身でもまるで分らなかった。しかし、その絵やこの青い部屋は間違いなく、私の古い記憶と呼応していた。記憶の断片が、いくつも脳裏に突き刺さっているのである。私は間違いなく、どこかであの絵を見たことがあった。そして私は、どこかであの死んだ男にも会ったことがあるのかもしれない。
 部屋の中を歩くたびに、その床や壁を染めた青は部屋の中に溶けだして、私の心に少しずつ染み込んでいくのだった。それは不思議な感覚であった。まるで時をさかのぼって行くかのように、私はその一歩一歩を踏みしめた。私の脳裏には、昔家族で訪れた対岸の街の情景が浮かんでいた。それは遠い昔の記憶であるはずなのに、この部屋の中では、ほかのどんな記憶よりも鮮明なものへと変わって行くのであった。
 それはすべてが青色に染められた、ひどく憂鬱な街の記憶であった。あのとき、私は家族とはぐれ、一人でその街を彷徨っていた。太陽の光も届かぬ薄暗い路地と、どこまでも続く青色が、私をひどく不安にさせた。歩けば歩くほど、私はその街の深くに沈んでいくような気がしていた。その青はあまりにも深かった。もう二度と浮き上がることができないのではないかと思わせるほどの濃度で、青い街は私を容赦なく飲み込んでいった。
「お嬢さんどこへ行くの?」
 ある路地を曲がったとき、私はそのようにして呼び止められた。立ち止って声のする方に視線を向けると、路地の脇には、黒い影が青い石壁を背にしてうずくまっていた。それは洒脱な濃紺のシャツに身を包んだ男で、丸い鼈甲縁の眼鏡の間から、私を虚ろな目で見上げていた。男の頭上からは、どこからか迷い込んできた淡青色の光が差し込んでいる。男の影は、舞台に一人立つ俳優のそれのように、その路地に細長く浮かび上がった。
「対岸の街のお嬢さん、きっとあなたはこの街にふさわしい」
 私はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。その言葉の真意などまるで考えようともしなかった。私にはその男がただ恐ろしかった。もしかしたら私はこのままこの路地に囚われてしまうのかもしれない。その時私はそんなことばかりを考えていた。
「この街にたどり着いてどれくらいの時間が経つでしょう」
 不気味な薄ら笑いを浮かべながら男はそう呟く。
「もう計り知れないほどの時間が過ぎたような気がします。私は随分いろんな街を渡り歩いて、ようやくこの街にたどり着くことができました。この街のこの青を見たとき、ひどく心が安らいだことを昨日のことのように覚えています。もうこれ以上どこへ行く必要もない。これ以上無駄なことで苦しむ必要もない。これから先は、ただこの街に身を委ねればいい。それですべてがうまくいく予感がしたのです。ご覧なさい」
 男は路地の暗がりを指さした。私はそちらの方を見るのをためらった。すぐにでもその場を逃げ出したかった。しかし、足はその場から一歩も動かなかった。男は笑みを顔に浮かべたまま、暗がりの先を指さし続けいている。私はおそるおそるそちらの方に顔を向ける。路地の先は暗く、その様子は判然としない。私は目を凝らしてその暗闇を覗き込んだ。
私がその暗闇の向こうに目にしたものは、その薄闇の中でうごめく無数の影の姿であった。暗闇の向こうは、得体の知れない混沌の渦であった。渦はぐるぐると回転し、その力で私を少しずつその深みへと誘っている。
「皆私の仲間です。恐れる必要はありませんよ。皆喜んであなたを歓迎するでしょう」
男はその腕を伸ばして、いつの間にか私の手首をつかんでいた。その手はあまりにも冷たく、そこからはまるで生気というものが感じられなかった。気づいたときには、私はその手を振り払って駆け出していた。たった今目にした記憶を振りほどくべく、闇雲にいくつもの路地を曲がり、息の続く限り走り続けた。路地は無限の迷路のようにさえ感じられる。ようやく路地から抜け出すことができたときにも、背後には未だ、あの蠢く無数の影の気配がぬめぬめと付きまとっていた。私は空を見上げ、太陽の光を一身に浴びた。夏の太陽の光は強烈だった。その光があの忌まわしい影の全てを流し去ってくれるような気がして、私はしばらくその場に立ち止っていた。
 私がその少年に出会ったのは、ちょうどその時の事であった。
 少年は青色の路面に描かれたプロペラ飛行機の絵をただぼんやりと眺めていた。彼の虚ろな目は、少しずつ輪郭を失っていくその飛行機の行方を見届けているようである。私は暗闇の中で蠢く無数の影を思い出し、いつの間にかその影を目の前の少年に重ねていた。
 私はぞっとした。
「こんなところでずっと絵を描き続けるつもりなの?」
私がそう声をかけると、少年ははっとして顔を上げた。そしてこちらの目をまじまじと覗き込んだ。彼は片時も私から目を反らそうとしなかった。その間もチョークの飛行機の輪郭はほろほろと消え去っていく。どれだけ飛行機が無残な姿になろうとも、彼はその輪郭を上書きしようとはしなかった。両親が私のことを見つけ出し、私が抱きかかえられてその場を離れる時も、彼はただ私のことを見つめていた。その頃にはもう飛行機の輪郭はあらかた失われてしまった後だった。
「どうかしましたか?」
部下の一言が私を現在へと引き戻した。記憶にどっぷりとつかっていたせいで、ふと見た窓の外の景色が一面青色に染まって見えた。私はそれに狼狽した。ビルの壁面のすべての窓から放たれる光が、私にあの路地に降り注いでいた青い光をはっきりと思い出させたのである。しかし、もちろんそんなものはただの幻想に過ぎない。私は首を振って不快な記憶を振り払った。部下は私に何かを差し出そうとしていた。私はあわてて手袋をはめ、それを受け取った。
「サイドボードの中から出てきたものです」
 それは白い紙ナプキンであった。よく見ると、そこにはある人物の名前がボールペンで書かれている。ナプキンはオーダーメイドであるようで、そこにはホテルのものと思われる茶色の刻印がはっきりと刻まれている。
 私は紙ナプキンに記された文字をまじまじと眺めた。不安定で震えるようなその線は、この字を書いた人物の不安をそのまま映し出しているような気がした。この名前を書いたのは、おそらくこの名を持つ本人なのだろうと私は思った。私はナプキンに名前が書かれた場面を想像した。それはおそらくどこかのホテルの客室かレストランかといったところであろう。紺色のシャツを着た男はボールペンを差し出し、その客は紙ナプキンに自分の名前を書くように求められる。旅券に記載する名前を教えていただけませんか。男は落ち着き払った声で言う。客はおそるおそるそこに自らの名前を書く。新しい世界への期待と不安が入り混じった線が、ナプキンの上には連なっていく。私の目の前にあるのは、そういった類の文字である。二つの都市の狭間で、この人物は揺れ動いていたのに違いない。
 私は紙ナプキンを部下に返すと、部屋のカーテンを開けて外を眺めた。窓の外に広がるのは色とりどりの都市の明かりである。この都市ではどんなことでも可能になる。それなのに、どうして対岸の街を目指さなければならないのだろうか。先ほど見た青白い幻想を振り払いながら、私はしばらくの間、その問いについて考えていた。 

