・小説は餓えた子供を満たせるか

沙菜子

小説書き、作家は文学といい文芸という。
昔の人は、文学を道のように考えていた時代もあった。
そう宮本武蔵の求道者のような姿勢だ。
或いは文芸と云い、文字による芸事だと捉える向きもある。
洒落たエスプリの効いた娯楽のようなものだろうか?

小説を読むことで果たして人は救われるだろうか?
食べ物に貧した子供に、心の充足を与えることは可能か?
小説の効能を語ってみたい。


七味黒猫

間接的には可能だと思います。

寓話は道徳を説くためのものですから、読んだ人の感じ方次第では後の人生に影響をおよぼすでしょう。ひょっとすると、すばらしい慈善事業に取りかかるようになるかもしれません。

もちろん、そういった狙いあるいは効果の期待できない内容のものにそういった効果を期待することはできないと思いますし。そういった効果を期待できる内容のものにはそういった効果を期待できるのではないでしょうか。


沙菜子

七味黒猫さん、レスポンスをありがとう。
お腹をすかせた子供が貰って嬉しいのは食物であると思います。
実は、この命題は古くからあって、栗本薫さんのエッセイなどにも学生時代にみんなで論争した話題だとあります。
お腹をすかせた子供に食物ではなく小説を与えて果たして、その子は食物を貰う以上の満足感激をするかどうかです。
小説の価値や小説が産み出す力なりをあなたはどこまで信じるかということです。
そして作家を志す人は果たしてそう言った価値や力や効力のある作品を書けるかとあなたに問うものなのです。

小説を暇つぶしの本、作家活動を小手先の趣味の芸と捉えるか、果たして切れば血がでるような真剣な作品を書くことがあなたは出来るかを問うものです。

結構、コアな問題だと思います。

近年の既成の小説本でそういった感動作品を果たして最近見るかな?
読者に求められているとは思うのですがね。
これからの時代、或いは少しずつ登場するかもしれませんね。
時代が閉塞感を感じますもの。


ハザマ

>小説を読むことで果たして人は救われるだろうか?
本を読むこと自体が余裕のある証拠という気がするので、救われた気になってはいても、単に一時的に心が高揚しているだけな気がします。
それだってけっこう良い効果かもしれませんね。
本当に心底落ち込んでたら本なんか見向きもしないで宗教の方に流れてしまいそうです。
偉人の残した言葉などは素直に感動出来ても、創作というカテゴリーに入っている時点で娯楽の方が上回ってしまうのではないかとも思います。
泣かされたい、感動したい、など、何らかのうっぷんを発散させたい、というような意味で。
発散した後は多少前向きになるので、これは効能と言えるかな。

>食べ物に貧した子供に、心の充足を与えることは可能か?
えらく極論的な質問です。何らかの保護がなければ本を読むことすら出来るとは思えません。
それらをあえて無視して考えるとして。
どんな内容のものならそれが可能なのか、わかればすごいことです。
が、意図してそんなことが出来るのかは微妙なところです。
優雅に暮らしている者の書いた作品でも子供達は素直に感動してくれるかもしれませんが、傍で見ている者には偽りに見えてしまうのが複雑です。
当人にとっては幸せでも、それが見果てぬ夢をただ見せつけられただけのものなら、大人になるまでの過程でいつか夢から覚めてしまいますから。
絵空事よりは作物の育て方のような、現実にどうにかなりそうなものの方がよっぽどマシでしょう。
マッチ売りの少女が灯火の中に見た幻を、それを本当に必要としている人たちには見せたくないなと思います。
継続的に充足感を持たせ、何らかの効果を持たせることが条件になりそうです。厳しい。

現時点での(わたしの)結論。
食べ物に貧した子供には食べ物を、心底救いをもとめている者には助言を、若干余裕のある者には小説を(なぜそれが小説である必要があるのかは疑問のまま置いておく)
道徳や倫理をいくら織りまぜても創作の域を出ないので、それ専門の書物がある以上は仮想体験的に何らかの感動を与えることで精神的充足を得ることが出来るのが効能といえば効能かなと思います。
明日への糧になるような小説はなかなか無いです。書物全般ならあり得るかも。


蘭丸

大問題の直球テーマなので、普段は避けているこういう問題を考えてみました(^_^)。

ます「読むことで人は救われるのか」と「貧した子どもに心の充足」は別問題だと思います。
前者は個人的な救済、後者は社会的な働きかけだからです。
小説によってある個人が救われることはあるでしょう。
マンガでも映画でも、何かの作品によって心が明るくなり、救われるのはしばしばありそうです。
自分自身も、いろいろな作品によって救われたことがあります。

前者は自分が作品を求めている(少なくも読みたいと思わなければ読まない)のに対し、後者の「貧した子ども」は、小説を求めているでしょうか。
言い換えれば、前者は「小説を読みたい個人」なのに、後者は「貧しているという状態にあるこども一般」ではないでしょうか? とすれば、答えは問の中に含まれています。
貧した子どもはまず、食べ物が必要なのであり、そのこどもが小説を読みたいと思うかどうかは、その次の問題。
お腹がいっぱいになった子どもは、小説以外にも、テレビゲーム、テレビ、コンビニまわりなど(^_^)、いろいろの選択肢があり、実際の所、小説を選ぶ子どもはすくないでしょうね。


沙菜子

>食べ物に貧した子供には食べ物を、心底救いをもとめている者には助言を…
確かにそうですね、今の世の中は細分化されていて小説といえどもその効力をすべての書物と人に被せてとはいえないでしょうね。

