作家でごはん!伝言板

まあこの展開みんなわかっちゃってるとは思うんですけど

卯月

でしょくんが何故か頑張っちゃってるのですけど

卯月さん、こんばんは

上松 煌

 >でしょくんが何故か頑張っちゃってるのですけど

「でしょ」は健常者に痛切なコンプがあるのでしょう。
がんばらせてやってくださいwwww

放っておけば、やがて沈静化しますw

まさかぁ

でしょ

がんばってんのおまえじゃんか卯月先生恥ずかしがらなくていいよ馬鹿なんだから
差別主義と結託してたら説得力なくなっちゃうじゃんアホだなあ
早くこんなとこウロついてないで453枚格好つけてきなよポンコツ

あたしがいると

でしょ

感じ悪くなっていいでしょ?
短いの晒すと読まれるけど叩かれるとか寝ぼけたこと言ってる利口ぶりっこ様とかどうしてやろうか思案中です

どいつもこいつもアホばっかだと思うんですよイラつく

優しくファジー(激嗤

でしょ

こんぷ(嗤嗤嗤

サトシって

でしょ

じわる(アホとして←蛇足すまんな

でしょ様。

五月公英

>イラつく。

そんな夜には、ミンティアを口いっぱい頬張っての座禅をおススメします。

https://www.youtube.com/watch?v=feR_C6alm2Y

https://www.youtube.com/watch?v=hpPYKJAnwUo

https://www.youtube.com/watch?v=LEY9GJAm8bA

でしょ様

だしょ様

でしょ様は私の作品にコメント入れてくれたので、その時からずっといい人だなって思っていました。

止まらないイライラ

でしょ

五月さぁーん
ミンティアよりメントス食べたいです。
アゴはずれそうな勢いで3つくらい一気食いとかー。

いけね

でしょ

アラビア漢同居ダサい

どうせさ

でしょ

過疎ってんのあたしのせいとかまた言われてんだろなー。
感じ悪いのどっちだよアホか。

さっそく

でしょ

わくわくして重言晒してるウケる

でしょ様。

五月公英。

>ウケる

グルーヴとは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B4

https://www.youtube.com/watch?v=5lgUz4t9fJw

https://www.youtube.com/watch?v=mVAxUMuhz98

https://www.youtube.com/watch?v=98KiqCJSGWw

でしょくんてば

卯月

どうすんの?

うるせえなー

でしょ

馴れ馴れしくすんな恥知らずのキチガイ程度があたしに話しかけんな失礼なんだよ死ね

くそが

でしょ

何言ってんのかわかんないっつのてめえ軸に呪文唱えやがってサイコかよウケる

でしょ君

卯月

ス、スすみません

でしょくんてば

卯月

ウケルンデスけど、ふんで、どうすんの?

は?

でしょ

何言ってんのかわかんない

卯月

でしょ

何言ってんのって聞いてんのはやくしろ

ウザい馬鹿が

でしょ

言いたいことがあるならはやく言いなよ面倒くさいんだよそういうひん曲がった根性がさ
はやくしろ

卯月

でしょ

ムカつくんだよ正直に言ってんだからはやくしなよあたしはおまえみたいにジメジメしてないから正常に不愉快なんだよはやくしろおまえの嘘ばらまいてあげるからさ

面白そうだから

偏差値55

自分もごはんやアリの穴みたいな投稿サイトを作って運営してみたいな。
無料でホームページ作れるサイトとかあるみたいだけど、ああいうので出来るのかな。

でしょ様。

五月公英

>言いたいことがあるならはやく言いなよ

↓こういう人に、私はなりたい。マジで。

https://www.youtube.com/watch?v=wraYswmie2o&feature=youtu.be

こちらからは以上です。

てか

卯月

どうすんだろう?

Mr.ハナミズダイヤモンド

でしょ

出川さんかっけー。
リアクションは多分差し向けるばっかの愛のはずだからあの愛すべき嘘笑いこそを観るもの全てが許したくなるんだなっていうか求めちゃうほだされちゃうんだなって多分だっつってんじゃんうるせえな。
好きだけど、愛までには化けない。
っていうのは自虐なんかではない正々堂々としたただの悲劇で、あたしはそういうやるせなさみたいなものになんか全然気付きたくないんだしまるきり苦手なんだけど、所詮そんなことばっか探しちゃうんだしそんなことばっかが正体とか愛すべきミジメだとかってつまり、愛しさの住処とかセックス無しで朝までとかってそんな本音? 大事さとか? ああ恥ずかしい、あたしはやっぱりブスが好き。




読みたくなるの一つもないことあたしの読書傾向ばっかのせいにするのも何だかなまけたハナシだと思うよねいよいよ。
威力ねえ。

アハハ! 釣られる~

アフリカ

出川哲朗の素晴らしさ!

