・自己満足のための執筆か

掃除夫

あなたは、市場の小説に何を求めていますか?
そして、あなたは自分の書く作品で、自分が市場の小説に求めるものを書けていますか?
僕がこういうトピックスを提言するには、次のようなことを感じたからです。
ネット上を回って色々な作品を読むのですが、どうも自己満足のために小説を書いている人が非常に多いと感じたのです。
もちろんそれが意味のないこととは言いません、しかし、多くの人に気持ちよく読んでもらいたい、商品にしてみたいと思いませんか?
それには他人を意識して、もっと言えばターゲットユーザーである年齢層を意識して作品を書くほうが良いように思えます。
このことを突き詰めることで、作品のレベルアップが図れると思うのですいかがでしょう?


大井

純文学系が大好きな僕。読むのは小説における人間の心の動き、考え方を楽しむため。
日常で見落としていた何気ないそぶりや、しぐさに意味があることを作品によって教えられたときほど得した気分になる。
そういう気分を求めて、また別な作品に手を伸ばす。
自分では書けない。
書けないからこそ、いつの日にかと思って何作も読んでいる。
自己満足で完結しているといわれれば、それは仕方ない。
人間が未熟だからとしか言えない。


「あなたは自己満足のために小説を書いていないか?」という題名に惹かれるところがあってカキコさせていただきます。
 私も、いろいろなネットを回って作品を読んだのですが、とにかく読みづらい作品が目立ちました。文章の技巧に走リ過ぎていたり、オリジナルな用語を多用しておいて、説明がなかったり。趣味でならば良いのでしょうが、作家を目指している場合は、それではまずいと思います。
 最低、他人に心地よく読んでもらえる文章を書くということを意識しなくてはならないのではないでしょうか。
 ただ、最後のターゲットユーザーを意識してというとこが少し引っかかりました。ターゲットを意識することは大切ですが、それに媚を売って話しをつくってしまっては、よくないと思います。
 自分の書きたいものをターゲットにわかってもらえるように表現すれば、ターゲットに共感を得ることが出来ると思うのですが。これは、私の理想に過ぎないのでしょうか。
 文章うんぬんと書いておいて少しわかりづらい文章ですいません。


黒猫

私は、自己満足は小説を書く理由のひとつとして、自己満足を大事にしてます。
自分で満足のできないものを書いてどーするか、というところもありまして。書き上げたときの達成感、けっこうたまらないものがあったりします。必要な執筆原動力のうちのひとつです。

もっとも、他の読者さんに読んでもらって、その評価が低かったことに対して不快感をあらわにしたりするのが、悪い意味での「自己満足」になるのでしょうね。
読者を意識しないで書いている人が、インターネットで小説を発表するはずがありません。特定少数の読者がターゲットだったり、あるいは「自分の小説をわかってくれる人」がターゲットだったりするケースも、当然ながらあるでしょう。誰かが読むであろう、という狙いで小説をネットで公開しているわけです。
もっとも、書き手の狙い通りに読者からのリアクションが来るとは、限らないわけです。

もしも、ネットで読む小説の大部分が、読みやすい文章で内容にもオリジナリティがあり、読み応えもあって魅力に絶えないものだとしたら、みんなプロになって出版物市場をにぎわしてくれればいいだけのことです。
現実には、あまりにも当たり前のこととして、そこまで実力の突出した人は少数なのではないでしょうか。自動車を運転する人がみんなレーサー並みの運転技術を持ってるわけではないですし。


辰田淳一

 多分「自己満足」の定義自体が問題になるんでしょうが……。
 僕自身も、自己満足が大きな小説を書く理由であるというのは賛成します。
 自己満足というのは僕にとっては最低条件で、自分に満足の出来ないようなものが、人に面白いと思ってもらえるとは僕には考えられません。
 その点から、まず自分にとって満足できることは最低条件です。
 「こんなのどうなんだろ」とか迷っているのが実際には大半ですが、それでも 「まあ自分なりにはいいものが書けたんじゃないかな」と、そう思える作品を書くようにしてます。

 ただ問題は、その時に自己満足を履き違えている人だと思います。
 小説を書く人というのは、それが表立っているかどうかは別として、多かれ少なかれ自分を他人にアピールしたい人だと僕は思ってます。
 その自己アピールの時に、自分を分かってもらおうとする努力を怠って、理解されないことを相手のせいにしようとする。それが問題点かな、と。