3/5

 車がホテルのエントランスに辿りつくと、男はドアマンに車を預け、悠然と入口のドアをくぐって行く。私は尖塔のように空高く延びる建物を見上げてから、男に続いてホテルの中へ足を踏み入れた。シャンデリアの淡い光が作り出した我々の影が、市松模様の床石の上で揺れる。サンドカラーの制服に身を包んだフロント係が男に向けて一礼する。二人はどうやら顔見知りのようである。男は手を上げてそれに応え、エレベーターに向けて真っ直ぐに歩いて行く。深夜のロビーにはまるで人影がなく、中央に盛大に盛られた花々だけが虚しく咲き乱れている。エレベーターの到着音が明朗に響いた後、我々は静かに地下へ下りていく。その間、隣に立つ男は終始口を閉ざしていた。
 エレベーターが開くと、整然としたロビーとは打って変わって、粗雑に物が放り出された薄汚い廊下に出る。モップやら箒やらの種々の掃除用具をはじめとして、欠けた食器や黴臭い本棚、羽毛の飛び出たクッションや傷だらけのテーブルなど、ホテルにおいてその役目を終えて久しい代物が、侵入者を阻むバリケードのようにして転がっている。それらをかき分けて進んだその先には、遠い昔に存在を忘れ去られたような古びた木製のドアがある。男はドアの鍵を開け、ためらうことなく中へ入って行く。ドアの向こうには、青色のダウンライトに照らされた木製のカウンターと、その向こうでゆらゆらと輝く無数の酒瓶が並んでいた。
 その小さなバーのような部屋に足を踏み入れたとき、私はその薄暗い空間を見渡して目を見張った。薄暗いバーの壁面や天井、ガラス張りの床の下には、それ自体が一つの作品であるかのように、無数の絵画が余すところなく飾られている。私はドアの前に立ったまま、しばらくその絵画を眺めていた。絵の配置にはなんの脈絡もなく、全ての作品が別の作者の手によるもののようである。具象画と抽象画、水彩画と油彩画が混ざり合い、全ての色彩が混沌と満ち溢れ、数限りない筆触の記憶がひしめいている。私の意識はその色彩をくぐり抜け、様々な記憶に触れる。記憶はどれもおぼろげで、どこにも像を結ばない。しかしそのすべてはどこか悲しげなもののように思える。一見して不揃いであるそれらの絵画は、そのようなおぼろげな感覚でかろうじてつなぎ合わされているような気がした。
 狭く薄暗いバーの中は絵画から溶け出してくる無数の色彩で満たされていた。八席ほどしかないカウンターに腰かけると、いつの間にか鼈甲縁の眼鏡の男は私の目の前に立っており、グラスに少しばかりのウイスキーを注いでくれた。そしてカウンターの下から航空機のチケットとパスポート、渡航許可証を取り出し、グラスの横に置いた。
 私はチケットを手にとり、ダウンライトの光の下でそれをまじまじと眺めた。そこには確かに私の名前が記されており、明日の夜の出発時間が記されていた。
「あなたやあの男がいなくなったら、俺たちはもう終わりですね」  
 男はカウンターの上でけだるそうに右手の甲を左手の爪でひっかいている。
「しかしこれまでよくやってきたものだと思いますよ」
 ふと目をやると、男の手の甲には小さな蛇の入れ墨が入っているのが分かる。蛇は誇張された幾何学模様の鱗を体にまとい、その向こうから細長い瞳でこちらをじっと睨んでいる。私はしばらくの間、目の前に突如現れた蛇のことをじっと見つめていた。
「この街に来るまでは、入れ墨を入れたいなんて思ったことは一度もありませんでした。でもいつの間にか、こんなに目立つところにこんな入れ墨を入れることになっていた。どうして自分の望みがかなった 途端にこんなことになったのか、未だによく分かりませんよ。この街に渡ることばかり考えて生きてきたっていうのに、気づけばこの街に噛みつく蛇を自分の体の中で飼いならしている。どうしてこんなことになったのか、どれだけ考えてもよく分からないし、考えれば考えるほど辛い気持ちになっていくだけです。だって、これまでの時間はまるで無駄だったんじゃないかと、そう思わずにはいられないじゃないですか」
「無駄なことなんてないさ」
 私は彼の真意もまるで分らぬままにその言葉を口にした。彼は手をカウンターの下に引っ込めて、ゆっくりと首を横に振る。
「いや、あなたが海を渡るのは、きっとそう思っているからです。違いますか? これまでの時間が無駄だと思っているから、あなたはそれを取り戻すために対岸へ戻るんでしょう。これまでやってきたようなことじゃ、もう満足がいかないんでしょう? そんなことは言われなくてもわかっています。いまさらそんな言葉はいりませんよ」
 私がウイスキーを飲み干してしまうと、男は空になったグラスに再びウイスキーを注いでくれる。私はそれを飲んでいる間、対岸の街へと渡って行く自分の姿を想像する。それはあまりにも突拍子のない夢想である。その間にウイスキーが何杯も飲み干され、思考はその中を彷徨っていく。
「いくらなんでも遅すぎるな」
 男はちょっと電話をかけてくると言って、店の外へと出て行った。一人残されたバーの中では、色彩と記憶がぐるぐると回り続けており、私は少しずつその渦の中に巻き込まれていった。記憶は現実のものであるのか、それとも今新たに創作している物語であるのか、その境目がどこまでも曖昧になっていく。しかしいずれにせよ、物語は私の脳裏で静かに進んでいく。それは間違いなく私の喜びであった。私はその物語にだけ意識を集中した。そしてその意識の底に深く深く潜って行くのだった。
 


 少女との邂逅以来、小さな画家は彼女の言葉を忘れることができなくなってしまった。彼女に出会う前の彼にとって、未来は漠然としたものであった。それは眼前に揺らめく幾本かの道であり、そのどれをたどったとしても、行き着く場所はおおむね同じところであった。ところが、彼女の言葉がその景色を一変させてしまった。彼女の言葉は道をきれいに消し去り、そのほかのあらゆる事物も消し去った。彼はまっさらな平面の中に一人立たされて、周囲をぐるりと見回すことになった。彼はどこにでも行くことができるようになった。しかしその代わり、そこには何の道しるべもなかった。何年かの間、彼は必死で周囲を見回していた。のっぺりとした平面の向こうに、何か光輝く事物を発見するまでにはそれくらいの時間が必要だった。その光の正体は、対岸の街の絢爛たる明かりであった。彼はプロペラ飛行機に乗り込み、対岸の街へと渡ることになる。それは紛れもなく、彼自身が決断した彼自身の未来であった。
 対岸の街で、彼はホテルの従業員として働くことになった。巨大な高層ホテルの前に立ち、輝く無数の窓とその巨大な威容を見上げると、新しい人生が始まるのだという感慨に包まれた。彼にとって、仕事の内容にはさして意味がなかった。彼に必要だったのは、その爛々とした明かりの下での生活であった。街は実に気前よく仕事を提供してくれ、新しい生活を用意してくれた。対岸からの移住者に白い眼を向けることもなく、むしろ温かく歓迎してくれた。彼はすぐに街が好きになった。この明かりの下にいさえすれば、人生は実に滑らかに流れていく。重要なことはこの光の中に留まり続けることである。明かりの届く場所から出てはいけない。それがこの街で暮らす上での唯一のルールであった。
 彼に与えられたのはフロントの仕事であった。鳴りやまない電話と、終日途切れることなく出入りを繰り返す客たちの相手をしているだけで、日々は瞬く間に過ぎていった。過ぎていった時間の意味を考える暇さえそこにはなかった。夜、家路についたとき、彼は街灯に照らされた石畳の歩道の上で、街の姿を見上げたものである。彼自身はもうすっかりこの街に溶け込んでいた。目まぐるしく流れる日々は、問答無用でその流れに彼を巻き込み、その一員として彼自身を位置づけた。相変わらず街の明かりだけが神々しく輝いていた。その輝きだけは、いつまでも変わることがなかった。
 彼女との突然の再会は、そのようにして過ぎていく日々の中での出来事であった。
 ある日の真昼、フロントを一組の男女が訪ねてきた。彼はその女性に、あのときの少女の面影を認めた。もっとも、あの日からはすでに十年以上の時間が過ぎていた。だから、目の前の女性があのときの少女と同じ人間であるという確信は持てなかった。しかし少なくとも、その女性は彼に遠い昔の思い出を蘇らせた。青色の街が突然に眼前に現れ、その記憶が彼の思考を少しずつ埋め尽くしていくのをその時はっきりと感じた。
 女性は若い男と一緒にカウンターに近づき、何かを警戒するようにぐるりと周囲を見回した。それからおもむろに、自分の名刺と一緒に一枚の写真をカウンターの上に置いた。この男が泊まりに来ていないかと彼女は言った。彼は写真をまじまじと見つめた。それは額から右目の脇にかけて蛇の入れ墨を入れた若い男の写真であった。この男は入れ墨を隠すことはしません。宿泊していれば必ず見覚えがあるはずです。女性はそのように言った。しかし彼には見覚えがなかった。宿泊客のリストを当たってみたが、当然ながらその男の名は見当たらない。彼が首を振ると、女性は残念そうな表情を見せた。その男を見かけたら、すぐに連絡をしてください。そう言い残すと、彼女は去って行った。彼女を呼び止めようかとも思った。彼女が本当にあのときの少女であるのか、どうしても確かめてみたかったのである。しかし、どうしても言葉が出てこなかった。そもそも、一体何と言って尋ねればいいのだろうか。思いつく言葉はあまりにも滑稽なものばかりで、口にするのもためらわれた。かわりに出てきたのは、どうしてその男を探しているのかという無意味な質問だけであった。捜査事項について詳しくは話せないのです。彼女はぼそりとそう言って去って行った。
 その日からというもの、青白い街の風景は、ことあるごとに彼の脳裏によみがえるようになった。新しい日々が流し去っていた記憶を、彼女が突然に眼前に呼び戻した。街は、彼の目の前で突然青色に染まり、そして瞬きをすると再び元の姿に戻った。そんなことばかりが延々と繰り返された。いつしか彼は、青白い街に郷愁の念を抱くようになっていた。過ぎていく日々の中で顧みなかった様々な事柄が脳裏に浮かんできて、そのたびに全てを投げ出してまた元の街に帰りたいとさえ思うようになった。当然ながら、そんなことができるわけもなかった。仕事を無責任に投げ出す訳にもいかず、そして何より彼が恐れたのは、現実と想像の間に横たわる深い溝であった。青白い街は、彼の記憶の中であまりにも美しくなりすぎていた。もう二度と戻ることができないからこそ、青白い街はいつまでも美しかった。もしもう一度戻ってしまったら、記憶の中にある街は間違いなく失われてしまう。想像とかけなれた現実に失望し、そうなればきっと、あの街を思い出すことさえしなくなるかもしれない。
 対岸の街に帰ることは彼にとってそのような危険をはらんでいた。もちろん、だからといってきっぱりとその思いにけりをつけることができたわけではなかった。気づいたとき、彼はアパートの自室の壁を青いペンキで塗り始めていた。仕事が終わると、彼は一心不乱に身の回りのものを片端から青色に染めていった。青一色に染められた部屋が完成すると、次に取りかかったのは絵を描くことであった。青をモチーフにした絵を彼はいくつも描いた。それが彼なりの記憶との付き合い方であった。家に帰ると、彼はその青の深くに沈み込んで過ごした。そして目覚めると、彼は再び巨大な都市の中へと踏み出していくのだった。



