作家でごはん!伝言板

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あなたの見解を聞きたいわけではなど、まあポリシーを持つことは大切なことではあると思います。

匿名希望者

>>つまり、非現実の世界について随筆してもいいんじゃないでしょうか。
書くのは勝手ですが、随筆とは言いません。野球をするとは言いますが、随筆するとは言いません。小説をするといいますか? まあ、誤字ですよね?

>>小説とはつまり、現実世界から独立した世界であるということなのではないでしょうか。
>>小説にはフィクションとノンフィクションがあると思います。

理屈が合いませんが、どのような解釈でしょうか?

私小説(ししょうせつ、わたくししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある。日本における自然主義文学は、私小説として展開された。
経験したことは事実でも、その時の本人の心情まで正確に書かれているとかは疑問。そももそ人の心は秋の空。それに作者は、小説の主人公を凌駕しなければならない。読者がいるので客観的にみる工程を経なければならない。
ノンフィクション小説というジャンルを私は知らない。参考のためにソースをお願いします。
>>日記は小説に同化しても許されるのに、エッセイは同化してはいけないのでしょうか。
これもソースをお願います。
ジャンルの枠組みの議論でしょうか?それならエッセイが日記形式なら、日記でいいじゃないですか。毎日書けば日記になる。
引退したプロ野球が自分のプロ野球人生について、何月何日巨人戦の出来事、何月何日阪神戦の出来事と書けば、立派な日記式のエッセイになるでしょう。プロ野球選手という本人の魅力があるから、読者も興味を持ってくれる。
無名の一市民が朝起きて仕事をして酒飲んで帰る日記なんて誰も興味を持たないと思います。

小説はキャラクターを書く。エッセイはある事柄を書く。エッセイの作者の主張というのは現時点であり、過去は関係ないと思います。場合によっては変わってしまう。

自分は事故に遭い、天国に行って生活してから生き返った。と小説で書けばフィクションだとわかるけど、ノンフィクションだといえば、オカルト信者かと読者は思うし、素直な読者なら自殺を試みるかもしれない。

あなたの書いたものが面白ければ、小説だろうが、エッセイだろうが読者は読む。カテゴリーは読者が決めてくれる。それでいいのではないでしょうか。それとも小説をエッセイとして売った方が金儲けになるとの主張ですか?

桜桃『太宰治』を読んでください。そしてあなたの感想をここへ書いてください。あなたの力量を知りたいし、他の人にもわかると思います。
それと、日記形式の小説なら『アルジャーノンに花束を』を読んでください。日記です。そもそも日記とは他人に読まれることを想定してないものです。

匿名希望者

小説とエッセイの違いについて私の見解

小説を書きたがっている者

日記形式の小説はありますよね?
エッセイ形式の小説というものがあってもいいのではないでしょうか?
日記は小説に同化しても許されるのに、エッセイは同化してはいけないのでしょうか。
つまり、日記の小説化というのは、日記が現実を題材としたものでありながら、現実とは別個の一つの独立した、現実と切り離された世界になった時のことを言うのではないかと思うのです。
小説とはつまり、現実世界から独立した世界であるということなのではないでしょうか。
しかしエッセイは現実の作者の口から出た生の言葉感が強いから、結局現実世界に生きている人があれこれ思ったことを表現しているっていう感じになってしまって、
それが、現実から乖離した独立したワールドな感じがないから、小説じゃないだろって言われるんじゃないでしょうか。
小説は現実から独立した世界であってこそ物理法則に支配された現実世界の力関係に対抗する力や意味を持ち得るのに、
エッセイは現実世界の一部のままなのであり、それは現実の力関係の支配下にあるということなのだ。
小説は現実のしもべであってはいけないのだ。
小説はもう一つの現実であって、現実に対抗する精神の剣なのだろう。
哲学やエッセイが小説になるためには、自律性を持った世界にならなければならない。
しかし哲学は現実の事柄が研究対象だし、エッセイも日常生活や日常的な事柄が対象だ。
たとえば、現実の事柄についてあれこれ自分の人間的な思いを述べればエッセイである。
しかし、非現実の政治や政治家についてあれこれ述べれば、そこは一歩小説に近づく。
それはなぜかというと、そのエッセイが非現実という独自の世界を生み出したことで、既存の現実に対して自律性を持ったからだ。
未来の政治とそれを担うロボット政治家についてあれこれ私が思うところについて述べれば、それは作り上げられたもう一つの現実を描いているという点で小説として認めてもらえるかもしれない。
そんな気がする。

