作家でごはん!伝言板

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私は

匿名貴坊

トマスマンとロレンスの作品が好きです。

匿名貴坊

でた!五月の自分から当てに行く反撃

none

ん? 書いといて意味わからんな。えーつまり喩えると、服の下に剣山仕込んで街中でタックルするかの様な……あかんナシで。
それはそうと、アフリカさんよ、
もうかなり埋もれてるけどその掌編? #しらないひと
憎しみが先走って、ほとんど妄想で構築してるじゃないか。
そんな行為を作品の形にし始めたら、おまえの場合、終わるぞー
嫌味や悪態は文学「臭」とは愛称いいけど臭止まりになるぞ。五月やでしょみたいに。
馴れ合いも必ずしも悪い事じゃないが、おまえは少なくとももう一段上に行けるだろ。
「匿名の匿名」論も、そろそろ自分で恥ずかしー!なってると思って突っ込まないでおいてやったのに。頭冷やせ。
先ずはその、名無し野郎にお前なんていわれる筋合いねーんだよっ っていう気持ちをデリートしてみ

none

それはさて置いて

五月公英

反応してくださった皆様、ありがとうございました。
このあたりで、ご容赦を。

それはさておき、
以前グダグダになってしまったので、改めまして……。

聞くところによると、<小説家は登場人物のスタイリストも務めなければならないから大変>なのだそうです。
ところが……服装は、スマホやSNSと並ぶ、あるいはそれ以上に時代をうつす重要なファクターなのに、小説の書き方的なサイトに解説がない、ない、具体的なことがどこにも書かれていない。
不思議です。


プロの作品を含め、たまに見かけるファッションアイテムのイタイ記述に、トレーナーやジーパンがあります。

トレーナー → スウェットシャツ
ジーパン → ジーンズ、デニム

この変換は容易いのですが……
ジャンパー → これが悩む。普段使わない言葉だし、アウターだとアバウト過ぎるし。 スウィングトップ? ブルゾン?
(コーデのバランスを考慮したうえで)M65風でオリーブのミリタリージャケット、グレーのスウェットパンツ、白いレギュラーカラーシャツ等、今の言葉で具体的に記したほうがイメージしやすいと思うのですが、いかがでしょう? 

一人称の場合、キャラの年齢や性別、趣味、生活習慣によっても、リュック → バックパック、ベスト → ジレ等、各アイテムの呼び方が違ってきます。
また、二年前まではスキニーパンツがメインボトムだったのに去年の春頃から極端にワイド化したりと、シルエットじたいがガラッと変わることもあるから、ボンヤリしていると恥をかいたりします。
メイクやヘアスタイルについても同様。

で、いままで無関心だった人はご注意を。
ファッションサイトや雑誌の記事を読み込むのはいいのですが、<基本は教えずに流行を追わせる>といったアパレル業界の戦略を知らずにステマ記事を鵜呑みにしてイタイことに……といった例もあるので。(例えば、大学デビューしたての勘違い男子みたいな)

ちなみに、上記の重要性を認識していない人にこの件をふると逆恨みされかねません。重ね重ねご注意を。

五月公英

コミュ障の恋

匿名貴坊

ある片思いの記憶が私の頭の中にこびりついていて、
日々苦しめる。
それも執着なんだろうか。
その片思いについて何ら行動に移せなかった自分を責める声がして、
私はノイローゼ寸前になっていた。
しかし、相手は私を警戒したり迷惑がっている様子だったし。
脈がないなと思わせるような感じだった。
たまにからかうような感じなんだけど、落とし穴を用意していて自分をそこに落として面白がっているんじゃないかという気がして。
被害妄想なのだろうか?
私の最大の弱点はコミュニケーション能力の欠如だった。
まずたいていの場合会話が続かない。
沈黙を恐れてよけい何も言えなくなるタイプなんだ。
その時点で人を好きになる資格がなかった。
だが、好きになってしまった。
しかし、孤独を感じるほど思いがつのり、思いがつのるほど孤独が深まった。
相手は私の感情に気付いているのか、さりげなく私の前に現れた。
しかし、最初から実らない恋だということを思い知らされるだけだった。
野良猫にいたぶられるネズミのような気分だった。
だいたいそういう場合はいたぶられたあげく最後には殺されるんだろう?
そう考えると、死ぬまでその遊びに付き合っているわけにもいかなかったし。
やはりこういう幻影のようなものは、
深入りする前に自分から身を引くべきなんだろうか。

匿名貴坊

そうげんさんへ

匿名貴坊

愛には罠がひそんでいるから、
こわいから、
私は愛には近寄らず、
文学とサブカルチャーだけにしがみついて生きて行こうと思う。
でも、それを貫こうとすると、邪魔が入る気がする。
誰かを好きになったり愛し合ったりするのが当然とでも言うかのごとく、
私にもそうさせようとする圧力がかかりそうで怖い。
一言でいえば放っておいてほしいってことなんだけど、
世の中の人って、他人が誰かを好きにならないと許せないっていう人もいるんでしょうか?
たとえば私が別に好きな人いないって言うと、
何とかして好きになれる相手を見つけなければいけないみたいな圧力みたいなのをかけてくる感じがします。
そういうのって何かすごく怖いんです。
別に一人でいたい時期が長く続いたってそんなの私の勝手じゃないでしょうか?
人の生き方に干渉したり圧力かけてくる人々が怖いです。

匿名貴坊

匿名さんへ

そうげん

恋は罪悪、は、
たぶん、恋は執着で、自身のエゴイズムで、
所有欲で、盲目の状態に陥らせ、冷静さを欠き、
といったことで、自分も相手もどのようになってしまうかわからないところがあるのかとは思います。

