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「誰がではなく何を言われたかが重要」は着想の問題であり、誰で
2017/07/22 20:46
GM91

「誰がではなく何を言われたかが重要」は着想の問題であり、誰でもできることです。


もちろん、考え方として納得する/しないという選択の余地はありますし、
理解した上で敢えて「やらない」という選択もありましょうが、いずれにせよ本人の気持ちひとつの話なのかな、と思います。

そういう意味で、「行うは難し」なんて大袈裟では? というのが僕の意見です。

※本スレは、伝言板
http://sakka.org/sakka.org/bbs//index.php?a=6&d=7200

の続きですが、このサイト利用に対する一般的な話題だと思いますので
そうげん氏以外のユーザ各位の参加も大いに歓迎いたします。
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GM91
 2017/07/22 20:47

まず返信です。
まず、そうげん氏コメント
http://sakka.org/sakka.org/bbs//index.php?a=6&d=7200
の回答から。

>言うは易く、行うは難し、って
>その言葉自体、自省のことばであって、
>それは一生かけて取り組むことだとわたしはとらえてますよ。

もちろんそれはその通りです。


>「誰が、じゃなくて何が」
>は「着想」の問題ではなく常日頃の「姿勢」の問題だとおもいます。

いえ、それは違うと思います。
僕は「姿勢」というお言葉からは大袈裟、もしくは何か勘違いをされている、と感じます。

推測ですが、そうげん氏は他人に何かを言われたときに
「相手に対して腹が立つけど、そこをぐっと堪えて、指摘の本質を〜」みたいな精神論的解釈をされているように思えるのです。

まず、その点いかがでしょうか?

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そうげん
 2017/07/23 08:21

「誰がではなく何を言われたかが重要」は着想の問題であり、誰で
おはようございます。いま帰ってきましたので、返信いたします。

>「誰が、じゃなくて何が」
>は「着想」の問題ではなく常日頃の「姿勢」の問題だとおもいます。

日常生活においてですが、
たとえば、ふだんの行いで周りから信用されていない人がいたとして、
その人がたまにぽつんとなにか印象に残ることをいったさいに、
それを素直に受け入れられるかどうかの問題をいっています。

なにを意図してそれを言っているか、

それは、いい、わるい、よりも、
その人がなぜ、それを書き込もうとしたかという動機の方に
関心を持つようにしています。

ですから、それに対して、

否定する書き込みを書くのも
肯定する書き込みを書くのも、
自分の意見をかぶせるのも、

どんな段階にでも書き分ける前段階で踏みとどまるようにしています。

判断によってひとつを選択することで、
ほかの道がほそっていく、ということがありますので。

そうげん
 2017/07/23 08:22

「誰がではなく何を言われたかが重要」は着想の問題であり、誰で
>推測ですが、そうげん氏は他人に何かを言われたときに
>「相手に対して腹が立つけど、そこをぐっと堪えて、指摘の本質を〜」みたいな精神論的解釈をされているように思えるのです

わたしが物を書くために当初から採り得たコンセプトは、「思うことを書く」です。
つまり、「書きたくないことは書かない」、「個人を意図的に貶めるものは書かない」から転じて、できるだけ「善悪で判断しない」「好悪のみを評価の対象としない」

それで、「腹が立つ」ということについて、とことんまでつきつめていき、
最大の振れ幅までいったら、相手を殺すか自分が死ぬかまでの境地まで行き着くことを
体験的に知り得ましたので、一度そこまで行ってしまえば、
ほんとうに自分の命をかける場面に出くわさない限り、
まず、かんたんに怒ったり、腹を立てられる人は、反対にうらやましく思います。
たぶん、感じ方が逆転したのだと思いますが、むしろほほえましい、という感覚です。

だから、いろんな昔の本を読んだりするのも、自己修養の側面が強いですね。
いいか、わるいか、で決めないように、ということは、とくに、
荘子の斉物論篇の「物は彼にあらざるはなく、物は是にあらざるはなし」からはじまる、
「道枢」という考え方。


「枢(とぼそ)」をえることで変化にに対応できる
いいという判断をするにしても、わるいという判断をするにしても
そこにはかぎりない変化があるからこそ、どちらにも判断の出来る「道枢」の
場所にあるのが理想的だということだと、わたしは、解釈しています。