 自己満足は「動機」であって、それが結果の全てを覆ってはならないんじゃないでしょうか。
 完成させた後に一定の満足は得るにしても、それを全てにせずに、もっと上を探す「満足しきれない部分」を常に持ち続けるべきかなと。
 僕は、対象とする他人とか更には年齢層とかを意識するのは、そのように「人に伝える努力」を重ねる中で、後からついて来るものだと思ってます。

 あと、傍論ですが、僕自身は「年齢層」と言う形で対象を意識したことはありません。
 嗜好としての対象はありますし、それがある程度は年齢層にも繋がるのかもしれませんが、僕自身はそういう認識はしたくないなぁと思ってます。

 とまあ、こんなコメントをしている僕自身が「自己満足」に陥ってる可能性もあるわけですが。


ユカル

個人サイトで発表する小説って……そこに住んでる人が手芸とか絵とか書道とか、ちょっと気に入ったのが出来たわって感じで茶の間とか玄関とかに飾る物なんじゃないでしょうかね。


藤沢晶

 私も「自己満足」を小説を書く原動力の第一に置きます。自分の好みを曲げて他人が喜びそうな作品を書く時もありますが、それもやはり、他人を喜ばせたいという私自身の願いや欲に拠るものです。
 それはさておき、私も色々な小説サイトを見て回りましたが、掃除夫さんと同じような感想を抱きました。技術の巧拙はともかく、巧くなろうという工夫や実験があんまり見られないようです。確かに、これには何を目的として書くのかという書き手の事情が大きく左右するのでしょうが、私が惜しいと思うのは、文章センスや映像センスなど感覚的な部分ではプロと比べても遜色無い書き手がいるのに、それに見合った技術の向上を試みる書き手がほとんどいない、特に「文章の脂肪を削り取る」という作業に頓着する書き手がほとんどいない、というところです。作者はその表現や形容詞が気に入っているのだろうけど、そこは削った方が全体として映えるだろうに、と、少し悲しくなります。プロの文章というのは、切ないまでに余分な表現を削いでるんですよね。
 私としては、読者を意識するのは作品を客観的に見つめるための手段として、「ある年齢層をターゲットに」というような市場論よりも、まず基本をきっちりと身につける方が大切だと思います。
 これはもちろん、私自身がまだ基本を習得していない、というか、可及的速やかに習得する必要がある、から言うのであって、もし身についている方がいらしたら、「失礼しました」と頭を下げる他無いのですが。


文芸サイト放浪人

私もまた文芸サイトを放浪して回っています。
そうですか自己満足ですか。・・・同じような事を感じる人間がいるもんだなぁ。

私は、あれらは自己満足的な小説というより、一種のコミュニケーション手段ではないかと思うのですよ。特に掌編ね。
ストーリーの起伏に乏しく、狭い限定された世界の設定、そしてその中で進行する、愛と称する浅い理解。作品の底流にある思想としては決まって軽い虚無、または未熟なニヒリズム。
奇妙な事に、これらに没頭する事は、私には絶対にできません。優れた作品ならば、熱中し没頭する事もできますが、それができない。いつもはじき出されます。
なぜか。
私はこれらの作品は、読み手に書き手と同じような精神構造・共感する型を要求するのではないか? と仮定しました。
作品そのものが、完全に拒絶するか、完全に受容するかどちらかを選べと読み手に要求するのではないかと。これは要するに作者の願望ですな。人とコミュニケーションがとりたい、だが、傷つくのは絶対に嫌だと。
排除or受容。
そのためのゲートとして作品を作り、入れるやつだけ共感する。またはさせる。完全な受容か、あるいは完全に拒否するかの、究極のコミュニケーション手段。
つまらないのも当然ですな。そんな狭い世界は小説ではねぇし。

ま、それで、その旨をさるサイトに書き込んだのですが。
反応はゼロでした。
なんて反応してよかったのかがわからなかったのか、または、突然現れて、自分達の支持する世界にそんな評価を加える人間を黙殺しようと思ったか、あるいは私の考察が全然的外れな
のか、どれかだったんでしょうね。


掃除夫

結構意見が入っているので、提言者としてはかなり嬉しいです。
意見の多くが自己満足についてですね。
う〜ん;
市場の小説に求めているものは何ですか?
そして、自分の書く作品で求めるものを書けていますか?
これに対しては少ないですね。
やっぱ自己満足と市場小説に求めるもの。
この二つのテーマは分けた方がよかったかな?
僕としては関係していると思えるんですけども。
ですから、できれば、市場の小説に求めるものはこういうことっていうのも書いてほしいなぁ〜って思います。
で、僕が市場の小説に求めるものは、読んでなにか生きる力を与えてくれるもの、新しい価値観を教えてくれるもの。
僕の書く作品のテーマや伝えたいことも当然そういうもので、アクションをメインにしながら、生きる勇気や力を与えていく小説が書けたらいいなって思って書いています。
一言でいうと、爽快感かな?