僕的には竜ちゃんの悲哀を含んだ間合いと眼差しの方が好きだけど。
どちらも、待つときの仔犬みたいな懇願顔。

た、ま、ん、な、い

同期が、和牛のあの人に似てて最近はイライラしっぱなし。

https://youtu.be/mgvsGjRL0iU

釣られなくていいから

でしょ

あなたはクチ開けば差別主義ばっか上松サトシとかと戯れてたらいいです。
あたしは無節操とは馴染めないタチなので。

アハ……ハハ……そっか……

アフリカ

無節操とは節操が無いってことで
それはつまり僕自身が信じていることが無いってことだと言うか……

つまりそんな感じなんだと思うけど……

こんな感じで返すと●●●さんとか裏の方々が喜んで喰いついてくると分かってるんだけど、フラれた男は、と言うか、男も女も同じだけど、まぁ、とにかく、無節操って、この返しに結構凹んでるのは間違いなくて……

言い訳、反論、したくないワケじゃないけど
グッと飲み込むのです。

他の誰でもなくて、でしょさんの言葉なら、グッと飲み込むのです。

って、これを眺めて、ほくそ笑んでるアンタ!

出てこいや! ガッツリ絡め取ります!

でも、今夜は、もう寝る!

アハハ!

寝ちゃう!

小説とは何かをもう一度はじめから考えてみる

小説を書こうとしている人

私が心掛けたいこと

小説の形を借りて愚痴や他人の批判を書くということを禁止する。

やっぱり、小説の形をしているのに読んでいると他人の悪口ばっかり書いていたら怖いですよね。

でも、ついそういう風に書きたくなって、さっきも危うく書きそうになっていた。

よく指摘を受けるんですよね。

また愚痴かよ、みたいな。

やっぱり悪口って負のオーラがこもっていて、それを読んだり聞いたりする人にストレスを与えるのかも。

そもそも小説の体裁すらとっていなくて、悪口のオンパレードだったのかな。

何か人の悪口言ってる人って偉そうに見えるかな?

お前何様だよって思われてたのかな。

でも、気が付くと書きたくなるんだよね、そういうのを。

読者を楽しませるというよりも、自分がストレス解消したいだけなの?

読書してる時のテンションと集団のテンションのずれについて

小説を書こうとしている人

その場を無理に盛り上げようとしたり、明るい雰囲気にしようとする人がいるとして、
その人が一人でそういうことをしてこちらの反応を気にせずに一人でやってくれてる分にはかまわないのですが、
こちらの反応を期待して、その人と同じようにテンション上げないとかえって場がぎくしゃくするとか、
こっちにも責任の一端が生じて来るというそういう面倒臭いことになったりするのってすごく迷惑な気がするんですけど、
特に私のように病的にテンションが低くて、ぐったりしている人間にテンション上げることを期待されても困るんですよね。
でも、きっと、そこで一緒に盛り上がるのが正しいですよね。
私のように根暗な人間はやっぱり集団の中にいてはいけない気がします。
場を明るく盛り上げようとする人が正しいですよね。
でも、合わせるとすごく疲れるんですよね。

移動中はどうしても釣られる⤵

アフリカ

小説とは……
ウィキでは、小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、随筆、評論、伝記、史書などと対立するものであり、形式としては詩や戯曲と対立するものである。と、出てます。

つまり、それが誰かが造り出す物語の一部であるなら愚痴も悪口も小説の一部だし、小説は人間の吐露する感情に読み手は大きく揺さぶられるのだから書くってことの技術的向上に多少なりでも影響しているのは間違いないのかも知れません。