 カウンターの上に新聞紙が放り投げられる音で、記憶は突然に途切れてしまった。
 私はどうやらカウンターに突っ伏して眠ってしまったらしかった。薄暗い部屋の中でどれだけの時間が経ったのか私にはまるで分らなかったが、壁掛けの時計はいつの間にか朝の六時を指していた。鼈甲縁の眼鏡の男はいつの間にか私の隣に立ち、朝刊のある記事を指さしていた。それは対岸への密航を支援してきたとされる男の死を伝える記事であった。その男は、昨夜警察が彼の自宅に踏み込んだ際に拳銃で自殺した。記事には端的にそれだけが書かれていた。私は何度もその記事に目を通した。しかし何度読み返してみても、記事はあまりにも短すぎて、それ以上の情報を私に与えてはくれなかった。彼は一杯のコーヒーを出してくれた。カップからは延々と湯気が立ち上っていた。淡い光の中で、白い湯気は少しずつその色を失っていく。私はただその湯気を眺めていた。
男はただ首を振るばかりだった。彼はカウンターの埃を払い、しばらくの間黙っていた。なぜこんなことになったのかまるでわからないと、彼は呟くように言った。
「こうなれば、この場所ももはや安泰とは言い難い。いつ誰がやってきても、まるでおかしくはないね」
 彼は新聞を折りたたんで、カウンターの下に放り込んだ。そしてそのときには、その動作を合図にするようにして、入口のドアは不気味な音を立てて静かに開き始めていた。我々はゆっくりと開いて行くドアを見つめたまま黙り込んだ。わずかに見えた人影が、廊下の明かりを受けてわずかに揺らめいている。
「誰が来ても、あんたは何も話さないように。いいね」
 男は囁くように言った。

Ⅲ/Ⅴ

 紙ナプキンの刻印が、ある高層ホテルのものであることはすぐに判明した。さらに付け加えるなら、そのホテルは死んだ男が働いていたホテルでもあった。彼はそこでフロント係として勤務していた。ホテルの関係者は誰一人としてそのことに気付かなかった。それは無理もない話であった。無数の人間が勤務する巨大なホテルにおいて、彼はとりたてて目立つ存在ではなかった。
 それにしても、ホテルのフロント係がなぜ対岸への密航者を支援するようになったのか、その経緯が我々にはまるで分からなかった。そこには結末だけがあって、物語が存在しなかった。組織の構成員はどうにも判然とせず、その構造の詳細な把握は困難であった。さらに、そんなものがあるとすればということにはなるが、我々はその組織の名称すら知らなかった。男の死が報道された今、組織はおそらく解体の最中にある。彼が一人でつなぎとめていたものは、彼なしではその体をなさないであろう。すなわち、男の死は組織そのものの死を意味していた。
 私は車に乗り込んでそのホテルに向かっていた。どんなものであれ、この不可解な物語の隙間を埋めるものが私には必要だった。車が交差点の信号で止まると、窓からは朝日が差し込んでくる。思えば長い夜であった。この夜の間の出来事はあまりにも目まぐるしく、未だその流れの中にいるのだと思うと、どっと疲れが押し寄せてくる。遠くに目的のホテルが見える。それは空に向けて伸びる巨大なホテルである。その姿をぼんやりと見ていると、突然強烈な既視感に襲われる。以前にも車はこの交差点で止まり、そして私はあのホテルの姿をフロントガラス越しに見上げていた。あれは一体いつのことだったか。それほど昔のことではないはずである。ぼんやりとした思考の中で、限られた情報が、特定の記憶を呼び覚ましていく。
 我々は当時、捜査中の事件の容疑者があのホテルに出入りしているという情報を手にしていた。それで部下と二人でホテルに向かうことになったのである。我々はホテルのフロント係に写真を提示し、この男に見覚えがないかと言った。そのときのフロント係が先ほど死んだ男であった可能性は当然ながら残されている。しかしそのときのフロント係の顔はどうしても思い出せない。記憶の中には、薄暗いロビーと顔を持たないサンドカラーの制服が漂うばかりである。フロント係はその男に見覚えがないと言った。あのとき私はその言葉を疑わなかった。真相がどうであったのか、今となっては知るべくもない。
 豪勢なホテルのエントランスに足を踏み入れたとき、あの日の記憶はより鮮明に蘇った。あのとき私たちは、捜査に行き詰まり途方に暮れていた。情報の真偽も分からぬまま、膨大な数の客室を手当たり次第に調べるわけにもいかず、かといって何も手がかりをつかめぬまま帰ることも許されなかった。それで仕方なく、我々は一階のラウンジでコーヒーを飲んだ。我々はフロントがよく見える場所に席をとった。無限の時間が薄暗いラウンジで渦を巻いていた。コーヒーの湯気は次第に消え、周囲の客は一人また一人と減り、暇つぶしに読んでいた新聞の記事は、読むそばからその意味を失っていった。
 私は今、再びそのラウンジに足を踏み入れていた。あの日と同じソファに座り、同じようにコーヒーを飲んだ。私はあの日、どうしても蛇の入れ墨の男に会いたいと思っていた。その姿を見逃すまいと、私は目を凝らしてエントランスの雑踏をのぞき込んでいた。思えばあのときも、私は物語を求めていた。この特異な事件には、想像力の不足を補うための語り手が必要であると私は感じていたのである。語り手は雄弁でなくてはならない。その言葉の一つ一つが物語を着実に前へと進めていくような、そんな力強さを持っていなくてはならない。
 あの時と同じように、私はソファの上からラウンジの周囲に目を凝らした。あの日見つけられなかった手がかりを、私は今こそ見つけなければならなかった。ラウンジの机上には、紙ナプキンが置かれていた。それは間違いなくあの男の部屋から発見されたものと同じである。確信は持てないが、あの紙ナプキンに書かれた名は、このラウンジのどこかの席で書かれたのではあるまいか。私はコーヒーを一口飲み、数少ない客一人一人の顔をそれとなく確認した。朝日の差し込むラウンジには、幽霊のようないくつかの顔が浮かんでいる。背後からの強烈な陽光が、それらの顔を点々と浮かび上がらせていく。
 そのとき私の目に留まったのは丸フレームの老眼鏡をかけた老女の顔であった。老女はテーブルの上にコーヒーを置き、食い入るように新聞の記事に目を通している。老眼鏡の向こうにある二つの瞳は、短い文章の上を何度も行き来しているようである。新聞にはすでにあの青い部屋で死んだ男の記事が掲載されている。彼女が何度も目を通しているのは、紛れもなくその短い記事であった。
 そのとき私は、彼女とこの場所で再会したことは決して偶然ではないような気がしていた。私も彼女も、おそらくは一人の男の死から別々の何かをたどってこの場所にたどり着いた。私はコーヒーを飲みながら、新聞を読むふりをして彼女が動き出すのを待った。うまくいけば、あの蛇の入れ墨の男に私はたどり着くことができるかもしれない。根拠はなくとも、私はまだ事件をめぐる糸が切れていないことをはっきりと感じていた。それは暗闇を伝うあまりにも細長い糸であった。糸を決して見失ってはならない。きっとその先には、私が求めている物語が横たわっているはずなのである。