藤沢晶

 私は市場に出回っている諸作品に対して二種の姿勢で接します。一つは純粋な読書好きとして、もう一つは同じ書き手として、です。
 読書好きとして読む際には、作品を楽しもうという意欲で頭がいっぱいになり、欠点なんか放ってすぐに忘れてしまいます。色々とある小説の面白さの中でも、人に対する鋭い洞察が描かれている部分は特に琴線に触れやすいようです。もちろん、作品世界や文章などにも感動することはあります。
 書き手として読む際には、私はかなりの皮肉屋で重箱の隅をつつくような読み方をします。最近これには飽きてきたのですが、他人の作品を分解することによって、他人の短所から自分の短所を省みることもできましたし、また、他人の長所を自分の中に取り込むこともできたように思います。特に、文章のリズムやそこに刻まれる情感に関しては、太宰治や谷崎潤一郎といった大家はもとより、アマチュアの方からも多大な影響を受けました。その点について言うと、エンタ系のプロの作家からは、ほとんど何も得るものは無かったようです。
 総じると、私が市場に求める第一のものは、読み手としては「人物」、書き手としては「文章」です。それを踏まえて私の作品を振り返ると、どのレベルにまで至っているかは別として、やはり「人物」と「文章」にはこだわっているようです。ただ、そのこだわりが暴走して、作品全体としての形式美を損なったりもしますが、そこら辺は現在の私の課題だと考えています。


黒猫

行く行くはプロデビューを目指す者として、正直なところをひとつ。

文章がヘタで物語がマンネリでつまんなくて、向上心のないアマチュア作家さんばかりだと、たいへん助かります(苦笑)。
みんな上手で面白くて向上心があったりしたら、私のプロ作家の椅子がどんどん遠のいていくじゃないですか〜。

一応はプロを目指す以上、みんな競争相手ですから。
本当に上手で面白い作品を書ける人は、少ないほうがありがたい(^^;。

PS:その一方で、面白い小説を読みたい〜、という欲求もあるんですけどね(笑)。


黒猫

市場の小説に求めるものは、プラス志向で想像力豊かなものです。
いや、市場の小説っていうか、私個人が読みたい小説なんですけどね(笑)。
だからたとえば、オズの魔法使いとかムーミンのシリーズとか。童話系は、比較的安心して楽しく読めていたりします。想像力とハッピーエンドに関しては、私が崇拝する(^^;神林長平さんの市販小説はどれもオッケーです。

嫌いなのは、二匹目のドジョウ狙いとか、流行に乗ってるだけのやつとか。
サイコブームしかり、ホラーブームしかり。どれかひとつ大ヒット飛ばすと、似たよーなのがぞろぞろと、ってのが生理的にうけつけません。小説が面白くて売れているのかどうかより、出版業者の広報活動、営業努力が実って、売れているんじゃないかと思うことしばしば。

あと、殺伐としていたり陰鬱だったり、心の痛むものだったり。可愛そうな話とか。
記憶には残っていないんですが、テレビでやってた「フランダースの犬」の最終回、
親の話によると私は可愛そうすぎて見るのをやめたのだそうです。最近だと、SF小説で「ハイブリッド・チャイルド」や「たったひとつの冴えたやりかた」のラストシーンだけ、可愛そうで読めていません。そういうのは、私個人としては読んでいて楽しいと感じません。
ただ市場的には、心の痛むものほどうったえかけるものが強いため、ウケることがあるみたいで。


T.T

市場の小説? 小説を読むのは現実の嫌なこと忘れるため。
スカーッとした気分になりたい。
読みたい小説と自分で書きたい小説は違うけど、そういうの俺だけ?

