作家でごはん!鍛練場

『見えない胎児』

四面楚歌著

自分の書きたいものを思うがままに書いてみた作品です。
いくつかの改善点を重ね、背景もある一部分を少しだけ強調してみた改稿作です。

途中までの投稿となっていますが、気が向いたらお目通しいただければ幸いです。

 序章  たった一つの

 蟻の巣を見ていると、無性にその全てを壊したくなってしまう。踏み付け、砂をかけ、穴をほじくり、すり潰す。結果、蟻の巣という『世界』は凄惨を極める。
 世界は蟻に優しくない。蟻の為にと創られた世界ではないのだから。
 世界は人に優しくない。人の為にと創られた世界ではないのだから。
 世界は命に優しくない。命の為にと創られた世界ではないのだから。
 月曜日の太陽に照らされて、じっとりと額から滲み出た汗が蟻の巣穴へと落ちていく。砂と小石で作られたそれに吸い込まれるようにして、汗はその形を消失させる。見方を変えれば、糧にされているようにも見えた。
 蟻にすら糧にされる人間、それが『僕』だ。平日の昼間だというのにまるで誰もいなくなったように静かな世界で、こうして僕は地蔵の横にある蟻の巣を眺めていた。太陽の光は相変わらず僕の頭と背中をしつこく照らし、それが義務のように正当化している節さえも見え隠れする気がする。まるでこの世界にお前は不必要な存在だといわんばかりに、無言の圧力をひたすら遥かな空から浴びせてくるのだ。
 だけど僕にはそれに耐えなければいけない理由があった。…………幸い、耐える事には慣れていたのもあり、もう少しは粘れそうだ。

 いつも待ち合わせに利用していたこの地蔵の横で、僕は君を待つ。

 人は僕のことを気狂いと呼ぶのかもしれない。だけど現実はいつだって真実で、僕の語る言葉に嘘偽りは存在しない。
 狂気の定義は他者が存在する事で初めて認められるものだ。僕の周囲に人がいない環境ならば、誰も僕を狂人と決めつけることは出来ない。そして僕自身、自分のことをそんな風に認知しているわけではない。当たり前と言えば当たり前だ。
 だから僕は願っていた。


 この世界が醜悪な最期を迎えてくれるよう。


第一章  混迷

 学校のチャイムが鳴る。お馴染みのあの音だ。
 思わず僕は口ずさんだ。

「キーンコーンカーコ」

「リズム、ずれてないか」

 前の席に座る彼はそう言った。
 そんなにずれているだろうか。完璧に模倣しようとして発声したわけでもなく、暇を持て余した呟きにも似たそれを、僕は脳の中で噛み砕いていた。前頭葉と側頭葉に生えた歯が、口の中のそれと同様に学校のチャイムをすり潰す。

「放課後だな」

「君は部活?」

 放課後の予定を聞きながら、僕は歯と歯の間に残留したチャイムの残りカスを指でいじくり取り除く。見知らぬ人の前では慎むものだが、彼の前ではそんなに取り繕うことはない。頭に埋め込んだ左手を引き抜くと、外気に触れた皮膚の感覚が際立つのが感じられた。

「そうだな。野球はないけど、軽い自主錬。」

 ホームルームは続く。今は、今日の掃除当番の確認をしているところだ。

「お前は? 今日も行くのか?」

「そうだね」

「俺らももう高三だ。勉強もちゃんと頭の片隅に入れておかないと」

 指摘されても、自主練を行っている彼にだけは言われたくなかった。もっとも彼自身、頭の片隅と言っているだけに本格的な勉強に取り組み始めているのかは怪しい所だが。

「君からそんな発言が飛び出すとはね」

「三年生になって、意識するようになったのさ」

 特に意味なんてない、言葉のやり取り。途中、担任の教師が教室に入るまでその行為は続けられた。雑談をしていた他の皆も、先生の入室を機にやや遅れて静まりかえる。たまにこんな様子を見ていると、不意に小学生の頃を思い出す。
 いや、先生が入って来ても皆はうるさかったけど。代わりに僕が入ると一瞬の沈黙を挟んで再び皆が話し出すその様子はどこか面白おかしかった。
 ――――連絡事項は、無し。
 先生のその言葉を最後に、ホームルームは終わる。

「じゃあな。行くならその、見つかんないようにしろよ」

「今更だよ。それに禁止区域だの、警備員だの言っても…………普通は、誰も近付きたくないだろうし」

「……まあな」

 少し歯切れが悪そうに、彼は同意した。同意したという事は、僕が普通ではないと遠回しに告げてきているようなもので。彼の歯切れの悪さは、そこから来ているのかと推測する。

「じゃあ」

 軽く手を挙げ、教室を去る。彼もそれに応えるように、手を挙げた。
 別に彼の態度を気にしているわけではない。だけどそんなところに気を使うあたり、彼らしかった。そう考えながら僕は、何気なく持て余した視線を窓へと向ける。
 渡り廊下の外、校庭は様々な部活動で賑わっている。五月の中旬、まだ明るい放課後の空の下で、生徒達はとにかく動き続けていた。

「……蟻」

 何の気なしに思い浮かべた言葉が、口の端から零れた。
 蹴飛ばされたボールが弧を描き、走り抜いた後には土煙が巻き起こる。今日は野球部の練習が休みだったので、ボールがバットにめり込む音は聞こえてこない。
 僕は横目でそれらを眺めた後、下駄箱へ通じる階段を駆け下りた。上履きを脱いで靴を履き、急ぎ足で校門の外へ出る。駅に向かう途中まで時々走りだしたり、また歩き出したりしていたのは、全身を支配しようとする奇妙な無気力感とその抵抗の表れなのかもしれなかった。
 しばらくして改札口に入った時は、走っていた時。電車に乗り込み、向かう先は家ではない。
 電車に暫く揺らされ、自宅からの最寄り駅とは違う駅を降りる。迷うことはない。
 目指す先は、赤き電波塔。つまるところ東京タワーだ。
 とは言っても、タワーそのものに興味があるわけではない。真に目指すは、その周辺。
 タワーに近付くにつれ、人の数は少なくなる。途中から完全に誰も居なくなる。更に少し歩いていくと、遠目からでも分かる太く黄色いテープとそこに書かれた進入禁止の文字。打ち立てられた幾つもの鉄柱に張りつめられる形で、何重にも不規則に張り巡らされたそれらの下を、しゃがんで難なく通過する。本来はいる筈の警備員がいない箇所も把握済みだった。
 もっとも、意味なんてほとんどないに等しい。入らせまいとはまるで思えない形だけの『進入禁止』も、まばらに設置されただけの警備員も。
 必要がない。建前、形だけの境界。それでも封鎖機能としての役割を果たしていたのは、単純にそれだけで十分だからだ。
 進入禁止の先の世界。自分でも知らぬ間に僕は駆けていた。人気のない家の路地裏や真っ直ぐ伸びた一本道をどこまでも歩いていくと、僕はやがてタワー周辺へと辿り着く。




















 赤き電波塔の周辺には、何もなかった。




















 比喩表現も何もない。本当に何もないのだ。
 電波塔を中心として円形に広がる無の空間は、およそ八か月前に突如、半球型の光がこの地一帯を覆い尽くした後にできたものだ。後に『電波光源』と言われるようになる、東京タワーを中心に徐々に膨張する光に呑まれた建物は、その全てが消失した。地表も削り取られたように大部分が消えて無くなり、所々に残ったアスファルトや途切れ途切れになった道路、荒れた大地に生えた細い木々を連想させる信号機の残骸が間隔をあけてポツンと立っている。唯一、先端だけが寸でのところで光に呑まれなかった赤い電波塔だけが、異様な存在感を放ちそびえ立つのみ。
 僕はいつも目印にしている地蔵を見つけ、すぐ横に座り込む。世界という全てから置いてけぼりにされたようなお地蔵さんは、鏡の中の自分を見ているようで不思議と落ち着いた。
 冗談のような現実。世の皆もそう思っただろうし、僕もそう思った。だけど今までの現実も大概だったと僕は思う。
 ブラックホール。空間に空いた穴。光。とにかく早いもの。俗世的な迷信。宗教。虚実は現実となる。神。全知全能の存在。矛盾。重力。万有引力の法則。電子。雷。虫は宇宙生命体。
 反社会的要諦。人間性の定義。古代文明。ニュートリノ。反物質の存在。
 思っている以上にこの世界は幻想めいたものと虚構によって作られ、支えられている気がするのは気のせいではあるまい。だけど現実でそれらが幅を利かせて歩いているのであれば、それは日常あるいは常識として還元されていく。騒ぐだけ無駄なのは目に見えている。
 果たして僕の思惑は見事に当たり、今になって無の空間を驚く声はすっかりなくなっていた。
 一連の出来事を発生した光の形に例えて『ドーム事件』と呼ばれたそれは、その規模を世界に広げ今でも現在進行形で同様の事件が起きている。昨日はピサの斜塔が電波光源に包まれ消えた。
 勿論、最初は混乱していた。誰もが驚き、取り乱していたと思う。だけどタワーの一件をきっかけに、世界中で同様の事件が見られつつあるこの日、誰もその現象を取り立て騒ぐ者はいなかった。今日(こんにち)では「謎の光」や「電波光源」というワードは、「抑止力」や「軍事提携」といった言葉と同じくらい民衆に耳慣れたものとなっている。
『光』が現れた場合の対処法もマニュアル化された。内容は要約すれば光の内部にいる人間は速やかに、必要最低限のものを持ち出して光より外側へ脱出することという旨だ。というよりそうするしかないだろう。まるで火事や地震が起きた場合のマニュアル本にも思えるが、災害とは違い光は内部にいる人間に何ら肉体的影響は与えない。
 そしてこんな事が起こっても、それら全ては日常へと溶け合わさる。違和感はその存在を希薄にし、少しずつ咀嚼されやがて飲み干される。今までだって、きっと何も変わらなかったはずだ。
 だから僕は、ふと思う。僕達が共有し未知を極力排除しようとするこの日常も、何が混ざっているのか分かったものではないのだと。殺意、涅槃、狂気、偏愛、物欲…………そんな得体のしれないものがごく普通に日々の中に紛れ込み、何食わぬ顔で日常を構成している欠片となる。薄皮一枚の向こう側で僕達の毎日を見つめているそれらが、少しずつ境界を侵し始めていても不思議ではない。
 ドーム事件は、その皮切りに過ぎないのではないのか。漠然とした不安が世界を覆うことはあっても、僕達の日常に相変わらず変化はなかった。
 僕は近くに転がっていた石を蹴飛ばす。遮るものが存在しない大地で、風が僕の髪の毛を跳ね上げる。
 ここは、この世界は、いつ来ても不思議な感じがする。特に初めて訪れた時はそれが顕著だった。何もない異質の空間やそびえ立つ赤の塔が放つ退廃的な雰囲気を指しているのではなく、もっとはっきり直接的に身体…………意識の底に響くような、力。感じたことの無いその感覚に、やってきて日の浅い頃は何度か頭を抱えてうずくまる事もあった。だけど日を重ねるうちに襲う眩暈にも慣れ、一か月も通い詰めるようになった頃には得体のしれない何かに適応したかの如く、身体に異常が現れる事はなかったのだ。
 ドーム事件の際に光に触れた人間も、大半が僕と同じような症状を最初に訴えた後、しばらくして精神病のようなものを患えるという。曰く、電波光源と言われる原因でもあった。
 名称の発端は有名な某ネット掲示板だとも、オカルトマニアの間で広がったものだとも言われているが、あまり褒められたネーミングセンスではない。

「電波光源……でんぱこうげんね」

 元々僕自身、雰囲気に当てられやすい人間と彼に指摘されたことがあり、それも関係しているのかもしれない。更に言えば、ドーム事件が起きる前から僕は度々言いようのない無気力感のような…………近い言葉としてとりあえず無気力という言葉を当てている、実体のない空気にあてられることがあった。
 それらが前述した雰囲気と相まって、難しい年頃の僕の精神に作用したのだろうか。『難しい年頃』というのも少し違和感を感じたが、それはそれで納得させる他はない。
 とは言え、僕はこの場所が好きだった。そうでなければ、ほぼ毎日通い詰める事もない。
 何故好きなのか。そんな素朴な質問を自分自身に問われた時もあったし、彼に問われたこともある。
 寂しさやある種の終わりを感じさせる退廃的な風景も、どこか神秘的に感じられる荒れ地も理由の一つに違いない。だけど一番の理由と言えば、ここに足を運べば過去や日常の嫌な事を忘れられるからだ。しかしそれは所謂、空に流れる雲を見ていると悩みなんて忘れられる…………みたいな心境ではなく、単純に負の心そのものが薄まっていくような感覚。その感覚欲しさに、麻薬にも似た依存で何度もここに足を運ぶことになる。
 ここに来たきっかけは、僕にとってはお馴染みの家に帰りたくない心情の時、たまたま何の意味もなく、特に考えもせず。ドーム事件の跡地は何もなくて気持ち良さそうだと、ただそれだけの理由だった。多くの精神病患者を生み出してくれた光の跡地なら、僕の中の何かが変わると思ったのかもしれない。だけど通い詰めて数か月経った今でも僕は狂うこともなく、発狂することもなく日々を生きている。光そのものには触れていないので当然かもしれないが。

「……お地蔵さんは」

 不意に僕は物言わぬ地蔵の頭に手を置き、彼? 彼女? の名を呟いた。ドーム事件が発生した後の大地に誰も足を踏み入れないのは、前述した電波光源による何かしらの後遺症と、この世ならざる無が生み出す独特の空気を恐れてのことだろう。更にそこに進入禁止のテープやれフェンスやれが設置されることにより、物理的というよりかは…………精神的に閉鎖された空間という特色を否応なしに引き立てる。
 異種。違うもの。ずれた何か。到底言葉にすることができない恐怖にも似た不安に圧迫され、誰もが踵を返すこの地に、どうして地蔵が置いてあるのか僕は当初から不思議だった。電波光源に呑まれたものは例外なくその全てを消失する筈だ。神様パワーで消滅を逃れたという説を信じないのなら、誰かがこのお地蔵さんをわざわざこの地に運んできたことになる。
 何故? 
 見えないその過程が恐ろしく、同時に多少の気色悪さを覚える。
 電波光源に触れてしまった人間が起こした奇行の名残なのかもしれない。

「…………」

 それでも今は結果としてお地蔵さんにはお世話? になっている。
 現実でも、夢の世界でも。
 とにかくここに来れば、不思議と日々の嫌気や過去のしがらみが薄らいでいった。忘れるというより、何か得体のしれない原液を脳内にぶちまけて薄めた様な、そんな感じ。思えばここに来る前の僕は、随分と自身の過去と周囲に囚われ、言いようのない深い嫌気がさしていたと思う。
 今は過去を振り返っても、あまり何かを思うことはなかった。昔は違ったのだろう。遠い過去のように思えるほどに、ここにいる間は嫌な記憶を中和する事が出来たのだ。

「暑いなあ」

 空を見上げる。五月だというのにやけに暑い。
 また異常気象の影響なのだろうか。
 考えてみれば異常気象という言葉も、もはや今の人間から見たら異常でも何でもない、現状としての気候…………ただそれだけのように感じられるだろう。『異常気象』という言葉を初めて聞いて、異常なのだと取り乱す輩がいるだろうか? 異常という言葉を異常足らしめる異常さが少なくとも異常の名を持つ異常気象には存在していない。いわば異常の骸。中身のない抜け殻と化している。親近感さえ湧いてくる。

「暑いなあ」

 空を見上げる。五月だというのにやけに暑い。
 考えてみれば、太陽はもうすぐ御身を地平線へ沈めようとするだろう。彼はもう自主練習を終えたのだろうか? 熱が入り没頭しているようならば、まだ素振りやらキャッチボールやらを続けているのかもしれない。
 基本的に宿題は家ではやらず提出する日に学校で何とか終わらせ、塵は机の中に入れてたまに放課後纏めて出す。靴を履き替えるのが手間だという理由で校庭や中庭を上履きで横断するのも当たり前。
 基本的に面倒臭がりであるはずなのに、彼は自主練やグローブ磨きをまめにする努力の人。好きなものに対しては、やはり接し方が違うのだろう。そんな彼を真似て僕が始めようと思ったのが、素振りだった。ただし振るのはバットではなく、家にあった大きめの木刀だ。生憎、バットは持っていなかった。それでもとにかく、自分の無として存在する時間の埋め合わせをしたかった。
 その時間を勉強に費やせばいいのにという、無粋なつっこみは無しだ。勉強は別で時間を設けているし、こんなものでも一応は僕の趣味の一つなのだから。

「暑いなあ」

 空を見上げる。五月だというのにやけに暑い。
 僕は息を大きく吸い、ゆっくり吐く。日常の中で蓄積された嫌気を薄めてくれるこの地の空気を、雰囲気を、少しでも取り込もうと呼吸する。傍から見ればそれは、危ない薬に依存する末期患者のようにも見えるかもしれない。だけどここには傍から見る人間はいない。危ない薬などない。その全てが虚偽であり妄想であり狂言だ。
 少しして僕は元来た道を辿る為に地蔵の横から駆け出し、剥き出しになった土の感触を靴の裏に感じた。

「ふう」

 小走りを続けた後、いくばくも無く息を整える。
 こうして進入禁止のテープをくぐると、急に違う世界に来たように思えてしまう。むしろさっきまでいた世界の方が正しいような、変に体裁の悪い違和感。人気の感じない建物達からは、静寂だからこその冷ややかな非難を浴びせられているような気分になる。
 まるでこの世界にお前は不必要な存在なのだと、太陽は攻撃的な色と熱を発しながら少しずつ空の彼方へ沈もうとしていた。きっと世に必ず一定以上の自殺者がいるのは、あの太陽のせいなのだと思う。


 胎児は生まれた瞬間、光に包まれる。今まで暗く狭い世界へと閉じ込められていた存在が初めて外の世界に出るのだから、この場合の光は例え薄暗い空の月明かりにしたって、立派な輝きだ。
 そして生まれ落ちた瞬間、胎児は他者からの自分自身の評価を感じ取る。その他者というのが、光だ。生んだ親ではない。生まれ落ちた赤子に最も早く到達し、触れ、伝える事が出来るのは光だけだ。当然ながら光は強ければ強い程にその存在感とそれに伴う発言力を大きくし、胎児に語りかける。


 いてもいなくても良い。


 いても良いんだよ?


 存在するに値する命。


 ひたすら無価値な命。


 胎児は言葉ではなく本能で、光の言葉を吟味する。その意味を捉え、最初の言葉として脳の中に刻まれる。
 やがて成長するにつれて胎児だった存在は光の言葉を忘れてしまうが、ふとしたことで思い出してしまうのだ。
 例えば、日差しを浴びた時。
 例えば、燃えるような夕陽を目にした時。
 例えば、月明かりに照らされた海面を見た時。
 そして思い出した言葉が、自身の存在を否定するものだった時…………人は、自ら命を絶って事切れる。忘れていた言葉に対する申し訳なさと、生きている疑問に包まれて。
 無論、自殺をする人間の中にはそれを自覚していない者もいる。憎しみの果てに、絶望の果てに、自暴自棄の果てに…………しかしそれらは間接的な理由を無意識に後付けしているに過ぎず、その衝動の根幹は『光の言葉』だ。
 僕は光の言葉を覚えていない。思い出すような前兆もない。ただ、光の中でも最高峰の存在……太陽が、語りかけてくるのだ。
 この世界にお前は不必要な存在だと。
 だけど僕は命を絶つ気にはなれない。あくまで最初に僕に語りかけた光の言葉を、思い出せていないからだろう。魂に刻まれたその言葉の内容が太陽と同じであれば、僕は自殺するしかない。光の言葉に抗う術はないのだ。
 机の上に置いた箸が机をすり抜けないように。
 こぼれた水が地面を濡らすのと同じように。
 飛び散った鮮血が和紙に浸み込むのと同じように。
 そういう法則、ルール。この世界がこの世界であるがための、初めから存在していた絶対的な掟。だけどそれは、あくまでこの世界の話だ。
 進入禁止のテープによって隔たれた、もう一つの世界。
 あそこの世界ならば、光の言葉による法則は通用しないかもしれない。昔ほどでないが今も感じる光の言葉に対する恐怖や脅威をも、あの世界は優しく包み込んでくれる。タワー周辺区域に足を運ぶ理由の一つだった。


 かくして電車の窓から差し込む夕日に眼を細めながらも、僕は目的地の駅を降りた。テープをくぐってからの違和感も、今はもう薄れている。全てがあっという間だ。楽しい時間はすぐに過ぎ去るとは言うものの、避けたい現実が待ち受けている場合の時間もすぐに過ぎ去るという事実には意外と誰も気付かない。いや、気付かないふりをしているだけかもしれない。
 改札口を出てバス停に向かえば、丁度バスが止まっていた。急ぎ足で駆け込み、席に座ると到着するまで窓の外を眺めることにする。ここでもやはり太陽の光は全身を突き刺していた。
 少なくとも今、日本中が太陽の発言の支配下に置かれている。よく考えるとそれはとても恐ろしいことであり。
 奴の言葉がきっかけで光の言葉を思い出してしまったら、もうそれは手遅れだ。そうでなくても極めて発言力の高い太陽に存在を否定されてしまったら、光の言葉を思い出さずともショックのあまり自殺してしまうかもしれない。自殺者の中にはそういった人間も少なくないのだ。

「…………」

 僕は僅かに力を込めて握り拳を作る。
 奴は、太陽は、自身の存在と発言力を自覚しているのか? それらを意識した上で発言しているのであれば、それは相当汚いやり口のようにも思えた。だが逆に無自覚の上で行っているとすれば、それもまたある種の恐怖を秘めている。
 いずれにせよ僕は、少々怒りに包まれていた。だが太陽を睨み付けようにも、その圧倒的存在感を直視することは出来ない。結局のところ自分は、どこまでも小さな存在なのだと再確認せざるを得なかった。
 バスが揺れる。降りるべき駅に着いた。乗った時とは正反対の重い足取りで僕はバスを降りると、数分歩いて自宅へと辿り着く。
 扉を開けると、誰も帰ってきてはいない。誰かが返ってくる直後の数分前まで、僕はひたすら手にした木刀で素振りを続けていた。
 手にした得物を振って。
 振って。
 振って。
 趣味と自称した僕だけど、それは半ば宗教のようなものだった。
 これから待ち受ける現実を前に少しでも心が奮い立つのなら、ましになるのなら、そう信じ続けて。根拠も理屈もなくとも縋れるものを見つけたのなら――――それが良い。


 そして。


 …………やがて兄の妻が、幼い子供と一緒に扉を開けて帰ってきました。
 やがて母が、扉を開けて帰ってきました。
 母が夕ご飯を全て作り、兄の妻と話を弾ませます。

「昴(すばる)、早くご飯を食べなさい」

 母はその名で私の名前を呼びます。
 生まれてくる筈だった、姉の名前。流産しなければここに居合わせただろう、姉の名前。
 男の子と女の子が一人ずつ。それが理想の家族だと。
 兄の名前は浩(こう)太(た)です。次こそはと産んだ私は男です。妥協の名付け。妥協の存在。自分達が望む『理想の家庭』とやらの為だけに、両親の自己満足によって作られた私。母の眼は時折、私越しに別の存在を見ているような目付きです。褒めるところは女顔。それ以外に褒められた点はありません。父からもありません。幼い頃には女装を強要されたことも何度かありました。
 そんな父も、四年前に兄が子供を作ってしまうと逃げるように蒸発してしまいました。それもその筈です。兄は大学中退後、働く事もせず子どもを作ってしまったからです。元々裕福ではない我が家の家計は厳しいものであり、父は趣味の鉄道模型と共に忽然と姿を消してしまいました。少しでもお金を割く事が嫌だったのでしょう。まだ小さな頃、私が無断で模型を持っていったその日の夜に、私は顔を激しく殴られ醜く腫れ上がった自身の顔を今でも覚えています。
 私は兄も兄の妻も好きではありませんでした。
 人の部屋に無断で入る、了承を得ずに物を借りる、家を散らかす、とにかく幼い…………時間も経たずに仲が悪くなるのは自然でした。この家の中で今では私の部屋だけが、唯一にして全てです。それでも壁越しに聞こえる彼らの笑い声や話し声を聞くだけで、正体の無い気持ちの悪さに襲われたことがあります。
 母はそんな二人をどうする事もしませんでした。私の前では今年中に家から出すという話をしておきながら、それが実行されたことはありません。まだ幼い子供の為にも普段の会話では兄や妻のふがいなさを激しく叱責することもなく、普通に対応していました。あの二人にはそれが分からないのです。
 同時に母が、裏で兄夫婦と蒸発した父に対し膿んでしまった醜悪な言葉の羅列を並べていたのを聞いたことがあります。よく聞こえませんでしたが怒りというよりかはどこか無機質な、諦めにも似た声色だったのは記憶に新しいです。
 心が休まりません。
 私の居場所はここじゃない。この世界じゃない。湯船の中でそう呟いても、吐き出てくるのは無数の泡のみ。色なんてついてない、ただの無色。


 …………僕の望むような答えも言葉も、昴は何も提示してくれない。
 さぞかし気が楽なことだろう。適当な雑談に付き合うだけで、肝心なことには何も答えてくれない僕の姉。彼女が姿を見せるのは常に藍色の霧が漂うような、何もない美しくも寂しい世界……言ってしまえば僕が見る夢の世界であった。
 僕がタワー周辺区域に訪れるようになってから、その夢の世界以外の夢を見たことは一度もない。自らの意志で狙って夢を見られるわけでもないのだが、少なくない頻度で夢の世界に行く度に昴は必ず現れる。実体がないようにも感じられる昴の態度に僕は苛立ちを募らせ、夢の中で彼女を殴り倒したことも一度や二度ではなかった。
 しかし彼女は、微弱な抵抗こそすれ表情を崩さない。青痣が目立ち始め、唇が切れ、口端からは拭われることのない血が線を作り顎を滴る。次に自分の拳を見つめると、昴の血が付いていた。それは昴の血であって、僕に流れる血は決して僕の物じゃない。


 汚らわしい。


 腹立たしい。


 疎ましい。


 そういった負の言葉が僕の口から、あるいは眼から、あるいは鼻から、あるいは毛穴から、あるいは掌から、あるいはふくらはぎから、あるいは肩から、あるいは背中から、あるいは股間から、あるいはふとももから漏れては、消えていった。
 だけどそうした昴の態度が特別だったわけじゃない。
 犬のポンも、お地蔵さんも、夢の世界の住人として話を聞いてくれている時でも、明確な解決策を示してくれたことはなかった。
 ポンはただ吠えるだけ。お地蔵さんはドーム事件の跡地であるあの場所からこの夢の世界まで歩いてくるのにいつも疲れているようで、終始受け身な態度になっていることが多い。自分から話題を提示することもあるが、身の上を語ろうとしたりすることはなかった。

「答えなんてないのだよ。スクル君」

「…………また、それで締めるんだね」

 スクル君。それは夢の世界での、僕の名前。
 夢から覚める時、お地蔵さんはいつもお決まりの台詞で会話を締め括ろうとする。何故かは分からないし、別に分からなくても良い。口癖のようなものなのだろう。実際、会話の最中にお地蔵さんの口は動かないが。
 とにかく僕は目覚め、朝陽を浴びる。
 朝食をとり、準備を済ませて家を出る。バスの、電車の窓から見た青空は、綺麗だった。

「よう」

「ああ」

 駅から降りた後の登校中、彼が声をかけてくる。僕はそれに応える。昨日の自主練について聞くと、やっぱり少し熱を入れ過ぎてしまったらしい。帰るのが少し遅れたようだった。
 そんな他愛もない話をしていてもやがて僕達は学校に着き、そして授業を受ける。
 何一つ変わらない僕の日常。それが少し変わったのは、昼休みの彼の一言が原因だった。

「おい、ちょっといいか。明日は休みだろ?」

「そうだね」

「明日さ、お前がいつも行ってるあの場所に……連れてってくれないか?」

 唐突だった。今までどこかに遊びに行くことはあっても、今回のそれは明らかに違う意図を含んでいるのは目に見えている。まさか遊ぶ場所として提案したわけでもあるまい。

「いいけど……急だね」

 思ったことをそのまま口にする。

「何かお前、前からあそこに行くと嫌な事が忘れられたりするとか何とか言ってただろ。それにそこに行くようになってから、現にお前は変に暗くなったりしなくなったよな? 人が変わる程の風景や場所があるのなら、行ってみたくなるものなんだよ」

「単に興味が湧いたって事だろ? 別にいいよ。休日に予定が出来るなら僕は大歓迎だ」

 すると意地の悪い笑みを浮かべて、彼は僕の腕に自身の腕をぶつけた。

「交渉成立だな」

「ああ」

 自然、僕は笑みが浮かぶ。
 今の僕も、目の前の彼と同じような意地の悪い笑みを浮かべているんだろうか。途中、様子を見て絡んできたクラスメイトが面白おかしく僕と彼の顔を指さした。そいつが言うには同じような笑みを浮かべて肩をゆすり合う僕達が、どう見ても犯罪に手を染める類のそれにしか見えなかったという。
 ある意味間違ってはいない見方だが、彼が喰いついたのはそんなところではなかった。

「いや、意地が悪いのはこいつな。俺はこいつの真似しただけ」

 彼はそう言って顎を掴み、揺さぶってくる。

「真似も糞も、先にお前が笑い始めたんだろ、犯罪者面め!」

 下らない言葉の応酬。だけど笑みが絶えることはない。こんな些末なことで笑えられるのは高校生の特権だ。
 僕は床に寝そべり奇妙な動きをして挑発する彼に罵声を浴びせ、教室を後にする。飲み物を買う為に訪れた食堂では、昼休み割引の文字が張られた券売機に生徒達が並んでいた。僕は少し考えた後に列に並び、塩ラーメンのボタンを押す。それから自販機で飲み物を購入した。
 そして休み時間ギリギリで教室に戻ったら、奴に割引の話をしてやるのだ。
 塩ラーメンの券は、果たして彼にどのような表情をさせるのか。失意に呑まれた彼の姿を想像し、僕は意地の悪い笑みを浮かべた。


 第二章  相成れぬ

 僕が『彼』と出会ったのは、小学生の頃だった。
 当時の僕は光の言葉を極端に恐れ、物体や人の影に好んで居座る事を良しとしていた。
 周囲の子供達から見たら、それは異様に見えただろう。同学年の女子生徒が作る影に入る為に、背後に密着して移動したこともある。そんなことを繰り返しているうちに周囲の僕を見る目は着々と変わっていき、六年生になった頃には『菱本(ひしもと) 昴(すばる)キチ○イ説』は濃厚なものとなって確立していった。
 青い空。何処までも澄み渡っていくような空気の果て。浮かぶ雲が流れ流され、どことも知れない蒼に溶けていく…………僕は今でもその風景を覚えている。
 綺麗なんだ。どうしようもなく。穢そうと思っても穢しきれない、遥かな空が。陽の光が無色の空を、青へと染め上げる。当時の僕は見上げる天を目の前に、そんな錯覚を覚えてしまっていた。
 クラスメイトにしてみれば物珍しいという言葉を使うより、単純に変だと思ったかもしれない。普段は進んで影ある場所に居座り、空を碌に見上げる事もなかった僕が、茫然と窓の外を眺めていた様子は。何かがあるのではないかと思い、皆も窓の外へと視線を移す。外を見ていた人間が、僕以外の誰かであったなら皆はいつも通りだっただろう。当時の僕も、漠然とそんなことは理解できていた。
 見つめる空の向こうには、何もない。皆が期待していた未確認飛行物体も、立ち上る煙も、目を引くようなものは何もない。ただ海よりも濃い青が、一面へと広がっていた。
 冬の透明感のある空とは違い、皆で見上げた夏の空は瞳に存在を色濃く残している。小学生の教室、それも昼休みではあまり見かけない、物静かな雰囲気。隣や廊下で騒ぐ他の子供達の騒ぎ声が、どこか遠いものに感じられる。
 出し抜けに、僕の隣で立っていた彼は話しかけてきた。