>匿名希望者様

小説にはフィクションとノンフィクションがあると思います。
エッセイにも両方あってもいいのではないでしょうか?
つまり、非現実の世界について随筆してもいいんじゃないでしょうか。
しかし、対象が非現実であっても、作者がそのことについて思っている、まさにその思っていること自体は現実に存在しているわけで。

小説を書きたがっている者

だから~! 釣られちゃうんだってばさ! 眠い!

アフリカ

商品として世に出ているものに、ましてや良く売れているものに括りをつけたがるのは自分がそれを良い!と感じられない人です。
だから、括りを決めて安心したい。

それなら、売れてる商品に括りをワザワザ設ける必要はない!
正解だと、思います。

それでも。小説を書きたいと考えてる人がエッセイとしか読めないものを書くのは少し違う気もします。だって、書きたいと考えてるものと違うものを書いてるワケでしょ?
 多くの人がエッセイだと思えば、それはエッセイなのではないのか? と思います。

 そこは、そっか……

書き方。変えなきゃな~と、なるべきかな?

ただ……
それがエッセイであっても、小説であっても。
書きたい衝動があって、書いてるのであれば。
無駄にはなっていないと思います。

だって‥
好きだからこそ続けることが出来るのだし
好きだからこそ上手くなれる
自分語りが好きなら、その手の書き物を沢山読んで、その中から自分のヤりたいとか書きたい方向性を見付ければ良いのかも知れません。

下にも書いたのですが
僕はぐだぐだと理窟を捏ねたり。理論や御作法に拘るより一文字でも自分の言葉を書き出す(吐き出す)作業の方が大切であるような気がします。

アフリカ

エッセイと小説

匿名希望者

正直、形式とかどうでもいい

小説はフィクション
エッセイはノンフィクション

小説をエッセイだといって売り出すことはうそつき
エッセイを小説だといえば、あなたがよほど変人でない限り面白みはない

匿名希望者

小説と小説以外を厳密に分ける方法などあるのだろうか?

小説を書きたがっている者

アフリカ様、貴重なご意見ありがとうざいます。

ふとこんな場面を思い浮かべました。

誰かがエッセイぽい小説を書いたとします。
ある識者が、これはエッセイであって小説とは認められないと批判します。
ところがこの小説が世間でヒットしたとします。
小説のくくりで販売された上に知名度も上がったので、このエッセイぽい小説の形態も小説として認められた、ということになるでしょうか?
つまり、私が言いたいのは、小説とは何かというのは、そもそも誰が決めるものでもなく、決めたものでもなく、その範囲も未だに曖昧で、
世間の人たちが小説として読んだならそれは小説なのであって、
エッセイか小説かという区別に固執するよりは、エッセイかつ小説という可能性を認めてもいいのではないかということであって、
エッセイと小説を明確に分ける必要も必然性もないのだから、
これはエッセイであって小説ではないのだから小説としての価値を認めないという批判にはあまり意味がないのかもしれないのではないかということです。
つまり、100パーセントエッセイ内容のものを小説として売ったところで、売れてご飯が食べていけるなら別に何の問題もないのではないでしょうか?
エッセイを小説というくくりで売っても、エッセイを詩というくくりで売っても、実際問題として、何の支障も生じないのではないでしょうか?
支障も生じない問題を大きな問題のように扱うこと自体、時間の無駄ではないのでしょうか?
むしろ、小説というくくりで売ればヒットするのに、エッセイだからと言って小説をして売らなかったばっかりにあまりヒットしなかったらそっちの方が大問題ではないでしょうか?
日記形式のものでも小説扱いされる場合もありますよね?
日記形式は小説の仲間になれるけれど、エッセイ形式は小説として認められないという考え方には何かしっくりしない感じを覚えるのですが、どうなんでしょうね。
こういうことを言うのは、よく私の小説にこれはエッセイだから小説を書けというクレームが来るからなんですよね。
でも、私としては別にそんな形式的なことどうでもよくね?
っていつも思うんです。