自己満足な小説すら書けていない。
当面の悩みはジャンルなんだ。
心に立ち上げてるけど。


司柊

小説が「商品」として成り立つためには、徐々に読者を獲得していく必要があると思うのです。
書き手側から考える時は、

1、自分だけが、満足すれば良し。
2、自分と自分に極めて感性が近い何人かが、満足すれば良し。
3、自分と自分の所属する階層(例、同年代、同業者、同境遇)を理解できる人が、満足すれば良し。
4、自分と不特定多数の人が、満足すれば良し。
5、小説を読む人全員が満足する。

というような段階を踏むことになるでしょう。
このうち、1は他人との関わりを最初から考えていないし、5は不可能なので除外します。

掃除夫さんが他人を、年齢層を意識して作品作りをしてみませんかとおっしゃっているのは、2から3へ、または、3から4へ行きましょう。と誘ってらっしゃるのだと思いますが、書き手側からターゲットを想定するのは、危険だと思うのです。
現実に読み手と対話しながら、修正していかないと「架空の読者」を作ってしまうのではないでしょうか。自分にとって都合の良い読者と一人遊びをしているのに気がつかない状態に陥ったら、そこで読者の獲得はストップしてしまうでしょう。

ちなみに私はいくつも読んではいませんけれど、1の人には会ったことがありません。
2の人は楽しそうです。他人の趣味にケチをつける気はないので通り過ぎます。
4まで行ったらプロでしょう。
3の人は時々見かけます。


掃除夫

市場の小説に求めることを、自分の書き出す作品で表現できること、これが出来ると、僕は自分の殻をひとつ破ったことになると思っています。
もっと欲をいえば、テーマや文章力、小説が生み出す情緒、オリジナリティーまで加えて出来るならば、プロ目の前と思えています。自己満足は、多くの方々が指摘するように、作品を書く純粋な原動力であることは否定しません。

しかし、どこまで自己満足させればいいのかという部分で、読者とのズレが大きくもなり、小さくもなると思えます。

ネットを回っているとそのこだわり、価値観の違いに驚くことがあると思います。
こだわった表現や形容詞がどうも的外れ、同調しない他者を拒む作品の形、上文の文芸サイト放浪人 さんや、藤沢さんの一文にあることですが、特定読者のみ受けつけますのような作品は、意外と多く見受けられます。

それを破るために、市場の小説に求めることを自分の作品に当てはめる。
そこには明らかに、読者を意識した文章があると思えるんです。
司柊さんの憂慮する「架空の読者」に関しては、自分に都合のいい読者を決めては駄目で、平均的な一般読者、一般常識の情報を作者が、いかに多く身に付けるかで避けることが出来ると思います。
ただ、自分に都合のいい読者と、特定のユーザを意識して書くと言うことは違うことです。
これが分からないと大きな間違いを犯す危険があると思うのです。
特定のユーザー(たとえばエイズに苦しむ人とか)を意識するということは、その対象の求めることを知る必要があり、そのユーザーに足りないものや、ユーザー自身も分からないが欲しているものを提供してやることが必要だと思うんです。
都合のいい読者(自分の作品に共感してくれる人)の場合は、対象の求めることを知る必要はありますが、他の二点に関しては必要ないと思えます。
抽象的な言い方で判りにくいかな?


司柊

「その対象の求めることを知る必要があり、そのユーザーに足りないものや、ユーザー自身も分からないが欲しているものを提供してやることが必要だと思うんです。都合のいい読者(自分の作品に共感してくれる人)の場合は対象の求めることを知る必要はありますが、他の二点に関しては必要ないと思えます。抽象的な言い方で判りにくいかな?」

この文章がわかりません。
判りにくいかもしれないと思われたら、推敲なさることをお薦めします。
私はメモ帳に下書きしていますが、たいてい3回は書き直すことになります。
それでも3日も経つとわからない言い回しとか出てきて、「君の行く道は果てしなく遠い」と歌い出すことになります。
一発でぽんと書ける文章力を早く手に入れたいものだと思います。

この文は
自分が読んで欲しいと思っている読者層の
1、欲求
2、潜在的な欲求
3、不足している……。ここが分からないのですが、知識? 情感? のうち、自分の作品に共感してくれる人なら、2と3はいらないということでしょうか?