ちなみに、たぶん、
愛という言葉から人が受けとる本来の意味合いでの、
仏教的な言葉だと、

たぶん、「慈悲」、
あるいは「大慈大悲」、なんでしょうね。

でも、恋にのみこまれる人生もまた、
ありといえばありなのかな、と。

「良心の呵責」ということば、
自分に言い聞かせるその言葉は、
実はただの偽善ではないかとか、
言い訳じゃないかとか、
でも、作品の人物を通じて、
身につまされるものも多いですね。

そうげん

そうげんさんへ

匿名貴坊

とても分かりやすい解説ありがとうございます。
ご紹介された宗教的な愛は、精神的に救われる愛のような気がしますから実践できれば苦しまないと思います。
だから、先生が陥った恋はそれとは違う気がします。
エゴイズムの愛というのでしょうか。
でも、女を奪って勝ちで終わりにならずに、
そこから苦しみが始まったんですね。
生物界では力づくでメスを奪うものでしょうが、
先生の場合はそこに罪悪感が生まれたんですね。
恋で勝ち組なのにそんな自分を責める自分がいたんでしょうね。
それは高い倫理観から来るものでしょうね。
倫理がなければ苦しまなかったのでしょうね。
これは難しい問題ですね。
先生のように徳の高い人が卑怯なやり方で女をものにして、
しかもずっと友人の死を踏み台にして表面上幸福な日々を送っているという、
こういうのは耐えがたいものがあったのではないかと思うのですが、
それでもそんな生活を長い間続けて来たというのが何かすごい話だなと思いました。
奥さんが何も気付いていないのがせめてもの救いという気がしましたが。
奥さんが幸福に生きくれるなら、友人も浮かばれるでしょうか?
いろいろと考えさせられますね。

匿名貴坊

野良猫さんへ

とても分かりやすい解説ありがとうございます。

文学って深いですね。

恋って人間の人生をすり減らすような気がします。
人それぞれですが、私は恋よりもサブカルチャーに没頭していたいです。

匿名貴坊さんへ

そうげん

愛とか、欲とか、
「愛」について、キリスト教と仏教では捉え方がちがうとか、
「愛」という言葉で包みながら、その中身は、表向きの言葉の意味とは
ほとどおいどろどろのものがあったりする。

まあ、人類愛、とか、隣人愛という意味での
認識であれば、異文化間でも、同じ土俵で語りあえる気はします。

「草枕」などを読んでも、夏目漱石のなかには多くの漢籍の知識もあったし、
当然、「愛欲」にうながされての「恋愛」感情というものもあったと思います。






大谷大学Webサイトより
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000kl9.html

「愛に二種あり。一は餓鬼愛、二は法愛なり。」
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』

 現代日本語の「愛」という言葉には、自分の好きなものをかわいがることや、「人間愛」「地球愛」などのような抽象的な意味、「愛欲」や「愛執」などのように人間の強い欲望を表わす場合など、様々な意味があります。では経典には「愛」はどのように説かれているのでしょうか。
 冒頭の言葉は、『涅槃経』の中で仏の法愛を説く一文です。仏教用語で「愛」と言う場合は、先に述べた「愛欲」「愛執」といった意味です。つまり様々な物事に対する強い欲望を表わしています。従って『涅槃経』は、仏にも強い願い・欲求があると説いている事になります。これは一体どのような意味なのでしょうか。
 私たちの欲望は、実現すれば更にその上を望むという具合に決して終わる事がありません。手に入れても手に入れても別のものを欲しがるというのが私たちの欲望の中身なのです。常に飢渇(きかつ)に悩むものを仏教語で「餓鬼」と言いますが、まさしく常に不足感に悩まされ続ける私たちを表わす言葉と言うことができます。それゆえ、冒頭の文章の「餓鬼愛」とは、常に欲望に悩まされる私たちを表わすものということになります。      
 私たちの欲望に際限がないのは一体なぜでしょうか。それは、真実に手に入れるべきものが何であるかを私たち自身がよくわかっていないからです。そのために常に他人と比較して不足を感じるのです。それ故、私たちの欲望の解決は、新たなものを手に入れることではなくて、「足るを知る」ことにあると言えます。
 それ故、『涅槃経』は冒頭の文章の後に「餓鬼愛を離れ、衆生を憐憫(れんみん)するがゆえに法愛あり」と述べて、仏には人々を救済するという強い欲求があると言うのです。この欲求は、私たちの「餓鬼愛」とは異なる性質のものなのでそれを「法愛」と言っています。つまり、手に入れても手に入れても満足できない欲望に多くの人々が悩まされている現実に対して、その真の解決を示して人間に本当の満足を教えたいという欲求が仏の大悲のはたらきであり、それを「法愛」と言うのです。




あと、

「妙法蓮華経譬喩品」の一節にもこうあります。
『汝等は楽って、三界の火宅に住することを得る莫れ。麁弊の色・声・香・味・触を貪ること勿れ。若し貪著して愛を生ぜば、則ち焼かるる所とならん』。

いまはもっと別のことばでうまく説明している方もいらっしゃいますし、いちおう、これを提出しておきますね。

そうげん

と、いうわけさ

野良猫

ここは、並みのウデじゃあ生き残れないんだよ、17さん。

それから、卵さんよ。
>夏目漱石のこころのセリフに確か、恋は罪悪ですよっていうのがあったと思います。
 これについて正しい解釈が出来る人いらっしゃいますか?

人っいうのは、愛する者のためならなりふり構わず、どんな罪でも犯してしまう。そういう意味なんじゃないのかね?
オレも文学には疎いんでね。これが正解かどうか知らんが、たぶんそんなところなんじゃないのかな。

野良猫