 その事件は一年前の冬に起きた小さな事件であった。
 年の瀬が迫り、街がわずかに浮足立つ頃、街の郊外にある小さなギャラリーでは、毎年のようにアマチュア画家の絵画の展覧会が開かれていた。ギャラリーのオーナーが毎年出展作品を募り、その中で選ばれた作品だけが、そのこぢんまりとしたギャラリーに並べられることになった。淡い光が満ちた薄暗い部屋に、金縁の額に入った絵が並べられた。その異世界のような小さな空間は、ギャラリーの壁面に取り付けられた控えめな電飾や、窓の外で時折降る雪と共に、人々の心をわずかに高ぶらせた。
 それは不思議な窃盗事件であった。ギャラリーの閉まった夜中、一人の男がギャラリーに侵入し、展示されている絵のうちの一枚を奪ったのである。朝にギャラリーにやって来たオーナーは、壁面に横一列に並んだ絵のうちの一つがなくなっていることに気が付いた。絵画の列はそこで途切れ、その欠落感がギャラリー全体に悲しげな空気をもたらしていた。オーナーはすぐさま我々に通報してきた。防犯カメラの映像を確認すると、そこには右目の横に蛇の入れ墨が入った男が映っていた。男は迷うことなくその絵に近づき、躊躇なく壁から額を外して持ち去っていた。オーナーによれば、それはプロペラ飛行機を題材にした絵だったということだった。
 オーナーはひどく大仰な言動をする初老の女性であった。彼女はウエーブのかかった白髪を後ろで束ね、丸フレームの老眼鏡をかけていた。彼女は我々に対してそのギャラリーの持つ意義について滔々と語った。普段日の目をみることのない市井の芸術家にとって、毎年の展覧会が持つ意味は非常に重要なのです。その作品を盗まれたという事態は、あなたがたが考えている以上に重大な事態であり、即刻、捜査に取り掛かっていただきたい。彼女は止めどなく我々に語り続けた。
 もっとも、我々は犯人のことをすでに知っていた。それは我々が追いかけ続けていた男であったからである。その蛇の入れ墨の男は、この街でいくつもの窃盗事件を起こしていた。我々は、彼に対して不可解な犯罪者であるという印象を抱いていた。というのも、彼は著名な画家の絵にはまるで興味を示さず、無名の画家による絵にばかりその触手を伸ばしていたからである。それがほとんど市場価値を持たないような絵であったとしても、彼はためらうことなく危険を冒した。まさにそのギャラリーでの事件のようにである。しかし、彼らは盲目的に絵画を奪い続けているわけでもなさそうだった。というのも、彼らが盗む絵には一つの共通点があったのである。すなわちそれは、絵の作者は決まって対岸の街の出身者であるということであった。
 我々は、盗まれた絵の作者についてオーナーに尋ねた。しかし、オーナーはきっぱりと口を閉ざした。絵の作者については一切教えられない。それが彼女の決まった答えだった。



 老女が動き出すまでにはそれほどの時間はかからなかった。
彼女は新聞紙を机の上に静かに乗せ、残っていたコーヒーを静かに飲み干した。そして会計を済ませると、重そうな足を引きずって、大理石のロビーをゆっくりと横切った。彼女が履いた茶色の革靴の足音は静かにエレベーターに向かっていった。私はソファに腰を沈めたまま、彼女の姿を視線の端に捉え続けた。彼女はエレベーターに乗り込み、地下へと向かう。デジタル表示は地下二階で止まる。そしてエレベーターは上昇を始める。彼女はおそらく地下二階へ向かったのに違いあるまい。そしてこのホテルの地下には、蛇の入れ墨の男に繋がる何かがある。私は瞬時にそのように確信した。
 私は会計を済ませると、まっすぐにエレベーターを目指した。大理石のロビーを横切り、エレベーターのボタンを押す。ドアが閉まると、エレベーターは地下二階を目指してゆっくりと降下していく。降下の速度はひどく遅く感じられる。エレベーターの内側を照らすオレンジ色の光は少しずつ重たくなっていく。現実の感覚が薄まり、物語がゆっくりと流れ始める。それはまるで誰かの意識の中を彷徨っているかのようである。私はその中へゆっくりと降りていく。そしてそこに渦巻く物語の一つ一つに目を凝らす。
 エレベーターのドアが開くと、薄汚い短い廊下が見える。私は行く手を阻む品々を慎重にかき分けて廊下を歩く。廊下の先には古びた木製のドアがある。私はゆっくりとドアノブを回す。ドアは軋んだ音を立ててゆっくりと開いていく。ドアの向こうに何があるのか、私にはまるで見当もつかなかった。
 ドアの向こうからは、どのような種類のものであれ、なにかしら不穏な想像の断片が漏れ出している。私は意を決してその中へと足を踏み入れていった。

4/5

 扉の向こうから顔を出したのは、一人の老女であった。私は彼女に見覚えがあった。彼女は紛れもなく、私が去年の夏に通い詰めていたギャラリーのオーナーである。彼女の姿を見ると、果たして今自分がどこにいるのか、それがまるで分らなくなってくる。私は一方では小説の世界に身を埋めており、その一方で、その中に混ざる現実に時折引き戻されている。昨年の夏の記憶は果たして現実のものであったのか、それさえもおぼつかなくなってくる。すべてが曖昧で、あまりにも漠としている。
「誰かがついてくる。もうすぐここへやって来るよ」
 彼女は悠然とカウンターに腰かける。鼈甲縁の眼鏡の男は酒をグラスに注いで彼女にそっと差し出した。
「あんたは隠れた方がいい」
 彼はカウンターの横にあるドアを開け、この部屋の中に隠れるようにと言った。それは小さな部屋であった。そして、どこかで見覚えのある部屋でもあった。部屋の奥には木製の机と丸椅子がぽつんと置かれ、それ以外には余計なものは何一つとして置かれていない。机の上には淡い光を放つ球形の照明が置かれ、足元にはオレンジ色の古びたカーペットが敷かれている。机の前の壁には一枚だけ絵が飾られている。それは暗い夜の海を描いた絵である。一面に暗く塗られた画面の奥には、ぽつんと小さな光が描かれている。よく見てみると、それは遠洋に浮かぶコンテナ船の光である。コンテナ船は海に浮かぶ墓標のように、ひどく寂しげに描かれている。
 私は部屋に入り、椅子に腰かけて、机に両腕を載せた。壁にかかる絵はまるで部屋に取り付けられた唯一の窓のようで、それを眺めていると、目の前に夜の海が広がっているのかのような錯覚にとらわれる。私は不思議な思いの中で、思わず机の引き出しを開けた。机の中にはくしゃくしゃに丸められた何枚もの原稿用紙と、まっさらな原稿用紙とが混ざり合って詰め込まれている。そしてその端には、数本の万年筆が無造作に転がっているのだった。
「しばらくはここにいてください。こっちから開けるまでは、絶対に出て来ないでくださいよ」
 その言葉を最後にドアは静かに閉められた。
 そして部屋のドアが閉められるのとほぼ時を同じくして、店の入口のドアが再び軋んだ音を立てた。