説明不足だったようなので、補足します。
「架空の読者」と「自分の作品に共感してくれる人」は違います。
現実に存在しているかたであれば、それは、あなたの作品がその人の好みということです。

「自分とって都合の良い、架空の読者」というのは、こう刺激を与えれば、こう反応するはずだと、書き手が「想像」する読者のことです。
もちろん、何人かは想像したとおりに反応する事もあるでしょう。
長い感想の一部分は想像したとおりということもあるでしょう。
そこのところだけ拡大して、予想通りの反応が来たなどと勘違いすると一人遊びへ一直線してしまうのではないかと思うのです。

例えば、私は自分の文章の”「架空の読者」を作ってしまうのではないでしょうか。”
この部分が一番他の方の「発言」を促す刺激になるはずだと想定して、前文を書きました。
思ったとおりにこの言葉に反応していただけたわけですが、「自分の作品に共感してくれる人」と同じだと思われてしまうことは考えていませんでした。
独りよがりだったわけです。私はもっと架空の読者の定義について書かなくてはいけなかったのです。
こんな風に対話しながら、文章を整えていけば、より多くの読者から共感を得られる文章になるのではないかと、期待しているのです。
その際は現実に存在する人が相手である必要があるのではないでしょうか。

私もこの「架空の読者」問題は一般常識の情報を集めることで回避できるかと思います。
勉強になりました。


掃除夫

まず最初に次の部分は、
- 都合のいい読者(自分の作品に共感してくれる人)
-自分の作品に盲目的に共感してくれる人。
と書くべきところで、文字の書き忘れです。これは現実には居ても非常にまれな存在。
つまり作者に都合のよい想像上の読者と考えてください。
司柊さんの言っていることとほぼ同じです。

そのような人物が求めるものを考えるということは、とどのつまり、自分の中での書きたい物である。――このような形になる傾向が強いと思えます。

では肝心の次の三点について解説しましょう。

「対象の求めることを知る」、「対象ユーザーに足りないもの」、「ユーザー自身も分からないが欲しているもの」

対象の求めることを知る。
対象ユーザーの求めていることを調査し、知ったなら、作品で応えてやる。
上記の都合のいい読者の部分で書いた、頭の中で欲求を想像し、作品として書く。だけではなく、プラスアルファーの調査が本当の意味では入ります。
応えるとは、ストーリー面、描写面、など色々含みますが、あえていうならストーリーで読者の要求を満足させるものを書く。
ここでは読者が作品作りの主導権を握るのです。

ユーザー自身も分からないが、欲しているもの。
これはかなり高度なものを作者側に必要とされると思います。
つまり新鮮さ、過去にない斬新な作品を作りましょうということです。
潜在的な欲求に応えるということにもつながりますが、何が潜在的なのか? 何がマンネリ化を起こして不満があるのか?
言葉やアンケートでもなかなか分からないものだと思えます。
これは、カリスマ的なセンスが作者に必要なのかもしれません。
ここでの主導権は作者ということになります。

対象ユーザーに足りないもの。
これは作者の忠告的なメッセージです。対象ユーザーを考えた場合、作品によって特定の人だったり、若者という大きなくくり分けしか出来ないものだったり色々あると思うのですが、そこには甘えや、ちょっとそれはおかしいぞ、ということが探せば見つかるものです。
それを、一般常識的に見て、とか、人間として、などの形で注意してやる。
作者が考えておかしいと思うことがあれば、それをメッセージとする。
何か大切なものを気づかせてやる、手助けのようなものです。
ここでは完全に作者が主導権をにぎります。

これらをうまく作品にちりばめることで、単なる読者の顔色伺いの作品ではなく、作者の色を出した個性のある、面白い作品が出来ると思えるのです。
その表現方法や、書き方はそれこそ千差万別。
登場人物に語らせるとか、ストーリーの流れの中で匂わせるとか、直接、解説してしまうとか、それもまた個性につながってくるような気がします。
実は、分かっていても、なかなかうまく出来ないんですけど、いい作品作れるように互いにがんばりましょう。
小説全体のレベルを上げることが、小説人気の復活につながると思う僕でした。

まあ、また一発書きみたいにしちゃったんだけど、なんとなく分かります?

作者に都合のよい想像上の読者なら、その潜在欲求や足りないものは指摘できないでしょうそこにあるのは、作者自身の自己満足が具現化したようなものだから。


司柊

掃除夫さんのお考えはわかったのではないかと思います。
私にとってユーザーさんを意識するというのは、ユーザーさんが「言葉」にしたことのない「想い」を作品にして提示するということです。

心の中にあるかたちのないものが、「言葉」を与えられて(私のわだかまりはこれだったのだ)と思うとき、出口を見つけた感情が「浄化」されていくのを感じます。


掃除夫

分かってもらえましたか? それはよかった。

司柊さん、ユーザーが言葉にしたことのない想いとありますが、それは作者である第三者がどのように知るのでしょう?
作者の頭の中で推測なり、想像して、このユーザーは、こういう悩みや、わだかまりがあるだろう、という自己解釈なのでしょうか?

