作家でごはん!鍛練場

『手紙』

秋人著

少し長いですが、感想をいただけたら幸いです。

よろしくお願いします。

なんてことはない一日が終わり、暗闇に包まれた街のなかに、いつのまにか降りはじめた雨を眺めながら、いま、僕は彼女から届いた手紙を読んでいる。何の変哲もない茶封筒に、丁寧だけど、どこか歪な、見慣れた文字。買い物から帰ってきて、ポストにその手紙を見つけたとき、僕はすとんと過去に引き戻されたような気持ちになった。なにしろ、僕らが友人だったのはもう何年も前のことで、有るか無きかの繋がりが消えてからは、まったく連絡を取り合ってはいなかったからだ。気持ちを落ち着かせようと、コーヒーを淹れ、ゆっくりとそれを飲みながら、しばらくのあいだ、僕はそこに書かれた文字をじっと睨んでいた。いったい、これは何かの間違いじゃないか、と思いながら。
しかし何度見直しても、それはもちろん間違いではない。
じっと覗き込むように近づけたり、遠く翳して眺めてみたり、何度も矯めつ眇めつしているうちに、なんだかいろいろなことを考えたものだ。僕らが離れてからたった長い歳月と、僕らが近づいたり離れたり、親しくなったり疎遠になったりを繰り返していたあのころの、長くとりとめのないいくつもの夜。そうして、そこを埋め尽くすように飛び交っていた、たくさんの取るに足りない話が思い出される。もっとも、遠く霞む景色の向こうは、いまではほとんど忘れ果てたとさえ言っていいほどだったが、思い切って読みはじめると、見慣れた文字が遠いところから彼女の姿を運んできて、いつしか僕のどこかで、あの懐かしい声が聞こえる。
「本当に懐かしいね」と、彼女は書いている。
そう、たしかに懐かしい。
 読み進むうちに、あんなこともあった、こんなこともあったと、ますますいろいろなことが蘇ったが、しかし実際にそこに書いてあることと言えば、なんだかはっきりしない、どうにも意図が汲み取れないようなことばかりだ。僕らの話がいつもそうだったように、何かを伝えようとするというより、沈黙を紛らわせるためのような、だらだらとした長い話。ただ真っ白い紙を埋めるためのように、無理やり切り出した話題が延々と続き、彼女の手紙には何枚もの便箋に渡って、遠いことから近いことまでいろんなことが書かれていたが、はじめのところで、彼女はどうしてこの連絡先が分かったかを、まるで言い訳のように記している。たぶん、彼女はそのせいで、僕が疑問を抱くと思ったのだろう。まるで手当たり次第伝手を辿って、僕の消息を知ろうとしたみたいに。そしてそのことで、僕が何か勘違いするとでも思ったのかもしれない。いずれにしても、あれこれと持って回った言い訳のせいで、はじめの部分で、手紙はずいぶんと支離滅裂なものになっている。
それにしても、いったいどうして、こんなものを書こうと思ったのだろう? 何年も何年も、すっかり忘れてしまえるだけの時間が経ったあとになって、どうしていまさら、僕のことなんて思い出したのか? 丹念に、ゆっくりと読みながら、そのあいだじゅうあれこれと思いあぐねる僕と同じく、彼女自身も手紙のなかで、何度もその疑問を口にし、そのたびに思いあぐねたように、「なぜかしらね」と答えている。
「あなたには、分かりますか?」
