作家でごはん!鍛練場

『あわ雪の少女』

S・H著

ゆきのまちボツ作に若干手を加えたものです。

 日本海側の雪の多いある地方の、ごくありふれた住宅街の一軒家に、本田純子という名の十二歳の少女が住んでいた。彼女には一つ下に多恵という妹がいた。純子は生まれつき病弱で、重い心疾患を抱えていた。幼少の頃から自宅や病院で療養を余儀なくされることが多く、学校は休みがちであった。両親が優秀な家庭教師を一人つけてくれていたので、学業に遅れが生じることはなかった。家庭は裕福で、両親は教育熱心であり、娘思いだった。彼女は元々勉強が嫌いではなく、また外へ出て活動することもできないため、勉強は捗った。成績は同級生の誰よりも優れているほどであった。
 家庭教師は大卒の若い女だった。彼女は純子が素直で、勉強もよくできるため、教師として彼女のことをとても気に入っていた。彼女には純子が愛らしく健気で好ましい女の子に思われたのである。彼女は両親から妹の多恵の指導も任されていたが、多恵にはあまり感心しなかった。特に何か問題があるというわけでも、勉強ができないというわけでもなかったが、何となく姉よりは彼女の心の琴線に響かないのだった。
 クリスマスが迫った頃、家庭教師は二人に別々のプレゼントを贈った。純子にはバレエ『くるみ割り人形』のDVDと原作小説の文庫本、主人公の少女とくるみ割り人形をかたどった手縫いの人形をプレゼントし、多恵にはクリスマスらしい綺麗な飾りのついたお菓子の詰め合わせのバッグと、小さな既製品のぬいぐるみをプレゼントした。彼女にはプレゼントにあからさまな差をつける意図はもとよりなかった。純子は読書や音楽鑑賞が好きで、それらから得たインスピレーションを子供らしい空想力で膨らませ、詩や絵の形で表現するのが得意だった。彼女は出来上がった作品を物怖じせずによく他人に見せたが、その出来栄えは年齢の割には大人びた、確かな技術とセンスを感じさせるものだった。家庭教師はそんな純子に心から喜んでもらえるようなプレゼントをただ渡したかっただけで、妹に意地悪をするつもりなどなかったのである。多恵は自分のプレゼントが姉のものと比べていくらか見劣りすることに気付いていたが、別に不快には感じなかった。彼女は姉のことが好きだったので、そんなことを言って姉を困らせるのは嫌だったし、難しそうな外国の芸術作品や堅苦しい活字の本などよりは、お菓子の詰め合わせの方がかえって嬉しいくらいだった。仲良しの姉妹らしく、二人は一緒にプレゼントのDVDを観ながらお菓子を分け合って食べた。
「おや、面白そうなものを観ているね」
 そう言いながら、本田晋がリビングへ入って来た。彼は純子の叔父で、息子の徹を連れてしょっちゅう生家へ遊びに来る。今日も徹を連れていた。晋は死別した妻の連れ子の徹とは血の繋がりがなかったが、彼のことを実の息子のように可愛がっていた。徹は多恵のクラスメイトだった。徹は物心がつく前から頻繁にこの家を出入りし、泊まることさえ何度もあったので、この家のことはだいたい何でも知っていたし、純子や多恵とは家族同然の仲だった。
 徹は珍しい外国のバレエの映像に興味を惹かれ、しばらく姉妹と一緒に鑑賞した。純子の前に広げられた画用紙には美しいバレエダンサーの絵がいくつも描かれていた。少女のダンサーが演じる主人公の愛らしい姿が繊細な線で捉えられ、水彩絵具で明暗を強調するようにさりげなく彩色されていた。いつものように徹は感嘆の声を上げ、純子の絵を褒めちぎった。
「徹君はお姉ちゃんの描くものなら何でも気に入るのね」と多恵が冷やかすと、彼は顔を赤くし、すぐさま二言三言と言葉を返したが、それ以上続かず黙ってしまった。つんとした態度の中にも動揺や気恥ずかしさがありありと滲んでいた。気の置けないクラスメイト同士の常で、多恵と徹がそんなふうにいがみ合うのは日常的なことだった。そして、その反目とも言えない小さな反目は、いつでも雪のようにすぐにきれいさっぱりと融け去った。
 徹が純子に対してそんな口を利いたことは絶えてなかった。小学生にとって、一つ年上であるという事実は大きな意味を持ったし、また純子にはそういった砕けた接し方を控えたくなるような特有の雰囲気があった。決して気難しいというのではなく、どちらかと言うと無防備過ぎるためにどうしても気を遣わずにはいられなくなるのだ。
 徹が家にやって来ると、純子は自身の作品(その多くは水彩画や詩だった)を彼に見せて、その反応を窺うのが好きだった。徹は繊細なタイプではなく、どちらかと言うと腕白な方で、芸術を鑑賞する趣味など持ち合わせてはいなかったし、作品の価値を正しく見抜く目を持っていたかどうかも怪しかった。ただ、素朴で率直なところがあり、感情の動きがそのまま表情と少ない言葉となって如実に表われるので、純子にとっては作品の良し悪しを判断する上でとても参考になる批評家なのだった。自作の披露に及ぶ時、純子の目はいつもとは違った輝きを帯びた。作品を取り出しながら、その一つ一つについて、制作の意図を説明したり、創作の苦労話をする。普段物静かな彼女がいくらか興奮した表情を見せるのはこの時だけだった。多恵にとってはどれも見飽きた作品だったが、三人でわいわいと過ごしたいばかりにその中に加わり、感想を述べたり、自分でも簡単な絵を描いてみたりした。徹は純子の作品に夢中で、溜息交じりに感嘆の言葉を吐くほかは何も言うことができなかった。彼にとって、彼女は驚異と憧れの存在であり、特別な人だった。多恵は、徹が純子の前に出ると、普段学校で見せる粗野な態度とは打って変わり、まるで別人のように大人しくなることに気付いていた。そして、その意味するところが何であるのかをずっと知りたいと願っていた。気さくで活動的で、些細なことに拘ることを嫌う多恵が、徹が家へ遊びに来た時だけ柄にもなく細心な観察者、懐疑家、分析者に姿を変えるのだった。
 純子は雪に降りこめられた小さな一室で、この二人と絵や小説や、詩や、映画や、そのほか何か気に入ったことについて取り留めもなく話をするのが好きだった。この暖かい、快適な、慣れ親しんだ空間は、彼女の世界の全てであったし、それが永遠に続くことを願っていたが、それが不可能であることも知っていた。徹は所属のサッカークラブで徐々に頭角を現し始め、五年生であるにも関わらず、六年生に交じってレギュラー争いをするようになっていた。グラウンドの使えない冬期には休みや自主練習の機会が増える雪国のサッカークラブではあったが、重要な選手には体育館での別メニューの練習が義務付けられる。徹が本田家を訪れる回数は目に見えて少なくなった。純子はそのことをたいそう悲しく思った。一方、多恵は内心で安堵していた。しかしもちろん、姉にはそんな素振りは一切見せなかった。