「……菱本。お前、ずっとこれを眺めていたのか?」

 これ。
 空でもなく、雲でもなく、これ。
 そう表現した彼の心情は、痛い程に理解できた。

「ああ」

 彼の言葉に、僕は短く返事を返す。

「そうか……綺麗だな」

「今は…………それしか言えない」

 当時の僕達が知っている言葉であの空を表現するのならば、それは綺麗だとか美しいだとか……それだけで一杯だった。小学生の僕は、もっと大人になったのなら違う言葉が溢れてくるものかと考えていたものだ。
 だけど今、青年になった僕があの空に向けて思う事。それは『無』の一言に尽きる。別に何も感じないからと言って、その言葉を選んだわけではない。無と一言で言っても、それは所謂原初の無…………退廃的な世界で表現される無の影とは違い、あの日見つめた青き空には『これから』があった。
 始まろうとしている無。全てが消え去った後の無。
 あの時、僕はあの空に『原初の無』を見出した。
 そして今、僕はあの世界に『終わりの無』を見出している。
 僕はそのどちらにも惹かれた。クラスの皆も、彼も、少なくとも原初の無には惹かれていた。
 ならば、僕がほぼ毎日と言っていいほど足を運ぶあの世界に存在する、終わりの無はどうなのだろう。当時のクラスメイトも、彼も、僕と同様に惹かれるのだろうか。
 原初の無を、あの空を見た後の僕は極端にではあるが光の言葉を意識しなくなった。そして今日まで、陰に隠れることなく日々を生きてきた。
 終わりの無を、あの世界を見た後の僕は蓄積した負の感情を沈める術を知った。そして今日まで、僕の心の支えとなってくれた。
 彼はあの日のように、終わりの無に惹かれるのか。それが今日、分かる。

「悪い、待たせたな」

 背後から男の声が聞こえ振り向くと、彼が駈け寄ってくるのが見えた。フードが付いた黒色の上着に茶の長ズボン。この日僕は白のシャツに青のジーンズを穿いていたので、服装だけ見れば性格のみならず色合いも対照的に見えるかもしれない。

「いや、僕も今来たところだよ」

 今にして思えば、これも不思議な付き合いだ。性格も趣味もまるで合うようなものがないのに、あの日を境に僕と彼は自然と話すようになった。クラスメイトの態度も、僕の変化に合わせて軟化したものとなっていった。
 自分が変われば、世界は変わる。全てにおいて適用されるわけではないそれも、一端の物としては理解できた瞬間だった。
 世界には、変わりたくても変われない人間がいる。
 恵まれた人間と恵まれなかった人間がいる。
 でもそれっていうのは所詮、自分が男として生まれたか女として生まれたか程度のものでしかない。それでも、だ。たとえ素晴らしい環境の中で日々を生きようにも、嫌気がさす環境の中で毎日を過ごそうにも、いつか人生のどこかで、そんなものが全てどうでもよく思えてくるような光景に出合えたのなら。
 僕はその時、ようやく胸を張ってこう言えるだろう。

「じゃあ…………歩こうか」

 まだ、歩ける。まだ、前に進める。まだね。

「なんかさ、今のやり取り…………男女のそれっぽかったよな」

 女顔の僕へのあてつけのように、彼は意地悪く笑った。

「気色悪いこと言うなよ」

 彼は僕の名前を呼ばない。僕が自分自身の名前を嫌っていることを知っているから。同様に僕が彼の名前を呼ばないのは、自身の名を嫌う僕なりの親愛表現だった。普通の関係である人間やクラスメイトに対しては、ちゃんと名前で呼んでいる。
 口にこそ出すことはなかったが、彼もそのことに付いては暗黙の内に理解しているようだった。だから名前を呼ばないことそれ自体に言及するわけでもないし、他の人間に指摘された場合は笑って誤魔化しもしてくれる。そういう所は、本当に彼らしかった。

「昼過ぎだけど、何か飯食った?」

 とりあえず駅前から離れて歩いていると、彼はそんな質問をしてくる。

「いや、まだだね」

「よし、決めた! 俺もまだ食っていないからよ、適当にそこらへん寄ろうぜ」

 僕の背中を勢いよく叩きながら、彼はそういった。背中を叩く必要があったのか少し疑問に残るところだが、野球部に所属している彼の体育会系的なノリなのかもしれない。

「お前、顔の割に結構筋肉あるよな。やっぱ俺の真似事とか言ってやってた素振り、続けてんの?」

「顔は関係ないだろ。…………何にもないからさ、せめてこれだけは続けておきたいんだ」

 筋肉を付けたいわけでも、スポーツをやりたいわけでもない。
 今のところ僕の日々という奴は、朝起きて学校へ行き、放課後にあの場所に行って家に帰る。その後の時間は再び学校へ行くまでは、ほとんどの場合が家で過ごしているだろう。奴らが返ってくるまでの、抗いようのない時間を何もしないで待っているのには抵抗があった。無理があった。気を紛らわすために始めた妄信にも似た木刀による素振りも、続けて早三年が経とうとしている。

「……そっか。ま、俺に憧れる気持ちも分からなくはないが、ほどほどにしとけよ」

「何言ってんだお前…………」

 一瞬して、僕達は笑いあう。
 教室の時と変わらないふざけた話をしながらも、僕は彼と一緒に手頃なファミリーレストランへ足を運び、少し遅い昼食をとった。僕がタワー周辺に向かう際に利用する駅で待ち合わせをしていたので、彼がこの周辺に来るのは恐らく初めてだろう。通学の途中にある場所でもないので、自然と僕が駅の周辺を案内する形になる。

「この辺、詳しいのか?」

「いや、あくまであそこに向かうことが目的だから。駅の周りをうろついたことはあんまないね」

 正直な話、先程のファミリーレストランも見かけたことがあるだけで中に入ったのは今日が初めてだ。彼が思っているほど僕はこの周辺に詳しいわけでもなく、食後の散歩と称した禁止区域までのぶらつきは思った以上に新鮮なものだった。多少道を外しても、大元の進路や侵入経路を知っていれば道を修正することは出来る。歩き続けた足跡に迷いはなかった。

「なあ、ここ本当に大丈夫なのか……?」

 彼の提案で道草をしながら歩くこと四十分、周囲は次第にその静けさを深めていく。それに比例するように、彼の口数も自然と少なくなっていた。警備員や防犯カメラの存在を危惧する彼とは裏腹に、僕は勝手知ったる庭を難なく歩くように歩調を緩めない。そして、あの世界への扉…………進入禁止のテープを、くぐった。
 見知った道。
 見知った場所。
 見知った風景。
 そしてその先にある、見知った世界。
 世界各地で起こるドーム事件の跡地に訪れようとする者は、当初から皆無だった。そもそも警備している警備員が一番気持ち悪がっているという現実だ。
 見せ掛けだけの警備網をすり抜ける事は、最初からそう難しくはなかった。

「何か、本当に陸続きの場所とは思えないな。こう、家や電柱がそこにあるってだけで、無理矢理に俺達の世界? 現実を取り繕ったような……違和感? 急に何言ってんだろな、俺」

 僕達は導かれるように進んでいく。
 家はあっても、そこに住む人間など誰もいない。しばらく歩けば、その家や電柱さえも消えていく。
 先程テープの中に足を踏み入れた、彼の感想も気になった。彼が掴みあぐねている違和感を感じたように、心霊現場やパワースポット等といったやつも、似たようなものを感じるのか。種類は違えど足を踏み入れただけで何かを感じる場所という点で、似たような感覚を覚える人間もいるかもしれない。
 だが人間というものは大抵、そんな未知なるものに対して正当性や理由を付けようとする。納得しようとする。
 単純に暗いし寒いから恐怖を覚えたり、神秘的な場所に感化されるから普段と違う意識になったり…………だが今僕達が扉を開けたこの世界は、そんなもので理由や理屈を付けられないほどの決定的に違う『何か』があった。僕とて最初は彼の言葉を鵜呑みにし、単純に見慣れぬ光景に感化しただけと考えていた。だがそれも違う。最初ほど酷くはなかったとはいえ、明らかにこの違和感は今も僕の中の片隅で息巻いているのだ。

「あのよ…………これ、感化されるとかそういうのじゃ、ないな。なんだよ、なんだ?」

 一瞬、足元がおぼつかなくなった彼の肩を支える。軽く頭を振りながら大丈夫だと告げる彼の表情は、明らかに当惑していた。朝目が覚めたら寝床の横にお地蔵さんが置いてあったような、そんな表情。何の前振りもなくごく当然のように現れた、非現実的な現象を体験してしまったら…………訳が分からないのも致し方ない。だけどそれすら、日常という名の混沌としたものに飲み込まれていくのだ。
 少なくともこの世界は彼の中では非日常で、僕の中では日常だった。それだけの話。

「まさか、電波光源による副作用ってことはないよな。半年以上過ぎていまだ実態の掴めていない発光現象…………精神病を患うのは御免だぜ」

「副作用かどうかは否定し切れないけれど……僕は今もこうして日常を生きている。君だってその事実を知っていたからこそ、来る気になれたんだろ?」

「……そうだな。なんかこの雰囲気というか…………空気に感化されたのかもな」

 そう言ってただただ困惑している彼と共に、舗装された道を歩き続ける。やがてその道もぶつりと途切れ、後は何もない荒野…………この世界の中心地へと、やってきた。機能していない赤き電波塔は、相も変わらず世界から置き去りにされたようにぽつねんと突っ立っている。ここまで来ると彼の違和感も極まったようであり、再び頭を押さえ呻き頭上を仰いでいた。
 強烈な喪失感。ノスタルジック。遠い思い出。
 彼の頭の中ではそれらが交差し、抱いたことの無いような違和感や不可思議さを掻き立てているに違いない。僕も、最初は同じようなものだった。まるでさんざん年を取り様々な経験をした後に、長年の歳月を隔て遠い過去に訪れた地に再び足を踏み入れた様な…………勿論それ自体を経験したわけではないが、具体的にその『何か』について例を挙げるならこんなものだ。
 なにを言っているのか分からないなら、むしろその状態が好ましいと思う。説明しようとしても僕とて訳が分からないのだから、それが正しいように思えてくるからだ。

「あ、地蔵? あるよな……地蔵?」

「うん。あるよ、地蔵。いつもこいつを目印にしてるんだ」

 しかし、今日はそれだけではなかった。

「あと……誰だ? 女がいるよな…………お前の知り合いか?」

「いや。僕も初めて見る人だ」

 女というよりは、同年代くらいの少女。黒のポロシャツに極めて薄い青のジーンズといったラフな格好。肩甲骨までありそうな黒髪を伸ばし、端正な顔立ちをした彼女は地蔵の背にもたれかかっている。僕達の存在に気付き一瞬こちらと視線が絡み合うが、互いに何かを言い出すこともない。僕はもとより、彼も過剰に気にしてはいない様子だ。

「そっか…………いるんだよな?」

 一々彼が物事を確認しないといけなくなるのは、この世界の雰囲気が現実性を不確かにしているからだと僕は考える。慣れないうちは仕方がない。僕も最初あの地蔵を目の前にした時は、それを視界に収めたこの瞳も、冷ややかな無機質さを伝えてくれたこの腕も、信頼に足る事はなかった。
 存在認識を完了した彼はどこかホッとしたような表情を見せ、地蔵の横に座り込む。同時に持て余した左手で地蔵の頭をぺちぺち叩くと、ここに来て何度目になるか分からない溜め息を吐いた。
 僕はお地蔵さんを挟むように彼の反対側に立つと、つるりとした石質の頭にそっと手を置いた。ひんやりとした感触が右手に伝わってくる。僕はその冷たさを脳にも喰らわせてやろうと、頭に腕を突っ込んだ。前頭葉と側頭葉に生えた歯の間から、細長い舌が犬のように僕の右手を数度舐める。同じ身体を共有していても、脳と心が考えていることは別のようだ。おかげで掌が少し湿ってしまった。

「何かお前、それ癖だよな。手を頭にあてるの」

「ん」

「俺も少し、汗かいちまった」

 そう言って彼は腕で額の汗を拭う。少し落ち着いてきたのか、彼は何やら傍目から見ても分かる気まずそうな雰囲気を醸し出していた。それはつまり、少なくとも、気まずそうになれるだけの余裕が生まれていたという事だ。喜ばしい。
 気まずさの原因は…………やはり彼女だろう。地蔵の背にもたれかかっているそれ。まるで自分の家でくつろいでいるように、自然体のままでいる少女。様子から見て、今日初めてここに足を延ばしたわけではなさそうだ。おそらくもっと前から…………この世界について知っていて、長くいる経験もある。挙動や動作がなくとも、彼女の佇まいや雰囲気は作られたものではないことくらい分かった。初見であるのならこの世界を前にして、自然体を装うことすら難しいのだから。

「何で…………入ってきたの」

「え?」

 しばらく何をするでもなく、空を眺めていると少女は急に話しかけてくる。
 思わず聞き返してしまった。

「ここに。入ってきた理由」

 ぶつ切りにされる質問。刺身に醤油を付けるまでもない。僕は彼女の言葉の意図をすぐに呑み込み、今日ここに来た経緯だけでも答えた。

「……そこにいる僕の友達が、普段僕が放課後に訪れるこの地に興味を抱いてね。僕がここに来たきっかけは、帰りたくない家に帰る前の抵抗……暇潰しみたいなものだった。だけどここで過ごしていると、一時的だけど家の嫌な事とか、過去のことも忘れられて…………気が付いたら休日を除くほぼ毎日、ここに足を運ぶようになっていたんだ」

「そう、そうなんだよ。だからその話を聞いた俺は今日、こいつと一緒に初めてここに来たんだが…………嫌な事を忘れるっていうか、頭に霧がかかって、感じたこともない感覚を無理矢理流し込まれるような感じ? いや俺別に頭良くねーから、うまく説明できないんだけどさ」

 先程まで流れていた空気を払拭するように、彼も積極的に会話に参加する。でも彼の話している内容は、感じ方としてはあながち間違いでもないと思う。経験をしたこともない情景が、感覚が、どこか遠い過去にあった何かに対して懐かしみのようなものを覚えるそれが、僕達の許可を無視して僕達の中に流れ込む。人が受ける影響は、目に見える物より見えないものの方が圧倒的に多い。

「そう。そうなの」

 身体は一切動かさないまま、彼女の唇だけが言葉を紡ぐ。

「君は見たところ、ここにいる経験が長いみたいだね」

 見たときから少し気になっていたことを、投げかける。

「私はドーム事件が起きてから最初の休日に、ここにやってきたの」

「僕は事件が起きた翌日かな」

「俺は今日初めて」

「……そう。そうなの」

 一見、適当そうに見える返事。だけど僕から見た彼女の姿は、まるで言葉の一つ一つを咀嚼しているようにも見えて。しかし窺い知れない表情からは、確証を得ることは出来ない。

「こいつがここにきている理由は前から分かっていたけどよ、あんたはまた何でこんなところに?」

 今度は彼が、彼女に質問を投げかける。
 この世界で初対面と話している割には、彼の口は尻込みせず妙に積極的で饒舌だ。彼自身の性格上、人見知りをするようなタイプではないことは知っている。しかしついさっきの雰囲気も相まってしばし口を閉ざしていた彼が、ここにきておしゃべりになるというのも不自然な気がした。
 何か話していないと、この世界に取り込まれてしまいそうで不安なのだろうか。口調にもどこか焦りが見えてこないこともない。

「ねえ…………電波という単語について考えたことある?」

「え、電波? いや、ないけどよ…………」

 地雷を踏んでしまったと確信した、彼の表情。振り返り横目で視線をぶつけてくる彼の心情とは裏腹に、僕は助け舟を出そうとは思わなかった。というよりも、出せないでいるといったほうが正しい。一度決壊した堤防を即座に直すことが難しいように、彼女の中の壁は既に取り除かれ、言葉の激流はすぐそこまで押し寄せている。きっかけを作った後に話題を転換させるほどの話術も、器用さも僕にはない。

「電波。電波ね。ほら、よくあるじゃない。電波系という言葉とか、受信とか。それらを題材にした浅はかな性格付けとか、物語。わけの分からない哲学や思想みたいなのがお話しと共に延々と……いや、この場合はゆんゆんと、とか言うのかしら。とにかく垂れ流されていって、特有の超展開とかいくつかあって。意味不明な文字の羅列や謎めいた考えで読者を煙に巻いて、終わってしまうような物語とか……あるじゃない。そんなものをいくつも作ってまで、そこで作者はこう主張したいわけでしょ。俺は凡人とは違う! こんな奇奇怪怪で精神的で鬱で電波で奥深い物語を創作することが出来る……普通とは一線を画している! と。そしてそんな作品ばかりを見ては称賛し持ち上げる読み手もまた、自分をその他大勢とは違う感性、見解を持っている人間だと思い込みたいわけよ。そして真実の光に触れ真(まこと)の真理を知り得ることが出来た人間の考えや思想も、前述した人間達のせいで電波という一言で片づけられてしまう…………ただの性格付けだと、疲れているだけだと一蹴されてしまう」

「……何が言いたいんだい?」

 話の内容を聞いたまま唖然とする彼に代わって、僕が彼女に話の真意を尋ねる。

「私はそれが許せないの。サブカルチャーを気取って電波と言う言葉を拾い上げて、自分が凡人であるという現実から目を逸らして悦に浸る…………そして真理を知り得る者の意見や発言も、『電波』と言うありふれた食傷気味の単語と一括りにされていく。これは真実の冒涜に他ならないわ。私は違う。私は本当の意味で今この世界に起こっている事象……電波光源の真理を知っている。だけどただ一つの真実を知る私の言葉は、今日まで誰にも届くことはなかった」

「それは違う……と思うよ」

 彼女の口にしたことを一通り聞き終えた後、僕は彼女に対して反論する。僕の言葉に今まで気が滅入ったように話を聞いていた彼も頭を上げ、何かを期待するような眼差しで見つめてくる。しかし続く僕の言葉を聞いた反応を見る限り、どうやら僕は彼の期待に添えられなかったらしい。

「この世の真理は君が知る一つだけじゃない。例えば僕は『光の言葉』という摂理を知っている」

「光の……言葉?」

 怪訝そうに彼女は言葉を繰り返す。

「そう、光の言葉。腹の中から出た胎児に一番最初に触れられるのは、伝えられるのは、母親じゃなく光だ。生まれ落ちる瞬間、あるいはもう腹の中にいる段階で、胎児は他者からの評価を感じ取る。その他者というのが、光だ」

 それから僕はある程度まとめた上で、光の言葉による作用について説明した。
多くの人間が気付いていない、気付く機会やきっかけがなかった人達にとってかの内容はどのように映るのか。
 斬新。
 奇怪。
 虚言。
 神秘。
 真実。
 意味不明。
 そのどれもが間違っているようにも見えたし、正しいようにも見えた。

「……そうなの。それがあなたの提示する真理の一つなのね」

「そうだね。君は光の言葉を知らないらしいけど……どう思う?」

 彼女が言う、電波と言う言葉で迫害されまともに聞き入れられることもなかった、一つの真理について考えながら感想を促す。
 彼女が何故、初対面である僕達にそのようなことを話して見せたかは分からない。それすらこの世界を構成する景色や空気がそうさせているだけかもしれないし、彼女にとってよほど切実で重大な問題だったのかもしれない。だがいずれにしても僕自体が電波とやらに興味があったわけでもなく、彼女を見る印象の一つとして結局は落ち着いた。

「光の言葉…………あまりにも突拍子もない話と理屈で、何が何だか分からない。けど、そんな話さえも妙な現実味を持たせてしまうのは…………この世界による影響かしら」

「その意見には賛成だ」

 今までうなだれ口を閉ざしていた彼が、不意に呟く。

「光の言葉。光の言葉か。光は意思を持つのか? 生物なのか? 光が言葉を発せられるのか? 何もかもが滅茶苦茶なように見えてその実、筋道立っているように見えるのは何でだよ。光に脳味噌はない! 脳髄もない! 何でそんな理屈を信じるんだ? 認められるんだ? 掴むなら藁じゃなくてもっと別のものがあるだろう!?」

 困惑やその他溢れる感情を抑え、律するようにして彼はそんな言葉を吐き出した。静かに、だが力強く言葉を重ねる彼の様子は、教室で見るそれとはまるで違う雰囲気を纏っている。それでもまだ冷静を保っているように見えたのは、彼の精神力が強固が故か。それとも、既にこの世界に適応し始めているものなのか。
 いずれにしても彼の様子に、僕は多少の驚きを覚える。僕が初めにここを訪れた時は、溢れ出る感情を押さえつけるように頭を抱え込むことで精一杯だったから。それとも、他人がいる事で彼も多少は気を紛らわせているのかもしれない。

「ここでいう『光』とは、生物的な概念のことを指しているわけじゃない。生まれた胎児が最初に感じ取る存在……いわば他者。それが光というだけの話だよ。だが目も何も見えない赤子にはそれが分からない。だからその存在感から生物として錯覚してしまう。光の言葉を思い出した人間が光源や光に対して一つの生命体のように接してしまうのは、その頃の名残なのかもしれないね」

 続けて、僕は付け足すように言う。

「それと僕は、この理論を信じているわけでも認めているわけでもない。ただ、思い出しただけなんだ。まるで遠い昔に聞いた世界の方式を不意に思い出したように。小学生の頃に覚えた逆立ちのやり方を唐突に思い浮かべたように。難しい漢字の成り立ちを突然思い返したように」

 思い出した?
 口を開けたままでいる彼に代わって、怪訝そうな表情をした彼女は呟く。

「今の君達は逆立ちが出来ない、出来るわけがないと言い張っているのと同じだよ。本当はするやり方も、現実的にできる事も知っている筈なのに。それと同じさ。光の言葉は全ての人間の本能へ必ず一度は語りかけている筈なんだ。だけどそれを思い出せないから、僕の言った言葉を怪しむし何を言っているんだということにもなる。ただそれだけのことさ。僕もそれを小学生くらいの頃に思い出した時は、思わず驚いてしまったもの」

 そこまで説明した時だった。
 横やりに低く、底に響くような声が割って入ってきたのは。

「そうかそうか……ならば、否定するのは難しいな。奇想天外荒唐無稽嘘八百に聞こえていても、儂らが単にその光の言葉とやらを思い出していないだけなのかもしれないからな」

「そうなんですよ、おじいさん。最も、別に僕は光の言葉を否定されようと特に問題はありませんけどね。落としたボールが平坦な地面の上で転がる事を否定されても、どうしようもないでしょう?」

 言い切って、ハッと僕は我を確認する。
 最後に言おうとしていたことを言われ、つい返事を返してしまった。
 声の方を振り向くと、漆塗りであろう朱色の杖を握り締めたおじいさんが、寂しげな笑みを浮かべている。元々、そういう顔の造りなのかもしれないが。
 目の前では少女がおじいさんに軽く会釈をしていることから、少なくとも二人は知り合いらしい。だが僕がお爺さんと初対面である事を考えると、当然彼の面識も初めてのはずだ。

「なんだ、お前の知り合いだったのか?」

「いや、唐突に返事を返しただけで初対面だよ」

 どこか呆れたようにして、彼は肩を落とす。けれど彼も僕も、突然現れたおじいさんの素性が気になっていたのは確かだ。彼と共に視線を意味ありげに少女に向けると、彼女は僕らの言いたいことを理解したように口を開き始めた。

「ああ……このお爺さんは私の前からの知り合いで、休日とかたまにここにやってくるの。このお地蔵さんを置いたのも、このお爺さんらしいわよ」

 紹介されたおじいさんは軽く頭を下げる。動作一つ一つがどこか人形のような、作られたものであると錯覚してしまう雰囲気を持つ、何とも奇妙な人だ。
 いや、それにしても地蔵を置いた張本人? 少女の言葉に僕は思わず目を見開く。最初の言動で変な先入観を抱いてしまったのかもしれないが、どことなく掴みどころの無さそうな人物だと僕は思った。

「そうだったんですか…………地蔵さんには色々、お世話になっています」

「んん……? まあ気に入ってくれたのなら、なによりさ」

 そう言いながらおじいさんは微笑む。反応を見ているうちに彼も少しは落ち着いたのか、おじいさんの方へ視線は向けたまま、ため息交じりに大きく伸びを一つして見せた。身体を反ると同時に上へと引っ張られたシャツの裾を戻そうとしながら、彼は何処とも知れない空の彼方を眺め始める。

「お爺さんは何でここに足を運ぶようになったんだ?」

「何で? そうだね…………使命感、と言うやつかな」

 再び地雷を踏み抜いてしまったのか。そう言わんばかりに話しかけた彼の表情は一気に怪しくなる。僕の方に顔を向けられても困るものだ。話を振ったのはあくまで君の方なのだから。
 変にまじめなのか、それともこの世界の影響なのか、話を流して聞こうとする選択肢はどうやら彼にはないらしい。もっとも、話題を振っておいてその後は右から左へ聞き流すというのも考え物であることには違いない。

「儂はあのドーム事件が起きた時、すぐさま地蔵をこの地に持っていかなければと思った。それは未知なるものに対しての恐れと、畏怖すべき現象が起きたことに対する儂にとっての精一杯が……地蔵をこの地に置くという行為だったんだよ」

「はあ…………」

 歯切れの悪い返事を彼は返す。それも今の説明だけでは無理もないだろう。
 僕だって同じ反応をする。

「まあ、意味が分からないという気持ちも分かるさ。儂だって地蔵を何とか運び終えた後も、君達と同じような気持ちになったし、今でも時々不思議に思うことがある。たださっきの理由以外にも…………あの時光の中に突入して以来、行方不明になっている戦闘機のパイロット達がいるだろう?」

「……ああ、ドーム状に膨れ上がる光の中に突入していった編成部隊のことですか? 今でも見つかっていないらしいですね」

 思い出したように僕は呟く。
 二千八十四年、九月二十五日に発生した世界最初のドーム事件。
 東京タワーを中心に周囲を覆い尽くそうとする光に対し、こなれた様子で政府が要請した戦闘機の編成部隊は様々な攻撃を試みた。だが一切の手応えを感じず硬直状態が続く中、広がり続ける光を前に兵器による効果はないと断定。第一隊、第二隊、第三隊の計十五機は煙の軌跡を背に、光の中へと突撃していった。そして数分後に光は突如消失し、編成部隊も光に飲み込まれた建物も全て消えてしまったという訳だ。
 この特攻については諸説あり、国がそうするよう命令したという話もあれば彼らの意思で突入したという話もある。国は、そのような指令は出していないと公式で否定しているが…………真偽のほどは分からない。だが彼等の突撃によってかそうでないかは別として、結果的に数分後に光が消失したことも含め編成部隊は『尊い犠牲』として英雄視されることになる。

「消えた編成部隊の中にな、儂の息子がいたんだよ。未知なるものに対する畏怖もあるが、行方知らずとなった息子の無事を祈る意味でも、儂は突き動かされるようにして地蔵をすぐにこの地へ運んだ。巨大な光が現れて、ましてやあいつが消えてしまったと知った時は、とにかく何かをしなければ正気ではいられなかった」

 その結果が、地蔵運び。
 行動だけ見れば何とも奇妙な話だが、だからといって他にできる事もない。意味がないと分かっていても、行動に起こさなければ気が済まないという心境は理解できる。それも訳の分からぬ異常事態が発生し、次いで息子を失ってしまったのなら当然だ。立て続けに起こったこれらの異質を前に、取ろうとする行動など最初から限られている。
 だからこの地蔵は、おじいさんにとっての精一杯なのだろう。地蔵からしたら、この世界で日々を過ごさなければならなくなるので、そのことをどう思っているのか分からない。夢の中で登場し僕に語りかけてくるようになったのも、ひょっとしたらこの世界の影響なのかもしれない。
 未知の感覚が全身を襲い、頭を抱え込もうにも動かぬ腕を呪い、呻く事も出来ない口元を呪い、駆け出せぬ足を呪い、お地蔵さんは少しずつこの世界と同調していった。その結果があの性格なのかもしれない。僕のところまで本人が言うには歩いてきているらしいが、それも通常の歩行を指しているとは考えにくいだろう。
 今度、夢の中でそこら辺について聞いてみよう。あまり自分のことを離さないお地蔵さんだが、おじいさんの話をすれば喰いつくかもしれない。

「…………この地蔵にそんな意味があったのか」

 聞き終えた彼が、呟く。僕も同意だった。地蔵の置かれた見えない過程が思わぬタイミングで知り得たというのも大きかったし、電波光源に当てられた狂人がやってのけたものでないと分かっただけでも驚きだ。
 最初こそは微妙な表情を見せていた彼だが、全ての理由を聞き終えた後に見せた顔は、どこか神妙なものだった。嫌な事を思い出させてしまったと考えているのかもしれない。

「何もしない自分を、何もできない自分を認めたくなかっただけかもしれない。だから無理やりにでも起こした行動がこれだったのかもね。それ以来、今は地蔵の様子と沙織さんとの会話をしに、休日によくここを訪れているよ」

 沙織さん、という名前に僕は視線を少女へと移す。彼も少し遅れて彼女の方へ顔を向けると、地蔵の頭に着いた片手で体重を支える少女が髪をかき上げた。

「遅れたけど私、笹岡(ささおか)沙織(さおり)っていう名前なの。隣のおじいさんの名前は今井源次(いまいげんじ)さんで、今話した通り休日は色んなことをこの世界で話しているわ。核戦争…………第三次世界大戦…………生物差別…………ブラックホールの中…………万有斥力の法則…………平行世界…………生の定義…………神様の価値…………胎児の言葉…………星の表情…………色んな、ことを」

 普通の話題で挙がる事もないような、単語の数々。
 だけどそれらこそが、ここでの普通であるかのような気がして。僕達が日常で話題にするテストの話や政治の話、ファッションや流行のような類のものを今ここで話すのは、とてもおかしいように感じられた。今まさに笹岡さんが挙げた話題の数々が、僕達の日常で使われることを異質と感じるように。

「そうか。俺の名前は新堂拓真(しんどうたくま)。まあ見て分かると思うけど、こいつのダチよ」

 名乗りながら軽く僕を小突いてくる彼は、まだ少しぎこちない。取り乱さないだけ大したものだと思うものだが、やはり周囲に人がいればこれくらいのものなのだろうか。

「僕の名前は菱本 昴。だけど名前は嫌いだから…………適当に呼んで」

 彼が名乗ったのに倣い、僕も自身の名前を言う。

「そうかそうか。ならば新堂君と…………君。明日の休日にも私達はここにいる。よかったらまた来てくれると嬉しいね。話し相手が増えれば儂も笹岡さんも喜ぶよ」

「……楽しみにしているわ」

 微笑むおじさんとは対照的に、能面のような表情でそんなことを言う彼女の言葉はどこか取り繕ったもののように感じてしまう。実際、本当に適当なその場しのぎとして言った言葉かもしれないし、元がそういう顔なだけで楽しみにしているのは本心なのかもしれない。
 人形のように端正な少女の顔。
 少女のように端正な人形の顔。
 どちらであったとしても大した問題ではない。ただ、もし後者で本当に人形が意思を持ちこうして動き話しているのだとしたら、是非とも僕の夢の世界に招待したかった。
 現実世界での住人が彼や笹岡さん、今井さんだとしたら夢世界の住人はお地蔵さんに犬のポン、そして姉の昴だ。
 あの世界では喋る無機物と動物こそが正義であり、僕を除いた生身の人間は暴力の雨あられに晒されることになる。姉である菱本 昴が良い例だ。
 殴る対象が増えるのは疲れるからね。それが特に嫌いでもない相手ならなおさらだ。
 今度夢の中で彼女が出てきたら、まずは正体を聞いてみよう。
 人か。
 無機物か。
 どちらにせよ夢の世界の住人が増えることは喜ばしい。
 立ち去る僕らを見送る彼女とおじさんを視界に収めながら、僕は薄い笑みを浮かべた。


 第三章  夢現


『そこ』は清廉で潔白な世界だった。


 口元に当てられた呼吸器を外し、僕は上体を起こす。眠りから覚めてまず最初に自分の寝ていた場所を確認すると、どうやら僕は棺桶のような装置の中でずっと横たわっていたらしい。
 視線を少し動かせばすぐ横には同様の装置がいくつか並べられており、僕が目覚めた棺桶はその一番端に位置していたものだった。
 棺桶から抜け出し、白い床に足を着ける。いつもの服装にいつもの靴。どこまでも白い壁に白い天井。光源があるわけでもないのに部屋の見通しはやけによく、それでいて清純だ。
 ここはどこだったかしらん。
 おぼつかない記憶を整理する為に、僕は横一列に並べられた棺桶を端から順に調べていくことにする。見たところ僕の装置以外に蓋が空いているものはない。上下に開く開閉部分はピクリとも動かない。おそらく眠りについていた僕のように中に誰かがいるのだろうが、固く閉ざされた棺桶を前にそれを確かめる術はなかった。
 表面を叩いても、殴っても、棺桶から無数に伸びている硬質なチューブのようなものを蹴りつけても、反応はない。
 しかし装置の上部をよくよく見ると、無機質な黒文字で『それ』が書かれていたことに気付く。順に棺桶を確認していったが、いずれも例外はなかった。