自分のこの問いに関する答えは、餓えた子供を満足させることのできる小説はこの世にはあると思います。それを自分が書けるかは分かりません。個人的な自分の体験として、ご飯を食べることよりも、本を読むことで充足した経験が子供時代にあるからです。
でも、これってとっても理想論な論争だと思います。
「文学」って言い方に自分は抵抗があって、自分の出来そうなのは文芸だと思っている。
アニメの風の谷のナウシカを見て生きる勇気を貰う子がいる。それが私の目指すところです。
学問として理論、ロジックで優劣を決めることよりも、文芸として人が受け取る感動の広さの方を取りたい。
創作物である小説は所詮は作り物だから、すでに自分が上梓した作品は人の目に触れる時点で一人歩きを始めると思っている。自分が優劣をこだわるポイントは、創作の途上の姿勢です。
プラトンが云うところの「エロス」です。ものを創るために燃やす情熱の強さにはこだわりたいです。自分が出来るか否かは不明ですが。


ハザマ

>餓えた子供を満足させることのできる小説はこの世にはあると思います。
それはどんなものなのか。現時点で「これがそうだ」というものはあるんでしょうか。
もしわかったとして、それからどう考えればいいのかというのを話した方が良さそうです。
イエス、ノー(あるだろう、いや無い)では多数決なだけだし。

>本を読むことで充足した経験が子供時代にあるからです。
それはどちらかといえば最初のコメントにあげられていた中の『小説を読むことで果たして人は救われるだろうか?』にあたりますね。
実際どれだけそのとき空腹だったかが抜けてますから。
このあたり、二つのことを同時にいっているような感がどうしてもしてしまいます。
心が満たされない子供と、絶えず空腹感に苛まれている子供。
どっちも満たされていないに違い無いけど、条件が全く違うと思います。
あくまで(前者の)精神的なことだというならおっしゃることも頷けます。
たとえ現実ではそううまくいかないことでも、感動を与えられることで前向きになり、まだいろいろな面で未発達の子供時代を乗り越えられそうです。
大人でも当てはまることもあるでしょう。
わたし自身は小説を神聖視したくない(←楽しくないから)ので、娯楽と割り切ってます。
無意識に、ときには意図してメッセージめいたものは盛り込むかもしれませんが。


JOKER

>「小説は餓えた子供を満たせるか?」

欺瞞ですね。
少なくとも飢えを経験したことの無い現代人が語る問題ではないと思いますが。


七味黒猫

実例としては、聖書や仏教経典といったものが、それに当たるんじゃないでしょうか。


イワノフ

飢えた子供を前提に問題を立てるのは、「価値や力や効力」等々を客観的に、あるいは強調して見るためだと思いました。ところで、子供を除いてもこの問題は同じです。なぜなら、この問題が、
> 小説を暇つぶしの本、作家活動を小手先の趣味の芸と捉えるか、果たして切れば血がでるような真剣な作品を書くことがあなたは出来るかを問うもの
だからです。子供はどうでもいいのです。

そうすれば、子供は何人いるのか、男か女か、から始まって、以下のような疑問はとりあえず脇に置くことができます。
飢えた子供が目の前で泣いているのに、なぜ小説を与えるのか。
なぜ小説だけ手元にあるのか、売って金を作らないのか。
本当は食べ物は買えるが、小説だけを買うのか。
子供を憎んでいて、食べ物を与えないのか。等々。

これらは広く社会的な文脈が必要で、問題を複雑にしています。政治、経済、社会、教育から、倫理、道徳、心理と際限がありません。「ひっかけ」に見える理由の1つは、ここにあると思います。特に人道的援助の面ですね。ここまでが準備段階です。

栗本薫らが論争したというのも、小説は役立たないという結論がまずあって、それなら改めてどのあたりに価値や意味を見出せばよいのか、が論争の本来の目的だったように思います。
「エロス」も、価値や意味を求める人間の存在と関わってくるわけですが。


ハザマ

なるほど。聖書や仏教経典。思想的なものも含めればそうですね。
ただ、そういう下地が何も無い状態で飢えてた場合、どうでしょう。
聖書も経典も、他の本と何もかわらないような気がします。
むしろそれを薦める者が基盤になる教えを説くという重要な役割をしそうです。
でも特定の条件下というのであれば、まだ考える余地があるかもしれませんね。


蘭丸

「ハザマ」さんの、実際に「飢えた子供」「救いを求める人」の立場に立った考え方は、誠実なものだと思います。

「イワノフ」さんの問題の前提に迫る認識論的な分析は、さすがですね。
確かに具体的に考えていくと、社会問題や制度への問いかけになると思います。
栗本薫の論争は知りませんでしたが、文学史をみると、サルトルとカミュの論争が大きな位置をしめているようです。
自分の浅い理解だと、サルトルは
<小説は人を、心や体の飢えから救わなければならない。「飢え」の原因は社会の謝った、不完全な制度にある。従って、作家は社会に対してこれを変えていく意識をもち、行動しなくてはならない>

という「アンガージュマン(参加)」の思想につながります。

一方のカミュは、これも自分のテキトーな読みなのですが、
<最善の努力や構想のもとでの社会や制度の改造によっても、結果的に人を救うことはできない。まして、小説や小説家の行動が社会を変えることは不可能だ。小説のできることは、絶望した人や飢えて死ぬ子供がこの世に存在する、という事実を書き記すことだけだ>
という感じでしょうか。

実際、この二人が偉いのは、自分の信念に基づいた小説を書き、行動していることです。
サルトルはさまざまな社会運動に関わり、カミュは「ペスト」を書きました。

沙菜子さんが「孤高の美学」はどう?と鋭くも指摘されているように、自分自身は、偉そうなことをいえば、カミュの傾向があります。

イワノフさん的に問題の前提に迫ると(^_^)、沙菜子さんの提起自体が、小説が心身の飢えを救えるかどうかの可能性よりも、今の作家、作家志望者に、そうした小説の本質への問いや問題意識があるかどうか、という点にあるのではないでしょうか?
実際、現状では「行動なんてカッコわるい、クールなカミュっぽいのがすき」という傾向にあるような気がします。
自分への戒めを込めて、それをいいわけに使うのは、よろしくないと思います。逆に言えば、今の小説で自分が「優れている」「おもしろい」と思う作家や作品には、必ずと言っていいほど、この問題意識が含まれているように感じます。