>言うは易く、行うは難し

知識を得るのは簡単でも、実践して体現するのが難しい。

そうげん
 2017/07/23 08:25

「誰がではなく何を言われたかが重要」は着想の問題であり、誰で

ということでは、
まえに、「公案」のとりくみのことの説明に出そうと思った例証ですが、

最澄が空海に自分が有していない密教の経典を借りることがあったそうです。
何度目かに最澄が「理趣経」を含む経典を借りようとした際に、
空海はことわりました。


天台宗は顕教、
真言宗は密教、


と分類されます。

「あらわれているもの」と
「かくされているもの」の差と言われます。


かくれているものを獲得するには、
ただ経文を読むだけではそこに到れないということだそうです。

人の眼にはおなじ、紙の上、あるいはディスプレイの上に載った文字でしょう。

わたしは「誰が、ではなく、何が」と、
自分が話者に対して色を付けて、それで盲目になることを避けるために
いつも言い聞かせているタイプだから、「姿勢」という言葉を用いています。


わたしにとって、物を書く、物を読むという行為は、
物を書く職業につきたいという目的よりも、
さらにこのさき年齢がいったとしても、
意欲をもって、好きなことに取り組める精神性を保持したい、ということであり、
また、おなじく荘子の「養生主篇」の冒頭の一節のように、

「命は有限であるが、心の働きは無限である」

からの、「庖丁解牛」の一節とおなじく、
自分の取り組みを通して、生を養いたい、と思っています。


と、またGMさんの問いかけから遠いでしょうか?

まわりくどかったでしょうか?

そうげん
 2017/07/23 08:38

「誰がではなく何を言われたかが重要」は着想の問題であり、誰で
>>アトムさんはもちろん年齢もわたしより上の方ですし、

>これがまあその、「誰が」から抜け切れてない雰囲気が漂っていて、
>実は僕が思う以上に結構難しいことだったりするんかな、と思わなくもないですが。


二重で考えが重なってます。

基本的に、年齢の上の人も尊敬しますし、下の人もしっかり認めたいですし、
同年代の人とも切磋琢磨したいと思ってます。

この「ごはん」では、年長者であることで、「非難」ととれる文言を書き込む人があります。
作品に対する「非難でなく批判」であることが望ましいと思います。

あと、年を重ねるに際して、仕事に対しても、華々しい活躍をされる方があれば、
細々と生活する人もある。でも、それは表に見えるものしか与えられない状況で、
勝手に観察者が判断しているわけです。

人にとっては卑しい仕事のように見えるものでも、
そこに従事する人のなかには、機知を働かせながら働く人もあれば、
仕事は従で、余暇のほうに主として取り組むものをもっている人もある。

だから、

アトムさんはもちろん年齢もわたしより上の方ですし


というのは、わたしにとっては当然の配慮ですし、

それは年上をもちあげて、年下は反対に低く見積もる、
という態度と捉えられることは「心外」といいたいところですが、
社会慣習的には、年上の方をそのようにとらえる人は
自分も年下の人からはそのように思ってもらうべき、と考えるものでしょうが、

わたしはまあかわりものですけど、基本的に、
年上でも年下でも、ふだんの生活でも敬語で話すことにしています。
(まあ、かわりものです(2度いいました))。

ただいうべきときは、立ち場を考えていても、あえて、
ものをいうようにしています。

GM91
 2017/07/23 09:52

回答#1
回答#1

>日常生活においてですが、
>たとえば、ふだんの行いで周りから信用されていない人がいたとして、
>その人がたまにぽつんとなにか印象に残ることをいったさいに、
>それを素直に受け入れられるかどうかの問題をいっています。

その点はわかりました。

で、それを「素直に受け入れる」ってそんな大変なことですか?
というのが僕の主張です。


…で終わると単なる水掛け論みたいなので、たとえ話をしましょうか。

電車に乗って、隣の客から「ネクタイまがってますよ」と示唆されて
自分のネクタイを見るべきなのか、発言者の服装を見るべきなのか、どちらなのでしょうか?