 一年が経った。過酷な雪国の寒さは、いつでも純子のひ弱な感じやすい心臓を苦しめたものだったが、この冬の寒さはことのほか厳しかった。純子がベッド上で過ごす時間は以前より長くなったものの、彼女の勉強と創作への思いはこれまで以上に熱く燃え立っていた。彼女なりに何かを掴みかけていたのだ。六年生に上がった徹は、サッカー強豪校のF中学への進学を希望し、そのことをしきりに口にするようになった。顔つきと体つきは一年前とは見違えるようで、サッカーはますます上手くなっていた。時折純子に会いに来てくれる徹は、彼女から見て一つ年下ながらもかなり頼もしくなっていた。純子はどういうわけか徹に対して自身の創作を恥じるようになり、作品を一切見せなくなってしまった。ただ見舞いに来てくれたことへの感謝と申し訳ない気持ちとを恥ずかしさで顔を赤くさせて小声で伝えるのが精一杯だった。気さくな社交家としての個性がますます際立って来た多恵は、徹とはすでにかなり親しい関係を築いていた。遠慮なく物を言い合う二人の仲は、多恵の中で育ってきた女性らしい思いやりの感情が加えられ、好ましい男女の睦まじさへと変化しつつあった。純子は二人のそんな様子を見て、羨望とわずかな胸の疼きを覚えた。胸の疼きの方は、彼女はすぐに忘れようとした。ある日、何気ない会話の中で、母が妹の中学受験の志望校を純子に話した。彼女らの学区からかなり離れたF中学を受験するとのことだった。これは不自然なことだったので、純子は妹たちの秘密について、大体の察しがついた。彼女は妹に何も言わず、気丈にしていた。しかし、彼女の受けた心の傷は、気付かぬ内に彼女の体を蝕んでいた。
 ほどなくして、純子は病状悪化のため入院することになった。冷酷な死の黒い手は、あっさりと彼女の美しい魂をその若い体からもぎ取ってしまった。彼女のスケッチブックには、複数の男女のダンサーたちが、互いに手を取り合い、輪を作って楽しそうに踊る姿がいくつも描かれていた。中でも男のダンサーは背格好が美しく、全身から明るい光を放っていて、剽軽な仕草でサッカーボールを蹴っていた。その脇には一言、「みんな仲良く」と書かれていた。雪のようにはかなくなる前に、彼女が魂の清浄ということに心を砕き、戦い、そして創作の力によってその戦いに勝利したことがひしひしと伝わって来る、そんな作品だった。嫉妬と恨みを抱いたまま死出の旅路へと就くことがなかったのは、彼女にとってまことに幸いなことだった。