ハザマ

ああ、そういうことならあり得るかもしれませんね。
『食べ物に貧した子供に、心の充足を与えることは可能か?』ではなく、『飢えた子供を救えるか』ならニュアンスが変わって来ます。
小説が社会に与える影響がいったいどれだけのものがあるのか、それはその土地(国)の文化によりますから、現実問題、本を広く配付出来る余裕のある国が『飢えている』状態の国の窮状を知ることで援助の手を差し伸べるといった、直接より間接的な方が可能性としてありますね。
本と言う媒体を使う以上、どうしてもそこで物質面の問題が出てきますから。
これは国単位じゃなく、個人でも言えそうです。

問題意識の例えとしての『救済』のお話はともかく。
小説の中に常に問題提起が含まれていなければならないかというと、その辺りはよくわかりませんが、確かに後々まで印象に残るのはそういったものが多いように思えます。
ミステリやエンタメなど、乱雑な読書傾向のわたしも、昔読んだ『高瀬舟』が一番印象に残っているのは単に最初に読んだものというよりも、その中に含まれたメッセージに強く考えさせられるものがあったからかも知れません。


イワノフ

上の投稿の不公平を補って、サルトルとカミュに無理矢理くっつけてみましょう。

フランス文学史はよく知らないので、イギリスを例に出します。
正確には小説と言えませんが、みなさんご存じの『ロビンソン・クルーソー』。これは「有用性を娯楽性でくるむ」という文学(小説でも文芸でも何でもよろしい)の特質に「教訓性」が加わったものです。だから、面白くてためになる、(18世紀の)エンタテインメントです。

ところで、市民社会の成立と小説の発生は強く結びついています。近代の社会において、書き手かつ読み手である市民は、いわば「社会的存在」でした。彼らの主な関心は、周囲の人間社会です。新奇な話題や噂、政治や社会の動き。新聞や雑誌の発達。
これ以前の、特に中世では「形而上的存在」です。人々は、天のどこかにいる神と、ひとりひとり直接向き合うのです。魂の救済。聖書や教会が絶対。ごく単純に言うと、前者は自分の外面、後者は内面を問題にします。

サルトルは自分の外部に「社会的に参加」したのに対し、カミュは自己の魂を絶対化することで現実社会を無視し、「形而上的に反抗」したといえましょう。ロマン主義もここに入ります。もちろん、宗教的な教訓を説く寓話も、特に中世では大きな役割がありましたが、「神が死んだ」現代では、ごく一部の読者にしか役立ちません。小中学校の道徳の授業で使うテキストも同様です。

役立つかどうか、問題意識を問う場合、サルトル的な方向が思い浮かびますが、カミュ的な方向も忘れてはいけないと思います。『草枕』の「非人情」がこれです。文学(小説)は遊び、老子の言う「無用の用」です。むしろ、こっちのほうが有望かもしれません。あまりにも社会が複雑になってきましたから。

最初の問題に戻ると、飢えた子供が「形而上的存在」なら小説を与えても役立つが(つまり何かの絶対的信仰に支えられる場合)、「社会的存在」なら役立たない、という結論になります。もっとも現代のわれわれが、18世紀の市民でも20世紀の大衆でもないとすれば、多少は違ってくるとは思いますが。こんな感じで、どうでしょうかね?


蘭丸

「ハザマ」さんが触れている、「人道援助」的な給付物資の一つとして、例えば、小麦粉にあわせて、子どもに童話を配るといった方向性もあるでしょうね。

「イワノフ」さんのサルトルとカミュの分析は、なるほどなと思いました。
自分自身、この作家たちのは2作くらいずつしか読んでいないので何とも言えません。

「沙菜子」さんの当初の問題にかなり的確に応えている作家がいます。
歌人で有名な石川啄木の「食らうべき詩」という評論で、最近やっと名前を思い出しました(^_^)。
高校の課題図書かなにかで読んで、タイトルを思い出せませんでした。

彼が「食らうべき」を書いたのは、文学は社会に対して具体的な効果を持たなくてはいけない、というプロレタリア文学に対する、反論としてだったようです。

啄木は、詩(広く文学と言った意味)は、食事の変わりにはならない。
その意味で現実的な、お腹を満たす、寒さを防ぐ、といった役には立たないと言います。
かといって、高踏的な、現実無視の芸術至上主義も否定します。

啄木は、人間には詩によってしか満たされない部分があるのだ、という意味で、詩は、飯でも夢でもない、「食らうべき」物でなくてはならない、と言っているような気がします。
この評論は、一般的な主張という以上に、彼の歌人としてのぎりぎりの自己表明、といった感じもあり、とても感銘を受けました。

時代も立場も違いますが、自分には、カミュと啄木は、とても近いように感じます。


ハザマ

それは『人間は、パンのみで生きるにあらず。』とほぼ同意に思えるのですが、間違っているでしょうか。

ここで挙げられた先人の言葉はそれだけがその人の言葉ではなく、本文を通して読めば本当に言いたいことが何なのかを改めて知ることも出来るでしょう。
また、沙菜子さんの問いかけの答えとして用意されていたわけではない以上、いくらか重なっているだけと捉えた方が懸命であることもわかります。
サルトルとカミュ、そして石川啄木。どれも興味深いものなので、全部とは言えませんが、読んでみようと思います。(イワノフさん、蘭丸さん、ありがとうございます)。
でも先ずは自分の言葉をそれなりに用意してからじゃないと、単純なのであっという間に彼らの思想に引きずられてしまいそうです。