僕の言っているどれにも当てはまらないなぁ。
つまり、ユーザーが抱え込んでいる
本人にもよく分からない心のモヤモヤ感、わだかまり、
原因がよく分からないイライラ、不安などの情緒的なものを
考え探ることでユーザーを意識し、
そして文章として明示化することで、
そのユーザーの不安を解消する手助けをすることができる。
そういった作品作りを目指すということなのでしょうか?
でも
不安やモヤモヤを明示化することで、自己解消できる人もいるでしょうが、その解消を手助けするために、方法を提示したりはしないのかな? 
作品によって、この辺りは使えるときと使えないときがあるのでしょうけど。
司柊さんのように、色々と人生のことを、人間のことを、本人自身に気づかせ成長させるというのは、いいことですね。
僕は自分の考えを少し押しつける形で、提示してしまう。
それが個性のひとつと思えるんで。
こうやっていると、色々気づかされますね。


司柊

「それは作者である第三者がどのように知るのでしょう?」
私もここがネックだと思います。
それで、情報サイトに通ったり、掲示板に取材したいことを書き込んだり、新聞を切り抜いたりして、せっせと情報を集めています。

で、今思いついたのですが、ネットの小説って「私はこういう小説が読みたい」というサンプルの山ではないですか? 
なんらかの共通項を見つけられたら、市場調査として有効になるのではないでしょうか? 


藤沢晶

 私はどのようなテーマを扱う時でも、「読者の問題を解決するために方法を提示したり」はしません。また、難解な哲学や心理学的解釈を披露することもありません。ただ、私の想う悲しみや喜び、そして楽しさを、できるだけ共感しやすい形で読者に提出するだけです。私は文章に情感を刻むことに執着しますが、それは私の提出したい想いを、できるだけ適切に読者に伝えたいがためです。そしてネット上の小説に対して「もったいない」という感を抱くのも、僭越ながら、より適切な表現形式を採ればよりその感動が伝わるのではないかと思うからです。

 黒猫さんは、「 面白い小説を読みたい〜、という欲求もあるんですけどね(笑)」と仰いました。
 私はまずなりよりも、面白さに感動を求めます。感情の躍動を求めます。言ってしまえば、感動したがりなんですね。その為に、本を読み、物語を書いているような気がします。その根本を据え置いて、上記の発言を知的風に繕ってしまったことを、皆様にお詫び申し上げます。
 掃除夫さん。私は個人的に「〜すべき」のような説教臭い物語は苦手ですが、いかがなものでしょう。「〜すべき」的な雰囲気は、物語の感動を削いでしまうように思われるのですが。それとも、これは単に好みの問題なのでしょうか。


ずっか

ネット上のやつらが自己満足文学をやってるのはしょうがねえですよ。
そいつらのほとんどがプロ目指してねえやつばっかりだから。
でも、目指してるヤツでも明らかにそれって自己満足でしょ? ってヤツもいる。そいつらはプロっつーもんへの自覚がないか(だって売れなきゃ意味ないでしょ、プロなら。だったらたくさんの人から支持もらえるもの=自分の望むものってなるのが当然だと思うんだけど…)自己満足ってもんの線引きができねえでいる。正直自分もどこからが自己満足かわかんないんだよね。

ってゆーのは自己満足に見えない自己満足ならOKなわけじゃん?
「もー、俺こういうのが書きたかったんだよねー。読者?んー、関係ないね」ってゆーヤツがいたってよ、いい文学作品はそいつの意識なんか関係無しにいいわけさ。
逆にアタシみたく「読者は神様です」って思ってたってダメなもん書いてりゃ自己満足って言われるだろうし。
大事なのはどれがイイ文学、支持される文学かを見極める目だよね。
それさえありゃあ自己満足でも読者意識してても同じだと思うね。


ロム組

市場の小説に何を求めているか? という一文に興味をひかれました。

私が市場の小説に何を求めているか、ということはただ一つ。文章の手本たれ、ということです。
市場に小説を送る者は書き手のプロでなければならないと思うのです。
特にジュニア小説と呼ばれるジャンルを手がける方には。