あわ雪の少女 ©S・H

執筆の狙い

ゆきのまちボツ作に若干手を加えたものです。

S・H

126.83.127.91

感想と意見

豆柴三郎

上手だと思いますけどあまり響きませんでした。
うまく落ちてないというか、精緻な表面と枠組みを持ったまま全体にずれてるというか。
なんだろう、コンビニのパンの食レポするのに、袋に記載された成分表をそのまま読み上げるみたいな、なにか的を射ない正しさのような感じを持ちました。主観ですけど。
それと、同じことの言い換えでしかないかもしれませんが、ちょっと贅肉が多い感じも。もっと主要人物三人の心の機微に話を絞ってやった方が、すっきりするのは確かかなと。
なんにせよ、ゆきのまちには厳しい感じしますけどね。良くも悪くも幻想的ではないですし。

2017-03-19 16:24

193.194.85.94

ドリーマー

こんにちは。作品、拝読しました。

普段からこういう書き方をされているのでしょうか。
だとしたら、これはまだ粗筋であって、小説の形にはなっていないような……。
描写と説明がバランスよく組み合って、初めて小説になると思うのですが、御作は文章の九割くらいが説明なのですね。説明を減らして描写を増やしたら、おそらく百枚くらいの作品になると思うのです。
普段は描写をふんだんに取り入れた長い作品を書いていて、今回はゆきのまちの枚数規定に合わせるために、こういう書き方になったのだとしたら、最初から題材の選び方が間違っていたのだと思います。

ところで応募要項には『雪の幻想性をテーマにした、雪を感じさせる物語を募集いたします』とあります。しかし御作には雪の情景も幻想性も見当たりません。
>ボツ作に若干手を加えたものです。
もしかしたら、ご自身で読み直してみて、「この話に雪の幻想性は必要ない」と判断して、鍛練場投稿時に削ったのでしょうか。

自分のことを棚に上げて勝手なことを書きましたが、少しでも参考になれば幸いです。
それでは、失礼しました。

2017-03-19 17:20

116.67.216.94

S・H

豆柴三郎 様

感想をいただきありがとうございます。

拝読していて、小説を小説たらしめるエッセンスは何か、ということを考えさせられました。
ご存じかと思いますが、ゆきのまち幻想文学賞は規定枚数が原稿用紙10枚と短く、構成を考えずとも勢いだけで書き切ることができます。
しかしそれでは小説とは呼べないだろうと考え、執筆に入る前にテーマと大まかな流れを考えることに多くの時間を割きました。
執筆を進めながら、途中で何度も「こんな枚数では何も書けない」とぼやきながら、無駄を削る作業をひたすら繰り返しました。
その作業の果てに、彫琢された無駄のない理想的な一編の掌編が残ることを期待していたのです。
しかし実際は、生気に欠けた単調な物語の進行だけが残ったようです。
何となくそんな予感はしていましたが、完結させることのできた小説は私にとっては子供のようなもので、親としては欲目がありなかなか客観視できませんでした。
ところが感想をいただいたお二人のご意見の内容には共通するところがあり、また私自身も読んでいてその通りだと深く頷くほかはなかったのです。