 アコーシー・アルド
 インストールプログラム『ドラグーンハーツ』

 セロ・ジルンフェイド
 インストールプログラム『ブラッドフィーリング』

 シーナ・ウエット
 インストールプログラム『無窮の鞘』

 ティティ・ブラウンド
 インストールプログラム『ノベルズストーリー』

 クーネ・エムルイ
 インストールプログラム『永久の唄』

 そして、最後。
 僕の棺桶も同じように。

 スクル・グリーズ
 インストールプログラム『見えない胎児』

 スクル・グリーズ。
 その名前は、夢の世界の僕のフルネームだった。

「答えなんてないのだよ。スクル君」

 お地蔵さんがいつも話の最後に言っていた決め台詞。夢の世界の僕を象徴する言葉で、僕の本名。菱本 昴とは違う、僕としての本名。
 その名が使われていたのが、それこそが本名であると肯定されているように感じて。僕は無性に自分が眠りについていた棺桶とこの白い空間を愛おしく感じた。他の装置に記された名前も、ひょっとしたら僕と同じような類のものなのかもしれない。
『彼』の名前はどれだ?
『彼女』の名前はどれだ?
『おじいさん』の名前はどれだ?
 新堂拓真(しんどうたくま)。
 笹岡沙織(ささおかさおり)。
 今井源次(いまいげんじ)。
 彼等の名前と棺桶に示された名前を順に見つめていっても、とんと見当がつかない。僕自身の名前……スクル・グリーズという名の由来を考えてみても、同じことだった。夢の世界を歩いていくうちに、当たり前のように呼ばれていた名前。僕自身がそう呟いたのが最初かも知れないし、犬のポン…………いや、お地蔵さんが呼んだのが最初かも知れない。
 そもそも棺桶の中身が彼等だという確証もないわけで、別の部屋にいるのかもしれない。
 取りあえず愛しい気持ちはそのままに、僕は状況を打開すべく室内の扉を開けた。目の前には横へと直線状に広がる白い廊下。窓のようなものもない純白の壁。しかし、自然と息苦しさは感じない。
 腹の中にいる胎児のような雰囲気だ。そして僕の考えは、振り返ると同時に増々現実味を帯びることになる。
 振り返りたった今出た部屋のすぐ横には、部屋の名前と思しきプレートのようなものがはめ込まれていた。光沢ある表面に自身の顔の一部が映し出されるが、僕はすぐに目を逸らす。

「昴……」

「黙れっ!」

 自分の声とも、姉の声ともつかないその声色を鋭く遮断する。ここには誰もいないのに。女顔のそれがプレートの端で口元を吊り上げたように感じた。僕は笑っていないのに。
 横目だけで僕は改めて部屋の名前を確認する。
 曰く、僕のいた部屋の名は『胎児の部屋』。名前を知って、僕は妙に納得した気分となる。部屋の名が示すとおり僕が生まれたばかりの胎児なら、ここが何処か分からないのも当然だ。胎児のような雰囲気に陥るのも当然だ。
 まずは外へ出て、場所だけでも確認しなければ。
 真っ直ぐに伸びた廊下を最初、僕は右手へと進んだ。少し歩いて角を曲がると、すぐに扉にぶち当たる。ダイアル式の暗号で施錠された扉であり、適当に四桁の番号を照らし合わせてみるが当然のごとく弾かれた。

「0721……4545……駄目だ」

 いつか彼が教えてくれた、何故か当たる確率が高いとされる四桁の数字を入力しても無駄だった。一体どういう意味合いがあるというのだろう?
 他に棺桶と同じく叩いたり蹴りつけたりするものの、やはりうんともすんともいいやしない。
 僕は諦めて元来た道を引き返し、今度は胎児の部屋から見て左へ伸びている通路へと足を進めた。角を曲がると上へと続く階段が見えてくる。僕は躊躇うことなく段差を一つずつ上り詰め、再び伸びた廊下を道なりに進んでいく。
 やがて僕は、一つの扉の前に辿り着いた。形状はやや大きめの、例に漏れず白い扉。
 僕は取っ手を掴み、ゆっくりと力を込めて扉を開け放つ。

「うわ……」

 扉の先には、白い世界が広がっていた。

 空を彩る青を除き、一面の白。真っ白な砂漠が何処までも続いている。少し歩いて後ろを見れば、それなりの規模の白い施設。今までずっと僕がいた場所だ。
 僕は近くの岩場に座り込み、考える。熱くはなかった。だけど白い。

 ………………何?
 どこまでが『現実』だった?
 どこからが『夢』だった?
 何にも…………何にもない。
 怒りも、悲しみも、憎しみも、安らぎも、言葉も、時間も、お地蔵さんも、ポンも、想いも…………全てが置き去りにされた世界。
 夢を見ているんじゃない。
 目が覚めたんだ。
 して、どうする?
 突き付けられた真の現実は、無。
 あの日見上げた空にあった始まりの無とも、あの世界で触れていた終わりの無とも違う、白い白い無。
 物質的な意味でなく、本当の意味で何もない、なかった人生。
 僕は、僕は…………

「あはあはははははっ、はあ!」

 腹を抱えて盛大に笑う他、なかった。
 別に壊れたわけではない。
 突き付けられた現実を前に、僕が最初に思ったのは創作の世界の話。
 それが漫画だか小説だか映画だかはどうでもいい。
 とにかくその主人公は僕と同じように何もない世界で立ち尽くし、混乱するだの喚くだのして絶望する。
 何にもない世界なんて嫌だ、どんなに辛く苦しいことがあってもあの世界に戻りたい、失って初めてその価値に気付けた…………彼らはそう懇願し、あるいは後悔したりするのだ。
 これがまたとんでもない! 
 全く全然一ミリたりともそんな気持ちが湧き上がってこないばかりか、ある種の清々しさや知らぬ間に笑みを浮かべていた僕の心情は、思い描いていた反応と差があまりにもありすぎたのか……こうして吹き出してしまったという訳だ。今現在、人生で一番笑っているのかもしれない。
 あの日常が夢だった?
 あの世界が幻だった?
 構わないさ。
 勿論、何も喪失感がないという訳じゃない。
 電波塔を中心に展開されていたあの世界が夢だったと考えると心苦しいし、彼の存在も同様のものであったとするとなおさらだ。そして知り合えた彼女とおじいさんもまた僕の脳内の人物に過ぎなかったとすると、少し勿体ないと思う。
 しかしそれを補ってあまりにも見返りがでかすぎる。
 僕は菱本昴なんかじゃない。
 あんな家はなかった。
 光の言葉に怯えずとも良い。
 太陽の発言も気にする必要はない。
 数えても足りないほどの解放が、救いが、ここにはあった。
 無論、僕のような人間だったからというのもあるだろう。
 そう考えると、あの世界が夢であったという現実に喜ぶ自分は哀れで可哀相な人間であるのかもしれない。だがそれも人より多くの真実を知っていたが故だ。
 僕は今、この現状に身が震えるほど喜んでいる。それが全てだ。所詮あの世界は夢でしかなかったのだ。
 悲しむよりも喜んだほうが良いに決まってる。そうだろう?
 嬉しさのあまりか、僕はいてもたってもいられず岩場から腰を上げ走り始めた。少し走り続けると、思い立ち踵を返して再び駆ける。
 このことを彼等にも伝えなければ。
 眠りについてる場合じゃないぞと。
 この星で生まれた理由とか、宿命の下に生きているとか、人生に意味はないだとか、輪廻転生があるだとか、差別はなくならないだとか、小説の賞に落ちたとか、そんなものは全て幻でただただ現実がここにある。それが僕らの全てだったのだと。
 アルド。
 セロ。
 シーナ。
 ティティ。
 クーネ。
 誰だか知らないけど、お前ら寝ている場合じゃないんだ!

「あっ…………ああああああああああ!」

 走り続けている最中、思わず僕は立ち止まる。この世界に関する更なる記憶が甦ったのだ!
 あの施設にある装置の中で眠りにつくと、副作用として片方の仮想現実を意識している場合はもう片方の現実が虚構として感じられ滅多なことでは醒めなくなってしまうんだとか。そういえば今もあの世界の光景は全て夢のように感じられる。つまり、再びあの仮想世界に身を投じる事があれば、今度はここで体験したこと全てが夢のように感じられるのだろう。こんなにはっきりしているのに。
 だが、それでも思い出せない記憶はいくつかある。 
 そもそもあの装置は何なのか。何故、そんな副作用があるにもかかわらずそこで眠りについていたのか。
 この現実に嫌気がさして? だから仮想現実を意識している間は、もう片方の現実が夢として感じられるあの装置の中で眠った?
 それも一つの考えとしてはあり得るだろう。
 現実から逃避するがために夢の世界へと足を運び、しかしそこでも拒み突き放したくなるような悪夢に襲われ、再び現実に帰れば何かしらの要素により現実を否定し夢の世界へ消えていく……そんな無限地獄のような歩みを、今日まで僕は続けてきたのだろうか。
 そうすると以前の僕は、一体何故あの装置の中で眠りにつくことを選択したのだろう。この世界のどこに、夢の世界へと足を運びたくなるような要素があったのか。
 どこまでも清純で白いこの世界に、飽きてしまったから? はたまた、何もないことそれ自体に発狂しそうになったから? 他の棺桶に眠る人間達と面識はあったのだろうか。再び足を早めながら僕はそれらのことについて考える。途中、何度か髪の毛を掴み頭を捻らしてみるものの、今のところ目ぼしい記憶は浮上してこない。
 施設の周りをぐるりと回って景色を見ても、相も変わらず視界に映るは白い砂漠。白い岩石。途中、施設の入り口とはちょうど反対側に位置する壁に、複数の傷跡が残されているのを見つけ歩み寄る。

「…………」

 この傷をよくよく見ても、なにか記憶が甦ることはなかった。誰かが何かの目印をつけようとしたのか、意図があって壊そうとしたのか。僕自身が手を下したのかもしれないし、棺桶で眠りについている他の人の仕業なのかもしれない。単純に風化したものなのかもしれなかった。
 近くで見ると真っ白な壁がいくつかのひび割れと共に欠けており、隙間から姿を見せている壁の色は表面とは対極のどす黒い黒。思わず僕は仰け反り、目を剥いた。
 僕はついさっきまでこの『黒』の中で呼吸をし、目を瞬きさせていたのか。それを意識した途端、僕は見えない不安に身体を絡めとられ、しばし硬直する。皆が共有し未知を極力排除しようとしていた仮想世界の日常のように、純白の処女膜の向こう側には何が混ざっているのか分かったものではない。殺意、涅槃、狂気、偏愛、物欲…………そんな得体のしれないものがごく普通に白き壁の中に紛れ込み、何食わぬ顔で施設を壁を構成している欠片となる。白き処女膜の向こう側で僕達の毎日を見つめているそれらが、少しずつ境界を侵し始めていても不思議ではないというのに。僕は何を安堵していたのだろう。
 もしかしたらこの壁も、誰かが傷つけたものではなく、壁の中の黒が境界の白を、日常を、少しずつ侵し始めているから…………

「くっ!」

 全身が熱を帯び始め、焦燥感で手がほんの僅かに震える。僕は両手で掬いあげた白い砂をひたすら黒が覗き見える隙間にかけ続け、事態の収集を図った。それでも身体が熱くなりどうしようもなくなると、僕はその場を駆け出した。走りだした状態のまま、僕は再び考える。
 僕が仮想世界へ身を投じるきっかけとなったのも、ひょっとしたら処女膜の奥に潜んでいる『黒』が原因ではないのか? 日常の中に潜むそれらと同じように、少しずつ清純な白き壁を侵食し、新たな壁に成り代わろうとしているのなら。いや、今の僕には白く見えるだけで、以前の僕が今の施設を見ようものならその全てはどす黒く染まっているのかもしれない。飛散した血のように。
 殺人が日常となる。
 狂気が日常となる。
 奇行が日常となる。
 異世界モノが日常となる。
 夢の世界が日常となる。
 それらが少しずつ日常を侵し、やがては成り代わった世界。
 それは世界の何を意味しているのだろうか。
 とにかく今は一刻も早く胎児の部屋へ戻り、装置で眠りにつけばもう一度あの仮想世界へと繋がるのか試したかった。全てを試し終わる頃には、ある程度の記憶も回復しているだろう。そうすれば再びこの施設の、この世界の探索を進められる。もうすでにここの世界が現実であるということは十分すぎるほど自覚しているし、装置の副作用に惑わされることもない。
 どうせ夢の世界だ。虚構だ。妄想だ。
 まずは母さんの頭をかち割って、マヌケ顔で帰ってきたあいつらも同じ目に合わせてやって、最後に蒸発した父親の顔面を陥没させてやろう。すごいぞ、今なら全てが思い通りになる気がするんだ。
 息を切らして程なくすれば、胎児の部屋に到着する。よし、準備は万端だ。そう意気込み棺桶の中で横になると、自動的に開閉部分が閉まり視界が闇に包まれる。窮屈ばかりかと思ったがこれが意外と快適で、暑苦しくなることもない。そして僕は静かに瞳を閉じた。
 大丈夫。ここが現実だ。嫌になるほど意識させられた。
 その一念を最後に僕は眠りについた。そして。


「……っていう夢? を見たんだ」
 
 場所は立ち入り禁止区域。何もない、無の世界。寂しげに赤き電波塔がそびえ立つ、終わりの無が混在する空間。
 そこで僕は今朝見た夢の内容を彼とおじいさん、そして笹岡さんに話していた。

「……お前の話を単なる夢として一蹴できないのは、やっぱりここの影響なのか?」

 日曜日。昨日の今日で再びこの世界を訪れた僕達の前には、やはりおじいさんと佐々岡さんの姿があった。彼も二日目にしてこの虚ろな雰囲気にも慣れ始めてきたようであるが、どこか動きはぎこちないしその瞳はせわしなく揺れている。しょうがない。誰だって初めてここを訪れた時はそうなるだろうし、仮に万が一にも好奇心でここにやってきた人間が、間違っても二回目にまた来ようと思うことはまずないだろう。
 今ここにいる人間は、何かしらの理由をもってこの世界に足を運び続けている。最初こそは身体の芯を揺さぶられる言いようのない感覚や眩暈、頭痛に苦しむが、足を運ぶ回数を重ねるごとにそれらは薄れ、やがて慣れてゆく。改めてこの世界を見つめる余裕も出てくるし、心地良くもなっていく。何度か思ったことではあるが、まるで薬物のようだった。

「それは多分、この世界では存在の修正理由が働いていないから」

 それまで僕の話に一度も反応を示すことなく黙って聞いていた笹岡さんが、唐突に口を開く。

「存在の修正作用?」

 その謎な単語を前に、思わず僕ではなく彼が聞き返してしまう。

「存在の修正作用。平行世界間の間が極端に離れてしまっている場合に生じる、片方の世界では存在しえない力や物質の存在を、それがない世界に住む人々の無意識下から否定させようとする世界の理。または異なる平行世界からやってきた生命体の知識や記憶がその世界の知識や記憶にない異端のものであった場合に、その世界に留まっている間はそれらの記憶や知識が訪れた生命体やその世界の人にとって虚構であるように感じさせる作用」

「あ、はい」

 彼女のただならぬ雰囲気に、僕は思わず敬語で返事をしてしまう。何故、僕が。
 そんな気持ちを胸にしまい、何かを求めるように視線を他の二人に移した。
 しかし質問者であるはずの彼は、聞く耳を立てながらもおじいさんと共に沈みゆく夕日を眺め適当な雑談をしている始末。無論、露骨に視線を合わせようとはしない。非情な奴め。

「だから平行世界間の移動をする人間は、元いた世界の何もかもがどうでもいいと感じられるようになってしまい、次第にその世界の住人であるかのように振る舞うことも少なくない。何の違和感もなく、恐れもなく、いつの間にか訪れた先の世界と同化することは珍しいことじゃないの。だけどそれは一流の渡航者とは言えないわね」

「そうなんだ……」

 あまり考えないようにしていたが佐々岡さんはひょっとして、あれな子なのだろうか。いやひょっとしなくとも高確率でそうであるような気がする。
 学校でもこの調子ならば、同じものを引き寄せることこそあれど友人と呼べるようなものはいそうにない。普段学校ではおとなしい分、この世界にやってきては日頃からこんなことをおじいさん相手に口ずさんでいるのだろうか。おじいさんも地蔵の様子を見るついでに女子学生と知り合いになれるならと、この世界に足を運んでいるのかもしれない。
 そんな二人の関係性を邪推寄りに考えていると、彼女は更に存在の修正作用とやらについて話し始めた。日常でこんな話をしても誰も耳を傾けてはくれないし、冷たくあしらわれたり遮られたりするだろう。
 しかしこの世界では、それがない。早い話か彼女は今、舞い上がっているのだ。自分で考えた設定を惜しげもなく披露できる場所。彼女にとってはそれがこの世界なのだろう。そう考えると僕は無性に腹が立ってきた。
 付け上がるな、この電波女が。ここはお前が頭の中で考えた意味の分からない妄想や虚構を披露する場所じゃないんだよ。ここは終わりの無が混在する、神聖な大地なんだ。光の言葉の脅威を気にすることなく過ごせる、寂しくも優しい世界。何度僕がこの世界に救われたのか分からない、唯一の優しさを感じられる場所。
 それがお前はなんだ。
 平行世界?
 存在の修正作用?
 頭のどこにそんなものが詰まっているのかも分からない妄言を吐き散らかして、お前にとってこの世界はその程度のもの。足を運ぶ理由もその程度のもの。自慰をする場所がトイレやベッドからこの世界に変わっただけ。いや、この電波女ならひょっとして普通に人が行きかう学校の廊下や教室でしているのかもしれない。とんだ痴女だな。
 説明を続ける彼女の身体を上から下まで、僕は無遠慮に視線を這わせる。彼女が無遠慮に僕の世界を荒らしたように。
 黒の短パンに紺の長袖。自分よりもやや低めの身長でありながら、服を盛り上げる胸の膨らみはそれなりにあるようだ。少女の姿を眺めるうちに僕の中の怒りは性欲を促進し、やがて彼女を力任せに押し倒す。彼女が人の気も知らずに自分の好きなように虚構を発信するのなら、僕も同じようにするだけだ。同時にこの行為が、僕が菱本 昴ではないという証明にもなる。
 シャツの中に手を這わせ、太ももを両足の間に差し込む。そのままその奥にある女の部分を短パン越しに圧迫し、両腕を拘束した手とは別のもう片方の手は彼女の胸を捉えた。下着の上からその柔らかさを堪能するが如く捏ね回し、衣服を脱がそうと試みる。
 乱暴に上をシャツもろとも脱がし、残った下着を剥ぎ取れば、振動で揺れる形の良い乳房がまろび出た。その瞬間、彼女の身体が大きく震えたが、優しくその膨らみを揉みしだくと硬直する。頂点では桜色の突起がすでに自己主張を始めているのが見て取れた。
 そんな彼女の様子を見て僕が覚えた感情は、情欲ではなく怒り。悦ばせるためにこの行為に臨んだわけではないというのに、それがこの体たらくだ。
 怒りに突き動かされるまま僕は彼女の胸を両手で揉み回す。くぐもった声が眼下から聞こえてくる度に、行為は激しさを増した。その頂点を指先で摘み軽く捻ると、より一層甲高い声が辺り一帯に響く。更にそのまま先っぽを口に含めば、粘液による刺激か彼女は激しく喘いだ。
 胸への攻撃は辞めずにそのまま片手で短パンをずらし、下着も膝下までずり下ろす。薄い茂みに向かって指先を這わせると、短い声と共に胸が上下に揺れる。ただ這わすだけでなくその中にも指先を侵入させ、動きと共に反応する彼女の様子を見つめるうちに僕は心の中で舌打ちした。
 あとは僕のものをこの奥まで埋没させるのが、本来の正しい行為なのだろう。
 だが僕はそれを望んではいない。僕が望むのは、目の前の女が僕と同じ思いをすることだ。
 ここまで続けてきたはいいものの、本当に望む通りの結果が起こりえたかは分からない。

「……君」

 僕は急速に熱が冷めていくのを感じた。怒りによって掻き立てられた偽りの情欲も、虚しく霧散し粒子となる。

「なんで勃起しているの?」

「え?」

 辺りを見渡せば、僕も彼女も当然のように服を着てて。相変わらず彼とおじいさんは何かの話に没頭してて。

「今の話の中に興奮するような要素があったかな。存在の修正作用の影響で、私の話はただの夢物語に聞こえる筈…………当の本人の私だって、少しばかりそう思っているのだから」

 彼女が顎に手をやり、暫し何かを考えているような節を見せる。その先の言葉も思考も、何も想像がつかなかったけど。不思議と冷めた僕の頭の中は嫌に冷静だった。

「もしかしてあなたは、修正作用に抵抗力のある人間なのかもしれないわ」

「え?」

「連絡先を交換しましょう。色々聞きたいことや、逆に教えてあげられることもある」

 手早く彼女は携帯を取り出すと、僕にもそうするように促した。言われるがままに連絡先を登録し、電話番号を交換する中で、僕は突然弾かれたように口を開く。

「じゃあ僕と佐々岡さんは……友達ってことかな?」

「………………仲間、かな」

 僕の言葉に何の興味も関心も示さない瞳で、彼女は少し間を置きそう答えた。何の仲間なのか。どういう意味か。
 それなら友達でいいじゃないかと、僕は心の中で小さく毒づいた。


 第四章  設定

 五月の終わり。
 終わりの無が混在した世界とは程遠い、教室の一角に僕と彼はいた。
 六月に突入してからというもの、どこか皆の挙動がおかしくなったように感じるのは気のせいではなかった。それも他ならぬ本人達がその違和感について口を開けているのだから、間違いではないだろう。

「なんか最近、変にテンションが増減したりすんだよな」

「それな。急に何か気分が高揚したと思ったら、すごい心細くなったりよ」

 話だけ聞いていると何か危うげな薬でも使っているのかと勘繰りたくなるが、そうするとこのクラスの大半の人間が薬物中毒者ということになる。いや、他のクラスでも似たような話を聞いたと彼は言っていたので、学校にいる大半の人間がヤク中と認定せざるを得ない事態となってしまう。そうだとしたらまさにキチ○イの巣窟だ。季節の変わり目に情動や哀愁を見出す人間は時折探せばいるものの、今回はたまたまその人数が多かっただけなのか。
 しかし様子がおかしくなったという点においては、学校の関係者以外でも日常の中で時たま見かけるようになった。
 バスを待っている間、頻りに硬貨を擦り合わせるおじさん。
 携帯機器のキーロック画面で合致しないパスワードを打ち続けるサラリーマン。
 空気椅子を試みようとする女学生。
 突然にこやかに笑いだし鼻歌を歌う女性。
 唐突にそういった手合いの人を見かけ始めたのではなく、日に何人か、少しずつ。しかし奇妙な様子の人物達は自分の行動を反復するわけではなく、突然我に返ったように行為を止めることがほとんどだ。
 世の人々は少し疲れているのかもしれない、なんて感想を普通の人間であるならば持つところだろう。しかし僕には、この一連の出来事に関する事象に心当たりがあった。

「光の言葉だよ、君」

「…………そうか」

 どこか疲れたような声色で、彼は生返事をする。あらかじめこちらが言い出そうとしていたことが予測できたのかもしれない。

「とはいっても僕自身、確信を得ているわけじゃないんだ。大多数の人間が光の言葉を思い出し始めた原因も分からなければ、かといってここ最近の自殺者が劇的に増えたわけでもない。もしかしたら光の言葉を完全にではなく、断片的に思い出しているせいなのかもしれない。それにしても、やはり不特定多数の人間がいきなり光の言葉を思い出す経緯は謎だけど」

 自殺者が急速に増えないのは、単に思い出した光の言葉の内容が自らの存在を否定するものでなかった比率が大きいからなのかもしれなかった。それとも無難な内容か。それならば前述の行動をとる人物がいるのも納得だ。光の言葉を思い出した人達の、各々のリアクションと捉えることもできるだろう。魂に刻まれた光の言葉は絶対的な影響力を人間に与えることも考えると、内容がどのようなものであれ多少の狼狽や奇行をしてしまうのも頷ける。

「でもよ、確かめる術はないんだろ?」

 彼は机に突っ伏し、絞るように息を吐く。
 終わりの無を間近で感じた彼は、それ以降特に際立った変化はない。しかし彼によると、本当はあの世界に足を踏み入れた瞬間、駈け出したくて仕方がなかったようだ。僕や佐々岡さん、そしておじいさんがいなければまず間違いなく頭を抱え走り出していたらしい。自分以外の他者と話すことで、とりとめもなく自分の中に蓄積されていく『何か』を吐き出していたとのことだった。
 だけど僕は、未だ彼に対し肝心なことが聞けずにいる。

「……そうだね。確証を掴んだわけじゃない」

 原初の無を受け入れた君にとって、終わりの無はどのように映って見えたのか。


 赤く染まって見えたなら、それは胎児を包む血潮なのだろう。
 どこまでも濃き白に見えたなら、それは胎児が感じた光なのだろう。
 透き通る黄に見えたなら、それは胎児の命の輝きなのだろう。
 黒深く見えたなら、それは胎児を覆う闇なのだろう。


 たとえ、どの色に映って見えたとしても。
 僕は君の友人で、君は僕の…………

「だから今日、笹岡さんにこのことを相談したいと思うんだ」

「ああ、そう言えば連絡先交換したとか言ってたな。羨ましいね、あんな可愛い子と交換とは」

 全然羨ましくなさそうに、彼の口調は棒読みだ。僕だって嬉しいわけじゃない。けれど相談相手がいるうちは、有効に活用したいじゃないか。この件について乗り気な姿勢を見せてくれたのも彼女だけだし、他に選択肢はないのだ。

「それじゃあ、俺は部活行くから」

「え、今って放課後だったの?」

「は?」

「それな」

「え?」

「いや、だから菱本が今言った放課後だったかって話」

「ああ、竹田が言ってたのはそれか」

「それだ」

「新堂、今の話は本当か?」

「なんだよ岩倉」

「今が放課後だったて話」

「それか」

「それだ」

「時計見ろよ。三時半を過ぎている」

「壊れていないとも限らない」

「教壇見ろよ。担任がいる」

「壊れていないとも限らない」

「まさかあ。人だぞ? 時計とはわけが違うんだぞ」

「時計と比べりゃ精密だ」

「時計と比べりゃ頑丈だ」

「新堂と岩倉、二人の言い分はもっともだ」

「僕もそう思う」

「とにかく今は放課後だ。こんなに状況証拠が揃ってる」

「信じるに値しないな」

「じゃあおまえは何を信じる? 何を信じてる?」

「何を信じればいい? 現実?」

「まさかあ。現実だぞ? 妄想とはわけが違うんだぞ」

「妄想と比べりゃ精密だ」

「妄想と比べりゃ頑丈だ」

「岩倉、お前は何を疑えば信じることができる?」

「時計が壊れていないか。人が壊れていないか。現実が壊れていないか」

「竹田、お前は何を疑えば信じることができる?」

「右に同じ」

「おい、お前は何を疑えば信じることができる?」

「何も疑わずとも」

「やっぱり」

「流石」

「一味違うな」

「疑いは済んだか?」

「済んだ」

「信じられそうか?」

「なんとか」

「上出来だ」

「今は放課後か?」

「ああ」

「ここは3ーBか?」

「ああ」

「新堂か?」

「ああ」

「…………あっ!」

 学校のチャイムが鳴る。お馴染みのあの音だ。
 思わず僕は口ずさんだ。

「キーンコーンカーコ」

「リズム、ずれてないか」

 前の席に座る彼はそう言った。
 そんなにずれているだろうか。完璧に模倣しようとして発声したわけでもなく、暇を持て余した呟きにも似たそれを、僕は脳の中で噛み砕いていた。前頭葉と側頭葉に生えた歯が、口の中のそれと同様に学校のチャイムをすり潰す。

「放課後だな」

 岩倉と竹田はホームルームのチャイムが鳴ったのを境に納得の表情を浮かべると、元いた席へと戻っていった。

「君は部活?」

 放課後の予定を聞きながら、僕は歯と歯の間に残留したチャイムの残りカスを指でいじくり取り除く。見知らぬ人の前では慎むものだが、彼の前ではそんなに取り繕うことはない。僕は頭に埋め込んだ左手を引き抜くと、外気に触れた皮膚の感覚が際立つのが感じられた。

「そうだな。野球はないけど、軽い自主錬」

 ホームルームは続く。今は、今日の掃除当番の確認をしているところだ。

「お前は? 今日も行くのか?」

「そうだね」

「俺らももう高三だ。勉強もちゃんと頭の片隅に入れておかないと」

 指摘されても、自主練を行っている彼にだけは言われたくなかった。もっとも彼自身、頭の片隅と言っているだけに本格的な勉強に取り組み始めているのかは怪しい所だが。

「君からそんな発言が飛び出すとはね」

「三年生になって、意識するようになったのさ」

 特に意味なんてない、言葉のやり取り。途中、担任の教師が教室に入るまでその行為は続けられた。雑談をしていた他の皆も、やや遅れて静まりかえる。たまにこんな様子を見ていると、不意に小学生の頃を思い出す。
 いや、先生が入って来ても皆はうるさかったけど。代わりに僕が入ると一瞬の沈黙を挟んで再び皆が話し出すその様子はどこか面白おかしかった。
 ――――連絡事項は、無し。
 先生のその言葉を最後に、ホームルームは終わる。

「じゃあな。笹岡によろしく……伝えなくていいか」

「そう? 分かった。じゃあね」

 僕はそこで彼と別れ、教室を後にする。あらかじめ前もって相談しておきたいことがあると笹岡さんにはメールを送っておいたので、どこで彼女と落ち合うかは既に決まり切っていることだった。昨日の夜に内容を送信し、今日の早朝に返ってきた笹岡さんの返信内容曰く、駅前で待っていて欲しいとのこと。相も変わらず簡素な内容だと僕は思う。彼女とのメールのやり取りはこれで三度目となるが、やはり彼女は変わらない。
 一度目のメールは連絡先を交換したその日の夜に、僕は『よろしく』とただ一言の挨拶を笹岡さんへと送った。深い意味もなくただ何となく、送っただけではあった。
 対して返ってきた内容は、同じく『よろしく』という言葉だけ。せめて女の子らしく語尾に『ね』でも付ければうまい具合に差別化が図れただろうに、彼女は肝心なところで努力をしない。これでは本当にただのオウム返しだ。僕は笹岡さんの返事を暫し見つめ、まるでもう一人の自分とメールのやり取りをしているようだと考え込んでしまった。
 考え込んで、そのままの気分で二度目のメールを送ってしまった。


『君のことを教えてよ』


 家族でも知らない。
 昴でも知らない。
 お地蔵さんでも知らない。
 犬のポンでも知らない。
 彼でも知らない。
 彼女でも知らない。
 おじいさんでも知らない。
 誰もが知らない、興味がない、『君』のことについて教えてほしい。
 どうして夢の世界ではポンを除く無機物が正義となるのか。何故、原初の無を見出したあの日から極端に『光の言葉』に怯えなくなったのか。何故、彼に終わりの無を見た感想について聞けなかったのか。
 一応、理由らしい理由はあった。
 夢の世界での法則の説明としては、それ自体が夢であるからだ。夢であればどんな出来事であろうが、夢だからという言葉だけで解決できてしまう。原初の無を見つけた日から光の言葉を極度に意識しないようになったのも、原初の無を見つめたことによって僕の中のものが再構築されたからとしか言いようがない。或いは輝く太陽が照らす青空を見たことにより、光の言葉に対する何かしらの耐性が付いたから…………?
 終わりの無について彼に聞き出せずにいたのは、単純にタイミングを逃し続けていたというのもあるし、答えを聞いたところで彼と僕の何かが変わることもないと決めつけていたからだ。
 とってつけたような理由の数々。それでも、その奥にある真意を僕は掴みあぐねていた。
 そしてメールの返信が返ってきた時。僕は食い入るようにその文面を見つめた。