例えば、「目をかっぽじってごらんください」という表現もありました。「目をかっぽじったら見えません」なんて突っ込みを入れつつ(ギャグではないみたいでしたので)、意味がわからなかったりうろ覚えだったりする語をプロは使って欲しくないなぁ、と思ってしまいました。

全てにおいて完璧でなければならないということではないにしても、少なくとも一旦市場に出たものは、読み手に影響を与えるものだし、それが正しいとインプリンティングされることもあるのだという危惧を、書き手には常に持ってもらいたいと思います。
「そんな制約に縛られていたら描きたいものが書けない」というのであるなら、それこそが自己満足のための小説ではないか、と私は思います。

と、皆さんとはなんだかかなりズレた意見で申し訳ないですが、最近の小説を読んで、素人の私に「この表記は違うでしょ」と突っ込ませるプロの作家さんが意外に多いことに、思うところがあって投稿してみました。プロを目指す方々にご一考頂ければ幸いです。


一砂

私もつい最近、これで悩んでいました。
自己満足だな、と気付いたんです、自分の文章が。
でも、他人のため、他人が喜ぶように、他人の求めるものを書かなきゃ、と自分を追い詰めていった結果、全くかけなくなってしまって……。
だから私は、「自分のため、自分の作品を読んでくれる人がそれを読んで喜んで心から『面白い』をいってもらえるために書く」と考えています。


KURIO

 自己満足のために書いている、これが大前提でしょう。

 一砂さんの「他人のため、他人が喜ぶように、他人の求めるものを書かなきゃ」
 僕も悩んだことがあります。特に書いたものを読んでくれる人が少ないと、とにかく読んで欲しいと考えて、読んでくれそうな題材を選んでしまうこともありました。
 でも、それは僕の大前提である「自分の中で生まれた話を、誰かに伝えたい」を無視してしまってるんですよね。本末転倒というかなんというか。
 まあ「他人に認めてもらいたい」意識も強いですから、それが影響してるんでしょうけど。

 ちなみにどんなものが流行っているか? という市場調査はやってます。
 それは「それじゃあこれが流行ってるから、似たのを作ろう」では無く、何故人を惹きつけたのかを研究するためだったりします。


藤野たかね

私の意見を言わせてもらえるならば、「作家には商人ではなく職人でいてもらいたい」という事です。
確固とした信念を貫き、自分の今もっている力をすべて注ぎ込んでやる!ぐらいの気迫をこめて書かれたものであれば、自己満足とは呼ばれないような気がします。
もちろん、そうすることによって受けるであろう批評も謙虚に受け止める精神が必要ですが。
(批評と中傷は似て異なるものですので、そのへんの見きわめも難しいとは思いますがね)

基本的に、人がありったけの思いをこめて書いたものには何かしら迫力のようなものがでると思うんですよ。
地味でも「いい仕事してるなあ」と呼ばれるプロ作家。
そういうものに、私はなりたい(宮沢賢治かい!)。
けど、理想論でしかないのかなあ……結局日本は資本主義の国だし。

私が市場の小説に求めているものは、やっぱり面白さでしょうかね。
本当に面白い!と感じた小説を読破したときは、ドーパミン出まくってるのがわかりますし。
余韻がすごく気持ちいい小説って、頭の奥がジーンと痺れるような、蕩けるような感じになっちゃいますから。
私もそういう気持ちを起こさせるような小説が書ければいいんですけどね。

なんだかトピの趣旨と微妙にずれた発言をしてしまい申し訳ないんですが、こういう考え方のやつもいるのか、と思って大目に見てやってくださると嬉しいです。


文章構成の話じゃないですよね? 自分のカラーの話ですよね?
 たとえば、必死になって他人が満足する小説を書いたとしますよね。
自分のモノとは別物という意味で。
それでウケても、悲惨だと思うのです。
延々、「しっくりこない」「居心地の悪さ」と戦っていかなければならないのか考えるとゾッとします。
いつか自分の時代が来ると考えて、本当に「私の色」だと思えるやり方で書いていた方が良いような気がするのです。どうでしょうか?
私の感覚が読者と似たようなモノなのか不安ですが、人の言う「面白さ」で、一冊分原稿を書けと言われても無理です。
こういうのって、的はずれの文学賞で賞を取った作家さんとかも同じような思いなのでは?