>もっと主要人物三人の心の機微に話を絞ってやった方が、すっきりするのは確かかなと。

ご指摘ごもっともだと思います。
そこを描くのが小説という表現形式の肝であるのに、そこに手をつけず、単調な筋の羅列に終始したと。

>ゆきのまちには厳しい感じしますけどね。良くも悪くも幻想的ではないですし。

おっしゃる通り幻想性は皆無の作品でした。

とても参考になるご意見ありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。

2017-03-19 20:57

126.83.127.91

S・H

ドリーマー 様

感想をいただきありがとうございます。

>これはまだ粗筋であって、小説の形にはなっていないような……。
>御作は文章の九割くらいが説明なのですね。

おっしゃる通りです。執筆前に決めておいた粗筋の忠実な再現に意識が向かい過ぎて、単調な予定調和に堕してしまいました。
作者でさえ自分の書いているものがどこに辿り着くのかわからない、そしてそれが楽しみでもある、わくわくさせられる、そういった意外性、緊張感のようなものが小説には必要なのかもしれません。
もちろん、ご指摘のように少ない紙数の中に不適当な題材を無理矢理にねじ込もうとした結果であると言うこともできるかもしれません。
しかし私としては、単調な説明調の文章を書きがちであるということを規定枚数のせいにはせず、自分の弱点と捉えたいと思います。

>ところで応募要項には『雪の幻想性をテーマにした、雪を感じさせる物語を募集いたします』とあります。しかし御作には雪の情景も幻想性も見当たりません。

このご指摘にはぐうの音も出ないわけですが、募集要項の以下の一文

>直接的に雪が出ていなくても、雪を感じさせるものなら可

これを読んで、雪の表現ということについて、あまり細かく考える必要はないのではないかと都合よく解釈してしまいました。
ですが、「幻想性」というキーワードを無視するのはやはり問題でした。
私としては、美しい心を持つ少女の短い一生を描くことで、すぐに融け去ってしまう美しい雪のひとひらを連想していただきたかったのですが、これはメタファーとしての表現に過ぎず、「幻想性」とは無縁なものでした。

参考になるご指摘ありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。

2017-03-19 22:43

126.83.127.91

かろ

 拝読しました。
僕もおちました!連絡の期待感あるぶんはだんだん減っていくけど望みつなげてました。
また今年も書こうとおもってます!
となると、最後の一葉的な?大好きなのです!
僕自身、おもしろいお話と、なんかくるお話ってあって、この作品はきました。

2017-03-19 23:59

223.135.80.65

S・H

かろ 様

感想をいただきありがとうございます。

>また今年も書こうとおもってます!

素敵ですね。私は少し心が折れました(笑)

最後の一葉ですか。名作ですね。完成度に差があり過ぎて恐れ多いです。
この作品はきましたと言っていただいて素直に嬉しかったです。
ところで、最後の一葉のあらすじをwikiで読んでみて感じたのですが、プロットの無駄のなさ、緊密さに今さらながら驚きました。
シンプルですが教訓もありますし、悲哀もあるし、感動もある、それに落ちもしっかりしています。
プロットがしっかりと練られたものであれば、長さなど関係ないのかもしれません。
やはり10枚という制限を言い訳にしてはいけませんね。

ためになるご感想ありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。

2017-03-20 21:07

126.83.127.91

GM91

冒頭、これは設定として作者さんが持っていればいいと思います。
本文は、「家庭教師は大卒の~」からでいいんじゃないかな、と。

他、全体的に設定の説明に字数を先過ぎのような印象です。
10枚しかないので、物語に不要と判断できる個所はザックリ削るくらいの度胸で臨まないと肝心の話が何もないという状態になってしまうと思います。
言うのは簡単ですけどね・・・。