発言者が何者であるか、その動機がなんであるか、そんなことは関係ないと僕は思います。


そうげんさん曰くの「信用されてない人」云々というのは
たとえば、アロハに短パン、サンダルみたいな風体の男に服装の乱れ云々と指摘されたら受け入れ難い心理はあるだろ?
という話なのだと思います。

これは、きっぱり「錯覚」なんですよ。

もちろん、錯覚だと認識していなければ目先の感情につい騙されてしまう、という人間の心理はわかります。
だから、人に諭す時の心得として自分の襟を正せ、てのは間違ってないです。
ただ、話を聞く方としては、「これは錯覚」だと知っていれば、騙されずにすみます。

それを僕は着想と呼んだ次第です。

で、まあそうげんさんがそれを「姿勢」と呼びたければ僕は別にかまいませんが
少なくともそれって「行うは難し」なのかなあ? と僕は不思議でなりません。

いかがでしょうか。

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GM91
 2017/07/23 09:53

余談#1
余談#1

以下は派生かなと思うので、長引くようなら別スレ切りますが、とりあえず気になった点について意見いたします。

>それで、「腹が立つ」ということについて、とことんまでつきつめていき、
(割愛)
>たぶん、感じ方が逆転したのだと思いますが、むしろほほえましい、という感覚です。

これ、論理展開がよくわからないので、もし大事な話であれば補足ください。
僕的には、そうげんさんの個人情報とか経歴にはあんまり興味がないので、単なる紹介なのであればまた別の機会にお願いします。


>自分が話者に対して色を付けて、それで盲目になることを避けるために〜

>自分の取り組みを通して、生を養いたい、と思っています。

それは立派な心がけだ、と思います。

一方で、成りすまし被害者としての立場での発言(リョウスケ氏コメ#7190)に対して、ああいう応答はないのでは?
というのが僕の疑問の一つです。


>この「ごはん」では、年長者であることで、「非難」ととれる文言を書き込む人があります。

これはままあるかな、と思いますが、僕的には幼稚な罵倒表現(このハゲー! とか)にすぎず、そこに深い意味はないように思います。
ただ、アトム氏に限らず、非難されるのはその言動に対してであって、それを十把ひとからげに「年寄りに対する非難」と転化されてしまったら、僕はイラッとするとは思いますけど。

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そうげん
 2017/07/23 10:27

GMさんの「回答#1」への返信#1
地域でも職場でもいいですけど、
チームで、グループで動く際に、のれない人いませんか?

マイノリティ、あるいは、多くの人からさげすまれたりして
かなり苦しんだり、つらくなっている人など、

そういう人たちは、ときにまともなことをいっても、
周囲はあいつはこういうやつだから、という思い込みで、
その発言に色をつける傾向にないですか?

男性のあつまりでも、女性の集まりでも、混合でもかまいませんが。

寮生活なども体験してみて、
そういうのも見てきて、いろいろアクションもおこして、
そういう総和がいまの自分の考えになっています。

そうげん
 2017/07/23 10:30

GMさんの「回答#1」への返信#2

>それを「素直に受け入れる」ってそんな大変なことですか?
>というのが僕の主張です。

特定のHN(←わたしではないです)をみたらいつも同じ姿勢で煽って
かきこむスタイルの方にも見てもらえればというメッセージでもありますよ。


GMさんのたとえですが――

「電車に乗って、隣の客から」ということですが、

信用=外見が元、になってるたとえ話で、わたしは察すべきなのでしょうか?
外見以上に、声の抑揚、表情の変化、身振り手振り、視線。
そういう総合を見ていますし、たとえば、毎回顔を合わす人でも、
ちょっとした変化はすぐにわかるでしょう? 