 画家が展覧会のことを知ったのは、冬がそろそろ始まろうとしていた頃のことであった。フロント勤務からの帰り道、路上を舞っていた張り紙を彼は何気なく拾い上げた。それは作品募集の張り紙であった。採用された作品は、年末の展覧会でギャラリーに飾られることになる。彼はその紙を持ったまましばらくその場に立ちすくんだ。行くあてのなかった彼の作品に、その張り紙は一つの道を用意してくれていた。まっさらな空間に一本の線が引かれたような気がして、彼の心は浮き立ったものである。
 彼はホテルの仕事を終えると、ただ一心不乱に絵を描き続けてきた。そのエネルギーの源泉に目を向ける暇もなく、何かを振り払うように、彼は絵筆を握り続けた。ただ、どうしても青色以外の絵の具を使うことはできなかった。何度もほかの色のチューブを手に取り、パレットに取り出してみては、そのたびにパレットを洗い流すことになった。彼は諦めて青色だけで絵を描いた。必然部屋は作品で溢れていった。とはいえ、どこまでも積み重なっていく青色はどこまでも虚しかった。もし展覧会がなかったらと思うと彼はぞっとした。これらが全て行き場のない屍の山であったとしたら。きっとそんなものが溢れる部屋にはとても耐えることなどできないだろう。
 冬は深まり、彼の部屋には一通のはがきが届けられた。それはギャラリーからのものであった。彼の作品は正式に採用されたのである。採用されたのはプロペラ飛行機を描いた絵であった。絵には道が残され、それがただの屍になることは避けられた。
絵がギャラリーに飾られるというただそれだけのことが、彼の人生に不思議な道を開いていた。ただこのまま進めばいいはずだった人生に、方向転換の機会が与えられているようだった。彼に用意されたのは引き返す道だった。彼はその手紙を見た時、この街に来てから初めて後ろを振り返った。漠然とした空間の中には、彼の足跡がうっすらと残っていた。そしてその足跡が続く遥か向こうには、青白く輝く街の光がうっすらと見えた。今ならまだ、その光をたどって元の場所に戻ることができる。彼はその場に立ち止った。そしてどうすればいいのか、まるで分らなくなってしまった。その逡巡の足踏みは、その冬の間延々と続いていた。彼はその迷いを抱えたまま、絵を展覧会に出品した。薄暗いギャラリーに並ぶ絵を眺めるのは不思議なものだった。石畳にチョークで絵を描いていたあの日、自分の将来がこのような場所に続いているなどとは想像もつかなかった。絵が現在と過去をつないでいた。プロペラ飛行機は海を越え、新しい街にたどり着いていた。飛行機はまだ空を飛び続けている。進むことができれば戻ることもできる。彼はしばらくその薄暗い部屋に留まり続けた。思考はぐるぐると回り、そしてどこにもたどり着くことはなかった。
 しかし、結局のところ、彼の手元からはあっけなく全てが失われてしまった。絵は展覧会が始まった数日後の夜に、ギャラリーから忽然と姿を消した。オーナーから連絡を受けて薄暗い部屋に駆けつけると、そこからは彼の作品だけがきれいになくなっていた。
 どうしてこのようなことが起こるのだろう。薄暗い部屋の中で彼はそう考えずにはいられなかった。こんなちっぽけな自分の人生に対して、どうしてこのようなことが起こるのか。この部屋には絵の数だけの人生が詰まっていた。絵を描いた人間たちの思念が渦巻いていたはずなのである。その無数の人生の中で、どうして犯人は、たった一つこの人生を選んだのか。この事件は長い間抱き続けた逡巡への答えのような気がしてならなかった。どこへでも行けるなどというのは、おそらくは単なる幻想なのであろう。絵の中の飛行機など何の役にも立ちはしない。この街からはもう一歩たりとも外へ出ることなどできない。振り返ってはいけない。これまで通り進めばいい。そこにはしかるべき人生がある。街の光はその人生を、燦然たる明かりで照らし出すはずである。
 次の日から、彼はもう絵を描くことをしなくなった。仕事が終わると青い部屋の中で静かに過ごし、朝が来れば再びホテルに向かった。繰り返される日々にもう一度体をならし、もう振り返ることもやめるようにした。
 そのような日々の中で、時折、ギャラリーのオーナーから電話がかかって来ることがあった。彼女は何度も電話をかけてきて、絵を描くことをやめてはいけないと、熱っぽく語り続けた。来年も作品を出展してほしい。あの絵がなくなった場所は、次回の展覧会まであなたのためにとっておくから。彼女は毎度の電話でそのように言った。無下に断るわけにもいかず、彼は困惑した。しかしどのように言われても、どうしても再び絵を描こうとは思えなかった。
 彼を見かねて、ホテルまで直接彼女が会いに来たこともあった。彼らは一階のラウンジでコーヒーを飲んだ。彼女が伝えたかったのは、絵の盗難を警察に届け出たということであった。彼女によれば、ギャラリーには防犯カメラが設置されており、そこには犯人の人相がはっきりと映っていたそうである。それは右目の横に蛇の入れ墨が入った男であったとオーナーは言った。犯人はいずれ見つかる。作品もきっと見つかる。彼女はそう言って、彼の肩をぽんと叩いた。
 右目の横に蛇の入れ墨。それは否が応にも先頃訪れた刑事たちのことを彼に思い起こさせた。あの刑事たちが探していたのは、その右目に蛇の入れ墨が入った男ではなかったか。刑事たちが差し出してきた男の写真があまりにも鮮明に思い出された。
 その日から、彼はエントランスを出入りする客たちに、隅から隅まで目を通すようになった。その男を見つけてどうしようというのか、自分でもよく分からなかった。しかし、自分の絵を盗んだ人物がどのような人物であるのか、それだけは確かめなければいけないような気がした。



 ドアの向こうからは、誰かが話す声がわずかに聞こえてくる。私はドアを耳につけてその話を聞き取ろうとしたが、声はまるで別の世界から聞こえてくるかのようにぼやけている。私は仕方なく椅子に座り直し、真新しい原稿用紙を取り出して机の上に置いた。私は万年筆を握り、原稿用紙に文章を書きつけていった。そのとき私が書いていたのは、顔に蛇の入れ墨を持つ男の物語であった。どういった理由かは分からないのだが、そのとき私は、蛇の入れ墨の男というのはあるいは私のことなのではないかと、そんなことを考え始めていた。私は蛇の入れ墨を持つ男である。その仮定は、全てを了解可能なものに変える絶対的な前提であるような気がしてならなかった。私はギャラリーに侵入してプロペラ飛行機の絵を盗み、今しがた店に入って来た誰かから追われている。私だけが隠れなくてはならないのは、私の顔に蛇の入れ墨が入っているからではあるまいか。
 それが愚かな想像であることは分かっていた。しかし、私はその可能性について考えずにはいられなかった。私は今夜のことを思い返す。自分の顔を見る機会がどこかであったはずなのである。車のミラーに映った自分の顔を私は今夜見ただろうか。あるいはどこかのビルの窓に映った自分の顔を。しかし記憶は曖昧で、はっきりしたことはどうにも思い出せない。見たような気もするし、あるいは一度も見ていないのかもしれない。この部屋には鏡はなく、その代わりになりそうなものも何一つとして存在しない。万年筆の光沢の向こうに自分の顔を覗き込もうとしても、部屋は薄暗く、顔はまるで映らない。
 私は自分の疑念と想像の中を漂い続けていた。私は蛇の入れ墨を持つ男について思いを巡らせた。それは物語を書く作業にあまりにも似ていた。幸いなことに時間はたっぷりと残されている。ぼそぼそと聞えてくる会話は途切れることはなく、私はその霧のような言葉の中で、誰にも邪魔されることなく小説を書き続けた。

Ⅳ/Ⅴ

 店に足を一歩踏み入れたその瞬間から、私は店を満たしている異様な空気に気付かずにはいられなかった。天井から吊るされたダウンライトの青い明り、あたり一面に飾られた無数の絵画、カウンターの端で動かぬ老女、酒瓶に反射した青い光が照らし出す鼈甲縁の眼鏡。降り注ぐ青い光と鼈甲縁の眼鏡が、いとも簡単に私の記憶を呼び覚ます。
 あなたはきっとこの街にふさわしい。
 あの男の声が脳裏に蘇る。その声はどれだけ年月が過ぎてもその感触を失っていない。どろどろに溶けた言葉が、延々と心に絡みついてくる。私はその声を振り払うようにして歩き、八つあるカウンター席の一番右端に腰を下ろす。目の前にはウイスキーの入ったグラスがいつの間にか置かれている。私はおそるおそるグラスに手を伸ばし、ウイスキーを一口飲む。胃の底に落ちたウイスキーは、どういうわけかひどく冷たく感じられる。
「もうこれであんたらは終わりなんだろう?」
 カウンターの反対側から老女の声が聞こえてくる。それはまるで歪んだ空間の向こう側から届くような声である。声ははっきりとした輪郭を持たず、幾重にも重なり合って響いてくる。それはどうやらバーテンに向けられた言葉である。バーテンは老女の前に進み出て、何かを小声で話し始める。老女はウイスキーをぐいと飲み干して、それから後ろで束ねた長い白髪をほどく。ウエーブのかかった髪が彼女の横顔を覆い隠す。彼女はその隠された表情の向こうで、男に向けて言葉を吐き出し続ける。長年の間にためこんだうっぷんを全て吐き出すかのように、言葉は止めどなく流れ出す。もっとも、それは傍で聞いている私にはどうにも要領を得ない話ばかりであった。彼らの間には、やはりどこか良からぬ物事が潜んでいるようである。しかし、それが今回の事件とどのように関係した物事であるのか、私はどうしても計り切れずにいた。 
「一つ探している絵があるんだよ」
 彼女がそう切り出したのは、時計の針が午前七時を指す頃であった。もうどれだけ飲み干されたかも分からないアルコールの向こうから、淀んだ声が聞こえてくる。
「最近どうも仕事の具合が悪いんだよ。何をやってもうまくいかない。この街からは良い作品が消えつつあるような気がするね」
 彼女は吐き捨てるように言う。
「もういい加減、ギャラリーなんてやめようかと思ってね。大した金になるわけでもないし、元々趣味で始めたようなものだしね。年齢のせいだか知らないが、私ももう疲れちまったんだよ。いい絵を探すことも、他人の夢を見極めることもね。意味もよく分からないまま、あんたらに随分協力したもんだと自分でも感心するくらいだよ。もう十分だろう。年寄りをこれ以上こき使おうなんて、あんたもそんな酷なことは言うまい」
 彼女はグラスを握りしめて、その水面を眺めている。彼女の手は微かに震え、その震えは水面の波紋として見て取ることができる。
「でもね、全部を辞めちまう前に、私はこの絵をどうしてももう一度見たいんだよ。そうすればもう思い残すことは何もないね。しかし、困ったことに誰に聞いてもその所在が分からない。それで今日はここへ来たのさ」
 オーナーはカウンターの上に一枚の写真を置いて、男の方へ手で押し出す。
「最高の絵だと思わないかい? この絵が送られてきたとき、私は文句なく、これまでギャラリーに飾った絵の中で一番の絵だと思った。展覧会の前に、確かあんたにもそう言ったはずだね? だから私はとっておきの場所にこの絵を飾ったんだよ。一番客の目につく場所にね。それがどういうわけか、絵はあっけなく盗まれちまった。ギャラリーの入口の鍵は乱暴にこじ開けられていて、朝に出勤したときには、その一枚だけが忽然と消えていた。しかしね、そんなことが本当に起こると思うかい? あれだけの絵の中で躊躇なくこの一枚だけが盗まれたんだ。私は未だに悪い夢を見ているような気がするよ。おまけに、この絵を描いた画家は今日の朝刊の片隅で顔写真つきの死亡記事になっている。こうなれば、これはもう何かの偶然なんかじゃない。あんた何か知っているね? それをあんたから聞くまでは、私は帰らないよ」
 老女は終始グラスを見つめている。声がわずかに上ずっているのが分かる。男は何も答えない。時間だけが刻々と流れ去り、その間、誰一人として口を開こうとはしなかった。
「困りましたね」
 男はしばらくしてそう言った。
「私には、これは今話すべき話題ではないように思えます。特に知らない客のいる前ではね。しかし、あなたに何も話さないわけにはいかないことくらい、私も重々承知しています。もちろん、この絵のことはよく知っていますよ。あなたから嫌というほど報告を受けましたからね」
 男は写真を眺めながらつぶやいた。
「絵はおそらく、彼の部屋の壁に今もかけられたままになっているはずです。警察もさすがに絵までは押収しないでしょう。しかし、それ以上に今あなたにお話しできることはほとんどありません。あなたには多大な協力をいただきました。私が彼に会うことができたのも、元を辿ればあなたのおかげです。それがこんな形で終わることになってしまって、本当に残念です」
 男はそう言って、深いため息をついた。
 私は重苦しい沈黙の中で、部屋の中に飾られた無数の絵画を眺めていた。薄暗い店内で、絵画は無数の影にその姿を変えていく。青い光で照らされた空間の中で、その影は今にも額の中から這い出してきそうである。私は一方ではホテルの地下にいて、その一方では絶え間なく対岸の街へと引き戻されている。私はいつしか、影がうごめくあの路地の光景を思い出していた。あの日見た影が様々な形をとり、代わる代わる私の前にやって来る。ある影は老女の姿をとり、ある影は蛇の入れ墨の男に姿を変える。背後には鼈甲ぶちの眼鏡の男が立ち、私の肩にその右手をのせている。その手はまるで死人の手のようである。結局のところ、彼らは対岸の街からやってきた亡霊なのである。そのとき私はそのように考えていた。
「最後に彼に会ったのは私でした」
 気付いたとき、私は誰に向けてというわけでもなくその言葉を口にしていた。言葉は頭の中に渦巻く幻想を掻き消して、再び薄暗いバーの光景を私に見せた。バーテンと老女はうつむいたまま、こちらに視線を向けることさえしなかった。私はカウンターの一枚板に視線を落とし、私が知りえた事の全てを誰にともなく話し始めた。どうしてそのようなことをしなければならないのか、私自身にもよく分からなかった。しかし、そのようにすること以外には、私には物語の隙間を埋める手段が見当たらなかった。