2017-03-21 21:20

202.215.168.236

S・H

GM91 様

感想をいただきありがとうございます。

やはり設定の説明が多い印象を持たれましたか。
今回、本作の問題点が(あるいは私の創作法の問題点が)浮彫になったようです。
ご意見ありがとうございます。

>物語に不要と判断できる個所はザックリ削る

その通りだと思います。
たぶん必要な箇所とそうでない箇所を見分ける正確な目が書き手には必要なのでしょう。
作者が一から十まで全て説明してしまうと読者は白けてしまいます。
読者に続きを読みたいと思わせるために、程よく謎を残す必要があるのだと思います。
考えてみれば、ミステリーなどはこの手法が肝であり、これに尽きると言えます。
また、小説からは離れますが、ひところ流行った『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメは(ご存じでしょうか?)、謎を巧みに小出しにし、最終的に謎の説明を放棄することによって人を驚かせ、社会現象をも引き起こしました。
それと以前作家の村上春樹という人が「ミステリーは解決編までが面白く、解決編を読むと白けてしまう。自分は解決編のないミステリーのような小説を書きたい」とどこかで言っていて、そのこととも通じると思います。
読者を信頼し、読者の解釈に委ねることが必要なのでしょう。

貴重なご意見ありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。

2017-03-22 08:54

126.83.127.91

豆柴三郎

S・Hさん

丁寧な返信、ありがとうございました。
つまらない感想を書いてしまった感覚は元々あったのですが、少しでも内容に触れた話をしたい気持ちになり再訪させて頂きました。

>嫉妬と恨みを抱いたまま死出の旅路へと就くことがなかったのは、彼女にとってまことに幸いなことだった。
最後の一文ですけど、なんとなく納得いきませんでした。
伝わらなかったと思いますが、前回感想を書かせていただいた時からその感覚はあったのです。
「枚数制限のためにほとんどが設定説明に終始してしまっているから」ということだけではなく。
つまり、表面の伸縮度合にかかわらず、このほとんど結論めいて感じられる「語り手の価値判断」みたいなものに私はなんとなく気持ち悪さを感じたのです。
いや、もちろん作者ないし語り手の考え方をありのまま反映させられる可能性を小説は持っているべきだと思います。そこを否定してしまっては始まらない。
だから私が言いたいのは、(はじめに戻りますが)「そういうものももちろんあっていいけど、なんとなく私は納得いかなかった」ということなのでした。
「彼女は苦しさから逃れるために自分の心をだましたのだ」みたいな見方だって、ひとつの見方としてはありうるし、「だましきれたからこそ幸いだったのだ」というのももちろんひとつで、そういった諸々の広がりを消して収斂していること、そしてその収斂した(ように見える)場所(=落としどころ)が他ならぬココなのか……というふたつの意味で、なんだか納得いかなかったのです。
たぶん問題なのは「まことに」というところで、この表現は(おそらくは裏表なく)「幸い」であったことを強く一意に定めてしまうのではないかなと。(純粋に主観的な意味でさえ厳密に検証していない状態で申し訳ありませんが、「ある意味」とかの方がまだしもよかったのじゃないかという気がします。)
加えて、本当に好みの問題ですけど、このあとに多恵や徹が純子の残したスケッチブックを見て否応なく何かを感じ、各々に深く秘めやかな傷を負う、そして(ある意味ではこっそりとふたり結託して純子を裏切ったという構図をもつふたりだからこそ)その傷を共有しあうこともできず、あくまでも個々に、死者を相手取った永遠の中で苦しむことになる、みたいな展開があるとめちゃくちゃいいなって思います。
こういうことを考え始めると、やはりこの物語は、枚数に厳しい制限のない、もっと長い尺のなかで描ききられるべきものなのじゃないか、という気がしますね。
それはそれとして10枚程度のなかでうまく描ききるということを考えるとしたら、感想欄で別の方が「本文は、「家庭教師は大卒の~」からでいい」と書かれていましたが、より推し進めて、家庭教師の主観に踏み込むような描写もばっさり削ってしまって、彼女がどういう思いをもっていたのかはわからないけれど、姉妹に贈るプレゼントにははっきりそれと感じ取れるような違いがあった、みたいな体で進めるとか、晋と徹の複雑な設定なんかもこの尺のなかでは思い切ってまるごとカットしてしまう、みたいなことが必要なのではないかと思います。(自由な長さの中でならそういうあれこれもまた、徹の内面に反映されて、より緻密で深い物語につながってゆくのでしょうけど。)
それと、純粋に個人的な感想ですけど、「純子」と「多恵」という名前は物語内の構図を映すのにぴったりだと思えてよかったです。「徹」はというと、ここに書かれていることだけをみると、適切かどうかちょっとよく分からなかったですけど、先に書きましたように、もっと長い物語のなかでならそれがぴったり当てはまるような具合になるのかもしれない、などと勝手な想像をふくらませたりしました。
先の感想では「あまり響かなかった」と書きましたが、実際には「これはいいものだ」と思った感覚の方が先だったのは間違いなく、だから件の表現は、「響くはずのものが適切に響いてこなくてもどかしかった」というほうがより正確ではなかったか、と今は思っています。
長々とすみません。ありがとうございました。

