- のの
2007/10/17 18:39
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「語り手」と「私」との距離 「語り手」と「私もしくは僕」を同等に扱う一人称は私小説やノンフィクションなどの作品で使いますよね。その他は基本的には「語り手」と「私もしくは僕」を同等に扱わない一人称なのではないでしょうか。 とくにキャラクター小説ではマンガやアニメなどに出てくる架空の「私」を描写するわけですから語り手と私は等号で結ぶ事は不可能です。ではいわゆる純文学はどうかというと現実における人や物などを描写するので、カメラを自分自身に向けて語れば語り手と私は等号で結ばれます。他人に向ければ等号で結ばれる事はありえません。物にカメラを向けるのも同上です。 つまり、語り手と私が等号で結ばれるのは純文学系の小説かつカメラを自分自身に向けた時だけにしか成立しない。極めて希有な分野なのでは? まあ、でもそんなの気にしなくても小説は書けるでしょうし。どうなんでしょうね。 私の考えは以上です。
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- 辰田
2007/10/17 23:07
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「語り手」と「私」との距離 文学界のその批評を見ていないのでよく分からないのですが(と言うより純文学自体に疎く、辻原さんという方もどのような方か存じ上げませんが……)、そもそも「語り手」と「著者」はイコールなのですか? 私はむしろ、著者とは関係なく、作中の視点者として物語を語る者という意味で「語り手」という言葉を捉えたのですが……。例えば神の視点とか全知視点とか呼ばれる視点ならば語り手はいわば「神」なんでしょうし。
という観点から考えると、むしろ一人称においては「語り手」=「私もしくは僕」であることが通常だと思います。「私」が過去の「他の語り手によって綴られた」記録を読み解くという二重の語り手のスタイルはあり得ますが、それ以外にこの両者が不一致となるケースが私には非常に想定しがたいのですが……。
ちょっと他の方の意見も聞いてみたいところです。
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- アキタ
2007/10/18 00:16
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「語り手」と「私」との距離 これは「語り手」と「私もしくは僕」について辻原氏がどういう意味で使っているのかを知っている人でないと議論に参加すること自体危険なのではないでしょうか? 私は知りませんでしたし、ネットでちらっと検索した限りではそれらしい説明も見つけられなかったので一般的な区別じゃないような気がするのですが、そうであるならなおさら辻原氏がどういう文脈で使っているのかを確認しないと意味がないと思うんですよ。
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- 明日こそ
2007/10/18 17:35
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「語り手」と「私」との距離 2005年12月号の選評でした。 語り手の「僕」と主人公の「僕」を癒着させるのは愚かだ、といっています。 主人公の「僕」は限りなく三人称に近い「僕」でなければならないし、語り手の「僕」のいわんとする事は主人公の「僕」の気持ちを上回っていなければならない、と指導しています。
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- 明日こそ
2007/10/18 17:38
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「語り手」と「私」との距離 >「語り手」と「私もしくは僕」を同等に扱わない一人称と 「語り手」と「私もしくは僕」を同等に扱う一人称とを、混乱させてはいけないと批評していたのを思い出しましたが
これ、 「語り手」と「私もしくは僕」を同等に扱う一人称は愚かだ、の記憶違いでした。すみませんでした。
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- 明日こそ
2007/10/18 18:28
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「語り手」と「私」との距離 たぶん、一般的で常識的な事を教えてくれただけだと思いますので、型を破る光るものがあれば、辻原氏のいう事は無視してもいいかも知れません。でも余程のテクニックがなければ、一人称の創り方に対しては全くの素人だと判断されるのでは、と思います、辻原氏のいる所では。
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- 辰田
2007/10/19 05:56
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「語り手」と「私」との距離 乗りかかった船ですので図書館で文學界のバックナンバーを見てきました。
曰く、一人称小説というのは“作品を統べるものとしての「作者意識」”・“語り手の「僕」”・“語られる僕”の3つが『微妙にからみ合って、解きほぐしがたく進行する』(原文通り)ものだということで。で、“語り手の「僕」”はシニフィアン、“語られる僕”はシニフィエだと説明されてます。 で、シニフィエとしての「僕」は三人称「彼」に近い存在だそうで。別のところによると「作者・読者にとって「僕」は三人称」と。
シニフィアンとかシニフィエという言葉は当然のように使われてるのですが、私にはちんぷんかんぷんな訳で(汗)。要するに、海という言葉が意味する内容はいわゆる辞書的な意味での海だけど(シニフィアン)、そこで連想する海が北国の荒波だったり南国の海だったりと一人一人違うのがシニフィエである、という理解でいいんでしょうか。
……うーん。色々考えてみたんですが結局ちょっと私には辻原氏の主張は理解できそうにありません。シニフィエに個人的差異がある、という主張ではないようですし……。一人称で語っている私が作中の主人公としての私じゃなかったら他に何があるんだ、と全く見当がつきません。 ごめんなさい、ギブアップです。