そんなことを言われても、もちろん、まるで見当はつかなかったが、しかしそれはちょうどあのころ、何が僕らを引き付けたのか理解できなかったのと同じだったかもしれない。何かの授業で隣合わせて、ノートを貸したのがきっかけで話すようになり、いつのまにか何かにつけて会うようになった。そんな風に、あまりに月並みにはじまった、あまりにありふれた、僕らの関係。しかしいま思えば、僕らのあいだにあった友情(のようなもの)には、ずいぶんと歪なものがあったような気がする。言葉にならない奇妙な緊張、ときおり降りる沈黙のたびにあらわれるおかしな雰囲気が、そこには絶えず付きまとっていたが、しかしその発露はと言えば、会うたびに映画を見たり、芝居を見たり、それから宛てもなくただぶらぶらと街じゅうを歩き回ったり、とにかく、ひたすら時間を無駄にするだけのことに過ぎなかった。
まったく、僕らが過ごした長い夜と、そこで交わしたつまらないやりとりは、いまでは滲んだように溶け合い、その一つ一つはまともに思い出すこともできなかったが、しかしあのころ、灯りに吸い寄せられる虫のようにあたりを彷徨いながら、僕らが一番長い時間を過ごしたのは、駅の裏にある、あの小さなカフェだったかもしれない。
各駅停車しか止まらない小さな駅の、人通りも稀な、どこか寂れた裏通り、古ぼけた雑居ビルの一階に、その店はあった。見かけよりずっと奥行きのある、細長い店内には、木目も露わな長いカウンターと、いくつかのテーブルがあるばかりで、――あのころ、僕らが毎日のように通ったとはいえ、そこはとりたててどうというほどの店じゃなかった。なにしろ、メニューは極端に少なく、そのどれもがとんでもなく不味い上に、年配の店主はにこりともしない、なんだか妙に憂鬱な人物なのだ。ただそれでも、コーヒーだけはびっくりするくらい美味かったから、僕らはいつもそればかりを頼んでいた。僕らの定位置は、一番奥の窓際の席。ゆっくりと過ぎる夜のあいだじゅう、カウンターの奥から流れて来る静かな音楽に耳を傾けながら、僕らはぽつりぽつりと、とりとめのない話をした。
でも、よく思いだせないな。あのころ、僕らはいったい何を話したんだっけ?
同じ大学、同じ学部とはいえ、僕らの専門はまるで異なっていたから、読書の範囲もまったく言っていいほど異なっていた。映画の趣味もずいぶん違っていて、一緒に行っても、しばしば同じ映画館のなかの、べつべつの映画を見ることさえあったくらいだ。あれこれと話すなかで、意見の一致をみることはほとんどなく、いまにして思えば、どうしたって親しくなんかなりようがない二人だったけれど、それでも唯一共通と言える話題があって、それがすなわち、当時彼女が付き合っているという男のことだった。
それまでは、ぽつりぽつりと、気のない調子で話していたのに、いったん彼のことが話題になると、彼女はいつも別人のように饒舌になったものだ。虚ろな眼に生気が戻り、青ざめた顔にさっと血の気がさして、堅くこわ張っていた表情は、突然素早く動きはじめる。まるで息を吹き返したように、身を乗り出して話すうちには、切れ切れなエピソードがあらわれては消え、あらわれては消え、これで終わりかと思っていると、またぽろぽろと転がり出て来る。
彼がこうした、ああ言った。そんな僕にはどうでもいいような、あれやこれや。
だらだらと続く話のなかには、浮かれた話や沈んだ話も取り取りにあって、彼女の語り口と合わせて、なんだか映画のあらすじでも聞いているみたいだった。話しながら、彼女は笑うこともあれば、涙ぐむこともあり、とにかく見ていて飽きなかったけれど、ある時期を境に少しずつ泣くことの方が多くなって、月日とともに表情はますます強張ったものへと変わっていった。いまにして思うと、おそらく、あのころがちょうど、彼女にとって一番辛い時期に当たったのだろう。彼女はむしろ好んで彼の写真を見せてくれたし、彼とのメールも見せてくれたけれど、しかし彼が結婚しているという肝心な部分については、ずいぶん長いあいだ教えてはくれなかった。まったく、信じられないくらい複雑な関係だ。そしてまた、信じられないくらい間抜けな関係でもある。