外見の問題、装いの問題、よりも、
なにを秘めているか、でしょう、と思ってます。


―――――


と、「回答#1」の後半を読んでみました。

GMさんのいう「着想」は、個人の受け止めの話だと思いました。
わたしのいう「姿勢」は、集団の中でどのように行動すべきかという点での話です。

錯覚に騙される、という個人にせまる危険の回避のための知恵としてのものではないのです。




そうげん
 2017/07/23 10:48

余談#1への返答1
最重要の部位がまるまる割愛されて目がテンではあります。


ということは、わたし自身がこのスレッドの立った意味を誤解していた、ということでしょうか。


では、この部分です。

>一方で、成りすまし被害者としての立場での発言(リョウスケ氏コメ#7190)に対して、
ああいう応答はないのでは? というのが僕の疑問の一つです。

そうですね。
いま#7191の自分の書き込みを見直しました。

わたしの書き込み全般にいえますが、
個人あての返信もすべて全体に見られることを意識しております(こんなわたしでも)

そうげん
 2017/07/23 10:50

「誰がではなく何を言われたかが重要」は着想の問題であり、誰で
#7191の書き込み内容は、

このように思ってわたしは伝言板を見ています。
伝言板は個人サイトの掲示板ではありませんし、
それこそ、全体に見られても構わない、つまり、
公共の場の、自由に書き込める黒板みたいなものでしょう、


でも、いまの言葉に馴れた人なら、「落書き」という単語で
イメージが固定するでしょうし、落書きを軽視するものではわたしはなくて、
落書きの重要性を捉えていることを、そのつぎの一文で、
「当人(わたしも、ほかのひとも)まじめに書くもの」と示しています。

みなさんは、真面目に書いていますか? という問題提起ですけど。


#7192の
短文の返答であれば、それでいいかな、というだけのことです。

GM91
 2017/07/23 11:35

回答#2
夢見るのは大いに結構、です。
ただ、叶わない夢でも努力することに意味があるかって言われると、「ない」ですね。

夢を叶える為に努力するんであって、努力そのものが目的化しちゃうとなんか話おかしくなりそう。
いやまあそれで気持ちいいて人はそうしたらいいとは思いますけどね…。

どうしたいか?は自分で決めることですよ > 加茂ミイル 氏

maintenance
GM91
 2017/07/23 11:38

回答#2
さっきのは誤爆です。すみません。


>その発言に色をつける傾向にないですか?

往々にしてある、と思います。(僕はそこを否定していませんが…)

で、あるから、
・人に話すとき → 襟を正せ(錯覚するやつがいるから)
・人の話きくとき → 関係ない属性(見た目、素行、、、)に騙されるな
というのが僕の考えです。

これは一対一でも一対多でも同じことであり、個人とか集団とかは関係ない話です。




>特定のHN(←わたしではないです)をみたらいつも同じ姿勢で煽ってかきこむスタイルの方にも見てもらえれば

それが「誰が」って思考(てか錯覚)なんですよ。
そんなこと気にする必要ありますか?

意見は意見に対して述べるものであって、発言者の人格に向けようとすることが愚かしい、と思うのです。
対象を「〜スタイルの方」ではなく、「〜という発言」「〜という意見」に自分の意識を切り替えるだけです。

「姿勢」ではなく「切り替え」なのです。

そこに気づかずに反応するから、反論が人格攻撃のための罵倒になってしまうのです。
僕がリョウスケ氏コメに意見したのもそういう趣旨です。

いや、それがそうげん氏にとって難儀なことなのだ、と仰るのならそれはそれで構いません。
が、一般論として「難し」と言われれば、「何が?」と聞きますよ僕は。

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GM91
 2017/07/23 11:40

余談#2

余談#2

>外見の問題、装いの問題、よりも、
>なにを秘めているか、でしょう、と思ってます。

何を秘めているか、ではなく「何を言ったか」です。
類推はしてもいい、ただしそれを論拠にはできない。

例えばアトム氏が他人を罵倒するのも大概このパターンのように見受けられます。



>最重要の部位がまるまる割愛されて目がテンではあります。

すぐ上に元記事があるので中抜きしただけですが、わかりにくいでしょうか。
(割愛)とした部位も含めて、論旨がわからないというのが僕の意見です。

ただ、僕的には「腹が立つ」云々は感情というか精神論なのであって、本論と関係なさそうだと思いましたが、
いや、関係大ありだ、ということならば是非伺いたいです。


>個人あての返信もすべて全体に見られることを意識

>伝言板は個人サイトの掲示板ではありません

>公共の場の、自由に書き込める黒板

僕も全くその通りだと思います。

が、だから何なのか、ご発言の趣旨がよくわかりませんでした。
少なくとも僕は、「落書き」という言葉を非難しているつもりはありません。

これも何か重要な話であれば補足ください。

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