それと……
読みながら話せる人に、僕は出会ったことが無くて……

だから、読むことと、話す(書く)ことの違いは誰にでもあるのだと思います。

僕は仕事上で良く喋る方だと思うのですが、知人友人と飲んでいるときは完全に聞き役に徹しています。
その方が書く人には良い気がする。喋る時には見えていない状況がバンバン視界に飛び込んでくるし、それを文字化する余裕もある。
ものを良く観る。ものを良く噛む。
この感覚は大切な気がしてます。

テンションなんてストレス(負荷)が高まれば自然に上がります。度のくらい上下するかは個人差があるけど、気にしてたら息も出来ない。

書きたいことがあるなら
ぐだぐだと理屈から入るのではなくて
とにかくキーボードを叩いてみるのが良い

『ポチっとね』

ランキング結果に異議アリ。

五月公英

↓『10代の女子が<整形するならこの顔になりたい!>と思う女性芸能人ランキング』だそうですけど、
理想、願望ですら妥協するとは……謙虚というか、なんというか……玉の小さい女子ばっかだなぁ。

https://www.youtube.com/watch?v=S080sNXBG8U

小説と小説以外を厳密に分ける方法などあるのだろうか?

小説を書きたがっている者

アフリカ様、貴重なご意見ありがとうざいます。

ふとこんな場面を思い浮かべました。

誰かがエッセイぽい小説を書いたとします。
ある識者が、これはエッセイであって小説とは認められないと批判します。
ところがこの小説が世間でヒットしたとします。
小説のくくりで販売された上に知名度も上がったので、このエッセイぽい小説の形態も小説として認められた、ということになるでしょうか?
つまり、私が言いたいのは、小説とは何かというのは、そもそも誰が決めるものでもなく、決めたものでもなく、その範囲も未だに曖昧で、
世間の人たちが小説として読んだならそれは小説なのであって、
エッセイか小説かという区別に固執するよりは、エッセイかつ小説という可能性を認めてもいいのではないかということであって、
エッセイと小説を明確に分ける必要も必然性もないのだから、
これはエッセイであって小説ではないのだから小説としての価値を認めないという批判にはあまり意味がないのかもしれないのではないかということです。
つまり、100パーセントエッセイ内容のものを小説として売ったところで、売れてご飯が食べていけるなら別に何の問題もないのではないでしょうか?
エッセイを小説というくくりで売っても、エッセイを詩というくくりで売っても、実際問題として、何の支障も生じないのではないでしょうか?
支障も生じない問題を大きな問題のように扱うこと自体、時間の無駄ではないのでしょうか?
むしろ、小説というくくりで売ればヒットするのに、エッセイだからと言って小説をして売らなかったばっかりにあまりヒットしなかったらそっちの方が大問題ではないでしょうか?
日記形式のものでも小説扱いされる場合もありますよね?
日記形式は小説の仲間になれるけれど、エッセイ形式は小説として認められないという考え方には何かしっくりしない感じを覚えるのですが、どうなんでしょうね。
こういうことを言うのは、よく私の小説にこれはエッセイだから小説を書けというクレームが来るからなんですよね。
でも、私としては別にそんな形式的なことどうでもよくね?
っていつも思うんです。

エッセイと小説

匿名希望者

正直、形式とかどうでもいい

小説はフィクション
エッセイはノンフィクション

小説をエッセイだといって売り出すことはうそつき
エッセイを小説だといえば、あなたがよほど変人でない限り面白みはない

だから~! 釣られちゃうんだってばさ! 眠い!

アフリカ

商品として世に出ているものに、ましてや良く売れているものに括りをつけたがるのは自分がそれを良い!と感じられない人です。
だから、括りを決めて安心したい。

それなら、売れてる商品に括りをワザワザ設ける必要はない!
正解だと、思います。

それでも。小説を書きたいと考えてる人がエッセイとしか読めないものを書くのは少し違う気もします。だって、書きたいと考えてるものと違うものを書いてるワケでしょ?
 多くの人がエッセイだと思えば、それはエッセイなのではないのか? と思います。

 そこは、そっか……

書き方。変えなきゃな~と、なるべきかな?