小説を書きたがっている者

ランキング結果に異議アリ。

五月公英

↓『10代の女子が<整形するならこの顔になりたい!>と思う女性芸能人ランキング』だそうですけど、
理想、願望ですら妥協するとは……謙虚というか、なんというか……玉の小さい女子ばっかだなぁ。

https://www.youtube.com/watch?v=S080sNXBG8U

五月公英

移動中はどうしても釣られる⤵

アフリカ

小説とは……
ウィキでは、小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、随筆、評論、伝記、史書などと対立するものであり、形式としては詩や戯曲と対立するものである。と、出てます。

つまり、それが誰かが造り出す物語の一部であるなら愚痴も悪口も小説の一部だし、小説は人間の吐露する感情に読み手は大きく揺さぶられるのだから書くってことの技術的向上に多少なりでも影響しているのは間違いないのかも知れません。

それと……
読みながら話せる人に、僕は出会ったことが無くて……

だから、読むことと、話す(書く)ことの違いは誰にでもあるのだと思います。

僕は仕事上で良く喋る方だと思うのですが、知人友人と飲んでいるときは完全に聞き役に徹しています。
その方が書く人には良い気がする。喋る時には見えていない状況がバンバン視界に飛び込んでくるし、それを文字化する余裕もある。
ものを良く観る。ものを良く噛む。
この感覚は大切な気がしてます。

テンションなんてストレス(負荷)が高まれば自然に上がります。度のくらい上下するかは個人差があるけど、気にしてたら息も出来ない。

書きたいことがあるなら
ぐだぐだと理屈から入るのではなくて
とにかくキーボードを叩いてみるのが良い

『ポチっとね』

アフリカ

読書してる時のテンションと集団のテンションのずれについて

小説を書こうとしている人

その場を無理に盛り上げようとしたり、明るい雰囲気にしようとする人がいるとして、
その人が一人でそういうことをしてこちらの反応を気にせずに一人でやってくれてる分にはかまわないのですが、
こちらの反応を期待して、その人と同じようにテンション上げないとかえって場がぎくしゃくするとか、
こっちにも責任の一端が生じて来るというそういう面倒臭いことになったりするのってすごく迷惑な気がするんですけど、
特に私のように病的にテンションが低くて、ぐったりしている人間にテンション上げることを期待されても困るんですよね。
でも、きっと、そこで一緒に盛り上がるのが正しいですよね。
私のように根暗な人間はやっぱり集団の中にいてはいけない気がします。
場を明るく盛り上げようとする人が正しいですよね。
でも、合わせるとすごく疲れるんですよね。

小説を書こうとしている人

小説とは何かをもう一度はじめから考えてみる

小説を書こうとしている人

私が心掛けたいこと

小説の形を借りて愚痴や他人の批判を書くということを禁止する。

やっぱり、小説の形をしているのに読んでいると他人の悪口ばっかり書いていたら怖いですよね。

でも、ついそういう風に書きたくなって、さっきも危うく書きそうになっていた。

よく指摘を受けるんですよね。

また愚痴かよ、みたいな。

やっぱり悪口って負のオーラがこもっていて、それを読んだり聞いたりする人にストレスを与えるのかも。

そもそも小説の体裁すらとっていなくて、悪口のオンパレードだったのかな。

何か人の悪口言ってる人って偉そうに見えるかな?

お前何様だよって思われてたのかな。

でも、気が付くと書きたくなるんだよね、そういうのを。

読者を楽しませるというよりも、自分がストレス解消したいだけなの?

小説を書こうとしている人

アハ……ハハ……そっか……

アフリカ

無節操とは節操が無いってことで
それはつまり僕自身が信じていることが無いってことだと言うか……

つまりそんな感じなんだと思うけど……

こんな感じで返すと●●●さんとか裏の方々が喜んで喰いついてくると分かってるんだけど、フラれた男は、と言うか、男も女も同じだけど、まぁ、とにかく、無節操って、この返しに結構凹んでるのは間違いなくて……

言い訳、反論、したくないワケじゃないけど
グッと飲み込むのです。

他の誰でもなくて、でしょさんの言葉なら、グッと飲み込むのです。

って、これを眺めて、ほくそ笑んでるアンタ!

出てこいや! ガッツリ絡め取ります!

でも、今夜は、もう寝る!

アハハ!

寝ちゃう!

アフリカ