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- 明日こそ
2007/10/19 11:26
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「語り手」と「私」との距離 ……のように、という直喩を安易に使用すると、語り手の「僕」の気持ちなのか主人公の「僕」の気持ちなのか曖昧になって読者を混乱させて読み辛くなる、といいたいのでは、と思います。
この方は今年度の選評でも思いつき的ヘタクソな直喩を禁じています。
直喩を禁じられるのは苦しいですけど、的確な文章力は磨かれます。習作時代は表現に悩まされる事によって確かに非凡な文章力はつくと思います。
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- ルーフウオーカー
2007/10/19 13:23
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「語り手」と「私」との距離 語り手=僕の場合
すばらしいアイデアだ。僕はすっかり夢中になった。
語り手>僕の場合
僕は自分のアイデアにすっかり夢中になっていた。それがどんなに愚かなことか、そのときは少しも気づかなかった。
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- 明日こそ
2007/10/19 22:50
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「語り手」と「私」との距離 ルーフウオーカーさん
分かりやすい例をありがとうございます。 文学界へ応募するなら後者の書き方をしなければ受賞は難しいかもしれませんね。
語り手>僕の場合、 重さ、停滞感がでて、いかにも文学界らしいです。 それなりの作品をつくるコツなのでしょう。
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- 謎
2007/10/24 04:06
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「語り手」と「私」との距離 流れを読まずに意見させていただきますが、
>>「語り手」と「私もしくは僕」を同等に扱わない一人称
これは結構一般的にいろんなジャンルで使われてると思います。
>>「語り手」と「私もしくは僕」を同等に扱う一人称
これはモロ私小説とかですよね。
ただ、一概にどちらがいいとか、そういうことではないような気がします。
>>重さ、停滞感がでて、いかにも文学界らしいです。 それなりの作品をつくるコツなのでしょう。
すぐこういう風にイコールにはならないと思いますよ。私小説というジャンルが確立されている以上、別に“語り手=僕”でもいい作品は生み出せるように思います。
個人的な意見としてはどちらも出来ていた方が色々と応用も利きやすいのではないかと思うのですが、“語り手=僕”の場合は私小説などを好かない人はやはりあまり使わない場合が多いように思います。 あと、一人称ではないのですが“三人称であるのに主人公を中心にして心情などを具体的に描く、かなり一人称に近い三人称”なんていう手法もありますよね。結構女性の小説家にこの手法をよく用いる人が多い気がします。
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- 明日こそ
2007/10/24 08:08
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「語り手」と「私」との距離 謎さん
>すぐこういう風にイコールにはならないと思いますよ。私小説というジャンルが確立されている以上、別に“語り手=僕”でもいい作品は生み出せるように思います。
選考委員の辻原氏は同等に扱う事は愚かだと断定しているようです。
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- 明日こそ
2007/10/24 09:33
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「語り手」と「私」との距離 一人称は内面的なものを追求する手法ですから、物語の筋を中心に展開されては意味がなくなる。だから、物語の主人公の「僕」に気持ちが入りすぎてはいけない。語り手の「僕」として盛り上がらなくてはならない。
逆に三人称は物語の筋を中心にも出来る。そして主人公の内面に入る事も可能、その事によって物語の意味がなくなるというわけではない、という事だと思います。
たぶん
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- 謎
2007/10/25 02:40
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「語り手」と「私」との距離 >>選考委員の辻原氏は同等に扱う事は愚かだと断定しているようです。
げぇ。なんか、ごめんなさいテキトーなこといって。
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- 明日こそ
2007/10/25 07:43
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「語り手」と「私」との距離 いえ、あくまでも、一人の文学界選考委員作家の主張を伝えただけですので。
超える作品が創れるのなら氏の発言は跳ね返してもいいと思います。 文学界に応募されるにはそのような気構えも必要かと。
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「語り手」と「私もしくは僕」を同等に扱わない一人称と
「語り手」と「私もしくは僕」を同等に扱う一人称とを、混乱させてはいけないと批評していたのを思い出しましたが(記憶違いかも知れませんが)
私はどうも一人称小説の基本が分かっていません。(細かい注意点も良く分からないのですが)
皆さんはどちらの手法をとっておられますでしょうか?