・終わりよければ全てよし?

長男の二郎

十五分くらいの短い映像作品を作ろうとしているのですが、その話の「落ち」がありきたりに感じてしまいます。

今までの経験から、終わりが悪い映画は途中が面白くても、後味の悪さが残ってしまいます。
最初の設定から物語を組み立てて「終わり」だけ残ったとき、皆さんはどのようにアイデアをひねり出すのですか? フィーリングに頼らない人のご意見をお聞かせください。


いまだ発展途上人

 私は映像作品を手がけたことはありませんので、小説の場合のお話をします。

「落ち」とか、「終わり方」をどうするか、については、あまり悩んだことがありません。というのは、それらがだいたい決まってからしか書き始めないからです。
  逆に、途中がまとまっていなくても、その「落ち」が決まっていれば、それに向かって考えている内に、中ほどの構成も次第に具体性を帯びてきます(なんだか落語みたいですね)。これは、特に短編の場合には顕著です。長編の場合は必ずしもそうは行きませんが。15分くらいの映像作品であれば、短編と考えて良いので、当てはまるかと思います。

 長編、短編を問わず、エンディングがまとまらずに悩んだこともありますが、その場合は、不自然なままでもとにかく終わらせておいて、「エピローグ」として、後日談などを設け、その中で「ホロリ」とさせるとか、そう言う手法を用いたとがあります。これにより、後味を良くすることも出来るかと思います。ただ、それが映像作品に適しているかどうかは別ですが。

 長男の次郎さんがおっしゃるのが、このこと(エンディングのまとめ方)ではなくて、「とにかく、終わりの部分が出来ない」というのであれば、これは話は別です。つまり、ストーリーである限り、なんらかの形の「終わり」はあるはずです。これが出来ないとすれば、それは構成力不足ということになると思います。これではないとしてお話しさせていただきました。


アキタ

 そこを自分で考えるのが、ものを創ることなんだと思うのですが。


もやし

 オチを無理矢理つける必要はあるのですか。
 15分の映像を視聴者に見せるなら、あなたに与えられた時間は15分です。
 小説も枚数があるなら、与えられたのはその枚数。その時間や枚数をつかって、視聴者に何を見せようとしているのですか。
 持っているものは最大限活用すべし、と言いたいです。


長男の二郎

貴重なご意見をありがとうございます。

いまだ発展途上人さんへ。作家を目指している方にこんなことをいっても仕方ないのですが、映像には数々の制約が付きまとってきます。例えば、予算、場所、人。物語を形にすると、何かと問題がでてくるのです。そのため、できることから作品を作ろうとします。それは最初であったり、途中であったり、最後であったりします。
今回はたまたま途中のアイデアから他を固めていきました。完成はしているのですが、もっと面白くできるはずだという根拠のない自信からこのような質問をしました。

アキタさんへ。確かにおっしゃるとおりです。他人のアイデアをそのまま取り入れた作品は自分の中で創造とは呼べません。しかし、僕はアイデアではなく、方法を教えてもらいたいのです。絵で影を描く方法を教えてもらっても、人それぞれ様々な影を描きます。
どうか発想方法のようなものをご存知であれば教えてください。

ありきたりの話を映像で面白くするのが僕の目的です。人のアイデアでも僕は作品自体がよくなるのであれば、創造へのプライドは捨てれます。最初の質問から外れてしまいましたが、今回に限って皆さんのアイデアを提供してください。


アキタ

 では、方法をお教えしましょう。
 ウンウンとうなって考えます。そんだけ。

 まあ、ひとによってはお風呂にはいるとか逆立ちするとかというのはあるかもしれませんが、結局、自分の脳味噌を使う他無いわけですから、その発想方法も自分で考える他無いでしょう。
 普遍的な「アイデアを出す方法」があると考えてらっしゃるなら、それは大きな勘違いだと思います。

 シナリオの技法としてなら新井一著『シナリオの基礎技術』(ダヴィッド社刊)などを読んでみることをお勧めします。

 で、今取り組んでいる作品の結末を具体的にどうするか? で、悩んでらっしゃるのはわかりますが、それをここで求めるというのは適切でないと思います。
 ここでアイデアを出したとして、その人にとってのメリットは?
 作品におけるその人の立場はどうなるのですか?
 当然その人はスタッフとしてクレジットされるべきでしょう。そういう手続き上の意味からも今回の作品作りの背景などを明らかにするなり、それなりの姿勢を示すべきでしょう。
 もっとそれにふさわしい場所があると思います。


いまだ発展途上人

 少し確認したいのですが、「出来るところから作品を作る」というのは、「その出来る部分を先に撮る」という意味ですか? そして、大半の撮影が終わっているが、終わりの部分がまだ出来ておらず、撮影もしていないということなのでしょうか?


アキタ

 映像作品が様々な制約の中で作られるのは、その通りなのですが、ラストをどうするかというプランも無しに撮影をすることは少なくとも商業レベルではちょっと考えられないです。
 でなきゃ、スタッフは仕事できないですから。


いまだ発展途上人

アキタさん>
 長男の次郎さんに聞いたのですが、アキタさんが答えちゃいましたね。

>ラストをどうするかというプランも無しに撮影をすることは少なく
>とも商業レベルではちょっと考えられないです。
 
 私がいいたかったのはまさにそのことです。つまり、長男の次郎さんが、映像作品を途中の部分だけ(構想だけではなくて)撮影までしているのなら、「そんな、構想もできてない段階で作
り始めるなどとんでもない!」と言いたかったわけです(小説ではそれほど問題ありません
が)。
 そして、そうなのかどうかによって私のコメントが別れます。しかし、現時点ではそうかどうか分かりませんので、あえて長男の次郎さんにお聞きしているわけです。