 蛇の入れ墨の男よってこの街から盗み出された数々の作品は、どうやら対岸の街へと運び込まれているらしいことが分かっていた。彼らは盗品をせっせと対岸の街へと送り込み、再びこの街で新たな犯罪に手をつけた。さらに、あのギャラリーにおける窃盗事件の後で、彼の犯罪にはさらなる変化が起こった。彼は作品だけでは飽き足らず、その作者までもを盗むようになったのである。作品が盗まれた作者のうち数人は、それから間もなくしてこの街からその姿を消した。彼の犯罪には組織的な兆候が見え隠れし始め、そして気がふれたような粗雑な行為ばかりが繰り返されるようになった。偽造旅券の作成や作品の調査のために手近な人間と安易に手を組み、無理な改築を繰り返して、彼らはいびつな形をした組織を作り上げていった。彼らは旅券を偽造し、数人の芸術家を対岸の街へ密航させた。それが果たしてどのような大義の上にある行為であったのか、我々は知るべくもなかった。ただ、彼らにはしかるべき報酬が支払われ、それがまた彼らの車輪を回す原動力となった。  
 組織の頂点には、どういうわけか、ギャラリーで盗まれた絵の作者が立っていた。彼らの変化は、おそらくはそのために引き起こされたものであった。どのようないきさつで彼がその地位まで上り詰めたのか、それだけはどうしても分からなかった。しかしいずれにせよ、我々から見れば、彼はよろめく塔の上に一人立つあまりにも哀れな男であった。我々がすべきことは、その塔の上から彼を丁寧に引き下ろし、彼に組織の全容を見せることであるような気がした。こんなにも稚拙なものの上に立つことがどれほど無意味で愚かなことか、それを何としても我々は彼に知らしめねばならなかったのである。
 その朝、私はそのようなことを延々と話し続けた。しかしそれは、昨晩死んだ青年や蛇の入れ墨の男の行方について、私が何も知らないことを再確認する過程でもあった。結局のところ、私の物語には数多くの空白があり、刻々と過ぎ去った時間がその空白をさらに強調しているようだった。私の物語はそこで行き場を失ってしまった。再び部屋には深い沈黙が下りた。
「そろそろバーを閉めなくちゃならない」
 バーテンは静かに言った。  

5/5
 
 狭い部屋の中で、私は物語を書き続けていた。小説を書いている間、私はその部屋が街の地下の部屋であるのか、それとも現実に取り残してきた自分の部屋であるのか、まるで分らなくなってしまっていた。私の目の前には暗い夜の海が広がっていた。それは壁にかかる絵画のようでもあり、窓の外で波打つ本物の海のようでもあった。ある瞬間、その海の向こうには青白い街の明かりがぼんやりと浮かび上がったような気がして、そしてその次の瞬間には、その明かりは暗闇の彼方に消え去ってしまっていた。
 そのとき私が書いていたのは、蛇の入れ墨を持つ男の物語であった。そしてそれは、おそらくはこの街における私自身の物語でもあった。私は記憶の空白を埋めるように、原稿用紙に物語を書き連ねていった。昨夜死んだとされる男は、私とこの街で知り合うことになった。我々は同じ故郷を持ち、それが我々を引き合わせることになった。それは良い出来事とは言い難いものであった。その出会いのせいで彼は死に、私は亡霊のようにこの街を彷徨うことになった。しかし私には、それはどうにも避けがたい結果であったのではないかと思えてならなかった。結局のところ、我々はどこかで出会わなければならず、遅かれ早かれこのような結果に直面せざるを得なかったのである。そしてそう考えるにつけ、私の心はどこまでも深く沈んでいくことになった。どうしてこのようなことが起こるのか、私にはまるで分らなかった。もう二度と彼に会うことはできないのだと私は思った。そしてそのことだけが、私がこうして小説を書いている唯一の理由であるような気がした。