2017-03-23 21:26

193.194.85.94

山田

 文学賞のことはよく知りませんが、個人的にとても素敵な小説だと思いました。とても淡々と、とくに悲しい物語だからこそ、直接的な感情表現や取るに足らないような会話などをカットした、事実的具体的な語り方で書かれたのかな、と思いながら読み進めていました(が、枚数制限というのもあったんですね)。
 堀辰雄の『聖家族』の文体に似ているななどとも思いました。以下はごく主観的な意見になってしまいますが、私としては、意図して感動を狙ったり、ストーリーや主題性の巧さを競うような作品が苦手であったこともあり、この作品のような端整で硬質な作品が良いと思います。
 ただ、最後のところの「魂の清浄」や「死出の旅路に就く」という表現はやや常套的に思われ、とらえられ方によってはいささか気障であると思われはしないかという所は気になりました。でも、それ位しか言うべきことが思いつきません。
 とにかく素敵な作品ありがとうございます。長文失礼しました。

2017-03-24 03:08

180.197.226.207

S・H

豆柴三郎 様

再訪ありがとうございます。

>このほとんど結論めいて感じられる「語り手の価値判断」みたいなものに私はなんとなく気持ち悪さを感じたのです。

他の方への返信で申し上げたことですが、読者に多様な解釈を許容する書き方の大切さを再び痛感した次第です。
「語り手の価値判断」が前面に出てしまったのには明白な理由があります。
本作を書くにあたって、まず私はこの作品によって読者に訴えかけたいテーマをはっきりさせようと思いました。
執筆前に作ったメモの一部をそのまま以下に引用します。

【テーマ】
創作による救済。創作が持つ癒しの力。生の儚さ。生とは何か? 理不尽な運命への抵抗。健気な少女。死は不幸ではない。生きることの奇跡。良く生きるということの意味。死後も続いていく物語。

【人物】
本田純子 … 先天性心疾患を持つ12歳(小学6年生)の少女。重度。運動が全くできない。学校を休みがち。性格は大人しく健気。道徳的。温厚。物語を好む。空想癖。思い切り体を動かしたいという願望。死への恐怖。理不尽な運命への恨み。 → 来世への期待。

テーマありき、上記の個人的主張ありきでこの小説を書きましたので、最後の一文は私としてはどうしても書かなければならなかったのです。
自己分析をしますと、こういった主張をしたい気持ちの背後には、創作という行為や、その結果としての芸術作品を尊く価値あるものと見なしている自分の価値観、理不尽な現実に打ち勝ちたいという気持ち、救いを求めるある種宗教的な感情、こういったものがあったように思われます。
自分の信念に深く根差すような、重く、ゆるがせにできない内容を含む主張ですので、私としては「まことに」という言葉の方がしっくり来ますし、「ある意味」ですと真摯な感情が適切に表現されない憾みがあり、なかなか許容しづらいところではあります。
しかし個人的な思いに固執し過ぎて作品の質を落としてしまうようでは本末転倒です。
また、作品が優れているか、そうでないかは自分で判断するものではなく、読者が判断するものであることもよくわかっています。
選考で落とされたという動かしがたい事実もあります。
私には、物事の価値判断を拙速に行い、独善的に主張する傾向があるのかもしれません。今回、もっと多様な解釈を許容する作品作りを心がけて行くべきだという貴重なヒントを得たように思います。