「不倫だね」と僕は言った。「まったく、なにやってんだか」
「ほんとよね」とにっこり笑って、彼女は言った。「ねえ、それで、わたしのこと馬鹿だと思う?」
「ははは。思う、思う」
 知り合ってまもなく、僕は彼女が好きだと言っていたが、そんなことにはもちろん何の意味もなかった。ほんの一瞬、戸惑った表情を浮かべただけで、彼女はすぐさまそれを笑い飛ばし、それを見ると、僕もなぜだか笑ってしまって、結局すべてがうやむやのうちに、僕らは友達になった。もちろん、それからは二度とそんなことを言い出すことはなかったけれど、あのころ、数えきれないくらいしばしば顔を合わせながら、では、そのあいだじゅう、僕らが何をしていたかと言うと、話が途切れて沈黙が降り、それが気まずいほど長く伸びるたびに、まるで共通の知人の話のように、どちらからともなく彼の話を持ち出すのだ。彼女の話は同じところを行きつ戻りつ、ときにはひどく沈みこんで、埒のない繰り言に終わることもあったし、明け透けに語るなかには、僕にとって耳に入れたくないことも数えきれないくらいあった。
しかしそれでも、黙ったままでいるよりはずっとましだ。
ときには、勢い込んだ彼女の話は、永遠に終わらないのかと思うほどだらだらと続き、窓が曇るほどきつくかかった暖房のなか、うねるように流れる話に乗って、長くけだるい午後が流れて行く。あまりに埒の明かない話と、どこにも辿り着かない彼女の恋に、気がつけば、目を開けたまま僕がうとうととまどろんでいることもあって、曇りガラスに映る彼女の影と、頭のなかを漂う彼女の話が、いまも記憶のなかをぐるぐると回っている。そんな風に、ぼんやりと膜がかったように記憶が霞んでいるせいか、あるいは、そのとき場に降りていた雰囲気のせいか、いまでははっきりと思いだすことのできないそれらのとき、話の最後ではいつも決まって、
「いったい、わたしはどうすればいいんだろうね?」と彼女は言った。「このごろ、自分でも思うのよ、いつまでこんな馬鹿なことを続けているんだろうって」
そのたびにへらへらと笑いながら、「さあね」と僕は言った。怒りたいような、泣きたいような、それらが複雑に入り混じった、妙な気持ちで。「そんなの、僕に分かるわけないだろう?」
あれからずいぶんと経って、いま、すっかり冷めてしまったコーヒーのカップを手に、ぼんやりとそのころのことを考えていると、なぜか脳裏には白く立ち昇るコーヒーの湯気が浮かんできた。そうして、それからそれへと、思い出は溢れるように浮かび上がり、まもなくカウンターの奥から流れて来る甘いピアノの旋律と、眠りこけた店主が立てる小さないびきが蘇ってきたが、あのがらがらのカフェで、彼女の話に耳を傾けながら過ぎて行った、長い長いいくつもの午後、ぼんやりと外に目を向けるとそこには凍り付いた僕らとはまったくべつの時間に沿って流れる、嘘臭いほど綺麗な夕焼けがあった。だらだらと、まるで眠気を誘うための音楽のように、出口を見つけられないまま話す彼女と、何も言えない僕を置いて、それはゆっくり夜へと傾いて行く。
まもなく、ため息をついて、「帰ろうか」と彼女は言った。