 あの日、私たちはホテルのエントランスで出会った。
 もう真夜中を過ぎたころ、私はそろそろとこの街にやってきて、高々とそびえ立つホテルへと歩いて行った。私はいつもこの瞬間が好きだった。あたりの景色は夜を照らす光の向こうに霞んでおり、嫌な記憶はどこか遠くへと消え去っている。私は蛇の入れ墨を持つ男である。その私を街の燦然と輝く明かりが照らし出す。冷たいアスファルトを一歩一歩踏みしめると、私の意識はより深く街の中へと沈んでいくように思われる。わずかに輪郭のぼやけた世界がそこにはある。ホテルのエントランスにたどり着くころ、私の心は現実を遠く離れて、そのぼんやりとした世界の一部になっている。
 彼の視線が私を貫いたのは、まさにそんな瞬間であった。ホテルのフロント係は、人気のないエントランスの中で、間違いなく私一人にその欝々とした視線を投げかけていた。彼はカウンターの中の帳簿に目を落とし、こちらのことなどまるで気にしていないという素振りを見せている。しかし、私が彼から視線を外した瞬間、カウンターの方からは、鋭い視線がこちらに送られることになる。私ははっきりとそれを感じる。しかし私は何も知らぬふりをして、地下へと向かうエレベーターに乗り込んだ。そして逃げ込むようにして、バーの中へと滑り込んだ。
フロント係が盗んだ絵の作者であるという事実を、そのときの私は知るべくもなかった。
 もしそれを知っていたなら、私は鼈甲縁の眼鏡の男に、壁にかかっている絵をすぐさま外すように進言したはずである。数日前に私が盗み出した絵を彼はひどく気に入り、それを丁寧にもカウンターの前の壁に飾っていた。だからこのバーに足を踏み入れたとき、フロント係はすぐに、我々が彼の絵を盗んだことを確信したはずである。
 彼がバーに初めて足を踏み入れたのは、夜中の二時を過ぎたころのことであった。入口のドアが軋んだ音を立てて開いたとき、我々は肝を冷やしたものである。カウンターの上に広げた書類を急いで隠し、我々は平静を装った。しかし当然ながら、彼は瞬時に全てを見抜いていた。彼はフロント係の制服のままカウンターに腰かけ、そしてウイスキーをくれないかと言った。
「随分と絵の多い店ですね」
感情のまるでこもっていないようなその声は、静まり返った部屋に明瞭に響き渡った。我々は押し黙っていた。冷たい沈黙があたりに漂う。
「時間を無駄にするような白々しい演技はやめていただきたい。あなた方のことはよく知っています。それに、私はあなた方の邪魔をしに来たわけではないのです。仕事がありますから、それほど時間がありません。しかし、あなた方にどうしても話したいことがあるのです」 
 彼は淡々とした口調でそう言った。
 思えば、彼はいつでも冷静だった。どんなことにも心を乱さず、どのような仕事であれ、水面に波紋一つ残さずにやり遂げることができた。雑居ビルの中にある自分の部屋で密航志願者と面接する彼の姿や、いかがわしい経歴を語る相手と商談をしている彼の姿が今もありありと思い出される。涙ぐみながら密航を志願する相手や、こちらが狼狽する程の金額を提示してくる相手に対しても、彼は時に平然と笑いながら手を振った。茫然と虚空を見つめる相手の表情を私は遠くから眺めていた。目的のためであれば、彼は誰に対してでも無表情のまま銃口を向けることさえできた。そこに彼の強さがあった。誰にも乗り越えられぬ壁を、彼はそのようにして易々と飛び越えていったのである。
 思いもかけないことであったのだが、彼は我々の活動に好意的であった。それが自分の作品を盗んだ相手の活動であるとしてもである。その夜、彼は我々の仕事に対する幾つかの感想を述べ、そしてその後で彼自身の望みを滔々と語った。端的に言えば、彼の願いはこの街に住む対岸の街の出身者をその故郷へと帰すことであった。我々の活動を拡大し、彼らの作品だけでなく、彼ら自身を故郷へ帰すのが彼の唯一の願いであった。
 その夜、彼はそのような自分の願いを簡潔に述べると、再びフロントの所定の位置へと戻っていった。我々はただただ困惑して、彼の後姿を見送った。そしてその困惑は、彼が死ぬまで果てることはなかった。彼が瞬く間に作り上げた街の地下をめぐるネットワークは驚嘆に値するものであり、躊躇なくどこまでも突き進むその意思の力は、とても我々の既存の器に収まるようなものではなかった。彼は我々を飲み込み、その外殻を際限なく拡大し、そしてその必然の帰結としてその頂点に立った。気づけば様々な人間が我々の周辺者となっていた。彼らはひっそりとホテルの地下にやって来て、我々に情報を提供しては去って行った。郷愁の念は芸術に昇華されるというのが彼の持論であった。我々の周辺者には芸術の批評家が溢れ返り、当然ながら、そこにはあのギャラリーのオーナーも含まれていた。
 我々は作品から作者の意思をくみ取り、彼らに偽造の旅券を提供した。そして少しばかりの見返りを受け取り、それを元手に次の密航に着手した。それが果たしてどのような意味を持つ行為であるのか、それを明確に説明するのは難しい。しかし、対岸へ向かうコンテナの中に盗み出した作品を忍ばせるとき、あるいは志願者に偽造旅券を手渡すとき、我々の心は少しばかり満たされた。作品やその作者が自分自身の分身として故郷へ帰っていくことで、我々は理由もなく満たされていたのかもしれない。
 とにかく、それがどのような意味を持つ行為であれ、その反復は果てなく続いて行くはずであった。しかし彼が死んでしまった今、その組織は作り上げられたのと同じ速さで崩れ去りつつあった。組織はまるで彼の命そのもののようであった。彼がぼろぼろと死にゆく様を、我々は延々と眺めていなければならなかった。



 鼈甲縁の眼鏡の男が部屋のドアを開くまで、私は原稿用紙にそのような物語を書き続けていた。それは蛇の入れ墨を持つ男の物語であった。私がこの街の一員になるためには、私はどうしても蛇の入れ墨の男ではなければいけないような気がした。ここは紛れもなく私自身が作り出した小説の世界である。そして私はおそらく、自分自身を蛇の入れ墨の男に重ね合わせてこの小説を書いていたのに違いなかった。
 思えば、この街へ迷い込んだ夜、私はおおむね今と同じような境遇の中にいた。すなわち、私は真夜中の書斎で、小説の続きを書こうと万年筆を握りしめ続けていたのである。私はその間、息が詰まりそうな気分にとらわれていた。どれだけ考えを巡らせても、もうこれ以上は一文字も書くことができないような気がした。小説を書くことはあまりにも苦しい作業になり果てていた。そしてとうとう私は諦めて、原稿用紙を引出の奥に放り込んだのである。しかし、それでも小説のことを忘れることはできなかった。小説はまるで呪いのように私につきまとい、決して私を許してはくれなかった。
 今夜この街に迷い込んだ意味は、おそらくそのような文脈の中にある。私はすでに自分が作り出した小説の中に囚われてしまっている。私にはこの物語をしかるべき場所まで運んでいく義務がある。それがどれほど稚拙な物語であれ、私に求められているのは、この物語を最後まで書き通すことなのではないだろうか。
 その朝、鼈甲縁の眼鏡の男が部屋のドアを開いたとき、私はすでに疲れ果ててしまっていた。
「客は帰りました」
 彼は優しく微笑んだ。私は丸椅子に腰かけたまま、ゆっくりとうなずいた。 
「この部屋を引き払おう。全部を置いてどこかへ逃げた方がいい」
 私は言った。
「そうですね」彼は戸枠に背中をもたせて腕を組む。そして床を見つめ、開け放たれてゆらゆら揺れるドアを見つめている。
「しかしどこへ行けばいいのでしょうね?」
 彼はそう言って、にっこりと笑った。
 私は彼に机の中の原稿用紙を入れるための入れ物を頼んだ。私は机の引き出しから原稿用紙を一枚一枚取り出して、丁寧に皺を伸ばし、彼が差し出してきたプラスチックケースの中へと放り込んだ。作業にそれほど時間はかからなかったが、次第に眠気が押し寄せてきて、単純な作業の向こうで思考が曖昧になって行くのが感じられた。作業が終わると、私はそのケースを手にゆっくりと立ち上がった。私に必要なものはそのくしゃくしゃの紙束だけであった。彼は私にコーヒーを勧めたが、私は首を振って断った。私はその代わりにウイスキーの小瓶を一本彼から受け取り、店の外に出た。
 その朝、私はホテルの裏口へ続く通路を抜けて外に出た。空にはすでに太陽が浮かび、朝の光が冷え切った空気の中で輝いていた。私はふと思い出して、ポケットから昨夜もらったばかりの航空券や旅券を取り出し、陽光の下でそれらをまじまじと眺めた。私は空港でそれらを係員に差し出す自分の姿を想像し、さらには対岸の街に降り立った自分の姿を想像した。しかし、それはあまりにも現実味のない空想であるような気がしてならなかった。想像の中には揺らめく青白い街がどこまでも続いており、私はその中をどこまでも彷徨い続けていた。そのような未来はあまりにも憂鬱で、そこにはどれほどの価値があるのかと考えずにはいられなかった。しかし、それでもなお、私がこれまでに求めてきた未来は、紛れもなくそのような未来ではなかったか。そのように考えると、私は途端に不思議な思いに捉われた。どうして私は自分が求めていたものをこれほどまでに陳腐に感じるようになってしまったのだろうか。もはやこの世界にはどのような意味さえも残されていないのかもしれない。そのように考えること以外に、私にはもはやどのような道さえも残されていないような気がしてならなかった。