わたしは 沙菜子さんがこのスレッドを起こした目的を言葉の表面だけでとらえていたうえに、今持って真意をよくわかっていなかったりします。
そもそもそんなものは無く、どうとらえても自由なのかもしれません。
経済的に苦しい社会で子供達が常に飢えているような、極端な例をわたしはまず頭に浮かべてしまったので、そこに本(小説)が出てくること自体が不思議に思えました。
その時の考えでは『パンのみで生きるにあらず』はまず『パン』ありきで、その次に『それのみで生きるにあらず』でした。
多少の余裕があってこそ、学ぶことも遊ぶことも出来る、そう考えました。
ここではあえてそのまま突っ込んでみようと思います。
本を読むことを(与えることを)選択出来ることが当たり前の社会があり、そこで初めて意見の中にある先人が遺した言葉も成り立つような気がします。
飢えた子供には物資援助が出来、その中に本もある。
(叉はそういう社会であることこそを願っているともとれます)
でも、本当にそれが(沙菜子さんの)先の問いに対する答えとは思えない。
何かがすり代わっているような気がする。
三食のうちの一食を抜いてもいい程度の問題になってしまっているような。

以上はあくまで無知な者(現段階で自分の言葉しか持たない者)のニュートラルな考え方としてとらえてくださされば幸いです。


深夜の市長

「衣食足りて礼節を知る」

無用の用、に関してはまさにそのとおりだと思います。
はぐれ者たちが、社会の精神的発電機になりうる、という説は、
コリン・ウィルソン著『アウトサイダー』
ヘッセ著『荒野のおおかみ』(新潮文庫)
にくわしく記載。 


蘭丸

・「ハザマ」さん。
自分はクリスチャンではなく、宗教的な背景は分からないのですが、イエスの言葉は、単純でいて奥深い内容をふくんでいますね。
字義通り解釈すると、「人間はパンだけでは生きていけない」。
つまり、パンだけで生きているのは、人間ではない、ということでしょうか?
人間であるためには、パン以外の何かが必要だ、という意味なら、同感です。

「イワノフ」さんの内容にも関連するのですが、「お前の書く小説は、飢えた子どもにとっては、どういう意味があるんだ?」という問いかけは、それ自体が政治的な目的があるような気がします。

<北朝鮮の飢えた子どもをすくえ>というプラカードで街頭署名している人に、「あなたはなぜ署名しないんですか? 子どもが餓死してもいいんですね」と問いつめられるようなのと、一種共通する政治的な<脅迫>があります。

もちろん、「沙菜子」の意図とは無関係ですが、意図的に行われる極端な設定の問いかけは、答える人の内容以前に、質問者が被質問者に対して、「道義的優位」に立つことが出来ます。
実際に、飢えた子どもを救うかどうかは別の問題で、被質問者にマイナスの感情を起こし、質問者にある種の権威を持たせる効果があります。

「情欲をもって女を見る者は、すべて罪人である。あなたはどうだ?」という言葉は、人に特定のモラルを示し、それに対するその人の態度の明示をもとめます。
そこに支配と、被支配の潜在的な可能性があります。


ハザマ

引用として『人間は、パンのみで生きるにあらず。』を使ってはいますが、全面的に賛成もしてないし、反対もしていません。(というか考えもふらふらで)よくわからないというのが正直な気持ちです。
先に述べたように、まず生きなければ何も始まらないといった意味で使いました。
飢えから脱却して初めて『それのみで生きるにあらず』もありえると、単純に考えてます。
飢えている人間は直接救えないけど、お腹を満たした後でなら心も満たすことも出来る。
順番を考えるとどうしてもそこに考えが落ち着いてしまいます。
小説を間接的に使って救うことはあえて考えていないというのもあるので、ずっと同じところで止まったままになってしまうんでしょうね。

人間は人間だと思いますよ。どんなふうになっていても。
何か付加価値があってこそ人間だというのはある種の奢りじゃないでしょうか。
知恵があるのは人間だけじゃないし、
生物的に人間であれば人間だと思います。一部でも。変な例えですけど。
でも誇りを持つことはいいことじゃないかなと思います。考えを人に押し付けない限りは。
『人間は、パンのみで生きるにあらず。』は生きている限りは心があるし、自分を殺してしまいかねないほど(心に)ダメージを受けてしまうこともあるといった、人間が生きて行ける条件を言っているだけな気がします。言葉通りに受け止めれば。
人間であることと、人間が生きていけることとは似ていても違うのではないかなと思います。

心を失っていても人間は人間。
何か論点がずれて来てしまいました。


イワノフ

うーむ。ハザマさんが引っかかっている、質問の設定を考えていたんですが。例えば、最初から「飢えた子供」を持ち出さずに、小説の「価値や力や効力」や書き手の姿勢を問うものであれば、それほど引っかからずに済んだとは言えるのでしょうか。
私などはいい加減ですから、上に書いたようなことを考えて、どこかの本に書いてあることを拝借して、それでお終い、と片づけてしまいました。何だか勝手に話が進んだぞ、ちょっと待ってくれ、という感じかもしれませんね。

確かに、質問の設定自体に問題を求めることは可能です。厳密に言えば、21世紀の日本社会において、何ら特定の宗教を背景として考慮しない場合、と限定する必要もあります。
こういう感じなら、いきなり本が出てきても構わないかもしれません。あまりに設定が漠然としすぎて答えるほうも困る、といったところが原因でしょうか。

また、蘭丸さんが見事に説明してくれた「質問者」「被質問者」と似たような関係もあります。
「飢えた子供」と「食べ物を与える大人」との関係は、つねに一方通行です。食べ物を与えるかどうかは、与える側の一存で決まります。与える行為は「善」以外の何物でもありません。美しいと言えば美しいですが、場合によっては「善意の押しつけ」もあり得ます。つまり、一歩間違うと「偽善」に変わります。
逆に、受ける側は相手に完全に依存します。生殺与奪の権利を握られています。こういった不公平な関係を前提(疑問を持たず)にするのが、何となく釈然としない一因かもしれない、とは言えると思います。

以上は、沙菜子さんの意図を批判するものではありませんので念のため。むしろ、自分は予想もしなかった、そんな解釈もあるのかと驚いているでしょう。まさしく、
> すでに自分が上梓した作品は人の目に触れる時点で一人歩きを始める
です。