『私の名前は笹岡沙織。身長は170、体重は……』


「お前じゃねえよ!」

 あの時、僕は家の自室で久しぶりに叫んでしまった。その後の文章を追っていくと、自分の通う学校や家族構成、果てには何を考えてか自らのスリーサイズまでもを記載した説明書のようなものが延々と書き込まれていた。
 それもわざわざ一度は紹介した筈の自身の名前から教えるあたり、こちらが送ったメールの内容を愚直に飲んでいるようにも見える。送る相手を間違えた自分も自分だが、あくまでこの返しこそが彼女なりの感性というやつなのだろうか。それとも何かしらのテレビのネタ? もしくはギャグ? こういうものが女子高生の間で流行っているのか。メールでやり取りをする人間が家族以外では彼しかいない僕に、笹岡さんの返信の意図は分からない。
 その疑問も、これから出会えば解決するだろう。そう思っていた矢先だった。

「どうも。あなたから連絡があってこっちも都合がよかったわ」

 駅前につき、辺りを見渡そうとした直後。横からぬっと現れた笹岡さんに僕は数歩だけ後ずさる。放課後の待ち合わせなのだから当然と言えば当然なのだが、彼女はメールで記されていた通う学校の制服を着ていた。赤いリボンに黒を基調とした制服。スカートはやや暗い緑が混じったような色をしているが、遠目からでは上と同じように黒色としか見えないだろう。
 とにかく僕は無難な言葉を返す。

「そうなんだ。タイミングが良かったんだね」

「いずれこっちからも連絡はしておこうと思ったけど、手間が省けたわ。積もる話は、あの場所へ向かう道中で話しましょう」

「……うん」

 あの場所。言わずとも分かる場所。僕らが集う場所。何かを求めて訪れる場所。
 そう考えると、佐々岡さんはいったいどのような目的があってあの世界に足を運ぶのか。僕は彼やおじいさんの理由や事情は知っていても、彼女の口から明確にタワー周辺へ訪れる理由を聞いたことはない。まあ、この前の様子を見るにおおよその想像はつくが…………向かう途中、ずっと無言のままでいるのもおかしな話だ。とりあえずは、思いついた話題から話していくことにする。

「そういえば、佐々岡さんは何であの場所に行くようになったの?」

 電車に乗り、空いていた席に二人並んで座ると、僕は最初の質問を切り出した。
 自分の考えた設定を披露するため。
 メールのやり取りの時と同じように、そんな愚直な回答が返ってきたら僕はどうすればいいのか分からない。

「いつかくる、『お迎え』に備えて」

「うん。うん?」

 感覚的に思いついたのは、お金持ちのお嬢様。送迎バス。集団下校。いや、それは違うか。
 何言ってんだこの人。
 何らかの比喩表現? 押し黙り無言で話の詳細を促す僕の視線に気付いたのか、彼女は咳払いを一つすると薄い唇をそっと開く。僕もまた彼女とは違う意味の咳払いを一つ済ませ、話に耳を傾けた。

「いずれこの世界の人々は、世界中で多発するドーム事件がきっかけで狂う。電波光源で精神を病んだ人達はその前座にすぎない。光に触れずとも人々はやがて発狂し、この世界はそれで打ち切り。終わり。終了。その時、私のことを迎えに来る人達がやってくるの」

 徹頭徹尾、訳が分からなかった。
 同じ言語を共有していても、彼女の内容は分からない。分からない単語があるわけでもないのに、とにかく分からない。どうしてそう言い切れるかの根拠も、思想も、見ているものも何もかも。

「まるで意味が分からないよ。何でそんなことが言えるの? 君は何者なの?」

「私の正体は渡航者。平行世界間を行き来する存在。この世界がある一つの大きな分岐点を迎える様子を観測することが最大の目的」

「……平行世界?」

「どんな物事や事象にも必ず原因がある。それら原因や事象を辿って時を遡っていくと、やがて全ての事象の始まりともいえる一つの世界が浮かび上がってくる。その世界を事象の根源や原点の世界、あるもの達は神の国と呼ぶけれど…………平行世界というのは、原点の世界から多種多様な選択や可能性によって派生して広がっていった世界のことを指すの」

 平行世界という言葉自体は、何かの本で見た記憶があった。
 でもそれは何かの考え方の一つという話であって、実在すると仮定して進められた話じゃない筈だ。あくまで考え方の一つ。それ以上でも、それ以下でもない。

「今も世界は分裂しているっていう、あれ?」

「厳密に言えば分裂してはいるんでしょうけど……日常での些細な変化やそれに類する物事では、決定的な平行世界は作り出されない。もっと大規模な選択の違いや可能性によってのみ、世界は派生していくの」

 淡々とした口調で彼女は答える。
 淀みはない。
 迷いはない。
 そこで僕は思った。
 もしかしたら、ドーム事件は彼女にとっての『始まり』だったのかもしれない、と。
 ドーム事件を境に、有名な某ネット掲示板にオカルトマニア達の書き込みが異様に増えたように。何かの予言と結び付け騒ぎ立てる人々のように。電波光源に侵された精神病患者のふりをしてネットで振舞う輩が出てきたように。
 彼女にとってドーム事件は、考えに考えてきた自らの『設定』をこうして披露し解説するきっかけにすぎなかったのかもしれない。

「そう…………もういいよ」

 僕は少し、ほんの少しだけ落胆した。何で落胆した?
 きっとどこかでまだ望みがあったのだ。
 彼女も僕と同じ、終わりの無が混在するあの世界へ足を運ぶ者同士…………何かしらの繋がりがあるのかもしれないと。同じものを見ている部分もあるのではないかと。
 この宇宙の無数の星屑の塵の霧の粒子のそれ以下の存在である僕の、僕達の滑稽な日常。
 広い視野で見れば僕達の行動は膨張する宇宙に対して何ら影響を与えることは叶わず、ただただ生産と消費を繰り返す日々を重ねている。無意味の上に塗り重ねられる無意味。
 所詮全ては偶然の延長線上にあるからね。
 宇宙の始まり、いや、全ての始まりはどこにある?
 全ての始まりは意図的に始まったものなのか?
 否、それは違うと思っている。
 全ての始まり以前の空間…………『何も無い』というものが無い絶対的世界において、始まりを意図的に開始させた概念ないし意思というものは当然ながら存在しない筈だ。無よりも深い無のみが漂う原始の空間に、思考が滞在する余地はない。
 だから、全ては偶然の上で成り立っていると僕は考えている。
 真に突き詰めてしまえば、そんなものなのだ。
 光の言葉も。
 この世界も。
 この星も。
 太陽も。
 人も。
 僕も。
 それでも日々を生き、僕はこうして笹岡さんの話を聞き落胆しているのは、人という生き物が『そういう』性質を持つ存在だからだろう。
 人生に意味がないと分かっていても、この世が生き地獄であると分かっていても、理性があり選択する意思のある人間が子供を作るのも性質からくるものだ。
 なんて人は動物的なのだろう。
 人という存在は意外なほどに単純で、それくらいのものでしかない。
 そんな取り留めもないことを考えても、気落ちした反動はなかなか拭えなかった。
 せめて同じものを共有できる仲ならば、友達という関係の代わりに彼女が言った仲間足り得たかもしれないのだ。今まで身を置いたことのないその全く新しい関係性になれなかったのが、ここまで残念と思うものだとは。

「着いたよ」

 彼女が短く告げると、すぐに電車のドアが開く。
 さほど遠い距離というほどでもないが、今の僕には数瞬の間のように感じられた為か、素っ頓狂な声を出してしまった。
 笹岡さんの後に続き駅を降りると、後はタワー周辺に向かう最短の道を二人で無駄なく移動する。余計な道草もなく手慣れた動きで進入禁止のテープを乗り越えると、静寂と終わりの無が混在する世界が僕達を迎え入れた。

「それで、相談って?」

 整えられた荒れ地の先にある地蔵を目指しながら、彼女は口を開く。
 迷うことなく、僕は打ち明けた。

「最近、日常生活で軽度の奇行を働く人が増えているような……いや、目立っているような気がするんだ」

「…………」

「僕はこの現象を光の言葉を知覚したことによる副作用と考えているのだけれど…………不特定多数の人間が急に光の言葉を思い出した理由も分からなければ、何がきっかけとなってそのような人が増えたのかも分からない」

「…………」

「僕が光の言葉という概念を知ったきっかけは分からない。物心ついたときから無意識化で認識していたのかもしれないし、ある出来事がきっかけで思い出したのかもしれない」

「…………」

「日常生活における人々の小さな変化…………このことについて、君の意見を聞かせてほしい」

「…………」

 聞いているのかも分からない無反応で、彼女は井戸の底のように暗い瞳で僕のことを見つめ返すばかり。その眼に宿る空虚とも虚無とも似つかない黒い光は、僕を捉えて離さない。
 そうして問いかけながらも、僕自身考えていた。
 光の言葉を思い出したきっかけ。
 それは小さい頃に父親の鉄道模型に触れて滅茶苦茶に殴られた時かもしれないし、そのこと自体に母が何も咎めなかった時かもしれないし、自分が流産した姉の代わり……妥協の存在であることを知った時なのかもしれない。

「私は」

 きっかけを探っている途中、彼女は口を開ける。

「私は、それがドーム事件の影響であることを知っている。ドーム事件の際に、終わりの光と共に放出される目には見えない小さな粒子…………『亜力(ありょく)』と呼ばれる、この世界には存在しえない物質が人々にもたらした影響が今の現実」

「亜力?」

 思わず僕は聞き返す。

「そう、亜力。熱力学第二法則に縛られない、数少ないエネルギーの一つ。取り合えずゲームでいうところのマジックポイントとか、魔力と思ってもいいわ。私、電車の中であなたに話したわよね。もっと大規模な選択の違いや可能性によってのみ、世界は派生していくと」

 突然浮上した新たな単語に戸惑いながらも、僕はとにかく頷く。

「ではその大規模な選択や可能性の違いとは何か。一つ上げるとするのならそれが…………亜力。亜力という存在の有無が、平行世界の大きな分岐点の一つと言われているの。亜力がある平行世界はない世界と比べ独自の発展も当然あれば、亜力があることによってこそ存在する自然物や物体もある」

 心なしか、そう話す笹岡さんの口調に勢いが付いた気がした。
 僕は……瞳を伏せる。
 彼女の見解はやはり想像の斜め上を行くものだった。何を根拠にそんなことを真顔で言えるのかも分からない、統率された統率されていない言葉の数々。それを否定するのは簡単だ。
 だがそうすると、今度は以前彼女が僕に話した『存在の修正作用』とやらに引っかかってしまうだろう。彼女がまたそのことを指摘するかもしれない。そもそもこういった手合いはいくら話を否定されようとも聞く耳もたないのだから、言葉だけの反論なぞ何の意味も持たないであろうことは僕とて薄々理解できた。
 意見を尋ねているのはこちらなのに、それを即座に切り捨てるというのも失礼な話だ。
 結果、僕は彼女の話を受け止めた上で、質問をした。

「そうか、ここは数ある平行世界の中で亜力とやらが存在しない方の世界なんだね。それじゃあさ、その亜力ってやつが出現し始めたのは何時の話なんだ?」

 僕の言葉を少し吟味し、必要以上に咀嚼するように。
 彼女はやがてゆっくりと話し始めた。

「分からない。だけど亜力が出現し始めた明確な年代が、各平行世界の歴史と照らし合わせて一向に見えてこない以上……亜力は宇宙が誕生して間もなく、何らかの原因によって生まれたと私を含む渡航者の間では考えられてるわ。亜力が生まれた場合の宇宙と、生まれなかった場合の宇宙。人類が誕生する前の段階から、平行世界は大きな分岐をしていたの。今も枝状に広がり続ける平行世界の根源を二分する、大きな要素の一つね。その二つの幹から派生していった世界だから、実際は平行世界と言えど大きな違いがあるのは仕方ないわ。」

 彼女は止まることなく話を続ける。

「ドーム事件の正体は、別の平行世界が亜力を用いた現象…………亜術と呼ぶのだけれど。その亜術でこの世界にあるものを自分達の世界に召喚していることによって起きる現象よ。原因は自然に生じた大災害のようなものなのか、人為的なものかは分からないけど……とにかく亜術の矛先はこの世界に向いてしまった。そして本来亜力というものが存在しなかったこの世界で生きてきた人々にとって、亜力という全くの未知なる粒子は覚せい剤や麻薬と同義。電波光源も亜術によって引き起こされる現象だから、多分に亜力を含んでいるわ。量は少なくなるけどその跡地もね。だから人々は病んでしまう。世界中でドーム事件が多発する今日、亜力は世界中に拡散し耐性のないこの世界の住民を少しずつ蝕んでいく。自覚も無しに精神が崩壊していき、狂っていることすら分からぬままこの世界は終わりを迎えるの」

 彼女の提示した答えに対し、僕は何かを言う気にはなれなかった。もしかしたら今の話が、彼女が僕と彼に出会った時に話していた『ただ一つの真理』というやつかもしれない。
 だが、同時に僅かな苛立ちを僕は覚える。
 ドーム事件が起きたことにより、世界の常識や日常は大きく揺らいだ。それは確かだ。
 だけどそれは所詮、揺らいだというだけの話であり、崩壊の岐路を辿ってはいないのだ。どこかで何かが消失しようがコンビニは今日も変わらず営業を続け、通勤するサラリーマンは車内ですし詰めにされ、受験勉強も変わることなくし続けなければならない。
 一部の人達がドーム事件を皮切りに様々な説や持論、果てには自分という正体についてどんなに語ろうとも、世界は世界で今日も平常運転し続ける。案外、そんなものだった。確かに電波光源等それ自体は驚くべきことなのかもしれないが、長い目で歴史を見れば不可解な現象などいくらでも起きてきたのだ。

 曰く、地球形成の謎。

 曰く、シュメール文明の謎。

 曰く、恐竜絶滅の謎。

 彼女の口調はまるでそれこそが正論であると言わんばかりに、ドーム事件の神秘性や不可解性に乗じて信憑性の増した一つの説を振りかざしているように見えた。僕にはそれが気に入らない。
 平行世界。亜力。亜術。
 僕の世界に流れ込んだ、新たな単語。未知なる言葉。
 そんなものは光の言葉に終わりの無、原初の無だけで十分だ。
 僕はそれらを知ってしまった。何も知らない人々は光を一身に浴び気持ちよさそうに瞳を細め、終わりの無も原初の無も付け入ることがないであろう日常という名の世界を謳歌する。僕が光の言葉に対し警告を促そうにも、彼ら彼女らはまともに耳を傾けることすらないだろう。
『彼』と違って。
 趣味も好みも好物もてんでバラバラで、性格もまるで違うけれど。
 初めて僕の話に頷いてみせたのは家族でも誰でもない…………君だったんだ。
 単純と言われれば単純だ。だけど嬉しかった。何かが報われた気がした。その日一日が、ほんの僅かだけどましな日になるような気がしたんだ。
 だから僕は、笹岡さんに、『彼女』に対して。

「そうか……そうなんだ」

 彼と似ても似つかない微笑を見せ。
 ただ静かに頷いた。


 第五章  闇よあれ

『胡蝶の夢』というものがある。
 夢の中で蝶となり、宙をひらひらと飛んでいたら目が覚めたわけであるが、自分は蝶になる夢を見ていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、と考えた男の話である。
 この話の中では夢と現実の双方が対立しており、明確にどちらが真かという断定は無い。
 しかし蝶の夢と人としての現実のどっちが本物なのかというのはここではどうでもいいことであり、蝶の自分と人間の自分。その両方が真実であり、自分自身であることに変わりなく、どちらが本当の世界と思考するよりもそれらを肯定し受け入れ、各々の世界で満足すればよいとするものだ。
 夢が現実か、現実が夢か。そんなことはどうでもいいと語っている内容。
 ならば僕の場合はどうすれば良いのか。

「お地蔵さん、教えてくれ」

「……スクル君はその話だけで納得できたわけではないんだね?」

「ワン!」

 目の前にはお地蔵さん。
 すぐ横には犬のポン。
 少し離れた場所にはうずくまり倒れた姉の昴がいた。僕が殴ったからか、その顔は醜く膨れ上がっている。まるで僕がかつて父の鉄道模型に触れ、殴られた時のように。
 常に藍色の霧が漂うような、何もない美しくも寂しい世界。
 僕はここが夢の世界であると知っていた。
 同時に彼や彼女やおじいさんのいるあの世界が現実の世界であると自覚している。
 ならば僕が見たあの世界……白い砂漠がどこまでも広がり、棺桶のような装置が設置された施設が存在するあの空間は、どこに位置付ければいいものなのか。形を定めればいいのか。
 夢の世界。
 現実の世界。
 そして双方の間に突如割って入った、第三の新たな世界。
 それすらも夢と言ってしまえばそれまでだが、僕は少なくともタワー周辺地域に足を運び終わりの無を享受するようになってから、『この世界』以外の夢を見ていない。内容も変わったこともなければ、慣れ親しんでいるといってもいい。
 だからこそ三つ目の世界について、その世界が僕にどのような影響を与えるのか……夢の世界に来て早々お地蔵さんの見解をこうして求めていたところである。

「今までは現実と夢、それだけでよかった。どちらも受け入れられた。だけどあの世界は……そのどちらにも属さない。感覚的にそう分かってしまうんだ」

 その感覚を他人に言葉で説明するのは難しく、以前の僕は笹岡さん達には夢のようなものを見たと言ってとりあえず形を成したが。彼女達に夢に思えてそうでないかの違いを説明しようとしたところで、深く取り合ってくれるとは思えない。それこそこの夢の世界を知らない人にしてみれば、それも数ある夢の一つであると片付いてしまうから。

「その世界は君にとって、現実と感じることもなければ夢と感じることもない、全く未知なる世界だったと。ならばスクル君、第三の世界は君にとってどんなものであったのか、直感でいいから答えてくれないかな?」

 お地蔵さんの言葉に僕は俯き考える。
 直感でいいと言っていたのであまり深く思考することもない。十秒にも満たない静寂の間を挟んで、僕は口を開けた。

「……妄想?」

「妄想、か」

 現実の世界。
 夢の世界。
 そして、妄想の世界。
 自分で口にしておきながらその単語はひどく頼りなさげで、確かなものなど何一つないように思えた。
 まるで自分そのものみたいだと。

「妄想。うん、そうだね。君がそう思うのならそうなんだと思うよ」

「何か投げやりな……どういう意味?」

「いや、別に適当に言ってるわけじゃないさ。ただ、真実は君しか…………君の頭の中にしかない。君しか知りえない。他の誰が何と言おうと、それは間違いようがない事実なんだ」

 僕はお地蔵さんの言葉に小首をかしげた。そして瞳を閉じる。
 この大きいとは言えない頭の中に、真実が眠っている――――持ち主である自分にすら分からない、埋もれた答えが。それは僕が僕のことをはっきり理解してないということで。
『君のことを教えてよ』
 笹岡さんとのメールのやり取りを思い出す。
 僕が僕へ向けた言葉。メッセージ。それに対し僕は何と答えた? どんな答えを望んだ?
 お地蔵さんが言う『真実』とは何だ? 僕は僕が思っている以上に僕のことを知らないのではないか?
 僕は…………何だ?
 途端に僕は、僕の認識が信じられなくなってきた。

「ここは……夢の世界だよね?」

「君がそう思い続けるなら」

「僕の日常は現実の世界だよね?」

「君がそう思い続けるなら」

「白い砂漠は妄想の世界だよね?」

「君がそう思い続けるなら」

「ワン!」

「うるさい!」

 変わらないお地蔵さんの返事に僕は正体の見えない焦りを覚えていた。
 そんな馬鹿な。そんな筈はない。それらに近い想いが僕の中を同じ色に染め上げては、縦横無尽に駆け巡る。抗う術はなかった。

「僕がそう思い続けるならそうなるって……それじゃあまるで僕は神じゃないか!」

「その通りだよ?」

 そんなわけがあるか。
 そう言い捨てようとした直前で、今度はお地蔵さんが言葉を発した。

「そんなわけがないって? でも世界は、三つの世界は君の思うように少しずつ変容しているじゃないか。君が言う現実の世界は電波光源と終わりの無によって、家庭環境と光の言葉に脅威を抱いていた君の精神に安らぎを与えるようになった。救いを与えた。この夢の世界では君の求める相談相手として私やポンを創りだし、憎くとも手の届くことのなかった姉すらも創造し憎悪をぶつけることが出来るようになった。妄想の世界は創られてからまだ日は浅いみたいだけど、君の苦痛や苦悩の全てを無かったことにすることの出来る空間だ」

「なら僕がドーム事件……電波光源なんて初めから無かったと思えば、現実の世界はその通りになるというのか?」

 当たり前の反応。
 当然の反論。
 けれど言い淀むことなく、お地蔵さんは即答する。

「君が本当にそう思えば、そうなるさ。けれどそれじゃあ、君は本心からそれを願えるというのかい? さっきも少し触れたが、形はどうあれ君は電波光源の恩恵によって多大な安息を得ることが出来た。ほぼ毎日その跡地へ足を運ぶほどにね。中毒者さ。そしてまだ信じられないみたいだけど、それは君が生み出したものなんだ。自分が心から望み続け創り上げたものを、君は本当に消し去りたいと願うことが出来るかな?」

 そこまで言われて、僕は言葉を飲み込んだ。
 今ここで、僕が心の奥底から電波光源という存在を否定すれば……という仮定。お地蔵さんの言うように、本当にそう思えたのなら苦労しない。創り上げたか否かという話を別にしても、僕は電波光源に救われていた側面があるのもまた事実なのだから。

「そしたら……そうだ! その理屈が本当だとするのなら、僕は奴らをかき消すこともできるのか!?」

 ここでいう『奴ら』が誰を指していたのか理解していたようで、お地蔵さんの返答は変わらず早いものだった。

「うん。君が本当に消し去りたいと念じ続けることが出来れば、目が覚めた時に君の家族は跡形もなく消滅しているだろうさ。君にはそれだけの能力がある」

「本当……に?」

「本当だとも。大体さ、考えてみなよ。ドーム事件? 電波光源? 終わりの無? 馬鹿馬鹿しいにも程がある。君の現実世界は科学と数式と常識が我が物顔で跋扈する、秩序ある世界じゃないか。そんな世界に理由も前触れもなく自然にそんなものが現れると思うかい? 出来の悪いSF映画や下らない小説の読み過ぎじゃないかな?」

 どこか呆れたような声色で、お地蔵さんは説き伏せてくる。
 僕は致命的な矛盾を指摘された数学者のように固まった後、ばつが悪そうに頬を掻いて俯いてしまった。

「まあ……そうだね。そりゃあ、さ」

「そうだよ。何なら今ここで、君の力を試してみるといい。夢の世界だから君が思う現実の世界には影響を及ぼさない。軽い練習場だと思ってさ」

 お地蔵さんに促されるがまま、僕は姿勢を正し直立すると右手を前に出す。

「どうすればできるの?」

「難しい事じゃないさ。腕や足を動かすのと同じ。君が念じればそれは発現し形となる」

「よし。それじゃあ……」

 全身を強張らせ、僕は願う。望む。想う。念じる。
 ゲル状になった身体の中身。蛹の中のどろどろしたそれを掻き回し、肉の濁流に呑まれる僕自身の望みを探り当てては掬い上げる。お地蔵さんの提案により急遽作られたばかりの「望み」という塊は、僕の手のひらの上でころころと転がっていた。

「…………」

「……どう?」

「どうも何も。一応、念じてはみたけど発現は出来ないや。ねえお地蔵さん、さっき君は本心から望めば僕の力は行使できるという旨の発言をしたよね? だけど僕にとっては『本心から望む』っていう条件がどうにも厳しいみたいでさ。多分、他の人でも同じことを言うと思うけど……自分自身が本当に心の底から望むものを強く願うっていうのは、案外難しいと思うんだ」

 例えば、テストで満点を取りたいと思うとする。
 同じテストを受けるのなら低い点数より、そりゃあ高い方の点数を取りたいに決まってると大多数の人間が考えるだろう。それも点数に見合った努力を重ねることなく願うだけで満点が取れるのなら、一度は試してみたいと思う人も少なからずいる筈だ。
 だけどそれは精々「こうなったらいいな」程度のものであって、望みにかける切実さがまるで足りていない。他の例を挙げても同じことだ。異性にモテたいだの、お金持ちになりたいだの、仕事で成功したいだの、有名になりたいだの、欲望という言葉を借りれば暇なく浮かぶ願望も本心から本当に望むというのは思いのほか難しい。自分がそう思っているつもりでも、結局本当の部分で自分がどう思っているかなんてそう簡単には分からない。
 ましてやお地蔵さんが言う「心から望む」という行為に、どれだけの思いが必要になるのか分からないのだからなおさらだ。
 お地蔵さんがさも簡単そうに言って見せた言葉――――心から望み続けるということ。
 程度によってそれは狂気にも似た執念や妄執なくして出来ることではないと僕は考えていた。
 だからもし、お地蔵さんが語る言葉――――僕は神である――――が本当だったとしたら僕は、狂うほどに焦がれていたのだろう。望み続けていたのだろう。思えば夢の世界や光の跡地に来る前の僕は、随分と自身の過去と周囲に囚われ、言いようのない深い嫌気がさしていたと思う。
 今は過去を振り返っても、あまり何かを思うことはなかった。昔は違ったのだろう。遠い過去のように思えるほどに、終わりの無や夢の世界……そして妄想の世界にいる間は、嫌な記憶を中和する事が出来たのだ。

「……成程。君の言いたいことは理解できた。なら僕が君の力の発現に必要な思いの量を、少し調整しよう」

「調整? そんなことが出来るの?」

「夢の世界だけで限定すればね。取り合えず分かりやすい言葉で『本心から願う』だの、『心から望む』だのと僕は言ったけど。要は君が力を行使するにはね、とにかく並大抵ではない……狂気にも似た執念や妄執……強い一念が必要なんだ。それを一時的に減らしてあげる」

 やっぱりね。僕が先程思った通りだ。でももう少し言い方は捻っていいんじゃないかな。
 言うとお地蔵さんは近付き、僕の腕に触れた。

「ほら、これで少しは力が発現しやすくなったはずだ。さっきよりも軽く考えるだけで大丈夫だよ」

 文字通り軽く言ってくれるものだが、僕の身体にこれといった変化は見えていない。お地蔵さんと接触しても肌に感じたのは無機質な石の冷たさだけであり、どうにも「調整」とやらを施されたとは感じられなかった。
 しかしやってみないことには分からない。
 頷き僕は再び右手を前へ押し出すと、思考する。
 すると、

「うわあ! お地蔵さんだぁ!」

 僕の視界に映る床から、ぼこぼこと大量のお地蔵さんが頭から突き出し出現したのである。
 数は特に決めていない。
 際限なく生み出すつもりもなかったので、止めるように念じれば直後にお地蔵さんも生えてくることはなくなった。

「どうだい? 成功しやすいように限界まで調整したかいがあって、思った通りになっただろう?」

「……すごい」

 拙い感想であっても、僕はそう呟くしかなかった。
 更に僕が念じれば無数のお地蔵さんは消滅する。再び地面から顔を出す。突如として現れ宙を舞う。大きさも、数も、材質も、自由自在だ。

「ワン!」

 犬のポンも興奮したように吠えている。
 僕はとどめに指を鳴らすと、姉の昴が横たわっていた真下から超巨大なお地蔵さんが突出し彼女を天高く吹き飛ばした。その迫力と爽快感に、思わず僕は目頭を熱くさせ熱烈な拍手を送らざるを得なかった。やがて鮮血を散らしながら昴は、そのまま青い霧の中へと消えていくだろう。何故なら僕がたった今そう思ったからだ。

「そろそろ一回、調整を止めるよ。僕も疲れたからね」

 呟きオリジナルのお地蔵さんが横へくるりと一回転すると、僕がいくら念じるようになっても「力」が再発現することはなくなった。正確にはより強く、切実に……狂気に等しい熱意を込めて、事象を願い、望まなければ発現しなくなったのだ。
 熱も冷めぬ間に僕は何度も自分の手をしきりに眺め、お地蔵さんと見比べる。

「これが……僕の力なのか」

「君がそう思い続けるのなら」

「そうかな」

「そうだよ」

「……曖昧なんだね。僕も、世界も」

「曖昧なままでいいじゃないか。灰色のままでいいじゃないか。胡蝶の夢はそれでも良いと肯定してくれたんだろう?」

 囁くお地蔵さんに僕は目を伏せ、次に足元を見つめた。
 それもそうだ。
 そもそも僕は何故、定めようとしたのだ? 取り留めもないものに対して輪郭を付けようとしたのだ?
 現実とする世界に対して。
 夢とする世界に対して。
 妄想とする世界に対して。
 そして、僕自身に対して。
 理由なんて無い。けど、輪郭を……形を付けてはならないという理由もまた無いのだ。
 現実とする世界に対して。
 夢とする世界に対して。
 妄想とする世界に対して。
 そして……「彼」に対して。
 曖昧なままにしたくなかった存在が、そこにある。

「答えなんてないのだよ。スクル君」

 時間だ。
 砂で作られた城のように、夢の世界も静かに崩れ去ろうとしていた。青い霧は徐々に晴れて薄れていき、寂しくも優しい無色の光が僕を優しく包み込む。夢から覚める直前はいつだってこうだった。
 世界が再構築され、消える音。それは美しくも残酷で、ただそこにあり続ける真実として僕の中の鏡には映り込んでいた。生きているのにもう助からないという状況に身を置く人間を、はたして生きていると言えるのだろうか? 終末の音色を耳に焼き付けながらも、僕は意識を失う寸前まで僕自身の力を行使すべく願った。望んだ。思った。
 狂おしく。
 絶対的に。
 家族が消滅してくれますように、と。


「昴……今日は何処かに行くの?」


 結論から言って私は絶望しました。
 日曜日の朝。目覚めて一階の居間へと降りていくと、そこには変わらぬ母の姿があったのです。テレビに録画していた深夜アニメを視聴し、母の作った朝食を貪る兄夫婦と子供の姿も見えました。
 そんな。馬鹿な。どうして。

「……少し出かけます。朝食はいりません」

「そう。別にいいけど」

「失礼します」

 お地蔵さんは言いました。
 私には「力」がある、と。力を発現するには狂気に等しい執念や焦がれた思いが必要であることも。ならば何故、こいつらは消えていない? 夢で出来て現実で出来ない道理は無いでしょう。
 私の思いが足りていなかったというのでしょうか。それとも……私は本心では、家族を極限まで憎んでいるわけではないということでしょうか。
 浮かび上がった二つ目の推測に、私は私を殴りつけて殺してやりたいと思いましたが。
 冷静に考えてみれば電波光源が出現したのも、副作用として終わりの無が現れたのも、全ては光の言葉と家庭環境に脅威を抱く私を救済すべく――――当時の私が無意識下で創り出したもの、とお地蔵さんの説明で知りました。
 しかしここで一つの疑問が浮かび上がります。
 それならどうして、私は原因である光の言葉や家族を直接消し去るような真似をしなかったのでしょう。そうすれば全ては解決する筈なのです。わざわざ回りくどく電波光源を現出させる形をとらなくてもよかった筈です。
 私の中の私は何を想ったのでしょう。何を考えたのでしょう。
『貴方のことを教えてよ』
 人はどれほど自分を把握し、理解しているのか。実際に頭の中を覗けるわけじゃないから私は分かりませんし、覗いてみたところで結果は同じなのかもしれません。さほど興味があるわけでもないのです。
 だけど少なくとも私自身は、私のことをあまりよく知らないのでしょう。それでも考えることは止めず、思考を深い闇の中へ落とし込んでいた時――――神の忠告のように、ふとした推測が浮かんできました。

 ――――原因を取り除いたところで、意味がないと知っていたからではないのか? 

 ――――光の言葉を、愚者共を消滅させたところで、その後はどうなる?