Ⅴ/Ⅴ

 携帯電話が鳴ったのは真夜中のことであった。私は仕事を終えて帰宅する車中にいたのだが、その一報を受けて車の行き先を空港へ変えた。それは部下からの電話であった。その口調には何やら切迫したものが感じられた。彼は蛇の入れ墨の男が空港に姿を見せたことを私に告げ、すぐに来てほしいとだけ言って電話を切った。
 車は深夜の道路を駆け抜けた。その頃、空からは突如として大粒の雨が降り始めていた。雷鳴がとどろき、吹き荒れる風が街路樹の葉を瞬く間に散らしていった。それはほとんど嵐といってもいいような夜であった。視界を遮るように吹き付ける雨の向こうに、いくつもの信号の光が霞んで見えた。
 私が空港のラウンジに到着したとき、窓ガラスの向こうに見える滑走路には緊張が張りつめていた。滑走路の真ん中には蛇の入れ墨の男と思しき人物が立ち、その周囲を銃を構えた警察官がぐるりと取り囲んでいる。男はどうやら自らのこめかみに拳銃を突き付けているようである。警官たちはじりじりと男との間合いを詰めていく。その間にも風雨はますます強くなる。彼らの姿はその雨の霧の向こうに見え隠れしていた。私はガラスの壁に顔を近づけ、事態の顛末を何とか見届けようとした。しかし、ガラスに打ち付ける雨はあまりにも激しく、その水滴が幾度となく私の視界を遮っていた。
 部下によれば、蛇の入れ墨の男が滑走路の真ん中に突如として現れたのは、私が到着する一時間ほど前のことであったという。空港の職員が滑走路に侵入した彼を発見したとき、彼は左脇にウイスキーの滴る原稿用紙の束を抱え、右手に拳銃を持っていた。そして通報を受けた警察官が空港に姿を見せたとき、彼は右手の拳銃をこめかみに近づけて周囲を制し、それから再び空を見上げた。その姿は、まるで舞い降りてくる何かを待ちうけているかのようであったという。
 私はその報告を聞いたとき、舞い踊る風雨の向こうに、稚拙な幻想を見出していた。それは、滑走路にプロペラ飛行機が舞い降りる光景であった。飛行機は警察官たちを蹴散らすようにして滑走路に滑り込み、乗り込んだ彼を乗せて再び飛び去って行く。警察官たちはあっけにとられたまま、飛び去って行く飛行機を見上げている。飛行機の向かう先は対岸の街である。飛行機は嵐の間を縫うようにしてよろよろと飛び、やがて黒雲を突き抜けて静かな雲上に出る。頭上には夜空に輝く月が浮かび、その光が彼の姿を清らかに照らしている。月光を辿るようにして、飛行機はその故郷へと帰っていく。それは青白い光に満ちた、底知れぬ街である。飛行機は男もろともその青の深くへと沈んでいく。おそらく彼は二度とそこから浮上してくることはない。しかし彼にとっては、それこそが至上の幸福であるのに違いない――。
そのような夢想の後で私が目にしたものは、滑走路の中央で燃え盛る小さな炎と、ぼろぼろと崩れていく現実の様相であった。
 男は原稿用紙に火を点けたようで、彼は燃え盛るその紙束を高々と天に掲げ、立ち上る煙と降り注ぐ雨を交互に見つめていた。私には彼は高らかに笑っているような気がしてならなかった。それは半ば自暴自棄とも言えそうな、諦めに似た笑みである。聞こえるはずのない笑い声が、ラウンジの薄闇にまで轟いてくる。
 誰もが唖然としてその男の姿を見つめている。原稿用紙が燃えるにつれて、世界はどこまでも焦げ付いていき、そして気が付いたときには、あたりは底知れぬ暗闇の中に沈んでいる。意識はどこまでも薄まり、男の笑い声だけがなおも周囲に響いている。消えて行く最後の意識の中で、私は短い夢をみる。私の意識は、その夢とともに消えていく。



 私は車に乗って、都市のまばゆい明りの中を駆けていく。いくつもの対向車とすれ違い、無数のブレーキランプとエンジン音の中をすり抜けていく。私は道を行く間、ただ過去の記憶をひたすらに思い返していた。一度だけ訪れたあの青白い街をできる限り鮮明に脳裏に思い浮かべ、再びあの薄暗い路地の中に自分の心を漂わせた。記憶の路地の中にはいつもあの鼈甲縁の眼鏡の男がいる。彼は私に手を伸ばし、そして不敵に微笑んでいる。もしあの時、私が彼の手を振り払わずにいたら。そう思うと、心の底は凍り付くような冷気に包まれる。思えば私は、あの男を記憶から消し去るべく、これまで生きてきたような気がする。そして私は未だに彼の記憶を消し去れずにいる。夢の中にいてまでこのようにして車を走らせているのも、結局はその無駄な行いのうちの一部なのかもしれない。
 道の果ては、あの雑居ビルへと続いている。私は車を降りると非常階段を上り、あの青い部屋へと向かう。部屋のドアは開いており、中に入ると殺風景な部屋の中に二人の人間が立っている。それはあの蛇の入れ墨をもつ男とギャラリーのオーナーである。彼らはまるで私の存在には気が付いていない様子で、こちらに背を向けたまま、壁にかかる絵を眺めている。それは例のプロペラ飛行機の絵である。彼らは無言のままその絵の前に立ち尽くしている。そしてその間を無限の時間が流れていく。
「どうしてこんなことになってしまったのでしょう」
 蛇の入れ墨の男は呟くように言う。
「どうもこうも、すべてはあんたのせいじゃないか」老女は絵を眺めたまま答える。「あんたがこの絵を盗んだせいさ。それで全てがおかしくなった。それは誰の目にも明らかってもんさ。誰にだってどうにもならないことがある。あんたはそれを無理に捻じ曲げようとした。だからこんなことになったんだよ。違うかい?」
 蛇の入れ墨の男は黙っている。彼は右手にプラスチックケースを握りしめ、それをぼんやりと眺めている。
「確かに我々のやり方はひどく歪んだやり方だったかもしれません」彼はそう言いながら、壁にかかる絵にゆっくりと手を伸ばす。
「しかし、我々にはこうするよりほかどうしようもなかったのです」
 彼はそう言って額縁を壁から外し、それをゆっくりと床に置く。
「いいかい。私が言いたいことは分かっているはずだよ。私がどうしてその絵を気に入ったのかも、その絵をギャラリーに飾ったのかもね。この絵はあのままギャラリーに飾られているべきだった。それ以外にはどうしようもない代物なんだよ。もう二度と取り戻せないものなんてこの世には腐るほどある。あの絵が表しているのはきっとそういうことだった。誰の目にも明らかなことが、どうしてあんたらにはわからないのかね」
 彼は無言のまま戸棚から白い布を取り出し、手慣れた様子で絵を包んでいく。
「そうですね。今になってみれば、あなたの言葉の意味はよく分かります。しかし、彼が死んでしまった以上、何か言葉を口にできるのは私だけになってしまいました。私には彼の名誉を守る義務がある。こんなありふれた捨て台詞をあなたに向けるのはまったくもって不本意ですが、しかし、我々には我々なりに信じているものがありました。それをいまさら裏切るわけにもいきません。そしてそれはあなたが信じていることとはまるで違うものでした」
「そうかい。まあ、今さら何を言っても取り返しはつかないね。あんたがどれだけの言葉を並べ立てたとしても、おそらく私には何も理解できないままだろうよ。まあそれはいいさ。ところで、その絵はそこに置いて行くつもりなんだろうね?」
「ええ。元々はあなたのものです」
 彼はそう言って布に包まれた絵を壁に立てかけ、それから身をひるがえして私の横を通り過ぎいく。
「ねえ、あんたこれからどうするつもりだい?」
 老女の問いかけに男は何も答えない。彼はプラスチックケースの中からウイスキーの入った小瓶を取り出し、それを一口だけ口に含む。ケースの中には幾枚もの原稿用紙が詰め込まれており、その端がわずかにのぞいて見える。
「もうあなたに迷惑をかけることはありませんよ」
 彼はそう言い残して部屋を出て行ってしまう。
 老女は白い布にくるまれた絵を眺め、その場に立ち尽くしていた。そしてゆっくりとそれを拾い上げると、彼の後に続くように非常階段を下って行った。
 二人が出て行ってしまった後で、私の目の前には青く塗られた部屋だけが残された。私はしばらくその場に立ち、周囲をぼんやりと眺めていた。青はどこまでも深く、私の記憶と交差してぐるぐると旋回を始めるようだった。私はその渦に飲み込まれまいと急いで玄関の外に出て、ドアを勢いよく閉めた。青い渦はドアの向こうに封じ込まれ、そこで私の夢はぷつりと途絶えてしまった。そこにはただ暗闇だけが広がり、その先には何一つとして存在していなかった。物語が終わってしまったのだと私は思った。これより先はこの暗闇の中を延々と歩き続けることになる。私は周囲を見回し、どこか遠くに都市の光がないものかと探していた。あの光さえあればと私は思った。あの光だけが、この深い暗闇を照らす唯一の存在であるのに違いなかった。

対岸の街  ©中田 新

執筆の狙い

現実から逃げ出したくて書きました。

中田 新

106.184.21.178

感想と意見

へげぞぞ

お久しぶりです。
なんか、中田さんの名前は重厚な作品を書く人として記憶にのこってます。
面白い話ですね。
「対岸の街」という幻想的な表現もよいのですが、
殺人強盗を操ってる芸術家というのはたまらないオチですね。
けっこういいと思います。

2017-04-15 15:51

180.199.23.223

中田 新

へげぞぞ 様

お久しぶりです。
以前に投稿したのはずいぶん前だと思いますが、覚えていていただいて、とても嬉しいです。
感想をありがとうございました。

2017-04-15 22:52

106.184.21.224

晴れて名無し

あ、感想欄でオチが、オチが、見えてしまった……(泣)

2017-04-16 21:52

113.159.214.242

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です(テクニカルサポート)。

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