ただ……
それがエッセイであっても、小説であっても。
書きたい衝動があって、書いてるのであれば。
無駄にはなっていないと思います。

だって‥
好きだからこそ続けることが出来るのだし
好きだからこそ上手くなれる
自分語りが好きなら、その手の書き物を沢山読んで、その中から自分のヤりたいとか書きたい方向性を見付ければ良いのかも知れません。

下にも書いたのですが
僕はぐだぐだと理窟を捏ねたり。理論や御作法に拘るより一文字でも自分の言葉を書き出す(吐き出す)作業の方が大切であるような気がします。

小説とエッセイの違いについて私の見解

小説を書きたがっている者

日記形式の小説はありますよね?
エッセイ形式の小説というものがあってもいいのではないでしょうか?
日記は小説に同化しても許されるのに、エッセイは同化してはいけないのでしょうか。
つまり、日記の小説化というのは、日記が現実を題材としたものでありながら、現実とは別個の一つの独立した、現実と切り離された世界になった時のことを言うのではないかと思うのです。
小説とはつまり、現実世界から独立した世界であるということなのではないでしょうか。
しかしエッセイは現実の作者の口から出た生の言葉感が強いから、結局現実世界に生きている人があれこれ思ったことを表現しているっていう感じになってしまって、
それが、現実から乖離した独立したワールドな感じがないから、小説じゃないだろって言われるんじゃないでしょうか。
小説は現実から独立した世界であってこそ物理法則に支配された現実世界の力関係に対抗する力や意味を持ち得るのに、
エッセイは現実世界の一部のままなのであり、それは現実の力関係の支配下にあるということなのだ。
小説は現実のしもべであってはいけないのだ。
小説はもう一つの現実であって、現実に対抗する精神の剣なのだろう。
哲学やエッセイが小説になるためには、自律性を持った世界にならなければならない。
しかし哲学は現実の事柄が研究対象だし、エッセイも日常生活や日常的な事柄が対象だ。
たとえば、現実の事柄についてあれこれ自分の人間的な思いを述べればエッセイである。
しかし、非現実の政治や政治家についてあれこれ述べれば、そこは一歩小説に近づく。
それはなぜかというと、そのエッセイが非現実という独自の世界を生み出したことで、既存の現実に対して自律性を持ったからだ。
未来の政治とそれを担うロボット政治家についてあれこれ私が思うところについて述べれば、それは作り上げられたもう一つの現実を描いているという点で小説として認めてもらえるかもしれない。
そんな気がする。

>匿名希望者様

小説にはフィクションとノンフィクションがあると思います。
エッセイにも両方あってもいいのではないでしょうか?
つまり、非現実の世界について随筆してもいいんじゃないでしょうか。
しかし、対象が非現実であっても、作者がそのことについて思っている、まさにその思っていること自体は現実に存在しているわけで。

あなたの見解を聞きたいわけではなど、まあポリシーを持つことは大切なことではあると思います。

匿名希望者

>>つまり、非現実の世界について随筆してもいいんじゃないでしょうか。
書くのは勝手ですが、随筆とは言いません。野球をするとは言いますが、随筆するとは言いません。小説をするといいますか? まあ、誤字ですよね?

>>小説とはつまり、現実世界から独立した世界であるということなのではないでしょうか。
>>小説にはフィクションとノンフィクションがあると思います。

理屈が合いませんが、どのような解釈でしょうか?

私小説(ししょうせつ、わたくししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある。日本における自然主義文学は、私小説として展開された。
経験したことは事実でも、その時の本人の心情まで正確に書かれているとかは疑問。そももそ人の心は秋の空。それに作者は、小説の主人公を凌駕しなければならない。読者がいるので客観的にみる工程を経なければならない。
ノンフィクション小説というジャンルを私は知らない。参考のためにソースをお願いします。
>>日記は小説に同化しても許されるのに、エッセイは同化してはいけないのでしょうか。
これもソースをお願います。
ジャンルの枠組みの議論でしょうか?それならエッセイが日記形式なら、日記でいいじゃないですか。毎日書けば日記になる。
引退したプロ野球が自分のプロ野球人生について、何月何日巨人戦の出来事、何月何日阪神戦の出来事と書けば、立派な日記式のエッセイになるでしょう。プロ野球選手という本人の魅力があるから、読者も興味を持ってくれる。
無名の一市民が朝起きて仕事をして酒飲んで帰る日記なんて誰も興味を持たないと思います。

小説はキャラクターを書く。エッセイはある事柄を書く。エッセイの作者の主張というのは現時点であり、過去は関係ないと思います。場合によっては変わってしまう。

自分は事故に遭い、天国に行って生活してから生き返った。と小説で書けばフィクションだとわかるけど、ノンフィクションだといえば、オカルト信者かと読者は思うし、素直な読者なら自殺を試みるかもしれない。

あなたの書いたものが面白ければ、小説だろうが、エッセイだろうが読者は読む。カテゴリーは読者が決めてくれる。それでいいのではないでしょうか。それとも小説をエッセイとして売った方が金儲けになるとの主張ですか?