 嫌いなものが増える度に消していったらきりがない。いずれはこの世界そのものを憎むことになる。それは確かだ。僕が思う以上に僕自身を理解してない以上、自制が効くのかも分からない。だから僕は知らぬ間に恐れていたのではないか? 直接の原因を消去することを引き金に、歯止めが利かなくなる未来の自分自身を……気に食わぬものは端から消滅せんとする自分自身を……恐れたのかもしれない。
 でもそれでいいじゃないか。お前ら凡人凡夫共と違い僕は複数の世界を持っている。今更現実の世界が消滅したところで僕には夢と妄想の世界がある。何なら更なる世界を作ることだって出来るんだ。世界の一つや二つ、消えたところで何の意味があるというのだろう?
 ――――すると私は、前触れもなく思い直しました。
「彼」はどうなる? 彼の世界はここにしかない。ここの彼はこの世界にしかいない。
 彼は私にとっての「安っぽい救済」であった筈です。小学生の頃に出会ってから今日まで変わっていない、それであった筈です。古くから拠り所にしていた最も付き合いの長い「救済」であったのです。
 そして私は新たに電波光源と終わりの無という新しい救済を創り、獲得した。
 そこまで考えて私は、言いようのない吐き気と見出した「もしも」の可能性に激しい自己嫌悪を覚えました。視界を極彩色の羽が舞い、世界が横向きに倒れ、緑の波が後方から押し寄せます。
 ひょっとしたら私は、ただ救われたかっただけなのかもしれないと。お安い救済に身を寄せる心地良さを享受したかっただけなのだと。光の言葉よりも家族の存在よりも何よりも、それらによって浮き彫りとなった「可哀想な自分」を見つけては癒してあげたかったのだと。
 ……とにかく全ては推測でしかないのです。
 私のことなのに私の私に対する思考は憶測でしかないのです。

「洗濯はもうないわよね?」

「ありません。出すものもないです」

 私は階段を上り部屋に戻るとすぐに、外行きの格好に着替えるべくタンスを開けました。一番上に畳まれていた黒のプリーツスカートにストッキングといった類のものを横へ押しのけ、茶の長ズボンと白いシャツへと着替えます。次に再度一階に降りると、冷蔵庫にある不気味な色合いをしたジュースを取り出しコップに注ぎます。並々注がれた液体を喉に流し込む傍ら、私は横目でテレビに映る深夜アニメを見ていました。
 テレビの中では私と同じくらいの年齢の青年が、剣技や魔法を操り敵対する者を薙ぎ倒しています。無秩序な暴力を秩序のようなもので御しては振るいます。青年の周りの少女達は大半が青年に心酔しているようであり、あの手この手で寄って来ては好意のようなものを伝えようとしていました。…………幸せの死骸とはこういうものを言うのでしょうか。もしくは鏡?
 私はコップを洗い片付けると、息を殺すように玄関へと向かいます。そして無言のまま自宅を後にすると、終わりの無を目指して行きました。何も目的がないわけではないのです。
 バスに乗り、ぶつぶつと何かを呟き続ける若い女性と相席になり。電車に乗り、執拗に両手を揉みほぐす中年男性の向かいに座り。
 ――――僕はこの日、おじいさん……今井源次(いまいげんじ)さんに呼び出され会う約束をしていた。
 六月に入って最初の土曜日、つまり昨日。僕は彼を誘い二人でタワー周辺に足を伸ばすと、そこで例の如くいた笹岡さんと今井さんとで語り合ったのだ。
 笹岡さんは僕が持ち出した相談の一件でいよいよ話が通じると見たのか、積極的に平行世界の生い立ちや渡航者の存在意義について説明してくる。今日も僕の携帯には、いつか来るお迎えに備えて云々と言った「啓示」が書き連ねられたメールが数件届いていた。
 他方で彼は照準を合わせられた僕に加勢することなく、これ幸いと今井さんと会話を重ねると野球の話時々神様の価値の話へと没頭していく。彼の背中は暗に「巻き込まないでくれ」と語っていた。まだ終わりの無に触れてから日も浅い彼にとって、ただでさえ違和感と混乱が渦巻き頭を抱えたくなる中で笹岡さんの話は聞くに堪えないのだろう。
 湧き上がる内なる混沌と不可思議さを紛らわす為に、たまに彼が言葉を投げてもこうだ。

「笹岡、野球のチームでどこが好きだ?」

「知らない」

「興味のあるスポーツもないのかよ?」

「ない」

「好きな番組は?」

「ない」

「部活とかは?」

「やってない」

「好きな動物は?」

「ポン」

「え?」

「ポン」

 波長が合わないのかどうか知らないが、とにかく会話が続かない。互いに悪気があるわけでもなさそうなので相性の問題もあるのかもしれない。
 その点、今井さんは上手く言葉を返してくれるし彼の話にも付き合ってくれる。四人で話すのもそこそこに、自然と二人組のペアが出来てしまうわけだ。
 やがて日も落ち、誰からともなく帰路に着こうとした時……今井さんは少しの間だけ僕を引き留め、今日の約束を取り付けた。聞いてみると相談のような……忠告のような……そんな類の、二人で話したいことがあるのだと。特に予定もなかった僕は一も二もなく了承した。
 少し早く目的地の駅に到着してしまったので、僕は約束の時間に合わせるようにして駅前のファミリーレストランで朝食をとる。前に彼と二人で食べに行った場所だ。注文したモーニングセットなるものを完食し僕は足早に店を出ると、ゆったりとした足取りでタワー周辺に向かい歩き始めた。
 まだ昼前にも差し掛かっていない時間帯。こんな時間からあの世界に足を伸ばすのはかなり久しぶりか、もしかしたら初めてではないのか? 平日は学校もあり放課後に向かうことになるので、辿り着く頃には夕方より少し前くらいの時間になる。休日に彼と行く時だって、待ち合わせの時間からして昼過ぎだ。
 時間が朝だからといって、さしたる問題があるわけでもないが。終わりの無の新たな形が、在り方が見られるかもしれない――――そんなことを考えていると歩調は自然と早くなり、抵抗もなく進入禁止のテープを乗り越えた。
 ぼんやりとした朝日にまぶされた無言の住宅や電柱が、冷たい沈黙をもってして僕を迎え入れる。太陽も光の言葉を思い出さない僕を直接処分しようと目論んでいるのか、溢れ出す陽光を僕の周囲一帯へと余すところなく降り注がせていた。嘲笑、嘲笑、嘲笑――――世界が一つの命に冷たいのはいつものことさ。
 そんなものに今更動じる僕ではない。路地裏を抜け、直線状に道を進めばいつもの世界が見えてくる。何もない荒れ地だからこそ遠目からでも目立つお地蔵さんの隣には、既におじいさんが腰を下ろし空を眺めていた。まだこちらには気づいていない様子だ。
 話しかける前に、僕もつられるようにして空を眺める。遮るものがない広い空だ。
 そこに終わりの無はなかった。
 原初の無も見えなかった。
 ただただ鈍く光る太陽と薄く延ばしたような青空が、名前も形も持たずして僕達を見下ろしていた。それは無と呼ぶにはあまりにも何もなさ過ぎていたのだ。無を無足らしめる要素が、欠片が何一つとしてない……それは正しく死骸であった。

「……年を取ると、無為な時間を過ごすことにもあまり苦痛を感じなくなってきてね」

 思わずギョッとする。
 かけられた声に僕は身じろぎすると、視線を地上へと戻す。おじいさんはいつの間にか僕の存在に気付いていたのか、お地蔵さんに寄り添うようにして立ち上がっていた。背中は見せているままだ。

「足音が聞こえてね。こんな空間なら風の音の中に何かが混じれば、自然と聞こえてきてしまうものさ」

「何か……すいません」

 忍び寄り驚かそうとしたわけでもないのだが、おじいさんのひと時を邪魔してしまったような気もしたので平謝りする。おじいさんはようやく僕の方へと顔を向けると、寂しそうな笑顔を見せた。

「謝る必要なんかないさ。呼び出したのは儂だからね」

「ええ。それで早速ですが、相談のような……忠告のような……そんな類の、二人で話したいこととは?」

 呼び出された理由に早速切りかかり、解剖していこうとする僕に対しおじいさんは笑みを崩す。代わりに張り付けられたのは、酷く思い詰めているような……悩んでいるような表情であった。顔の皺を少しだけ深めながら、どうしたものかとおじいさんは考え込んでいるようだ。

「儂もすぐに話しておこうと内容をまとめてはいたのだが……さて、何から話すべきか」

「遠慮する必要はないですよ」

 遠慮、か。
 呟き、やはりおじいさんは物寂しげに笑う。

「儂もすぐに話しておこうと内容をまとめてはいたのだが……さて、何から話すべきか」

「遠慮する必要はないですよ」

 遠慮、か。
 呟き、やはりおじいさんは物寂しげに笑う。

「儂もすぐに話しておこうと内容をまとめてはいたのだが……さて、何から話すべきか」

「遠慮する必要はないですよ」

 遠慮、か。
 呟き、やはりおじいさんは物寂しげに笑う。

「儂ね、宇宙人なんよ」

 意を決したように口を開けてから、おじいさんは言い聞かせるようにゆっくりと語り始めた。

「宇宙人って言っても、君たちが想像する火星人だとかエイリアンだとか、そういうものじゃなくて……時間とか空間とかが異なる場所、別次元からやってきた存在と言えばいいかな。太陽と地球の間のある場所にね、そういった『入口』っていうのがあるんだよ。そこから亜空間回路をこしらえて、この星にやってきたというわけだ。近い将来、ここで宇宙史を紐解いても稀に見る強大な空間跳躍現象が起こると耳にしてね。私の世界の多くの同胞は、珍しいかもしれないがそれだけだ。捨て置け……なんて言うのだけど、それは力を持つ者の発言じゃあないと私は考えたんだ。大規模な混沌が、被害が予想される星が観測できて、私達はそこに向かう術も持っている。私達がかの星を、生物を救わずして誰が救うのだ、という私の声に賛同してくれた者もいたのだが……数は少数だった。私のいた世界はね、こことは比べ物にならないくらい発展、発達していて――それでもハシュメテリウス第二銀河惑星基準の測定内では中の上程度だが――一言で片づけるなら、豊かだった。争いや戦争や仕事は趣味の範囲内で誰もが楽しめ、生命活動をする片手間で各々のやりたいことや研究に打ち込むような星だ。だから君達で言う地球……この星がどうなろうと、構わないと考える者がたくさんいるのも予想は出来た」

 僕は唖然とした。
 おじいさんの瞳の中に燻る影は、どうしようもなく正気であったからだ。

「私は入念な準備をして少ない仲間達と共に地球に降り立ったが、空間弾道の計算が甘かったのか別の要因か、地球に辿り着いたのは今から数十年前だった。困ったものさ。環境が整っていた儂達の世界に比べ、この世界で一から亜空間回路をこしらえるのは中々に手間がかかるからね。それに反対を押しのけ大見得を切ってもといた世界を出た手前、いきなり帰る準備をすることも阻まれた。幸い我々にとって数十年という月日はそう長くは感じられなかったし、何より強い使命感があった。来たるべきその日に備え、各々連絡を取りながら地球人として擬態し日々を送る生活を続けていたのだ。何度もお互いの使命とするべきことを確認し合ったものさ。だけど数十年という時は……『存在の修正作用』と共に、儂等から本来の目的とこの世界に対する違和感を塗り潰していった」

 存在の修正作用――――それは、笹岡沙織が何時か口にした単語であった。
 曰く、片方の世界では存在しえない力や物質の存在を、それがない世界に住む人々の無意識下から否定させようとする世界の理。
 曰く、異なる平行世界からやってきた生命体の知識や記憶がその世界の知識や記憶にない異端のものであった場合に、その世界に留まっている間はそれらの記憶や知識が訪れた生命体やその世界の人にとって虚構であるように感じさせる作用。
 平行世界という言葉を彼女は使っていたが、おじいさんが元いた世界とやらも平行世界の一つなのだろうか。それとも独立した異世界なのだろうか。
 そんなことを考えている自分に気付き、僕は声を押し殺して笑った。

「存在の修正作用を知らないわけじゃなかった。しかし我々なら確かな決意の下その理にも抗って見せ、無事地球に救いの道を示すことが出来ると考えていた。だが現実は……非情だった。また一人、また一人と仲間からの定期連絡が途絶えていき。どういうことかと足を伸ばし問い詰めれば、逆に向こうが何のことかと疑問を浮かべてくる始末だ。十数年経つ頃には仲間のほとんどが世界に偽りの記憶を植え付けられ、地球での生活に何の疑問も持たなくなっていった。しまいには儂のことを変人狂人扱いしていき、かつての同志達は儂の前から静かに去っていった。それから今日まで儂は、ずっと一人己に課した目的と戦い続けてきた。悲しかった。寂しかった。途中、儂も修正作用に身を委ねこの苦痛から解放されようと思った。家庭も作った。しかし修正作用に記憶を塗り潰される直前の仲間……儂を除き最後の一人で友であったその者の声が、脳裏に響くのだ。『後は頼む……』と。その一言を胸に刻み付け、儂は存在の修正作用に抗い続けてきた。しかしかつての世界の記憶は虫食い穴のように所々が抜け落ち、儂もいよいよ後がないらしい……」

 そこまで話し終えるとおじいさんは、寂し気な笑顔を作る。
 おじいさんが出会った時から漂わせている、侘しさにも似た雰囲気の理由を掴み取れたような気がした。

「前置きが長くなってしまったが……つまり、儂は君達とは違う存在だ。故に、笹岡さんが君達とは似て非なる存在であることも知覚出来るし、存在の修正作用という単語が彼女の口から吐き出たのも理解できる。その上で言っておこう。彼女は危険だ」

「危険?」

「儂のようにこの星を破滅の未来から脱却させようとする考えを持っているわけでもない。電波光源と呼ばれる空間跳躍現象をただ観測して、自分達の好奇心を満たそうとするばかりの存在に過ぎない。その為には誰かを扇動するような真似もするだろう。そんな彼女が言葉を重ねている君に対してこそ……この警告を伝えておきたかった。彼女の言うことを全て否定しろ、とは言わない。しかし手の平で踊らされない為にも警戒は必要だ」

 これまでになく真剣な表情で、おじいさんは目と目を合わせてくる。瞬間、僕は全てを悟ってしまった。
 ――――人は人でしかない以上、福音を探し求めるのだ。形而上の、はたまた形而下に羽ばたく名もなき幸せの青い鳥を人は求める。経時変化を観察することでしか確認できない、時間という不確かな概念の中に生きる僕達もまた……不確かな存在でしかない。
 誰であれ例外はなかった。僕でも、彼でも、彼女でも、おじいさんでも。自らを肯定してくれる存在が必要な世界になってしまったのだから。

「そうか…………そうなんですね」

 微笑み、僕は静かに相槌を打つ。
 亜力はない。
 存在の修正作用はない。
 亜空間回路はない。
 だけど救いは必要だ。
 僕が彼女とおじいさんの「安っぽい救済」にならなければ。代わりなどいない。他に誰がやるというのだ。こんなわけの分からない老いぼれとキチ○イ女の救いとなることを、進んで申し出る奴なんて他にいないに決まってる。
 僕しかいないのだ。
 使命感と共に血液が満ちていき脈打つ陰茎を感じながら、僕は強く思った。


 第六章  光よあれ

 正直なところを告白しよう。
 孤独な使命感。僕は光の言葉とただ一人、向き合って生きてきた。
 皆と同じように振舞うことは出来たかもしれない。光の言葉など一時の幻なのだと言い聞かせ、思い込むこともできたかもしれない。でもそれは光の言葉に対する「逃げ」に他ならないと僕は考えていた。僕の周りには光の言葉を解している人間なんてただの一人もいやしないのだ。つまり僕が最後の砦になるわけだ。そんな僕すら、光の言葉という世界の理を忘れてしまったら……一体誰が、その脅威を、存在を、語ることが出来るというのだ?
 選ばれた者の責務だ。
 戦士の宿命だ。
 孤独なる使命感を紛らわす為に、僕は世間と線引きをつけるべくより一層に光の言葉と対峙した。その姿勢が結果的に周囲には奇異なものに見えたり、軋轢を生むことがあったとしても、必要な犠牲なのだと自分に言い聞かせた。世の中には消すことも変えることもできない真実が……本質があるのだと、僕は小さな頃から漠然と知っていた。それも皆と同じように振舞うことを避けた理由の一つだったのかもしれない。
 表面だけをその他大勢と同じ色に塗ったところで、結局いつか塗装は溶けおち抱えた本質を際立たせる。光が眩くなれば落とされる影が色濃くなるのと同じ、僕は孤独という病魔がより姿形を明確にしていくのを恐れたのだ。
 選ばれた者の責務だ。
 戦士の宿命だ。
 選択肢は既になく、僕は光の言葉を家族を除く他の人間にも伝え言い聞かせてきた。なるべく人や物が作る影の中に居座ることで、光の言葉がどれほど驚異的なものなのか己の生き方で示してきた。小学校中学年になってくると、クラスメイトの中に僕と同じように……影の中へと積極的に移動し、うずくまる子がちらほらと見えるようになった。
 僕は狂喜した。
 努力は報われるのだと確信し、信仰した。
 僕だけが抱え込む孤独から解放されるのだと思った。
 だがその熱も冷めるのにそう時間はかからなかった。
 クラスメイトがしていたそれは彼等の中では「すばるごっこ」という名称で呼ばれていたものであり、早い話か僕のことをからかいふざけた延長で行われていたものだったのだ。何か辛いことがあったんだよ……駄目だよからかっちゃ……可哀想……家の問題かな……嘲笑……嘲笑……嘲笑。僕は光と太陽による悪意だけでなく、人の悪意にまで晒されることになった。
 真実を知った僕は落胆し、悲観に暮れた。しかし諦めることはできなかった。
 光の言葉というのはつまり、黒死病や魔女狩りと似たようなものだ。原因が分からないまま人が自ら命を絶つ原因を他のものに擦り付けて、何もかもを誤解したまま対策もせず現状に甘んじる。どうして見過ごすことが出来ようか?
 選ばれた者の責務だ。
 戦士の宿命だ。
 やがて僕は原初の無を見出した日をきっかけに、「彼」と出会い付き合いを深めていくことになる。それは一つの契機だった。
 彼はクラスの中でもそこそこ人気があった方で、体育が出来れば英雄視される傾向のある小学校の世界では何かと顔が利いた。だからなのか、彼は僕がクラスに馴染み易いようにと様々な根回しを行っていたようだ。
 そのような取り組みの一つに「不思議系」というキーワードを、彼はクラスメイトと僕に与えた。僕が織りなす言動も、全ては不思議系キャラということで片づけられる魔法の言葉。勿論、それだけでは済まないこともあったけど……僕に組み付けられた最初の輪郭でもあった。
 僕は彼の意図するところを察すると、与えられた輪郭になじませるようにして少しずつ僕自身を変えていった。――――世界を理解しようとしなければ、世界もまたこちらを理解してはくれない。彼が提示した在り方は今までの僕なら考えも及びつかなかった、世界との折り合いの付け方であったのだ。
 それまでの僕という人間は、光の言葉と対峙する選ばれた戦士というものだった。
 そこから不思議系キャラというものに己を落とし込んでいく過程が、決して楽であったわけではない。だが小学校を卒業し中学生にもなれば、僕は世界から見た己の立ち姿というものを大分コントロールするに至っていた。
 大人しく、彼とはよく絡んでいて、知り合いのような者もちらほらいるごくごく普通の男子学生――――世界がとりあえず受け入れてくれる身分としては、上々の出来だ。そして彼と話をしていれば、僕は使命感からくる孤独を新しい形で紛らわすことが出来た。相変わらず影として感じる孤独の残滓が根本的に解決したわけではないものの、対峙する存在が光の言葉という概念から彼という現実の人間に変わっただけでも僥倖だ。
 だけど。
 ……僕は何時になったらこの使命から解放されるのだろうか?
 ……僕が戦士でなくなる日は、いつか訪れるのだろうか?
 僕は彼女とおじいさんの「安っぽい救済」になると誓った。
 だけどそれは戦士としての僕じゃなく、僕自身で選択し背負い込んだ命題だ。
 僕が菱本(ひしもと) 昴(すばる)として生まれなければ――――姉が本来背負うべき使命を放棄し流産しなければ――――僕はどれだけ解放されたことだろう。
 そういう意味ではあの二人は羨ましかった。
 渡航者。
 宇宙人。
 それら妄想を下らないと一笑することは容易い。しかし彼女もおじいさんもそれぞれの世界と物語を持っていて、懸命に運命の奔流と戦っているのだ。二人にしかない、二人だけの世界…………それは菱本 昴としての役割を与えられ、その宿命と向かい合ってきた僕にはないものだ。
 僕という光の中に昴という闇が混じり、僕の内面を夕闇色に染め上げる。生と死、善と悪、白と黒、神と人、天使と悪魔、男と女、天と地、実と虚、朝と夜、光と闇…………それらのいずれにも属さない、狭間の黄昏に僕はいる。屋上の給水塔から見つめるあやふやな存在として、ここにいる……。
 漠然とした、自身の存在に関わる不安……不確かさ。


 それでも僕は、あくまでスクル・グリーズではなく菱本 昴なのだ。


「おい、おいおい」

「……どうした?」

 学校の昼休み。教室で少女然とした可愛らしい弁当箱を手に持つ僕に彼が声をかけてくる。

「お前何してんだ?」

「え?」

 前の席に座っていた彼が、同じく弁当箱を片手に僕を見上げていた。
 見上げていた?

「あ……」

 気付けば僕は机の上に仁王立ちし、天井で光る蛍光灯に向け弁当箱を捧げている。それは大いなる存在に供物を捧げんとする純心な信者を思わせ、教室とは隔絶された静謐なる空気が僕を中心に花弁の如く広がっていた。

「……少し考え事をしてたんだ。今までの僕について」

「考え事をしていたら、机の上に弁当箱持って直立するのかお前は」

 呆気にとられたような彼が、机を動かし僕の机と向き合うようにしてくっつける。彼の言いたいことはもっともで、僕は口籠りどう言葉を返そうか悩み始めた。何しろ気付いたら机の上に立っていたとしか言いようがないのだ。結果に伴う過程が思い出せない割には、机が汚れないようにちゃっかり上履きは椅子の下に揃えて脱いでいる。
 理由もない以上、近い感覚で言い表すなら「なんとなく」とでも言えばいいのだろうか。にしても上手くまとめられた気がしない。なおも机の上で頭を捻る僕に痺れを切らしたのか、先に口を開いたのは彼だった。

「とりあえず、まずは降りたらどうだ?」

「ん、ああ。そうだね」

 決まりが悪そうに僕は頷く。
 考えるにしても突っ立ったままでいる必要はない。よくよく考えずとも分かることだ。ついでに今回の場合だと、目の前には彼もいる。食事をする相手が眼前で立ち尽くしているのは何かと落ち着かないのだろう。
 だから今回は特例だ。
 何時から立ち上がっていたのかも知らないが、僕は机の上から降りようと片足を曲げる。
 横から声が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。

「あの……まだ降りなくてもいいんじゃないか?」

「昴さえよければ、もう少し机の上に立っていてほしい」

「え?」

 顔を向ければ、声を投げてきたのはクラスメイトの竹田と岩倉だと分かる。両者は僕らと似たように机を隣り合わせにくっつけたまま、拡げた弁当箱と購買部のパンには手も付けずこちらを眺めていた。岩倉が買った購買部のパンは袋を見るに、「アドレナリンパン」という名の商品らしい。廊下側に面した席に座る岩倉と、教室中央付近で棒立ちしている僕とではそれなりに距離があるのだが、これでも僕は目が良いのだ。だから岩倉のパンが何パンなのかも分かったし、竹田の弁当にはたこさんウインナーが混入されているのも見えている。ついでに彼らの表情が細かく見ると、いつもと異なるものであるというのもすぐ分かる。
 二人はどこか懇願するような……含みを込めた視線を僕にぶつけてきていた。静的な見た目の中に迫る圧力のような気迫。瞳の中に宿る光は単なる面白半分やからかい程度では説明できない真摯さに満ちており、一種の真剣さまで感じ取れるほどだ。その真剣さは彼女やおじいさんが見せたものに……通じるものがあった。

「……!」

 いや、竹田と岩倉だけではない。よく見れば教室内にいる全員が、立ち尽くす僕に向けて同じような視線を投げかけてきている。もしや彼もと思い目線を下にやると、彼はどうやらこちら側の人間であったらしい。クラスメイト達の様子に何だかよく分からない表情をしていた。
 彼ら彼女らは口々に言う。

「昴、頼む。もう少しだけさっきのままでいてくれないか?」

「私からもお願いしたいわ」

「僕も見ていたいんだ」

「お願いだよ、ね?」

「物質的には減るもんじゃないんだしさ」

「精神的には?」

「そりゃちょっとは減るかもしれないけど……今は水を差すなよ」

「無理にとは言わないけど、お願いよ」

「どうかな?」

「私も見たいなあ」

「そうそう!」

 言葉の違い。
 性格の違い。
 男女の違い。
 成績の違い。
 能力の違い。
 数えるだけの違いはさぞあれど、今クラスメイト達が求めているものはただ一つだった。全ての意思がそこに向かって集束していく……美しさにも通じる何か。結束や絆とはまた別の乱れぬ何かが、この場を掌握しようとしている。
 そして僕もここまで皆に望まれて、その願いを無下にするほど薄情でもなかった。

「……分かったよ。もう少しだけ」

「ありがてえ!」

 生徒の一人が大げさなことを言ってくる。僕は全身に刺さるクラスメイトの視線を多少はこそばゆく感じながらも、再び弁当箱を蛍光灯に捧げるようにして直立した。直後、感嘆の声とため息が聞こえてくる。
 僕自身の意思で言えば、もうこのポーズを継続したいとは思わなかったし、そこに潜む意味のようなものも探れないでいた。人間が無意識に行う行動として身を守る為の反応や、本能的な肉体の反射神経とは明らかに違うのだから。わざわざ靴を脱ぎ弁当箱を取り出し机の上に登り立つ……一連の動作の中に、まるで僕自身の意図が見えてこない。考え事一つをする片手間にしても、通常なら精々ペン回し程度が関の山だ。
 本人である僕でさえも分からない行動の中に、クラスメイト達は何を見つけたというのか?
 姿勢はそのままに、顔だけを動かして同級生の姿を見れば…………僕は愕然とした。

「巡礼者……?」

 口から漏れ出たように彼が呟く。
 巡礼者とは言い得て妙で、クラスメイトは皆が床に跪き、僕に対して祈りを捧げていた。正確には僕が弁当箱を捧げている蛍光灯……その先にある対象物に向けて。両手を合わせる者、感極まった風に涙ぐむ者、畏怖を瞳に焼き付ける者。皆には見えて僕には見えないものが、今この瞬間にここにいる。
 何だ? 一体何が見えている? 今の僕には見えないそれも、彼に注意される前の僕ならば……見えていたのだろうか。ならば僕は何を見ていたというのだ? 何に対して供物を捧げていたというのだ? 何が僕をそうさせたのだ?
 頭上を仰ぐも目に見えるは白い天井と蛍光灯。人工的な光が僕達を頭ごなしに照り付けていて…………待てよ。光? 白? 白い光?
 瞬間、僕は己が打ち立てた仮説に背筋を撫でられるような悪寒を感じる。

「まさか……」

 まさか、ここにいる皆は光の言葉の影響下に置かれているのではないか? クラスメイト達が崇拝し祈りを捧げているのは……光の言葉そのものなのではないか?
 様子がおかしい人々。
 変わりゆく日常。
 前から僕はこれらの現象に対して、元を辿れば原因は光の言葉に行きつくとの考えを持っていた。そのことは彼にも話したし、彼女に相談したこともある。僕の見解に対して彼は疲れたように適当な返事をし、彼女はドーム事件から生じた「亜力」なるもののせいとしていた。
 彼の反応や彼女の戯言は横に置いておいて、僕は今でも人の奇行が光の言葉を感じたことによる副作用だという持論は変わらない。
 ならば今、この状況は非常に危険だ。クラスメイト達が思い出した光の言葉が己を否定するものであった時……このクラス内で集団自殺が始まっても何らおかしくはない。今は光の言葉による内容が半ば程度にしか理解できていない状態か、その存在をおぼろげに知覚している程度にとどまっているのだろう。中には完全に光の言葉を思い出したが、内容が己の存在を否定するものではなかった生徒もいるのか…………いずれにしても、危うい状況に変わりない。いつ爆発するかも分からない時限爆弾を手にしたようなものなのだ。
 クラスメイトは相変わらず跪き、許しを請うように蛍光灯の光を見つめては祈りを示している。懺悔の時を待つ咎人のように、透き通る涙を流しては無心に合掌をしている。
 誰か異変に気付かないかと教室の出入り口へ視線を移しもした。しかし閉められた扉の窓に、廊下側からべったりと張り付いた他の生徒が邪魔で室外の状態も分からない。彼らの瞳はやはり、教室の蛍光灯へと向けられていた。鍵もかかっていないので中に入るのは容易な筈なのだが、何故か彼らは扉に身を寄せたまま動かない。
 ひ、
 か、
 り、
 よ、
 あ、
 れ、
 ひかりよあれ。
 生徒達の唇は呪文のようにそれを描く。
 何時しかそれは伝染したように教室内のクラスメイト達からも発せられることになった。
 ひかりよあれ。――――そうじゃない。
 ヒカリヨアレ。――――少し違う。
 ヒカリよあれ。――――あとちょっと。
 光よあれ。――――そうそれだ!
 光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ闇よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれ光よあれヒカリ

「く……」

 光の言葉め。
 光の言葉め。
 光の言葉め!
 このまま手をこまねいているしかないのか。弁当箱を掲げているしかないのか。仁王立ちする他にないのか。――――ただ石のように固まり続け歯噛みする僕に、ふとした推察が舞い降りたのは意外なほどに早かった。
 ……光の言葉を認知した生徒は皆、教室中央にある蛍光灯に向け祈りを捧げている。
 すると無意識のうちに弁当箱を捧げていた僕もまた、光の言葉を感知していたのではないか? 今まで思い出す片鱗も見せなかった光の言葉が、彼に声を掛けられる前までは手に届く位置まで寄り添っていたのではないか?
 僕はゾッとした。
 戦士たる僕が、自分でも気づかないうちに光の言葉の影響下に置かれていたという事実。僕はいつか光の言葉を感じる時には、決まって前兆のようなものがある筈だと根拠のない考えを信じていた。何事も意識に異変が生じれば必ずその前兆は現れる。自意識がスライドするが如く呑み込まれるなど、無色の世界と同じくらい想像がつかない……と。だがそれは違った。実際は連続した意識の中に割り込んだ光は、僕の存在がいかに小さなものであるということをせせら笑うようにして精神と自我を乗っ取り、戦士である僕に供物を捧げさせたのだ。
 ――――お前はその程度なのだ。その程度なのだぞ。
 言外に囁かれたようなものだった。
 彼が僕に話しかけなければ、僕は光の言葉を思い出し最悪の結末を迎えていたかもしれない。

「……きっかけが」

 そう。きっかっけだ。
 今は現状を打破することを最優先にしなければいけない。秩序めいた日常を、常識を、取り戻さなくてはならない。しかしどうする? 声を全体に掛けようにも光の言葉を合唱する生徒たちの耳にはまるで届かず、この体勢を止めようとすると号泣し泣き崩れる者が続出する。安否を気にする意味も兼ねてちらりと彼を見下ろせば、彼は黙々と昼食をとっていた。流石にそこは野球部と言ったところか、いらぬ心配だったらしい。
 きっかけが訪れる。きっかけは必ずやってくるのだ。光の言葉が完全に反映されるより先に、それはきっとやってくる。そう思わなければ気が狂いそうだった。次に瞬きをした時には僕も光の言葉に支配されているかもしれない。保証も効かない。気付いてしまったらそれで最後だ。全てがあまりに遅すぎるのだ。
 思い出せ。僕の始まりは何処からだった? 始まりを告げるきっかけは音なのか? 声なのか? 歌なのか? 意志なのか? 恋なのか? 出会いなのか?
 耳をすませば、ほら――――


「…………あっ!」


 学校のチャイムが鳴る。お馴染みのあの音だ。
 思わず僕は口ずさんだ。

「キーンコーンカーコ」

「リズム、ずれてないか」

 前の席に座る彼はそう言った。
 そんなにずれているだろうか。完璧に模倣しようとして発声したわけでもなく、暇を持て余した呟きにも似たそれを、僕は脳の中で噛み砕いていた。前頭葉と側頭葉に生えた歯が、口の中のそれと同様に学校のチャイムをすり潰す。