ハザマ

どうも解釈が間違ってしまった気がして、もう一度来ました。

蘭丸さんのレスでの石川啄木の言葉、
詩は、飯でも夢でもない、「食らうべき」物でなくてはならない
をわたしは
人間は、パンのみで生きるにあらず。
とほぼ同意なのではないか。と解釈しました。
でも、前者は『詩』そのものを言っているのに対し、後者は『パン意外』と言っています。
両者とも『心を満たす』条件に合っていると考え、いっしょくたにしてしまいました。
啄木は『何が何でも詩(文学)こそ食らうべきもの』だとハッキリ言っています。
わたしが勝手に解釈した後者は広い意味で(食べること以外の)生きる糧になるものを言っています。(と、わたしは思って例に出しました)。
啄木の言葉からは、『ここにこそ作家としての矜持ある』といったものを感じます。
自分の進んでいる道に、それだけの自信、信念があることが伺えます。
蘭丸さんのコメントの中からだけでも啄木その人の有り様が見えて来そうです。
他人の言葉を借りずに実感としてそう言い切れるようになるまで、どれだけかかることか。
サルトル、カミュ。熟練、到達点まで行った作家は皆そうなんでしょうか。

比べてつくづく自分は甘いと思うけど、それはそれでいいかとも思う。(ちょっと弱気)

>イワノフさん
わたしは極端に狭い視野で物を言っていると思います。
時には原点に立ち返るのも必要ですが、わたしの場合は立ち返る癖があるといったところです。
(自覚があるのが救いな程度)
高校受験では数学の問題が一問出来ないだけでそこで止まって半分白紙に出したくらい融通がきかないところがありますので、せっかくの議論を縮小するよりは、どんどん広げてくださると興味深い意見をいろいろ聞けそうで、わたしとしては願ったりです。

「質問者」「被質問者」ですが、身近な例で言えば、「最近皆たるんでるぞ」と言った人と、そう言われた人たちですね。
それまで一列に並んでいたはずなのに、その時点から説教する側とされる側になってしまう。
いわゆる言ったもの勝ちです。(「道義的優位」だけ見たら)でもこれはもともと対等な位置にいて、どちらにもなり得るという条件もあるから『不公平な関係』とはちょっと違いますね。

考えながら書いてるのでこんがらがってしまいました。
(蘭丸さんから急にイワノフさんに行ってしまった)
少なくともその時点で社会的強者、弱者の立場であることが条件になりそうですね。
興味がなければ勝手に飢えていろ、あれば慈悲の手を差し伸べる。
優位に立った者の傲慢さともとれます。やはり『偽善』です。
では『偽善』は悪いのか。
飢えた者には『善』であろうが『偽善』であろうがパンはパンであることにかわりは無い。
『偽善』が醜悪なものと思えてしまうのは、自分がその立場により近く、心根一つで容易にそっちに転びそうだということがわかってしまっているからかも知れません。
社会的立場で否応なく両者が別れてしまう以上、「質問者」である側の心の有り様がより重要だということを考えなければならない、といった問題提起的質問だったのでしょうか。またはそういうことも含まれているとか。

本当にそうなのか?ちょっと回りくどいぞ。しかも小説からどんどん離れてく。
と、また原点に立ち戻ろうとするわけです。


ハザマ

人はパンのためにのみ生きるのにあらず
人はパンだけで 生きるものではない。

安易に使ってしまったけど、意味深そうな言葉ですね。
多分わたしの解釈は偏見であったと思います。
神への信仰が先にある言葉だと思うので、反語のようなその先にあるものは、おそらくわたしが思っているようなものでは無いのでしょうね。
表面上の過った意味で使ってしまったのだと思います。
意味を知りつつ読んだ方々、もうしわけありません。


深夜の市長

6:25 だから,あなた方に告げる。何を食べ,何を飲もうかと自分の命のことで,また何を着ようかと自分の体のことで思い煩ってはいけない。命は食物より,体は衣服より大切ではないか。 6:26 空の鳥たちを見なさい。種をまいたり,刈り入れたり,倉に集め入れたりしない。あなた方の天の父がそれらを養っておられる。あなた方はそれらよりもはるかに価値のあるものではないか。

6:27 「あなた方のうちのだれが,思い煩ったからといって,自分の寿命に一キュビトを加えられるだろうか。 6:28 あなた方はなぜ衣服のことで思い煩うのか。野のユリがどのように育つかをよく考えなさい。労したり,紡いだりしない。 6:29 だが,あなた方に告げるが,栄光を極めたときのソロモンでさえ,それらの一つほどにも装っていなかった。 6:30 では,神が,今日生えていて明日かまどに投げ込まれる野の草にこのように衣服を与えておられるのであれば,あなた方にはなおのこと衣服を与えてくださらないだろうか,信仰の少ない者たちよ。

6:31 「だから,『何を食べようか』,『何を飲もうか』,『何を着ようか』と言って思い煩ってはいけない。 6:32 こうしたものすべては,異邦人たちが追い求めているものだからだ。あなた方の天の父は,あなた方がこうしたものすべてを必要としていることをご存じなのだ。 6:33 むしろ,神の王国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば,こうしたものすべてもあなた方に与えられるだろう。 6:34 だから,明日のことで思い煩ってはいけない。明日のことは明日が思い煩うからだ。その日の悪いことだけで十分だ。

マタイによる福音書にはこう書いてあります。イエスは「パンなしで生きろ」とは言ってません。

肉体には肉体に必要な糧を与え、精神には精神に必要な糧を与える、飢える者にはパンを与え、そうでない者には福音を与える。というのが原始キリスト教の基本であった、と自分は理解しています。


深夜の市長

6:7 祈る時は,異邦人たちがするように
無駄な繰り返しを費やしてはいけない。
彼らは言葉が多ければ聞かれると思っているのだ。
6:8 だから,彼らのようになってはいけない。
あなた方の父は,あなた方が求める前に,
あなた方の必要なものを知っておられるからだ。
6:9 このように祈りなさい。『天におられる
わたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖な
ものとされますように。 6:10 あなたの王国が
来ますように。あなたのご意志が,
天におけると同じように地上においても
なされますように。