アキタ

 いまだ発展途上人さんの質問が出る前から、これは触れておきたかった点なんで。
 プランはあったれども撮影の途中でそれを変える必要が出てきたり、変えたくなったりするということならば、商業レベルでもあり得ることだとは思います。
 一応の「スタンダード」の確認ということで。


長男の二郎

撮影はまだ開始していません。僕もすべてが決まるまで撮影するつもりはありません。結末が決まらなくて、すべてを台無しにするのはもったいないですから。簡単にアイデアを提供してくださいというのは都合が良さ過ぎたかもしれません。答えのないクイズを皆さんに出して見たかったのです。そして、その答えから僕には見えなかった発想を参考にしたかったのです。

前に書き込んだように、結末は一つか二つ用意しています。「できること」というのは頭の中で撮影ができるかどうかということです。お金もないのに、レストランを借りたり、セットを作ったりすることはできませんから。今回の場合は、知り合いの小さなお店を借りるか、その辺のファミレスに許可をもらおうと考えていました。
 
皆さんのご意見を聞いて反省していますので、もっと勉強して出直してきます。
ところで、はじめの質問ですが、皆さんの中でどれほど結末は重要なのでしょうか?


アキタ

>皆さんの中でどれほど結末は重要なのでしょうか?

 うーん、そういう視点で考えたことはないです。
 重要は重要なんですけれども物語全体で考えてるので。

 「テレビは頭。映画はラスト」みたいな言い方があるのは知ってますが、それはどっちかというと、制作のエネルギーを掛けるポイントのことであって、物語作りとはまたちょっと違うと思います。

 小説を読んだ体験としては『モンテクリスト伯』で、あの長大な物語を最後の1行がガシッと受け止めているのには感動しました。ローレンス・ブロック『800万の死にざま』でも同じような体験をし、良い小説は最後の1行のために書かれるのだと思いました。


珊瑚のダンス

私は某大学で映画を学んでいる者です。

確かに、捻りの効いたオチや、衝撃的な結末を上手くみせる事によって、観客により大きな印象を与える事は大事ですし、とても難しい事です。しかし、映画の中にはオチがなくても印象深いもの、心に残るものは数多くあります。それは、映画の最大の武器である、「絵作り」から印象を引き出しているのだと、私は思います。
「マグノリア」のように、衝撃的なカタルシスがなくとも、ゆったりとした展開に身を委ね、物語を観客である我々が一人一人考える事のできる作品もあるのです。
例えば、ハリウッド映画には凄い捻りの効いたオチをもった作品が多々あります。しかし、それが印象深いかと言えば、一概にそうとは限りません。
むやみにオチをつける事に悩むのではなく、とりあえず、一フレーム一フレームを無駄にせず(実際、フィルムは高価ですから)「絵作り」していくべきだと思います。
15分くらいの作品にオチをつけても、ただそのオチの為に、そこに行き着くまでのエピソードが機能しているだけになってしまい、「絵作り」の意味がなくなってしまいます。
ならば私は、オチ云々よりも、「絵作り」から印象深いものを組み立てていくべきだと思います。あくまで個人的に、ですが。


黒猫

最初の一行はとても大事です。手を抜けません。
その一行を効かせた展開というものも重要。最初の一行だけが良くても、それに続く話が最初の一行と無関係ではみもふたもないです。
そして物語の展開。構成というのでしょうか。これは大切ですね。構成というのは早い話、物語そのものですから。その小説の内容をどこまで簡略化して説明しても、最後まで残るのが構成です。物語の骨格にあたります。
ただ、どんな良い構成も淡々と説明口調で語られても、なかなか読者はついて来ないでしょうから。ここで演出というのが重要な要素になってきます。

何をどう書くか、という行為で小説は作られていきます。何を書くか、というのは構成の段階で仕上がっているのですから、どう書くか、というのが演出になります。平凡なストーリーでも構成ひとつで魅力はずいぶん増すでしょうし、どんな魅力的な構成も演出が悪いと味を落とします。
ただ実際には、演出や構成というのは、物語のテーマをもとに決定されることが多いです。テーマというのは、その物語で何を描くか、ということ。何を描くか決まっていないようでは、どんな演出にすればいいかとかどんな構成にすればいいかといったことは、決まってきません。
ところが、ここまで仕上がってまだ問題は残ります。どんな構成も演出もテーマも、ただ頭の中にあるだけでは形になりません。頭の中にあるものを形にするのが、文章力です。文章力がないと、何を書いてもその内容が読者に伝わりません。

あと忘れるわけにはいかないのが、登場人物や舞台設定。登場人物が全員無個性だったり、逆に個性が極端でわざとらしかったりしたら、読者は感情移入できなかったりアイドル視することすら難しくなります。作風に合わせたチューニングも必要でしょうし、場合によっては得意なキャラクター像に合わせた作風のチューニングも必要かもしれません。もちろん、そんな登場人物たちが存在して読者が違和感を感じない物語世界を容易することも、避けられません。

こうして物語が構築されていって、読者に魅力を提供できたとしても、最後がダメではどうしようもありません。オチを重視する作品もありますし、オチをつけずにマトメて終わらせる作品もありますが、終わりというのはとても重要なものです。最初と途中と演出とテーマがどんなに良くても、ラストが良くなければ読者は「二度と読むものか」となってしまいますから、手を抜くことはできません。
そして、最後の一行。これ、いつも神経つかいます。

このようにひとつの作品を作るには実に様々な要素があります。このことから私は、小説は総合芸術だ、と考えています。物語全体としてもこういった作業をしているのですが、作品を分解して、ひとつの章ごとにも同じことを縮小してやっています。もっと分解して、ワンシーンの中でもさらに縮小して同じことをやっています。

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