桜桃『太宰治』を読んでください。そしてあなたの感想をここへ書いてください。あなたの力量を知りたいし、他の人にもわかると思います。
それと、日記形式の小説なら『アルジャーノンに花束を』を読んでください。日記です。そもそも日記とは他人に読まれることを想定してないものです。

つまり、こういうこと?

小説を書きたがっている人

小説とはつまり、誰が、いつ、何を、どんな風にしたかを描写するジャンルなんじゃないかって思いました

だんだん分かって来た

小説を書こうとしている人

①エッセイは作者が自分はこう思った、感じたということを書いたもの
②小説はある人物がいつどこで何をどんな風にしたかを描写するもの
興味深いのは、嘘の世界を小説に求めているはずなのに、嘘くさいと評価が下がり、リアリティがあると評価があがる。
嘘なのに本当臭さを求められているのが小説?
本当にあったことを本当のこととして書いたら小説じゃないのかな。
本当にあったことを題材にしてでも、いったんそれとは切り離して独立した世界としてそこに新たに描いたものが小説?
とりあえず、①と②は形式的な区別としてはかなり正しいんじゃないかと思う。
①は作者が主語だと分かり切っているので、ほとんど主語はいらないのでしょうね。
②は複数の人物が存在する可能性が含まれている前提で読まれるので、主語は重要となるのでしょうね。
エッセイは登場人物が作者一人であって、作者以外の人物が出た場合、それは作者の記憶の中にある人物のことである。
小説は登場人物に作者は含まれておらず、含まれているとしても、それは作者の頭の中の作者なのである。
こういう区別でいいでしょうか?

さらに分かってきた

小説を書こうとしている人

エッセイは作者が生身の自分の内面の姿を表現するものであり、
小説は作者が自分の姿を隠して、仮に自分を描く場合でも、もう一人の自分がそれを観察しているという形をとる。
ということでいいと思えるんですが、どうでしょう。

夜中にも、つられて

アフリカ

https://youtu.be/w5j5ayhfKAE

インドの映画って歌と躍りが……
それに、どれも3時間強あるサービス精神が……その……逆に……

それでも、観ないと完全に損してるワケでハリウッドだからと、偉そうにふんぞり返ってるとボリウッドに蹴り倒される。

同様に、エッセイがどんなもんなのか?

読めば分かるし
読まずに解る筈もない

インド映画の冒頭やフィルムの質を馬鹿にして、観たこともないのにこんな感じ?と出すと好きな方から決定的なダメ出しを喰らうことにもなる。


小説にリアリティを求めることも至極当然な行為で、嘘の世界だから曖昧に描けば良いってのは完全に叩かれる。

本当臭さのない物語?

例えるなら

のび太と出会わないドラえもんで
仲間と絡まないルフィで

それは必然的に登場するキャラクターのない、独りだけの物語。
悪人でも誰でもいい。とにかく誰かと向き合い、語り悩み、問題が起こり、解決の為に苦しみ怒り、笑う。そんなことが起こらない物語なんて、どう?

小説を書きたいと考えてる人が……そんなの、訊く?

だから、とりあえず観といた方が良いような気がするな~♪

技術云々を指摘するんじゃなくて、製作側が楽しそうなのが伝わってくると思う。

飲み過ぎました寝ます

小説を書こうとしている人さんなのか小説を書きたがっている人さんなのか、同一人物だよね。 てか、小説が書きたいのか、エッセイが書きたいのかどっち?