「放課後だな」

 クラスメイトと生徒たちはホームルームのチャイムが鳴ったのを境に納得の表情を浮かべると、元いた席へと戻っていった。

「君は部活?」

 放課後の予定を聞きながら、僕は歯と歯の間に残留したチャイムの残りカスを指でいじくり取り除く。見知らぬ人の前では慎むものだが、彼の前ではそんなに取り繕うことはない。僕は頭に埋め込んだ左手を引き抜くと、外気に触れた皮膚の感覚が際立つのが感じられた。

「そうだな。野球はないけど、軽い自主錬」

 ホームルームは続く。今は、今日の掃除当番の確認をしているところだ。

「お前は? 今日も行くのか?」

「そうだね」

「俺らももう高三だ。勉強もちゃんと頭の片隅に入れておかないと」

 指摘されても、自主練を行っている彼にだけは言われたくなかった。もっとも彼自身、頭の片隅と言っているだけに本格的な勉強に取り組み始めているのかは怪しい所だが。

「君からそんな発言が飛び出すとはね」

「三年生になって、意識するようになったのさ」

 特に意味なんてない、言葉のやり取り。途中、担任の教師が教室に入るまでその行為は続けられた。雑談をしていた他の皆も、やや遅れて静まりかえる。たまにこんな様子を見ていると、不意に小学生の頃を思い出す。
 いや、先生が入って来ても皆はうるさかったけど。代わりに僕が入ると一瞬の沈黙を挟んで再び皆が話し出すその様子はどこか面白おかしかった。
 ――――連絡事項は、無し。
 先生のその言葉を最後に、ホームルームは終わる。

「よし、それじゃ帰るか」

「君は自主練じゃないのかい?」

 少し前までの発言と真逆の彼の台詞に、思わず僕は聞き返す。
 当然のように彼は即答した。

「気が変わった。今日は俺もお前に付き合うよ」

「……まあいいけど」

 気が変わったにしては随分と早い変わり身だ。更には僕に付き合うと言ってくるところから、彼はこのままタワー周辺区域へと足を運ぶつもりなのだろう。僕と彼とでは乗る電車も異なるので、通常ならば駅に辿り着くまでの歩行時間が彼と共有する帰り道になる。休日を除いてしまえば、彼が平日の放課後にあの世界へと立ち寄るのは初めてなのかもしれない。
 だからというわけでもないが、僕は妙に新鮮な気分を覚えていた。駅まで歩いて揺れる電車の中に彼と二人で座った後も、どこか落ち着かない……普段通りではない僕自身を、僕は自覚している。向かう場所が終わりの無とくれば尚更だ。
「軍事的介入」真実か――――交戦はないと主張
 受け皿は何処に――――各国間の緊張高まる
 ドア口の上部に取り付けられたモニターが、こっちの気も知らずに昨夜のニュースを短いカットで流していた。
 彼はどうして、わざわざ平日の放課後に僕と共にタワー周辺区域へ向かおうとしたのだろうか? 彼自体にはあの世界に対して僕ほどの執着は感じられなかったし、休日に僕の誘いに付き合う以外で自発的にあそこへ行こうとする意志があるとは思えない。それさえも「気が変わったから」と言えばそれまでなのだが……僕の考え過ぎなのだろうか。

「夕日だな」

「サンセットだね」

「綺麗だな」

「……綺麗だね」

 素直に太陽を称賛することは憚られたが、僕は彼の意見に同意する。電車は決められたレールの上をまるで太陽の光から逃れるようにして走り続け、忙しく身を揺らしていた。だけどレールの上を走り続ける以上行き先は常に固定され、完全に陽の光から逃れることは叶わないのだ。トンネルや物陰に己の姿を隠したと思えば、数秒後には虚しく光に照らされる。上手く逃れているような気がすれば為す術もなく光を浴びて、必死にもがいてはひたすら救いがあると信じて走り続ける…………これが運命という奴なのではないか?
 ああ、そうか。
 そういうことなのか。
 この電車は僕自身なのだ。
 僕は歩き続ける。歩き続けることによって僕は更新されていく。振り返ればかつての僕がそこにいる。光の戦士として振舞い続けた僕が、彼と出会って間もない僕が、終わりの無に身を置くようになった僕が、そこにいる。
 だけど全てが決められているとしたら。運命という名のレールの上を行くだけの行為に過ぎないのだとしたら。
 少しばかりの分岐点はあるだろう。だけどそのどれかを選んだところで光の言葉から完全に解放されることは不可能で。何故なら僕が電車であるのなら、光の言葉は太陽か月のようなものだから。前提としてこの世界に存在し影響を与え続けるものだから。
 それでも僕は歩き続ける。まだ歩けると己に言い聞かせ、歩き続ける。そして救いがあると信じ続けるしかない。彼女やおじいさんのように偽りの救済に籠ることと、僕の生き方のどちらが幸せなのかなんて分からない。だけど僕は幸福の青い鳥を追い求め、今日も久遠の道筋を辿るのだ。

「あのよ」

「うん?」

「四日……三日前か。この前の日曜日さ、お前はあそこに行ったのか? 珍しく誘いがなかったからさ」

 これから向かおうとしている場所がその話題を選択させたのか、彼は座席に座ったまま顔も動かさず訪ねてきた。毎週の休日になると僕は決まって禁止区域へと一緒に行くかどうかを聞いていたので、それがなかったことに小さな疑問でも覚えたのか。僕としてはおじいさんと交わした約束があったので、彼と二人で向かうことが出来ずにいた事情がある。それに後から連絡して来させるのも気が引けたので、日曜日はこれといった誘いもメールもしていなかったのだが……どこまで話せばいいのやら。
 おじいさんが僕と二人きりで話しておきたい秘密があった旨は、本人の意向が分からない以上は軽はずみに話すのは避けた方が良いかもしれない。

「いや、誘わなかったことをどうこう言うつもりじゃないぞ。日曜日は用事があったし、最初から行きたかったらこっちからも連絡するしさ」

 中々話を切り出さない僕に何を感じたのか、彼は向かいの窓から視線を外すと早口でそんなことを告げてきた。結局、僕は即席で作り上げた無難な理由を返事として説明することになる。

「誘わなかったのは大した理由じゃないんだ。僕もその日は行こうかどうか迷ってて、早めに家を出たものの暫く駅の周辺をぶらついていたから。結局気付いた時には既にあの世界まで歩いてて、後から来るように連絡するのも気が引けたってだけだよ」

 僕の言葉に特別引っかかるものも感じなかったのか、彼は「そうか」とただ一言頷いた。僕らと床に這いつくばるおばあさんを除いて誰もいない車両の中は、陽の光により仄かな温かみと無機質さを帯び始めている。

「今井さんや笹岡はいたのか?」

「うん、いたよ。先にいた今井さんと雑談をしている最中に、後から笹岡さんがやってきたって感じかな。後は大体……いつも通りさ」

 ここに関して言えばでっち上げた話と言うわけでもない。おじいさんから己の正体や宇宙の形についての話を受け身で聞いて時間が経った頃、彼女もまた無音の世界に足音を響かせやって来た。三人で少し話した後、お昼時になると一度は駅まで引き返しファミリーレストランで昼ご飯まで食べた仲だ。僕が朝、おじいさんと会う前に利用した場所である。
 中に入るとその店の朝食概念は中々に幅広いのか、十二時を過ぎた時刻になっても品書きにはモーニングセットが大きく書きだされていた。時間制限や限定メニューのような注意書きもなかったので、これを利用しない手はない。
 おじいさんが店員を呼ぶと、僕たち三人は示し合わせたように全員がモーニングセットを頼んだ。それが当たり前のように思えたし、半ば必須事項であるような気さえした。
 彼にもそのことを話してみると、中々に微妙そうな顔をしたが。

「……ああー、そうか。二人はどんな感じだった?」

「良くも悪くも変わらないよ。相変わらず平行世界やそれに相対する宇宙の膨張だのなんだの……話題は同じ。それもやけに熱が入ってた」

「そりゃ大変そうだな。つーか大変か」

「まあね。でも前々から思ってたけど……ちょっとおかしいよね、あの二人」

「…………」

 言いながら、僕はレストランでの一幕を思い出す。僕が二人の話を聞き入れるスタンスを取っていたからか、彼女とおじいさんの話はこれまで以上に勢いづいていたような気がした。そんな話題の緩衝材にもなる彼の不在と、僕が二人を受け入れると決意したこともまた拍車をかけたのだろう。矢継ぎ早に僕に話しかける様は、まるで奈落の中で見つけた唯一の輝きに縋るようで…………さながら僕は救いそのものだった。

「そうか…………そうなんだ」

 彼女とおじいさんの話を正面から受け止め、僕は色々なものを混ぜ合わせた微笑を見せる。
 そして、ただ静かに頷くのである。
 両者の内面から滲み出るかのような喜びが、熱気の如く伝わってくるような気さえした。今まで行き場のなかった瘴気にも似たそれが、やっと許され天に向け放たれたのだ。
 僕の目から見ても二人の姿は、とても生き生きとしたものに見えていた。
 彼女は僕に贈ったメールの内容も取り入れ、亜力や渡航者について踏み込んだ説明をする。おじいさんは僕に話したように彼女を警戒しているのか、話題をそれとなく逸らそうとする努力が垣間見えていた。時たま僕に意味深なウインクを送ってくるのが印象的で、僕も同じように返すと満足気に微笑んだものだ。そしてそこには以前の侘しさは欠片たりとも見えなかった。
 そういうものだ。

「……あ」

「着いたな。予定より少し遅かったみたいだが」

 電車が止まる音。
 即ち、世界が止まる音。
 犬のように四足歩行をしていたおばあさんはその音を区切りに立ち上がり、平然と人の衣を纏って開いた出口から出ていった。まるでそれが普通であるかのように。足取りは軽く変わったところもまるでない。先程の姿を影も形も残さずして、おばあさんは人の身であることを選びやがったのだ。
 意志薄弱。
 消極姿勢。
 薄志弱行。
 気付いた時には己の中の何かが爆発し、僕はババアの背中へと飛び掛かっていた。

「止めとけって!」

「離せ! あいつ……! 成り損ねやがったんだ! それも自分の意思で!」

「気持ちは分かるが落ち着け!」 

「歯止めをかけた! 貫くことが出来なかった! 戦うことを放棄した軟弱者がッ! ナンジャクモノがあああああぁぁぁッ!」

 もがき、手を振り、意識を縦横無尽に駆け巡らせる。脳みそが爆発しないのが不思議だった。
 彼に羽交い絞めにされながらもひとしきり暴れた後、僕は荒く息を吐きながら深呼吸を繰り返す。駅構内にいた人々は、誰もが僕達なぞ初めからいなかったかのようにして振舞い続けている。彼は僕の状態を判断して拘束を解くと、肩を鳴らし疲れたように首を回していた。

「落ち着いたか?」

「……ごめん」

「謝るなよ。お前が行かなかったら俺が行っていたかもしれない」

 笑う彼だが、言葉の中には妙な重みが混在しているようだった。
 停車する電車の窓から差し込む光が現実とそれ以外の境目をぼやけさせ、僕らを優しく包み込む…………ここは危険だ。

「早く出よう」

「おう」

 電車から降りると歩幅を気持ち大きくさせ、速足で僕らは改札口まで歩き続けた。改札口を出てからは小走りを続けた。また少しすると今度は走り出していた。まるでこの世界を取り巻いている現実から……悪意から……光の言葉から……目に見えないそれらから逃げるようにして、僕達は走り続けていた。目視できないということは、つまり振り向けばすぐ後ろにぴったりと張り付いていたとしてもおかしくはない。理屈ではないのだ。大気を振り切ることが不可能だと分かっていても、何かしらの行動に転じなければやっていられないこともある。
 おじいさんがお地蔵さんを運んだ時も、こんな気分だったのだろうか。
 かような思考を頭の中で浮かばせていれば、僕と彼はタワー周辺区域へと足を踏み入れていた。全力疾走とはいかずともそれなりに走り続けた代償か、お互いに息は乱れている。彼の場合はプラスしてこの世界の影響が働いていたので、輪をかけて呼吸を整えるのに時間がかかりそうだった。

「大丈夫?」

「見た目ほどじゃない……行くとしようか」

 膝に手を当てた姿勢から上体を起こし、彼は一歩一歩を確かめるようにして歩を進めていく。
 無人の住宅が彩る灰色の道を行けば、まっさらな荒野が見えてくるのは時間の問題だった。
 夕日が形作る影は信号機の残骸だけにとどまり、細長く伸びた影は誰とも混じり合うことなく孤立する。それはお地蔵さんとて逃れられない理だ。しかし今回は打ち出されたお地蔵さんの影に重なるようにして、もう一つの影が見えていた。
 アスファルトから変わり土を踏みしめた僕達は、お地蔵さんの近くにいた先客と目と目を合わせることになる。

「お前は……笹岡?」

「来たわね、あなた達」

 立ち尽くしていた人物は彼女だった。休日の日に見る私服ではなく僕らと同じ放課後だからであろう、黒と緑を基調とした制服に身を包んでいる。それ自体は何もおかしい事ではない。しかし彼女やおじいさんが自らの意思でこの世界に出向くのは、決まって休日の日だけではなかったのか? 
 生じた疑問に眉根を寄せる僕を置いて、彼は彼女の制服姿を奇異なものでも見るかのような目つきで眺めていた。そういえば彼はこの姿の彼女を見るのは初めてだったっけ。

「うわ、コスプレってやつか?」

「私だって学生よ。新堂君」

「…………」

「…………」

 二人の間に、僕を含めると三人の間に沈黙が広がる。どういった種類のだんまりなのかは彼と彼女の二人だけが知るところだ。

「……そんなことはどうでもいいの」

 だがどこか滑稽さを漂わせる、黙する空気を破ったのは彼女が先だった。

「今回私が休日でもないのにここへやって来たのは、世界の寿命が残り三日を切ったから。週末……土曜日にこの世界は滅びるわ。それを貴方に直接伝えるべく……私は地蔵の横で待っていた」

 僕を指さし彼女はうっすらと笑った。何を言っているのだろう。
 一言で片づけると意味不明である。仮に世界の終わりが近付いているとして、彼女は何故こうも笑うことが出来るのか。不謹慎じゃないか。

「世界の……終わり?」

 絶句する彼に代わり、僕は言葉を反復させる。

「そう。セカイノオワリ。私、以前あなたから相談を持ち掛けられた時に話したわよね。ドーム事件の正体は亜力を用いた亜術という現象で、亜力はこの世界の住人にとって麻薬や覚せい剤に等しい未知なる物質だということを。世界中でドーム事件が多発する今、亜力も急速に拡散し世界中の人々を知らず知らずのうちに蝕んでいるということも……話したわよね?」

「…………」

「そのピークが四日後に訪れるの。私と同じ仲間の渡航者たちから貰った情報だから間違いないわ。おそらく、急速に密度が濃くなる亜力に耐えられる人間はいない。精神は破綻し、いずれは死に至るでしょう」

「…………」

「でもその前に、私が貴方とこうして接触したかったのは理由があるの。それは話してみて貴方が存在の修正作用と亜力の両方に、比較的強い耐性をもっているようだから。言うならば、私達の仲間にしたいのよ」

「…………」

「渡航者は常に人手不足だし、亜力の影響か貴方も少しおかしいところが見られるようだけど……それくらいなら致命傷ではない。こちらで矯正することもできる。むしろ早い段階から電波光源の跡地に頻繁に通い詰めているのに、その程度の狂いようは大したものだわ。どう? 悪いようにはしないわよ」

「…………」

 彼女はどことなく得意げな喋り方であった。
 それが何故だか僕の苛立ちを助長させる。

「今現在でも亜力の密度は、貴方達と私が出会った頃に比べれば格段に濃くなっているわ。日常で見かける人々の奇行も増えてきている。心当たりくらいはあるでしょう?」

 言われて、僕はおじいさんの独白と生徒たちの豹変を思い出す。それ以外にだって目にしたおかしな人間の一人や二人はすぐに思いつく。だけどそれは彼女が言う亜力による弊害ではなく、光の言葉による影響だ。

「前にも話したと思うけど、人々の奇行は光の言葉を知覚することで起こるリアクションみたいなものだ。どうして最近になって光の言葉に触れる人間が増え始めたのか、明確な理由は提示できないけど……一時のものさ。光の言葉を完全に思い出した人間に待っているのは逃れられない死か、赦された生の二つに一つかだけだけど。」

 そうだ。それでいいのだ。きっとそれだけでいい筈なのだ。
 それこそが世界を取り巻く摂理の一つであった筈だ。そこに彼女やおじいさんの妄想が入り込む余地はない。妄想が現実を凌駕することはありえない。

「……可哀想に。だけど大丈夫。あなたの言う光の言葉も、終末の日になれば全てが妄想であったということを嫌と言うほど理解させられるわ。ふふふ。ねえ、分かる? 今の私、『終末』と『週末』を掛けたのよ? 面白くない? ふふふふふ……」

 彼女は笑う。
 一人、笑う。
 今までの中でも見たことがないような、喜色に溢れた笑み。喜色悪い。気色悪い。
 唐突に宣告された、世界崩壊までのカウントダウン。
 今までだってそうだった。でも彼女は違う。

「何なんだよ……」

 足音と気配で、彼が僕の傍らまで寄ってくるのが分かった。しかし僕はそんな彼に対してどのように応えるべきか、判然としていない部分があった。正確には応えるに足る、手に触れられる土台……基盤のようなものを、僕は構築することが出来なかった。自信をもってそれを手にしたと言えるほど、僕は現状を理解していると言えるのか?
 彼女は電波光源や人々の異変の正体を自ら解剖し披露して見せ、原因が亜力にあると僕に説明した。対して僕は人々の異常が光の言葉にあるという説を信じても、何故光の言葉が一般に広がり始めたかを説明出来てはいない。電波光源に至っては超常現象であるということを除き完全に無理解だ。

「ドーム事件は別の平行世界から亜術という干渉を受けた現象。人々の奇行は電波光源に多分に含まれる亜力が拡散した結果よ」

 断言するような物言いに、僕の中の何かが揺れる。
 彼女の話は……おかしい。それは、確かな、ことだ。
 だって現実的に……なんだ?
 だって常識的に……なんだ?

 光よあれ。

 生徒たちの合唱が甦る。
 事態は「光の言葉」だけでは片付けられない状況にまで進行しているのではないか?
 混沌とした世界に定点を打ち込むことは可能なのか?
 彼女に聞けば何かが分かる気がしたが、結局僕は重く口を閉ざしたままだった。


 第七章  楔

 世界滅亡まであと二日。
 僕は彼女が言う「亜術」や「亜力」といった存在をまだ信じる気にはなれないでいた。結局彼女の言ったことが本当の意味で正しいと分かるタイミングは、二日後の土曜日をおいて他にない。しかし一方で僕は、彼女が言うことの全てを否定する気にもなれないでいた。聞き覚えのない二つの単語から展開された彼女の筋道立った説明は、今でも僕の深い部分で埋もれることなく浮いている。浮上し始めたきっかけは昨日の彼女との会話もそうだが、何よりクラスメイトの異変も大きかった。
 今にして思えば、「あれ」は本当に光の言葉だけで説明がつく事態だったのか? 仮に光の言葉が関与していたとしても、もう半分ほどは全く別の……正体不明の異物が関連していたのではないのか? その異物の手触りを何とか明白にしようとすると、僕は彼女の理論に手を伸ばす自分に気付く。
 光の言葉が加速度的に影響力を強めている理由も分からない。そもそも僕が知る中で大多数の人間が奇異な行動を起こし始める原因ともなれば、光の言葉しか考えられなかったのだ。だが教室でのあまりに異常な出来事を経験すると……その後の彼女の話に耳を貸すと……僕が信じる真実のどこまでが正しいのか分からなくなってくる。
 僕が神にも等しい力を持つというお地蔵さんの話も思い出した。己が望む事象を心底強く念じれば、それは実現するという僕の力。しかしそれも今となっては懐疑的な見方しかできないでいた。ついでに僕は現実世界で家族の消滅に失敗している。仮にその力が本当だとしても、僕が本来の深い部分の自分自身を理解していない以上、意識的に力を御することは困難だろう。
 何が正しく、何が間違っているのか。
 僕の中の基準は産声を上げる前までに戻ってしまった。
 時間を置いて落ち着いた今なら分かる。僕は生徒たちが急変したあの時、原因の全てが光の言葉にあると信じ込みたかったのだ。世界がまだ己の知る真理で捌けられるものであると思い込みたかったのだ。
 電波光源の謎。
 おかしくなる人々の謎。
 己の知らない謎を埋めようと、僕は何度も彼女の話を頭の中で思い浮かべた。ろくに見てもいなかった彼女からのメールをしらみつぶしに読み込んでいった。その行為の先には自身が求める真実が隠れているのだと思っていた。だが結局、僕は自分を納得させられる答えを見つけることはできなかった。
 自分の理解の範疇から外れようとしつつある世界。そこに楔を打ち込もうとするのなら、今や以前の僕なら妄言と下していた彼女の理屈なしには不可能であった。彼女を除いて、この状況を一から説明できる人間など他にいないからだ。
 彼女が語る言葉全てを鵜呑みにしようとは思わない。だが彼女がこの変わりゆく世界の根っこ……根幹に関わる、形容し難い何かを知っているように感じられたのだ。

「……」

 机の上に広げた教科書とノートを無意味にパラパラめくりながら、僕は授業に参加することもなく思い耽ていた。周囲からは絶えることなく話し声が聞こえてくる。

「論理的に間違いじゃなければ、人は殺してもいいんじゃないかな?」

「人殺しを『目的』とするのはまずい。だから『手段』に落とし込まなければならない」

「命は平等に価値がない」

「だからこそ命は尊いものだと『思い込む思想』に意味がある」

「世界は真実だけで構成された空間だ。だから命に優しくない」

「使命感から由来する物質的な孤独と精神的な孤独」

 場所は教室。今は数学の時間だ。
 だというのにクラス中の生徒たちは各々の持論を展開し、好き勝手に語り合っている。太り気味の数学教師は大仰にうんうんと頷いて聞き耳を立てているだけだ。
 事の発端は、授業が開始されてから十分前後ほど経過した時である。教師が板書に書き連ねた計算式を指で示し、噛み砕いた解説をしていた。時折何年も使い古してきたのであろうジョークも交え、全ては滞りなく進行していた。日常という映写機はまだ確かに機能し、頼りなくとも僕達を捉え続けていたのだ。
 ――――何か質問はあるか。教師の男はそう言った。
 すると前列にいた生徒の一人が、ひょいと手を挙げてこう発言したのだった。

「……人の存在意義を意味あるものとすることに、もはや幸不幸を追い求める必要はなくなった。生ける屍は静かに己の骨に身を埋め、死んだ生者は他人の為に歌を奏でる。生と死は循環し、いずれはその輪自体が意味を持つようになる。死を恐れる必要はなくなる。生に抱き着く必要もなくなる。……全は一つとなって完成される」

 挙手した生徒の話から、燻られた熱気のようなものが教室の端から端まで広がり波のように寄せ返す。体感として二度三度往復したかと感じたのも束の間。
 クラス中を巻き込んだ議論の始まりだった。
 いや、第三者の視点で見ればクラスメイト達の話し合いは、もはや議論と呼べるかすら不明瞭であった。各々の語ることも対話として妙な食い違いを見せている時があれば、単なる独白のように聞こえるものもある。誰もいない壁に向け必死に主義主張をしている人もいる。だが理屈を抜きにして「これはおかしいものだ」と、今の僕は判断することが出来た。彼女の話をより意識するようになってから、僕は他人の挙動には一層と敏感になったのだ。
 その挙動が、何に由来するものなのか見極めるために。僕は席から立ち上がると教室の後方まで移動し、全体を見渡すようにして観察を始めた。

「縛られない自由っていうのは束縛と同じ」

「定めた中でしか我々は存続できない」

「じゃ死ねよ」

「価値があって価値がないもの」

「生も死も、言葉にした途端に意味は派生し曖昧になっていく……」

「…………」

 が、実態は掴めない。この教室に満ちているものの正体が見えてこない。ということはつまり、これこそが彼女の言う亜力ないしそれに相当するものなのではないのか? 見えないものに輪郭をつけようと僕は必死に思考の作業を繰り返す。これが光の言葉と決めつけられればどれほど楽なことだろう。しかしもう現実はそんな段階をとうにすっ飛ばして、僕の手綱から外れようとしているのだ。冷静に今一度、物事を見つめ直さなければいけない。未知と対峙しなければならない。
 考えろ。そして世界と己を紐付けろ。
 もしもこの教室一帯を覆うものが光の言葉であるとしたら、僕もとっくに影響を受けていなければおかしい筈だ。生徒たちの話し合いが始まってかれこれ授業時間のほとんどは食い潰されている。その間に僕だけが偶然たまたま光の言葉に晒されないなんていう可能性があり得るのか。低すぎる確率はゼロとして扱うべきである以上、答えは否だ。僕が戦士であっても他の人と同じ、為す術もなく光の言葉に侵されることは前回の出来事で検証されている。悔しいがそれは事実だった。
 僕だけがこうして状況を分析し平静でいられるということは、少なくとも今この場に漂うものは光の言葉ではない何かと考えるのが妥当だ。前に僕が教室で無意識下の仁王立ちを披露した後に生徒たちがおかしくなったのは、光の言葉から「何か」という順番で教室を通り過ぎ去ったからだろう。僕が我に返った時に教室の皆は何事もなく着席していたが、直前まで僕と同じように光の言葉に支配されていたと考えても無理はない。あくまで僕が主観となった世界では僕だけが知らないうちに何らかのアクションを起こしていたように見えていても、俯瞰的に教室を眺めていれば全体の異常は浮き彫りになってくる。今僕がこうして、教室を眺めているのと同じように。

「……やっぱり、怖いなあ」

 白熱する話し合いから外れた場所で、僕はぽつりと呟いた。
 何かって何だ。
 何かに何をされるとどうなるっていうんだ?
 狂ってしまうのか?
 操られてしまうのか?
 自我がなくなるのか?
 考えるほどに見えない圧力と緊張がのしかかる。たとえ僕が正体を突き止めたところで対抗できるようなものではないとしても、姿が見えると見ないとでは大違いだ。
 目の前に広がるのは推し量れない未知数だ。本当に今までで一度たりとも、僕達の日常の中に現れなかったものだ。光の言葉や重力と同じ、人を容易に征服できてしまうこの世の理に匹敵するそれだ。
 だのに僕は何故、こうも平然としていられる? その現実がまたある種の恐怖を生み出した。
 僕だけを置いて変わってゆく世界。異質なものとなってゆく世界。
 変わらない僕の方が異質なのか。異常なのか。どうして僕だけが変われないのか。
 世界が僕を突き放し、どこか遠くに行こうとしているように見えた。置いてけぼりにされるのと突き放されるのではまるで意味が違う。まるでこの世界にお前は不必要な存在なのだと、暗に囁いているような気さえしてくる。それは疑いようもなく太陽の発言だった。
 変りゆくこの世界では太陽の思惑通りに全てが進み、もはや僕の意思決定力は働かないのではないか? そもそも大元の異変の原因は太陽が意図して起こしたものではないのか? 湧き上がる憶測を否定する未来を見つけるために、僕は依然として正体が分からない「何か」を正視する。
 見極めろ。
 他の人達と違って僕だけが変わらないでいられることに、まったくの理由がないとは思えない。すると僕とその他大勢の相違点に自然と目が向くようになる。真っ先に思い付いたのが、光の言葉を知っていたか否かという点だった。
 それが何故、未知なるものに浸食されない話になるかと問われれば、今の僕には説明できる力もない。しかし今はどんな仮説をいくつか打ち立ててでも、真実に近づこうと努力することが大切だ。最初から真実なんてものが無く、全ては無色透明の輝きが広がり続ける結末であろうとも。前進することを止めてしまえばそこで僕は終わりだった。
 彼女の話はどうだろう。彼女が未知なるものを定義づけた「亜力」はどうだろう。熱力学第二法則に縛られない、数少ないエネルギーの一つだと。彼女はまるでこちらが理解を示すことを前提のようにして、大まじめに言ってのけた。それが百パーセントの純度を帯びた真実であるかどうかは、僕が判断できることではない。重要なのは彼女が僕に対して、修正作用と亜力の両方に耐性を持つ人間であることが見受けられるといった発言をしたことだ。
「耐性がある」とは言葉通り、影響を受けにくいということで間違いはないと思う。
 しかしどうして僕にはそれがある?
 先天的に生まれついて備わっているようなものなのか。
 自然に生きている間として、後天的に習得するものなのか。
 ある一定の基準……段階? を満たすことで、知らぬうちに身についているものなのか。
 考えられる条件はいくらか浮かぶも、僕自身が彼女の言う「耐性」を得たと自覚した瞬間は今までに一度もない。初めに彼女が口にした言葉を聞き、それから皆がおかしい状況下で自分だけが変わらないでいたことに対する一つの回答として、「そのようなものがあるのかもしれない」と思い至ったばかりなのだから。何年も前の記憶を探っても意味がないように思えた。
 次に先程と同じように、光の言葉を知る知らないが耐性を持つことに繋がるかどうかを考える。これは間を持たずして結論は出た。
 答えは繋がらない、だ。考えてみれば単純で、彼女は最初僕が話した時に光の言葉を知らない素振りだった。されど耐性が求められる渡航者の務めをしている時点で、この説は除外されて然るべきなのだ。
 そうすると選択肢は絞られていき、耐性は肌の色や才能と同じように生まれ持ったものではないかと考えられるようになってくる。もしそうだとしたら、この世界には他にも僕と同じ亜力や修正作用から逃れられた人間が複数人いてもおかしくはない。むしろそれこそが自然であるような気さえしてきた。彼女を除き世界中で自分一人だけが、耐性を保持して生を受けたと考えるほど僕は選民思想の持ち主ではない。何十億人といる人に対し、まさか耐性を持つ者が僕だけだなんて話はないだろう。
 ただ、それも個人の願望が入り混じる希望的観測のようなものであり。
 あくまで僕の想像は気休めの延長線を出なかった。
 彼女の反応や教室の惨状を見るに、亜力や存在の修正作用に「耐性」という名の抵抗力を持つ人間がそこかしこにゴロゴロいるとは思えない。全体としての割合が少ない部類に入るのはまず間違いなかった。探すとしても一万を下回るか、千人そこらか、百を切るか、十で足りるか、それ以下か。
 いたとしても、僕がこの先その人たちと接触するかも分からない。
 思えば光の言葉だってそうだった。
 この広い世界の何処かには、きっと僕と同じように光の言葉に対する使命を帯びた戦士がいる筈だと。励ましのような言葉を胸に、自らを奮い立たせたことも少なくない。だけど僕はついに今日まで、戦士はおろか光の言葉を知る人物に会うことは叶わなかった。
 地球の裏側にいるかもしれない。
 デパートのエスカレーターですれ違ったかもしれない。
 同じ学校にいたかもしれない。
 でも実際に会えなければそれは僕の中では無意味だった。何かに対する……ここでは暫定的に彼女が言った亜力や存在の修正作用に対する……「耐性」にしても同じことだ。
 耐性を持つ人間が今までと同じように正常でいられたところで、世界は変わり続けやがて見えないものへとなっていく。赦された人間は変容する世界と同調し、赦されなかった咎人は既存のままでいることを強いられる。「何か」とはその選別の為の箱舟なのではないか?
 箱舟に乗ることを許可された人間。
 光の言葉に赦された人間。
 世界は二つの条件をもってして人をふるいにかけ、今新たな姿へと変貌を遂げようとしていた。
 僕は箱舟への切符をまだ手にしていない。
 僕は光の言葉を思い出したわけでもない。
 彼はどうなのだろう。
 彼女はどうなのだろう。
 おじいさんはどうなのだろう。
 僕は窓の外に広がる空を見上げながら、千切れてはくっつく思考の紙粘土を捏ね繰り回し時の流れに身を任せていく。それは数学の授業が終わり放課後に突入するまで続けられた。

「……雲が多いな」

 瞳の中の雲が流れる。僕も流れる。見つめ合う二人はいつも一緒さ。
 けれど。
 何を考えても真実は透明さを帯びているように感じられた。
 何を考えても不確かなものは不確かだった。
 何を考えてもそれらが影を映すことはなかった。
 だからこその「未知」であったし、そういうことなのかとも今は思える。納得とはまた別に思考の海に身を漂わせていれば、僕は余計なことを考えずに済んだのだ。恐怖を恐怖と感じなければ、拒絶を拒絶と捉えなければ、僕は幸せと言えるのだろうか? 幸せと言えたのならば、その先には何が待ち受けているというのか。考えていけば考えていくほどに、僕は僕から逸脱していくかのような錯覚を覚える。それは僕がこの世界に残された既知なるものに寄り添って、未知なるものを把握しようと躍起になり始めた時から初めての感覚だった。
 僕は何処に辿り着こうとしているのだろう。僕には何が与えられるのだろう。
 無私の解放?
 自我の救済?
 永遠の奈落?
 答えは話しかけてきた彼の中に、溶けるように消えていった。