黒猫

たとえば、この広い世界で私一人だけしか面白いと思わないこと、なんてそう滅多にないと思うんです。100人の人間を集めて、99人までが私の感じた面白さを理解してくれなかったとします。たった一人しか面白さをわかってくれる人がいなかった、と嘆くべきではないと思います。だって、1000人いれば10人は共感してくれるし、1万人いれば100人がわかってくれます。日本には1億人以上の人間がいるんです。はたして、何人の同士が潜在しているか、想像してみてください。

自己満足の小説、すなわち他人にその面白さが伝わらない小説というのは、作者の技量不足で、作者が面白いと感じたことが第三者に伝わっていないことが、原因として大きいと考えています。

漠然とした印象を小説にするというのは、心の中の形になっていないもやもやしたものを具体化するという作業です。作者自身が、自分が具体的に何を面白いと感じているのか、それを文章に変換できる程度に明確に自覚する行為も、創作技術の重要な要素だと私は考えます。
漠然とした印象を漠然としたまま文章に落としても、そりゃ誰の共感も得られない自己満足の小説になるでしょう。自分が面白いと感じているものを、他人にわかる形で文章化する技術を持っていること。これが、小説を書く上でもっとも重要なこと、なんじゃないかな?と、いま思ってます。

 ***

この概念、すごい意地悪な言い方もできるんですよね(^^;。

小説に限らず、自分の考えたことや感じたことを、第三者にわかるように文章化する技術って、大事だと思います。たとえば、掲示板の書き込みにしても、自分の感じたり考えたりしていることが、読者に伝わらなければ、それは読者の読解力が不足しているかでなければ作者の文章技術が不足しているということになります。

自己満足の小説ということから思考を展開して、掲示板発言の心構えまで至ってはみたのですがぁ〜……。
いや、それにしても「自己満足の掲示板発言」って、すっげー嫌な響きですね(苦笑)。核兵器まで使って超大型の墓穴を掘ってるような気がしないでもない(^^;。

私は、小説を書いています。より良い小説を書きたいと思い、日々精進しています。だから小説に限らず、文章を書く時には常にこういったことを意識し、文章技術を身につけるよう努力しています。
(こんなもんで保身になってるのかな(^^;なってないですね。反省)


えにっき

一言で答えればその通りです。
作家としての自己を満足させる為に作品を書いています。
作家とは読者に読んで貰う作品を書く人のことです。
読者が存在しない物書きは作家ではありません。


Koba

みなさんの意見を眺めていると、ある大学教授がおっしゃっていた言葉を思い出しました。
その方は、古典文学について語るのに、このように話されました。

現代の文学は、文学のために書かれているが、古典文学は、本人が書きたいことがあるから、書かれている――と。

藤野さんの、商人でなく職人というのにある種通じるかもしれません。
思うのですが、結局、ここに集まっているみなさんは、プロを目指しておられるから、つまり作家として収入を得たいから、読者のことを想定するわけで、プロアマ問わず本質的な意味での作家は、自分が書きたくてたまらないことを書いてしまうのではないでしょうか。
それが他人に理解してもらうことを目的とするなら、それもよし、自分の中の何かを言葉にしたい≒自己満足とも受け取れる、なら、それもよし。たとえば、古典の中でも、自分の手記として書かれて、後世、文学作品として高く評価されることも、珍しくありません。

しかし、現在では、プロの、すなわち職業的作家のみが、作家と受け取られています。
そして、彼らの作品は、お金を受け取っている以上、ある一定のクオリティは必要だと思います。
そう言う意味で、自分の気持ちを伝える技術というのは、あったほうがいいでしょう。
ですが、その伝えるべき内容まで、読者寄りになってしまっていいのでしょうか?

少なくとも僕は、そういう作品には魅力を感じる事は出来ません。


桜林美野

小説を書くのは、私にとって生活の一部です。誰かを想うのと同じで、愛されてるからとか片思いだからということではなく、利益のあるなし以前のことなのです。自分との闘いであり、癒しです。
私は4年まえ、21で母親になりました。夜遅く小説をかくせいで家族に迷惑をかけるたび、お金になりもしないことで生活を犠牲にしている、と悩んだことも一度二度ではありませんでした。
それでも書くこの状態を自己満足というのかも知れません。
でも、自分が満足できる、結構なことだと思います。


ノートン

テーマが錯綜しちゃいましたが、面白かった。

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