匿名希望者

エッセイはある事柄や体験したことについて自分の思っていることをストレートに書く。表現することで結果的に自分自身をPRすることにはなるけど、目的は事柄についての感想表明。

「コラム」と「エッセイ」の違い
違いの分かる辞典
http://chigai-allguide.com/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4/

「随筆」と「エッセイ」の違い。
 隠居系男子さんのブログ
http://inkyodanshi21.com/books/8874/
これらからヒントを得てください。探せばまだまだ出てくるし、他人に意見を聞くよりは実際にエッセイを読んでみた方がいいと思います。

だんだん分かってきた、の①と②はおおむね私の考えと同じです。
小説に関していえば、大きく分けてエンターテインメントと文芸に分かれ、エンターテインメントは意外な出来事、事件、小説の舞台、ストーリが重要で、登場人物の心情(個性ではない)は+的要素。
設定やストーリーがぶっ飛んでいる分、心理描写は読者の想像の範囲内で共感を誘う。又は天才で能力が完璧なキャラはクターの場合はあまり心理描写をしない。又はどこか欠落した性格にする。

文芸に関していえば、日常的な誰でも経験しうることを題材として、主人公の心理を掘り下げる。
お題として”死” 家族が死んだ。妻が死んだ。恋人が死んだ。子供が死んだ。
エンターテインメントなら、天国で見守ってくれるだろう。となる。幽霊として出てくるも良くある。基本的にハッピーエンドになりやすい。しかし文芸は違う。チョー悲しいか、悲しくないか。悲しみのあまり食事ができず衰弱し自らも死に至る。とか、逆に悲しいはずなのにごはんも美味しく今までと変わらない生活の中で妻への罪悪感を抱く。ここで問題になるのが私小説。
本来人の心の中は分からない。よくあるんじゃないですか、悲しんでいる人を慰めても、「あなたには私の悲しみは分からないわ」と拒絶されること。同じ経験をしなければ悲しみも分からないし、たとえ同じ体験をしても、状況や性格で感じ方は違ってくる。(脳内ホルモンの分泌の個人差も)
私小説は実際に経験したこと感じたこと思ったことを書く小説でエッセイに近いとは思いますが、愛する人が死んで悲しいとだけ書いたのでは面白みがない。読者と多少は違う心情であることを書かなければならない。(掘り下げるという行為)
掘り下げた自分の心情を正確に書こうとすれば自分の置かれた環境も書く必要に迫られる。(度が過ぎれば読者から見た小説の領域を超えてエッセイになってしまう)
そういう具合で文芸えでは読者の共感を得るための心理描写ではないと思う。混沌とした主人公の心理。自分のこととして深く考えすぎるとノイローゼになるんじゃないかな。
つまるところ、文芸(純文学)と言えども想像や演出の入り込む余地があるのではないでしょうか。

科学的な観察について

エッセイよりも小説を書きたがっていて、書こうとしている人

エッセイとは一人称で、作者の知識や体験についての感想や自由な発想を表現したものっていうことでいいでしょうか。

だから、エッセイにもエッセイの形式があって、
もしも一人称ではなく、エッセイを語っている人を観察している文章になると小説になるということでしょうか。

人物や物事について外側の視点から観察している文章は小説。
一人称で自由に思いを述べているのがエッセイ。

だから、ただ観察した事柄を記述するだけでも小説たりうるということかな。
でも、ただ自然界の記録だけだと小説じゃなんでしょうね。
でも、人間の日常を記録したものだと小説になるでしょうか。
そこに何か、人を楽しませるオチや要素のものが感じられれば小説なのかな。
すると読み手がそういう要素を感じなかったら小説じゃなくなるということなのかな。
ただの人間の記録ながら面白い要素があったと思えば小説になり、なければ小説じゃないと言われそう。
単なる科学的視点だけでは小説じゃないということか。
文学的視点がなければ。
すると、それを小説認定するかどうかというのは、形式もさることながら、読み手がそこに文学的要素を認めるかどうかにもかかってくるかもしれない。
もちろん、内容に文学的要素がなくても、とりあえず人物が複数出て来て、ストーリーがあれば小説として認められるかもしれない。
ただ、単なる科学的な観察という風にも見える時にそこに文学的要素が実はこめられていると発見できればその人の中で小説となり、はっけんできなければ小説でなくなるならば、
読み手にも委ねられているよね。
日常性が必要ということかな。
読者が体験しえない環境や事柄について書いていても、読者の日常と重なる部分があることで話の中の人物に自分を重ねるというか。
読者が部分的にでも疑似体験できれば、小説なのかな。
読者が登場人物に自分を重ねられず、事柄だけを記したものは小説じゃないのかな。
でも、事物を擬人化することで、あたかもそこに感情があるように描ければ小説なのかも。
人間の日常的な心理が描かれていれば小説なのかな。
描かれていなければ物事の記述なのかな。