6:11【今日,わたしたちの日ごとのパンをお与えください。】

6:12 わたしたちの負い目をお許しください。
わたしたちも自分に負い目のある人たち
を許しますから。 6:13 わたしたちを誘惑に
陥らせることなく,悪い者からお救いください。
王国と力と栄光は永久にあなたのものだからです。
アーメン

15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言った,
「わたしは群衆に対して哀れみを抱く。
彼らはもう三日もわたしと共にいるのに,
食べる物を何も持っていないからだ。
わたしは彼らを空腹のままで去らせたくはない。
そんなことをすれば,彼らは途中で気を
失ってしまうかも知れない」。

マタイによる福音書より


ハザマ

教えてくださってありがとうございます。(すごいですね。)
ジャストではないですが、完全な誤用でもないとわかりました。
が、問題はクリスチャンでもない人間がろくに調べもせずに安易に使ってしまったことにある気がします。
自分の信仰の中にある言葉を意味もわからない者が不適当に使っていたらいい気分ではないでしょうから。
他のことならここまで気にならないんですが、宗教が絡むと恐いというのもあります。
例えとしてはいい文章なので、使えなくなるのは残念ですが、別の言葉を考えます。


蘭丸

「ハザマ」さん
啄木の「作家としての矜持」というご指摘は鋭くて正確だと思います。
「ハザマ」さんの着実に問題の筋道をたどろうとする態度には感心します。

「イワノフ」さん
「いい加減」という割には、厳密な論理展開ですが、「イワノフ」さんが反語的に言うのとは逆の意味で、論理学の問題設定のように、論理のための論理になっては、おもしろくありませんね。基本的な姿勢に賛成します。

* * * *

なにか、問題がいろいろになっていますが、「深夜の市長」さん「ハザマ」さんが出された宗教的なテーマについてちょっと感じたこと。

自分がカイジンの作品を読んでいて(映画でも同じ)、違和感を感じるのは、宗教に関わるときです。
例えば、「ハザマ」さんが「生物的に人間であれば人間だと思います」と言うとき、自分は賛成しますが、一神教、特にキリスト教徒はそう考えない可能性があります。
クリスチャンにとって、神から預けられた魂があるのが人間のようです。
欧米人が臓器移植に日本人ほど抵抗がないのは、魂(この場合意識・精神)がない人間は、ただの肉体であって、それ自体は動物と同じだと原理的には考えるのではないでしょうか。

立花隆が「地獄の黙示録」について書いた評論を読んだとき、自分はつくづく欧米をごかいしていた、と思いました。
自分を含めて、日本人は欧米文化は多量に取り入れるが、その中の核心である、宗教的なものは、ほとんど見過ごしているか、理解できていないのではないでしょうか。

例えば映画の「マトリックス」はキリスト教のモチーフがいっぱい入っていて、それどころか、ネオが救世主かどうかがテーマですからねえ。キリスト教文化の中で育った人と、そうでない人が受け取るメッセージは、すごく違っていると思います。


ハザマ

>自分を含めて、日本人は欧米文化は多量に取り入れるが、その中の核心である、宗教的なものは、ほとんど見過ごしているか、理解できていないのではないでしょうか。
おっしゃられている意味、何となくわかります。
どんな物でもその形になるまでには経過があります。言うなれば、
繰り返し研究された便利な機能(結果)だけを使っているのが今のわたしたちなのかもしれません。
『物に宿る何か』というとホラーになりますが、見る人が見ればあきらかにそこにあるのに、知らなければ見過ごしてしまう何かがある。

でも考え方を変えれば、その形から何を読み取るかは人それぞれということもあるんですよね。
先の『マトリックス』も、キリスト教文化の中で育った人にこそ本来の意味が読み取れるのかもしれませんが、日本人には日本人なりの別のメッセージを受け取れるかもしれません。
何も正解である必要は無いという気がします。
本来の意味を肌で感じたい欲求があるなら、いちかばちか、その文化圏に入ってみるしかないないですけど。

強引に話を戻しますが、『その形から何を読み取るかは人それぞれ』は、小説にも言えますよね。
万人うけするものが無い(と断言してしまう)以上、その人にとって受け入れやすいもの、必要なものが何であるかが大切になります。
『飢えた子供』と一口にいっても、それぞれが一個人なので、それぞれに合った物が必要になるということで。
やはりここでも食量が先に来てしまいますが、次に来るのが小説だとして、一人一人に合うものを与える必要がありそうです。先ほどの文化圏の話は、一個人単位でも言える気がします。

個人的には、啄木のように「食らわねば」まで行かなくとも、規制(条件)の一切無い状態で、「ああ、腹いっぱい。さ、小説でも読むか」が当たり前となった時が小説が勝利した瞬間じゃないかなと思います。(何に勝利したかは不明)


蘭丸

今日のようにメディアが発達し、一見世界中が同じような情報の中にいるように思いがちな現状では、「異文化の理解」という問題は解くに複雑です。
「ハザマ」さんがおっしゃるように、作品は作者やその生まれた風土と切り離し、作品自体として楽しむことが大事ですね。

それとは別に、違った文化や伝統に対しては、分からないが尊重する、と言う立場が大事だと感じています。

エリア・カザン監督の「エデンの東」という映画が好きなのですが、ある時、この映画は聖書の創世記の「楽園追放」をテーマにしていると教えられました。
聖書を読むと、ジェームズ・ディーンが演じた主人公をはじめ、主要人物、事件や物語が、いわゆるエデンの園の神話を下敷きにしているのが分かります。

ミステリではトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」で、イエスの犠牲と贖罪のモチーフを無視すれば、作者の意図の10分の1も伝わらないし、クラリスの苦悩の理解できないでしょう。
例は悪いのですが、「エヴァンゲリオン」をロボットと怪物の戦いだな、とだけみようなものです。