ご提案いただいた純子の死後の多恵と徹の自責の念、良心の呵責による苦悩と、そこからの救済の話は、とても普遍的で、力強く、重要なテーマを含んでいると思います。
漱石の『こころ』では先生は結局自殺を選んでしまいました。人にとって、最も手ごわい敵は他人ではなく、自分なのかもしれません。
しかもその相手は内部から記憶のフラッシュバックという形で、折に触れて、四六時中自分に道徳的観点から論難を加えて来るわけです。
その批判の道徳的正しさが強固で、それに対するいかなる反論も封じられている時、人はその強敵にどうやって立ち向かえば良いのでしょうか?
キリスト教における贖罪や赦しの教義にもつながる深いテーマでありますが、私には荷が重く感じられます。

無駄を思い切ってカットすべきというご指摘はおっしゃる通りで、今回とても勉強になりました。

登場人物の名前に関しては、「じゅんこ」という音に「純」の字を当てたのは、彼女の性格を考慮して意図してやったことでした。ここまで深く読んでいただけたことをとてもうれしく思います。

>実際には「これはいいものだ」と思った感覚の方が先だったのは間違いなく、だから件の表現は、「響くはずのものが適切に響いてこなくてもどかしかった」というほうがより正確ではなかったか、と今は思っています。

そうおっしゃっていただき、とても励みになります。
響いてこなかったという事実を重く受け止め、上記改善点を踏まえた上で次回作の執筆に取り組もうと思います。

詳細かつ有益なご指摘をいただきとても参考になりました。
ありがとうございました。

2017-03-24 22:13

126.83.127.91

S・H

山田 様

感想をいただきありがとうございます。

小説の書き方を知らないばかりか、自分なりの方法すらまだ定まっていないよちよち歩きの素人である私が受け取る言葉としては、あまりにも過大なものでした。
しかし心より感謝いたします。

淡々とした書き方になったのは、今回採用した執筆の方法によります。
その方法というのは、予めテーマやプロットを具体的かつ詳細に考えておき、紙数の制限からそれを可能な限りシンプルに忠実に小説として具体化させる、というものでした。
書きながら「なんだか味気ないな……」と感じていました。
「これは簡潔というよりは、貧相と呼ぶべきものではなかろうか」などと考えもしました。
しかし書き手の自己満足と読者の評価との間には相関関係はないのです。
やたらと言葉を重ね、文章を引き延ばし、美々しく飾り立てることを楽しむ悪癖のある人間には受け入れがたい事実なのですが、しかしそれは厳然たる事実です。
山田様から感想をいただいて、自分の抜きがたい未熟さに改めて気づかされました。
原稿用紙10枚という制限がなければ、どれだけ私の筆は無駄な修飾語や回りくどい言い回しで文章を飾ったことか。

恥ずかしながら、堀辰雄の『聖家族』は読んだことがありません。ですが、プロの小説家の文体に似ているとおっしゃっていただきとてもうれしいです。

>最後のところの「魂の清浄」や「死出の旅路に就く」という表現はやや常套的に思われ、とらえられ方によってはいささか気障であると思われはしないかという所は気になりました。

書いている時は気づきませんでしたが、確かに常套的な陳腐な表現だと思います。
「物は言いよう」という言葉がありますが、小説を読んでいて私はよくこの言葉を思い出します。
言わんとする内容によってではなく、その言い方(書き方)の巧みさによって、ある場面の描写の陳腐さや鼻につく感じをぎりぎりのところで上手く救っているなと感じることがよくあるからです。
ご指摘の箇所はこの小説の結末に当たるだけでなく、私が最も言いたかったことでもあり、押しつけがましい力んだ表現になってしまったかもしれません。また、性急で素朴すぎたかもしれません。
結末がストンと落ちるために必要な説得力のある分厚い展開が紙数の都合で書けないなら、書けないなりの終わらせ方というものもあったでしょう。
他の方の感想と合わせて考えてみても、結末の部分は失敗だったと言わざるを得ません。
なぜ失敗だったのか、よく考えてみたいと思います。

示唆に満ちた感想をありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。

2017-03-25 01:06

126.83.127.91

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