エッセイ風の小説、でも別にいいんじゃね

GM91

何をもって小説と呼ぶのか、ってのは何かわかりやすい枠にキチンとハメなくてもいいんでないの?と思ってる派です。
てゆうか、カテゴライズはソレをやりたい人のもので、その基準なんてその人の都合でいくらでも変わるしそれでいいんですよ。

小説とはエッセイとは、なんて悩んでる間に自分の書きたいことを素直に書いてみりゃいいんじゃないかな、と。
で、まあそれが小説じゃなくてエッセイやんかコレって言われたとして、ああそうかもと思えば採用すればいいし、違うだろって思えば個別に反論とか質問とかすれば済むことです。
もちろん「定義」を突き詰めることで何か見えてくる可能性はなくもないけど、実際に書いたもんベースに話するほうが具体的でわかりやすいんじゃないかなって気がする。


※あと、ここで何か聞きたいことがあるならば、ハンドルは固定した方が良いかもね。

林望さんの本のなかの言葉をあげておきます。

そうげん

●林望「文章術の千本ノック」(小学館)より

24ページ――「エッセイ」

エッセイと申しますのは、一言で言えば、「論理的文章」と定義をしたらいいと思います。だから、論理のない文章はエッセイとは言わないんです。いわゆる身辺雑記とか、そういうのは、ほんとは、エッセイとは言わないんです。
エッセイというのは、例えば私が生きている中で見聞きした現象だとか、また生き方の問題だとかいろいろなことについて、私はこう思う、こういうふうに観察したら、こんなことが見えてきた、またこの現象はこういう背景があるんじゃないかという文化論だとか、そういう何か一つの論理があって、その論理を読んでもらうのがエッセイです。

ところが、世の中では、例えば、テレビタレントなんかが少し売れてくると、すぐに滑った転んだなどという雑雑の瑣事をゴーストライターなんかに書かせて、それで「こんどエッセーを書きました!」なんて言ってる。ああいうのを読むと、エッセイというよりは「エセもの」とでもいうべきで、あんなのがエッセイとして通るから、エッセイというものが正当に評価されなくなるのだと、悲しくなります。


25ページ――「随筆」

概して言えば、随筆ってものは素人が書くものじゃないと思います。ああ、実に冷酷ですね、言い方が(笑)言い方は冷酷なんだけれども、これが天下の真実というもので、随筆というものは功なり名を遂げたプロの作家が、趣味で書くものです。あるいは松平定信のようなお殿さんが、日ごろの生活の中で心に浮かぶ「よしなしごと」をぽつぽつと書きつけたというようなものが随筆であって、これはよっぽど文章力があるとか、その人の人生がおもしろいとか、その人の観察眼が鋭いとか、描写力が秀逸だとか、そういう人生経験と筆力が物を言う世界なんです、随筆は。




日本語でエッセイというとき、モンテーニュの「エセー」が根本にあるでしょう。エセーの本文を読めば、論理的に話を進めながら書かれた比較的短めの文章であることはあきらかです。

2015年に30刷になった岩波文庫の「エセー(一)」でも、

各エセーのタイトルは、

第一巻
第一章 人はいろいろな方法によって同じ結果に到達する
第二章 悲しみについて
第三章 われわれの感情はわれわれを超えてゆくこと
第四章 心は正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向けること
第五章 包囲された軍の大将は談判のために城を出るべきか
第六章 講話のときは危険であること
第七章 われわれの行為は意図によって判断されること

という具合につづき、国内の雑誌などで見かける連載のエッセイとは趣が異なっています。



あと「「コラム」と「エッセイ」の違い」の記事はずいぶんひどい内容に思えます。

コラムは媒体への掲載形式の問題で、エッセイと等価に扱うべきものでないし、

モンテーニュをあげながら、

「発表する場が決まっているとは限らないもので、体験や見聞、
日ごろ感じていることなどを自由な形式で書き記した文章である。」

と書くこと自体、おかしな話でしょう。


わたしは林望さんの「エッセイ」と「随筆」のちがいこそ、

モンテーニュの「エセー」と、吉田兼好の「徒然草」のちがいをうまく表してますし、
自分のなかで整理をつけるのには、この考え方を採用するのが便利だと思っています。






あと、小説は、嘘を書くもの、というより、

作り話を仮構しながら、それが一種の寓意を孕むことによって、
現実をよりリアルに表現しうる文学の一種、

と、読みかえたいと思っています。

書きたいものを書いてみることでしょうね

そうげん

小林秀雄「批評と批評家」
(適度に漢字をひらいています)