もちろん、自分は小説家志望の立場で言っています。
作品を作る上で、そうした異文化への関心と、同時に自分たちの文化の理解は、非常に大きな力になると思います。

以上は「ハザマ」さんの意見に反論した、と言うのではもちろんなく、こういう問題意識もあるよ、というくらいの見解です。


イワノフ

ええと、何を書いたらいいか迷ってしまいますが、いくつか断片的に。

> 「生物的に人間であれば人間」「心を失っていても人間は人間」
> 何か付加価値があってこそ人間だというのはある種の奢りじゃないでしょうか。

私にはあまり出てこない発想で、面白いです。これはたぶん、東洋の思想に近く、人間中心のキリスト教とは相反する考え方でしょう。
日本で開発が進んでいる人間型ロボットを、西欧人たちはあまり好まないようです。人間のような形で歩くというだけで、神の創造行為を冒涜すると感じるらしい。われわれから見れば、ロボットは生物的というか機械的にロボットに過ぎず、人間ではないですが、彼らには心を持った人間みたいに見えるのじゃないでしょうか。それほど人間としての自分たちの「付加価値」に重きを置いていると言えるかもしれません。

> 人はパンのためにのみ生きるのにあらず
なるほど。人生の目的ですね、きっと。
目的論的な要素を入れる点が、やはり西欧の特徴なんでしょうか。そうすると、昏睡状態なら少なくとも人生の目的を持ち得ないので、ただの「物体」なのか。ううむ、また唸ってしまいます。

> 異文化の理解
ハザマさんは、日本人なら日本人なりの理解の仕方があると言う。
蘭丸さんは、彼らの価値観を尊重するのも大事だと言う。
私は、両方とも正しいと思うし、さらに文化の違いに依存しないような、人間の普遍的な特質に注目したい。言葉は違っても受け入れる土壌がある点。
これとは別によく言われるのは、西欧の小説を読むにはギリシャ哲学とキリスト教の知識が必要だ、ということです。その上で、例えば実際の食べ物や衣服や住まいの名前などを知っていればもっと理解できるが、これらはさほど重要ではないと思います。

> 一人一人に合うものを与える
食べ物と違って、人数分の量は要りません。また、これをやるには、一人一人に向けて違うものを書くわけにはいきませんよね。できるだけ曖昧な表現(たいていは比喩)を使うことだと思いますよ、たぶん。要は読者に勝手に想像させればいいんですから、なるべくいろんな意味を含んで、どうにでも解釈できるようにしておけば、読者は自分の都合に合わせて、記憶を呼び起こすでしょう。万人に同じ画面を見せる映像作品には不可能な技です。

> 魔の山
今で言う超常現象を描いた場面がありましたよね? 「チャネリング」というのでしょう
か。作者は、非合理的な現象を退けて、合理的な世界観を表現した、みたいな解説を読ん
だ気がします。また、雪の遭難シーンや、古い神殿か何かへ辿り着き、ぐるぐる回った?
ような場面があって、これらは円環的な(キリスト教の直線的なものではなく)時間を
表したのだな、と勝手に思ったように覚えています。ちょっとうろ覚えで申し訳ない。

宗教的あるいは倫理的な問題は奥が深いので、そういう面倒な議論を省略して大ざっぱに考える、というのが私の真意です。
現に、サルトルやカミュにお目にかかったのは倫理学の文脈で、即自とか対自とかを本格的にやろうとすれば、とてもこの意見室で簡単に済ませるわけにはいかないと思ったもので。


PLUMP DOG

一連の流れを見て、ちょっと意見を。
だいたい、意見としては出尽くしましたね、書籍からの引用、宗教と信仰、そして「小説という信仰」とその効能。

「おなかの空いた子供は、笑わないんだよ」

黒柳徹子さんが、困窮する世界に出向いて痛感したことだそうです。笑ったり、怒ったり、そういう過度の感情の発露をするのは「おなかが空くんです」。
まず、こういう議論が「高い位置」から下をうかがうというスタンスにならざるを得ない、ということを考えなくてはならない、という部分があります。

まあ、それはともかくも。
私としては「小説には、人を救う力などない」と思っています。
なぜか?

「一心に念仏すれば、極楽浄土にいける」
「私を信じるものは幸いである」

では「信じる」とは? 「念仏」するとは?
小説の効能も、宗教の力も「心からそれを信じる。ほぼ無条件に、という前提があって始めて生ずるもの、と思っています。
いわしの頭も信心から、それを信じているものが盲目的ともいえる感情をそれに捧げるからこそ、殉教者は生まれ、極貧の中でも小説を書くことを、作品を作り出そうとすることをやめない人がいる。

でも逆に宗教や小説と疎遠な人々がいる。
宗教家がどんなに街灯で声を張り上げても、小説家が幾度原稿を引きちぎり、酒におぼれ、銃をこめかみに突きつけ、それでも筆を尽くし、技巧を尽くしても。
彼らが「それ」に手を伸ばすことがなければ、宗教はまさしく「馬の耳に念仏」だし、小説など、ただの紙くずです。
「心から」念仏しない人は、極楽に行くことはないし「心から」信じないものは救われることはない。
小説を書くものは「書くことしか」できない。無理やり突きつけて読ませたところで、せいぜい「小学生の読書感想文」を引き出す程度でしょう。
物書きの出来ることなんて、いや一人の人間が世界を動かせる、震わせることが出来るなんていうのは。単なる妄想だと思います。
現代におけるベストセラーなんて宣伝効果の一助がなければ実現しなかったろうし、本当はわかっていないのに、周囲の潮流にまかせて「いいよねー」といっているだけの人間には、その書物は本棚の肥やし「紙くず」です。

そんなことはない、ですか? 例として上げられてきた作家達は、少なくとも時を越えて、自分たちに語りかけてくれるじゃないか、そして受け取っている自分がいる、と?
今の時代、ヘッセやトマス・マンを真剣に読んだ人間が何人いるでしょう。
ミルトンといって、哺乳瓶の殺菌剤のメーカよりも先に、作家を思い出す人間は何人いるんでしょうね。
そして、それらの文章から「何らかのもの」を受け取れる人間は? 受け取る前に「受け取り拒否」される気がします。