            *

ある夜、僕らはいつもの店で顔を合わせた。夕方から降り出した雪が次第に勢いを増して降り続けている、おそらく、その年最初の、氷点下を下回った冷たい夜。突然かかってきた電話で、いま暇? と彼女は言い、いまにも消え入りそうに震える声が、こちらの問いには答えることなく、とにかく来て、とあとを続ける。窓の外ではとにかくしんしんと雪が降り続けているし、あたりはそれこそ凍えるような寒さだったから、僕はよほど、おい、ふざけるなよ、と言って切ろうとしたが、いまにも泣き出しそうな彼女の声を聞いていると、どうしても言い出すことは出来なかった。結局僕は慌てて身支度をして、雪のなかへと飛び出していった。
しかし散々苦労して、ようやくその店に辿り着いたとき、そこに彼女の姿は見当たらなかった。電話での切羽詰まった様子からして、きっと向こうが先に着いているものと思っていたから、がらんとした店内を見ると、なんだか拍子抜けしたものだ。通りには相変わらずしんしんと雪が降り続け、道行く人はほとんどいない。店内もまたがらがらで、奥の方で腕を枕に眠りこけている若い男一人しかいなかった。
いつもの席に腰を下ろして、しばらくはぼんやりと窓外に降る雪を眺めていたが、しかし三十分たっても、一時間たっても、彼女はなかなかあらわれなかった。ためしに電話をかけてみても、まるで返事はなく、だらだらと夜が過ぎるうちに、いつしかくたびれ、おそらくそのとき、僕は半分眠りこんでいたのだと思う。やがて小さなベルの音を立ててドアが開いたとき、頭のなかでは風に散らされる雪のように彼女の姿がひらひらと漂い、それが二重写しで目の前の姿と重なっていた。彼女は笑っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。そして単に寒さのせいばかりとは思えないほど顔色は青ざめ、表情は痛々しいほどこわ張って見える。
「ごめんね、遅くなって」と彼女は言った。ほとんど聞き取れるかどうかという、今にも消え入りそうな小さな声で。「ずいぶん待ったんじゃない?」
 顔を上げて、涎をぬぐいながら、「構わないよ」と僕は言った。来たら絶対言ってやろうと思っていた言葉は、彼女を見るなり跡形もなく消え、声には、いくら抑えようとしても、自然と深い安堵が滲んでしまう。「べつに構わないよ。こうして、きみはちゃんと来てくれたしね」 
「なら、いいんだけど」
そうして、くすくすと笑いながら、向かいの席に腰を下ろし、すぐに温かいコーヒーに口をつけながら、あのとき、彼女はしばらく躊躇っていたのだろうか? それとも、すぐさま単刀直入に切り出したのか? 長く気まずい沈黙、どうしようもなく重い雰囲気が記憶の底には残っているが、あるいは、それはべつの夜と混同しているのかもしれない。あのころ、僕らのどちらもが話す言葉を見失うたびに、ひっきりなしにコーヒーをお代わりしていたことが、思い浮かぶ。おそらくは、あの夜もまた、僕はしきりにコーヒーをがぶ飲みながら、とつとつと語る彼女の話に耳を傾けていたはずだ。どれもこれも、曲がりくねった、底無しに暗い、彼女の話。隙間なく雪に満たされたその夜の景色と同じように、それはいずれもひどくぼんやりとして、いまではろくに思い出すこともできなかったが、しかしやがて「子供ができたみたい」と言ったとき、彼女が弱々しく笑っていたことだけは覚えている。
いまにも泣きそうな顔を歪めて笑いながら、「しくじっちゃった」と彼女は言う。