「僕は何故君は創作をやらずに批評を書き始めたかと聞かれたら、次の様に答える。自分のいいたい事が批評の形式を自然ととったのだ、と。批評と創作とどちらをやったらいいかと決定するものは、いいたい言葉がどちらの形式をとって流れ出すか、まずいいたい事をいって見るほかはない。批評文をいかに上手に作ろうかという事は先の話で、どんな批評を書くにせよ、おお根のところは、批評を書くのではなく、いいたい事が批評になるのだというはっきりした自信がなくてはならぬと思います。」


国内の近代批評をくみ上げた小林秀雄の言葉です。
全集の冒頭には習作で中高時代に書かれた短編小説も載っています。

はじめは小説を書くことを志したのか、途中で書きたいものを書くうちに批評になにか自身にあうものを見出したのか、とにかく、この言葉から見えるのは、ジャンルがどうのというより、巧拙がどうのというより、とにかくまずは書きたいものを文字の形式で綴ってみることかと思います。

それがほかの人に小説ととられるか、エッセイととられるか、随筆ととられるか、GMさんのことばにもありますが、まず、書いてみて、何度も読み直して検討して、書きたいものを定めていけばいいのじゃないかと思いますよ。

人を愛せない人間が書く小説はつまらないですか?

小説を書こうとしている人

小説を書こうとしている人で名前を統一しました。

私自身、愛がない小説はつまらないと思っているんです。
他者への愛であふれている小説は読んでいて感動します。
しかし、何かへの愛情が感じられない小説は何かたりない気がします。

私が書いてよく批判される愚痴などは、その愛がたりないゆえだと思います。
愚痴は愚痴でも愛のある愚痴なら、文芸作品として受け入られるかもしれません。
しかし、どんなに体裁が整っていても、愛のない文章は面白くないのかもしれません。

しかし、私は心に愛の欠如した人間です。
愛がないわけではありませんが、愛を避けているところがあるのです。
私は現実に恋愛をしてもとにかく失敗続きで、恋愛をすること自体が嫌になってしまった人間です。
それでもそういう事を人に話すと、楽観的にとらえるみたいで、そんなことないよ~とか、いつかいい人が見つかるよ~などとアドバイスするのですが、
傷ついた本人としてしはそんなこと言われてもあんたら私がどういう思いしたか知ってんのかって逆切れしそうな有様でした。
確かにその人たちの言うことも間違ってはいなくて、次に会う人は自分に合う人かもしれません。
でも、そういう希望と挫折を繰り返して、結局問題はミスマッチにあるのではなく、自分自身にあるのだと悟ったんです。
自分が恋愛に向いていない星のもとに生まれたんです。

それでも生きて行かなければならないから、私は文学一筋で生きようと思って、しこしこと小説を書いて来ました。
書いて来たものの、批判も受け、自分の小説には何かが足りないと気付きました。
それは、他者への愛とかそういうものではないかと。
いろいろなプロの小説を読みましたが、どの作品にも他者への愛のようなものが感じられました。
それは、別に恋愛の話じゃなくても、露骨に性愛とかじゃなくても、何となく愛のようなものを感じると言うのを含めてです。
ところが私の小説はこの世に空気のようにそれとなく存在している愛を否定するような内容だなと気付いたんです。
それは、「何さ、愛なんて」という私のひねくれた気持ちをそのまま小説にしているような感じなんです。

それでも私に全く愛がないわけではありません。
人を愛せない分、ネコカフェに通って、猫たちをかわいがっています。
猫たちへの愛はあるんだなあと自分でも思います。
人が怖いです。
自分が傷つくのが怖いのかもしれません。

こんな私が書く小説はやはり、小説としては無意味なのでしょうか?
人を愛せない私が最後の砦として見つけた小説の世界で、私は成功を勝ち取ることは出来ないのでしょうか?