「よう。ホームルームも終わったが、お前は今日もあそこに行くのか?」

 授業の間は話し合いに熱中していた彼も、今は憑き物が落ちたように元通りだ。どうやら「何か」は無事に通り過ぎていったらしい。

「行くつもりだよ。君もまた一緒に来るか?」

「いや、今日はいいや」

「自主練?」

「いいや、別れの挨拶を済ませておこうと思ってな」

「ん?」

「じゃあな! 明日は行けると思うからよ!」

 口を挟む間もなく手を振る彼に、僕もつい同じような動きをする。元気良く駆け出し教室から出ていく彼の背中を見送ると、我に返ったように僕も帰路につくのだった。

「……?」

 別れの挨拶。言葉だけで見れば単純だが、単体だけで掬ってしまうと前後の意味を簡単に推し量れるものではない。誰に向けて言う言葉なのかも、どんな場面で使う言葉なのかも、彼は明言していなかった。ただ必要なのはその言葉だけだと言わんばかりに、大したことでもないように軽く言い捨て去ってしまったのである。本当にそれくらい気楽な言いようであった。
 引っ越す予定のある知り合いにでも告げに行くのだろうか。
 他愛もないことを考えながらもその日僕は終わりの無へと足を伸ばし、電車にバスに光の言葉に揺らされて、帰宅した。ここだけは何も変わることのない僕の確かな日常だ。世界が滅び人に翼が生えるようになったとしても、変わりそうにない僕への日々に足るものだった。僕とて目線を変えれば案外気楽なものであるかもしれない。
 その後も僕は変わる世界に抵抗するように着々と己の日常を遂行していった。
 規格より大きめの木刀で素振りをこなし、母親と兄夫婦とで夕食を食べ、風呂に入り歯を磨き、そして巣立つべく僕は眠る。普段よりも意識をしてそれらをこなしたのは、一種の心構えのようなものだった。付け足すなら再確認の意味もあり。
 僕が歩こうとすれば僕は歩くし、僕が喋ろうとすれば僕は喋る。
 僕が空を仰げばそこに空はあるし、僕が歌えば歌は声となって耳に聞こえる。
 見失いかけていた世界と自分を結ぶ線はあまりにも卑近にあるもので、だけどそれだけだった。最初からただそれだけだったのだ。この世界の法則……いや、もう法則性を探すのはやめよう。そんなことには意味がないのだ。
 無数に存在する解を出さなければならない謎の中で、今、一つだけ僕なりの答えが導き出された時だった。

「お地蔵さん」

 藍色の霧が漂う、何もない殺風景な世界。
 僕は夢の世界を確認すると、その世界の住人を呼び出した。

「……やって来たね、スクル君」

「ワン!」

「……」

 お地蔵さんを筆頭に犬のポン、昴と順序よく霧の中から現れる。そんな様子を見ていると、僕も含め全ては調和されていた出来事に過ぎないのではと思えて来るから不思議なものだ。あるべきものはあるべき場所へと帰結していき、ある筈のないものはある筈のない場所を探し求めて飛翔する。ただそれだけのことのように感じられた。

「結局は、そうなんだね」

「君がそう思うなら」

 いつかの時みたくお地蔵さんは返事をする。
 僕は軽く笑いながらもかぶりを振った。

「ううん。そういうのじゃないんだ。本当に、それだけのことだったんだ。人に優しくしようとか、志を高く持てとか、命は美しく価値あるものだとか、戦争は消えることがないだろうとか、そんな……そんなことじゃない。変わらずにいてくれたものへの安堵と感謝…………もう一度、僕はそれを見つめ直すことが出来たから。どんなに言い方を変えてもこれだけなんだけど、でも。僕の背骨とするには十分だったんだ」

 その言葉の中には混沌とする世界や事象をこれ以上直視したくないという一念も、ほんの僅かに含まれているのは否定しない。だけどそれは遠ざけようとする拒絶の意思ではない。このまま深淵を覗き込み続けたところでどれほどの意味があるのかと、自問した上での解だった。
 世界は世界以外の何物でもないし、何かになれるわけでもない。僕だって同じことだ。
 優しくて残酷な、変わることのない真実の指針。いや、真実は何時だってそこにあり続けているだけで、優しいかどうかを決めるのは僕達だ。
 光の言葉の脅威。
 未知なる『何か』の正体。
 太陽の意図した空間。
 世界がどんなに変わろうと、決して忘れてはいけないことがある。

「……それが、君の導き出した答えの一つなんだね」

「うん。最初は迷って、戸惑って、恐ろしくて。自分の知る楔を世界に打とうと、自分と世界を何とか繋げようと、必死にもがいてた。だけどそれは違った」

 彼。
 彼女。
 おじいさん。
 お地蔵さん。
 ポン。
 昴。
 楔など初めから打ち込む必要はなかったのだ。

「ありがとう。僕の……楔達」

 理論も理屈も必要ない、自然と湧き出た感謝の言葉。
 夢の世界で使うのは初めてだった。今までもこれからも使うことはないだろうと、おぼろげに考えていた一つの単語。言葉は正しく完結し、世界と一つになっていく。そこに意味を見出そうとしたところで答えが見つかるわけが無いのだ。何故ならありがとうとは、世界とは、そういうものであるからだ。意味がないものに何かしらの道理や理屈をはめ込もうとしたとしても、それは人間側の安っぽい攻撃でしかない。自分を一時的に誤魔化すことが出来たとしても、その程度でそれらが揺るぐわけが無かった。
 ありがとう。僕は最後にこの言葉を残すことに決めた。そして出来た。
 だけど僕はこれから、この言葉を他の世界にも口にしていかなくてはならなかった。

「それは、別れの言葉かな?」

「分かるの?」

 僕の内心を見抜いた発言をするお地蔵さんは、肯定するように横へくるりと回転する。

「ここは夢の世界だからね」

「……そうか」

「その様子だと、彼女の言ったことを信じているのかい?」

「全てを認めているわけじゃないさ。だけどいよいよもって世界はおかしくなり始めている。彼女の言う通り、本当にあと二日で世界が滅びるかなんて分からない。本当にそうかもしれないし、そうじゃなかったとしても……何か決定的なことが起こる。そんな気がするんだ」

「だから、別れの言葉かな?」

「うん」

 別れの言葉にならなければそれでもいいし、なってしまったらそれまでだ。
 だけど言い忘れてしまうよりかはずっといい。
 さようならと言ってしまったら、それこそが「別れ」のように感じられたから。僕はありがとうの中に誤魔化して伝えていたのだけれど……やっぱりお地蔵さんには敵わない。

「不思議と悲しくはないんだ。ただやっぱり、少しだけ……寂しいな。君たちはどう?」

 藍色の霧のはるか向こう。地平線と呼べるようなものもない、虚空のいずれかに焦点を合わせながら僕は尋ねる。ここまでじっくりと夢の世界を眺めたことは無かったが、視察したところで面白いものが見えてくるわけでもない。歩き続けたところで不思議とお地蔵さん達から一定の距離を置いて離れることはなかったし、景色も変わらずどこまでも。だけど僕は退屈こそすれ、この風景を嫌いになるようなことは皆無だった。

「スクル君と同じような気持ち、かな」

「ワン!」

「……私は、悲しい」

 噛み締めるように、それでいてあっさりと飲み込むように、僕はそれぞれの言葉を聞き入れる。小骨が喉に詰まったのは最後の発言に対してだ。

「悲しい……?」

 僕は視線を姉へ……昴へと移す。
 昴はポンの後ろで直立したままだ。

「悲しいって……」

 彼女が何故悲しがっているのか、僕にはどうも分からない。この世界における彼女の役割は何時だって僕のサンドバックであった筈で、それは昴の贖罪でもあったのだ。彼女の罪と穢れを、暴力によって浄化させていく……一種の通過儀礼。それは好き嫌いも良し悪しも関係なしに課せられた昴の義務で、僕の気分一つで執行される彼女にとっての修練だった。交わされる言葉も口数少なく、楽しく会話を弾ませたことなど一度もない。いざ儀礼が始まり拳の洗礼を見舞おうと、彼女はなけなしの抵抗でその身を守ろうとするのだった。これは贖罪だということを理解しているのか。怒りと呆れの気持ちをないまぜにしながらも、僕は行為を最後まで完遂させていたものだ。

「どうしてそう思う?」

「ワン!」

「黙っててくれないか、ポン」

「ワン!」

「……」

 何が言いたいかと言うと、昴には僕との別れやこの世界の消滅で悲しみを抱く理由がない。
 彼女が己の罪を自覚して修練に意欲的になったことは一度としてなく、表情も乏しいことから感情の発露が見えてくるわけでもない。とても夢の世界に未練があるとは思えなかった。

「……もう」

「え?」

「もう、スクル君に会うことが出来なくなるから」

 はっきりとした口調。今までは霞のような存在感を伴わせていた彼女を形作る線が、この瞬間だけ色濃く空間に焼き付いたような気がした。

「たった一人の弟だもの。たった一人の肉親だもの。それだけが狭い私の中の全てで、だから私はここで生きられた」

「何を……」

「こうしてスクル君と出会えていたことが、私の安っぽい救済であったから」

 こいつは何を言っている?

「だったら……だったら何で、お前は生まれてこなかった! 僕と顔を合わせたいなら、話したいなら、お前はどうして現実世界に生を享受しなかった!」

「それが出来なかったから」

「どうして!」

「流産してしまったから」

「それはただの言い訳じゃないのか!? 戦士としての使命から逃げ出した……言い訳じゃないか!」

「……そう思ってくれても構わない。だけど私はただ、これが最後になる可能性があるのなら……この言葉を伝えたかっただけだから。それだけだよ、スクル君」

 そこで初めて昴は、小さく笑って見せた。
 笑った後に、またいつもの表情に戻った。あんまりにも表情の変化に変わり目が見えないものだから、初めから昴は笑ってなどいなかったのかもしれない。僕の心が見せたか細い幻であったのかもしれない。だけど今はもうそんなことにこだわる僕ではなかった。

「たとえそう言って見せても……これでお別れじゃなかったとしても……僕は『修練』の手を緩めるような真似はしないぞ」

「分かってるよ。だから……また、会えるといいね」

 今度の昴は笑わなかった。
 話していても最後の会話という実感はまるで湧かない。
 だのに次はもうないだろうと僕の直感は告げている。
 けれどそれは何も終わりを意味しているわけではないのだ。夢の世界かはたまた別の新しい世界か、いずこかの未来において僕もお地蔵さん達も点在し、それぞれの道を歩いてく。道が交わらずいつまでも並行であったとしても、僕の隣には確かに同じ世界を共有した奴がいる。
 横並びになって、大勢いる。
 今までの僕を形作った皆がいる。

「うん。苦しくは……ないね」

「もういいのかい?」

 お地蔵さんが半歩近づくのに合わせて、僕も半歩後ろへ下がる。
 最後に見せる、僕なりの意思表示のつもりだった。

「もう大丈夫だよ。もはや言葉を重ねる必要も、別れを惜しむ必要も僕達にはない。散らかった物事は最初からそうでなかったかのようにあるべき場所へと収まり、正しい時を刻み始める。収束ですらない……僕が散らかしたと信じていただけなんだ」

「君が……そう思うなら。でも」

「でも?」

「僕もそう思うよ」

「……ありがとう」

 くすぐられるようなおかしさに、僕は口角を緩めて見つめ返した。

「ありがとう」

 最後に僕はもう一度、繰り返す。それを合図に藍色の霧が白く光り始める。夢の世界全体が白一面に塗り潰される。お地蔵さんが、ポンが、昴が光に溶けて見えなくなっていく。僕自身も見えなくなっていく。

「答えなんてないのだよ、スクル君」

 見えない彼らの鼓動と僕の鼓動を重ねながら、僕は光の奔流に飲み込まれていった。


 第八章  心の光

 世界滅亡まであと一日。
 だというのに今日も今日とて、代り映えのない一日は無事遂行されていた。バスや電車の中は多くの人間が所狭しと押し込められ、学校で生徒達は恋に部活に勉強にと青春の一ページを刻み付けている。ノストラダムスの大予言の時の方が、まだはやし立てる輩がいたのではないだろうか。たまに見かける奇癖も含め、全ては全てのままだった。
 いっそ目に見える形で何もかもが激変すれば、新たな世界に対する気構えが出来るのではと想像する自分もいる。だが「それ」は天を赤く染めたり、大規模な災害を起こしたり、血の雨を降らすようなこともなく、静かに着実と僕達の日常へ浸透していた。急速に広がる黒い油のような……それでいてどんなに広がり表面が薄くなろうが……決して黒より先は見えぬ、闇そのもの。新たな世界へ続く漆黒の穴。選ばれた人間を誘い飲み込もうとする、審判の入り口……。
 これといった定義をすることが不可能であっても、人は作り上げた想像をすることが出来る。より近い何かに当てはめようとすることが出来る。しかし無数の捉え方があるというのは即ち真なる本質を特定できていないということであり、人の身である以上あれこれ論議を交わしたところで無為な時間は避けられない。だからなのか僕は「それ」について思い巡らすことはあっても、言葉にしようとは思わなかった。抵抗があるとか面倒なのではなく、ただ口にする気になれなかったのだ。青は青いと自発的に言うことに近いような手触りか。

「青は青い」

「は?」

「いいや何でも」

 タワー周辺区域。
 照らす夕焼け。

「儂も一瞬、何のことかと思ってしまったよ」

「唐突と言えば唐突ね」

 この期に及んで僕は彼と共に終わりの無へと出向いては、変わることのない世界の空気を吸っていた。次こそは僕達二人だけかと思いきや、彼女に加えておじいさんまでもがいたのは予想外である。だが純粋な驚きこそあれ、今になって浮かぶ疑問や細かな理由を探そうとする気は僕になかった。世界が○○によって変貌を遂げる一日前……だから。それだけで良いじゃないか。
 僕は今までと違いこの先の道筋が一本道であることを知っていたし、唯一の抜け道が「死」以外にあり得ないことも解してる。迷う間もなくこれ以上ないほど分かりやすく、道のりは整然としていた。見通しは良くも悪くもはっきりしている。皆も口にしないだけで分かっていたのか、語り合う話がいつもの内容から脱することはなかった。

「……明日だね」

 だから僕がふとして呟いた一言も、別段特別な意図があったわけではないのだ。

「明日だな」

「明日ね」

「明日じゃな」

 一時の逡巡も見せることなく応じる三人。短く即答出来たということは、やはり彼らも思うところは同じだったのだろうか。少なくとも話が「そちらの方向」に傾いたということを感じ取れた時点で、三人は翌日がただの一日として終わるとは考えていないだろう。
 僕と彼と彼女とおじいさんは、お地蔵さんを囲むようにしてそれぞれが目配せをする。
 僕にとっての「審判」が。
 彼女にとっての「亜術」が。
 おじいさんにとっての「空間跳躍現象」が。
 彼にとっての……が。
 人の数だけ見える形は異なれど、迫り来る明日は僕達に何を授けようとしているのだろう。
 願うことしか、想うことしか出来ないこんな僕らだけど……。
 歩くことしか、道なき道を道とするしか能のない僕らだけど……。
 信じることしか、見つめることしか行えないそんな僕らだけど……。

「君達はやっぱり……いつも通りだね」

 多くの人にとっての救済であればいいなと、今の僕は思った。

「まーな。いつも通りと言われりゃそうかもしれないが……」

 彼が笑う。
 付き合いの長さからか一番に返事をした彼の相貌は、学校のそれと変わっているような部分は見られない。今の部分だけを切りとって見れば、終わりの無に完全な適応を果たしているようにすら見える。だがそれは外面上だけに留まった話だった。彼が会話を継続しようとすることで終わりの無に取り込まれないように振舞うことは、今日のこの日まで続くここでの様式であったから。言わずもがな彼女だって分かっていたと思うし、おじいさんにすればだからこそ積極的に彼との対話に付き合ってくれたのだろう。
 二日前。彼は僕と一緒に彼女からこの世界の終わりについて聞かされた後、どのようにその話を解釈したのだろう。自分なりに考え飲み込み消化した一つの答えの切れ端が、笑う今の彼そのものである筈だ。僕が世界滅亡を最終的に選別と捉えたように、彼にはまた違った回答があってもおかしいことではない……。

「あ、でもそうだな。俺の場合だと両親は旅行中だったけど……兄貴と姉貴には、別れを済ませることは出来たぜ」

「別れ?」

「おう。別れ」

 わ、か、れ。
 彼の声が空気を震わせ拡散し、一部は彼自身の落とした影の中に吸い込まれるようにして消えていく。僕達の影には何も反応せずに反射していくところを見ていると、やっぱりこれは彼の言葉なのだ。

「別れ……ね。まあ明日起こることを考えれば無難というか普通というか……気が済むならいいんじゃないかしら?」

「拓真君……そうか。儂が無力なばかりに……」

 別れを済ませる。
 昨日の放課後、教室で彼は全く同じような台詞を吐いていた。奇しくも僕もその後で、お地蔵さん達に別れを告げようと決意したことは記憶に新しい。だが当初僕が彼の別れを一般的なものと想像していた反面で、彼自身の言う別れの挨拶が想像通りのものであるのかは本人にしか分からないのだ。僕がお地蔵さんたちと交わした「別れ」がそうであったように……彼の「別れ」が言葉を超えた所に意味を帯びていても、何ら不思議な話ではない。
 彼女とおじいさんは彼の言う別れというものを、恐らく明日世界が崩壊するという前提に結び付けて家族に残していったものと考えているのだろう。区分しようとするのなら昨日の僕に近いような考えだ。
 だけど仮に、彼が彼女の言った世界滅亡の全容をそのまま信じていたとするのなら……以後の彼の落ち着き様に説明がつかなくなる。あの時の彼は周辺区域にいることによる影響だけでなく、彼女の語る内容に明瞭たる当惑や戸惑いを見せていた。純粋な不安も含まれていたのかもしれない。そんな彼がたかが二日程度の時の中で、こうも気持ちに整理を付けられるものなのか? 刻一刻と迫る「滅亡」と称された日を前に、数日そこらで平常に自らを持っていけるものなのか? 
 彼女の話を聞いた翌日、つまり昨日の教室で顔を見せた彼にこれといった変化は見られなかった。例のお別れ発言の時もその前も、彼は恐怖や憂心(ゆうしん)に部類するものを一度として見せていない。今日の学校で過ごした一日もここに来るまでの道中も同上だ。そこから察するに彼が「答え」を手にしたのは、彼女の話を耳にしてから次の日の教室に入るまでの、比較的短い間であることが検討される。夜通しで考え抜いた果てに得たものかもしれないし、教室の扉を開けようとした刹那、ピースは正しくはめ込まれたのかもしれない。
 ――――あるいは、彼が自分の心を欺いて極力負の感情を表に出そうとしなかったことも考えられた。だが学校内での彼が僕を含む多数の生徒と交流してそれらしい影を見せることもなければ、まず彼はそこまで器用な人間ではない。

「僕達にも……その別れはするのか?」

 どんなに思考を張り巡らせても結局、この数日間で彼に変化らしい変化は見られなかった。
 確信をもって言えるのはそれだけだ。

「……お前はしてほしいのか?」

 それだけなのだが。
 慎重な彼の言い回しに、僕はなんだかおかしくなってしまう。
 彼にとっての明日にはきっと「別れの挨拶」が必要で、だけど彼は今になってこんなことを言ってくる。この発言も、変化のない彼を象徴するものとした方がいいのだろうか? 彼はどこまでも彼らしかった。

「君が信じる、君だけの真実。決められるのは君だけさ。僕だってそうだった。いいや僕だけじゃない……彼女も、おじいさんも、きっと同じだったんだと僕は思う」

 言って、僕は三人を順に見る。
 そこにいたのは彼で、彼女で、おじいさんだ。
 新堂拓真で、笹岡沙織で、今井源次だ。
 突きつけられる選択肢の連続で、どういうわけかこの場所へと辿り着いてしまった人達だ。
 幸か不幸か終わりの無へとやってきた人たちだ。
 それが事実として残る以上、もしものことなど考えるだけで意味はない。彼らの過去を分解しても見られるものは文字通りの過去である。時を遡る術などない。再度のやり直しも通じない。彼らは選択不可能な導きと彼ら自身の選択によって、今日という日を迎えることが出来たのだ。または迎えてしまったか。
 そしてそれぞれがそれぞれの明日を迎えようとしている。
 沈む夕日は誰かにとってのカウントダウンで、誰かにとっての日々に過ぎなくて、誰かにとっての目印で、誰かにとっての灰色だ。だけど迎える未来は定まってしまった。己の行き先を変える選択肢は消失し、後には一本の道だけが残される。何色に見えようが進む以外に手段はなく、引き返すことも許されない。
 各々が手に持つことを許されるのは、覚えている限りの記憶と、多少の感傷と、真実だけだ。
 いつもの時とそう変わらない平静ぶりを見せるに、彼が手にした真実は穏やかなものなのだろう。僕はそう思いたい。

「――――そうかい。なんとなく分からないけど……分かったよ」

「それでいいと思うよ」

「ああ。それすら決めるのは俺なんだろ?」

「分かっているじゃないか」

 おどけた風に僕が言うと、彼は何故だかニッと笑って親指を立てる。僕もつられて親指を立ててみると、同じ形をした拳を彼がぶつけてきた。これが野球部ってやつなのか。正直、なんと返したらいいかリアクションに困るけど……どうも悪い気分じゃない。

「……君はどうなんだい?」

 気恥ずかしさから次に僕は静かになった彼女へ話題をぶつけると、少女は黒髪を指先で巻き込みながら僕達を見やっていた。まるで知らない動物を観察するような目つきである。整った顔立ちは無表情とも無感動ともまた違う、けれどそれに近い妙な表情に支配されているようだ。
 無常さを見ている、と言えばいいのか。それも長くはなかった。

「私は変わらないも何も、最初からこうなることは想定していたから。お迎えもやってくることだし、今日になって思うことなんて何もないわ」

 決まりきった事実を摘示するような口舌。
 こうした返事を言えるあたり、彼女の場合は初めから聞くまでもなかったかもしれない。

「そっか。そうだよね」

「そうなるわ」

「なんだ、てっきりまた持論を展開させていくのかと思いき」

「この時点で考えたところで不毛だから。訪れるものは訪れる。それだけよ」

 彼の話を最後まで聞くことなくそう言い切ると、彼女は言うべきことはこれで終わりだと示すように沈黙した。彼は中途半端に口を開けたまましかめ面で固まっている。僕としては語り合いの場で見せる口数の多さに比べると、終わりの無における彼女の無言は存外新鮮なものだった。出会った頃から一貫して変わることのない態度は、何よりも彼女の言葉を裏付けている。「明日」に関するこれ以上の話し合いは無用――――分かりやすいほどそんなスタンスを取る彼女の思想は、僕に近いものがあった。

「……笹岡さん」

 荒れ地に風がびゅうと吹く。
 貝のように口を閉ざした彼女に代わり、聞こえてきたのは落ち着いた低い声。漆塗りの杖が第三の足として地面を叩く音も付属して、おじいさんの視線を僕は背中で受け止めた。

「おじいさん?」

 振り向く前に僕の真横まで移動していたおじいさんが、両手で複雑なブロックサインを飛ばしてきた。次いで片目を数度瞬きさせて寂しそうに笑うと、深く一歩前に出て彼女と対峙する。瞳は悲しみとも虚しさとも似つかない、静かな感情で揺れていた。
 そのまま十秒、二十秒と時が過ぎ、

「君は……最後までこの世界を観測するだけで、何もしようとはしないのだね」

 粘つくような沈黙を挟んで、ついにおじいさんが口を開いた。

「……私に何を望んでいるの?」

「笹岡さん! 分かっているだろう!」

 おじいさんはやりきれない表情で声を上げる。
 眼(まなこ)には涙さえ湛えていた。

「こんな状況だ、お互いに地球人のふりをするのはもうやめよう。儂は君がどこの銀河から来た生命体かなんてのは知らないよ。ひょっとしたら君には儂がどこの星から来たのかも、その目的も薄々気づいていたかもしれないが……探り合いは終わりだ」

「今井さん……」

「皮肉にも君と出会い話していたことで、存在の修正作用に記憶が上塗りされるのを遅らせられたかもしれない。君と話す度に儂は、ここの住人でないことを自覚することが出来たからね。……ここまで粘れたのは、正直に言えば幸運だ」

 自分の言葉に興奮し更に饒舌になっていくおじいさん。
 夕日は赤く燃えている。沈む間際、光はおじいさんの老躯を一杯に照らしながら世界の果てへ吸い込まれていく。空は太陽の残滓を残した赤の境界が徐々に星空の黒によって侵されて、夏の夜が作り出されようとしていた。ここでは蝉の鳴き声は、聞こえない。

「君が拓真君と彼に何を吹き込んだのか、今となってはどうでもいい。儂は儂の目的のために、やれるだけのことはやる。だが君は……本当に、このままなのだな」

「私がするべきことは何もない。それだけ」

「……そうか。もしかしたらと思ったが……分かったよ」

 一つか二言分の沈黙。物で例えるならお地蔵さんくらいの間隔だ。
 おじいさんは僕達に背を向けると、重い足取りで墓標のような住宅街へと歩いていく。問答をしていた彼女も何かを言うでもなくそれっきり。彼はなおも口を開けたまま、今度は別の意味で固まっていた。いい加減口の中が乾いてきたりしないのかな。僕がそんなことを考えていると、

「君たちに会えてよかったよ。……達者でな」

 おじいさんはピタリと、最後に足を止めて僕達に手を上げた。
 ――――その言葉の中に、果たして彼女は含まれていたのか。聞こうと思えば聞ける距離だと思えたし、聞けばおじいさんはきっと足を止めてくれるだろう。一人で墓標に赴くこともない。
 でも。
 引き留めたところで、僕に出来るのは安っぽい救済だから。
 僕は初めから決めていたじゃないか。残すのならこの言葉だって。

「おじいさん……ありがとう」

 今度のおじいさんは足を止めるような真似もしなかった。
 ただ、もう一度手を上げて。半分だけ振り返って。
 まっさらな笑みを見せてくれたんだ。

「じゃあな、今井さん」

「お元気で」

 続く彼と彼女の言葉も横顔で受け取ると、おじいさんは再びまっすぐ前を見据え荒れ地を行く。「明日」に向けて歩き出す。次に瞬きをした時には消えてなくなりそうな、おぼろげな後ろ姿だ。だけども歩みに迷いはない。それが全てを物語っていた。
 足音はもう聞こえない。
 おじいさんはどんどん小さくなっていく。
 少しばかり強い風が吹くだけで、煙のようにかき消されそうな背中をしかし僕たちは、最後まで見届けようとは思わなかった。
 もう、おじいさんは大丈夫だ。足りえているんだ。
 おじいさんの最後に見た表情はあれで良い。上書き不要の、説明不要の、残してくれた一つの笑顔。それを無粋にするわけにはいかなかった。

「僕達も帰ろうか」

「……そーするか」

 意識するようにおじいさんが去っていく真反対の方向へ、僕は彼と向き直る。すると、

「待って」

 立ち去ろうとする僕達に……正確には僕の腰に、彼女が強引に腕を回し引き留めてきた。
 至近距離で目と目が合う。

「あ……」

 その目誰の目私の目。
 その瞳を、僕はどこかで見たことがあった。
 原初の無か。
 終わりの無か。
 光の言葉か。
「何か」か。
 いずれかの中に潜むもの。潜んでいたもの。
 瞳自体に意思はなく、映すもの全てを虚無へ引きずり吞み込まんとする……偽りの闇。
 はたまた己の内を全て見透かし、腸(はらわた)を掻き出すように暴こうとする……偽りの光。
 狂気を増幅させることしか為し得ない、何もかもが偽りの瞳だった。

「……っ!」

 僕は咄嗟に腕を取り払うと同時、変な声を上げてしまう。それは悲鳴のようにも聞こえたし、嬌声のようにも聞こえた気がした。

「お? どうしたんだ」

 女気のない僕に対し教室の彼なら口笛の一つでも吹いて茶化しそうな場面であるが、相手が相手なだけに彼は唇を極端に大きく尖らすにとどまっている。誇張気味な苦手表現はそれだけでどこかおかしさを伴うものだが、彼も分かっててやっているのは知っていた。口先は突き出しすぎてもはや空気とキスをしているような塩梅だが、彼女は意に介すこともなく話を続ける。

「決断できた?」

「決断?」

 一瞬、話が見えなかった。
 彼女が間髪入れずに答える。

「私達の仲間になる決断」

「……いいや」

「そう。期限は私の『お迎え』が来る明日までだから。耐性のあるあなたは生き残っているでしょうし、その時に最後の答えを聞くことにするわ」

「はい」

 あなた「は」生き残っているでしょうし。
 彼女の言葉が重く臓腑の辺りにのしかかる。

「それじゃあ、私帰る。呼び止めて悪かったわね」

「ああ」

 言葉少なく返事をすると彼女は頷き、僕と彼のもとから離れていこうと踵を返す。後ろ髪を引くものは見えそうにない。スカートが軽やかに翻り、同じように軽い足取りが酷く今の自分とは対照的に見えた。まるで僕らの視界から逃れた途端、鼻歌交じりにスキップ一つケーキ屋さんにでも赴きそうな……そんなあり得ない妄想までしてしまう。

 間を置かずして、変な笑いが零れた。

 そんな彼女もいいかもしれない。
 だけど今は、現実のこの瞬間に終止符を打つことに集中しよう。

「待ってくれ」

 それが僕の決めた手向けと……最後の言葉なのだから。

「ありがとう」

 完全に背後を見せるその一瞬、僕は残すと決めた一言を投げかけた。
 ピクリと、少女の肩が小さく震える。

「……どういたしまして」

 彼女の言葉は吟味を重ねて選び抜いた一言でもあれば、無作為に拾い上げた単語のようにも聞こえる、不思議な響き方であった。声の出どころも彼女の口からではなく、彼女が立つ地面の真下や僕の耳元で囁かれたと錯覚する――――安定さを欠いたものだ。それはこの世界か僕か彼女が不安定さを孕み続け、実が虚となり虚が実となる前兆のようなものであり……現世界の終末を告げる、天使の笛のようなものだった。
 まだ少し明るい夏の夜。明かりがつくことのない住宅街へ彼女は歩を進めていく。

「じゃあな、笹岡」

 しかし言葉を投げたのもまた、僕だけではなかったようだ。

「……」

「さささ、笹尾さーん?」

「……」

「笹岡ァ!」

「……」

「おい! ガン無視かよ! おーい!」

 顔を見せることはない。立ち止まることもない。やっぱりタイミングとしては、僕の時が最適であったのだと思う。
 だからなのか彼の再三の呼びかけに、代わりに彼女は面倒くさそうに手を上げる。おじいさんの時のように。
 その背中にほんの僅かに垣間見えた、悪戯めいた面影は……きっと、彼女が見せてくれた本当の彼女なのだ。渡航者でもなければ一人の語り部としてでもない、ただの彼女の一部分。

「あいつ……」

 最後にここに来れてよかったと思う。
 ありがとうを言えてよかったと思う。

「……行こうか」

 彼の肩を押し、僕もまた帰路につく。
 明日への帰路につく。


 電車に彼と乗った頃には、空も星を散りばめる程度には薄暗くなっていた。まだ薄っすらとした青が混入し伸ばされたような未熟な闇だが、それでも光の力が及ばない暖かな闇であることには違いない。夏の空気の濃さを象徴するような大雲が、触れれば弾力があるのではと思うほどの質量を見せている。向かいの席に座る乗客が誰もいなかったのが幸いし、車両の窓から眺める景色に困ることはなかった。
 反面、彼とはあまり多くを語らなかった気がする。
 言葉が出尽くしたわけでなく、会話が続かないわけでもなく。同じ世界を見ている「今」という時間だけで、何もかもが何とかなる……事足りていくのを、僕は五感で感じてた。優しい気持ちになれるとか自然と笑い合えたとかではなく、そういう三次元的な意味では説明のつかない……「光の言葉」系に分類されるべきもの。しかしそこに世界の超越的な悪意や無機質の冷たさはない。代わりに暖かさもなかった。それが無性に心地良い。
 超えてゆく景色の中に、誓って僕と彼はいたのだと思う。
 言葉もいらない、というよりは純粋に必要がなかった。僕が風景のある一点を見つめている時、彼はあそこを見ているのだろう……と、何となく思うこともできたのだ。
 電車が減速を始める。