そのとき、何を考えることもできずに、彼女を見つめながら、こんなことがあるだろうか、と僕は思った。こんなに、ひどいことがあるだろうか? そして何かを言おうとしては、そのたびに失敗しながら、僕はもう一度あらためて遠くから彼女を眺めてみた。その表情の奥の奥、どれだけ願ったところで僕が決して触れることのできなかったその場所で、いったい彼女が何を考えているのか探ろうとして。まるで縫い目から綿が零れるように、そこからはいまにも壊れそうな何かが覗いていたが、それはたぶん僕の方だって同じだっただろう。やがてへらへらと笑いながら、
「僕の子供?」と、尋ねてみた。
「まさか」と言って彼女は笑う。まるで冗談なのか本気なのか、一瞬図りかねたとでも言うように。唇の端を持ち上げて彼女は笑い、それから突然痛みを感じたように顔を歪めると、もはや怒りを隠そうともせず「あなたとは一度したきりでしょう?」と言った。「変なこと言わないでよ。そんなわけないじゃない。ねえ、落ち着いて考えてみて。わたしがどれだけ彼としていると思うの?」
「まあ、そうだね」と僕は言った。怒りを覚えながら、しかしそれをどう表現すればいいのか分からずに、ただ乾いた笑みを浮かべて、それからまた「いや、僕の子供だな」と言った。「そうに、決まってるよ」
「頭おかしいんじゃない?」
「それはきみの方だろう?」
それから、ぐっと声を落として「いったい、どうするつもりなの?」と尋ねた。
しばらくのあいだ、下を向いて、彼女はきつく唇を噛み締めていた。それから気を落ち着かせるように、何度も深い呼吸を繰り返したが、それだけしてもテーブルの上で組み合わせた指は、まだ落ち着かな気に震えている。やがて、「彼に話したの」と彼女は言った。
「もちろん、彼は責任を取るって言ってくれたわ。だからあなたが心配することは、何もないの。そもそも、あなたには何の関係もないしね」
「嘘ついているわけじゃないよね?」
「どうして?」と言って、彼女は笑う。「やめてよ、馬鹿馬鹿しい」
 彼女がコートを掴んで立ち上がろうとすると、僕は慌てて腕を掴んで引き戻した。
「本当に大丈夫なんだね?」
「何回も言わせないで」
そして彼女は飛び出して行き、たちまち雪の向こうに見えなくなった。よろけるように、足をもつれさせながら駈け出して行った彼女を、どうして追いかけようとしなかったのか、まったく、いまでも不思議でならない。慌てて追いかければ、きっと捕まえられたはずなのに。それなのに、どうしても立ち上がる気になれなかったのは、あるいは心のどこかでは、いまさら何を言ったところで無駄だと分かっていたからかもしれない。これまで数えきれないくらいたくさんの夜、言うべきことを言えなかった僕に、このときになってようやく何かが言えたとしても、彼女が考えをあらためることなんてありはしない。まもなく、店を出て、駅へ向かって歩きながら、僕には痛いほど分かった。いまさら、僕に出来ることなんて何もないのだ。 
それから、たぶん一週間は経っていたと思う。あの夜、通りを埋め尽くすように降りしきっていた雪が嘘のように、打って変って季節外れの陽気が街に降りたその晩、僕らはまたあの店で顔を合わせた。ぼんやりと外に目をやりながら、いつものように奥の席で待っていると、やがて彼女があらわれ、向かいの席に腰を下ろす。そのときの彼女は、前よりも疲れて、なんだか傷を負ったように弱々しく見えたものだ。これまで見たことがないほど青ざめて、その奥から脆い素顔をむき出しにしている。まるでいまにも崩れ落ちそうなその様子に、なにもかもを察して、僕は言いたいことも言えずに黙っていたが、結局、沈黙に耐え切れずに先に口火を切ったのが僕なら、その挙句転がり出てきたのも、
「終わったの?」という、どうしようもない一言だった。「もう、――全部済んだんだね?」
「そう、終わったの」と言って、彼女は笑った。「ぜーんぶ、お仕舞い」
  