ニヒリスティックに物を語りすぎましたが、最初の質問に立ち返るなら、私は以上のような仮定・理由から「小説になど、飢えた子供は救えない」と思っています。
集団自殺、電車に投身するリストラサラリーマン、殺人で自己表現する未成年、児童虐待をする親達、かたくなに外部を否定する新興宗教。
そうした、救おうととして伸ばされた手があるのを振り解いて(あるいは気が付かずに)奈落へと落ちていく人々がいる以上は。

じゃあ、小説は無意味だと思っているのか、ですか。
いいえ。そんなことはないです。
本、好きですから。同時に、それに救われている自分もいるし。
小説もまた「人間」が伸ばした「手」ですから。

無限の闇の中に手を伸ばす。恐れながら、ためらいながら、それでも手を伸ばして誰かをつかんであげたい。
痛みを、悲しみを、孤独を、懊悩を、知っているから。
小説は「救う」なんて偉そうな立場に立つことではなく、泥の中に自ら沈み込んででも「助けてあげたい」と願う「祈り」だと思っています。
たとえはねつけられ、はなで笑われて、傷つけられようとも。
それが娯楽作品でも効能は同じです。究極的に言えば、という前提が付きますけど。
どんな作品でも、「人間」を書いていない物はない。それを突き詰めることが作品をいい物にする「一つの要因」だから。
その要因が、人それぞれの「伸ばして欲しい手」へと作品を仕上げていく。
思いを形にして、救いたいと願って動き、助かれば結果に喜び、助けられなければ自分の未熟さを思って、また動く。
「かくあれかし」と願って動くことだけが、人間に許された最大限の裁量。

「小説は飢えを満たすことも、心を救うこともできない。出来るのはそうなるようにと『努力し続けること』だけだ」
これが、私の意見の集約です。

「小説は飢えを満たせるか」
議論することはトレーニングにはなりますけど、それ以上ではないですね。
頭の中だけで物を考えがちなインテリゲンチャの、傲慢とも思えます。
そうやって「自己」を認識して、意見を交換することはいいことだと思い
ますけどね。


ラッシャー上戸

>議論することはトレーニングにはなりますけど、それ以上ではないですね。 頭の中だけで物を考えがちなインテリゲンチャの、傲慢とも思えます。

 そう言い切ってしまうと、日本の純文学を全否定することになってしまいますよ。
「文学界」「新潮」「群像」はこの類の記事だらけ。

 エンタ系作家はともかく純文学作家にとって議論はいのち。
 
 とりわけ現在は平野啓一郎さんのように、インテリゲンチャ以外は相手にしませんよ、という方法論が地位を確立しつつあるわけで。


JOKER

>そう言い切ってしまうと、日本の純文学を全否定することになってしまいますよ。「文学界」「新潮」「群像」はこの類の記事だらけ。

やっぱり、有益な議論と、机上の空論があるんですよね。
「小説は飢えた子供を満たせるか」などと言う議論が横行しているようでは、なるほど、だから最近のジュンブンはつまらんのかと納得してしまいます。


ハザマ

>議論することはトレーニングにはなりますけど、それ以上ではないですね。

その通りだと思います。議論するもしないも実行しないことには何にもなりません。

ただ、ここは『議論することは無意味か』というテーマではないので、わたしは去りますが、このテーマについて話し合うのは続けてもいいんではないかと思います。
(あまり頭から人の言葉を否定しない方向で話し合うことが個人的には望ましいと思っています)

自分がなぜ小説家を目指すのか。はっきり答えられないことにびっくりしました。
答えの無い命題を延々と考えることも楽しかったりしました。
そして違う考え方を聞けただけでも収穫でした。ありがとうございました。


蘭丸

最初の「沙菜子」さんの問題の立て方がうまかったせいか、本当にいろいろな意見が読めておもしろいですね。

欧米対日本(その他イスラム、中国など無数の比較あり)といった比較文化論は、大変おもしろいのですが、些末な習慣の違いの比較なったりすると、袋小路ですね。
その迷路に気を付けながら、異文化を知るというのはやはりおもしろい。
自分の考えや立場を、他者の目から見ると、全く違って見えることがあります。
こういった「意見交換室」もまさに他者と会話(混戦?)であるように、違った文化を知ることは、相手も分かるし、自分も見えてくるのが一番の醍醐味です。

小説の効能というのは、基本的に読んで楽しい、何か心が豊かになる、と言ったぐらいの所にあり、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。
「沙菜子」さんの言葉とは別に、小説に社会的な役割(救済、人権擁護、人道的役割など)が、どうだ、という問題意識は、やはり、左翼の影響を受けた知識人の発想だと思います。
つまり、ある種、議論のための議論みたいなところがあり、そのなかで自分の立場を再発見すると言ったプラスもありますが、堂々巡りに終わる危険性も大きい。

自分のおおざっぱな「感じ」としては、ヒッチコックが映画について言った言葉につきます。
ある映画の撮影中、演劇理論や映画の芸術性に関心を持つ俳優が、ヒッチコックに「この映画の主題は?」とか盛んに議論をもちかけたとき、ヒッチコックは、「たかが、映画じゃないか」と言ったとか(文脈が違う解説がいくつかあり、これはそのひとつ)。

もちろん、ヒッチコックは、人生のすべてを映画にかけていたと言っていい人で、世評では単なるサスペンス映画の監督と思われていましたが、革新的な映画技法を生み出しました。
ヒッチはおそらく、自分は最善の努力で最高の作品を作る、しかし、それは世間では、たかが映画なんだ、それはそれでいい、という裏返しの自負があったとおもいます。
尊敬するヒッチに習って言えば、小説に対しても自分はそう思います。

「たかが小説じゃないか、本読んで腹がふくれるわけないよ。ても、暇つぶしになるおもしろい本も、あるにはあるからな」

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