「着いたな」

「うん?」

「駅。ほら」

「うん」

 僕の降車駅に電車がゆるりと侵入し、思い出したように僕らは互いの顔を見合わせる。ここから先は予定調和だ。
 伝える言葉と受け取る言葉は決められている。
 必要なものは揃っていた。

「ありがとう」

「ん、それじゃあな」

 手首ふりふり。彼もふりふり。
 電車の扉が閉ざされる。
 彼を飲み込んだままの車両は、ゆっくりレールの彼方へと消えていく。もったいつけるようにして消えていく。
 いつまでも、そこにいて。
 いつまでも、消えずにいる。
 もう、そんな誰かとの旅路は終点だ。終点なんだ。
 掌の中に納まりつつある電車の後部車両を握り潰すと、僕はそれをズボンのポケットの中にぶっきらぼうに突っ込んだ。仄かな熱を感じた。

「帰ろう」

 温もりが消えぬうちに。
 いつまでもホームで立ち呆けるつもりもなく、宣言通り僕は人気の少ない駅を後にするとまっすぐに帰宅する。いつもより遅い到着もあって家に帰れば、兄夫婦と母が既にいたのは手痛いものであったが仕方ない。
 その後も僕は変わる世界に抵抗するように着々と己の日常を遂行していった。
 規格より大きめの木刀で素振りをこなし、母親と兄夫婦とで夕食を食べ、風呂に入り歯を磨き、そして巣立つべく僕は眠る。普段よりも意識をしてそれらをこなしたのは、一種の心構えのようなものだった。付け足すなら再確認の意味もあり。
 僕が歩こうとすれば僕は歩くし、僕が喋ろうとすれば僕は喋る。
 僕が空を仰げばそこに空はあるし、僕が歌えば歌は声となって耳に聞こえる。
 見失いかけていた世界と自分を結ぶ線はあまりにも卑近にあるもので、だけどそれだけだった。最初からただそれだけだったのだ。この世界の法則……いや、もう法則性を探すのはやめよう。そんなことには意味がないのだ。
 無数に存在する解を出さなければならない謎の中で、今、一つだけ僕なりの答えが導き出された時だった。

「ここは……」

 白い天井。白い壁。白い床。
 透き通るような空気の中で、僕という不純物が蠢く感触。
 口元の呼吸器を引っぺがし、棺桶型の装置から身体を起こせばそこは「胎児の部屋」だった。

「あ……!」

 妄想と称した世界。その一室。
 立ち上がった直後、一も二もなく僕は目の前の光景に息を吞む。

「どうして……」

 横一列に並べられていた棺桶の蓋が…………一つ残らず開いていた。
 室内に荒らされたような形跡はどこもなく、装置自体にも異常が見られるような箇所はない。汚れの一つも見当たらないとなると……無理やりどこかを破壊されたわけでもないようだ。棺桶は等間隔で横一列に並べられており、僕の棺桶は入り口に最も近い端に位置している。前回と同じ、間違いなく僕が使用していた定位置だ。念のために入り口まで走りプレートに目をやれば、確かに「胎児の部屋」と記されている。
 僕の記憶違いはなかった。
 ここはあの白い砂漠の中の白い施設の中の白い部屋で、僕に割り当てられた部屋である。
 ただ、理屈で納得したわけではない。最終的な決め手はここの清純たる純白だ。

「…………」

 何故、蓋が開いているのか。
 前後に何があったのか。
 ありきたりな疑問が浮かんでは消えていく。
 けれど理解よりも僕は安心を得たかった。
 中に入っているのは誰なのか? 彼か彼女かおじいさんか。そもそも人であるものか。覗き込もうとした瞬間、何かとんでもないものを見てしまいそうな……見てはいけないものを見てしまうような……瞭然としない不安が湧いてくる。もう少し幼稚な想像をしてしまえば、中から槍や拳銃の類が飛び出して自分を打ち抜くような……根拠のない空想をしては躊躇いを見せていた。なんでそんなことを考えていたのかは自分でも分からない。だが見下ろせば簡単に分かるであろう装置の中身は、今も白い闇に包まれているのだ。
 高鳴る胸の鼓動を抑えながら、僕は棺桶の中身を一つずつ確認していく。装置の脇に立ち、亀のように首だけ伸ばしては無意味に両手に力を込める。動作一つが遅いこともそうだがぎこちないことこの上ない。油を差し忘れた安物ロボットみたいだ。
 
 アコーシー・アルド
 インストールプログラム『ドラグーンハーツ』

 セロ・ジルンフェイド
 インストールプログラム『ブラッドフィーリング』

 シーナ・ウエット
 インストールプログラム『無窮の鞘』

 ティティ・ブラウンド
 インストールプログラム『ノベルズストーリー』

 クーネ・エムルイ
 インストールプログラム『永久の唄』
 
「これは……」

 僕の憂慮に反して、棺桶の中には何もなかった。……いずれもだ。
 拍子抜けする一方で、安堵の息をつく自分もいる。
 もとより「棺桶型の装置の中には何かがある」という前提は、他でもない自分自身が生み出したものであり決められていたわけではない。僕の知らない装置の用途が他にあるかもしれないし、蓋の開閉は人の手によるものと断じることも出来ないのだ。が、それでも僕は……どうにも腑に落ちなかった。

「むー」

 首を捻り自分の入っていた棺桶と、その他の棺桶を見比べてみる。外観上の違いはない……と思う。どの装置もコピー機でそっくりそのまま型を取ったが如く、大きさから幅まで寸分違わず同じように見える。黒字で書かれた部分を消してしまえば、それこそ個々の違いなど分からなくなるだろう。部分的に見れば数ミリ単位での微差等はあるのかもしれないが、それが蓋の開いた装置の謎に繋がるとは思えない。やはり中に入っていた人間が僕と同じように覚醒し、どこかへ行ったと考えるのが妥当な線か……それとも……

「……装置……開かれた蓋…………故障……人為的なもの…………人工端末……光回線……白の掌握…………光あれ…………清き足音……唯物地獄…………人間定理…………全体の個人……個人の全体……幸福力学……深淵社会…………名無しの終わり………………見えない胎児」

 時に泳ぎ。
 時に流され。
 時に沈む。
 そうして僕は暫し思考の海を漂っていたのだが、まもなく胎児の部屋を抜け出すと横に伸びた廊下を左へ曲がった。目指す先は言うまでもなくこの施設の外である。
 歩いている最中に、再びこの世界についての記憶が甦るかもしれない。ひいては、棺桶から抜け出した者がいれば運よく見つけられるかもしれないと……月並みな結論を下してのことだった。砂と同じ色の岩しか転がっていない白の砂漠を眺めもすれば、人影とおぼしきものも見つけるのはそう苦ではなさそうだ。移動するにしても遠くまで出向くことは難しいだろう。この建物の周辺を軽く回ってみるだけでも、案外すぐに誰かが見つかるかもしれない――――難しく考えようとは思わなかった。
 いくつかの階段を上り、道なりに通路を進めばお目当ての扉は見えてくる。

 白い扉を開け放てば、白い空間は当たり前のように広がっていた。

「白、か」

 もし「透明」に色を付けたら、こんな具合になるのではないか。
 空一面を彩る青に調和するように、白妙の砂漠は彼方まで続いては伸びている。後ろは先程まで僕がいた白い施設。淡い風が僕の頬を撫でるように一つ吹いては、誘うように砂漠と空の境界線へと消えていく。
 ……あの砂漠の向こうには何があるのかな。
 ……あの雲の先には何があるのかな。
 脈絡もなくそんなことを考えていた自分に、僕は笑ってしまった。そんなことを決めるのは他ならぬ自分自身だ。風の吹くまま、気の向くままに。思い巡らせればそれでいい。
 少しだけ軽くなった気持ちに導かれるように、僕の足取りは施設の周囲を時計回りに散策するものへと変わる。白い砂漠も白い岩場も、景色自体に変化が表れるわけではない。だけど僕は気配や物陰に注意を払い、建物の外壁を沿って静かに歩いていく。

「誰か……いないのか」

 空間と時間を行きつくところまで清浄し、その果てに残された……あるいは形成されたような、一つの世界。僕と同じような異物がいれば、嫌でも目に付くことだろう。
 会ってみたところで何を話すかなんて分からない。
 同じ人間なのかも分からない。
 だけど言うべき言葉は決まっているのだ。

「久し振り」

 足を止めたのは施設を半周ほどした時である。
 無数のひび割れと共に欠けた純白。
 その隙間から覗く血のような黒。
 施設の壁に刻まれた複数の傷跡に……僕は軽い会釈をする。言葉を出してみたのは、棺桶の者たちを見つけた際に呼びかける予行演習みたいなものだった。
 ではどうしてその第一声が「久し振り」になったかというと、実はそれなりの理由があったりする。「おはよう」か「こんにちは」とするにはこの世界の時間はいまいち曖昧で、「すみません」や「初めまして」なんて言うような間柄とも思えない。何せ同じ胎児の部屋で眠りにつき、棺桶を見れば名前まで分かるのだ。ここでの僕の記憶が頼りない以上、初対面とも言い切れない。何よりそういう理屈を抜きにしても、僕は彼らとは浅からぬ間柄であった……気がする。
 結果、その他諸々の意見を戦わせた掛け声は「久し振り」にまとまったというわけだ。視線を走らせる退屈潰しに始めた議論も、役目を終えれば痕跡も残さず遺失した。

「懐かしいなあ」

 壁に走るひび割れの一部に触れ、僕は耳を澄ませてみる。
 そうしていると聞こえてきたのは、かつての僕の不安と惑いと焦燥感。
 そんなに昔のことではないのだが、今となっては遠い遠い過去の記憶に思えてくるから……

「不思議なものさ」

 言って、僕は過去の僕を見つめた。必死に「黒」を埋めようと真っ白な砂をかけ続ける僕を見つめた。その僕はひょっとすると、今まで僕が僕として歩み続けた数ある選択肢の一つに過ぎないものかもしれなかった。
 戦士の宿命から背いた僕。
 光の言葉を無視し続けてきた僕。
 原初の無を見出さなかった僕。
 終わりの無に向かうこともなかった僕。
 そのどれもが二人といない僕自身で、今日の僕が構成されるに至って消えた幻想めいた代物だ。だけど確かに僕らはそこにいた。

「……ありがとう」

 過去の波音は遠ざかり、代わりに細い風の音が再び耳に入り込む。
 散策を再開した僕は残る半周をじっくりと消化すると、施設の入り口まで舞い戻っていた。
 結局、人影の一つも見つけることはなかったが気持ちはすっきりとしている。入り組んだ道や森の中を眺めていたわけではないのだ。広大な砂漠と施設の壁しかないこの地において、隠れおおせられる場所など初めからありはしない。何か事情でごく限られた岩場に身でも沈めていたか、砂漠の遥か向こうへと行ったのならばそれはそれでお手上げだ。棺桶に眠っていた者達の行動原理も読めない以上は、砂丘を超えていく気にもなれなかった。
 僕は施設の中に入っていくと、元来た道を辿り胎児の部屋へてこてこと進んでいく。途中で誰かとすれ違う、なんていう淡い期待も部屋の前まで来てしまえば霧散した。
 ――――さあ、眠ろう。胎児の如く。
 今の世界に現実感があるだとか、彼や彼女のいた世界が夢のように思えているだとかは関係ない。僕は「明日」を見届けなければいけないし、受け入れなければいけないのだ。彼が、彼女が、おじいさんが、その他大勢の人間が……皆で歩ける最後の道を、僕は共有したかった。
 違わない。最後の道、だ。

「……何だ?」

 そんなことを考えていると、不意に僕の視線が胎児の部屋でなく廊下の先へと集中する。急にその実在感が増したような、奇怪な感想を直覚する。
 この先は道もそう長くなく、行っても途中で施錠された扉が先を封鎖している筈だ。室内に通じる他の入口もない。最初に目覚めた時にそれは確認済みだったではないか。……頭ではそう分かっていた。しかし通路の先から伝わる、明らかに違う空気に意思が吸い寄せられていく。
 見落としたところがあるのかも――――目が離せない理由を適当にでっち上げれば、たたらを踏む必要もなくなった。我ながら安い足だ。僕は部屋を素通りし廊下を直進する。気付けば足取りは慎重なものになっていく。足音も比例して小さくなり、控えめな反響を鼓膜に伝える。
 角に差し掛かり、曲がる。
 僕は怯んだ。

「なっ……!」

 曲がればぶち当たる筈の扉が、ない。正確にはダイアル式のロックが解除され、分厚い扉がのっそりと口を開けていた。

「誰が……いや、そんなことより」

 恐ろしいとは思わなかった。
 代わりに確信めいたものを感じた。
 扉より一歩先に出た途端、僕は巨大な生物の体内に足を踏み入れてしまったのではと緊張を張り巡らせる。隆起した男根のように天井と床が脈を打つ。白い壁が黒く染まり、体液が滲み出る……そして僕は歩くうちに溶けて消えてしまうのだ。白と一つになって……。

「それでも……進まない理由は無い。無いんだ」

 己を奮い立たせ、僕は歩き続ける。歩き続ける。
 歩き続けて、ある扉の前に来た時にはそれなりの気力を消費していた。道が長いわけでも分岐があったわけでもないのだが、意識一つで己の存在を確かめ続けようとした故だ。

「ここを開ければ……あるのか?」

 目の前には扉がある。鈍く光る白い扉が。
 胎児の部屋のそれと比べサイズは少し大きいが、施錠されてるわけでもなさそうな普通の扉だ。おかしなことに僕はこの先に何があるのかも分からないまま、確たる理合いもなくひたすらに通路を歩いてきていた。しかしその行動と僕の中に不一致はない。疑念もない。完全なニュートラルだ。
 そして、この扉を開けることも。

「…………!」

 扉の先には、眩い光が満ちていた。
 目を刺すような痛みはなく、暴力的な輝きとは対極を成す……秩序と慈愛の具現。
 どうしてこんなところに、こんなものがあるのか不思議でしょうがなかった。
 目元が涙でいっぱいになる。透徹した光明が胸を射抜く。
 歪む視界の中には、いつからいたのか光を背にして立つ五人の影がいた。

「君達、は」

 光の中に、彼らはいた。
 アコーシー・アルドが。
 セロ・ジルンフェイドが。
 シーナ・ウエットが。
 ティティ・ブラウンドが。
 クーネ・エムルイが。
 皆が、いた。
 逆光で作られた陰で表情まではよく見えない。
 だけど光を背負う誰もが……笑顔を見せているような気がした。
 僕も負けないように、笑みを浮かべる。

「ありがとう」

 ありがとう。
 感謝の言葉で、別れの言葉。
 僕は光の中に踏み出して行く。
 光と一つになっていく。
 いつしか頬を伝う涙は途切れ、僕は安らかに瞳を閉じていた。


 第九章  解放

 世界滅亡当日。
 僕は一つの夢を見た。
 どこの世界にも属さない、純一無雑な夢である……。


 夜明けの空の最果てに、日の出が少しずつ顔を出す。
 暖かな色の光が世界に影と形を与えてく。緑の敷き詰められた丘を照らす。呱々の声を上げた世界は己が身を露呈する。
 静かな空気とたゆたう風が吹きさす丘で、彼ら彼女らは眠りについていた。円形の丘のなだらかな傾斜に沿ってぐるりと一周するように、それぞれがそれぞれの寝顔を見せて誰もが寝息を立てている。芝生が風に撫でられる、心地よい音が耳を打つ。
 彼が、彼女が、おじいさんが、お地蔵さんが、昴が、ポンが、眠る丘の上。誰も知らない丘の上。僕が楔と称した者達が眠る、安らぎの丘だった。
 あらゆる苦痛や運命から解き放たれ、完全な無となった世界の残骸にそっと寄り添う楔達。それはどことなく既視感を抱く情景であった。
 例えば、放課後の教室に意味もなく残ったいくらかの生徒達。
 例えば、夕日の差し込む電車の中でまどろみを繰り返す乗客達。
 例えば、タワー周辺区域に集い話し合っていた僕達。
 触れたら壊れてしまいそうな、そのくせ今となっては光も闇をも包み込む……儚い記憶のひとかけら。これから来たる未来に重ねてしまえば、途端に砕け散って二度と同じ姿で現れないような……過去の国の住人だ。
 日が昇り始めていた。薄暗い空は徐々に青みを帯び始め、幻想的な彩となって流動する雲にその色を映す。
 境界線は緩く、固く。僕の世界には様々なものが入り混じる。
 やがて完全に日が昇った時。彼ら彼女らを柔らかな光が照り付ける。そこには暴力もなければ血飛沫もなく、愛もなければ平和もない。ただただ原始という名の寂しさと優しさが、丘の上で眠りにつく全ての者を包み込む。労うでもなく、責めるわけでもなく、そこにあるもの。

 丘の上は暫しの間、始まりを告げる光を享受した。


「……行かなくちゃ」

 何てことのない朝。
 僕は起き上がると予め用意していた衣服に着替え、洗面台の前に立つ。イチゴ味の歯磨き粉を取り出してブラシの先端に塗りたくる。口の中にそれを突っ込む。もごもごさせる。お湯で口をゆすぎぺっぺする。水でゆすぐと歯磨き粉の味がいつまでも口内に残ってしまい、どうにも洗い流せた気がしないのだ。だから僕はお湯を使う。ちょっとした贅沢ってやつかな。
 じわじわと覚醒していく脳髄を僕は指先でつつきつつ、一階へと移動する。二枚重ねのカーテンで仕切られていたリビングは、朝方だというのに薄暗い。いつからつけられていたのか、台所の換気扇が愚痴一つ垂れることなく回っている。シンクの横には出しっぱなしのグレープジュースが、口を開けて僕の喉に訴えかけていた。貴方と一つになりたいです……と。僕も同じ気持ちだったので、あまり味は好きではないが残りを一気に飲み干していく。むせてしまい、反射的に空となった紙パックをゴミ箱に叩きつける。口直しに冷蔵庫を開けて不気味な色のジュースを直に飲めば、いくらか気分も落ち着いた。
 
「起きていたのね」

 ついでに、階段から降りてくる母と目が合った。

「……おはようございます」

 どうにも調子っぱずれな登場に、僕は咄嗟にひり出した一言を返す。
 今起きたばかりなのか、単に自分の部屋から出ていなかっただけなのか。寝間着でなく普段着の姿でいるのを見ると、後者なのかもしれない……。未だに尾を引くグレープジュースの味を舌の上で転がしながら、僕はそんなことを考える。
 片や台所の電気をつけた母は、僕の行動をなぞるように冷蔵庫を開けると中から麦茶を取り出した。市販でどこにでも売っている、パックを水に浸して作るタイプの奴だ。
 湯呑にそれを注ぐ動きが、とてもスローなものに感じられる。

「朝ご飯は? 昨日のカレーだけど」

「いりません。大丈夫です」

 換気扇のファンがいつもより大きく耳に響く。
 時間が錆び付き、滞る。

「この頃、休日は朝ご飯を食べなくなったわね。美容のため? ダイエットでもしているの?」

「…………」

 明かりと呼べるもの全てが、瞼の裏側に突き刺さる。
 あらゆる色素が抜け落ちては、無色の一歩手前まで朽ちていく。

「昴……そういえば、お母さんが買ってあげたスカートとかお洋服は着ているの?」

「母さん……」

「せっかく買っても着ないんじゃ意味がないじゃない。色も似あっていると思うし」

「母さん」

「貴方もたまには女の子らしい格好をしなさいな。それに今日は特別な日なんだから……」

「母さん!」

 そうして最後に、僕の中に閃光が走った。
 それは作られたものでなく、自身の一番深いところから湧き上がるような閃きであった。

「菱本(ひしもと) 昴(すばる)はこの世界に存在しない。いないんだ! 彼女は夢の世界の住人で、ここに現れることは最後までなかったから。……それが今の現実なんだ」

「……昴?」

「たとえ無数の未来が存在しようと選ばれなかった他の未来は崩れ落ち、底無しの深海へと落ちていく。後になって甦るなんてことはない。仕切り直しも利かない」

「? ねえ、どうしたっていうのよ」

 昴は最後に、また会えればいいねと言っていた。
 それが夢の世界に立つ者としてどこまでを把握した発言で、気休め程度の意味合いから壮大な伏線を残すに至るまでの役目があったかは分からない。だけどもはや僕は何かに怯える必要も、迷うこともないのだ。僕が僕である以上そこには何のこじつけも後付けの設定も意味を成さず、機械的ともとれるほど個人の終幕はやって来る。

「僕達が辿ったこの瞬間に、昴が現れることはない。出会う機会もまた永遠に消え失せる。誰が決めたわけでも強制したわけでもない、変わることのない真実だ。幻影は幻影のままなんだ」

「何を言っているの? 昴、本当にどうかしちゃったの?」

 考えるな。
 感じるな。
 ――――光の言葉。
 ――――電波光源。
 ――――戦士の宿命。

「もうその名前で僕を呼ぶな! それが僕の為であり……貴方の為でもあるのだから」

「すば、る…………」

 始まりと言うべき点をどこに定めていいかは知る由もない。
 けれど、終わりはいつだって「光」だった。
 奔流する藍色の霧がそうであったように。
 鈍く輝く扉の先がそうであったように。

「僕は……終わりの無を目指す。だから最後にこの言葉を残すよ…………ありがとう」

 機は熟しきっていた。
 言葉を失う母の脇をすり抜けて、僕は玄関まで歩いてゆくと靴を履く。残る靴数から察するに、兄夫婦は既に旅立っていたらしい。今は放心しているが、母もじきに旅立つことだろう。
 全ての準備は整った。心残りの味噌っかすもありはしない。恐れることはないのだ。動き出せば、僕には約束された最終章が書き記されている。つまずきながらも転びながらも、歩き続けた先には光が僕を待っている。それは今や未知のベールに包まれた脅威でもなければ、御することの出来ない魔獣でもない。定められた域を出ない、ただの光なのだ。
 僕を最後まで僕として完結させるために。
 この世界を見届けるために。
 今、僕は行く。
 ドアを開けて、行く。


「……風が強いな」

 本当に今日が「その日」なのかと疑ってしまうほど、世界は可もなく不可もなく。晴れ空の下ではすっかり見慣れた町並みが僕を出迎えてくれていた。亀裂の入ったアスファルト、剝がれかけた道路の白線、何も植えられていないアパートの花壇……。高校生活で繰り返す登下校の中で、僕の目についていたもの。気にかけていたもの。それらをはじめとする景色風景情景に、常軌を逸した片影は見えやしない。……しかし代わりに、人影を筆頭とする動く物体も見当たらなかった。車やバイクの音に類する生活音も聞こえない。虫や鳥の鳴き声でさえも同上だ。大通りに面するバス停に着いてからも、それは変わらないのである。どうやら通行量や道幅の大小に関係なく、黙する空気は何処までも広がっているようだ。以降もベンチに座り続けていたのだが、やっぱりバスは来なかった。
 やむなく僕は徒歩で駅前へと向かう羽目になるのだが、その間にも動的な存在は猫の子一匹横切らない。車道を走る乗り物や、飛行機等も見かけない。足音とはこんなに大きなものであったのか。天気の良い町中の森閑とした様相は、妙なちぐはぐさと居心地の悪さを両立させて僕の五感を震わせる。――――ああ、そうか。風が強いのではなく、風の音しか聞こえてこないのだ。
 要した時間はおよそ二十分程だろうか。信号機も何もかもを無視し続け歩いてこられたおかげで、すんなりと僕は駅前広場までやって来ていた。速やかに構内へ入るのだが、果然として利用客や駅員は煙のように消えている。誰もいない改札口を超えてホームに行くも、電車の一つすら停めていない。まあ、予想は出来ていたのだが……また長い道中を踏破することを想定し、僕はすきっ腹に少しでも物を詰めていこうと無人の売店へ立ち寄った。

「四百……五百二十円か」

 いくらと鮭のおにぎり二つに海苔巻きを合わせ、締めにアドレナリンパンを一つ買う。鞄やリュックは用意していないのでレジ袋も忘れずに。お釣りが出ないように合計金額ぴったりのお金を机に置くと、僕はホームを飛び出し線路の上に躍り出た。
 小石の敷き詰められたレールの上を、審議へ続く橋と見なし僕は渡っていく。鮭のおにぎりを頬張りながら、前へ前へ進むことに専念していく。二つ目の駅に着いたところで、袋を漁り今度はいくらのおにぎりを口の中に放り込む。歩き続ける上でがらんどうとなった各駅は、トイレ休憩や食品購入に欠かせない中継地点のようなものだった。元来駅とはそういうものであるのだが、何せ徒歩で移動していると余計にそのありがたみが身に染みる。新たに買った緑茶をラッパ飲みしていると、初夏の風が前髪めくり額をくすぐるのが清々しい。
 緩やかに角度を増し始めていた線路の向こうは、何処までも続いているような気がした。
 本気で天国や地獄に繋がっていても構わないと僕は思う。申し開きも関係ない。どうしてあらゆる命に限りがあると言えるのか、全ての人類に啓蒙してやりたい気分だった。揺るぎない己の充足感と目的意識は、自分の中で回収されつつある。僕を始点として動き出した物事が、歩き続ける僕として今ここに在るように。世界に仕掛けられた物事がどこを巡り辿ろうと、僕は足を動かせればそれでよかったのだ。
 なおも上り坂に従い足腰を懸命に働かせていると、ややあって再びレールは平坦になる。何本もの支柱に固定された、地上からそれなりの高度がある路線の上。敷石と枕木ばかりに視線を落としていた僕は、そこで初めて面を上げた。
 面を上げて、すぐに気が付いた。
 頭の中のどこかが麻痺したような気すらする。
 右を見て、左を見て。最後に少しだけ青くなった空へ口を開くと僕はひとりごちるのだ。

「これが……審判」

 地表を見渡せば、無数の電波光源がいたるところに出現していた。

 テレビの中で散々見たドーム事件を厭味ったらしく再現するように、半円状の光はまばらにそこかしこへ咲き誇っている。色は白。形状は一律だが大きさは一定ではない。いつからそこにあったのか、一体いくつあるというのか。答える人間は誰もいない。
 無責任なネットの書き込みやしつこい特集番組の論説が、こんな時に脳裏をかすめた。
 ――――あの光の玉はまさしく影の預言者○○が残し伝えていたそれであり、いくつかの重要なキーワードとも合致している。いい加減に認めなさい。あれが自然現象で巻き起こる代物か。いいやこれこそ地球を汚染し続けてきた人間への、大自然がもたらす怒りである。慢性と続く争いを止めぬ人々に向けた、星の宇宙の自浄作用である。オカルトに傾倒する奴らはまたそれだ。ここだけの話、あの光源は某国の特殊兵器が暴走した前触れに過ぎないらしいぞ。この前の人工地震説とも確証のとれるものであり、ほぼ間違いはないっぽい。核武装反対を唱える馬鹿が、ここぞとばかりに現れやがんだ。速報「【見えない戦争】は十数年前から始まっていた!? ~光球の裏側に隠れているもの~」時間を繰り上げてお送りします。
 走った。
 狂ったように走らずにはいられなかった。
 かつてないほどの解放感だった。
 今まで自分にこびりついていたありとあらゆる泥が、汚れが、パラパラと落ちては消えていくようであった。比類なき万能感が全身に満ち満ちていき、瞳がぐっと熱くなる。叩きつけるような足取りで、強く強く地を踏み出していく。ここに至れば僕は境目に立つ存在なのではない。屋上の給水塔から飛び降り、あるいは飛び立ち、確たる己の世界を手に入れることが出来たのだ。
 古い自分を置き去りにするようにして、僕は走り続ける。
 走りすぎて魂が心臓と一緒に飛び出していくのではと心配になるほど、走り続ける。噴き出す汗と鼓動の音が煩わしい。苦しくて情けない声が口の端から漏れていく。少しでも速度を緩めればかつての自分が追い付いて、再び重なってしまいそうだった。だけど僕が肉の身体を持つ以上、どうやっても体力の限界は無視できない。背後からは似たような息遣いと地を蹴る音が近付いてくる。歩幅が小さくなれば僕が来る。距離が縮まる。そんな時、乾いた唇が紡ぎ出していたものは、

「ありがとう」

 たったそれだけだった。
 それだけのことでかつての自分は失速し、腕を大きく振っていた駆け足からてこてこ歩きへと移行する。
 足音一つ分の音しか聞こえなくなった時点で、僕は息を整えながら身体ごと振り返る。
 振り返れば、もはや古の僕は歩いてすらいなかった。
 ばつが悪そうに突っ立って、困ったように眉を寄せて、腰には手を当てていて。
 そして苦笑しながら、

「君のこと、きっと今は誰よりも知っているよ。だから――――」

 気が済むまで走ってみなよ。

「……は」

 言わせてしまった、と思った。
 言われるまでもない、とも思った。
 残すべき「ありがとう」はもうここにない。僕は最後の最後に、忘れちゃいけない相手にそれを伝えることが出来たから。決定的な更新を迎えることが出来たから。だから前に進むんだ。
 じっとしてなんかいられない。僕は駆け出し指先へ募る熱をオールに見立て、孤独の大海を泳いでいく。羅針盤は必要ない。地図だって必要ない。誰もいない航路は時に不安を煽り僕に選択の正しさを問いかけてくるのだが、所詮それはちゃちなものなのだ。なんたって今の僕は過去の僕のお墨付きだ。集中しろ。意思を乱すな。無我夢中になってみろ。己の中の全てを振り絞り、「光」に辿り着いて見せろ。

「ああああああああああ!」

 気付いた時には、僕はレールの上を泳ぎ切っていた。
 目当ての駅に着きホームへよじ登れば、次は陸路だ。残った緑茶と半分かじったアドレナリンパンを口の中に流し込み、レジ袋をゴミ箱に捨て僕は風を切る。駅前のファミリーレストランを横切り、街路を抜け、進入禁止のテープをくぐり、終わりの無の領域へ突入していく。ここまで来ると時の止まった住宅の合間から、白を発する電波光源がチラチラと見えていた。そしてその半円状の光を中から突き破るようにして、赤の電波塔が半分ほど顔を出している。
 疲労からか軸の安定しない精神に、喝を入れて僕はラストスパートをかけていった。走れ、走れ。駄目そうならせめて歩け。気持ち早歩きで歩け。あと少しだ、少しなんだぞ。審判の時は訪れた。夢も妄想も現実もありはない。止まることのない終わりはもうすぐそこだ。そしてそこからまた新たな僕が始まるのだ。物語が始まるのだ――――途中から何を言っていたのかは自分でも分からない。なに言ってんだこいつ、とさえ思っていた部分もある。ただ、強がりでも意味のない言葉でも、重ねて足が動いてくれるのならそれでよかった。

「光……だ」

 気道を正すべく大きく鼻で息を吸い、適当な呟きを二、三と落とす。
 つんのめるようにもたつくつま先を交互に出して、出鱈目な足付きでアスファルトと荒れ地の境目を踏みつける。


※途中までの投稿で、ここまでとなります。

見えない胎児 ©四面楚歌

執筆の狙い

自分の書きたいものを思うがままに書いてみた作品です。
いくつかの改善点を重ね、背景もある一部分を少しだけ強調してみた改稿作です。

途中までの投稿となっていますが、気が向いたらお目通しいただければ幸いです。

四面楚歌

114.145.121.31

感想と意見

四月

自分が酔っていては、相手を酔わせることはできないよ。
内容も文章も客体。これ、基本です。
純文であれ、エンタメであれ作家はここに一番重きを置いています。
飾らず素直にストレートに書いてみよう。
飾ろうとするから意味が曖昧になる。
相手に伝わらなければ意味がないでしょう。
己の中で何らかの答えを得ていない事は書いちゃ駄目です。
それにしても文章が下手、脈絡がない。

2017-04-03 19:26

126.28.169.223

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です(テクニカルサポート)。

:
:
:
3,000字以内