          *

「わたしたちがまだ子供だったころ」と最後のところで、妙に神妙に彼女は書いている。
「毎日毎日、あれだけ何度も顔を会わせて、いったい、わたしたちは何を話していたのかしら? なんだか、すごく大切なことを、たくさん話したような気もするし、大したことは何も話さなかったような気がする。あのころ、わたしがしでかす馬鹿なことに、あなたは笑ったり、ちゃかしたりしながら、本当はいつも心配してくれていたのにね。わたしたちのはじまりから終わりまで、あなたは一瞬の例外もなく優しかったけれど、わたしにはたぶん、それだけでは足りなかったのだと思います。今度こそ本当のことを話そう、今度こそなにもかも打ち明けようと思うのに、そう思えば思うほど、いつのまにかつまらない嘘ばかり言うようになって。終いには、あなたが向けてくれるその優しささえ、わたしはその通りに受け取れなくなってしまった」 
「ごめんなさい」と彼女は書いている。「いまさらこんなことを書いて、わたしは何がしたいんでしょうね」
あれからまもなく、僕らは揃って大学を卒業した。いつしか彼女が生活の中心になり、最後の方では学業そっちのけで彼女と会ってばかりいたから、もちろん成績は惨憺たるものだったが、それでもまあ、一区切りだ。彼女はある中学に臨時教師の口を見つけ、僕は細々と物を書く仕事をはじめようとしていた。おそらく、そんな風に忙しくなったのは、どちらにとっても良いことだったのだろう。僕らがともに過ごす時間は目に見えて少なくなり、ときにはすっかりお互いを忘れていることだって珍しくなかった。そうしてまもなく、僕はべつの女性と付き合いはじめた。
そんな風に、あらゆる意味で僕らを結ぶ糸は途切れ、いつのまにか、それは僕らのあいだで虚しく風に吹かれていたが、しかしそれでも、しばらくのあいだ僕らは何かにつけて顔を会わせてはいた。仕事帰りや、たまに休みが合った日に、電話をかけて、例の店で待ち合わせるのだ。これまで散々繰り返したのと変わらない無意味な時間が、そこでは以前と変わらず流れてくれるはずだったが、それはいずれも短い時間に過ぎなかったし、そのうえ以前の親密さを考えれば笑えるほどに、そっけない時間でしかなかった。そのころ、会うたびに彼女は潤いなくぎすぎすしていたし、僕もまた話しながら不愉快な人間になりつつあることが自分でも分かった。つまらない口論を重ねた挙句、先に会うことを止めたのがどちらだったか、いまではもう思い出すこともできない。
あれから、本当に何年もたった。
そんな風にして僕らは連絡を取り合うことも止め、それぞれに与えられた日々のなかを潜り抜けた。おそらく、それはどちらにとっても満足とはいかない日々だっただろう。僕にとっては実り少ない、ただ疲れることばかりが多い年月。まるで目の前に延びる長い坂道を、どうしようもなく下り降りて行くような毎日だったが、今思うとそれは彼女にとっても同じだったのかもしれない。胸に秘めたいろいろな願い、大切にしていた夢の一つ一つが挫かれて行った軌跡が文章のあいだからも滲んできた。手紙を書いた理由について、彼女ははっきりとしたことは最後まで何も書いていなかったが、何も聞かなくても、それだけでもう十分な気がした。
「このごろよく考えるの。あのころ、わたしたちが一緒にいたのは何のためだったんだろうって。いろんなところに行って、あんなに長い時間を一緒に過ごしながら、わたしたちはいったい何がしたかったんだろう? いつもいつも、馬鹿みたいに下らない話をするだけで、大切な話なんて、これっぽっちもしなかったのに。ねえ。こうなってみると、あんなの、全部無駄だったって思わない?」
そうだね、そうかもしれない、と僕は思う。
たしかに、そうかもしれない。
しかしそれと同時に、心のどこかでは、本当にそうだろうか、とも思うのだ。
彼女の言う通り、何年も何年も経つあいだには、たしかにいろいろなことが変わってしまって、いまではすべてがあのころとは違ってしまっている。それも、身の回りのあれこれだけじゃなくて、僕自身にしたって見違えるくらい変わってしまって、道ですれ違っても相手が誰かさえ分からないかもしれない。離れてしまった時間は取り戻しようもなく、開いてしまった距離は埋めようもないが、でもだからといって、すべてが消えてしまったわけじゃないんだ、と僕は思う。あのころ僕らが思い描いた未来が跡形もなく消えてしまったとしても、何百杯ものコーヒーを啜りながら交わした話のいくらかはまだ僕のなかに残っているし、あのとき僕らのあいだにあった静かな雰囲気、その温もりもまたその形を留めている。一日一日、空けては暮れる日々また日々が僕からそれを奪ったとしても、何もすべてが消えてしまったわけではない。
カップを置いて、ぼんやりと暗闇に包まれた街を眺めながら、手紙を書こう、と僕は思う。つまらないあれこれについては触れることなく、なるべく明るいことだけを書いてみよう。まずは簡単なあいさつから、当たり障りなく本文に繋げて、そしてもし弾みがついたら、もうずっと行っていないあの店へ、彼女を誘ってみよう。あのころとは違う話が、もしかしたら出来るかもしれない

手紙 ©秋人

執筆の狙い

少し長いですが、感想をいただけたら幸いです。

よろしくお願いします。

秋人

153.193.164.128

感想と意見

hir

 拝読しました。
 したはずなのですが、やぎの気分になってます。
 ご用事はなんだったのでしょう。
「本当に懐かしいね」「なぜかしらね」「あなたには、分かりますか?」「ごめんなさい」
 手紙というより遺書のようです。

2017-04-13 21:44

210.148.63.113

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です(テクニカルサポート)。

:
:
:
3,000字以内